東海大学医学部付属病院「安楽死」判決
  (横浜地裁平成4年(わ)第1172号、平成7年3月28日宣告、 確定)(1)

<事実の概要>
 東海大学医学部の助手である被告人は、同大学の付属病院の勤務医として五カ月前から多発性骨髄腫(1)の確定診断を受け同病院に再入院していた男性患者A(当時五八歳)を担当していた。被告人は事件が発生した同月に同病院での勤務を始めただかりであり、実質的な治療を始めたのは、Aの病状が急変し末期状態になった後、即ち、事件が起きる六日前のことであった。Aの長男であるBの要請で、患者であるAにも患者の妻であるCにも本当の病名は知らされていなかったが、後でCがそれを知ることになった。
 担当医である被告人は、Aが苦しそうな呼吸をしている様子を見かねたCとBから、「やるだけのことはやったから早く家に連れて帰りたい。苦しみから解放して楽にしてやってほしい」と再三にわたって迫られた。そこで、被告人は、点滴やフォーリーカテーテルを外すなどを試みた。ところが、外してから数時間しても苦しそうな呼吸がおさまらなかった。更にBは、「楽にしてやって下さい。早く家に連れて帰りたい」と被告人に強く要請した。被告人は、死期を早める可能性があることを認識しつつも、通常の量を越えた呼吸抑制作用のある鎮痛剤および抗精神薬を通常を越える速度で続けて静脈注射した。
 しかし、それでも、Aは苦しいそうに呼吸をしていた。すると、それに腹を立てたBは、すぐに息を引き取らせてほしいと被告人に強く要請した。それを聞き入れた被告人は、殺意を持って、一過性心停止などの副作用のある不整脈治療剤である塩酸ベラパミル製剤(商品名「ワソラン」注射液)を通常の二倍の使用量をもってAの左腕に静脈注射をした。その際、Aの脈拍などに何の変化も起こらなかったので、心臓伝導障害の副作用があり、しかも、希釈せずに使用すると心臓停止を引き起こす作用がある塩化カリウム製剤(商品名「KCL」注射液)を、希釈しないでAの左腕静脈注射した。
 その間、看護婦が心電図モニターでAの状態の異常に気付きモニターをAの病室まで運んできた。看護婦は「心室細動が出ています」と声を掛けたが、被告人はそれを無視して注射を続けた。その後、心電図モニターで心停止するのを確認した上で、心音、脈拍、瞳孔などを調べ、長男のBに「ご臨終です」と告げた。

<判決>
懲役二年、執行猶予二年

<理由>
[第一 はじめに]
 医学の進歩は多くの病気を克服してきている。しかし、現代医学の知識と技術をもっても、治癒不可能な病気が存在していることも事実である。そのような病気に冒された患者が、治療を継続しても死を迎えざるを得ない状態に陥りながらも、医学の進歩はそうした患者の生命を維持し、延命を図ることを可能とせしめた。これは、皮肉にも、患者は病気が治る見込みのない状態で、苦痛に耐えながら生き延びなければならないという状態が生じる原因となったのである。
 このような事態は、医療の在り方について再考する機会を生み、病気への対応については患者の自己決定権の思想が高まり、生命の質を問う考えが登場し、治癒の見込みのない患者に於ける末期医療の在り方が問題とされるようになったのである。延命治療の進歩は尊厳死や自然死の思想を広げ、延命治療の限界が論議された。また、安楽死についても、現代医療の現実の中で新たな思潮が生まれつつあると思える。
 本件を現場面から見てみると、患者は現代医療では治癒不可能な癌の一種である多発性骨髄腫に冒され、予後数日という末期状態に至り、家族からの要請があって治療行為の中止が行われ、続いて苦痛緩和の措置がとられ、更に苦痛から免れさせるため生命短縮の措置がとられた。治療中止から生命短縮の措置がとられるまでの過程が短時間のうちに進んだことや、問題とされた苦痛の内容などの点はともかく、本件のような措置をとることの選択を迫られる場合は、医療の現場において、医療従事者が不治の病に冒された死期が迫った末期患者を前に、少なからず対面することがあり得ると思われる。そうした意味で、本件が末期医療に於ける法的な限界、即ち、末期医療に於いて医療従事者として許される行為の法的限界を考えさせる事案であり、本件で医師である被告人が患者に対して行った個々の行為を検証しその法的許容性を検討することは意義のあることである。
 のみならず本件において、医師である被告人が患者に対して行った個々の行為について、その法的許容性を検討することは、必要性があるといえる。というのは、一つには、本件で起訴の対象となっているのは、医師が末期患者を積極的に死に致した行為であるが、そうした医師の行為が苦痛から解放するためのいわゆる積極的安楽死として許容されることがあるとしたら、後述する如く、末期患者に対して苦痛を除去・緩和するため許容される医療上の他の手段が尽くされ、他に代替手段がなくなった場合に初めて許容されると考えられるので、被告人によって右の致死行為に及ぶ以前に患者に対して行われた行為がどの程度にわたって許容されるべきものなのか検討する必要があるからである。
 更に、弁護人は、本件起訴の対象となっているワソラン及びKCLを注射して患者を死に致した行為は、終末医療の中での末期患者への対応の一つとして行われ、患者の意思を汲んだ家族の要請を受けて、基本的には延命治療を打ち切って安らかで自然の死を迎えさせてやることを目的とした、一連の行為における最期の行為として行われた。しかも、現在では、安楽死の対象には精神的苦痛を含める解釈もあり得るから、本件起訴の対象となっている行為の違法性ないし有責性の有無は、終末医療の実情に沿い、右の起訴行為のみならず全体的状況を踏まえて実質的な検討をし、その上で実質的違法性ないし可罰的違法性あるいは有責性があるかという観点から決定されるべきである、と主張する。
 そこで、そうした実質的違法性ないし可罰的違法性の有無あるいは有責性の有無を判断するには、被告人本件患者と対面する中で、最終的に行った起訴の対象となっている行為のみならず、それに至るまでに行った行為についてもその違法性を点検し、全体として検討することが必要であると考えられるからである。
 したがって、以下、本件で被告人によって行われた治療行為の中止、及び外形的にはいわゆる安楽死に該当すると考えられる一連の行為について、それぞれの適法性を検討することとする。ここではまず、治療行為の中止及び安楽死が許容されるための一般的要件をそれぞれ考察する。

[第二 治療行為の中止の要件について]
 本件では、治療行為の中止として、被告人によって患者の点滴の中止及びフォーリーカテーテルの取り外し、更にエアウエイの除去がなされている。こうした治療行為の中止が適法な処置であったか否かについて検討するため、一般論として末期患者に対する治療行為の許容性について考えると、治癒不可能な病気に冒された患者が回復の見込がなく、治療を続けても目前に迫っている死を避けることができない場合において、なお延命治療を続けなければならないのか、あるいは、意味のない延命治療を中止することが許されるのか、というのが治療行為の問題点であり、無駄な延命治療を打ち切ってごく自然な死を迎えることを望むいわゆる尊厳死の問題でもある。
 こうした治療行為の中止は、全く意味のない治療を打ち切って人間としての尊厳性を保って自然な死を迎えたいという、患者の自己決定を尊重すべきであるとの患者の自己決定権の理論と、そうした意味のない治療行為までを行うことはもはや義務ではないとの医師の治療義務の限界を根拠に、一定の要件を下に許容されると考えられるのである。
 そこで、治療行為の中止が許容されるための要件を考えることにする。
(1)患者が治癒不可能な病気に冒され、回復の見込みがなく死が避けられない末期状態にあることが必ず必要である。
 患者が現在の医学の知識と技術をもってしても治癒不可能な病気に冒され、回復の見込みがなく死を避けられない状態に陥って初めて、治療行為の中止が認められると考えられる。それは、治療の中止が患者の自己決定権に由来するとはいえ、その権利は、死そのものを選ぶ権利、死ぬ権利を是認したものではなく、死の迎え方あるいは死に至る過程についての選択権を認めたに過ぎないと考えられるからである。また、治療不可能な病気とはいえ、治療義務の限界を安易に容認することはできず、早すぎる治療の中止を 認めることは、生命軽視の一般的風潮を齎す危険性があるので、生命を救助することが不可能で死を避けられず、単に延命を図るだけの措置しかできないできない状態になったとき初めて、そうした延命のための措置が、中止することが許されるか否かの検討の対象となると考えるべきである。
 このような死の回避不可能の状態に至ったか否かについては、医学的にも判断することが困難極まりないと考えられる。したがって、この場合、複数の医師による反復した診断によって判断することが望ましいと思われる。また、この死の回復不可能な状態というのも、中止の対象となる行為との関係である程度相対的に捉えられるものであり、 当該対象となる行為の死期への影響の程度によって、中止が認められる状態は相対的に決定してもよい。もし、死に対する影響の少ない行為であれば、その中止はより早い段階で認められるべきであり、死に直接関わる行為であれば、まさに死が迫った時期において初めて許されるものである。
(2)患者における治療行為の中止を求める意思表示が存在し、その意思が治療行為を行う時点で存在することが必要である。
 患者に対する治療行為の中止が、死が避けられない状態での末期医療の内容・限界について、患者の自己決定を尊重するということに由来することからして、治療行為の中止のためには、それを求める患者の意思の意思表示が存在することが必要であり、且つ、中止を決定し実施する段階でその意思の存在が認められることが必要である。そのためには、具体的に中止が検討される時点で、患者自身の明確な意思表示が存在することが最も望ましいということは言及するに及ばないことである。そして、そのような意思表示は、患者自身が自己の病状や治療内容、将来の予想される事態などに関して十分な情報を得て正確に認識し、真撃な持続的な考慮に基づいて行われることが必要である。これについては、病名告知やいわゆるインフォームド・コンセントの重要性が指摘されるものである。
  右の如く、患者における治療行為の中止を求める意思表示は、十分な情報と正確な認識に基づく極めて明確なものとして、治療行為の中止が検討される段階で存在することが望ましく、医師側においてもそのような意思表示を求めて努力がなされるであろう。 しかし、現実の医療の現場においては、死を避けることのできない状態にある末期患者は意識ははっきりしていない。仮にあったとしても、治療行為の中止の是非について意思表示を示すようなことはない。それ故に、治療行為の中止が検討される段階で、中止についての患者の明確な意思表示が存在しないことが極めて多いことから、患者の家族から治療の中止を求められたり、家族に意向を確認したりすることも少なくない。
 このような現実を踏まえ、今日、国民の多くが意味のない治療行為の中止を容認していることや、将来、リビング・ウイルによる意思表示が国民の間に普及していくであろうということを予想する。そして、その有効性を確保することも必要であるということを考慮した場合、治療行為の中止を検討する段階において患者の明確な意思表示が存在しないときには、患者の推定的意思によることを是認してよいと考える。そこで、更に、 本件患者の推定的意思の認定について検討することにする。
  まず第一に、患者自身の事前の意思表示があるときには、それ自体が、治療行為の中止が検討される段階での患者の推定的意思を認定するのに有力な証拠となる。事前の文書による意思表示、あるいは口頭による意思表示は、患者の推定的意思を設定する上において有力な証拠となるのである。このような事前の意思表示も、中止が決定される段 階で再度本人によって表明されるならば、その表明はその段階での意思表示となることはいうまでもないことである。だが、治療の中止についての意思表示は、病状、治療内容、予後などに関する十分な情報と正確な認識に基づいてなされる必要がある。したがって、事前の意志表明が、中止が検討されている時点と余りにかけ離れた時点でなされたものであったり、その内容が漠然とした内容のものであったりするときには、後述する事前の意思表示がない場合と同様に、家族の意思表示によって補って患者の推定的意思の設定を行う必要があろう。
  第二に、何ら患者の事前の意思表示が存在しない場合についての対応である。この点では、安楽死に関してではあるが、弁護人は患者の意思を体していると認められる家族の意思でもって足りる旨を主張する。この場合、家族の意思表示から患者本人の意思を推定することが許されるといえる。しかし、表現を換えれば、患者の意思を推定されるに足りる家族の意思表示によることが許されるかが問題となる。先の患者の推定的意思によることを是認した際に指摘した医療現場での現実や、今日、国民の大多数の人が延命治療の中止を容認する意見を持っていながら、具体的には事前であっても患者の実際の意思表示がある場合が圧倒的に少ないという現実間のギャップが存すること、並びに、具体的に当該措置を中止すべきか否かについては、医師による医学的観点からの適正さの判断がなされ、家族の意思表示があったからといって全ての措置が中止されるわけではないこと、更に、患者の過去の日常生活上の断片的あるいはエピソード的言動から患者の推定的意思を探ろうとするよりも、むしろ家族の家族の意思表示による方が、はるかに治療行為の中止を検討する段階での患者の意思を推定することができるのではないか、などを考慮すると、患者の意思は家族の意思表示から推定することが許容されると考える。
 患者の意思を家族の意志表明から推定するには、家族の意思表示がそうした推定させるに足りるだけのものでなければならない。そのためには、意思表示をする家族が、患者の性格、価値観、人生観などについて十分に熟知し、その意思を的確に推定し得る立 場にあることが必要である。更に、患者自身が意思表示をする場合と同様に、患者の病状、治療内容、予後などについて、十分な情報と正確な認識を持っていることが必要である。そして、患者の立場に立った上での真撃な考慮に基づいた意思表示でなければならない。また、家族の意思表示を判断する医師側においても、患者及び家族との接触や 意思の疎通を努めることによって、患者自身の病気や治療方法に関する考えや、態度、及び患者と家族の関係の程度や密接さなどについて必要な情報を集め、患者と家族に関して十分に認識し理解する適確な立場にあることが必要である。
 このように、家族と医師側の双方とも適確な立場にあり、且つ、双方とも必要な情報を得て十分な理解をして、意思表示あるいは判断するときに初めて、家族の意思表示から患者の意思を推定することが許されるのである。なお、患者の意思の推定をするにあたっては、疑わしきは生命の維持を利益にとの考えを優先させ、意思の推定に慎重さを欠くことがあってはならないといえる。
  右の如く、医師側においても認定を行うのに適確な立場にあり、必要な情報を得ておくことが必要とされのであるが、患者及び家族に関する情報の収集と蓄積、並びに認定を適確に行うためにも、複数の医師と看護婦などによるチーム医療が大きな役割を演じるものであるといえる。
(3)治療行為の中止の対象となり得る措置は、薬物投与、化学療法、人口呼吸器、輸血、栄養・水分補給など、疾病を治療するための治療措置や対症療法である治療措置、更には生命維持のための治療措置など、全てがその対象となってよいと考えられる。
 しかし、如何なる措置を何時どの時点で中止するかについては、死期の切迫の程度、当該措置の中止による死期への影響の程度などを考慮して、医学的にもはや無意味であるとの適正さを判断し、ごく自然の死を迎えさせるという目的に沿って決定されるべきである。  
 
[第三 安楽死の要件について]
 末期医療においては、患者の苦痛の除去と緩和ということが大きな問題である。そのため、前記の如き治療の中止がなされつつも、あるいはそれがなされても患者に苦痛があるとき、その苦痛の除去・緩和のための措置が患者の死に影響を及ぼすことがあるであろう。あるいは、苦痛から逃れるために死に致すことを望まれることがあるかもしれない。
 これが安楽死の問題を生じさせるわけであるが、本件において、被告人は、治療行為を中止した後、家族から「苦しそうなので何とかして欲しい」「早く楽にさせて欲しい」との言葉を聞き入れて、まずホリゾンとセレネースを注射することによて家族の言う苦痛の除去・緩和の措置を施した。 被告人は更にワソランとKCLを注射して、同様に、家族の言う苦痛から逃れさせる措置として患者を死に致した。これは、外形的には安楽死に該当するとも思えるので、ここで安楽死が許容されるための一般的要件について考察してみたい。
 古くから安楽死の問題として議論されてきた中心的な問題は、回復の見込みがなく死が避けれれない状態にある末期患者が、継続的に激しい苦痛に苦しむとき、その苦痛を除去・緩和する目的で死期に影響するような措置をし、更には、その苦痛から免れさせるために積極的に死を迎えさせる措置を施すことが許されるか否かということである。現代医療に於ける諸問題の中で、生命の質を問い、あるいは自然死、人間らしい尊厳のある死を求める意見が出され、生命及び死に対する国民一般の認識も変化しつつある。そして、安楽死についても新しい思潮が生まれるようにも推測できるものである。確立された不変のものとして安楽死の一般的許容要件を提示することは困難であるが、ここでは、今日の段階において、それが要件されるための要件を考察したい。
(1)患者において耐え難い肉体的苦痛が存在すること
  まず、患者に耐え難い苦痛から解放し、あるいはその苦痛を除去・緩和するという唯一の目的のためにこそ、死を迎えさせあるいは死に影響する手段をとるという安楽死における目的と手段の関係を鑑みるに、苦痛からの解放のための、あるいは除去・緩和の対象として、現に、患者に耐え難い苦痛が存在していなければならない(近い将来、確実に苦痛が存在すると予想される場合を含む)。
 弁護人は、この苦痛について、安楽死によって免れることの許される対象としては、 肉体的苦痛だけではなく、精神的苦痛も包含して考慮すべきであると主張する。なるほど、末期患者には、病気の症状としての肉体的苦痛の外に、精神的な不安、恐怖、絶望 などの苦痛が存在し、これは肉体的苦痛と互いに関連し影響し合うものである。末期患者にとってはこうした精神的苦痛が重大な心の負担となり、それが高揚して死を願望することもあり得ることは否定できない。しかし、現段階において安楽死の対象となるのは、やはり症状として現れている肉体的苦痛に限られると解するべきである。
  慨して、苦痛についての客観的な判定や評価は困難であると言われているが、精神的苦痛は一層のこと、その有無や程度の評価が一方的な主観的訴えに頼らざるを得ない。 然るに、精神的苦痛は、生命の短縮の可否を考えることを前提とする場合には、より客観的な病状として現れる肉体的苦痛と比較すると患者の自殺に対する容認へと発展してしまう危険性が存するため、現段階においては、それを安楽死の対象から除外すべきである。無論、前記の治療行為の中止に関連しては、患者がそれを望む動機を形成する上で極めて大きな比重を占めるであろうから、医師が患者の精神的苦痛を理由として治療行為の中止を拒否するための根拠にはなり得ない。
(2)死を避けることができず、死期が迫っていること
  患者の苦痛を除去・緩和するための措置については、それが死に影響し、あるいは死そのものを齎すものであるため、苦痛の除去・緩和の利益と生命短縮の不利益とのバランスを鑑み、死を避けることが不可能でしかも死期が切迫している状況になって初めて、苦痛を除去・緩和するという唯一の目的のために死に至らしめる措置の許容性が問題となり得るといえる。
  ただ、死期の切迫性の程度に関しては、安楽死の方法との関係である程度は相対的なのものであるといえる。即ち、積極的安楽死に関しては、言うまでもなく死の切迫性は極めて高度のものが求められる。だが一方、間接的安楽死に関しては、それ程高いものである必要はない。
(3)患者の意思表示があること
  耐え難い苦痛に悩まされる末期状態の患者が、その苦痛に耐えながら生命の存続を強く望むのか、それとも生命の短縮を行ってまでも苦痛からの解放を望むのかという選択を患者の意思に委ねるべきであるという患者の自己決定権の理論が、いわゆる安楽死を許容する一つの根拠である。そのため、言うまでもなく、安楽死が許容されるためには患者の意思表示が必要である。
(4)許容される安楽死の方法について
  一般に、安楽死の方法として考えられているものとしては、@「不作為型の消極的安楽死」(患者の苦痛を長引かせないという目的のため、行われていた延命治療を中止して死期を早める)、A「治療型の間接的安楽死」(とりあえずは苦痛を除去・緩和する ための措置をとるが、同時に死期を早める可能性が存する)、B「積極的安楽死」(苦痛から免れさせるため意図的且つ積極的に死を招く措置をとる)が挙げられる。この三つの中で掲げた@の消極的安楽死は、前記の「治療行為の中止の要件」の範疇に該当する行為である。この行為は、動機や目的が肉体的苦痛から逃れることにあると場合であると考えられるということから、治療行為の中止として、その許容性を吟味すれば十分である。
  Aの間接的安楽死は、死期の迫った患者がなお激しい肉体的苦痛に苦しむとき、そうした苦痛の除去・緩和を目的とした行為を、生命を短縮する可能性があるにもかかわらず実行するという場合である。このような行為は、医学的な合理性を有するという前提の下、その主たる目的が患者の苦痛の除去・緩和にあるということ、そして、それはたとえ生命短縮の危険性が存していても、苦痛の除去を選択するという患者の自己決定権を根拠として是認されるものである。間接的安楽死の場合、患者の意思表示については、患者自身が表明したものが認められるということは言うまでもなく、更に、患者の推定的意思でも十分である
  Bの積極的安楽死は、患者を苦痛から解放するとはいっても、積極的に生命を絶つことを目的とする。したがって、この場合における許容性は極めて慎重に検討を加える。
  実際の末期医療の現場に於いて、医師本人が患者にとっての本当の利益は「苦痛」なのか「死」なのかという選択を迫られることはあるに違いない。しかし、ある日突然、そのような選択をすることをしなければならないような事態に遭遇することは極めて稀である。したがって、末期患者に対しては様々な医療手段を講じるであろうし、時として、間接的安楽死に該当する行為をも試みるであろう。
  積極的安楽死が許容されるための要件を示したと解される名古屋高裁昭和37年12月22日判決(高刑集15巻9号674頁)は、その要件の一つとして、原則として医 師の手によることを要求している。これを右の如き末期医療の実際に合わせて考察してみると、一つには、前記の肉体的苦痛の存在や死刑の切迫性の認定が医師によって確実に行われなければならないということである。更に、より重要なことは、積極的安楽死が行われるには、医師によって苦痛の除去・緩和のために容認される医療上の他の考えられる手段が尽くされ、他には代替手段がないという状況にあることが必要であるということである。
  であるならば、右の名古屋高裁判決が示した「原則として医師の手による」との要件 は、「苦痛の除去・緩和のために他に医療上の代替の手段がないとき」という要件に変更されるべきである。そして、医師による末期患者に対する積極的安楽死が許容されるのは、苦痛の除去・緩和のため、可能といえる他の医療上の方法が存しないときである と考えられる。更に、それは、苦痛から免れるため他に代替手段がなく生命を犠牲にすることの選択も許されてよいといういわゆる緊急避難の法理と、その選択を患者の自己決定に委ねるという自己決定権の理論を根拠として認められるのである。
 積極的安楽死が是認されるための自己決定権の行使としての患者の意思表示は、直接的に生命に直結するものである。そのため、この場合、それを行う時点での明示の意思表示が要求されることは言うまでもなく、したがって患者の推定意思のみでは不十分である
  右の名古屋高裁判決は、医師の手によることを原則としながらも、もっぱら病者の死苦の緩和の目的でなされること、その方法が倫理的にも妥当なものとして挙げている。 承知のように、末期医療において医師によって積極的安楽死が行われる場合、苦痛除去の目的で外形的にも治療行為の目的で行われる。そして、 その方法も、例えば、より苦痛の少ないといった、その目的に相応しい方法が選択されるのが当然のことであろう。それ故、特に、右の二つを「要件」として要求する必要はないと解される。
  これらを踏まえて、本件で起訴の対象となっている如き医師による末期医療患者に対 する致死行為が、積極的安楽死として許容されるための要件は、以下に示す4つの要件である。
  a.患者が耐え難い肉体的苦痛に苦しんでいること
  b.患者にとって死を避けることは不可能であり、しかも死期が迫っていること
  c.患者の肉体的苦痛を除去・緩和するための方法を尽くし、他に代替手段がないこと
  d.生命の短縮を承諾する旨の患者の明示の意思表示があること 
 
[第四 被告人の具体的行為の評価]
 本件被告人が行った具体的行為については、治療行為の中止及び安楽死が許容される要件について照らし合わせて、それらを如何に評価すべきなのかを検討し、更には、本件起訴の対象である被告人の行為の実質的違法性ないし可罰的違法性あるいは有責性について検討することにする。 
(1)<点滴、フォーリーカテーテルの取り外し、及びエアウエイの除去について>
  被告人は、本件患者に対して全面的な治療行為の中止を決定し、その具体的な行為として、点滴、フォーリーカテーテルを取り外し、更には、エアウエイを除去した。これらの行為が、前述した治療行為の中止の要件を満たすもであったか否かについて検討してみたい。
  治癒不可能な疾病である多発性骨髄症に悩まされていた本件患者は、点滴などの取り外しが行われた平成3年4月13日当時においては、被告人だけではなく同じ主治医であるF医師によってあと1日ないし2日の命であると診断されていた。また、その日より若干、前の日には、G教授及びH助教授によってあと数日の命であると診断されていた。加えて、事後ではあるが、鑑定人の鑑定結果によっても、4月13日の時点で残さ れた命はあと1日か2日であり、積極的な対症療法を行ったとしても4日か5日であると判断されていた。然るに、本件患者は死期が迫り、回復不可能な状態にあったと認定してよいものであり、そうであれば、患者の客観的な病気の状態としては、治療行為の中止が検討対象となり得る段階にあったといえる。
  治療行為の中止に関する患者の意思表示については、本件患者は正確な病名を知らされてはおらず、病状の進行や予後などに関しても医師から十分な説明を受けてはいなかった。したがって、患者は、自己の病状についての正確な認識もなかったわけであり、点滴などの取り外しが問題となった時点においては(その前にも)、自己が末期状態になっ たときに如何に治療行為を行ったらよいのかということについて明確な意思表示をしてはいなかった。そこで重要な問題となるのが、家族による意思表示、即ち、4月8日以降に治療の中止を要望し申し入れた家族の意思表示が、患者本人の意思として推定してよいのか否かである。
  本件患者の家族は、長年の間、患者と共に暮らしていた妻と長男である。それ故に、患者の性格、価値観、人生観などについては十分熟知しており、患者の意思を推定できる立場にあったことは是認できる。また、事実の経過で示した如く、4日前の4月9日 から家族は治療行為の中止を望んでそれを口に出しており、その後も治療の中止を申し入れ、点滴などの取り外しが行われた当日も妻と長男は治療の中止を強く要望していた ことから、一応は、患者の意思を推定できる立場にある家族が、患者の意思を推定できるような意思表示をしているようにもにも思われる。
  しかし乍ら、その家族の意思表示を内容を更に詳しく吟味してみると、家族自身も患者の病状、特に、治療行為の中止の大きな動機となる苦痛の性格や内容について十分に認識していたかが疑わしい。最終的に治療の中止を強く要望した4月13日当時の患者の状態は、既に意識も疼通反応もない状態であり、点滴やフォーリーカテーテルについて苦痛を感じる状態にはなかったにもかかわらず、その状態について家族は十分な情報 や知識も持っていなかったのであり、家族自体が患者の状態について正確な認識をして意思表示をしたというわけではなかった。それ故に、この家族の意思表示をもって患者の意思を推定するに十分とはいえない
  また一方、そうした家族の意思表示を判断する被告人側について考えてみると、前記 事実の経過にみられるように、被告人が患者の担当医となって患者本人や家族と接するようになったのは、ほんの2週間足らず前からに過ぎない。しかも、その後も、患者の治療に当たり家族と話し合った時間は、点滴などの取り外しを決めた当日を含めても極めて限られた時間であった。したがって、被告人が患者及び家族の両者との間で十分な意思の疎通を図り、お互いの意思を理解していたのかというのは疑問が残り、結局のところ、被告人は、家族の意思表示が患者の意思を推定させるに足りるものであるか否かについて判断できるだけの立場にはなかったものと認められる。したがって、家族の意思表示自体からも、それを判断する被告人の立場から考えても、未だ患者の推定的意思を十分に認定することはできなかったといえるのである。
  以上示した如く、治療行為の中止についての患者の明示の意思表示はもちろんのこと、 その推定的意思も認定できないわけであるから、点滴などの取り外しが治療行為の中止の対象として適正であったか否かを検討するまでもなく、それらの行為は法的許容要件を満たしているものではなかったと評価できる。
(2)<ホリゾン及びセレネースの注射について>
  ホリゾン及びセレネースの注射は、死期を早める可能性を存するが、これは、鼾やそ の原因である深い呼吸を除去・緩和するためになされた行為であり、外見的には一種の 間接的安楽死のようにもうかがえる。しかし乍ら、その除去・緩和の対象となったのは、 鼾あるいはそ原因である深い呼吸であり、客観的に除去・緩和の対象となるような肉体 的苦痛といえるものではない。また、右の注射は患者の長男の依頼を受けてなされた行 為であるが、治療行為中止から更に進んで間接的安楽死に該当する如き行為をするため には、改めて患者の意思の認定をする必要がある(推定的意思でもよい)。ところが、 長男の依頼自体が患者の状態について正確な認識を持ってなされたものではなく、被告 人も未だ家族の意思表示も判断し得る立場にいなかったわけであるから、治療行為の中 止の場合と同様に、長男の依頼から患者の推定的意思を認定することはできなかったと に違いない。
  それ故に、ホリゾン及びセレネースを注射した行為は、間接的安楽死行為に該当する 如き行為ではなかったと評価できるものである。
(3)<ワソラン及びKCLの注射について>
  ワソラン及びKCLの注射に関しては、除去・緩和の対象であった鼾あるいはその原因である荒い呼吸は、言うまでもなく耐え難い苦痛であるとは考えることはできない。 然るに、それらの除去・緩和を依頼され、それを受けて右注射を行った時点では、患者は意識を失い疼痛反応もなく何ら肉体的苦痛を覚える状態にはなかったのであるから、そもそも安楽死の前提となる除去・緩和されるべき肉体的苦痛はなかったのである。
  また、肉体的苦痛を除去するために医療上の他の手段が尽くされたとか、他に代替手段がなく死に致すしか方法がなかったともいえないのである。更に、積極的安楽死を行うに必要な患者本人の意思表示が欠けていたことも明白である。
  したがって、ワソラン及びKCLを注射して患者を死に致した行為は、積極的安楽死としての許容要件を満たすものではなかったといえる。
(4)<まとめ>
  本件起訴の対象となっているワソラン及びKCLを注射して患者を死に致した行為については、積極的安楽死として許容されるための重要な要件である肉体的苦痛及び患者の意思表示が欠けているので、それ自体、積極的安楽死として許容されるものではなく、違法性が肯定でき、また、それに至るまでの過程に於いて被告人が行った治療行為の中止やホリゾン及びセレネースの注射の行為が、医療上の行為として法的な許容要件を満たすものではなかった。
  したがって、末期状態にあった本件患者に対して被告人によってとられた一連の行為を含めて全体的に評価しても、本件起訴の対象となっているワソラン及びKCLを注射して患者を死に致した行為は、その違法性が少ないとか、末期患者に対する措置として実質的に違法性がないとはいえず、有責性が微弱とはいえず、可罰的違法性ないし実質的違法性あるいは有責性が欠けるということはない。

[第五 公訴棄却の主張について]
 弁護人は、被告人が公訴事実の行為に及んだのは、患者の長男の強い要請に基づくもので、それは教唆に該当するにもかかわわらず、検察官は、教唆者である長男は起訴することなく、被告人のみを起訴した。しかし、このような起訴は公正さを欠き違法というべきであるから、本件起訴については刑事訴訟法第337条第4号により公訴棄却を求める旨を主張する。
 なるほど、被告人の本件起訴の対象となっている行為が、長男の苦しそうな患者を早く死に致してほしいとの強い要請に基づいて行われたものであることは是認できる。しかし、たとえそれが教唆に当たるとしても、患者の家族である長男と医師である被告人との地位や立場の違い、教唆者と実行行為者との責任の相違などを考慮すると、検察官が被告人のみを起訴したことをもって、公正さを欠き違法であるとは到底いえない。したがって、弁護人の右主張は理由がない。 

注)
  (1) 「殺人被告事件」『判例時報』1530号28頁。