氏名

源朝長 みなもとのともなが
生没年 1144-1159年
職業 非蔵人→佐兵衛尉→従五位下 中宮少進
両親 父・源義朝(の二男) 母・修理大夫範兼の娘、または大膳大夫則兼の娘、または相模の武士・波多野義通の妹
兄弟 兄・源義平 弟・源頼朝/範頼/源義経など
配偶者
略歴  母は諸説あるが、波多野家の所領である相模国松田で育つ。やや成長してからは京の都に出仕して、非蔵人となる。保元元年(1156)には13歳で佐兵衛尉に任じられた。保元4年2月には従五位下の位を得て、中宮少進となり、中宮大夫進と称するようになった。しかしその年の12月に父・義朝と平清盛が衝突する平治の乱が起こり、兄・義平や弟・頼朝と共に出陣。先祖代々伝わる鎧を着て、兄によりそって立っていたという。義朝は後白河院と二条天皇の身柄を確保し、一度は清盛の優勢に立ったが、25日の暁に二人に逃げられ、26日には義朝追討の宣旨が出されてしまう。京のあちらこちらで平家と源氏が激突したが、ついには敗色が濃厚となり、義朝以下、朝長も東国へ向かうことになる。その途中、竜華越という場所で横河法師4〜500人に襲われ、左股に矢傷を受ける。馬のあぶみを踏みかねるほどの怪我で、美濃国青墓宿まではたどり着くが、歩行が困難になった為、足手まといにならないよう自害したとも、父・義朝に刺殺されたとも伝えられる。
死因  平治元年(西暦1159年。保元4年の4月に平治と改元した)12月29日、矢傷が元で歩行が困難になり、美濃国青墓宿(現・岐阜県大垣市青墓町)で自害したとも、父・義朝に刺殺されたとも伝わる。翌月2日という説も。
性格  16年という短い生涯であり、業績と言えるものは何も残っていない。育てられた相模の地は三歳上の異母兄・義平がいた鎌倉とも近く、様々な武士団が存在していたが、東国武士らしい荒々しい行動が伝えられる義平と比べ、13歳で京に上った朝長は猛々しい面が見られない。「平治物語」では「器量・ことがらゆふにやさしくおはしければ」と表現されているそうで、柔和な表情が思い浮かぶ。しかし運命は非情にも16歳の朝長を一族あげての戦いに駆り立て、退路の途上で矢傷を受けてしまう。この傷は重傷ではあったが、即命に関わるほどのものではなかったらしい。その証拠に、異母弟・頼朝が13歳という年齢もあって雪道で義朝一行にはぐれたのに対して、朝長は怪我を負いながらも義朝と一緒に青墓宿までたどり着いている。この青墓宿は東山道の宿駅で、宿の長老・大炊の姉は義朝の父・為義の妾だった。また義朝も大炊の娘・延寿を寵愛し、二人の間には十歳になる夜叉御前という娘までいたという。そういった縁で義朝一行はここに一旦落ち着いた。大体の書籍ではここまで来たところで朝長は歩行が困難になり、義朝に着いて行くことが出来なくなって自害。もしくは、父に頼んで殺してもらったとも、義朝が足手まといだという理由で殺したとも説明されている。しかし「平治物語」ではここに一つエピソードがあって、義朝は、長男・義平は山道を攻め上がれ、二男・朝長は信州へ下り、甲斐・信濃の源氏を連れて京へ上れ、自らは海道を攻め上ると言ったが、信濃へ向かった朝長は雪の中の行軍で傷が悪化し、戻ってきてしまった。義朝は「頼朝ならば幼くてもこうはあるまい」とがっかりして、ここにしばらく留まるように言う。しかし朝長は「ここにいて追手に生け捕られるよりは、父の手にかかって死にたい」と言い出し、これを聞いた義朝は「不覚の者と思ったが、それでこそ我が子」と言い、念仏を唱えさせて刺殺したという。なぜ朝長が戻ってきた時まだ義朝が同じ所にいたのかという疑問はあるが、「平治物語」はあくまで荒々しく強い義平と、武士としての強さはないが武門の子としての誇りは持っている朝長を対比的に描きたかったのではないだろうか。暴れん坊ぶりがあまりに凄い兄・義平と、嫡子として周囲の期待を受けている弟・頼朝の間にいた二男の唯一のエピソードとして、平治物語の作者が朝長の死出の旅に花を添えてくれたような、でも残る話がこれだけというのもあまりに淋しいような、複雑な所である。
肖像等
備考  墓は岐阜県大垣市青墓町・円興寺にある。
 謡曲(能)に平治の乱での朝長の戦いの様子と自害を描いた「朝長」がある。