e-konの道をゆく
道・・・
いつからだろう 何気なく地図で道を見るようになった
一本の道をたどっていくと 枝分かれし
やがて太い線は細い実線に変わり 破線となって消えてしまう
この先はどうなっているのかな・・
あ こんなところに集落が・・
そこはどんなところ? どんな生活?
どんな風景? なにがある?
そう考えると いてもたってもいられなくなり
休みの度に訪れていた
道の先には 生まれようとしているもの 輝いているもの
役目を終えて消えようとしているもの 朽ち果てるもの・・
いろいろなものがあった
そして いろいろなものが迎えてくれた

e−kon

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2016年8月1日
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『e-konの自由帳』
1967越波、夏の夢物語



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『e-konの道をゆく・番外編』
2016 若狭へ

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<2016.1.8全公開
『e-konの道をゆく・番外編』
2015 富山の県境周辺を行く

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<2015.6.13全公開
『e-konの道をゆく・番外編』
2014 北海道への旅

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<2015.6.4公開
『TOP写真集691〜840』

<2014.2.14公開
『TOP写真集541〜690』

<2014.2.4全公開
『e-konの道をゆく・番外編』
2013 北海道への旅

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<2013.9.15公開
『e-konの自由帳』
〜ふるさと小原谷〜

<2013.8.30公開
『e-konの道をゆく・番外編』
2013 真夏の琵琶湖・沖島へ

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<2013.5.30公開
『e-konの道をゆく・番外編』
2013 奥能登への旅

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<2012.11.6公開
『e-konの道をゆく・番外編』
2012 富山・岐阜県境への旅

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『e-konの道をゆく・番外編』
2012 北海道への旅

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<2005.4.10公開>


※「たまに一言」のコーナーは
随時更新のため、全更新履歴には
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たまに一言

#252 深山集落の道〜彦根道と山の集落・消えた集落〜

 

 今の時代、車道の通じていない所での生活などはもはや考えることができないほど、我々は便利さから離れることができないでいる。そんな中でも、陸続きでありながら未だ車道が通じておらず、徒歩でしか行けないという集落が長野や徳島の山中に今も存在するそうだ。インフラ整備の進んだ日本において、それは極めて珍しいことなのだろう。ただ、過去にそういう状態のまま廃村となってしまった無人の集落となると、それはけっこうあるのではないだろうか。


2004年頃の「向之倉」集落

 集落までの自動車道がつかないまま廃村となった集落は、私のよく行く滋賀県の鈴鹿山中でもみることができる。例えば、「向之倉」や「五僧」(ともに犬上郡多賀町)は、どちらの村も人が住んでいた昭和40〜50年代頃には集落までの車道は無く、徒歩で行くしか術はなかった。今ある「向之倉」までの林道は、離村後しばらくしてからつけられたものなのである。こういう話を「向之倉」にお住まいだった方から聞いたことがある。「向之倉」で新たに家を建てる時、木材は近くの山から切り出してくることができるが、瓦などはそうはいかない。今ならトラックを使えば、谷底の道から一気に運べてしまうが、当時は全てが人力。だから大量の瓦を運ぶのも、背駄に背負って何度も山道を登り降りしたのだという。
 今、倒壊してしまった家屋跡に、ていねいに積まれた瓦を見ることがある。もちろん、もうそれが使われることはないはずだし、こうして並べる時もそれはわかっていただろう。それでも決して粗末に扱わないところに、その苦労を知る人々の思いを感じたりする。もちろん瓦だけではなく、どんな重量のあるものでもそうして運ぶしか方法は無かったわけで、その大変さは想像しきれるものではないだろう。


家屋跡に、ていねいに積まれた瓦(向之倉)


2001年頃の「五僧」集落

 同じく鈴鹿山中の岐阜との県境にある集落「五僧」は、1966年に権現谷林道工事にあわせて、保月〜五僧間のアサハギ谷の林道がようやくつながるのだが、そこから「五僧」集落までの15分ほどの山道はずっとそのままだった。それは結局、廃村となる時まで変わることはなく、徒歩でしか行けない村として歴史を閉じる。その後しばらくの時を経て集落までの林道がつき、さらに、林道が山向こうの「時山」までつながったのだが、歴史ある五僧越えの峠の風景は大きく変わってしまった。仕方無いのかもしれないが、なんとも残念でならない。
 同じく鈴鹿の中腹の「今畑」集落(犬上郡多賀町)は、人の住んでいた頃はもちろん、今なお集落までの車道は通じていない。なお「今畑」に関しては、車道をつけることを敢えて望まなかったという経緯もあったようだが、それは故郷を静かなまま残しておきたいという気持ちはもちろんだろうが、集落までの車道が無くても、近くの車の通れる谷道からは20分ほど歩くと村に行くことができるという、比較的恵まれた環境にあったことも影響していたのかもしれない。


2015年の「今畑」集落

 当サイトのテーマでもある「道」であるが、人々の生活の中で道は大変大きな役割を果たしている。道があるかないか、新しい道が着くかつかないかで、そこに住む人の生活は大きく変容する。そしてそれは、山深い集落であればあるほど顕著に現れる。最近、古い地図を見ながら古道の確認作業をしていた際に、そのことを強く感じた事例があったので、少しご紹介したい。

 犬上郡多賀町の芹川上流部の最奥に「(霊仙)落合」という集落がある。地図を見るとすぐわかるが、「落合」は多賀町の山中の一番奥深く、山を越えれば榑ヶ畑(米原市)、道を少し奥に行けば彦根市という、3つの市町村の境界にある山峡の集落だ。昔の行政区分でいうと、芹谷村(霊仙村)、鳥居本村、醒ケ井村となる。
 今「落合」に行くには、芹谷の入り口の集落「栗栖」から、芹川沿いの道を谷深く入ってゆく。そして、現在、人の住む最奥の集落である「妛原(あけんばら)」を越えてさらに奥へと進むと、行きつくことができる。狭路とはいえ普通に車で行けるのであるが、植林の杉が高くのびており昼なお薄暗く、すぐそばに山がへばりついているようなその雰囲気は、やはり「最奥の村」という佇まいだ。それでも、人が住んでいた頃は日差しを遮る杉林もなく、もっと空も広く見えていたはずで、今とは全く違った雰囲気だったのだろう。解体された家屋も少なくないが、谷奥のわずかな平地に古びた家屋が建ち並ぶ様は、美しい集落の面影を今でも十分に感じることができるのである。

 その「落合」集落だが、道の歴史をたどっていくとまた違った姿が見えてくる。今でこそ芹川の谷最奥の集落というイメーであるが、大正の頃のこの谷道の最奥は河内の「妛原」集落であった。というのは、大正10年までは芹川沿いの谷道は「妛原」までしかつながっていなかったのだ。そこから「落合」方面に行くには、「入谷」もしくは「今畑」の山の集落を経由した山道を通って行くしかなく、芹川の最奥というより、深山の隠れ里的な雰囲気の集落だったと思われる。

 地域の民俗調査が詳細にまとめられた『日本民俗調査報告書集成 近畿の民俗 滋賀県編』に、霊仙地区(落合、今畑、入谷)についての以下のような記述がある。これは昭和40年の調査報告だ。

「犬上郡多賀町大字霊仙は、落合・今畑・入谷の小集落に分かれている。昭和39年の世帯数と人口は、落合(12世帯、53人)、今畑(9世帯、35人)、入谷(21世帯、105人)とあるが、最近はもう少し減っているといわれ離村化が著しい。この地は大正10年頃まで下流の河内の方に出る川沿いの道は無く、榑ヶ畑や武奈・男鬼などと共に一体を成していて、祭礼のときなどには村の半数が呼び合いをしていたという。交易はすべて彦根方面であった。河内・多賀方面との交際は、道路がついてからのことである。」
(以上抜粋)


落合〜河内間の道(「入谷」あたり)


美しい、坂の集落「入谷」

 さらに同書には、次のようにも書かれている。ここは米原市の山深き集落「榑ヶ畑」について書かれたものなので、主体は「榑ヶ畑」として読んでいただきたい。

「彦根道
古くから彦根道とよばれる榑ヶ畑〜男鬼〜仏生寺〜鳥居本を経て彦根に通ずる道が本道であった。この道は榑ヶ畑からほぼま西に、彦根に出る最短コースである。榑ヶ畑〜落合間12丁、榑ヶ畑〜男鬼間20丁、榑ヶ畑〜彦根間3里といった。約50年前の父親の頃までは、商いや物資はすべて男鬼を通って彦根に出た。
彦根道を本道としていた頃は落合・武奈・明幸・男鬼などとの間に接触が多かったため縁組も多く、したがって祭などにもお互いに客呼びをしていた。しかし、その後後述するように上丹生から醒ケ井方面への道が開かれ、また、鉄道の発達とも相まって自然とこれら彦根道や旧芹谷村との関係も薄くなっていった。」
(以上抜粋)


彦根道から「旧仏生寺」へと至る道。
今はこちらが主要道となっている

 この調査報告が行われたのが昭和40年なので、聴き取りの中の「約50年前の父親の頃」というのは大正の初めの頃と思われる。河内〜落合、上丹生〜榑ヶ畑間の道ができる前だ。また、文中にある「彦根」というのは中山道の宿場のあった「鳥居本」もしくは、そこから彦根の「高宮」あたりのことを指しているものと思われる。ちなみに、この「鳥居本」は古くからにぎわってきた宿場町で、山の人々にとっては「最も近くにある、にぎやかな町」であった。近江鉄道の鳥居本駅のある所だが、この頃はまだ近江鉄道の米原〜彦根間は開通していない。

※国土地理院ホームページからのデーターを加工
画像をクリックすると拡大表示します

 これらの記述から、今ある妛原〜落合間の道ができたのは大正10年頃で、それまでは同じ山中の「男鬼」「武奈」「明幸」(ともに彦根市)、「榑ヶ畑」(米原市)、「落合」(多賀町)の村々がとともに生活圏を作っており、その交易先は全て彦根方面であったことがわかる。上の地図は、現代の地図に「落合」「榑ヶ畑」「武奈」「明幸」「男鬼」「鳥居本」の位置を示したものだ。こうして見ると、深い山中にある村々が行政区分の違いこそあれ、ほど近い距離にあったということが確認できる。


「榑ヶ畑」集落


「男鬼」集落
正面の家屋、右手の寺はともに現在はもう存在しない


「武奈」集落


「明幸」集落

 それではここにも書かれているが、これらの集落が利用していた「彦根道」というのはどういう道だったのだろうか、これを古い地形図を元に探ってみた。

※国土地理院ホームページからのデーターを加工
画像をクリックすると拡大表示します

 上の地図は、明治26年の地形図から周辺の道を抜き出し、今の地形図上に書き足してみたものである。明治26年の地形図における道の表記は

 。暇椶亮太
 ■泳椶亮太錣硲泳椶稜棒
 1本の破線のみ

という3種類の表し方で記されており

 |羯各擦覆鼻通行量が多く、広く一般に使われている主要道
 △修谿奮阿亮舁彳
 山道のように道幅が狭く、利用頻度も少ない道

という感じで使い分けられていたようだ。「落合」周辺の山中には、△鉢の道しか無いので、△乃されているものが地域の主要道だったと考えられる。

 上記の地図上では、こうした道を△惑擦っ秧Г稜棒、はオレンジ色の破線で、そして彦根道と思われる道は太い赤の破線で記している。入谷〜妛原間も主要道△箸靴撞されているのだが、それは途中で途切れており、上記の記述とあわせて考えると、まだ完全な主要道としての役目を果たせない状況だったと思われる。「男鬼」の子どもたちが10kmもの山道を歩いて鳥居本の中学校に通っていたというのも、こういったルートだったのだろう。
 先の記述にあった各距離をmで標示すると、榑ヶ畑〜落合間1309m(12丁)、榑ヶ畑〜男鬼間2182m(20丁)、榑ヶ畑〜彦根間11.78km(3里)となる。町までの最短コースではあるのだが、距離はかなりのものだし山道であることも加味しなければならない。改めて昔の人たちの足腰の強さを感じるのである。


「旧仏生寺」集落


鳥居本駅周辺の風景

 そして同書にはこういう記述もある。これは「預かり牛」ということについて書かれたものだ。これも主体は「榑ヶ畑」である。

「この預かり牛というのは、蚕を盛んに飼うようになった大正時代前に行われていた。それは毎年5月末頃から7月一杯中に高宮(彦根市)の農家で田植えをすまして疲れた牛を預かる習慣であって、たいていこの頃に行われる高宮の祭に招ばれてゆき、牛を連れて男鬼から18町坂を越して帰ったものである。当時は落合から芹川沿いに出る道はなかった。少なくとも毎年30頭の牛は連れてきたが養蚕が忙しくなってから止めた。」
(以上抜粋)

 これは「鳥居本」ではなく、「高宮」から牛を連れて彦根道を帰ってきたという話だ。ここでも「落合」から河内(妛原)方面に出る、川沿いの道がなかったことが書かれている。しかし、ここで注目したいのは「榑ヶ畑」まで来る道が、「牛が通れる道」だったということで、それにより彦根道の様子をある程度想像することができる。何頭もの牛を連れて帰ってきたのだから、山中とはいえ、急斜面を避けながらそこそこの幅、それなりの勾配で着けられた道だったということがわかる。今「男鬼」を通る道が、そのまま彦根道のルートなのだが、それに近いくらいの道幅があったのではないだろうか。

 簡単に道といっても、その状況は様々。それは周囲の自然条件はもちろん、集落の人たちだけが通る道なのか、街道の間道として外部の人たちも通る道なのか、その利用の頻度によって違ってくるものだ。山道などの路面状況を語る際に「踏まれる」ということばがよく使われるが、これは本当に良くできた表現で、文字通り道は踏まれる頻度によってその姿を変えてゆく。多くの人に踏まれればしっかりとした道になるし、踏む人が少なければ、より自然に近い状態の道となる。道幅も然りである。それでいくと、彦根道は「よく踏まれた道」だったというのは間違いないだろう。

 ところがこの彦根道も、榑ヶ畑〜上丹生間、落合〜妛原間にしっかりとした道がつくことで主要道としての役目を終えることになり、それによってこれらの村同士の関係も薄れ、人々の生活も変わっていく。
 山中の集落をウロウロしていると、登山道でもないのに道らしい雰囲気の場所と出合うことはよくある。それらはたいてい、村在りし頃に村の人々が頻繁に使用していた道だ。集落間をつなぐもの、外部との交易のためのもの、山仕事に利用するもの、墓地へとつながっていたものなど、その用途は様々だっただろう。中には主要街道の間道的な存在で、今の状態からは考えられないほどの使用頻度の高かった道もある。そういった古の痕跡は、古い地図などを見て照らし合わせてみると昔の姿が見えてくることが多いが、中には地形図に記載されていない道もあるし、記載されていても正確さを欠く場合もある。そのあたりは、地元の方のお話がやはり一番確かなどと感じる。

 彦根道に関してもう一つ加えておきたい。
 以前、「榑ヶ畑」周辺をウロウロしていた時に、いくつかの看板というか標示板を見つけた。それは、それぞれ「三谷」「小谷」「トチビラ」「シブラ・板ノ原村落跡」などと書かれたもので、誰が建てたものかはわからない。役所関係であれば「教育委員会」など記されているはずだが、実際問い合わせても「そのような看板は知らない」ということだった。調べると、これらはすべて「榑ヶ畑」の小字ということがわかるのだが、それ以上の情報は無く、結局そのままわからずにいた。

 今回の古道のこととあわせて、ずっと気になっていたその場所を先日もう一度確認してみたところ、これらは全て「榑ヶ畑」から落合〜男鬼〜鳥居本へと向かう、彦根道沿いにあることがわかった。場所は「榑ヶ畑」から彦根道を通ってちょうど多賀町に入る峠(柾板峠)の手前の道沿いに位置しており、上記の地図にもその位置を加えてみた。ただ、明治26年の地形図を見ても、道はあるものの集落の印はつけられておらず、それが規模が小さいため印がつけられていなかったのか、実際その時点で既に村落はなかったのかなどはわからない。公図なども調べては見たものの、道沿いにあることはわかったものの村の存在そのものはわかるはずもない。標示板通りでいくと、シブラと板ノ原には村落があったのだろうが、三谷、小谷、トチビラについては村落だったのかもわからない。

 しかしながら、ここにいつの時代までかはわからないが、人々の生活があったのは間違いない。初めて訪れた時は「榑ヶ畑」の本村よりさらに上に行かなければならなかったので、「どうしてこんな所に村落が?」など思ったりしたのだが、ここが彦根へ向かう道の途中で、道も主要道として利用されていたことを思うと、村落があったとしてもなんら不思議はなく、こうした痕跡が残っていることにも大いに納得できたのである。いずれにしてもここは歴史においては何十年、何百年と「榑ヶ畑」からの主要道となっていた道で、「落合」や「男鬼」「武奈」とも交流があり、互いに行き来をしていた所。今はただ石垣が残るだけのこの地も、今とは全く違った景観を見せてくれていたのである。

 「落合」「男鬼」「武奈」「明幸」「榑ヶ畑」鈴鹿の山中にある彦根道周辺の集落は、今はどの集落も人は住んでいないが、深い山中のにぎやかだった時代の痕跡を今もこうして残してくれており、当時を語ってくれる。ちなみに今「落合」から「榑ヶ畑」へ徒歩で行くには、登山道ともなっている大洞谷〜汗拭き峠越えのルートが一般的で、このかつての彦根道の柾板峠越えの道は廃道となっており、ほとんど利用されることはない。「落合」「榑ヶ畑」の両村の関係が薄れてしまった中で、「汗拭き峠超え」の道が村の人々の間で盛んに利用されたという歴史も聞くことはない。ただ山仕事や登山などで利用されるくらいだったのだろう。

 深い山の集落においては、1本の道の有無で大きくその運命を変える場合がある。今回の「落合」や「榑ヶ畑」の場合は、新たな道がつくことで生活が変わり、生活圏も大きく変わったのだが、これにより村の人々は劇的に暮らしやすくなっていった。また、以前のこのコーナーでもふれているが、岐阜県の「越波」では新たに一本の道がつけられたことが、その後の村が存続していくことにも大きく影響している。一方で「茨川」のように、1本の道がつくことで村の森林資産が一気に失われ離村を進めることになってしまうこともあるし、ダム工事など、村がある時はまともな道がつけられなかったが、村が無くなるとともに大変立派な道がつけられるということもある。

 一本の道といっても、それがつけられる歴史と経緯、その後の変容は様々なようだ。そういう時、誰の何のための道なのかという基本的なことを考えると、その道の価値も見えてくるようにも感じるのである。

<2016年9月14日>





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<2005.4.21公開>


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滋賀県の廃村・廃坑などです。訪れた時の様子や集落に関してのことなど、まとめてみました。
最終更新日:2007.10.14

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■2004年 7月15日 HP開設
■2004年11月 6日 HP公開
■2016年 9月14日 最終更新日

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