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吉田松陰研究B

吉田松陰の島原での8日間
嘉永3年12月2日@
前日長崎の茂木から天草の富岡に着き、その日は船で一夜を明かしたが、この日上陸して江間久右エ門を訪ねた。富岡の古城を見学した。富岡から四里の道を歩いて二重Aに行った。天草は島中多く砂糖黍を植えている。また、馬が多くいるが、少々小さい。二重より口之津に渡海しようとして船を借りようとしたが、地元民が怪しんで寄り集まってきて、どこの国の者かとか、やってきた目的を尋ねられたりした。たまたま、ウエ村Bに帰る船があり、二重からウエ村へ七里の船旅で、黄昏どきに着船した。ウエ村の農家に投宿した。この日は昼飯も夜飯も甘藷を食した。船に乗ってからは小雨が降った。
@陽暦では1851年1月3日。A天草郡五和町二江。現在近くの鬼池〜口之津間にフェリーが往来している。B大江(南有馬町)のことか。地元では大江のことをウウエと発音するという。(地元の漁民や郷土史家談)

大江港。原城のすぐ近くにある。有明海を挟んで熊本・天草に接する。 大江港と大江の集落。この写真では見えないが八幡神社が右手にある。

12月3日
晴れ。朝ご飯は甘藷と粟を合わせ炊いたものを食べた。投宿した家の老父に頼んで、原城@を巡検した。本丸、二の丸、三の丸など歴然としていて、今は皆畑になっている。孤松の下に従五位内膳正板倉重昌Aの碑がある。整字林 直民甫撰とある。終わりに延宝九年辛酉九月と記している。城を降りて向かうに鐘懸松と云うところがある。そこから島原城下に至るまで七里ある。城下に行き、鉄砲町の宮川源之助Bを訪ねた。×××町Cに宿した。国法により、旅人は城中に入ることはできなかった。日暮れは地元民でもはいることは出来なかった。全体として島原の地は温嶽を始め高山峻嶺多く、一方では平坦の地も多い。
@有馬貴純が築城。明応5年(1496年)竣工。松倉重政の島原城築城にともない廃城となる。A三河深溝領主。島原の乱の幕府軍の指導者でこの戦いで戦死。B『明細帳』から察すると、前記の宮川度右衛門か、その後家督を継ぎ度右衛門となる人物のいずれか。ともに一時期源之助名を名乗った。後者ならば、嘉永3年時中小姓の役職にある。C吉田松陰全集7卷「西遊日記」に記載なし。松陰の自筆日記自身記載していないものと思われる。

原城三の丸。板倉重昌の碑がある。 原城本丸跡より口之津・天草方面を眺望。
手前は大江の集落。
原城本丸に建立された天草四郎像。昭和48年北村声望制作。 大江の八幡神社の島原の乱供養塔。乱後10年目の慶安元年(1648)時の郡職鈴木三郎九郎重成が建立。

12月4日
晴れ。宮川度右衛門@を訪ねた。城中の邸宅はどのようにしているか、見ることはできなかったが、城外の市中や諸士の家は多く茅屋である。宮川氏は「直発砲でないので、功をなすことはない。それで近頃葛論碩Aを造る。十二ポンドなるもの重さ三百二十貫目である」と言った。甲州流真田派の兵家生駒勝助Bが訪ねてきた。二か条の質問をした。一つは、材を学ぶべきか、二つ目は、弓兵の用は如何というものであった。夜、宮川氏を訪れた。夜間割竹を曳いていくのは、長崎のようであった。夜十時を過ぎれば武士も市上に入ることはできなかった。その時刻になると門が閉められた。
@島原藩の『明細帳』その他から、藩の砲術指南役を勤めた宮川度右衛門守興(寛政6〜安政6)に比定される。嘉永3年時は56歳で、大納戸格の役職にあり、切米14石二人扶持。江東寺境内に守興の功績を称える碑文がある。 A(調査中) B『明細帳』では、嘉永3年時大納戸の役職にあり、十人扶持。

島原城は元和から寛永年間にかけて、松倉重政が築造。明治維新後解体。昭和39年天守閣復元。

12月5日
曇り。夕方から雨。豊嶋喜左衛門@が訪れた。一緒に護国院三十番神Aを拝んだ。夜は小雨。豊嶋は医術を兼ねている。
@『明細帳』にある豊島丈太(喜左衛門)か、その実弟の豊島隻五郎(喜左衛門)。ともに馬廻百石。A元文3年(1738)藩主松平忠みが造立を発願した着色の木造。

護国寺
日蓮宗寺院。

12月6日
曇り。あるいは雨。宮川氏を訪れた。某氏から太閤真顕記六編を借りた。巻一は武田勝頼が新府中を退去の条に始まる。五冊とも読み上げた。島原の新法によれば、毎年硝三百貫目宛並びに銅鉄等囲い置くという。口之津千々石の辺に台場がある。城下などは早崎の瀬戸があるので守備を緩めているという。夜豊嶋氏が訪れた。

12月7日
晴れ。温泉嶽に登る。一老父に道案内を頼み、同行してもらった。老翁の話では、眉山が崩れたのは今から五十九年前で、其の時海が溢れて幾万人と亡くなった。眉山の麓三十三四間四方程、石を築いて之を囲んでいる。老翁の言によれば、来春犬追物があるからだろうという。嶽に登れば、寒気十倍し、雪花飄々としている。寺があり、一乗院という。小地獄にいき、入湯した。この地では多く豆腐を造る。往復十里、帰りついた時は日はすっかり暮れていた。

小地獄温泉館 古くからこの地に共同浴場が
あった。

12月8日
晴れ。出帆しょうとしたが、雨のため一日延期した。

12月9日
晴れ。島原城下から長崎までは十六里ある。大村までは十四里ある。今日出帆する。港口の形勢は林の良い波止場である。私の乗る船が出発する舟津は、この波止場より少し北に行ったところである。城は海に近いけれども、直接海に面している訳ではない。島原の地形は温泉嶽に登り、また海に船を浮かべ、仰ぎみて鳥瞰すると、全体が一つの山で平坦の地はその脚と言える。島原から海上を船で七里で肥後の尾島に着いた。

現在の外港が出来る前のフェリー乗り場付近より撮影。松陰が熊本へ船出した舟津が現在の島原駅から旧フェリー乗り場付近までのどの港口かは特定しがたい。 舟津は現在の町名でいえば、湊町・湊新地町・元船津町・津町・有馬船津町のいずれかということだろうか。

        

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