
大洲は愛媛県最北部にあたり、山々に囲まれ、町の真ん中を一級河川肱川が流れる城下町で、現在の大洲市は、東西約19km、南北約21km、総面積240.99km2ある。主に農業を主産業とし、江戸時代より肱川を活かした商業が大洲に多くの富をもたらした。その整った町並みの美しさから伊予の小京都と呼ばれてきた土地である。
そして、鎌倉時代に宇都宮氏が守護として来任した後、戦国時代には河野氏へと支配者が変わり、秀吉が勢力を伸ばしてくると戸田勝隆、藤堂高虎の治めるところとなった。その後、大洲を治める者は幾度か入れ替わり、最終的に元和3年(1617)に加藤貞泰が米子から6万石で入封。以後幕府が倒壊するまで、大洲藩は落ち着きを見せることとなる。山に囲まれ、真ん中に大動脈である肱川をいただいた大洲の人々は数々の恩恵を被ったが、その反面大洪水は毎年のように起きたといわれている。最後に統治者となった加藤家は外様大名で蛇の目を紋としていた。この地からは、後に近江聖人と呼ばれた中江藤樹などを輩出している。
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| 大洲城:高欄櫓(文化財) | 大洲城:台所櫓(文化財) | 一角の風景 | 大洲城の本丸にあった石段。 |
平成16年に平成の大普請と称して大洲城天守閣復元工事が行われた。この天守閣は戦後木造建築日本一となる。本当は木造建築では作れない高さなのであるが、特別に許可が出たそうだ。この天守閣は木造本瓦葺き4層4階建で、江戸時代の通りに復元された。そして現存する高欄櫓や台所櫓と連結しL字形になる。だが、実はこの大洲城天守閣には密かな特徴がある。4層4階建というところなのだが、実は江戸時代には4=死を連想させるとして忌み嫌われた。だからこのような天守閣はとても珍しいとされる。普通は3層、大きい天守で5層なのである。ではなぜ4層4階建てなのであろうか。実はそう言われる様になる前に立てられた古い部類の城郭なのである。しかし、この城郭格好がとてもいい。強固な城だけではなく、美しく、気品にあふれ、かつ威厳のある城ということができる。
大洲城天守閣に興味があればこちらへ→
この大洲城のなかで他に南隅櫓や苧綿櫓などが現存している。
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民家の隣に突然石垣がある。 |
旧三の丸の風景。右が南隅櫓。後ろに小さく台所櫓がある。天守閣が全て一望可能。 |
司馬遼太郎で有名な苧綿櫓 |
大洲藩主加藤氏は、蛇の目、上り藤を家紋とし、藤原氏の末裔である。
歴代藩主氏名・藩主在歴期間
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| 加藤家菩提寺「龍護山」 |
各流派といえども、殆ど基本は変わらないのが実態である。しかしながら時が経つにつれて各流派の目指す方向性が違ってきた。それが現在の差なのである。例えば、鎌倉時代においてよく行われた流鏑馬など、馬上から弓を引く技術は小笠原流や武田流が有力流派として継承しており、日置流が継承している歩射などは、戦場で鎧を着た徒歩武者が弓を射るときに使った名残なのだ。これらは小的前射法と呼ばれ、近的の前身となったものである。また、京都三十三間堂で有名な堂射は日置流竹林派や本多流などにその面影をしのぶことが出来る。これらの流派は、弓の世界でどの道を極めるか、そこが異なっただけに過ぎない。ここが流派発祥の原点となっているのだ。そして、先人が長い間をかけて得た自分の経験を組み込み、各流派が試行錯誤を重ね少しずつ差が生じ、現在に至るということなのである。
日置流は日置弾正正次が祖といわれている。世の中に沢山の諸派が存在し、その中でも、主に七派が有名である。印西・吉田・道雪・雪荷・竹林派等の事である。日置弾正正次は、近世弓術の祖とも称されるがその実状は余り伝えられてはいない。沢山の説が存在しているが有力な証拠ではないのだ。一つ言える事は、日置流の歴史に吉田家の存在は切っても切り離せない関係であるという点である。そして、日置流は小笠原流と共に日本の隅々まで行われたのも事実である。
その日置流の中でも、印西派は流祖である吉田源八郎重氏が吉田一水軒印西と法名を称した事に起因している。