須磨月見山教会婦人会報23号(2005年2月17日)

エジプトの世界遺産               西 村 洋 子 

1. アブ・メナ(Abu Mena)−1979年に文化遺産(4)として、2001年に危機遺産として登録される。

文化遺産(4)とは、人類の歴史の重要な段階を物語る建築様式、あるいは建築的または技術的な集合体、あるいは景観に関するすぐれた見本であるということです。

アブ・メナの新しい教会と修道院 アブ・メナの遺跡地図

1. バシリカ聖堂 2. 教会 3. 浴場 4. 巡礼者用宿泊施設 5. 洗礼堂 6. 地下教会 7. アゴラ 8. 大バシリカ聖堂 9. 泥レンガの住居址

この遺跡はエジプト学では扱われないので、エジプトの世界遺産について調べようと思わなければ、その存在をまったく知ることがなかっただろう。

遺跡の概要

時々カルム・アブ・メナス(聖メナスのぶどう園)とも呼ばれるこの荒廃した遺跡は、地中海とワーディ・エル・ナトルンのほぼ中間、アレクサンドリアからタクシーで約1時間半の距離の、マレオティス(マリウト)砂漠の中にあります。ここは、初期キリスト教時代、オリエントにおいて最も重要な巡礼地でした。1905年にフランクフルトの神学者、C. M. カウフマンによって再発見されましたが、それは、当時のオリエント考古学の観点から、大事件でした。1961年から始まったドイツ考古学研究所(DAI)による発掘調査の結果、今までに発見された中で最大のコプト教都市が出現しました。この調査でぺーター・グロスマンは5〜7世紀に最盛期を誇った聖メナスの有名な修道院センターだったことを立証しました。一方、1959年に新しい修道院が総主教キュリロス6世(キリル6世、1959〜71年)によって古代の遺跡の端に建設されました。それはイタリアの大理石、アスワンの花崗岩、白い漆喰にはめ込まれたステンドガラスの窓、金銀線細工とモザイクの多数の十字架でおおわれた壁を使用されています。新しい修道院は一本の道路によってアレクサンドリアからメルサ・マトルフへ通じる沿岸道路に連結されており、特に困難なく訪ねることが出来ます。そして修道院を運営している修道士たちが遺跡のガイドツアーをしてくれます。ここは現在急速に主要な巡礼地としての名声を確立しつつあります。

聖メナスの墓の上に、テトラピュロン(それぞれがアーチ型の門のような正面を持つ4本の柱の上に急な傾斜のピラミッド型の屋根が載っている建築物)の形をした質素な記念碑が建てられたと言われていますが、これは考古学上確認されていません。5世紀の始まりにこの記念碑は小さなバシリカ聖堂に取って代わられ、ついに6世紀にテトラコンク(4つの半円形のドームを支える後陣の屋根)の形をした大きな、まったく新しい建築物に取って代わられました。おそらくササン朝ペルシアの侵略の間に崩壊した後、殉教者の地下教会(crypt church)はその最終の形を取りました。すなわち、総主教ヨセフス(831〜849年)がそれを身廊(nave)と4つの側廊(aisle)のあるバシリカ聖堂にしたのです。30段の大理石の階段が深さ約10mの地下墓に通じています。かなり大きな身廊と2つの側廊のあるバシリカ聖堂が墓の上の教会(tomb church)の直接東側に建てられました。これにはまた3つの部分に分かれた袖廊(翼廊、交差廊とも言う、transept)があります。6世紀初めに建てられた教会の56本の大理石の柱の礎石は今でも見ることが出来ます。東側の後陣(apse)が始まる交差部(crossing)に、かつて4本の柱に支えられた天蓋(baldacchino)があり、その下に背の高い祭壇がありました。時々間違ってアルカディウスのバシリカ聖堂と呼ばれるこの教会は、その西側で直接墓の上の教会に隣接しているので、3つの部分に分かれた主要な出入り口は身廊の南側に移動されなければなりませんでした。しかし、身廊と袖廊の両方に通じる横からの入り口が北側にもあります。

5〜6世紀に墓の上の教会の西側にもう一つ洗礼堂(baptistery)が造られました。西側に拝廊(narthex)があるこの長い八角形の建物の中央には大きな石の階段のある洗礼盤(font)が置かれています。

北のバシリカ聖堂は7〜9世紀の共同墓地の中にあり、大バシリカ聖堂、墓の上の教会、洗礼堂で構成された複合体の北方に建っています。またそれは床下暖房(hypocaust)があり、保存状態のよい浴場と宿泊施設によってこの複合体から分離されています。それに隣接して西側にアトリウム(中庭)、多数の居住区域があります。これは総主教が巡礼地を訪れている間の住居だったと仮定されています。また身廊と2つの通路のある教会の右側の通路に隣接して小さな洗礼のための礼拝堂(chapel)があります。この東方に東の教会があります。それは四角い中央のスペースと4つのコンク(後陣の半円形の屋根、conch)がある集中式プランの建築物です。内面の「クローバーの葉」は柱の上に支えられています。外側では、建築物のシンメトリーは、コンクの間に置かれた様々な形の角張った増築部分(annex)によって、壊されています。西側にはアトリウムもあります。北西角の洗礼堂は興味深いです。

注) コプト教会の平面図については下記のURLをご覧下さい。

http://www.touregypt.net/featurestories/churchtypology.htm

この聖地は急速に有名になり、5〜6世紀にその名声は頂点に達しました。しかし、イスラム教の到来とともに急速にその重要性を失いました。恐らく13世紀についに放棄されました。その最初の名声の理由の一つはおそらく、聖メナスが埋葬された時流れ始めたと言われる90の泉から、不思議な力を持つ水を巡礼者たちが買って、故郷に持ち帰ることが出来たという事実でしょう。その水は鋳型で造られた小さなテラコッタ製の容器に入れて売られました。これらはいわゆるメナス・アムプラで、通常二頭のひざまづいたラクダを伴う聖メナスを表したモチーフがあります。カイロのコプト博物館にはそのコレクションがあります。伝説によれば、殉教者の遺体をエジプトに運んだラクダ達が頑強に先へ進むのを拒んだ場所に、遺体が最終的に埋葬されたそうです。

聖メナスと彼の奇跡

聖メナス(マリ・ミナ)の母は子供に恵まれなかったので、聖母マリアの祝祭日に教会へ行き、マリアのイコンの前で、イエス・キリストが自分に子供を与えてくれるようにとりなして下さいと懇願したところ、イコンから「アーメン(確かに)」という声が聞こえました。彼女は主が自分の祈りを聞き届けてくれたのだと悟って喜び、帰宅すると夫にこのことを話しました。彼女の夫は「神の御心が行われますように。」と答えました。神は彼らに男の子を与えました。このようにして、聖メナスは285年にメンフィス近郊のナキヨスという町で生まれました。彼の名前は「アーメン」という言葉にちなんで名付けられました。

彼の父はナキヨスの知事で、よきクリスチャンだったので、彼をクリスチャンの習慣に従って育てました。しかし、彼が11歳の時に亡くなりました。彼の母もまた14歳の時に亡くなりました。彼は両親の死亡後もクリスチャンとして断食と祈りの生活に身を捧げました。町の人々は彼も彼の父も愛していたので、彼らは彼を知事の地位に就けました。それでも彼は礼拝を忘れませんでした。

ディオクレティアヌス帝がキリスト教を廃棄し、偶像崇拝の勅令を出した時、大勢の人が主イエスの名前のために殉教しました。聖メナスは知事を辞任し、砂漠へ行き、そこに滞在し、一心に神を礼拝しました。ある日彼は天が開き、殉教者たちが美しい冠を授けられるのを見ました。そのとき「主イエスの名前のために根気よく働く者はこの冠を授かるであろう。」という声を聞きました。そこで彼は自分が知事だった町に戻り、主イエスへの信仰を告白しました。町の人々は彼の家系が高貴であることを知っていたので、なんとか信仰をあきらめさせ、代わりに名誉と高価な贈り物を約束しました。しかし、彼は心を変えなかったので、町の人々は彼を恐れ、新しい知事は彼を拷問にかけるよう命じました。知事も彼の弟も彼に信仰を捨てさせることに失敗したので、知事はついに彼の首を切り落とし、身体は火の中に投げ捨て、その灰を風でまき散らすように命じました。こうして聖メナスは309年に24歳の若さで亡くなりました。(彼の両親はクリスチャンであることを隠していたのかな?)

しかし、彼の身体は三日三晩経っても火の中で無傷でした。そこで彼の妹がやってきて、兵士たちに賄賂を渡して、遺体を引き取りました。彼女は遺体を袋の中に入れ、アレクサンドリアへ運ぶつもりでした。彼女はアレクサンドリア行きの船に乗りました。しかし航海中海獣が現れて、乗客達を襲ったので、彼らは恐怖で叫びました。彼女は主に祈り、聖メナスのとりなしを頼みました。乗客達が恐れて、混乱している間、聖メナスの遺体から炎が発せられ、海獣の顔を焼いたので、海獣は海中に飛び込みました。再度海獣が現れると、またもや炎が海獣の顔を焼いたので、二度と現れなくなりました。

船がアレクサンドリアに到着した時、アレクサンドリアの人々は総主教と一緒にそれを見に出かけました。彼らは聖メナスの遺体を敬意を持ってアレクサンドリアに運び、教会に安置し、高価な屍衣で包みました。

迫害の時代が終わった時、主の天使が総主教アタナシウスのところに現れ、聖メナスの遺体をラクダに乗せ、誰にも先導されずにそれを市外へ運び出し、主が示した場所でラクダが止まるまで遠方からその後について行くようにとの主の御命令を伝えました。

彼らはラクダの後について歩き、バヤド湖と呼ばれる場所まで来ました。そこで彼らは「ここは主が聖メナスの遺体が永眠することを望む場所である。」という声を聞きました。そこで彼らは遺体を降ろし、棺の中に入れ、それを美しい庭園の中に置きました。やがて様々な奇跡がその遺体を通じて起こりました。

しばらくして、知事は異邦人たちと戦うことになったとき、ひそかに聖メナスの遺体を持ち出し、聖メナスの守護のおかげで、異邦人たちを打ち負かし、凱旋することが出来ました。そのため知事は聖メナスの遺体を元の場所に戻さず、アレクサンドリアに運ぶこもうとしました。しかしバヤド湖を通り過ぎる時、遺体を乗せたラクダがひざまづいて、どんなにむち打たれても動こうとしませんでした。彼らは遺体を別のラクダに乗せて運ぼうとしましたが、そのラクダもその場所から動きませんでした。そこでついに知事はこれが主の御心であると悟りました。彼は朽ちにくい木材で棺を作り、その中に銀の棺を置きました。そしてその場所に戻り、聖メナスの祝福を祈りながら、彼の都市へ帰りました。

主が聖メナスの遺体の所在を明らかにしたかった時、次のようにしました。砂漠に皮膚病にかかった小羊を飼っている羊飼いがいました。その小羊が聖メナスの遺体の場所の近くの井戸に落ち、水の中から出てきて、その場所の砂の中で寝転んだ時、皮膚病が治りました。これを見て驚いた羊飼いは、砂を取って水と混ぜ、皮膚病やその他の病気のある羊達にそれを塗ってやりました。するとたちまち羊達の病気が治りました。

これらの奇跡のニュースは諸外国に広がり、ついにコンスタンティノープルの皇帝の耳に届きました。彼には一人娘がいましたが、彼女は癩病(らいびょう)でした。そこで彼女を聖メナスの遺体の場所に行かせ、どのようにして奇跡が起こるのかを羊飼いに尋ねました。彼女も同様にして水と砂を混ぜ、身体に塗り、その場所で一晩眠りました。眠っている間、彼女は聖メナスに会い、「早起きして、ここを掘りなさい。そうすれば私の遺体を見つけるだろう。」と言われました。目を覚ますと、彼女は癒されていました。そして言われた通りに掘ってみると、聖メナスの遺体が見つかりました。彼女がこのことを父である皇帝に知らせると、彼は大いに喜び、感謝し、神を讃えました。それから皇帝は人と金を送って、その場所に教会を建て、献堂しました。

ローマ皇帝たち、すなわちアルカディウスとホノリウスはそこに都市を作るよう命じました。大勢の人々がその教会へやってきて、聖メナスのとりなしを懇願しました。主は彼の遺体から現れる多くのしるしと奇跡で彼に栄光を与えました。アラブ人たちがエジプトにやってきたとき、彼らのうちのある人々はその都市を攻撃し、教会を破壊したので、廃虚だけが残りました。多数の大理石の柱が宮殿やモスクの建造のために持ち去られました。

14世紀にマレオティスの人々は聖メナスの骨が入った木箱を見つけました。それは調理場のかまどの中に放り投げられましたが、木箱から光の柱が立ち上り、中の骨は燃えなかったので、教皇ベンジャミンはそれをオールド・カイロの聖メナス教会に運ぶよう命じました。

20世紀になって、後の教皇キュリロス6世が総主教に任命された時、彼はこのマレオティスの地域に聖メナスの名前で大修道院を建てることに関心を持ちました。彼は大金を投資してそれを建てました。修道院の中には二つの教会があり、多くのコプト教徒たちに訪問されています。

この聖メナスの伝説はコプト暦ハトホル月(氾濫季第3月)第15日のミサ聖祭のときに聖メナス修道院で語られているものです。

ちなみに、古代の遺跡は現在トマト畑の中にあり、大規模な灌漑によって粘土層の地盤が侵食され、地下水位が上昇し、遺跡の大部分が崩壊の危機にさらされています。遺跡を救うには、灌漑を止め、修復のための科学調査をする必要があるそうです。

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