江戸時代の藩幕体制下において諸藩が藩士の子弟教育のために建てた学校がいくつか存在する。それらは藩校と呼ばれ、藩士に求める学問を教育していた。江戸においては

明倫堂とは・・

明倫堂とは大洲藩の藩校であり、正しくは「止善書院明倫堂」と呼ばれ、藩主の命令によって延享四年に作られた藩士の為の学校である。これについては大洲藩の研究に大いに貢献した桜井久次郎氏の研究を参考にして記述して行こう。今回出てくるのは、寛政十一年(1799)の大火の後に再建された建物で、同十二年九月二日に開校された時のものである。この頃の大洲藩は財政悪化に伴い極度の緊縮に藩政の立て直しに翻弄されていた時期でも或るのにここまで急速に復旧がなされるとはまさに藩主加藤泰済の教学に寄せる熱意外貨に高いかを物語っている。文化5年(1808)になると城中書院において大学講書を始め、藩臣独礼以上はすべて聴講させた。ついで同七年には江戸大洲藩邸(下谷)に習知堂と言う藩校を設置して定府の子弟等への学問の普及に努めた。この習知堂では教官として2名を配置し四書五経の素読を行った。本国の明倫堂では学校掛・家老1人・奉行1人・教官(教授)1人・助教2人・句読師5〜6人・助読(人数不定)・学監1人・門番1人・定番2人とされた。入学生は十歳で入学、十五歳までとされた。入学式は一月十五日と決められていたようだ。扇子箱を献上する定めであった。上下を着用して弁堂・文宣王画像に拝礼した。


江戸時代における学校の時間割

では生徒の一日はどのようなものであったのか、まず朝の八時に登校して授業には、習本(漢学本)と草紙を持参、そして登校順に自分の名札を掛けて、自分の席について前日の復習をする。そして句読師や助読が出勤して大洲城の太鼓が十時を知られると当番生徒が拍子木を打ち、授業の開始である。授業が終わると生徒は本堂か上の間に並び、拍子木を合図として感興詩・和漢年代歌・唐詩撰を順次通読、そして拍子木で本堂へまた戻る。ついで一組ずつ上の間へ一列に並び、長官へ暇請いの礼をして下校する。当番生徒が清掃をする。まったく今の学校と何の変わりもないことがわかる。また、町民や農民の場合、寺小屋、そろばん塾、などをやらされていたことがわかっている。サボった記録なども発見されており、親が無理やり通わせていたパターンが目立つ。どの時代も教育ママは健在だということが驚きでとしかいいようがない。