古代エジプトの歴史        2008年6月16日  西 村 洋 子

23. 第三中間期(紀元前1,069〜715年頃)(1)

第21〜24王朝(リビア時代)

第三中間期の間とそれ以前にエジプトに定住したリビア人たちは、新王国の間エジプトの安全を脅かした主要なグループ、すなわちメシュウェシュ(あるいはマと呼ばれる)とリブでした。彼らの故郷はキュレナイカだったように思われます。彼らはそこで、定住の証拠もいくらかありますが、主に遊牧生活を基盤とした経済に従事しました。エジプトの西の端に沿ってこれらの人々が徐々に侵入して来たことはおそらくこの地方に限られた出来事でした。メルエンプタハ王とラムセス3世時代の大規模な移住の頂点は、おそらく北アフリカ沿岸に沿って海の民が侵入してきたことと地域の食料不足のために、キュレナイカで起こった住民たちの入れ替わりの結果だったように思われます。おそらく追加の要因として、新王国末のリビア人たちの間でもっと具体的な政治的協力と軍事的組織化の発展がありました。このことはエジプト定住へのもっと建設的な刺激を促したかもしれません。ラムセス3世の後継者たちの時代に着実な到来が続きました。リビア人たちの間にさまざまな住民グループが存在したことと彼らの半遊牧的な生活様式は疑いもなく、大小様々なグループが別々にエジプトに移動したことを意味しました。これらのリビア人たちのあるものは第20王朝の諸王の政策で軍事共同体に定住させられた捕虜か傭兵たちでした。

エジプト社会におけるリビア的要素

多数のこれらのリビア人たちはメンフィスとヘラクレオポリスの間の地域および西部砂漠のオアシスに定住させられました。しかしはるかに彼らが最も集中していたのは西デルタにでした。ここへの定住はリビア人たちの故郷に地理上近接した地域だったということによって、さらにまたエジプトの王たちにとってこの地域が比較的重要でなかったということによって、容易にされました。その地域は人口がまばらで、農業生産性が低く、主に家畜を放牧するのに利用されました。

新王国の終わり頃リビア人たちの増大する軍事的政治的有能さのために、彼らの首長たちは地域で影響力がある地位を得ることが出来ました。既にエジプトでは土地を勤務に対する報賞として与えられ、行政の高い官職に登ることが出来た元軍人階級が生じていました。リビア人傭兵グループの首長たちはおそらくこの状況をうまく利用できました。このようにして、それぞれが重要な町を根拠地として、それぞれが一人のリビア人首長に支配されて、多数の侯国が発展しました。それらはデルタだけではなく、ナイル河谷に沿った戦略上重要な地点、特にメンフィスとヘラクレオポリス周辺地域に発展しました。残念ながら、第21王朝の証拠の少なさがこれらの首長たちが権力を握った正確な段階を隠します。しかし、高い軍事上の位階を持つリビア人たちは第三中間期の始まりからヘラクレオポリス地域で証明され、第21王朝後半にタニスで王座にあったオソルコンという名の支配者の出現は、彼らがエジプト社会の第一位に達した最も明白なしるしです。

リビア人の権力の統合はおそらく様々な方法で達成されました。第21王朝における神権政治的統治形態の発展は、疑いなく彼らの政策に神の権威を加えることによって重大な移行期に彼らの統治を快くすることを助けました。エジプト社会への統合はさらに文化変容によって高められたでしょう。新王国の間増大する諸外国とそれらの慣習との接触はエジプトを種々雑多な住民からなるコスモポリタン社会にしましたが、外国人定住者たちはまだエジプト人化の過程を経験しました。それは主にエジプト名、エジプトの衣服、エジプトの埋葬習慣の採用に現れました。リビア人たちの文化変容の証拠は、それは決して決定的ではありませんが、例としてあげられます。ナイル・デルタとキュレナイカのリビア人たちの故郷の乏しい考古学上の証拠による裏付けのゆえに、このイメージはさらなる調査によって変えられるかもしれませんが、エジプトのリビア人たちに典型的な物質文化の跡はありません。もっと意義深いことに、第21〜24王朝のリビア人たちはエジプトの画像やテクストの記録に「外国人」として現れません。新王国の芸術でリビア人たちと関連づけられた明白な民族的特徴(黄色い肌、片方に垂らした巻髪、刺青、羽根のついた頭飾り、ペニスサック、装飾された長衣)はもはや現れません。もっともこれは、リビア人たちが外見の忠実な反映としてよりもむしろイデオロギー上の理由でそのような描写においてエジプト人から区別されていたので、まったく驚くべきではありません。同様に、伝統的なエジプトの衣服、象徴物、身体的特徴でリビア人出身の王や官僚たちを描写することは、おそらくエジプト人住民たちに彼らの権威の容認を促進するための懐柔策でした。それは必ずしも全体の統合が達成されたことを意味しません。実際にはリビア人たちが彼らの民族アイデンティティーの大きな尺度を持ち続けたいくつかのしるしがあります。彼らの独特で非エジプト的な名前−オソルコン、シェションク、タケロットほか−はエジプトにリビア人たちがやって来た後何世紀も存続しました。もっと早い時代には外国人たちは通常1〜2世代の間エジプト名を採用するか与えられました。同様にリビアの首長の称号はエジプトでの定住の後もずっと保持されました。そして、髪に着けられた羽根はメシュウェシュとリブの首長たちの顕著な目印として存続しました。彫像や葬祭用品に記された長い系図はリビア時代のテクストの最も典型的な特徴ですが、第21王朝末以前のエジプト語の碑文では普通ではありませんでした。そのような記録の増大は明らかに親族関係に付与された新しい重要性と家系の詳細な系図の保存を反映しています。それは大いに口承に基づいた類いの証拠であり、リビア人社会のような無文字社会の重要な特徴である傾向にあります。

リビア人とエジプト人は非常に異なる文化背景を持ちました。リビア人は恒久的な建築物の伝統を持たない、無文字で、半遊牧の文化を持ち、エジプト人は正式な制度と記念碑の建設の長い伝統がある、文字と定住の文化を持ちました。リビア人出身の諸王と支配者たちは約400年間エジプト全体あるいは大部分を支配し、あるものはクシュ人たちの下で権力を保有し続けました。それゆえ、この時代に起こったエジプトの行政、社会、文化における主要な変化のうちのいくつかはこのような社会の混合に起因したかもしれないということが非常にありそうです。

権力構造と政治地理

第三中間期の間のエジプトの最も典型的な特徴は国の政治的分裂です。この地方分権は第三中間期を新王国から区別するエジプトの統治上の主要な変化の結果でした。重要な諸要素はリビア人首長たちが有力な地位に長期間存続したことと王の権威の無力化です。特に重要なのは地域の独立への刺激と経済資源への接近と管理に対する緊張状態を生み出した、同族や地方支配者たちへの例外的な権力の授与という王の政策でした。

新王国には、王の親族の大多数は注意深く有力な行政力と軍事力から排除されており、そのことによって王の権威への潜在的な脅威を無効にしていました。しかし、第三中間期には王の息子たちは前例のない行政上の権力を与えられ、かなりの自治を享受した主要な町を任されて配置されました。これらの町のうち主要なものはメンフィス、ヘラクレオポリス、テーベでした。ホルサーアセトの神官長職まで(紀元前860年頃)第22王朝のテーベの神官長たちは全員現在統治している王の息子たちで、これらの地方の王子たちの多くは自分たちの意のままになる軍事力も持っていたので、このことは政治的な一連の出来事を主に暗示していました。

同時に有効だったのは行政、神殿、軍事上の官職が地方一族の世襲の神官職になることを可能にした王の政策でした。高位の官職は新王国には時々父から息子へ継承されましたが、その過程は決して自動的ではありませんでした。第三中間期にはその慣習は特定の地方に限られるようになりました。すでに第21王朝にアメン神官長職と大将軍職はたった一つの一族によって支配されました。王の息子たちをテーベの神官長として、他の王の部下たちを他の神官長職に任命することによってこの独占の衰弱させる効果を出し抜こうとした第22王朝初めの支配者たちによる試みは、その傾向を停止させませんでした。前者は実際には地方分権を推進し、後者の場合には世襲の原則はすぐに再主張されました。その慣習の効果はテーベでは明らかです。葬祭用品と神殿の彫像に記された系図を示す碑文は何世代も間地域の一族の間で行政上の重要な官職と神官職が世襲されたことを示します。祖先たちの名前の前のmi nenという句(「同じ官職の(者)」)がこの時代の系図に現れることは官職の後の世代への継承がごく普通になっていたことを示します。これらの一族は彼ら自身の地位を他の官僚たちの一族との結婚によって強化し、地方の中心地を支配する有力な地域エリートを生み出しました。宰相、国庫長、穀倉の長官のような、伝統的な中央集権化された政府の官僚たちは、新王国には地方の独立の抑止力を構成しましたが、今や地域的な影響力しか及ぼさず、南の宰相の場合と同様に彼ら自身主要な地方貴族のメンバーでした。

これらの状況下で、地域の中心地の独立と傍系の王朝の興隆は事実上避けられませんでした。地方分権の過程はデルタで最も目立ちました。ここではいくつかの地方の中心地がリビア人首長たちの支配下に入り、これらのうちのいくつか、特にサイスとレオントポリスは、ついに第22王朝の傑出を顔色なからしめました。第22王朝の影響力の範囲は最終的にタニスとブバスティスの周囲の小地域に縮小されました。上エジプトにおける状況は、北部よりも大きな領土の結合力を保持したけれども、似ていました。テーベはこの時代全体を通じて優勢で、その重要性はアメン神の主要な礼拝センターとしてのステイタスと、最も有力な地域のエリートの焦点であるということに基づきました。

この進行する分裂に対する諸王の態度は重要です。第一・第二中間期には、二人かそれ以上の支配者たちの間でのエジプト内の権力の分割ははっきりと受け入れがたいと認識されました。しかし、第三中間期には地方分権は一貫して否定的観点から見られませんでした。長期間王の親族を権力ある地位に任命することと王の娘たちを重要な地方の長官たちと結婚させることは、王の権威を強める措置とみなされるかもしれません。しかし、両方が逆の効果を生み出し、地域の支配者たちの権力基盤を強化することによって地方分権を推進しました。シェションク3世(紀元前825〜773年)は、第22王朝の衰えていく権威を心配して、地方のエリートたちに対する支配の措置を保有する手段として、意図的に傍系の王家、すなわち第23王朝を創設したと示唆されてきました。地方分権が受け入れられただけではなく、統治形態として制度化されたと仮定されるならば、よりはっきりとしたイメージが現れます。第三中間期が進むにつれて現れる政治的イメージは名目上大君主である王の支配下にあ(り、しばしば関連があ)る半自治の支配者たちの連合というものです。これはおそらく、そのようなシステムがリビア人たちの社会のような半遊牧社会における統治パターンと一致していると見られるので、行政に対するリビア人たちの存在が影響した例です。この解釈に有利に、この時代の間軍事称号と城塞化された町の突出にもかかわらず、内部抗争への明白な言及は限られ、無政府状態への移行の徴候として解釈されるべきではないということに注意されるべきです。

第三中間期におけるエジプトの政治地理の考察は南北分割の暗示を明らかにします。北部の支配はほとんど完全にリビア人たちの手中にありました。彼らの到来は実際にはデルタの町と耕作には非常に重要でした。メシュウェシュは東部と中央地帯の主要な町(メンデス、ブバスティス、タニス)を占有しました。リブの主要な到来はおそらくメシュウェシュよりも後で起こりました。それゆえ彼らはイマウの周囲のあまり有利ではない西の端に定住しました。彼らはついにサイスの王朝を創設しました。もう一つのグループ、マハスンは南の方で見いだされます。「寄進ステラ」の年代学上かつ空間上の分布はおそらく進行する耕地の利用を反映しています。かつて人の住んでいないあるいは耕されていない地域が乗っ取られるにつれて、彼らはデルタの東の端と西の端から中央へ進みました。ブバスティス、メンデス、セベンニュトス、ディオスポリスのような中心地の半自治の状態はおそらくリビア人の定住の初期の段階の間に確立され、その後の数世紀を通じて保持されました。

上エジプトはデルタほど分断されていませんでした。ヘルモポリス、ヘラクレオポリス、エル・ヒバ、アビュドスのような中心地は重要である一方、テーベは第三中間期の間傑出したステイタスを保持しました。北部からの支配の異常な負担に対する南部の抵抗は、テーベと指導的役割を果たすその官僚たちとともに、紀元前10〜8世紀の頻発する特徴でした。すでに第22王朝初めにこの徴候があります。シェションク1世は、治世初めに彫られた碑文では、「王」よりもむしろ「マの首長」の称号を持ちます。その後、アメン神官長職の資格を与えることは、論争の主要な源になりました。タケロト2世の息子、王子オソルコンの神官職の要求は激しい抵抗を引き起こしました。テーベの人々はタニスのファラオたちの権威よりも、第23王朝の諸王、すなわちペドゥバスティス1世、イウプート1世、その後オソルコン3世とその後継者たちの権威を認める方を好みました。さらに後には、南部の支配者たちはクシュと同盟を結び、クシュの王たちの駆逐の後でさえ、確かにサイスのプサムティク1世(紀元前664〜610年)の最初の何年かと同じくらい後まで、彼らの治世年によって碑文に日付を記し続けました。

政治的な南北分割の根底にあったのは民族の区分でした。名前、称号、系図の証拠は北部の住民が圧倒的にリビア人で、南部の住民がエジプト人であることを明らかにします。このことの反映は物質文化でも認められます。新王国の後、ビジネス文書で使われたヒエラティック文字の発展は二つの異なる形、すなわち北部のデモティックとテーベの「アブノーマル」ヒエラティックを生み出しました。それは北部の行政がテーベにはっきりと認められるほどの影響を与えなかったという徴候です。他の言語学上の変化は新王国の伝統の断絶の徴候を確認します。リビア時代の書記たちは伝統よりもむしろ当時使われている用法を反映した音声上の綴りと文法構造を使いました。ヒエラティック文字はますます記念碑の碑文でヒエログリフの代わりに使われました。これらの発展、特に最後の発展は、北部でもっと普通になり、聞き慣れない慣用句に取り組むリビア人の側に伝統に対する関心の欠如を反映するかもしれません。

王権のイデオロギー

神権政治の重要な側面だったアメン神への世俗の支配者の従属は、第21王朝のリビア人支配者たちに、彼らの新体制に対する神の認可を確保する政治的に好都合な方法として促したかもしれません。アメン神と王との関係は新王国末の間に変化しました。第21王朝における神権政治の確立とともに、王の政治上の独立はその最低点に達し、その行政上の権威は神官長たちの権威にほとんど及びませんでした。確かに、テーベの神官長たちのうちの三人は王らしい称号を採用した一方、ファラオ・プスセンネス1世はアメン神官長としても現れ、その官職が今まで以上に対等に近かったことを示します。テーベの人々の王のアトリビュートの強奪は限られました。というのは、ヘリホルとピネジェム1世は王らしい特権(神々と同じ身長で、王の衣装で飾られ、名前をカルトゥーシュで囲まれる)で描かれたけれども、ヘリホルは神殿レリーフと妻ネジェメトの葬祭パピルスでのみそのように示され、また彼の即位名は単なる称号「アメン神官長」だからです。ピネジェム1世の息子、軍指揮官メンヘペルラーは時たましかカルトゥーシュを使わず、一度だけ王の衣装で描写されました。ピネジェム1世だけがより完全なファラオのステイタスの要求を示し、王の栄誉とともに埋葬されました。この散発的な王権は主に礼拝目的で強奪されたのかもしれません。人間の世界と神々の世界との間の接触点だったのは王だったので、上エジプトのような事実上独立した状態はその役割を果たす者を必要としました。第22王朝の始まりまでに、リビア人たちはしっかりと権力の地歩を固め、それゆえ統治の神権政治的特徴は和らぎました。第22王朝初代の王シェションク1世と彼の後継者たちは王の政治的権威を再び強調しました。しかし、これが紀元前850年の後に弱まった時、権力を振るったのは、アメン神自身よりもむしろ、テーベではまず第一に神官長たちで、次いで「アメン神妻」たちと彼らの官僚たちでした。

紀元前11〜8世紀を通じて、リビア人支配者たちは真のエジプト王としての彼らのステイタスを主張するために伝統的なファラオの支配の外面的な表明を多数使用しました。彼らはファラオの衣装を着用して、完全な5つの王号を伴って描写されました。アメン神の前で敵を討つ王の場面(サーアメン王とシェションク1世に証明されます)はエジプトの敵たちを打ち負かすことによってマート(秩序ある宇宙)を保つという伝統的な役割を象徴し、セド祭の開催は彼らを過去の支配者たちの世代に結びつけました。オソルコン2世(紀元前874〜850年)の治世22年にブバスティスで開催されたセド祭は特別に造られた赤色花崗岩の門の通路にレリーフで記念され、祝典の形で描写された古代の伝統への大いなる固執を示します。外国人たちの支配により大きな正統性を与えるために、王のイデオロギーは注意深く選ばれた方針に沿って発展させられました。これらの発展のうちの一つは王をもっと頻繁にオシリス神とイシス女神の息子、子供のホルス神と同化することです。そのことはシェションク1世以降数人のリビア人たちの王の称号でほのめかされ、女神によって授乳される子供としてのファラオの描写に類例を見いだします。これらの現象は疑いなく土着の住民たちを外国の支配に和解させることを意図されました。ヒクソス、ペルシア人、プトレマイオス人たちはすべてそのような同化が政治的に役立つことに気づきました。しかし、リビア人たちは完全にエジプト化されませんでした。彼らのファラオの衣装にもかかわらず、王たちは新王国の先任者たちの支配とは異なる支配のパターンを好みました。

この明白な例は、それぞれが自分の実際の影響力の範囲とは無関係に「上・下エジプトの王」の称号を与えられた二人以上の「王」が同時に存在することに対するリビア人たちの明らかな寛容さです。このことはリビア人たちが十分に理解することなくエジプトの王権の衣装を採用した単なるしるしではありません。新王国には大いなる重要性が王の称号群の構成内容に付与され、それは各王によって異なり、注意深く考案された統治プログラムを反映しました。しかし、リビア人支配者たちの称号群はこの時代の王の記念碑の正しい帰属を頻繁に妨げる即位名と王のエピセットの単調な繰り返しによって特徴づけられます。

王と王を区別するのがより困難なだけではありません。王と臣下たちの区別もぼやけています。紀元前730年頃のエジプトにおける権力構造は、ピイの「戦勝碑」によって示されるように、メシュウェシュの首長たちを王号をもっていないけれども、王たちと対等の資格で示します。20〜30年後、クシュの支配の終わりに、アッシリアの記録(ラッサム・シリンダー)が、すべての地域の長官たちを称号とは無関係にひとまとめにして、比較できる状況を明らかにします。これらは「王(ネカウ1世、紀元前672〜664年)」、「大首長」、長官、宰相を含みます。王の唯一のステイタスの喪失は多数の方法で明示されます。芸術では、王族でない人がかつて王のために保留された行為を行うのを描かれています。あるリビア人首長がひざまづいて神に捧げものをする小像として描写されています。あるレリーフはメンデスの神々への祭壇上に「精選された肉片」を捧げている別の首長を示します。アメン神官長ともっと位階の低い神官は石碑でマートの図像を捧げています。同じ現象は経済史料、特に「寄進ステラ」に反映されています。新王国にはそのような寄進は王によってのみ企画されました。第三中間期には多数の石碑が神殿の寄進を記録しています。寄進者は時たま王である一方、大多数の場合それはリビア人首長あるいは普通の個人です。人名さえ意味深くあり得ます。メシュウェシュの大首長パディアセトの孫としてセラペウムの石碑に名前を挙げられたアンフ・パディアセトは「パディアセトが生きますように。」を意味する名前を持っています。通常王(王あるいは「アメン神妻」)だけが名前を挙げられるコンテクストでリビア人首長が記念されています。おそらくすべての中で非常に目立っているのは、王の従者たちのメンバーが彼らの主人の埋葬地に割り込むことです。タニスのプスセンネス1世の墓の一室に将軍ウェンジェバウェンジェドが埋葬されていることは、新王国には考えられなかったでしょう。しかし今や王は、主人との結びつきが墓の中でさえ目立っている近親者たちと従者たちのネットワークに支えられた封建領主の特徴をより多く持ちました。

リビア時代の軍事

新王国後、官僚的支配よりもむしろ軍事力がエジプトにおける主要な権威の基盤でした。新しい秩序は軍指揮官によって築かれ、第21王朝を通じて南の侯国の支配者たちは主に将軍でした。第22王朝の支配者たちの任命はたいていの地方長官たちが軍指揮官だったことを確実にしました。これらの称号が純粋な名誉称号ではなかったという事実は彼らの命令下にある要塞や駐屯地への言及によって立証されます。

要塞の建造はこの時代に最も良く証明されている活動の一つです。これらのうちほとんどはわずかな痕跡以上のものによって考古学上証明されていませんが、多くの場所が奉献者たちの名前を捺されたレンガの発見から知られています。この証拠は一連の要塞群が第21王朝の間(特にピネジェム1世とメンケペルラー王の時代に)上エジプトに建てられたことを示します。中エジプト北部(エル・ヒバ、シェイク・ムバラク、テフナ(アコリス))のナイル川東岸にこれらの軍事施設が特に集中していました。これらの要塞からナイル川の交通が注意深く監視され続け、いかなる地域の暴動も素早く鎮圧されました。

エル・ヒバは単なる見張り地点かつ駐屯地以上の要衝地でした。それは第21王朝の間上エジプトの支配者たちの北の司令部かつ国境の要塞でした。将軍ピーアンフとマサハルタに言及する当時のパピルスの書簡がそこで発見され、文学作品「ウェンアメンの物語」「ウルマイの書簡(Tale of Woe)」「アメンエムオペトのオノマスティコン」が記されたパピルスはおそらく同じ付近に由来します。この場所は第22王朝の間重要な軍事司令部として機能し続けました。シェションク1世によってそこに神殿が建てられ、オソルコン1世によって増築されました。さらに後に、その場所はオソルコン王子によってテーベの敵対者たちとの戦いで作戦基地として使用されました。

一般市民の町も第三中間期に軍事要塞の性質を獲得したように思われます。テーベ西岸の行政は新王国終わりの難局の間メディネト・ハブの城塞化された神殿の囲いの中に避難しました。それは明らかに第21王朝の間神官長たちの住居であり続けました。これは他に類のない例ではありませんでした。紀元前730年のピィの軍事遠征の記述はヘルモポリスやメンフィスのような諸都市が城塞化され、攻城に耐えるのに十分強力だったことを示します。エジプト人の生活様式は明らかに習慣上防御的になっていました。

ナイル川に沿って軍隊を重点的に集中配置したことはエジプトに対する支配を強化するというリビア人首長たちの決意に由来したかもしれません。テーベのよく証明された外部からの支配に対する抵抗とともに、このことはおそらくクスとゲベレインのような南の場所に第21王朝の要塞が設置されたことを説明します。それらの要塞はナイル河谷の外側からの攻撃に対して防衛するのにほとんど役に立たなかったでしょう。ピネジェム1世の治世の間にテーベ地域で反乱が起こりました。しかし、その性質はよく知られていません。確かに、それは悪党のうちの数人を赦し、彼らが罰として追放されたオアシスから彼らを呼び戻すことを記念して神官長メンヘペルラーによって建立された石碑から知られるのみです。一世紀後テーベの反逆者たちとのオソルコン王子の戦いはこの地域における威信を保持するために軍事力を引き続き必要としたことを立証しました。

第三中間期におけるエジプトの支配者たちのあまり冒険的でない対外政策は国内の状況の論理的相対物として見られます。ますます地方分権化する体制下で、エジプト内の秩序を維持するために必要とされた利用できる軍事力の実質的な部分を使って、軍事上の努力と一貫した拡張主義的対外政策を追求するのに必要な経済資源への専念はおそらく果たされなかったでしょう。

第21〜24王朝における経済と資源管理

第21〜24王朝の期間は新王国の間に建てられた類いの巨大な王の石の記念碑の少なさで目立っています。タニスにあるそれらを除いて、王の建築活動は主として存在している建築物へのわずかな増築と修理に限られました。この活動の削減されたレベルは特にタニスで明白な現象、すなわち記念碑と資材の大規模なリサイクルに一致します。タニスではたいていの石造物−石材、柱、オベリスク、彫像−がペル・ラムセスとその他の町から運ばれ、彫り直されるかあるいは修正無しで単に建て直されました。他の時代の制作物から判断して、これらの諸要因は弱い経済のしるしとみなされるでしょう。確かに第三中間期は経済的逼迫の時代に始まったことは疑いがありません。認識される限り、レバントとアフリカ奥地からの収入は、新王国の間に利用できた収入と比較して、この時代に非常に減少しました。

しかし、この時代全体を通じてエジプト経済が深刻に弱いままではなかったという多数のしるしがあります。第三中間期における王の建設事業の控えめな性質と再利用された資材への高い依存はおそらく国の政治的に分裂した状態によって説明されます。ただ一人の支配者の下での中央集権化された行政無しでは、エジプトの資源を効率的に管理したり、メンフィスのピラミッド群やカルナック神殿を建設したような大規模な労働力を動員することはもはや不可能でした。強力な中央集権化された政府の比較的短期間(シェションク1世からオソルコン2世までの治世)が当時の最も実質的な王の記念碑のうちの幾つかの建設、すなわちカルナック神殿にあるブバスティスの門とブバスティスにあるオソルコン2世の「祭礼場」と一致したことは意義深いです。

この時代の農業経済の状態については、情報は非常に限られています。2〜3のパピルス(パピルス・ラインハルトを含む)と寄進ステラが唯一の史料群です。しかし、寄進ステラは非常に興味深いです。大多数が第22〜23王朝に年代づけられ、葬祭礼拝のための基本財産を確立するために神殿への土地の譲渡を記録しています。北部で発見されてきたこれらのステラの大多数は農地の生産性が余剰農産物をそのような目的に利用できるのを可能にするのに十分であり続けたことを示します。これらのステラの分布もまたデルタ西部と中央部の実質的な地域が新たに開墾されていたことを示します。

また他の形態の富がなかったのではない証拠もあります。タニスの王墓で発見された第21・22王朝の埋葬品はたくさんの金銀を含みました。オソルコン1世によるエジプトの神殿への彫像と儀式道具の奉納を記録するブバスティスの碑文は391トン以上の金銀製品に相当するものを列挙しています。明らかにすべて王の治世の最初の4年間に捧げられました。このうちの一部はシェションク1世の治世初めの数年のパレスティナ遠征での略奪品を示し、他方そのうちのいくらかはおそらく新王国の墓から入手されたリサイクル品だったかもしれません。それにもかかわらず、それほど大量の金銀が神々への奉納によって経済的に中和された経済は健全なものだったでしょう。

資源のリサイクルは疑いなく国庫を満たしておくのに役割を果たしました。このことはおそらく第21王朝の間テーベにおける新王国の王墓解体の主要な理由(死者に対する敬意というよりもむしろ)でした。諸王とその妻たちと家族たちのミイラは墓から取り除かれ、ほとんどすべての貴重品を剥がされて、人目につかない、容易に警護される隠し場所にまとめて再埋葬されました。これらの行為を記録する棺や屍衣に付けられたヒエラティックのラベルはそれらが当時支配している将軍の一存で行われたことを示します。墓地の書記ブテフアメンとその同僚たちによって書き記された何百という岩のグラフィティーは古い墓の組織的な探索と清掃を証言します。たくさんの貴金属が疑いなく再利用のため溶かされましたが、いくつかの品はタニスの王たちの埋葬のために盗まれたように思われます。プスセンネス1世のミイラの上で発見された胸飾りはトゥトアンフアメン王墓からの胸飾りのような新王国の例に非常によく似ています。いくつかのカルトゥーシュには変更された名前の痕跡があります。かなり大きな品々もリサイクルされました。花崗岩の石棺はメルエンプタハ王墓から取り除かれ、タニスに運ばれ、プスセンネス1世の埋葬のために碑文を彫り直されました。トトメス1世の木棺は磨き直され、ピネジェム1世のミイラを収めるために再び使用されました。この場合ピネジェム1世にとって単なる節約倹約は、エジプトの過去の偉大な王のうちの一人と自分を直接関連づけ、それによって自分自身の幾分正統でないファラオの地位の要求にイデオロギー上の支持を与える機会ほど重要ではなかったかもしれません。奇妙なことに、テーベの支配者たちだけの特権として始まったかもしれないことがすぐに広められました。第21王朝にテーベにおける埋葬のために使用された棺が高い割合で、最初の埋葬から間もなく、おそらく不法に、碑文を書き直され、再利用されました。大英博物館にある棺に書かれたラベルは墓地労働者たちがそれを略奪する行為で捕らえられた後に真の持ち主に還付されたことを記しています。

新王国後期から第三中間期のエジプトとリビアについては、Anthony Leahy ed., Libya and Egypt c1300-750 BC, London, 1990が参考になります。

新王国第20王朝から末期王朝第26王朝までの最新の情報については、Aidan Dodson, Afterglow of Empire : Egypt from the Fall of the New Kingdom to the Saite Renaissance, The American University in Cairo Press, 2012をご覧下さい。

[お断り] 以上はThe Oxford History of Ancient Egypt (Oxford U.P., 2000), pp. 338-352の翻訳です。訳者の勉強不足、力量不足による訳文の不備、間違いなどがございましたら、遠慮なく御叱正下さい。(2009年7月15日、西村)