<資料 解説>
 自由か、平等か、決着がつかぬ永遠の課題……岩井 猛

 
 思うところあり40年前の……昭和42年2月号『陽気』(月刊誌)に載った私の小論「二大陣営の対立と天理教」を、ここに再び登場させて頂きます。
 昭和42年というと、東西冷戦があわや破滅の熱戦となりかけたキューバ危機から5年後、また中国では10年間も全国を吹き荒れたあの文化大革命が始まってまだ2年後の時期にあたります。ベトナムでは東西が激突している最中でした。
「二大陣営の対立」などといま聞けば、一方の旧ソ連は70年にわたる社会主義体制の壮大な実験の後に、すでに崩壊し、中国も土地・家・動産などの個人財産をいよいよ憲法で保証されることになった今日、なんでまたそんな古い話題を、と思われる方があるかもしれません。
 しかし、そうではないのです。自由と平等の問題は、いまだに決着がついていない新しい課題なのです。極端な話、どこか金もうけ口はないかと鵜の目鷹の目、世界中を荒らし回るハゲタカのヘッジファンド軍団を見れば、自由主義の行く手にも必ずしも世界の拍手が待っているわけでなさそうなことは誰の目にも明らかでしょう。
 しかし<自由>への渇望は人間の欲求の根底からのもので、これをなくすことは絶対に考えられません。人間誰しも、少しでも<自由>を束縛されそうな気配を察すると本能的に身構えることからも、その強さの程は察せられるところです。しかし、己れの<自由>の追求は、必ず他者も求めている<自由>とぶつかり合うし、また多数の弱者の求める<平等>を押しのけての追求は、そのうち必ず自爆テロなど捨て身の反撃を喰らう可能性があります。
 面白いことに、自由と平等の問題を一個人の一生について考えてみると、アバウトな分析ですが、20才頃までと60才以降は平等がなければ誰もやっていけないし、青年期・壮年期の40年間は誰しも自由を追求して、われとわが家族のために身心のうえで欲するものをできるだけ確保したいと願うでしょう。
 自由と平等の問題を象徴的に<私有>と<共有>の観念に……さらに自分のために、と人のために、と荒い分け方で分類しますと、人間どんな年齢の時でも、その生きている一瞬一瞬において、自分の目の前の物または時間を自分のために使おうか、人のために使おうか、と二者択一を迫られていることがわかります。
 そうです。人間の身体でも交感神経と副交感神経という相反する目的をもった二つの神経系統があって、これがアクセルとブレーキのごとくバランスをとり合いつつ心身の健康を維持できるように、世界においても自由と平等はどちらも必要であることが、いずれ判明するのではないでしょうか。
 せめて半分の時を自分のために、半分の時を他者の自由=平等のために使えるようになれば、ベストであるのかもしれません。
 小論中、天理教の教理に関する部分は、教内の発表ですので端折っています。この発表は教内でも多くの方の共鳴を得、「中外日報」という当時日刊の宗教新聞にもかなりの字数をさいて紹介されました。
                                     (平成19年3月10日)

  二大陣営の対立と天理教   岩井 猛

[『陽気』評壇より転載]
 核戦争の危機におののく今日、この小論は、かつて「一人で千人の匂いがけ」を目標に、お道の原水爆反対運動をした筆者が、昨年10月30日、天理教学研究会で発表したものに加筆して世に贈るものである。

   
 二大陣営の対決の実情
 

「二大陣営の対決」という言葉を耳にした時、まず頭に浮かぶことは、自由主義陣営と社会主義陣営が、地球の東と西にまるで一線を引いたようにはっきり二分されて対決している、といった感じ方があると思います。
 ところが、これは少し考えてみると誰でもすぐ気付くことですが、その実情はそう簡単ではなく、たとえば日本でも、日本は一応自由主義陣営に属しており、自由主義による法律と社会制度によって統制されておりますが、それは何も、日本の全国民が自由主義の考え方に賛成しているわけではありません。日本中の非常に多数の人々が、ソ連や中国のような社会機構を熱望し、しかも熱望しているだけでなく、そのための闘争を──つまり日本を社会主義化するための闘争を、日夜きびしく進めておるわけです。これは日本に限らず、他のどの自由主義国でも、多かれ少なかれ同じことであります。
 一方、中国・ソ連のような社会主義国でも、何も社会主義の国だからといって、みながみな社会主義の考え方をしているわけではなく、その中には自由主義的考え方をした人も大ぜいいるわけであって、そういう思想との闘いは、常に激しくすすめられている。
 つまり二大陣営の対決と申します実情は、表向きには世界がこう二つの地域にはっきり分かれて対決しておりますが、その心の面に立ち入っての対決の姿は、世界中のあらゆる地域で……あらゆる工場なり、農村なり、その他の職場で、また街頭で、まるで一対一の彼我入りみだれての流動した闘いの状況を呈していると解釈するのが妥当です。そしてそのことが、今日もっとも象徴的に現れているのが、南ベトナムであります。
 そして、このことを更におしつめて考えますと、世界中のすべての一人びとりの人間についても、一体どちらの主義・どちらの陣営についたらいいのか、あるいはその他に従うべき思想というものがあるならば、それは一体どこにあるのかという模索・選択に絶えず迫られているわけであって、そういう模索・選択の上に、あるいは明日の人類の存亡というものが賭(か)けられております以上、たとえば本教の布教の際にも、こういった問題が、むしろ一番大きな問題として日常もっともしばしば浮かび上がってこなければならないはずでありますのに、そういうことをあまり聞かないのは──一つには、事態がここまで迫っていても、一般の人びとは、つい目先の日常生活に追われ、こうした抽象的な問題をあまり深く考えようとしないこと、次には、こういう問題についていろんな立場から実際に関係している人たちは、まさか宗教がその解決策をもっているなどとは考えていないこと、そして次には、その天理教自体も、この問題について、これまであまり意欲的に取り組んできているようには思われないこと、従ってその標準的な解答の用意がまだできていないためによるのではないかと思います。
 
 二つの所有制度……「所有」とは?
 
 さて、二大陣営の対決は、二つの主義の対決の結果であり、そして、その二つの主義の対決は、物質の所有の仕方についての互いに矛盾した二つの考え方に帰因します。
 つまり、自由主義的私的所有を認めようとする考え方と、共同で所有しよう、全人民で所有しよう、という社会主義的所有の観念であります。
 そこで、この二つの所有観念を批判する際に、まずはっきりさせておかねばならぬことは、では一体「所有」とは何か。この言葉の厳密な定義をまずしておくことが大切です。たとえば、今ある人が、ある物質を所有するという時、その物質とその人間との間に一体どんな関係が存在するのでしょうか。そのためには、次の三つの条件が満足されねばならないとされています。
「第一に、その物質を自由に使用する権利を有すること、第二に、それを使用することにより得られた利益を自由に手に入れる権利を有すること、第三に、その物質を処分する権利を有すること」以上の三つです。
 ところで、これは何も私の考え出した定義ではなく、わが国の法律の条文に、「所有とは、自由にその物を使用・収益及び処分する権利を有すること」と、明らかに規定されているのです。
 つまり「所有」とは、その物質を自由に使用・収益及び処分をなしうる権利にほかならない。ここに権利と申すのは、その法律上の解釈では、その所有者が自らの権利を行使するのを、その当人以外の人間がさまたげてはならない義務となって現れていることは、だれしもご承知の通りであります。
 つまり「所有」とは、その物質と人間との関係を示す言葉ではなく、その物質をめぐって、その所有者と他の人間との権利・義務関係を規制する言葉であるにほかならない。そして、その権利とか義務とかいう観念は、当然のことながら、その後楯としての武力というものの助けを借りて、はじめてその法的強制力をもちうるものであります。
 
 自由主義的所有制度と原水爆
 
 さて、ここで少し、私の個人的な話になるのですが、私、もう何年も前から、次のような反省にしばしば引き込まれることがあるのです。(成程たしかに私は、この何年か、原水爆に反対する運動を続けてきた。でも一体、その私自身、果たしてほんとうに原水爆に反対しうる資格を備えているのだろうか。私の心のほんとうの奥底には、まだこの原水爆を必要としているような部分があるのではないだろうか……)実は私、ふつう平均よりはちょっと広い土地と家をもっています。くわしく申しますと、私一人でなく、親兄弟を含めて数人の名義で登記してあるのですが、とにかくそうしたものを持っている。ところで、その土地・家を手に入れてからもう15年になるのですが、その間、私共に無断でこの中へはいって来た者はかつて一人もいない。庭に一寸した空地があるのですが、「ほかに住むところがなくて困っている者が大ぜいいるのだから、一つこの空いたところへ家を建てさせてもらおう」といわれたことも、一度もない。これは、一体だれが私の土地・家を保護してくれていたせいかと、考えてゆきますと、当然のことながらこれは、日本が自由主義陣営に属していて、私がそういうものを所有することを認め、かつ、それを法で保護してくれている──日本の裁判所・警察・自衛隊が保証してくれているからだ、という自覚に導かれます。更にそれだけでも足りない。日本は、地理的に中国・ソ連にきわめて近いので、普通であればむしろすぐに、社会主義勢力に呑みこまれてしまうはずのところが、前の大戦の終結の際のいきさつから、アメリカの勢力圏内にはいっている。すると私が、今こうして自分の土地・家をもち、その中で他の人から安全に保護されて自分たちだけで住んでいられるのは、実は私がアメリカの武力に──あの恐ろしいアメリカの原水爆という兵器体系に、私の土地・家を守ってもらっているからではないか……。
 これは、何も私一人に限ったことではないでしょう。みかん山をもっている人も、工場を経営している人も、商店を営んでいる人も、だれでもみんな、こうしてなにがしかの物質を所有している人は、その所有権を、アメリカのあの恐るべき原水爆に守ってもらっていることになる。
 私たちのふつうの意識の中では、原水爆による今日の世界の危機というものは、実はただ大国の利己心より作り出されたものであって、私たち自身、何の関係も従って責任もないのだといった感じ方をしている人がほとんど大部分ではないかと思うのです。ところが、よくよく考えてみると、私たち一般の庶民が、毎日をほとんどそれにかかりきりになっているところのあの物質の追求──できるだけ多くの物質を自分のまわりにかき集めて、その所有権を確保し、拡大したいという気持ち、その気持ちこそが自動的に……本人が意識するとせざるとにかかわらず自動的に、あの恐ろしい武器──今日の世界に破滅の危機をもたらしつつあるところのあの恐るべき原水爆の存在を必要とし、可能にし、かつ存続させている真の原因なのではないでしょうか。そして、そのことをはっきり自覚することが、今日の世界を核戦争の危機より救う唯一の鍵であり、第一歩ではないかと思うのです。
 
 社会主義的所有制度と原水爆
 
 次に、社会主義的所有観念の批判にはいりますが、私は、社会主義的所有とか全人民所有とかいうこの共有の観念は、自由主義的私的所有=私有の観念の対立物として生じた観念であって、これを現在実施している国々が、種々のあやまりを犯しながらも得つつあるいろいろな体験は、きたるべき甘露台世界に必要なデータを不十分ながらも断片的に手に入れていると解釈してもよいと思う。だが、一方で、この共有という──共同所有という根本的な考え方については、はっきり批判せざるを得ない。
 なぜならば、一体全人民が全物質を所有するということは、実際上不可能であるからです。というのは、全人民といっても、つまるところは個々の一人ひとりの人間の集まりであり、その人間が国中・世界中にばらばらに散って暮らしている。一方、土地とか工場とか農村などの物質体系も、これまた国中・世界中にばらばらに分散している。私は先程、物質を所有するということは、その物質を使用し収益し処分する権利を有することであると申したが、今仮にこの国が、社会主義国家であると仮定しましょう。ここに、一つの土地と工場があるとします。この一つの土地と工場を実際に使用し収益し処分する者は、決して全人民ではなく、全人民の中のきわめて一部のそのまた一部の人間に限られているし、また限られざるを得ないではありませんか。それなら、この土地と工場を、ごく一部の少数の人間がはじめから私的に所有しているのと結局ほとんど同じ結果になります。それなのに、それ以外の人間を含めた全人民にとっても、この土地と工場を所有していることになる、などと解釈するのは、まるで空手形をもらって、それが価値あるものと信じこんで喜んでいるのと同じことになります。
 ソ連・中国の実際の記録をいろいろ集めてみても、この社会主義的所有制度を実施してみた結果、全人民の成員であるところの個人々々にとっては、もろもろの物質を使用し収益し処分することが、その社会主義の原則に反してほとんど意のままにならず、一方、一部の高級官僚のみが、あたかも私有しているのと同様に勝手にもろもろの物質を使用し収益し処分することができるといった事態がひんぴんと、ほとんど常習的に起こっているという事実は、そのことをはっきりと裏付けるものであります。
 またソ連では、昨年あたりから利潤という考え方を導入し、各企業単位に独立採算を期するために、一層大幅な経営の自由の権限を与えるに至ったのも、当然の成行きであります。
 つまり、物質の私有という観念が、物質の共有という観念によって絶えず脅かされざるを得ないと同様に、この共有という観念もまた私有という観念によって絶えず脅かされざるを得ないわけであります。
 そこで人類が、この物質の生産と分配に関する問題について、いや私有にすべきだ、いや共有にすべきだなどという、この「所有」という観念にとらわれている限り、人類は、その法的強制力である武力──原水爆から手を切ることは、絶対に不可能でありましょう。
 
 「世界最後の教」の登場
 

 ここにおいて、本教の「かしもの・かりもの」の理がどういう形で、この世界的規模での思想的混乱の舞台に登場するのか、それは改めて私からの説明の要もないと思います。
 人間と物質との関係──それを最も明らかにお教え下されているのが、この「かしもの・かりもの」の理であります。いや、それが単に教えとしてあるのみでなく、私たちは日常この肌でもって、一切の物質がある一つの目に見えぬところより出される指令に従って動かされていることを体験しております。
 今日、世界が思想的に二分して対決し、恐るべき一つの時代の終末というものさえ暗示されている時、正にその思想的対決の争点について、「世界最後の教」としてすでに百数十年以前より、この「かしもの・かりもの」の理を準備して下された親神様の深い思わくに、ただ驚きのほかはないのであります。
 今日の人類に残された道はただ一つ、軍備全廃か、核戦争か、その二つに一つしかありませぬ。その点については、世界の識者の意見は、もうほとんど一致しております。
 そして、そのどちらの道を選んだにしても、この世から武力というものが一切消え失せれば、それにつれて、私有という観念も共有という観念も──物質を所有することができるのだといった観念は、一切崩れ去るほかありませぬ。そしてその時には、土地・家・工場など一切の物質を、個人の所有物として確保することもできず、さりとて社会全体の──全人民の所有物として確保することもできず、ここにその一切の所有権は人間の手を離れて大自然の手に──かつて人類創造の時のままに親神の御手にもどることになりましょう。
 この<世界の危機>の問題に、もっと真剣に取り組む心さえあれば、お匂いがけ・おたすけの上にも、新しい視野と活動分野が展けてくるはずです。そして、そのことが、ひいては本教独自の原水爆反対運動となり、同時に、きたるべき甘露台世界建設への地ならしともなるでありましょう。   (完)

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