T 古代文明
 古代の人々がどのような宇宙観をもっていたかは、神話・遺跡などから推測できます。


エジプト
古代エジプト人は、天の女神ヌートが大気の神シュートに支えられ世界が作られていると考えられていたようです。女神ヌートの体には星などが書かれ、その中を太陽神ラーが、昼は天上を夜は地下を巡っているという。その一方、ナイル川の氾濫と星の位置などを把握し、正確に歴を作成していました。






バビロニア

 紀元前30世紀チグリス・ユーフラテス川周辺に栄えたバビロニアは、カルディア人の国であり、羊飼いをして暮らしていたため(天をよく見る。)、天の動きに詳しかったと思われいる。
 バビロニアから、月の満ち欠けから太陰歴が生まれ、5惑星、太陽、月を加えた7つの神を1日ごとに繰り返し陸上を支配する1週間という尺度を生み出しました。また、星座や占星術も作り出しました。

マヤ
 紀元3〜10世紀までに中央アメリカで栄えた文明で、天文台を持ち非常に正確な太陽暦が作られました。 

中国
 紀元前1世紀ごろの中国では、卵の殻のような球形の世界の中に水に浮かぶ大地があって、太陽は球面の天と水の中を繰り返しめぐる「渾天説」が唱えられていました。










インド
 世界は巨大なカメとヘビによって支えられ、カメの上には象が半球の大地を支えています。大地の中央には、須弥山という高い山がそびえていました。


U古代ギリシャとヘレニズム文化

 紀元前6世紀頃になると、ギリシャでは自然科学的な考え方が芽生え、哲学者や自然科学による科学的な手段による天文学が生まれてきました。

 タレス(BC625-550ごろ)は、ギリシャ幾何学の創設者であり、その弟子アナクシマンドロスは、地上に垂直の棒を用いて太陽観測を行う等観測方面の基礎を築き、初めて半球ではない完全な球形の天をもつモデルを考えました。
 ピタゴラス(BC580-500ごろ)を祖とし、数学的な秩序を重んじるピタゴラス学派は、大地は球形であり星はその周りを回っているという考えを確率しました。エクドクソスは、地球を中心をして幾つも同心球状に惑星が回っているという同心天球説を唱えました。

 アリストテレス(BC380-322ごろ)は、月食の時に映る地球の影が丸いこと、北から南へ移動すると星の位置が変化して見えることにより、地球は球体であると説明した。また、哲学的に、火、地、風、水、エーテルの五つのエレメントは宇宙の固有の場所に持っており、地のエレメントは自然に中心に向かって動き中心点の周りに対称にならび球体となると考えていました。









 アルスタルコス(BC310-230)は、太陽と月との距離の決定方法を考えだし、月との距離についてはほぼ正確に導きだしていた。また、コペルニクスより1700年前から、太陽中心説を唱えていましたが、それに伴う観測事実もなく、一般的常識にもあわず無視されました。 

 エジプトのエラストテネス(BC275-195)(地理学で有名)は、簡単な幾何学的な方法で地球の全周を算出している。



 ヒッパルコス(BC190-120ごろ)は、地球中心説に離心円や回転円などの数学的な方法が加え、観測結果を一致するモデルができてきました。また、ヒッパルコスは、46星座を決定、歳差による春分点移動を発見、恒星850を含む星表・星図の作成、球形三角法等数々の業績を残しています。


 プトレマイオス(トレミー)(2世紀ごろ)は、地球中心説の大成を行いヒッパルコスや先人たちの資料に基づき「アルマゲスト」と呼ばれる著書をまとめ上げた。プトレマイオスの天体運動論は、非常に精密で理論的であった上、その後カトリックの見解とも結びついたため、以後千数百年にわたって信じられてきました。その他、トレミーの48星座の決定、初めての世界地図の作成も行っています。




                                                  
                                                      アルマゲスト
             プトレマイオスの宇宙
                                                                      





プトレマイオスの世界地図

V コペルニクス的転回

 プトレマイオスの天動説(地球中心説)は、長らく信じられてきましたが、中世後期からルネッサンスにかけては、誤差が蓄積して容易ならざる事態となったユリウス歴の改変問題や、正確な航海歴をもとめる声がたかまり、天文学の復興がおこりました。

 コペルニクス(1473-1543)は、生まれ故郷のポーランドからイタリアのボローニャ大学の留学中(法学)に、数学者マリア・デ・ノバラなどの影響を受け、複雑なプトレマイオスの天文学を十分理解した上で、より単純なモデルこそ正しいのではないかと確信を持ったようです。1501年、バドバ大学に移り医学を勉強した後、ポーランドに戻り医者として評価も得ていました。 医者として仕事を続ける傍ら、天体観測の行い記録をとっていました。 1507年、本を書き(コメンタリス)太陽中心説を提示したが、プトレマイオス天文学の問題がすべて解決したわけではなかった。しかし、コペルニクスは太陽中心説をまとめた「天体の回転について」(1543年) を注釈付(*)きで印刷し一ヶ月後生涯を閉じた。
 (*)単なる仮説である旨の注釈がつけられていたが、これをコペルニクスが知っていたかは疑問



  「天体の回転について」は、期待したほどうまく太陽中心説を主張できませんでしたが、惑星の逆行、水星及び金星が太陽よりあまり離れない理由等はうまく説明できています。



      コペルニクスの宇宙                            「天体の回転について」

 ジョルダノ・ブルーノ(1548〜1600)は、強くコペルニクスの説を支持し、また、宇宙は無限であり一様であることを主張しましたが、中世キリスト教の思想に合わず聖職者の手で処刑されました。

W ガリレオ(1564-1642)とケプラー(1571-1630)

 コペルニクスの「天体の回転について」は、発刊後も 聖書に反する考えとして無視されてきた。その状況下で2人の人物が登場します。
 ガリレオ・ガリレイとヨハネス・ケプラーは、同じ時代に教育を受けながら、、人柄や経験が違っていました。ケプラーは物静かで内向的で、思いつきや想像・直感というもに動かされ研究していましたが、ガリレオは派手で怒りっぽく、観測や実験を重視していました。

ケプラーは、コペルニクス没後28年に生まれました。神学校を卒業後チュービンゲン大学の教師となり、「天体の回転について」を雄護する本「宇宙の神秘」を書いています。「宇宙の神秘」は、現代からみればおかしい理論ですが、惑星の数とそれらの軌道の大きさを幾何学的に説明しようとしていました。この本でガリレオはケプラーを知ることになります。
 30才のケプラーは、ティコ・ブラーエ(1546-1601)の弟子となり2年後にはティコは亡くなり、その職を継ぐことになります。ティコは、望遠鏡発明以前の中世におけるもっとも優れた観測家といわれています。彼はデンマークのヴィーン島に作られた天文台で長期間精密な観測を行いましたが恒星の年周視差を発見できす、水星と金星だけが太陽のまわりを回っている、独自の地球中心説を作り上げていました。

                                             ケプラー


ケプラーは、ティコの膨大な観測記録から惑星に関する三つの法則を発見しました。

 第一法則及び第二法則は1609年「新天文学」で発表、第三法則は、1619年「世界の調和」で発表
  第一法則 楕円軌道
    惑星の軌道は円ではなく楕円軌道である。
  第二法則 面積速度一定の法則
    惑星は軌道上を等速度で運行しておらず、太陽に近いところでは速くなり、離れたところでは遅くなる。この結果、惑星と太陽を結ぶ直線は、一定の時間に等しい面積を描く。
  第三法則 調和の法則
    惑星と太陽の平均距離の3乗は公転周期の2乗に比例する。
  第二法則を考えついたのは、太陽から見えない力線は働いておい、太陽が近いほど強く働くと考えていました。これは、ケプラーがニュートンの万有引力に近い考えを持っていたといわれています。

 ガリレオは、北イタリアのピザで生まれ、17才医大生としてピサ大学に入学しましたが、その後コースを変更しています。正式な教育終了後、各大学で天文学を教えていましたが、内容はまだプトレマイオスの天文学でした。
 1609年、オランダの発明品を知り、レンズの配置など研究し改良した望遠鏡を作成しました。著書「星界の報告」では、望遠鏡で見た月がこれまで信じられていた滑らかではなく山や谷があること、天の川が無数の星の集合であること、金星が満ちかけすること、太陽上に黒点があること、木星の衛星発見等が述べられています。
 木星の衛星の発見から、宇宙のあらゆる運動の中心となる天体が一つだけとは考えることは、もはや不可能だと思っていました。また、プトレマイオス天文学では、金星全体が輝いている姿を見せることはないはずですが、望遠鏡の観測結果からは円盤状から三日月状にかけていることがわかり、太陽中心説が正しいと確信しました。


 「星界の報告」が出版された1610年頃、ほとんどのカトリック信者は、地球が宇宙の中心であると本当に考えられいました。ガリレオの発見のニュースが広まると、ひどく独断的な反応(プトレマイオスの権威を疑うべきではない。)が返ってきました。 ガリレオの個人的支持者はあまり多くなく、その原因は彼の性格(饒舌、自分に同意しない人を敵と考える癖)に起因していました。1616年に異端の審査が行われ、「コペルニクス説は雄護することも抱懐することもならぬ」という審判がでました。

 1632年「二大世界体系についての対話」通称「天文対話」が発行されましたが、内容は一般向けに書かれており、3人の友人が討論を交わすという形がとられていました。その中でアリストテレス・プトレマイオスの理論を雄護する者を馬鹿にしたような表現を使っていました。
 教会が「天文対話」が異端かどうか審査することになりましたが、ガリレオの本に欠陥がなく、コペルニクスの理論も公式に異端とはされていなっかたため異端の強い疑いで裁判にかけました。ガリレオは弁解(プトレマイオスに味方した本である等。)したが通じず、外部と交渉を絶って余生を過ごすようにという判決を受け、家に幽閉され8年後に亡くなりました。この後、イタリアではコペルニクス説が禁止となり、科学の活動は北ヨーロッパやイギリスに中心が移り、二度とイタリアには戻ってくることはありませんでした。                                                

                                                 

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