2006.9.27記、2006.10.31改定

吉田松陰研究6
吉田松陰の熊本紀行

1.嘉永3年(1850)の旅(『西遊日記』より)
12月1日(陽暦1851年月日) 茂木より天草に渡り、夕方富岡に着き、この日は船に泊まる。
2日 富岡の古城を見学。天草の二重より島原半島のウエ村に渡る。(島原での行動は「吉田松陰島原での8日間」(http://www.geocities.jp/kohithugi/shyoin-03.htmで記載)
9日 島原から船で肥後の尾シマに渡り、高橋を経て、加藤清正公の廟ヨコテ八幡にお参りする。風呂屋で入浴。

日蓮宗寺院本妙寺の加藤清正公の御廟所。後山に昭和期の北村西望の彫刻清正像がある。 横手五郎神社。後の祠に横手五郎像が祭られている。

10日 池部弥一郎※と会い、終日話しをする。夜、荘村右兵衛が訪れ、萩藩に遊学したい旨の希望を述べる。
※池辺啓太(1798〜1868)のこと。熊本藩士。高島秋帆に砲術を学ぶ。
11日 池部弥一郎・荘村右兵衛を訪ねた。宮部鼎蔵※を訪ね、終日話した。
※熊本藩士。1820〜64年。山鹿流兵学を学び、松陰と東北旅行をする。池田屋の変で新撰組に襲われ自刃。

熊本市小峰墓地の宮部家の墓地。中央が宮部鼎蔵の墓碑。 (右より)元冶元年甲子六月五日 宮部鼎蔵君墓 室中尾氏 明治六年癸酉五月廿六日

12日 池部を訪れる。宮部が来訪し、一緒に荘村を訪れ、深夜まで話し込む。一人で清正公の廟にお参りする。
13日 池部が訪れる。熊本を旅立つ。九州一といわれる熊本城の大きさに驚く。植木・山鹿を経て、コエイト※で宿をとる。
※山鹿から柳川に至る街道筋にあり、江戸時代の村名及び大字である肥猪(こえい、現在の南関町)のことか?
14日 筑後国原ノ町という宿駅を通り、柳川に泊まる。(病のため、20日まで柳川に滞在)
2.嘉永6年(1853)の旅(『長崎紀行』より)
※長崎紀行は松陰がプチャーチンを追って江戸を9月18日に発ち、瀬戸内海を経て、長崎を訪れた時の日記。
10月16日(陽暦年月日) 鶴崎(大分市)に着いた。夜、毛利を訪れた。
※鶴崎は熊本藩領。毛利とは、毛利空桑(1797〜1884)のことで、優れた儒学者・教育者で、尊王論者でもあった。
17日 鶴崎を発って古武田に泊まった。
18日 坂梨(阿蘇市一ノ宮町)に泊まる。 
19日 熊本に着き、坪井に泊まる。
20日 宮部鼎蔵が来訪。共に横井平四郎※を訪ねる。荻角兵衛と会う。夜宮部を訪ねる。■宿?
※横井小楠(1809〜69)のこと。熊本改革派の実学党を指導。後越前藩主松平慶永のブレーンとして活躍。開国通商・殖産興業による富国強兵を提唱。松陰はもとより、高杉晋作・勝海舟・坂本竜馬とも交流があった。

熊本市沼山津の四時軒よりの眺望。近くを秋津川が流れている。四時軒は小楠の安政2年(1855)以降の住居である。 四時軒の一室。坂本竜馬は元治元年(1864)と翌年にかけて3度四時軒を訪れている。松陰が小楠を訪れたのは相撲町の住居小楠堂時代。 


21日 矢島源助・荘村助右衛門、国友半右衛門、今村乙五郎、丸山運介、佐々淳二郎、湯地丈右衛門、村上鹿之助が来訪。
22日 宮部と共に横井を訪ね、終日対話する。夜村上を訪ねる。沢村義右衛門・神足十郎助・村上作之充・原田作介・今村とも会う((村上宅か?)。
23日 横井久右衛門・吉村嘉膳太・木村彦四郎・広田久右衛門・岩佐善左衛門・森崎平介・丸山・佐々・今村が訪れる。夜、横井が訪れる。
24日 丸山・佐々・今村・森崎・野口直之充が訪れる。池辺弥一郎、国友半右衛門を訪ねる。半右衛門は病気のため会わず。
25日 松田・神足・吉村・村上・今村が訪れる。午後熊本を発ち、松田が高橋まで見送りに来る。尾島に着いたが舟はこの日は出なかった。
26日 明け方舟が出て、島原に着いた。加来伝兵衛・桐原作右衛門・伴九左衛門も同じ舟に乗った。守山(旧吾妻町現在雲仙市)に泊まった。
※郷土史家渋江鉄郎氏はその著『島原ばなし』(昭和50年刊)のなかで、高島秋帆の高弟で長州藩ともつながりのある中島名左衛門の実父中村佐左衛門(当時守山村の庄屋)か、その実兄の中村観水を訪ねた可能性について言及している。

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