エジプトの世界遺産        2006年6月12日  西 村 洋 子 

7. ワーディー・ヒタン(「鯨の谷」、ワーディー・ズーグロドン)(Wadi Hitan, Whale Valley, Wadi Zeuglodon)−2005年7月に自然遺産(1)として登録される。

自然遺産(1)とは、生命進化の記録、地形形成において進行しつつある重要な地質学的過程、あるいは重要な地形学的、あるいは自然地理学的特徴を含む、地球の歴史の主要な段階を代表する顕著な例であるということです。

何年か前に友人がタロー・トラベルの砂漠ツアーに参加し、「白砂漠」やバハレイヤ・オアシスの写真とともにワーディー・ヒタンの写真を送ってくれたことがあった。一瞬何が写っているのか分からなかったので、友人に訪ねると、化石が地面一面に露出しているのを写真に撮ったとのことだった。早速ワーディー・ヒタンについて調べてみたが、そのときはインターネットでも文献でもほとんど参考になるものが見当たらず、途方にくれた。しかし、昨年ワーディー・ヒタンが世界遺産に登録されたというニュースを知って、再び調べることにした。すると、ワーディー・ヒタンは世界的にも稀な化石の宝庫で、ワーディー・ヒタンを含むファイユーム地域は世界的にも稀な自然の宝庫だということがわかった。古代エジプトの墓壁画によく描かれている沼沢地で狩りをする場面は、ナイルデルタを描写しているとばかり思っていたが、あれは実はファイユームだったのか!と悟った。思いがけない発見だった。

友人が送ってくれた写真(写真掲載許諾済み)  七枚の写真の内、最後の二枚がクジラの祖先の化石と巻き貝の化石の写真です。

ファイユーム

ファイユームという地名は「海」を意味する古代エジプト語のパーイム、コプト語のピオムにちなんで名付けられました。三角形の低地はデルタのように見えます。カイロから4車線のハイウェイが通じているので、日帰り旅行で何度でも探検できます。ファイユームでは、ボートを漕いだり、泳いだり、釣りをしたり、古代の遺跡を訪ねたり、バードウォッチングをしたり、化石を見たり出来ます。カルン湖は類のない砂漠の風景を造り出しています。メディネト・ファイユーム(古代ギリシア名クロコディロポリス)では4つのプトレマイオス時代の水車が激しく回転し、古代の複雑な運河システムを通じてファイユーム中に水をどんどん送り込んでいます。運河はまずラフーンの村で7つに分かれ、次いでメディネト・ファイユームで8つに分かれます。郊外でも7つの水車が回っています。運河は毎年1月に清掃され、補修されます。バール・ユースフ川とその支流も底引網を使って泥を除去されます。水車もすべて解体補修されます。運河の状態によってエジプトの繁栄を測ることができると言われるほどです。農夫達は、古代の墓壁画やレリーフに描かれているように、青々とした耕地で長時間骨折って働いています。古代の遺跡がファイユームの長くて興味深い歴史を思い出させるものとして砂漠の縁に建っています。土器片、ビーズ、古代の道具や家庭用品、その他の人工遺物が多くの遺跡で地面に散らばっています。科学者から観光客まで、誰でもファイユームで楽しむことが出来ます。

ファイユームへはカイロからのハイウェイの他に、カイロ〜アシュートの砂漠道路とワスタからの道路も通じています。サッカーラからファイユームへの道路はローマ時代の道路で、7km毎に一里塚が、1,000キュービット毎に標柱が立っています。鉄道はアレクサンドリア〜ワーディー・ナトルーン〜ワーディー・エル・ラヤンを結んでいます。さらにバハレイヤ・オアシスとファイユームを結ぶ鉄道も二本走っています。

先史時代のファイユーム

ファイユームの低地は約一万年前の最後の氷河期の終わりに起こった地質学上の過程の結果できたものです。一万年の内大部分の期間湖岸は非常に乾燥していましたが、湖の下の地下水は湿地帯と森を維持するのに十分高く、湿地帯と森には動植物が豊かで、狩猟採集民たちの活動の場となりました。

先史時代にはもっと多くの人々がナイル河谷よりもファイユームに住んでいました。土地は青々とし、水が豊富にありました。紀元前約7,200〜6,000年前に、私達が後期旧石器時代のカルン文化の人々と呼ぶ南西アジア人がこの地域に移住し、居住地を作りました。彼らは主に狩猟と漁労に従事しました。彼らの遺跡からはチャートの石刃、ナマズなどの魚、ガゼル、ハーテビースト、カバの骨が出土しています。しかし、植物の栽培と動物の飼育はまだ始まっていませんでした。というのは、カルン文化と同時代に、エジプトの南西砂漠にあるオアシス群では植物の栽培と動物の飼育が行われていたようですが、ファイユームは動植物に溢れていたので、狩猟採集の生活形態を続けることができたからです。

紀元前約5,500年から4,500年の新石器時代の間、二つの異なるグループが湖の周辺に集中して住みました。初期新石器時代のファイユーム文化の人々と後期新石器時代のモエリス文化の人々です。彼らは小麦と大麦を栽培しました。そして山羊、羊、牛を飼育しました。彼らの遺跡からは穀倉と手鎌、その他の農業用具が発見されています。しかし、彼らはまだ狩猟と漁労、植物採集にひどく頼っていました。彼らは、ガゼル、ハーテビースト、なまずを調理用の土器で料理して、給仕用の土器で食べました。

しかし、彼らが何年も定住したことを示す住居跡は見つかっていません。彼らはおそらく季節限定で一時的にファイユームに住み、頻繁に移動していたと思われます。ファイユームは古代エジプト文明の経済的基盤である農業がどのようにしてエジプトに導入され、行われたかを示す最古の大量の証拠を提供してくれます。小麦と大麦は主として南西アジアの高地に自生し、ファイユームに導入される千年も前からそこで栽培されていました。飼育された羊や山羊も西アジアからエジプトに導入されたように思われます。

紀元前約4,500年頃、気候が変化し、ファイユームは乾燥し始めました。何年にも亘って、人々は旱魃に襲われた故郷を去り、ナイル河谷に移住しました。羊、山羊、牛の飼育と小麦・大麦の栽培はファイユームではなくナイル河谷で十分に確立されました。いったんナイル河谷が優勢になると、ファイユームは放棄されたも同然でした。というのは、特に夏の氾濫のために川のそばの方が生活が容易だったからです。その後ファイユームは狩猟と漁労の楽園となり、岩塩、石灰岩、チャートを採掘する場所となりました。

カルン湖(ビルケト・カルーン)

ファイユーム低地の北西部の最も低い地区に位置するカルン湖は、面積が約214平方km、長さは東西に40km、海面より45m下にあります。現代の湖は百万年前の更新世の時代の湖の10分の1の大きさです。

1927年に、E・W・ガードナーはファイユームに関係する一つ以上の湖があったことを証明しました。最初の湖は深さ23mの湖で、歴史時代以前に干上がりました。それから現在のレベルよりも64mも水位の高かった新石器時代の湖がありました。最後に深さ7.5mの現在の湖がありました。これらの湖はすべて塩分のない淡水湖でした。過去五千年の間現代の湖は、ラフーンの山あいの切れ目を通ってファイユームに入りこんだナイル川の支流バール・ユースフ(「ヨセフの海」の意)から、新鮮な水を供給されました。雨はほとんど降らず、他に湖に流れ込む水源もないので、毎年の氾濫が湖の存続を可能にしました。このことは少なくとも一万年前に起こりました。湖の水位はナイル川とともに毎年上下しました。ナイル川の水位が最高になると、ファイユーム低地に氾濫水があふれました。氾濫水が引くと、湖の底が現れ、岸辺や浅瀬には生命が満ちていました。

中王国第12王朝に、耕地面積を取り戻すために湖に流入する水量が人工的に制限されました。何世紀にも及ぶ排水と干拓によって湖の大きさは本来の20%以下に縮小させられました。湖の排水と干拓はおそらくセンウセレト2世によって始められましたが、伝承ではアメンエムハト3世が、ラマレス王あるいはモエリス王と呼ばれて、ファイユームの最初の干拓者とされています。ファイユームには中王国のファラオたちの宮殿やピラミッドが建設されましたが、アメンエムハト3世のハワラのピラミッドと葬祭神殿は特に有名で、葬祭神殿はギリシア・ローマ時代に「ラビリンス」と呼ばれました。

この湖は初期王朝ナルメル王以来(!)ワニの姿をしたソベク神に捧げられた神聖な場所で、その化身であるワニが湖岸にうじゃうじゃいました。古代エジプト語でシュ・レシー「南の湖」と呼ばれたこの湖の宗教的重要性は経済的・政治的重要性と比例していました。

プトレマイオス2世はある人々によって第12王朝の湖の排水と干拓を始めた功績を帰せられていますが、学者達は賛成していません。当時湖はモエリス湖と呼ばれていました。彼の治世に初めて湖の水位が海面以下になりました。私達はギリシア時代には湖が中王国の湖よりも小さかったことを知っています。しかし、現在まで、学者達はどれくらい湖の規模が小さくなったのかを知りません。とにかく、湖の水位の低下によって耕地面積がかなり拡大し、ファイユームに114の新しい村が作られました。そして、ローマ時代に退役軍人たちをファイユームに植民させる慣習のおかげで1〜2世紀にファイユームの人口は増加しました。

化石の地層

ファイユームは世界最古の、かつ世界で最も重要な化石の宝庫を含みます。それはエジプトの最もワクワクさせる、かつ分かりにくい宝物の一つです。主として始新世(5500〜3750万年前)と漸新世(3750〜2250万年前)からの貝、サメ、クジラ、カバのような湿地帯の生き物、巨大な亀、ワニ、足跡の化石、霊長類を含むほ乳類を含みます。これらの化石の大部分は低地内や低地周辺の丘や山の露出した地層で発見されます。フィールドの指導的権威、E. L. サイモンズによれば、ファイユームは「アフリカの第三紀(6500〜180万年前)初期の動植物の発展について類のない光景を私達に提供してくれます」。

化石の地層を造った地質学上の時代におけるファイユームの環境は現在のウガンダに似ています。すなわちたくさんの樹木、ブドウの木、マングローヴが生い茂る熱帯林と亜熱帯林です。森林の中には淡水の沼沢地と川がありました。滝もたくさんありました。海岸平野はおそらくテチス海岸に沿ってあるいはその近くにありました。テチス海とはアフリカ大陸とユーラシア大陸を分離していたと考えられる古地中海のことです。時が経つにつれて、環境は変化し、乾燥し、この地層が埋もれるまで、隆起を経験しました。土壌の中に閉じ込められたものは化石になりました。

今日、化石は低地の周囲の急斜面に、特に湖の北方に、何層にもわたって露出しています。それらは4つの主要な層から産出します。すなわちビルケト・カルン層、カスル・アル・サガ層、河海両堆積成層、ゲベル・カトラニ層です。

ビルケト・カルン層は、湖の名前にちなんで名付けられましたが、主として湖の来たとゲベル・グハンナムの低地の西に見られる後期始新世の地層があります。この中に後期始新世のほ乳類やクジラのようなは虫類の化石があります。世界遺産に登録されたワーディー・ヒタンはこの層に属します。

カスル・アル・サガ層は陸上の動物の化石を含んだ急斜面の一続きの層状構造です。しかし、本質的に海洋性です。カスル・アル・サガ層は急斜面の岩壁に沿って154mの地層に及び、陸上の動物の身体が流入する水によってこの地域に打ち寄せられた時に造られた本当の骨層であると考えられます。それは北の急斜面の長さに及び、陸上の化石が増加する湖の西20kmの間続きます。この地域でカスル・アル・サガ層はゲベル・グハンナムの頂上を形成します。このゲベル・グハンナムの西側に隣接してワーディー・ヒタンが存在します。

河海両堆積成層は北の急斜面にあるけれども、カスル・アル・サガ層より上層にあり、石化した木材、ワニ、亀からなります。この層はおそらく鮮新世時代(500〜180万年前)の川によって生じさせられた真の骨層も含みます。河海両堆積成層は低地の東のウイダン・アル・ファラスで始まります。そこでは層の厚さは23mです。ファイユームの中心部タミヤでは層の厚さ40mです。湖の向こうのカスル・アル・サガの北西で、河海両堆積成層は急斜面の最高地点となり、層の厚さは210mにもなります。これらの層では、ポタニデス、スカラロイデス、ポタミデス、トリスティアトゥス、セリティウム、ティアレラ、そして何よりも最もワクワクさせる化石、アルシノイテリウム(サイ)が見つけられます。(アルシノイテリウムを除いて、すべて貝の一種だろうか?)

ゲベル・カトラニ層は急斜面の約15km北にある山から名付けられました。この山の漸新世の下層に世界で最も豊富な化石の宝庫がいくらか存在します。豊富なサメの歯、エイの口器、マングローヴの根が中新世時代にそれがテチス海の南海岸の近くにあったか南海岸に沿っていたという理論を支持します。

ファイユームの化石については下記のURLをご覧下さい。

http://touregypt.net/featurestories/fossils.htm

エジプト地質学博物館の解説もご覧下さい。

http://www.touregypt.net/geo/geo.htm

ワーディー・エル・ラヤン

現在ワーディー・ヒタンはワーディー・エル・ラヤン環境保護区の一部です。ベドウィンの伝説によれば、ワーディー・エル・ラヤンはこのワーディーのどこかに黄金や財宝とともに埋葬されたある王様にちなんで名付けられました。そのため宝探しが目的の大勢の冒険家達がここにやってきました。アラブの歴史家達はヨセフ時代のファラオの名前が地名の由来であるとしています。

ワーディー・エル・ラヤンが大英帝国に占領されていた間、アメリカ人コープ・ホワイトハウスがここを理想的な貯水地の場所であると提案しました。そのためにイギリス人将校ウェスタン大佐がこの地域を探検するために送られました。ウィリアム・ウィルコックス卿は、アスワン・ダムの建設地としてアスワンに決定する前に、エジプトの灌漑用の水源を査定していた時、ここを調査しました。ラヤン・プロジェクトは何年間も棚上げされ、ワーディー・エル・ラヤンに貯水地を造るというアイデアが現実になったのは、1966年のことでした。現在ワーディー・エル・ラヤンはわずかな泉のある乾燥砂漠から農業・産業・観光のための肥沃な谷に変貌しました。農業省と15,000フェッダン(1フェッダン=1,038エーカー)の砂漠の開墾によって、生産的な農地に転換されることになっています。

今までのところ、基幹施設はほとんど完成し、いくつかの小さな村が建設されてきましたが、ワーディーにはほとんど何も起こっていません。というのは、第二の湖が淡水から塩水に変化し始めたからです。これは農業の発展にとって大打撃です。もちろん、カルーン湖とマリウト湖のような西部砂漠にある他の淡水湖に何が起こったかをよりよく理解できることになるかもしれません。というのは、両湖はかつて淡水湖でしたが、現在は塩水湖だからです。

流れを変えられたファイユームからの排水は、地下のパイプによってワーディー・エル・ラヤンに送り込まれ、二つの南北に並ぶ深い青い湖を創り出しました。湖には大量の魚が放流され、漁業が発展しつつあります。また湖の近くでは134種類もの野鳥が見られます。

ワーディー・ヒタン

ワーディー・エル・ラヤンの北西約30kmのところにゲベル・グハンナム「地獄の山」という山があります。さらにそこから西南西12kmのところにワーディー・ヒタンがあります。平野は太古の海の生き物の化石ばかりです。このワーディーの端へ近づけば近づくほど、美しい風景が見られます。急斜面は円錐形の砂糖の塊のようになり、次いでスフィンクスのような岩の露出が現れ、土の色はコーヒークリーム色に変わっていきます。ワーディー・ヒタンには四輪駆動の車で容易に登れます。頂上に到達したら、白砂漠よりも美しい風景が見られます。滴り落ちるシロップあるいは砂糖衣でおおわれたキャラメル色の巨礫(きょれき)が、谷の内側に投げ散らされたように見えます。とても幻想的な風景です。そして8平方kmの区域の真ん中でクジラの祖先バシロサウルス・イシスの化石が240体以上も発見されてきました。ここはかつてテチス海の南海岸でした。ゲベル・グハンナムの周囲の谷は後期始新世のビルケト・カルン層の一部です。ゲベル・グハンナムの頂上はカスル・アル・サガ層に属します。ここには流入する水によってこの地域に打ち寄せられた陸上のほ乳類の骨と、海が後退した時に海岸に打ち上げられた海の生き物の化石が豊富にあります。ワーディー・ヒタンはゲベル・グハンナムと同じくらい高い急斜面の頂上にあります。

バシロサウルスは「トカゲの王様」を意味しますが、この命名は間違いです。というのは、本当はは虫類ではなく、ほ乳類の化石だからです。バシロサウルス・イシスは長さが平均20m、細くてウナギのような身体をしていて、ノコギリのような歯を持っていました。そのため「ノコギリの歯」を意味するズーグロドンとも呼ばれます。それは四千万年以上も前にファイユームに存在しました。ちなみに、世界で知られている最古のクジラはパキセトゥスで、五千五百万年前に存在しました。

バシロサウルス・イシスの最も驚くべき点は脚があることです。太古の昔のある時にほ乳類は海中に移動し、あるものは再び陸上に戻り、あるものは戻りませんでした。現代のクジラの祖先達は海に入ったので、前脚がひれ足に変わり、尻尾が長くなり、後脚はなくなりました。クジラが海に入って一千万年後、バシロサウルス・イシスは小さな十分に発達した後脚を持ちました。これらの脚の骨は1989年にミシガン大学のワーディー・ヒタン調査の際にスミス夫妻によって発見されました。初期の結論は、バシロサウルス・イシスがクジラ科の「進化の行き止まり」であり、おそらく現代のクジラと関連がないというものです。しかし、その骨はクジラが陸上のほ乳類から海中のほ乳類へと移行したことについて多くのことを教えてくれます。

ワーディー・ヒタンにはドルドンと呼ばれる第二のクジラの化石があります。長さは3〜5mとかなり小さく、現代のクジラと結びつきがあると分かるかもしれません。科学的調査は始まったばかりなので、その進歩を妨げてはいけません。つまり化石に触ってはいけません。現在ワーディー・ヒタンはワーディー・エル・ラヤン環境保護区の一部なので、観光客は入場料を払い、保護区の警備隊がクジラだけではなく環境も保護するためにパトロールをしています。また化石を展示する観光センターの建設が計画されています。

ワーディー・ヒタンについて、もっと詳しいデータが次のサイトでご覧になれます。

ワーディー・エル・ラヤン以外の環境保護区については、下記のURLをご覧下さい。

http://www.eeaa.gov.eg/english/main/protect_desc.asp

サハラの砂漠化

ところで、クジラの祖先がファイユームにいた四千万年前から、人々が乾燥化したファイユームを去ってナイル河谷に移住した紀元前約4,500年頃までのサハラの環境はどのような変遷をたどったのでしょうか?アフリカ大陸はかつてゴンドワナ大陸の一部であり、四億二千万年前には現在の南極大陸の位置にありました。このときはまだ氷河におおわれていました。ゴンドワナ大陸の北上とともに、サハラは約一億年前に赤道付近に達し、熱帯雨林におおわれました。アフリカ大陸はゴンドワナ大陸から分かれてさらに北上を続け、四千万年前頃に現在の位置に達しました。サハラ砂漠の出現は3,800〜3,400万年前のことと考えられています。サハラ砂漠が最も拡大したのは、約18,000年前の最終氷河期末で、現在赤道地域にある熱帯雨林がサバンナやステップに変えられてしまうほどの厳しい乾燥期でした。

しかし、ヨーロッパ大陸北西部をおおっていた氷河の後退に伴って、地球規模の温暖化が始まりました。熱帯アフリカでは、約13,000年前から湿潤化し、9,000〜8,000年前のピークまで湖沼の水位が上昇しました。砂丘や大地にも新しい湖沼が形成され、ワーディーには常に水が流れました。裸の大地はサバンナやステップでおおわれ、ゾウ、キリン、シマウマなどが生息し、湖と河川にはカバ、ワニ、ナイルパーチ、ナマズ、その他多数の魚貝類が生息しました。地中海性の雨もサハラ南部までしとしとと降りました。このような環境下で、9,000〜7,500年前の間旧石器時代の狩猟と漁労に基礎を置く物質文化が栄えました。タッシリ・ナジェールの岩壁画はこの時代に描かれました。

その後約500年間乾燥気候が続き、旧石器時代の文化は滅亡しました。しかし、7,000〜4,500年前に再び高温期に入り、夏の熱帯性降雨の増加によって中央サハラに湿潤化がもたらされました。サハラは再びサバンナ・ステップによって広くおおわれ、人類はサハラに戻り、牛、山羊、羊の牧畜が始まりました。漁労も復活し、一部では農耕も始まりました。新石器文化の到来です。ところが、4,500年前に高温期が終わると、サハラの気候は急速に乾燥化し、人類は乾燥化の進行に追われて、もっと湿潤な南方地域やナイル河谷への移住を余儀なくされました。(門村浩著「サハラ−その起源と変遷」、『地理』35-7、1990年7月、26-37頁を参照しました。この論文を紹介して下さいました奈良大学地理学科の池田碩先生に深く御礼申し上げます。)

ナイル河谷に移住した人々の歴史については、古代エジプトの歴史 1. ナカダ1期・2期のページをご覧下さい。

サハラ砂漠の研究については、下記のURLもご覧下さい。

http://www.cru.uea.ac.uk/~e118/welcome.htm

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