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長崎歴史散歩B
     県立長崎図書館初代館長永山時英

 6年前に県立長崎図書館に勤務して、図書館の歴史を学ぶ中で、初代館長永山時英の偉大さを知り、3年前に本館が80周年を迎えた時、「初代館長永山時英と県立図書館」というテーマで記念展示を行った。より多くの人に永山時英の業績と人となりを紹介したいと思いながら、怠慢と力不足で今日まで来てしまった。今年2月6日永山時英の61回目の命日を迎えたのを機にこの小文を書いている。
 県立長崎図書館は明治45年(1912)新橋町(現在諏訪町の長崎市立中央保育園所在地)に設立された。大正4年(1915)現在の地(立山1丁目、県立美術博物館と共に立山奉行所の跡)に交親館(元県会議院兼迎賓館)を改築したのを契機に永山時英が初代館長として迎えられた。以後昭和10年(1935)亡くなるまで20年間館長を務め、県立図書館の発展に尽くした。彼は慶応3年(1867)鹿児島市に生まれ、明治28年(1895)帝国大学史学科を卒業し、明治35年鹿児島県川内中学校校長、明治40年第七高等学校造士館教授を経て、県立長崎図書館長に就任した。
 永山時英は近世長崎の歴史的特異性に着目し、世界史の中の長崎という視点から、キリシタン史料・対外貿易史料の収集等特色ある図書館作りに努めた。永山時英自ら当時の新聞に「我が長崎は過去三百年に亙りて光輝ある歴史を持って居る関係上、長崎に来遊する程の人は必ず長崎図書館には何か貴重な対外史料が所蔵せらるるものと期待して居ることであるから余は図書館長として就職の当初からこの点に於いては何か特色ある図書館にしたいものと考えてきた」(『東洋日の出新聞』大正13年1月20日)と語っている。史料収集に際し、浜田彪(長崎三菱造船所長)・山田吉太郎(山田屋商店代表)・藤木喜平(藤木博英社長)等地元の財界の有力者の資金面での協力もあった。長崎奉行所関係の古文書(大正8年寄託、昭和5年移管)や諌早家の古文書(大正9年寄託)が本館に寄託または移管されたのは、いずれも永山時英館長時代であった。また、日本図書館協会の理事を務め、日本の図書館活動の発展に寄与した。国民教育における図書館の役割について、「学校と図書館は国民教育の両翼であって、その一を偏廃偏重するに於いては国民教育は失敗に終わる外はない。米国では国民教育は教会を底辺とし、学校と図書館とを他の二辺とする二等辺三角形を画くにあらざればその目的を達すべきものではないといふことが与論になっている。」(『長崎日日新聞』昭和3年10月29日)と述べている。
 また、長崎史学界の重鎮として、古賀十二郎・武藤長蔵と共に、長崎学の三羽烏と称された。古賀十二郎は『丸山遊女と唐紅毛人』(没後昭和44年刊)『長崎洋学史』(昭和41〜43年刊)等の著者で、自らの財産を投じ長崎の歴史研究に一生を捧げた民間の史家である。昭和45年「古賀十二郎先生を賛える会」により県立長崎図書館(正門よりこども室側)に記念碑が建立された。武藤長蔵は長崎高等商業学校の教授で『日英交通史之研究』(昭和12年刊)という大著がある。
   永山時英の墓より眺望する長崎の街と港
長崎学の三羽烏。向かって左端永山時英、二人目古賀十二郎、右から二人目武藤長藏。    勧善寺の永山時英の墓

永山時英は長崎史談会の顧問として、その創立・発展に尽くし、その機関誌『長崎談叢』に多くの論文を寄せた。昭和3〜9年にかけて発行された1〜14輯のうち、掲載がないのは、13輯だけという驚くべき健筆ぶりである。また、『対外史料美術大観』(大正7年刊、翌年天皇・皇后両陛下、皇太子殿下に献上した)や『吉利支丹史料集』(大正15年刊)等の大著を著した。大正9年4月2日昭和天皇が皇太子時代に来館され、永山時英は展示史料の説明をしたが、翌日も御召艦に佐世保まで同行を請われ、幕府時代の長崎防備等につき御説明申し上げたという(『長崎日々新聞』昭和3年11月10日)。現在県立長崎図書館の玄関前の池の横の植え込みの一本の樅の木はこの時植樹されたものである。
 当時の皇太子(昭和天皇)により
 植樹された玄関前の樅の木
 現在の県立長崎図書館。
 昭和35年建築。43年改築。

 広い視野と深い学識、幅広い教養をもとに、中央・地方の文化人や各界の名士と広く交わり、長崎の歴史と文化を世界に紹介した。その功績に対し、オランダから勲章、ローマ法王からメダルを授与されたという(武藤長蔵談『長崎新聞』昭和10年2月7日)。また、長崎美術協会、長崎書道会、報徳会等の中心メンバーであり、加えて、地元の言論界のオピニオン・リーダーでもあり、社会教育の発展に寄与した。『東洋日の出新聞』や『長崎新聞』など当時の郷土の新聞だけでも、私のチエツクしたところでは50回以上の論稿を寄せている。これらは、80周年記念展示の時作成した『永山時英関係新聞記事』の新聞スクラップにより、一覧できる。
 永山時英は遺言により、長崎の港が見える丘に葬られることを希望し、観善寺にその墓所がある。墓碑には「成如院釋教林時英居士」の院号が側面に刻まれている。異郷の人でありながら、こよなく長崎を愛した彼は長崎の土となり、今でも長崎の歴史と文化の行く末を見守っている。
    (1997年10月 長崎歴史文化協会 「ながさきの空」 第9号 掲載)

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