古代エジプトの歴史        2008年7月24日  西 村 洋 子

24. 第三中間期(紀元前1,069〜715年頃)(2)

第三中間期 第21王朝(タニス) (1,069〜945年頃) スメンデス1世

アメンエムネスート王

プスセンネス1世

アメンエムイペト王

大オソルコン(オソコル)王

サーアメン王

プスセンネス2世

第22王朝(ブバスティス) (945〜715年頃)
第23王朝 (818〜715年頃)
第24王朝 (727〜715年頃)

★スメンデス1世

ホルス名 : カーネヘト・メリラー・セウセルアメンヘルヘペシュエフエルセカーマート、二女神名 : セヘムペフティー・フーイレクーエフベハートゥーエフ・ヘテプエム[...]、黄金のホルス名 : [...]ヘセフデンデン、誕生名 : ニスーバーネブジェデト(エピセット、メリーアメンを伴うこともある)、即位名 : ヘジュヘペルラー・セテプエンラー。

王の出自、地位、歴史的組み込みは非常に議論されています。王は『ウェンアメンの物語』で妻のターネトアメンとともに「アメン神が自分の国の北部のために置いた軍司令官」と呼ばれているので、ラムセス11世の治世の間下エジプトにおける事実上の権力者だったと考えられて来ました。ウェンアメンが旅立った「治世5年」は従来ラムセス11世界の時代のウヘムメスート「再生」の時代(ラムセス11世の治世23年)と関連づけられます。だから、スメンデス1世はまだ王ではあり得ませんでした。彼の名前もカルトゥーシュで囲まれていません。しかし、「治世5年」とテーベの棺のラベルに記された「治世6年」はスメンデス1世自身に関連づけられるかもしれません。カルトゥーシュで囲まれていないことは重要ではありません。他方、K. ヤンゼン=ヴィンケルン氏はそれらの日付をヘリーホルの日付であるとします。スメンデス1世の地位は、タニスがすでにこの時代に王都だったかどうか、あるいはラムセス11世の死後これまで推測されてきた権力掌握のずっと後に、ペル・ラムセスに代わって第一の都市にした港だったかによります。治世年数26年。

ウェンティ氏によれば、メンデス1世はおそらくヘリーホルと妻ネジェメトの息子です。キッチン氏によれば、スメンデス1世はラムセス11世の娘婿です。そして、スメンデス1世の妻ターネトアメンはラムセス11世の娘だったのではないかと議論されています。しかし、ターネトアメンの父の名前はネブセニと呼ばれ、王族ではありません。スメンデス1世とターネトアメンの娘ヘヌートターウィはアメン神官長ピネジェム1世と結婚しました。

スメンデスはメンフィスにも住みました。上エジプトはテーベのアメン神官長たちの支配下にありました。

王の記念碑は、ゲベレインのそばのディバビエの採石場の石碑(ナイル川の大洪水で破壊されたルクソール神殿周壁の修復させ、エジプトの主権を主張)と、モント神殿の前庭にあるトトメス1世の門のセティ1世の場面に加えられた王の像と名前だけです。テーベの埋葬とグラフィティーにおける王名を伴わない日付(治世1〜21年)はおそらくスメンデス1世のものです。

王がタニスに埋葬されたことはそこから出土した王のカノポス壷によって暗示されます。しかし、王墓とミイラはまだ発見されていません。

ディバビエの採石場の石碑の碑文の英訳については、下記のURLをご覧下さい。

http://www.reshafim.org.il/ad/egypt/texts/stela_of_smendes.htm

スメンデス1世については、下記のURLをご覧下さい。

http://touregypt.net/featurestories/smendes.htm

★アメンエムネスート王

誕生名 : アメンエムネスート・メリーアメン、即位名 : ネフェルカーラー・ヘカーワセト。

王の唯一の同時代の証拠はタニスにあるプスセンネス1世王墓から発見された弓のキャップで、両王の称号群が記されています。メンフィスの神官家系図(Berlin 23673の石碑)によれば、王はプスセンネス1世の前任者ですが、マネトーの『エジプト史』では、プスセンネス1世の後に配列されています。おそらく王は即位時に高齢だったため、治世の終わり頃プスセンネス1世を共同統治者にしたと思われます。治世年数4年。

キッチン氏によれば王の治世初めに、ヤンゼン=ヴィンケルン氏によればアメン神官長メンヘペルラーの在職期間に、アメン神の神託がハールガ・オアシスに追放された敵の帰還を命じました(Louvre C256の石碑)。王の時代のメンフィスのプタハ神官長はアシャヘトです。

Louvre C256の碑文の英訳については、下記のURLをご覧下さい。

http://www.specialtyinterests.net/maunier.html

http://nefertiti.iwebland.com/texts/banishment_stela.htm

★プスセンネス1世

ホルス名 : カーネヘトエムデドアメン、二女神名 : ウルメヌーエムイペトスート、黄金のホルス名 : セマーヘペルー・デルペジェト9・イチエムセヘムエフターウネブー、誕生名 : パーセバーハーエヌニウト・メリーアメンあるいはパーセバーハーエヌニウトあるいはラーメススー・パーセバーハーエヌニウト、即位名 : アアヘペルラー・セテプエンアメン(メリーアメンを伴うこともある)。さらに、タニスの聖域におけるヘムネチェルテピーエヌアメン(「アメン神の第一神官」)の称号も持つ。

アメン神官長ピネジェム1世とへヌートターウィ(スメンデス1世とターネトアメンの娘)の息子。正妃は姉妹のムートネジェメト。さらに姉妹のマートカーラーはアメン神妻、兄弟のマサハルタとメンヘペルラーはアメン神官長。妾妃ウイアイとの間にメンヘペルラーの妻イシスエムアフビトが生まれる。第20王朝との血縁関係が王の誕生名ラーメススー・パーセバーハーエヌニウトと王の息子かつ最高軍司令官の名前ラーメススー・アンフエフエンムート(母ムートネジェメト)によって示されています。王と正妃ムートネジェメトの息子アメンエムイペトが王の後継者となる。治世年数49年。

治世初めの短期間アメンエムネスート王と共同統治を行う。王の対外政策は知られていませんが、王墓から発見された襟飾りを構成する玉には、楔形文字で記されたアッシリアの宰相イバシュシ・イルの長女への献辞が見られます。この襟飾りは交易で得られたか贈り物として受け取ったものと思われます。

王は建設事業とタニスの王墓の財宝で際立っています。タニスでは神殿境内を厚さ20mの周壁(内側の周壁、王墓もこの中に造営されました。)で囲み、アメン大神殿の建設を始めました(礎石の副葬品が置かれました)。第20王朝の創設者ネクタネボ1世が建設したコンス神殿の境内から王の治世のヒヒ像が出土しています。南の神殿からも他の断片が発見されています。王のカルトゥーシュがピネジェム1世のカルトゥーシュと一緒に彫られたいくつかの石材が発見されています。

1940年2月にピエール・モンテ氏がタニスで未盗掘の王墓(NRT3)を発見しました。そこには王自身と、正妃ムートネジェメト、王子アンフエフエンムート、将軍かつあらゆる神々の神官たちの長官ウェンジェバウェンジェド(黄金のマスク)が埋葬されました。後から、ムートネジェメトのために用意された墓室にアメンエムオペト王が、前室に第22王朝シェションク2世(銀製のハヤブサの頭部の棺)が埋葬されました。王の外棺はメルエンプタハ王から奪った赤色花崗岩製の棺です。その中に収められていた第二の棺は花崗閃緑岩製、最も内側の第三の棺は銀製でした。豪華な副葬品には黄金のマスク、金製・銀製の容器、襟飾り、腕輪があります。しかし、王のミイラは骨まで崩れていました。

王の二女神名(「カルナックにおいて記念碑の多い者」の意)に反して、王はテーベでは建設事業を行ったことはありませんでした。テーベではメンヘペルラーがアメン神官長として勤務していました。ギーザではクフ王のピラミッドのそばの第三の王妃のピラミッドに「ピラミッド群の女性支配者イシス女神」のために小神殿を建設しました。ダーフラ・オアシスでは治世19年に土地登録簿に関する言及があります。その他にはマンザラ湖のほとりのテンニスで彫像の台座が発見されています。プスセンネス1世あるいは2世の葬祭礼拝が第22王朝にテーベで証明されています。

アメン神官長プスセンネス1世の息子メンヘペルラーはテーベの反乱を鎮め、反逆者たちを一時オアシスに追放したことが「追放ステラ」(Louvre C256)から知られています。また、エル・ヒバに自分の一族のために防衛拠点を再建しました。王の治世40〜48年にカルナック神殿の周壁の新築と神殿の視察を監督しました。メンヘペルラーの長男スメンデス2世が彼の後を継ぎ、王の副葬品として足輪(Cairo, JE85781)を寄贈しました。

王の治世の高位の人物として、ウェンジェバウェンジェドの他に侍従長ネシエンアメンとその息子アンフエフエンアメン(タニスに礼拝堂付属の墓)が知られています。

治世末(治世47〜49年)にアメンエムイペトが共同統治者となる。1979年にテル・サミで、タニスのアメン大神殿あるいは王墓の上部構造で発見された王の葬祭礼拝のための供物卓が押収されています。

タニスについては、下記のURLをご覧下さい。

http://www.touregypt.net/featurestories/tanis.htm

http://www.egyptologyonline.com/tanis.htm

http://ib205.tripod.com/tanis-5.html

王墓については、下記のURLをご覧下さい。

http://touregypt.net/featurestories/tanistombs.htm

http://www.narmer.pl/map/tanis_en.htm

王の石棺とミイラについては、下記のURLをご覧下さい。

http://ib205.tripod.com/psusennes-mummy.html

★アメンエムイペト王

誕生名 : アメンエムイペト(メリーアメンを伴うこともある)、即位名 : ウセルマートラー・セテプエンアメン。さらに、タニスの聖域におけるヘムネチェルテピーエヌアメン(「アメン神の第一神官」)の称号も持つ。

プスセンネス1世とムートネジェメトの息子。サーアメンが王の息子かどうかは不明。王の後継者は大オソルコン(オソコル)。K. A. キッチン氏は王が2年間プスセンネス1世と共同統治したと主張していますが、K. ヤンゼン-ヴィンケルン氏はそれを否定しています。治世年数9年。

テーベの神官のミイラの包帯の上書き「治世年数<49>年」については、K. A. キッチン氏はアメンエムイペト王ではなく、プスセンネス1世と関連づけ、K. ヤンゼン-ヴィンケルン氏はアメン神官長メンヘペルラーの最後の在職年と解釈しています。王の治世のテーベのアメン神官長はスメンデス2世、次いでピネジェム2世です。旧約聖書列王記上11章14-22節に記されているエドムの皇太子ハダドを庇護したエジプト王はおそらくアメンエムイペト王ではありません。

王の建設事業については、ギーザのピラミッド群の女性支配者イシス女神の小神殿の石材とメンフィスのプタハ神殿出土の石材が知られるのみです。王はタニスのNRT4に埋葬されましたが、後にサーアメン王によってNRT3のムートネジェメトのために用意された墓室に埋葬されました。1940年4月16日にピエール・モンテ氏が王墓を開けた時、黄金のマスク、二つの襟飾り、二つの胸飾り、腕輪、指輪、金製・銀製の容器、ハヤブサの形の胸飾りを見つけました。

★大オソルコン(オソコル)王

即位名 : アアヘペルラー・セテプエンラー。治世年数6年。

J. ヨヨッテ氏によれば、カルナック・コンス神殿の屋根に記された神官の系図の中の「ファラオ・オソルコン」と同定されます。その系図によれば、父はメシュウェシュの大首長シェションク、母はメヒートエヌウセヘト(あるいはメヒートエムウセヘト)。兄弟はメシュウェシュの大首長ナムルト。マネトーは『エジプト史』の中でオソコルと記しています。第22王朝の創設者シェションク1世の伯父あるいは祖父か? 王の記念碑は今までタニスで発見されていません。

★サーアメン王

ホルス名 : カーネヘト・メリーマート・サーメリーエヌアメン・ペルエムハーウエフあるいはカーネヘト・メリーマート、誕生名 : サーアメン・メリーアメン、即位名 : ネチェリヘペルラー・セテプエンアメン(メリーアメンを伴うこともある)。治世年数19年。

テーベではピネジェム2世がアメン神官長として勤務。ピネジェム2世の死後、王の治世10年に、諸王のミイラがデル・エル・バハリの隠し場所(DB320)に移されました。ピネジェム2世の後継者はプスセンネス2世(フォン・ベッケラート氏によれば、タニスにいるファラオ・プスセンネス2世と同名の別人)です。

王は建設活動で目立った業績を残しました。タニスではアメン神殿の前に列柱室を追加し、プスセンネス1世によって建てられた礼拝堂をパレスティナ遠征勝利図で装飾しました。おそらく王はアメンエムイペト王をプスセンネス1世の墓の中に再埋葬させました。メンフィスではプタハ神官長ピピと神官アンフエフエンムートによって「ラピスラズリの所有者、アメン神」に捧げられた神殿を建てさせました。その他に、青銅製のスフィンクス、テル・エル・ダバ出土の王名を記された石材、ヘリオポリスのトトメス3世のオベリスクに追加された碑文の一行、プタハ神官による土地購入の確認書を記した石碑、アビュドスのグラフィート、カルナックの神官年代記への記入(ミイラの包帯に記されたサーアメンの治世による日付、第10ピュロンのアメン神の神託、ヘヌートターウィとネスコンスのための勅令など)が王の支配を証明しています。

前述のタニスの遠征勝利図と旧約聖書の記述から王のパレスティナにおける外交政策が知られます。イスラエル統一王国のダビデ王の死後、エジプトの大オソルコン王の下に亡命し、そこで王妃の姉妹と結婚したエドムの皇太子ハダドはエラムに帰国しました。ソロモン王がイスラエル統一王国の治世開始後、サーアメン王はフィリスティア(ペリシテ)人に対して遠征を企てました。この攻撃の痕跡はアシュドドとテル・ファラ(シャルヘン、サーアメン王のスカラベ出土)に見られます。征服されたゲゼルの町は王の娘がソロモン王に嫁ぐ時の持参金となりました(旧約聖書列王記上9章15-16節)。エジプトの王女が外国の王と結婚することは第20王朝でもまだ考えられないことでした。このようにしてエジプトとイスラエル統一王国の同盟が固められました。

王はタニスに埋葬されたと思われますが、王墓はまだ見つかっていません。

★プスセンネス2世

誕生名 : パーセバーハーエヌニウト・メリーアメンあるいはホル・パーセバーハーエヌニウト・メリーアメン、即位名 : ティトヘペルーラー・セテプエンラー。治世年数14年。

父がテーベのアメン神官長ピネジェム2世で、母がイシスエムアフビトならば、王はテーベのアメン神官長プスセンネスと同一人物(フォン・ベッケラート氏によれば、タニスにいるファラオ・プスセンネス2世と同名の別人)。A. ドドソン氏によれば、第22王朝の創始者シェションク1世の治世中にアビュドスかどこかに存在した一地方支配者で、王に割り当てられた治世年数14年は削除されるべきだそうです。

王の娘ターネトセペフはメンフィスのプタハ神官長シェドスーネフェルテムと、もう一人の王の娘マートカーラーは第22王朝オソルコン1世(シェションク1世の息子)と結婚しました。従って、王はシェションク2世の祖父になります。カルナックの第7ピュロンに記された勅令は、マートカーラーがテーベ地方で獲得した土地所有を保護しています。

王の治世の存在を示す証拠は二つしかありません。一つはアビュドスのセティ1世葬祭神殿の中のプタハ神の礼拝堂に記されたヒエラティックのグラフィートで、王は上・下エジプト王、アメン・ラー神官長、軍事指揮官として言及されています。もう一つはアビュドスの初期王朝の墓地で発見された王名を記された土器片です。ウシャブティの発見から王が埋葬されたことが知られています。カルナックで発見されたシェションク1世が奪ったトトメス3世の小像の碑文に、王の即位名と誕生名が記されています。

同時代人にメンフィスのプタハ神官長アンフエフエンセクメト、ブバスティスに本拠地を持つメシュウェシュの首長シェションクがいます。

第21王朝の王たちとテーベのアメン神官長たちについては、下記のURLをご覧下さい。

http://ib205.tripod.com/21st_dynasty.html

テーベのアメン神官長については、下記のURLもご覧下さい。

http://euler.slu.edu/~bart/egyptianhtml/kings%20and%20Queens/High_Priests_of_Amun.html

http://www.cesras.org/Prd/TIP/Chro21-21a.html

第21王朝の史料集として、Karl Jansen-Winkeln, Inschriften der Spätzeit, Teil 1 : Die 21. Dynastie, Wiesbaden, 2007があります。

☆テーベのアメン神官長

1. ピネジェム1世

第21王朝スメンデス1世、アメンエムネスート、プスセンネス1世の時代のテーベのアメン神官長。父アメン神官長ピーアンフ、母ヘレレト。スメンデス1世とターネトアメンの娘ヘヌートターウィと結婚。この結婚によって、アメン神妻マートカーラー、テーベのアメン神官長メンヘペルラー、プスセンネス1世とその妻ムートネジェメトが生まれる。二番目の妻イシスエムアフビト(プスセンネス1世の娘)との間にテーベのアメン神官長マサハルタとジェドコンスイウエフアンフが生まれる。三番目の妻ターネトナベヘヌートも知られています。

ラムセス11世の死亡時に、スメンデスと自分との互いに勢力範囲を認める取り決めを行い、スメンデスの王権を受け入れました。北はエル・ヒバの要塞から南はアスワンのセーヘル島まで軍事指揮官かつ上エジプト総督として証明されます。テーベ地域ではルクソールのヒエログリフの三つのグラフィティ、メディネト・ハブの奉納碑文と修復が知られています。スメンデス1世の治世1年にヘリーホルの妻ネジェメトを埋葬し、治世6年にトトメス2世とアメンヘテプ1世を、治世12-15年にアメンヘテプ3世とラムセス2世とラムセス3世の再埋葬を行いました。

K. A. キッチン氏によれば、スメンデス1世の治世15年から王号を名乗りました。ひざまづいて供物を捧げる王としての小像、カルナックの第2ピュロンの前の巨像、コンス神殿のピュロンと門の装飾の完成がその証拠です。K. ヤンゼン-ヴィンケルン氏はその数年前から神官長職とともに王権を主張していたと考えています。

ピネジェム1世が採用した王名は次の通り。ホルス名 : カーネヘト・メリーアメンあるいはへカーターウィウルネヘトゥーアアペフティーネブシェフィートあるいはカーネヘト・ハーエムワセト、即位名 : ヘペルハーウラー(セテプエンアメンを伴うこともある)、誕生名 : パーイネジェム(メリーアメンを伴うこともある)。

スメンデス1世の治世16年にピネジェム1世の息子マサハルタがテーベのアメン神官長職を継ぎ、治世19年にアメンヘテプ1世と王妃メリトアメンの再埋葬を行いました。

ピネジェム1世の王としての建設活動の証拠は、カルナックの第2ピュロンまでのスフィンクス参道の横領と碑文の書き直し、コンス神殿の外壁とオシリス神礼拝堂とムート神殿のセクメト女神像に彫られたカルトゥーシュ群、アビュドス出土の祭壇(UC16127)です。王としてのピネジェム夫妻はアビュドス出土の個人供養碑にも現れ、明らかにタニスでも承認されていました。

「追放ステラ」(Louvre C256)は重要な官職の大部分を占めたピネジェム1世とその一族に対する重大な反抗を暗示させます。この敵はスメンデス(キッチン氏)あるいはピネジェム1世(ヤンゼン-ヴィンケルン氏)の治世25年にハルガ・オアシスに追放され、アメンエムネスート王(キッチン氏)あるいはメンヘペルラー(ヤンゼン-ヴィンケルン氏)の治世1年に赦免されました。

プスセンネス1世の治世中に王女イアフメス・サトカーメス、セティ1世(治世7年)、イアフメス1世、王子サーアメンの再埋葬が行われました。この措置は第20王朝から第21王朝への移行期に起こった王墓略奪から王のミイラたちを救うためでした。ピネジェム1世はさらに王家の谷のアメンヘテプ2世王墓にトトメス4世、アメンヘテプ3世、メルエンプタハ王、サープタハ王、セティ2世、ラムセス4世、ラムセス5世、ラムセス6世の遺体を移しました。

タニスではこの時代からプスセンネス1世とピネジェム1世の共同の3つの石材が発見されています。

ピネジェム1世はトトメス1世の再利用された棺に埋葬されました。ミイラはデル・エル・バハリの隠し場所(DB320)で発見されました。

ピネジェム1世については、下記のURLもご覧下さい。

http://www.cesras.org/Roi/21D/Paynedjem-I.html

http://www.touregypt.net/featurestories/pinedjem1.htm

http://ib205.tripod.com/pinudjem-1.html

DB320から発見された第21王朝のミイラたちについては、下記のURLをご覧下さい。

http://anubis4_2000.tripod.com/mummypages1/21A.htm

http://anubis4_2000.tripod.com/mummypages1/21B.htm

2. マサハルタ

ピネジェム1世とイシスエムアフビトの息子。兄弟姉妹にプスセンネス とその妻ムートネジェメト、メンヘペルラー、ジェドコンスイウエフアンフがいます。ピネジェム1世が王になった時(スメンデス1世の治世16年)、アメン神官長職に就き、約8年間在職しました。エル・ヒバ発見の書簡によると、彼はピネジェム1世より前に病気で死亡。ミイラはDB320で発見され、太った中年男性だったことが分かりました。ジェドコンスイウエフアンフはマサハルタとメンヘペルラーの間に短期間アメン神官長職に就く。

カルナックの第9ピュロンの東側の小さな通路とレリーフ、ブリュッセルにあるハヤブサ神像(BrE.5188)、彼の墓からのウシャブティが彼の時代のものです。テーベでは王のミイラの再埋葬をしました。

マサハルタについては、下記のURLもご覧下さい。

http://www.tt320.eu01.org/masaharta.html

http://anubis4_2000.tripod.com/mummypages1/DB320Coffins/MasahartasCoffins.htm

3. ジェドコンスイウエフアンフ

4. メンヘペルラー

ピネジェム1世とヘヌートターウィの息子。兄弟姉妹はプスセンネス1世とその妻ムートネジェメト、マサハルタ、アメン神妻マートカーラー。妻はプスセンネス1世の娘イシスエムアフビト。二人の息子スメンデス2世とピネジェム2世の他に9人の子供たちが知られています。ジェドコンスイウエフアンフの後継者。「追放ステラ」によると、スメンデス1世(キッチン氏)あるいはピネジェム1世(ヤンゼン-ヴィンケルン氏)の治世25年にアメン神によって任命される。その後ダフラ・オアシスに追放された敵は赦免された。ミイラの包帯に記された治世48年と49年は、キッチン氏によればプスセンネス1世の治世年数を表し、ヤンゼン-ヴィンケルン氏とA. ニウィンスキー氏によればメンヘペルラー自身の在職年数を表します。

エル・ヒバ出土のレンガでは王の称号「上・下エジプトの王」と神官長職の称号あるいは彼の誕生名が二つのカルトゥーシュの中に記されています。リオ・デ・ジャネイロには王の腰布を着用した彼の小像(CR.76, Inv. 81)があります。

彼は中エジプトのエル・ヒバに要塞を再建し、ナズレト・エル・シュラーファにも新しい要塞を建造し、さらにテーベ地域のクスとゲベレインにも要塞を建造しました。テーベではカルナックとルクソールのアメン神殿、ムート神殿、コンス神殿、プタハ神殿、モント神殿、マート神殿を視察したことが、カルナックの神官たちの年代記及びコンス神殿の神託テクストから知られています。カルナックで発見された48年の石碑ではカルナック神殿とその前に広がる住宅群を保護するために壁を建設したことが述べられています。同様な措置がルクソールでも取られたことはレンガとメンヘペルラーの碑文から知られます。在職中に母ヘヌートターウィが死亡し、アメン神妻マートカーラーを埋葬し、セティ1世を再埋葬しました。

5. スメンデス2世

メンヘペルラーとイシスエムアフビトの長男。メンヘペルラーの後継者かつピネジェム2世の前任者。プスセンネス1世の治世48年に就任。しかし、アメンエムイペト王の治世に死亡。在職期間は2年。

プスセンネス1世の埋葬の際に寄贈した足輪、アメンエムイペトと一緒にネスーバネブジェドを埋葬。カルナック神殿の第10ピュロンの地翌零は彼の未亡人へヌートターウィの所有権を保証しています。第10ピュロンの中庭で1977年に発見された石板にはピネジェムの息子メンヘペルラーとイシスエムアフビトとスメンデス2世の名前が記されています。

もう一人の妻ターへヌートジェフーティーとの間に二人の娘イシスエムアフビトとネシコンスが生まれる。彼の娘ネシコンスは彼の後継者かつ彼女の伯父に当たるピネジェム2世と結婚。

スメンデス2世については、下記のURLもご覧下さい。

http://ib205.tripod.com/smendes_2.html

6. ピネジェム2世

アメンエムイペト王、大オソルコン、サーアメン王時代のテーベのアメン神官長。メンヘペルラーとイシスエムアフビトの息子かつスメンデス2世の兄弟。姉妹かつ妻のイシスエムアフビトと結婚し、プスセンネス2世が生まれる。二番目の妻はスメンデス2世の娘ネシコンス。多数の神官職を手中にし、相当な収入を得る。妻ネシコンスは南方諸国の首長かつヌビア総督の称号を持つ。これらの称号が名誉称号なのか実際にその役割を果たしていたのかは不明。

カルナックの第10ピュロンの重要なテクスト(治世2〜5年の日付有り。ただしどの王の日付かは不明)は、ある犯罪行為のかどで起訴された官僚についての神託の決定を述べています。

ピネジェム2世はサーアメン王の治世10年に死亡。ピネジェム2世と妻ネシコンスは、かつてイアフメス王の妻インハピの墓だったDB320(C.N.リーヴズは否定)に埋葬されました。この墓はすでに40の王たちの棺とミイラ(セケンエンラー、イアフメス、アメンヘテプ1世、トトメス1〜3世、セティ1世、ラムセス1〜3世、ラムセス9世)の隠し場所になっていました。

ピネジェム2世については、下記のURLもご覧下さい。

http://ib205.tripod.com/pinudjem_2.html

http://anubis4_2000.tripod.com/mummypages1/DB320Coffins/PinudjemIICoffins.htm

第21-26王朝の史料集として、Robert K. Ritner, The Libyan Anarchy : Inscriptions from Egypt's Third Intermediate Period, Atlanta, 2009があります。

新王国第20王朝から末期王朝第26王朝までの最新の情報については、Aidan Dodson, Afterglow of Empire : Egypt from the Fall of the New Kingdom to the Saite Renaissance, The American University in Cairo Press, 2012をご覧下さい。