
日置流弓術、豫州大洲伝承の経緯
まず、時代背景から入っていきましょう。
時は江戸時代初期、当時の大洲藩主(2代目)加藤出羽守泰興(円明院)は、戦国の時代を象徴するような典型的な武将であり、武芸の資質に富み、明敏果断な君主として大洲藩政の基礎を築き上げたといわる。また、それと同時に、家臣団の充実をはかり、幕藩体制に対応する形で信頼できる家臣を集め、文武両道の両立をはかった。
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| 大洲城模型(大洲市立博物館) |
泰興は、広く人材を求め、一道一芸に秀でた者をためらわず召し抱え、厚遇して要職につけた。その家臣団基盤固めの一環として弓術指南の河田助右衛門貞高は召し抱えられたのである。貞高は、幼少の頃、父河田助右衛門某(河田本家では月公宗印様と呼ばれた)が徳島藩蜂須賀氏(松平阿波守)に仕えていた為、貞高は阿波国にて生まれた。(河田家資料通り、徳島藩関連資料に、父:川田助右衛門宛に淡路仕置きから種物奉行に任命する手紙が残っている。)
徳島藩は弓術に日置流を用いていたため、おそらく貞高も江戸の道場で腕を鍛えたのであろう。貞高は後に、徳川将軍家御抱師範を勤めていた吉田久馬助重春からその奥義を修得し、万治三年五月に遂にその印可を得た。徳川将軍家の日置流弓術師範からの印可ということもあり、弓術の腕はまさに「お墨付き」であった。
そんな彼の転機は、父が徳島藩を出たことに始まる。浪人武士となった父とともに母・姉・貞高・弟は大洲にいた叔母を頼って大洲藩へと赴いた。しかし、病弱であったのか、大洲に向かう途中、備前国牛窓で父が病死し、少年であった貞高が河田家の当主として大洲に向かうこととなる。
後に藩主はこの少年を児小姓として仕官させ、後に弓の力量を認めて日置流弓術指南を命じることとなる。これより大洲藩に日置流弓術が伝えられたのである。後に日置流の他流が大洲に入るのだが、大洲藩へ、初めて日置流が伝えられたのはこの時である。
この様にして召し抱えられた家中は日置流弓術の河田家の他にも荻野流砲術、稲富流砲術、神当流柔術などの師範を中心に、絵図方、築塁術、鷹役、医家、書家などにも及び、加藤泰興は大洲藩士の登用・育成、家臣団の充実に力を入れた。
日置流資料「家譜略」には 「東武ニ往テ日置流ノ弓法ヲ吉田某ニ学ビ其蘊奥ヲ窮ム 其後本藩ニ於テ弓法ノ指南ヲセシト也後世行ハルゝ所ノ日置流ノ弓法是ヨリ傳フ」とある。 さらに面白いことに、藩主が貞高の弓の実力を認め、弓術指南役に任命するきっかけとなった逸話が子孫の河田家に伝えられているので、これをご紹介しよう
後に、河田助右衛門貞高は中小姓格より大御目付役に大抜擢され、その後も重臣として大洲藩の御用人歩行小姓支配役をを務め、御持筒組(鉄砲隊)を預かる身分となった。貞高は八十三歳でこの世を去るまで、大洲藩における弓道の指南に力を注いだと言われる。貞高は享保五年七月六日に大洲にて永眠し万年山大禅寺の境内に葬られた。法名は勲山正休居士といった。 しかしこの話にはまだ続きがある。最後の征夷大将軍、徳川慶喜が明治天皇に大政奉還して江戸幕府が倒壊した後に、廃藩置県が行われ、大洲藩は大洲県に、最後の大洲藩主加藤泰秋はほかの大名達と同じく大洲知藩事となっていた。
しかし、明治四年七月十四日に泰秋が知藩事を免官されることとなった際、免官の事実を知った旧藩民が「殿様に残って貰って大洲を治めて欲しい」と要求し大暴動に発展した。八月の事だ。最後は藩主自ら馬で駈け付け藩民に止める様諭したという。この時、旧藩民から「一生苦労はさせません。残ってください」とみなが口をそろえて言い、これを最後に暴動は嘘の様に消えたと記録されている。これを「大洲若宮騒動」という。
しかし、同年八月と、時を同じくして、歴史には残らないひとつの出来事が起きていた。最後の大洲藩主でもあり、民から深く慕われた名君加藤遠江守泰秋から一人の武士が呼び出されたのだ。河田助右衛門貞高の子孫、河田家当主「河田源吾正格」であった。そうあの高名な得能淡雲(人見極馬)の叔父である。五十七歳を迎え源吾と称していた彼は、藩主から一本の総黒塗りの弓を渡されたのである。その重厚に漆で黒に塗られた強弓は金で「落猿」と記してあった。そうあの名弓「落猿」である。この時になにを話したのかは誰もわからない。
後日源吾はこの弓についてこう書き残した
「之弓明治四辛未ノ歳八月被召相成殿乃沙汰ニテ當時処持ス」と。「落猿」と銘を送った殿様の約十代後の藩主とその弓を献上した河田貞高の子孫がその弓を通してあい対している光景は、誰も想像だにしていなかっただろう。とても不思議な事である。
河田家本家によれば「伊予国(愛媛県)大洲藩領菅田村の神南山で大洲藩の狩りが行われ、河田助右衛門貞高は、「持弓」として、この狩りに参加したそうだ。この狩りの最中、清谷の辺りの田において、猿影らしき姿を藩主がみかけ、持弓であった貞高に「射取るべし」との命令を下した。藩主加藤公は貞高が日置流弓術の印可を得るほどの実力を持っていることを知っていたが、その未だ見ぬ実力を試そうとしていたのだろうか。貞高は藩主の命令に応じて、即座に猿に向かい弓をひき、将に矢を放とうとしたその時、恐れの余り猿が腹を抱え、また貞高の方へ向き合掌をしたので、貞高は身ごもった母猿なのかと考え、藩主に向かい「この猿は胎内に子がいるゆえ、射つ事は出来ぬ」、お咎め覚悟で進言した。そして弓を下ろしたその時、猿は「騙されたか」とばかりに自分のお尻をパタパタと叩き、山奥へと逃げていったのだという。これを見た貞高は武士の情けをかけ、裏切られたことを知り、やがて弓を取り直し、遠くに逃げたにその猿を見事射落としたという。この事が中国の弓の名手「養
由基」の故事と重なる所があるから縁起が良いものとされ、その時用いた弓を直ちに藩主に奉ったという。この事に藩主は感賞のあまりその弓に銘を「落猿」と名付け、幕末まで大洲城に保管してあった。(養由基については下記参照)
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| 中国一の弓の名手:養由基 |
この有名な養由基の再来であるかのような弓の名手が大洲藩に存在した河田助右衛門貞高であった。彼は皆から慕われ、君主に諫言を行う程の忠臣でもあった。その為、君主とは深い信頼関係を築いていた。落猿の話は当時の大洲藩内では有名であり、「弓の名人」としての名声が高まった。余談ではあるが、槍術で大洲藩内無類の強さを誇ったとされる、高名な「山下大六」もこの「落猿」の話は知っていたようである。子孫がこの伝説の正確性を確かめるべく山下大六の屋敷をわざわざ訪れた記録が河田家に残っている。
そして、河田家には、伝承を証明するかのように「三連の巻物」がある。これは三巻でワンセットなのであるが、河田家で先祖代々大切にされてきたものである。
一巻目は養由基の発した矢が百発百中であることを意味する画。木は柳の木を表し、事実柳の葉を射ている。
二巻目は養由基自身が書かれている。強固な岩肌をあらわにした崖の下で中国一の名手と謳われた養由基が紅の弓に矢を番えようとしている姿は将に圧巻の趣が在る。また、上部には漢文が懸かれ、 「養由基善射去楊葉百歩射之百発百中楚荘王猟見白猿遶避箭王命」「由基射之由基始調弓矯矢未発乃抱対而号」とあり。烙印有り。
三巻目は白猿が描かれている。詳細に言うと、白猿が木を柱として恐れ抱きついている姿が描かれているのだが、これは養由基の方を見て悲鳴をあげている。まさに腕前の証明とも言えるエピソードである。
河田家に於ける他の伝承
家譜略の河田貞高のところに
持弓ニテ獲物有之候後公ニ奉ルト云所ヶ様ニ承伝相覚居候処若聞違哉ト相惑候処文政十二己丑三月七日山下大六殿へ参候処嘗亦弓ヲ右猿射候後献上致シタリト聞居候由答也リ
とある。また、家譜略の河田貞紀のところに
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父祖ノ業ヲ継テ弓法の奥旨ヲ得常々用ル所ノ弓尋常ノ弓ヨリハ矛延ヒタリ然ラサレハ弓折レシト云とも伝えられる。貞紀の背景をしらなければ分かりづらいかもしれないので先に大洲系の歴史を読んでおく事をお薦めする。また、日置流の伝承として、古くから伝わるには
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「於狩場鹿ヲ射ル所ノ矢根櫻花ノ根ヲ用ユ。然ルニ鹿ヲ射タル矢貫テ其血不付帋テ洗キテ此ヲフキ見レハ至テ薄ク血帋ニ湿リ其弓勢強キテ如此故ニ矢ノ先ヘジンドウヲツケテ射ントテ制之タルニ其後獲物ハ無シ残念ナリシト山本大六様傳ラレシ由」とも伝えられている。現代訳は以下の通りだ。
狩場において鹿を射るところの矢根は桜花の根を用いる。然るに鹿を射たる矢、貫きてもその血付かず。紙で洗きてこれを拭き見れば至りて薄血紙に湿めり、その弓勢強きてこのごとく 矢の先へ※1じんどう をつけて射んとて之を制したるにその後獲物は無し、残念なりしと山本大六様伝えられし由
※1:じんどう=神頭と書き、主に木製が用いられる。鏃の一種で形は鏑矢の様な形をしているものだ。しかし中身を削らずに端を切り取ったようなものである。
大洲藩での日置流系譜
その後、文化十二(1815)年6月に垂井衛門昌蔵が日置流弓術指南を継承。彼は日置流印西派(河田貞高系)を吉田流と称し、藩主が垂井衛門に師範を命じたとされる。吉田流という名称は日置流竹林派と日置流とだけ名乗っていた。印西派(河田貞高系)を判別するために使用されたようだ。しかし、吉田流という名称は歴史上正しくはない。その垂井衛門も、嘉永5年閏2月に石河孫左衛門頼恭に印可を授けた。この時既に、小笠原弓術の影になりつつあったが、こうして幕末まで伝えられて行ったのである。そして、安政3年6月に松岡槓蔵に日置流印可目録が渡された。この二年後、大洲藩では常盤井と三瀬諸渕が電信の実験を行っている。このような御時世の中で松岡槓蔵とその門人達は先人の伝統を継ぎ、万延元年(1860)大洲藩総鎮守「八幡神社」に矢を奉納した記録がある。 その出来事を最後に日置流弓術大洲派は、歴史の表舞台から去り、大洲系は幕を閉じる事になったのである。万延元年とは、桜田門外の変が起きた年でもあり、翌年大洲藩領長浜沖で異国船が現れ、藩士から農民に至るまで狼狽したといわれている。さらにその翌年、国の将来を憂いた坂本竜馬が土佐藩から大洲を通り脱藩した激動の時代でもあった。もう幕末には弓術は戦争には不必要なものとなっていったのだろう。軍に西洋化が導入されたのはそのすぐ後である。後に最後の日置流弓術(河田派)指南役、松岡槓蔵は私には必要ないものだと言い、彼が尊敬していた大洲系の始祖:河田貞高が子孫の家に日置流弓術印可二巻を返しに来たといわれている。江戸時代の武士道を継承したサムライという者達は、いずれも粋な事をしてくれるものだと最後まで感心してしまうのは私だけであろうか。大義ある者の生き方は一貫性があり、美しいと感じるストーリーである。 日置弾正正次(日置流始祖)−吉田上野介重堅(吉田派)−吉田出雲守重政(出雲流)−佐々木左京太夫義堅−吉田出雲守重高(露滴派)−吉田出雲守重綱(花翁流)−吉田源八郎重氏(印西派)−逸見小左衛門正久(盛岡系)−吉田久馬助重春−河田助右衛門貞高(大洲系)−河田助右衛門貞峯−河田源右衛門貞紀−八田五左衛門直忠−田村久太夫好裕−垂井衛門昌蔵−石河孫左衛門頼恭−松岡槓蔵
河田貞高は、万治3年5月吉日に吉田久馬助重春から印可を授けられ、父が仕官していた徳島藩を去った後に、大洲藩にて召し抱えられる。こうして、この地に日置流弓術を伝えたのである。もちろん当の本人も伊予の国大洲で弓術指南となり大洲にて日置流の礎を築いた。

日置流弓許目録
大洲藩にて代々の日置流弓術指南役によって継承されていた巻物。
その後、貞高は元禄12年閏9月吉日に嗣子の河田助右衛門貞峯に日置流の印可を授け、貞峯が二代目弓術指南役となる。そして、元文2年2月吉日に貞峯嗣子の河田源右衛門貞紀が三代目指南を継いだ。しかし、継いで間も無く、河田貞紀は若くして病に臥すこととなる。死期が近いことを感じた河田貞紀は、日置流弓術の技術が失われる事を憂い宝暦12年に高弟:八田治五左衛門直忠に印可を与え、大洲系の日置流を任せた。
余談ではあるが、この時、河田家は、相続争い防止・他の大洲藩士との親族関係構築の為、長男を除いて男兄弟は養子に出していた。この事が逆に災いし、本家が御家断絶の危機に陥っていた。次男は不破家に養子に行き、不破五郎右衛門為貞と名乗り不破家を継いでいた。三男も同じく郡家に養子に行っており、郡市兵衛と称している。もう帰る事の出来ない二人をよそに、妹の千賀も梶原弥五八へ嫁いでおり、今更婿養子も取れないということで、末子の神山豊之丞(大洲秘録には豊之進とあり)に全ての期待が向けられた。豊之丞は重病の養父であり、母系統の神山九郎右衛門貞行の家を継ぐはずだったのであるが、左内と称して祖父の子「左源太」の成長を待った。そして左源太が大きくなると養家を譲り、自らは河田助右衛門正福と称して、河田家に復帰したのである。幼い頃より養子にでていた河田正福は徳正流兵術の印可を受けるほどの武芸者であったが、弓は特に秀でているわけではなかった。それにより、弓術指南であった河田貞紀は、同じ河田家の血よりも日置流の技術のある八田治五左衛門直忠を優先させ、日置流弓術大洲系の技術を守り通した。その後、日置流大洲派は大洲を通して広く行われ、八田治五左衛門直忠は、寛政7年6月吉日に田村久太夫好裕へ印可を授けた。大洲市誌によると田村久太夫の門人たちが安政三年(1856)に大洲藩総鎮守である八幡神社に矢を奉納した記録がある。

入り口にある碑。ここから先が八幡宮となる。
研究初公開
多説あるがその一つを下記に述べる
となるのだ。詳しくは下記を参照。
日置流の系譜
クリック→"弓の系図"
参考資料
:未公開古文書多数、北籐録、大洲秘録、積塵邦語、大洲随筆、大洲市誌、愛媛県史、大洲旧記、三百藩家臣人名辞典、戦国合戦大辞典、日本地名大辞典、岐阜県の地名、地方別日本の名族、徳島藩の史的構造、大洲藩資料要録、近世村落の動向と山中騒動の研究、城下町歴史散歩、温故集、近世日本の夜明け(伊予勤皇史)、西海巡見志、蜂須賀小六正勝、徳島藩職制取調抜(上・下)、美濃国古跡考、美濃国古代人物誌、美濃国諸、武芸流派大事典、矢数帳、以下多数"HOMEへ" "旧弓術指南役で用いられた弓矢" "弓の系図" "日置流弓術印可" "弓術入門" "大洲藩士惣知行一覧" "大洲藩と三十三間堂" "番外編:得能淡雲" "武士道"