貸衣裳屋牧師奮戦記

 

 高知クリスチャンセンタ― 牧師  福江義史

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 「救いがやって来る。」

 

 いつものように会社に向けて、出勤時のことです。

 大通りの交差点まで来ますと、道の反対側にあまり会いたくないなぁという人物が立っていました。そこで、ハンドルを左に切って、交差点を左折しようとしたのです。その時、後ろから来たバイクの青年と接触事故を起こしてしまいました。事故自体はささいなもので、すぐに解決いたしました。しかし、私の心には重いものが残ったのです。

 

 つまり,私は若くして、会社経営を始め、順風満帆の人生です。そのような時の、恐ろしさは「自分は何でもできる。自分は力ある人間だ」という大変高ぶった、傲慢な心が自分の心に巣くっていることに気がつかないことです。しかし、その小さな事故を通して、十分に教えられました。

 

 「自分には何でもできる。自分には力がある」と思いながら、実は心の中は、恐れる必要の無い人を恐れ、事故を起こしてしまう。そんな弱い自分があることを知らしめられたのです。

 

 その日以来、数日近くの野山を朝早く散歩しながら、すぎこして来た日々を考え瞑想していました。そこで、自分がどれほど罪深い人生を歩んで来たかを思い知らされたのです。まだ祈ることも知りませんでしたが、ひたすら、神の前に悔い改めを叫んでいました。その時です。聖書の一つの物語が浮かんで来たのです。

 

 

「浮かんで来た聖書物語」

 

 それはヨハネ福音書の8章の話です。

 

 イエスが宮で教えておられた時です。律法学者とパリサイ人が姦淫の現場で捕えられた一人の女を連れて来て、真中に置き、イエスに言った。「先生、この女は姦淫の現場で捕まえられたのです。モーセは律法でこういう女を石打にするように命じています。あなたはなんと言われますか。」彼らはイエスを試してこう言ったのです。彼らはイエスを告発する理由を得るためにこの質問をしたのです。イエスは身をかがめて、指で字を書いていました。彼らは問い続けてやめません。そこで、イエスは身を起こして、こう言われました。「あなた方のうちで罪の無いものが、最初に彼女に石を投げなさい」イエスはもう一度身をかがめて、字を書き始めました。彼らはそれを聞くと年長者から始めて一人残らずそこを去って行ったのです。イエスと女がそこに取り残されました。イエスはその女にいわれました。「婦人よ、あの人たちは今どこにいますか。あなたに罪を定めるものはいなかったのですか」彼女は答えました。「誰もいません」そこでイエスは言われた。「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。

 

 聖書のことも全然知らないのに、この場面の光景がありありと浮かんで来たのでした。

 

 イエスの最後のお言葉「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません」が、はっきりと私に語られたように思えたのです。その時に神の赦し、和解,私の救いを確信しました。

 

 

 「新生の時」

 

 その瞬間が私の救いのとき、恵の時でした。その瞬間より、生まれ変わりの人生を歩み始めることとなったのです。

 その次の日曜日の夜の集会に誰にも誘われた訳でもありませんが、教会に出掛けて行きました。その日も説教で何が語られたかは覚えていませんが、献金の後に誰か祈ってくれませんかと牧師が言われたので、産まれて始めて、祈る言葉も知らないままに、祈り始めました。私の口をついてでてくる言葉は「過ぎ去りし、人生の日々の悔い改め」でした。「神様、今まであなたを知らず、我がまま放題に生き、多くの方に迷惑を掛け、反省もせずに生きて来ました。どうかお赦しください」というようなものでした。

 その瞬間からが、私の信仰生活の始まりとなったのです。

 

 

「礼拝厳守の生活」

 

 イエス様を信じる決心をしたものの、クリスチャンとしての生活はこれからでした。礼拝も今週行けば、来週は行かない。来週行けばその次は休むというような生活でした。

 ある日、地元の新聞の読者投稿欄に次のような文が掲載されていました。

 その内容は一人のクリスチャン老夫人の臨終の模様でした。死の枕元に教会の仲間たちがやって来て、賛美歌を歌っている中を静かに召されて行ったというのです。私は驚いてしまいました。当時、私は死を恐怖に感じていました。夜中に目が覚めた時に、死を思い出しては恐怖に打ち震えるというようなことが子どもの頃からしばしばありました。それで、その記事を読んだ時にそんな静かな死があるものかと驚いたのでした。

 その召された方の娘さんは牧師の夫人で大阪の釜ヶ崎で伝道をしているというのです。あの日雇い労働者の町で教会活動をしながら、家も無いような人のために、給食活動をしているというのです。その掲載者はもし志があるなら献金を送って頂きたいというようなことも記されていました。

 そこで、わずかばかりの献金をお送りしたのです。

 そのことをすっかり忘れた頃に大阪の牧師から一通のお便りを頂きました。

 献金のお礼と共に、求道中の私にアドバイスです。

 「福江さんは、求道中ということですが、どうか礼拝を守って下さい。私が今日あるのは、大学生の時にクリスチャンになり、一度病気で礼拝を休んだ以外は一度も休んだことはありません。このことで私の今日がある」と記されていました。

 当時の私に、今日の私があるとは口が裂けても言えませんでした。それほど荒んだ、我がまま放題の人生を歩いていたのです。

 そこでその日以来、礼拝厳守を心がけたのです。すでに35年を越えましたが、礼拝を休んだことは一度もありません。それが今日の私を造ったと今となっては胸を張って言えるでしょう。

 

 

「アシュラム運動に関わる」

 

 教会のある祈祷会のことです。会が終わって、お茶でも飲んでいた時でしょうか。現在は一麦の群れで牧師をしている、西森哲夫兄が、「榎本保郎先生が危篤ですので皆さんでお祈りしましょう」といわれました。私はその時、榎本先生の名前は全く知りませんでした。有名な先生のためにお祈りするなら、他にも沢山いるのにと多少の反発を覚えながら一緒に祈ったことを覚えています。

 しかし、後になんと偉大な人が日本にいたかと思い知らされることになるのです。榎本先生の召天はキリスト教関係のマスコミに大々的に取り上げられました。私もそれで、「ちいろば」から始めて、先生の著作をほとんど読んでみました。それだけでなく、大量に残されていたテープを取り寄せ、先生の肉声を聞いてみたのです。著作にしても、テープにしても、その内容の豊かさ、キリストに対する真剣な信仰姿勢には驚かされるばかりでした。

 そのテープの中には、最後の近江八幡のアシュラム道場での早天祈祷会の説教も残されていました。

 重篤な肝臓病で、医師は外国までの旅行は無理と、ドクターストップがかかっていました。しかし、そのテープには「今日一日、福音を語ることができれば、それで充分。福音が語れないなら、生きていても意味が無い」というようなことを話されていました。何とも命がけの伝道生涯です。

 医師の言う通り、ロスアンジェルス行きの飛行機の中で喀血、昏睡状態となるのです。多くの人は、「もう少し身体をいたわり、養生すれば、長生きもできたのに」と批判する人もいました。しかし、先生の心情を知れば客死もやむなしということがよく分かるのです。それほど真剣に自分の信仰に向かっていたのです。

 

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