e-konの道をゆく
道・・・
いつからだろう 何気なく地図で道を見るようになった。
一本の道をたどっていくと 枝分かれし
やがて太い線は細い実線に変わり 破線となって消えてしまう。
この先はどうなっているのかな・・
あ こんなところに集落が・・
そこはどんなところ? どんな生活? どんな風景? なにがある?
そう考えると いてもたってもいられなくなり 休みの度に訪れていた。
道の先には 生まれようとしているもの 輝いているもの
役目を終えて消えようとしているもの 朽ち果てるもの・・
いろいろなものがあった。
そして いろいろなものが迎えてくれた。

e−kon

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2010年2月21日公開

『TOP写真集』
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<2009.4.19公開
『e−konの写真帳』
・植物「桜b」
・植物「春b」

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<2009.3.29公開
『e−konの写真帳』
・校舎「堅海小学校」
・自然「海b」
・植物「福寿草a」

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<2008.6.8公開
『e−konの写真帳』
・自然「水田a」
・自然「春a」
・植物「桜a」

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<2008.5.23公開
『e−konの写真帳』
・廃家屋「神岡・栃洞地区b」
・自然「海(舞鶴)a」
・自然「ダムからの風景a」

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<2008.1.14公開
『e−konの写真帳』
・山村「雪b」
・廃家屋「神岡・栃洞地区」
・校舎「丸山小学校」

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<2007.12.2公開
滋賀県以外の林道
林道『牧野道路』

<2007.10.14尾羽梨分校校舎など一部写真追加(kotaro氏撮影)
『廃村、廃坑』
「針川・尾羽梨」





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<2005.4.10公開>


※「たまに一言」のコーナーは
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記していません。

たまに一言

#215 ‘廃村「小原」の、小原かごと白子皇子伝承’ 

 

滋賀県は長浜市余呉町坂口にある大箕山、その中腹に今なお健在の歴史深き古刹「菅山寺」を訪れた。古く奈良時代の764年(天平宝字8)に孝謙天皇の命を受けた照壇上人という僧により建立され、当初は龍頭山大箕寺と称されていたが、菅原道真公の中興により大箕山菅山寺と呼ばれるようになった。しかし、鎌倉時代には3院49坊の寺院が存在したという大変歴史の古い寺も、明治維新の改革以降は一気に衰退したという。廃寺になって以降、長年が過ぎているにもかかわらず、それでもまだ威厳あるその姿を残しているのは、それを守ろうとした先人たちの努力と苦労があったからに他ならない。現在ここは野鳥観察でも有名らしく、本堂の少し下にある朱雀池では探鳥会なども開催されているという。

私が訪れたのは、もちろん野鳥観察を目的としたわけではなく、ある母子の墓碑を見たいと思ったからである。その母子とは、白子皇子(しらこおうじ)とその母の陰明門院(おんめいもんいん)。この二人は、余呉町の廃村「小原」に伝わる‘小原かご伝説’の中で語られている人物で、今も仲良く二つ並んだ墓石が、この菅山寺に残されているという。実は以前にも訪れて探したのだが見つからず、今回は場所を事前に確認しての訪問となった。

それでは、この‘小原かご伝説’とはどういう話なのか。昭和50年に発行された『余呉の民話』(編集:余呉町教育委員会)、それと丹生ダム建設に際して実施された水没地域の民俗などの調査報告書である『高時川ダム建設地域民俗文化財調査報告書』さらに『余呉町誌』などそれぞれで微妙に違っている所があるが、それらを以下にまとめてみた。なおこの伝承は菅山寺に伝わる縁起書の中に記されており、言い伝えもこれに基づいたもののように思われる。また地元では、これらを平家の落人と関連づけた伝承もあったようである。

ある年、後嵯峨天皇の皇后である陰明門院が、めでたく男の子を出産されたのだが、その子は白子(先天性白皮症)であった。そして陰明門院は世をはばかり、皇子を伴のものに託して、都と縁ある菅山寺に秘かに隠棲させた。



ある時、都から高貴な方が山深い「小原」にやってきて館を建てて住みつかれた。しかし、家の主は姿を見せることが無い。「小原」の人たちも最初は遠くから様子を見ているだけであったが、そのうち骨身おしまず協力して手伝いをするようになった。そんなある時、村人たちは家の主の姿を見る。そして髪の毛やまつ毛、肌の色までも真っ白なその姿にたいそう驚く。そういう姿を初めて見る村の人たちは驚き怖れたが、お供の人たちが懸命に事情を説明することで、元来心優しく純朴な村人たちは事情を理解して、これまで以上に身の回りの世話を一生懸命するようになった。そして、四季折々の山の幸、川の幸を主の元に届けたり、また皇子を家に招いたりして同じ時をすごすようになる。
やがて主は村人たちから白子皇子と呼ばれて親しまれるようになり、皇子も村人たちとのふれあいを喜ぶようになった。そんなある時、いつものように村人と一緒に山に入って木を切っていた皇子は、ある木が薄くはがれることを知り、それで篭を編むことを考案する。そしてその篭の作り方を村人たちにも教えた。白い木のはだが美しく、たいそう丈夫でもあったこの篭は評判となり、遠くまで売り出されるようになったという。これが小原篭の起りで、村人はこの皇子からの篭作りの技術を大切にし、後世に伝えていくようになる。
こうして、当初は逃れるようにして都を離れた皇子だったが、人知れぬ余呉の山深き地にたどり着いてからは「小原」の人たちと温かく暮らす。一方、都にいる母の陰明門院も、幼くして遠き山中に送った我が子のことが心配で、長年を経ても心から離れることはなく日々思いを募らせてゆく。そしてある時遂に意を決して都を離れ、自らも余呉の地へ行き朝廷と縁の深い菅山寺に身を寄せ仏門に入る。そこで読経と写経の日々をすごしながら、時折、白子皇子に会う日を心の慰めとするが、やがてこの地で生涯を終えることとなる。
生まれつき身体も弱く、この地の厳しい自然環境の影響もあったのか、ほどなくして皇子も小原の地で短い生涯を終える。村の人たちは白子皇子の死をたいそう悲しみ、皇子が暮らしておられた所を御所平、お供の方の屋敷のあった所を屋敷下、皇子がよく行かれた山を君ヶ谷、吹く風の音が都で聞いた鈴の音に似ていると皇子が懐かしがられた所を鈴ヶ森と呼び、いつまでも後世に伝えていくようになる。そしてそれらは今も、御所ヶ平、牛隠し谷、屋敷ノ平、君ヶ谷、鈴谷などの小字としてその名を残す。また、陰明門院と白子皇子はともに菅山寺に丁重に葬られ、今もその地に墓石を見ることができるという。

以上が大体の流れであるが、書かれているものによっては先に白子皇子が亡くなったとされているなどの細かな点での相違が見られる。白子皇子という人物は歴史上にその名は見られないが、母である陰明門院(1185〜1243)はその名を見ることができる。しかし伝えられている後嵯峨天皇ではなく、それより5代前の土御門天皇の中宮で、子を産むことの無きまま1243年にその生涯を終えたとされている。また、1221年に出家され、同年の承久の乱で土御門天皇が土佐に配流された際にも京にとどまられたとある。子を産まれることが無かったということや、出家されたこと、天皇配流の際も同行せず京にとどまられたということは、いずれも遠く山中に隠棲させてしまった不憫な我が子を思う母の気持ちにつながるものを感じさせ、白子皇子の伝承と関連づけられなくもない。
この『小原かごと白子皇子』の伝説の真偽の程はともかくとして、由緒ある菅山寺にこのような記録や白子皇子と陰明門院の墓碑が残っているということは、これの元となるような何かがあったことは間違いないのだろう。また小原かごは、「小原」でも長男にしか伝承をしないというほど秘伝の技として村で継承されていったというが、それは皇子から授かった大変尊きものとしての意識が村人の中に宿り続けていたことに他ならない。

訪れたこの日は、ウッディパル余呉横の林道からいったん山頂まで行き、そこから菅山寺に向かうことにした。山頂からは余呉湖が美しく見える。この日は残念ながらモヤでかすんでいたが、空気の爽やかなときなどは本当に美しく見えることだろう。そこからは山道で菅山寺まで下ることになる。途中、首の取れてしまった小さな石仏や歴代の菅山寺僧侶の墓石などを目にする。そういえば出てきたばかりのマムシにも出会うことができた。気づかず踏みそうになって、思わず道を譲った次第だ。

そして教えてもらった親子の墓石のある場所へ向かうと、そこには仲良く二つ並んだ墓碑があった。すぐ下には、かなり傷んではいるが今なお威厳ある姿を保つ本堂が見える。その厳かな空気の流れる中で、二つの墓石には時折木漏れ日があたり、小鳥の声しか聞こえない静寂な森の中でただ静かに佇む。何百年もの歳月が過ぎているのだろう、苔むしてしまっていて、何か文字は書かれているようだがもはや判別はできない。また、かなり劣化も進んでいる。その古びた様子を見ながら、いったいいつ頃に建てられたのだろうなど考えたりするが、何より2人仲良く今も残ることに多くの人の努力と愛情を感じる。そして手を合わせる。

「小原」の人たちの生業の一部となっていた小原篭は、1965年(昭和40)頃まで売り篭が作られていたというが、もしこの時代にまで「小原」の人々の生業となっていたとしたら、白子皇子と村人の絆は何百年にもわたって、村人を支え続けていたということになる。白子皇子の話はあくまで伝承であり史料的な価値はないのかもしれないが、村人たちの中で長年にわたって言い伝えられ、生き続けてきたことの意味は実に深いものがある。なお小原篭については、村がダム移転という形で「小原」集落が無くなった後も、「小原かごを復活させる会」が立ち上げられたり、「小原かご作り教室」が地元施設で催されるなど、今も大事にされているのは誠に嬉しい限りなのである。

<2012年5月23日>




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<2005.4.21公開>


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