転載厳禁
中国共産党の圧政に沈黙しない ラビア・カーディル

 突然起こった不審な交通事故
 
 政治亡命から約半年後の昨年11月1日、ホワイトハウス近くに月1500ドルで、小さいながらセキュリティのしっかりした個人事務所(注:約六畳ほどの広さ)を開きました。多くの在米ウイグル人たちは、決して経済的に恵まれた生活をしていません。それなのに、事務所を構えるとき、私のために一家族千ドル単位で寄付をして下さった。本当に感謝しています。
 自宅からオフィスまで、車で片道30〜40分かかるのですが、このような通勤距離はアメリカでは普通のようです。英語が流暢でアメリカを熟知している秘書のスレイヤが、片腕となってくれています。
ラビヤさんと娘アキダさん Rebiya kadeer & her daughter Akida photo Rafto Fondation

 交通事故にあったのは、事務所開きから約一ヶ月半後でした。事故現場は家のすぐ近くでした。時刻は、帰宅途中の夜7時頃。秘書が運転し私が助手席に座っていました。警察の調べによると、運転手はヒスパニック系の不法滞在者で、男の乗っていた車はマイクロバスのような大型バン。男は逃走中で、車は盗難車だったそうです。見通しが悪い道ではないのに、正面から衝突してきて、当たったのちにバックして、また衝突する行為を三度繰り返しました。三度目の衝突直前に、秘書も私も車から逃げ出しました。私たちの車は大破して使えなくなりました。スレイヤは軽傷ですみましたが、私は肋骨を折り、首の骨にひびが入る重傷を負い、まだ傷が癒えていません。
 暗殺未遂ではないかとの噂が広まっているようですが、憶測でものは言えません。アメリカの警察がちゃんと調べてくれていますので、その結果報告を待っています。

 交通事故からまだ2ヶ月余りですが、事務所に客人が絶えることがなく、忙しいです。医者には安静を言われているのですが、仕事をせずにはいられない。こうして命があるのは神様の思し召しだと思います。私は「東トルキスタン」の人々から何かを借りていて、それを返さなくてはならないように感じているのです。「新疆」では何千人というウイグル人が政治犯として刑務所に入っているのに、誰も(政府が)怖くて収容者の名を口にできない雰囲気がある。ところが、私が刑務所に入ったらウイグル社会全体で大騒ぎになった。逮捕されたときには、ウルムチの自治政府前で自然発生的な集会が起こり、570人が逮捕されたと聞いています。幸いにも武警は発砲しなかったけど、参加者は短くて3日間、長くて2週間拘留されたそうです。こうして私を支持してくれる人々のためにも、働き続けたいのです。

 
共産党が引き裂いた最初の結婚

 さて、時代を追って、私自身について語りましょう。
 中国政府発行のパスポートには1946年生まれと記していますが、正しくは1948年、アルタイ(阿爾泰)生まれです。なぜこの様な記述になったのか分りません。 生家は理髪店や銭湯や食堂や、ナンを売る小さな商店などを経営しており、豊かでもなく貧しくもない、普通の幸せな家庭だった。商いの規模は大きくは無かったけれど、父は堅実な商売をしていて、そんな父の手伝いをしながら育ったので、私は自然に商売のイロハを身に付けました。母はドッタル(注:ウイグル族の民族楽器)を奏で、歌や踊りが大好きな陽気な人だった。

  当時、アルタイではロシア人が多かったですが、漢族を見かけることは極ごく稀で、たまに漢族がいたら「キタイ(中国人)だ」と噂になったものです。山岳地帯に住むカザフ族と、麓に住むウイグル族との関係は良好で、互いに密な往来をしていました。
 アルタイのウイグルの家々は豊かで、私の家など他家に比べたら、豊かとは言えない部類だった。庭には犬を飼い、美しい木々や香りのよい花々が何種類も植えられ、裏の山からは鳥が飛んできて囀っていました。しかし、そんなアルタイの風景が一変したのは、この地が中華人民共和国の統治下になったときからです。

 1949年、中国共産党の軍隊がやってきて、ウイグル族、カザフ族問わずお金持ちの家の人々を逮捕しました。逮捕者は着の身着のまま大きなトラックに乗せられ、タリムの砂漠にある労働改造農場や、監獄へ送られていきました。私の家はそれほど金持ではなかったので、その時は難を逃れましたが、62年に再度、各家の調査が行なわれ、その時に「資本家」のレッテルを貼られ、家も庭も店も全てを没収され、家財道具もトラックに積まれてどこかに持って行かれてしまった。父はアルタイを離れたくなくて、こっそり一人で山に逃げていった。残された母と私と幼い弟妹たちは、トラックに乗せられ、タクラマカン砂漠に連れて行かれ、そこで置き去りにされました。

  砂漠地帯から大変な思いをして、アクスまで行きました。同地の師範学校で姉が先生をしていたので、そこに身を寄せようと考えたのです。それしか食べていく手段を思いつかなかった。しかし、姉には母や私を抱えて、皆をおなかいっぱい食べさせるほどの経済能力はなく、結局、私たちは路頭に迷うことになりました。母は指輪やピアスなどの装飾品から洋服に到るまで、全てを売り払いました。

 その時私は15歳で、アクスでは、はっと人目を引くほど美しかった。アクスの某銀行の科長が私を見初め、大家さんを経由して結婚の打診をしてきました。その男性や家族は、私たちの生活が苦しいことを熟知していて、嫁いでくれるなら、アクスに戸籍を持てるし、一家全員を養なうと約束すると、伝えてきました。その頃私は、本当は学校に行ってもっと勉強がしたかった。アルタイにいた頃、カザフ族の小中学校で学んだだけだったから。でも、家には食べる物はない。何カ所も職場を探したが、どこも雇ってくれない。母は慣れない生活に病気になり、泣いてばかり。妹や弟は幼い。「結婚したくない」と母に心を打ちあけたけれど、母は「考え直してくれないか」と苦しそうに言いました。その男性は私よりかなり年上で、27か28歳だった。悪い人ではなく、私たちの窮状をどうにかしてやりたいと思ったのでしょう。私は考えに考えて、お嫁に行くことを決意すると、その男性の母親から2キロの飴のプレゼントが届けられた。そうして私はその家に嫁ぎました。

  私たちがアクスで戸籍を持つと、父がアルタイからやって来て、母らと共にクチャ(庫車)へ移住しました。父はその地の理髪店で仕事を見つけましたが、母は相変わらずクチャにも馴染めず、アルタイでの生活を懐かしんで精神を病み、78年、57歳の時に胃癌で死にました。
 文化大革命の嵐がやって来た頃、夫はアクスの某銀行の支店長となっていました。共産党幹部であった彼の給料は70元。私たち夫婦に彼の母、子供は6人(長男・長女・次女・次男・三男・四男の順)に増えていました。これだけの大家族を養うには、少ない給与でした。私は家庭の主婦で、時間がありましたし手先が器用でしたから、女性下着に付けるレースの花など綺麗な刺繍細工をいっぱい作って、幹部の奥さん達にこっそり売っていました。

そうして一週間に30元、一ヶ月に120元を稼ぐようになりました。夫より多い稼ぎを得るようになったのです。稼ぎを生活費に充て、一家は肉が食べられるようになった。ところが、これを公商局や公安が知るところとなり、ある日、家宅捜索にやって来た……。その日、夫は会議に参加するため三日間の予定で出張に行ったのですが、どこから話を聞いたのか、その日のうちに帰宅しました。私は「不法に商売をした資本主義の走狗」と糾弾され、「このままなら夫も連座制で職も幹部の位も剥奪する」と共産党の指導者に通達された。その頃、夫を愛し、家族を大切に思っていた私は、惨めにも泣いてすがって「別れたくない」と夫に懇願した。でも彼は、「別れるしか生きていく道はない」と、私を突き放しました。

  六人の子はとりあえず彼の家に預けて、私は自活の道を探さなくてはならなくなった。漢族の言葉は分らない。学校は出ていない。住む家はない。人を頼って部屋を借りたものの、明日からどうやって生活したらよいのか、見当がつかなかった。

(その2へ) (TOP)

(HOME)

転載厳禁