もりさけてんTOP > 北陸ローカルバス探見隊 > 加賀地区 > 尾小屋線

尾小屋線| おごや線 小松バス
 OGOYA LINE
 *このページは非公式ファンサイトです

小松駅〜沖〜打越〜西軽海/八幡温泉〜尾小屋

最終修正:2017.08.30 (22R)

 622。
 小松市民病院に停車する尾小屋ゆき

●かつての鉱山街へ走る路線

 ・ 系 統
 ・ 歴 史
 ・ 小ネタ
 ・ 乗車のヒント
 ・ 参考文献
 ・ 停留所一覧

 小松バスの前身であった「尾小屋鉄道」の鉄道廃止に伴う代替バス路線で、会社としての小松バス(株)の始祖ともいえる路線です。コースの後半は郷谷川に沿った国道416号線を走り、次第に山深いところへ分け入っていきます。

 最盛期には年間2,000トンを超える銅を産出していたという尾小屋鉱山も、戦後は次第に衰えを見せ、昭和46年(71年)に全面閉山。珍しい軽便鉄道(レールの幅の狭い鉄道)として全国的に有名だったという尾小屋鉄道線も、鉱山の後を追うようにして昭和52年(77年)3月20日に廃止。その後、同社は社名を「小松バス(株)」と改め、いまに至っているというわけです。

 全国から鉱山作業員が集まり、映画館まである鉱山町として賑わったという尾小屋ですが、現在は廃屋が目立ち、静まりかえっています。現在の運行本数は尾小屋までが1日3往復、手前の金平口折り返し便が1往復というダイヤで、本数は極めて少ない状況です。

右の窓を見つめていると、左は見えません。
左を見つめていると、右はまた……。


[▼]系 統

              市 佐
              立 々
              高 木 軽海団地前
┌◎小松駅   打 若 八 校 ○┐   ┌○─┐
|       越 杉 幡 前/ |希望 |  |
└─○─○─○─○─○─○─○  ○ヶ丘 |  |
  日 沖 小     ・    |   ○西軽海
  の   松      ・   └─○─┘  |
  出   工       ・   西軽海町  |
  町   業        ・  3丁目   |
      高     八幡温泉○       |
      校          ・・・・○──┴○千松閣前
      前   やわたメディカルセンター    \
                         花坂○
                           |
                        西大野○
                           |
                     金野小学校前○
                          /:
                      金野町○ ◎金平口
                          \:
                         金平○
                           |
                         不動○
                           |
                         出村○
                           |
                         布橋○
                           |
                         塩原○
                           |
                        波佐羅○
                           |
                        観音下○
                           |
                         岩上○
                           |
                        二ツ屋○
                           |
                         長原○
                           |
                        尾小屋◎

 尾小屋ゆきのほか、金平口どまりの便が存在し、この便のみ本来のルートである八幡温泉経由で運行。また金野町の新道上に位置する金平口自体も、この金平口ゆきのみが経由する経路となっています。

 やわたメディカルセンターは八幡温泉を経由しないメインルートの便も立ち寄りの形で経由します。


 △画面のトップへ戻る


[▼]歴 史

 ・ 初代尾小屋線(五国寺線)の歴史
 ・ 尾小屋線の歴史
 ・ (廃止)尾小屋鉄道線について

 ・ 初代尾小屋線(五国寺線)の歴史

 尾小屋鉄道線が現役の時代にも、小松駅〜尾小屋間を走る尾鉄バスの路線は存在していたようです。昭和25年(50年)12月20日に一般乗合旅客自動車運送業の免許が公布されています。戦後の燃料不足のなか、尾小屋鉄道線は急勾配のため石炭の消費量が多く、蒸気機関車による増発が困難なため、バスを併用することで輸送力強化を狙ったものだったようです。

 「国立公文書館デジタルアーカイブ」にて公開されているこのときの申請文書によれば、便数は小松駅〜尾小屋間4往復、小松駅〜西大野間4往復で、停留所は小松駅前、新小松駅、沖、打越、若杉、八幡、佐々木、軽海、正蓮寺、五国寺、西大野駅、土合、六橋、金平、布橋、塩原、波佐羅、観音下、岩上、二ツ屋、長原、尾小屋駅となっていたようです。現在の尾小屋線とは異なるルートとなっており、軽海からは梯川に沿って県道165号・金平寺井線を南下するコース取りだったようですね。

 しかし、以前小松バスさんの公式サイト内にあった「沿革」のページにあった記述によると、バスが開業したのは昭和26年(51年)7月26日で、運行区間は小松駅前〜岩上間とありました。寺田裕一氏の「尾小屋鉄道」(ネコ・パブリッシング)でも同様の記述があり、「西尾村史」にも同様に岩上からのバスを昭和26年(51年)7月に開業というように記述されていました。免許は得たものの、実際には小松駅〜岩上間のみの運行としていたのでしょうか? 

 「国立公文書館デジタルアーカイブ」で公開されている麦口線の開業に関係する申請文書には小松駅〜尾小屋間の三角運賃表が掲載されていますが、これによれば昭和27年(52年)時点では、昭和25年(50年)の申請時には「新小松駅」と称されていた停留所が「土居原」という名称に変わっており、また八幡〜佐々木間に「帝人前」、金平〜布橋間に「不動」の各停留所が新設されている様子が分かります。

 昭和34年(59年)6月に発行された「全国バス路線便覧」によると、この時点での運行系統と本数は、小松駅〜岩上間が2往復、小松駅〜土合間が1往復と記載されていました。やはり岩上までの運行となっていたようです。

 その後、小松バスさんの公式サイト内にあった「沿革」のページによれば、昭和38年(63年)6月22日に「尾小屋」まで延伸されたとあります。公式の見解でもやはり、このとき長原〜尾小屋間に初めてバスが走ったということになっています。

 昭和39年(64年)7月に発行された「全国バス路線便覧」によれば、この時点では小松駅〜尾小屋間で2往復と記載されていました。

 しかし、遅くとも昭和44年(69年)頃までには小松駅〜尾小屋間のバスは小松駅〜西大野駅間の「五国寺線」として縮小されており、この時点ではすでに尾小屋への定期運行はされていなかった模様です。鉄道線で充分利用客を運びきれるようになったことと、鉄道線への集約という意味合いもあったのでしょうか。

 昭和44年(69年)8月16日の北國新聞朝刊には「尾小屋鉄道 バス二路線の廃止を表明」という記事があり、五国寺線の廃止表明が明らかになったことが報じられています。この時点の五国寺線は本数が1日2往復。平均乗車密度は3.0人という数字だったようです。

 記事には、『五国寺線の軽海―西大野間は保育所のこどもたちだけが客といったぐあい。このため同社では「走るほど赤字で、採算が持てない」として早期の廃止を望んでいるもの』との記述がありました。しかし、「五国寺線」が実際に廃止されたのがいつ頃だったのかは不明です。

 昭和46年(71年)1月5日には小松絹化繊織物団地協組からの要望により、繊維問屋団地として発展する「糸町」への乗り入れが開始されていますが、それを報じる北國新聞の記事によると、糸町への一番バスは「糸町経由西大野ゆき」だったそうです。ということは、少なくともこの時点にはまだ路線が残っており、また麦口線だけでなく五国寺線にも糸町経由が存在していたということになりそうです。


 △画面のトップへ戻る


 ・ 尾小屋線の歴史

 一方、尾小屋鉄道線(新小松〜尾小屋)は昭和52年(77年)3月19日を最後に廃止。翌3月20日より、小松駅〜尾小屋間8往復、小松駅〜岩上間4往復の鉄道代替バスが発足しています。これが現在に続く「尾小屋線」です。

 代替路線用の車両にはふそう製の大型バス(MP117)が新製されたようですが、このバスは車内に巻き取り式「次とまります」表示灯が装着されるなど、北鉄に似た仕様となっていたそうです。

 鉄道廃止の3ヶ月後、昭和52年(77年)6月24日に尾小屋鉄道(株)は「小松バス(株)」と社名を変更し、現在に続く「小松バス尾小屋線」となりました。

 運行当初は全便が八幡より「八幡温泉」を経由して花坂へと向かっていたものと思われますが、昭和61年(86年)11月21日に加賀産業道路の軽海西交差点〜八幡温泉東交差点間が開通しており、これ以降のいずれかの時期に佐々木、軽海団地前経由の経路が開設され、いつしかこちらがメインルートの座に取って代わることとなります。

 なお、少なくとも平成2年(90年)までには「帝人前」停留所が「市立女子高校前」と改称されています。

 平成8年(96年)4月1日には小松市立女子高等学校の男女共学化と校名の変更が行われており、この頃に「市立女子高校前」停留所も「市立高校前」と改称されているものと思われます。

 国道416号線は各所で改修が行われていますが、旧道区間に停留所がある場合も多く、新道が開通しても知らぬ顔で旧道に入るシーンが多数見られます。しかし、平成16年(04年)9月に開通した尾小屋トンネルにおいては、旧道区間に停留所がないことから新道へ経路変更が行われ、川に沿った狭い崖沿いの道が姿を消しています。

 尾小屋。

 平成21年(09年)4月1日より、八幡温泉を経由しない便も含め、全便が「やわたメディカルセンター」へ乗り入れるようになりました。また月〜金のみ小松市民病院発着として延伸されるようになり、通院にも便利な路線となっています。

 平成21年(09年)12月1日からは、それまで佐々木〜軽海団地前間を直通としていた軽海団地前経由便が希望ヶ丘、西軽海へ乗り入れるようになり、小松商業高校への通学の利便性が高められました。

 平成24年(12年)12月1日には希望ヶ丘〜西軽海間の西軽海団地内に「西軽海町3丁目」停留所が新設されています。


 △画面のトップへ戻る

 + + + + +

 ・ (廃止)尾小屋鉄道線について

 小松バス(株)の前身である尾小屋鉄道(株)が手掛けていた鉄道線は、国鉄小松駅に隣接していた「新小松駅」(現在の東口市営駐車場の位置)から鉱山の町「尾小屋」を結んでいた軽便鉄道(レールの幅が762mmと狭いもの)で、もとは尾小屋鉱山の鉱石を運搬するための産業鉄道として建設されたものといいます。

◎新小松
|
|
└─○─○
  西 吉\
  吉 竹 ○遊園地前
  竹    \
        ○花坂
        |
     西大野○
        |
    大杉谷口○
        |
     金野町○
         \
        金平○
          |
         沢○
           \
          塩原○
             \
           波佐羅○
              |
           観音下○
              |
              |
           倉谷口○
              |
            長原○
              |
           尾小屋◎

 この尾小屋鉄道線は大正8年(1919年)11月26日、尾小屋鉱山の鉱山長だった正田順太郎氏による個人経営の軽便鉄道として、尾小屋〜五国寺(のちの西大野)間で営業を開始。大正9年(1920年)5月10日に小松まで延伸され、尾小屋〜新小松間が全線開通となっています。

 この時点の駅は新小松、吉竹、花坂、五国寺(ごこうじ)、六橋(ろっきょう)、金平(かなひら)、沢、波佐羅(はさら)、観音下(かながそ)、倉谷口、尾小屋となっていたようです。

 全線開通後、大正9年(1920年)6月11日には尾小屋鉱山を経営していた合名会社横山鉱業部へ営業権が譲渡され、引き続き同鉱業部が直営の鉄道線として経営していたようです。

 大正14年(1925年)4月発行の「鉄道省運輸局編纂汽車時間表」によれば、この当時の尾小屋鉄道の旅客列車は新小松〜尾小屋間5往復の運行となっていたようです。

 その後、昭和4年(29年)6月22日に横山鉱業部の子会社として尾小屋鉄道(株)が設立され、同年7月2日より独立した鉄道会社としての歩みを開始しています。これは横山鉱業部の経営不振によるものだったようですが、その後、同社が鉱業大手の「日本鉱業(株)」に吸収されたことにより、尾小屋鉄道(株)のほうも昭和11年(36年)7月より同社の系列会社となっています。

 戦後、遅くとも昭和25年(50年)頃までには「五国寺」駅が「西大野」と改称されていた模様です(前掲したバス路線の申請書類に「西大野駅」という停留所名が見受けられるためです)。

 この時代には旅客需要の増加にも対応され始めたようで、昭和29年(54年)9月5日に「西吉竹」「大杉谷口」「長原」の各駅が新設されています。

 このうち「長原」は昭和15年(40年)から仮乗降場として使用されていたものを正式に停留所として昇格させたものだったようです。また、「大杉谷口」については「金野乃郷土史」によれば昭和30年(55年)に金野小学校開校に際して設けられたという記述もありました。

 寺田裕一氏の「尾小屋鉄道」(ネコ・パブリッシング)によると、昭和33年(58年)10月12日には吉竹〜花坂間に「遊園地前」駅が新設されているようです。ここは小松市が遊園地の建設を計画していた場所だそうで、先行投資として駅を開設したものだったようですが、計画は立ち消えとなり、駅のみが忘れられたように残る場所だった模様です。

 同書で寺田氏は、
『駅勢人口はゼロで、ホームに待合室はなかった。駅名標はあったが、列車通過時刻の記載はなく、一般の人が利用できる代物ではなかった』
 と述懐されていますので、駅といってもほとんど廃駅も同然の、いまでいう“秘境駅”のような存在として一生を終えた場所だったものと想像されます。

 さらに同書によれば昭和36年(61年)9月1日には沢〜波佐羅間に「塩原」駅が新設されているようで、これが尾小屋鉄道で最後の停留所新設ということになります。

 尾小屋鉄道の最も華やかな時代は、昭和25年(50年)〜昭和35年(65年)頃だったそうです。戦前にはわずか3両しか在籍していなかった客車が、戦後の旅客増によって10両体制となり、1つの列車に貨車と客車が呉越同舟で連結されているという「混合列車」も多数運行されていたといいます。

 また終点の尾小屋は全国から集まった鉱山従事者とその家族で人口が5,000人にまで上る鉱山町となり、学校はもちろんのこと、病院、郵便局、派出所(交番)、さらには映画館まであったといいます。鉱山の栄華とともに街と鉄道はあったのでしょう。そしてまた、鉱山の衰退とともに昭和30年代後半以降、町は急速に輝きを失っていきます。

 昭和37年(62年)3月31日、尾小屋鉱山は本山を閉鎖。精錬所も廃止され、残るは金野地区の大谷という場所にあったという支山のみの稼働となっています。

 尾小屋鉄道(株)が名鉄グループの一員となるのは昭和37年(62年)9月10日のことです。尾小屋鉱山を経営していた日本鉱業(株)が産銅事業の不振により鉄道線の営業に見切りをつけ、当時全国で経営に行き詰った鉄道会社の再生を手掛けていた名古屋鉄道(株)への経営譲渡が働きかけられたという経緯があるようです。

 鉱山の操業自体についても、昭和37年(62年)10月1日に北陸鉱山(株)という会社が発足し、この会社に事業を委譲する形で日本鉱業(株)は尾小屋から全面撤退しています。なお、その後の同社は「日鉱金属(株)」を経て現在は「JX日鉱日石金属(株)」という会社となっています。

 寺田裕一氏の「尾小屋鉄道」(ネコ・パブリッシング)によると、昭和40年(65年)1月15日には「六橋」駅が「金野町」と改称されているということです。「六橋」という地名は、金野村が小松市に合併する以前に「金野町」が名乗っていた旧集落名のようです。昭和31年(56年)9月30日の合併で町名が変わってからかなりの年月が経ったこともあり、町名と駅名を一致させる意味で変更されたのかも知れません。

 昭和40年代になると、安価な海外産の銅の流入もあって、銅の価格は1トン約36万円とピーク時の約半額程度にまで低下し、鉱山の赤字は深刻化。その上、全国的に公害がクローズアップされ始めた時代ということもあり、ここ尾小屋鉱山においても、廃液によって梯川の下流域がカドミウムで汚染されつつあることが判明するなど、暗いニュースが続いています。

 こうしたなか、昭和45年(70年)に「観音下」駅が無人化。昭和46年(71年)8月20日には「西大野」がこれに続くこととなり、列車同士の離合が行われるのは金平のみとなった模様です。

 そして、北陸鉱山(株)の下で大谷支山のみ操業が続けられていた尾小屋鉱山も、昭和46年(71年)12月20日、とうとう閉山の日を迎え、天和2年(1682年)から実に300年近くに及んだ歴史にピリオドが打たれることとなりました。

 昭和47年(72年)2月の「国鉄監修時刻表」によると、この時点の新小松〜尾小屋間は11往復の体制で、所要時間は約50分となっていたようです。離合設備のあった駅は吉竹、西大野、金平、観音下の4駅といいますが、吉竹は早い時期から行き違いが行われなくなっていたほか、本数の削減により西大野、観音下での離合も廃止され、晩年には行き違いが行われるのは金平のみとなっていたようです。

 昭和49年(74年)9月1日には最後の離合駅であった「金平」と終着駅の「尾小屋」がとうとう無人駅となっています。

 このように閉山以後も極限に近いまでの合理化によって存続が努力されてきた尾小屋鉄道でしたが、過疎化とマイカーの普及による乗客の減少にはあらがえず、とうとう力尽き――。昭和52年(77年)3月19日が最後となりました。

 廃止直前の昭和52年(77年)3月13日〜19日までは、窓枠などをモールで飾りつけた「花列車」が2両編成で運行し、沿線に別れを告げたそうです。なお、おりしも北陸地方を襲った大雪のために倉谷口〜尾小屋間は運休しており、最晩年の運行は新小松〜倉谷口間のみとなっていたようです。

 非電化の軽便鉄道は日本で最後の存在であったということもあり、日頃は閑散としていたという新小松駅は連日、黒山の人だかり。北國新聞の報道によれば“カメラマニア”が線路にむらがり、係員が声をからして注意していたということです。その当時の1日8往復というダイヤでは捌ききれず、9:20、10:40に臨時列車を増発して乗客の要望に応えたそうです。

 最終日の3月19日は全国から集まった約2,000人のファンが別れを惜しみ、これを報道する北國新聞の記事によれば、
『「気動車を買いたい」というマニアも現れ、「一両百万円で」と同鉄道が値段をつけたところ、現有の六両全部に買い手がつくなど、同鉄道はマニアに“占領”された一週間となった。最終便は四両編成で20:30、ホタルの光のメロディが流れるなか、五色のテープを振り切るようにして新小松を出発した。期せずして見送りの人たちから歓声と拍手がわき上がった。最後の力をふりしぼるようにして走る気動車に、同鉄道従業員は「いよいよ、最後か」と目をうるませ、駅構内は押し寄せた鉄道ファン約百人が「最後の姿をおさめよう」と、一斉にたくカメラのフラッシュで真昼のようになった』
 ――とありました。

 翌昭和52年(77年)3月20日より、小松駅〜尾小屋間8往復、小松駅〜岩上間4往復の鉄道代替バスが発足しています。

 廃止後、尾小屋鉄道で使用されていた鉄道車両の一部はJR粟津駅裏にある「粟津公園」で動態保存されており、毎週水曜日、土曜日、日曜日と祝日に“なかよし鉄道”として定期的に運行されています(大人も乗れます)。


 △画面のトップへ戻る


[▼]小ネタ

 ・ ドライブイン北国

 小松バスになる前の尾小屋鉄道(株)は、鉄道やバスのほかに関連事業も手がけていたようで、その一つが国道8号線沿いで営業していたという「ドライブイン北国」です。

 この「ドライブイン北国」は昭和43年(68年)5月1日に開店。場所は小松市長田町で、現在「マンボウ小松」になっている場所にあったようです。昭和50年(75年)の住宅地図では記載を確認することができますが、その5年後の昭和55年(80年)の住宅地図には載っておらず、該当する場所は「小松木材協同組合」の敷地となっています。

 このドライブイン北国の敷地内では、尾小屋鉄道の廃線後に「ハフ1」という鉄道車両(客車)を保管していたそうですが、この「ハフ1」は尾小屋の「ポッポ汽車展示館」へ移設され、現在も静態保存されているようです。

    + + + + +

 ・ 小松スカイボーリング

 「ドライブイン北国」とともに尾小屋鉄道(株)が手がけていたのがボウリング事業で、小松駅前の「こまビル」4階に「小松スカイボーリング」を営業していたようです。この「小松スカイボーリング」は昭和45年(70年)5月30日にオープン。北陸鉄道(株)が「ジャンボボール」をオープンさせたのが同じ年の9月12日ですから、約3ヶ月も早い開業です。しかしその歴史は短く、昭和49年(74年)9月11日には閉鎖となっているようです。

 昭和50年(取材は昭和49年と思われます)の住宅地図をよく調べると、小松市園町の国道8号線沿い、現在は小松織物会館が建っている場所に「第2小松スカイボーリング予定地」と記載されているのが見受けられます。競合相手と比べて手狭になり、テナントである故にレーン拡大も難しかったと思われるこまビル内から自前の建物へと移転し、より大規模化を図ろうとしていたのかも知れません。しかし、これはおそらく実現しなかったようで、昭和55年(80年)の住宅地図では「アキチ」となっています。

    + + + + +

 ・ 尾小屋鉄道のトラック事業について

 尾小屋鉄道(株)はバスのほかに自社でトラックも保有し、運送業務を営んでいたようです。昭和32年(57年)6月12日に一般区域貨物自動車運送事業(限定)の営業を開始。それまで貨物列車で運搬していた鉱石の輸送をトラック代行としたものと見られます。

 さらに昭和34年(59年)5月9日には「深田運送(株)」の営業も継承し、同社より一般区域貨物自動車運送事業が譲渡されているようです。

 しかし、昭和40年(65年)6月30日にはトラック事業を「信州名鉄運輸(株)」へ譲渡し、トラックの営業から手を引いています。同じ名鉄グループの運送会社へ事業を集約する意味もあったのでしょう。


 △画面のトップへ戻る


[▼]乗車のヒント

 終点・尾小屋からしばらく登れば「尾小屋鉱山資料館・尾小屋マインロード」や、かつて走っていた気動車を展示した「ポッポ汽車展示館」もありますが、バスの本数がきわめて少ないため、もし見学される場合は一日仕事になりそうです。しかし、折り返し待ちの数分間、鉱山町だった過去を想像しながら家並みを眺めるだけでも、歴史を見つめることはできるかと思います。


※運行ダイヤは小松バスの公式サイトをご参照下さい。


 △画面のトップへ戻る


[▼]参考文献

 「北陸鉄道の歩み」
 「打越町史」
 「西尾村史」
 「金野乃郷土史」
 「北國新聞縮刷版」各号
 「名古屋鉄道百年史」
 「尾小屋鉄道」寺田裕一・著(ネコ・パブリッシング)
 「私鉄の廃線跡を歩くIII」寺田裕一・著(ネコ・パブリッシング)
 「鉄道省編纂汽車時間表」各号
 「国鉄監修交通公社の時刻表」各号
 「全国バス路線便覧」昭和34年・39年版 (全国旅客自動車要覧編集室)


 △画面のトップへ戻る


[▼]停留所一覧

↓ 尾小屋線 ↓(フリーバス区間・千松閣/八幡温泉〜尾小屋)
小  松  駅こまつえきまえ *起終点・鉄道駅
日 の 出 町ひのでまち  
おき  
小松工業高校前こまつこうぎょうこうこうまえ  
打  越うちこし  
若  杉わかすぎ  
八  幡やわた  
市 立 高 校 前しりつこうこうまえ  
佐  々  木ささき  
希 望  丘きぼうがおか  
西軽海町3丁目にしかるみまち3ちょうめ *平成24年(12年)12月新設
西  軽  海にしかるみ  
軽 海 団 地 前かるみだんちまえ  
やわたメディカルセンターやわたメディカルセンター *09年4月新設
千 松 閣 前せんしょうかくまえ  
花  坂はなさか  
西  大  野にしおおの  
金野小学校前かねのしょうがっこうまえ  
金  野  町かねのまち  
金  平かなひら  
不  動ふどう  
出  村でむら  
布  橋ぬのはし  
塩  原しおはら  
波  佐  羅はさら  
観  音  下かながそ  
岩  上いわがみ  
二  ッ  屋ふたつや  
長  原ながはら  
尾  小  屋おごや *起終点
↓ 八幡温泉経由(本来の経路ながら金平口止まりのみ経由) ↓
(八  幡)やわた  
八 幡 温 泉やわたおんせん  
(やわたメディカルセンター)やわたメディカルセンター *09年4月新設
(千 松 閣 前)せんしょうかくまえ  
↓ 金平口ゆきの経路 ↓
(金野小学校前)かねのしょうがっこうまえ ラケット起点
金  平  口かなひらぐち ↓ *起終点
(金  平)かなひら
(金  野  町)かねのまち
(金野小学校前)かねのしょうがっこうまえ ラケット終点

 △画面のトップへ戻る

もりさけてんTOP > 北陸ローカルバス探見隊 > 加賀地区 > 尾小屋線