平成24年度第三回星陵高等学校同窓会文化講座(平成25年2月23日(土) 13:30〜15:00 於・星友館) 

クフ王の船と王の葬祭信仰

西 村 洋 子

 一昨年「ギザ台地の歴史とスフィンクス信仰」という題でお話いたしましたが、またこうして呼んでいただけたということを大変有り難く思います。前回は、スフィンクスが紀元前2550年頃カフラー王の治世に造られたこと、紀元前1500年頃アメンヘテプ1世の治世からローマ支配時代まで神として崇拝され、その間ギザは聖地であったこと、紀元後380年に発布されたテオドシウス帝の勅令によってキリスト教以外の異端の神々の礼拝が禁止されてからは忘れ去られていたこと、1798年のナポレオンのエジプト遠征によって謎の古代遺跡として再び注目を集め、現在まで約二百年間繰り返し発掘調査が行われてきたことなどをお話ししました。

 発掘調査の成果は、エジプト考古省によるプレスリリース、調査隊による学会での口頭発表や発掘調査報告書の出版、講演会、シンポジウム、論文などで研究者たちに知らされますが、一般の人々にはなかなか知られないものです。しかも2011年1月25日に起こったエジプト革命後、各国のエジプトでの発掘調査は規模を縮小したり、期間を短縮したりされましたので、エジプトからの考古学ニュースは減少しています。その代わり増えているのが、例えば、第三中間期の有名な遺跡があるエル・ヒバにおいて武装した盗掘団による大規模な違法発掘が行われていること、ダハシュールの考古省管理下にある土地が無断で分譲され、違法建築が行われていること、古遺物の密売・密輸などのニュースです。ザヒ・ハワス氏出演のエジプト番組もほとんど無くなり、つまらない限りです。そんな中で注目されたのは、クフ王の第二の木造船が納められているピットの蓋石を取り外す作業でした。その様子は2012年7月16日(月)にTBSで放送されましたが、蓋石の裏側からは千以上の文字が発見され、その中にクフ王の名前が記されていたということで、復原と解読の結果が待ち遠しいですね。

 ところで、クフ王の木造船は何のために埋葬されたのでしょうか? ピラミッドについては様々な本が出版されていますが、船についてはあまり触れられていません。そこで、今回は船に焦点を当ててお話ししたいと思います。

 古代エジプトでは船の絵は王朝時代以前からよく見かけられます。例えば、ナイル川と紅海に挟まれた東部砂漠と呼ばれる地域の、特にエジプト南部からは、船の岩絵がたくさん見つかっています。なめらかな崖の表面には船や船に乗る人物が家畜や狩猟の場面とともに描かれています。ワーディ・ハンマーマートには両腕で輪を作っている人物が乗った船が描かれています。人物の横にある丸いものはおそらく日除けの船室でしょう。さらに船の右上には星のようなものが描かれています。ワーディ・アブ・ワシルには頭上に細長い飾りをつけた大人と子供たちが乗った船が描かれています。ワーディ・バラミーヤにもワーディ・ハンマーマートと同様な船の十五隻からなる船団の絵があります。その他にも牛や積荷を運ぶ船の絵があります。東部砂漠は、今は雨が降ったときだけ水が流れるワーディ(涸れ谷)がいくつもある岩砂漠ですが、かつては草原もありました。当時の人々はナイル川が増水する夏の間家畜の群れを連れて東の放牧地へ移動し、夏が終わるとナイル川の岸辺に戻ってきました。移動中は、崖の突出部の下が夏の強い日差しを避けるのにちょうど良い場所なので、人々はそこでキャンプをしたことでしょう。おそらくそのようなときに岩絵を書いたのだと思われます。

 これらの岩絵は王朝文化に直接つながるナカダ文化が出現する以前、すなわち紀元前4000年より前のバダリ文化の時代に描かれました。ワーディ・ハンマーマートはコプトスから紅海沿岸のクセイルへ通じるルートでもあるので、船の絵は紅海を行き来する船を描いた可能性もありますが、一般にはナイル川を行き来する船であると考えられています。2000年12月にこれらの岩絵を調査したトビー・ウイルキンソン氏は、船を王朝文化の神が乗る船、狩猟の場面を支配者の権力と関連づけ、これらの岩絵を王朝文化の起源という解釈を示しましたが、はたしてどうでしょうか? 昨年末ダーラム大学に提出された博士論文で、東部砂漠の岩絵について、その分布範囲、年代、新解釈が示されましたので、興味がある方はそちらをお読み下さい。(Francis David Lankaster (2012) Predynastic & Pharaonic Era Rock-Art in 
Egypt’s Central Eastern Desert: 
Distribution, Dating & Interpretation. Doctoral thesis, Durham University. http://etheses.dur.ac.uk/5909/)

 バダリ文化の後に出現するナカダ文化は三つの時期に分けられます。そのうち紀元前3500年から3200年頃のナカダ2期は船が描かれた装飾土器で有名です。それは上エジプト特有の葬祭土器すなわち墓に副葬された土器で、薄い黄褐色の地にレッド・オーカーで描かれた場面で装飾されています。扇状に広がる樹木、フラミンゴまたはダチョウと思われる首の長い鳥、山や水の連続模様、ヌビアアイベックスやアンテロープ、動物の皮を張ったポールあるいは盾、渡り鳥の群れあるいは砂模様を表すと思われるs字の連続などとともに、オールのたくさんある船が描かれています。オールの本数から船は非常に大きかったことが分かります。船体は緩くカーヴしており、船首と船尾は高くありません。船上には船室と、ある地域の標章を掲げた旗と船尾を飾る長いヤシの枝があり、両腕をハート型に挙げている丸い大きな頭の女性と女性に何か差し出している男性が船のすぐ近くに立っています。これらの絵はどのように解釈されるのでしょうか? 

 両腕をハート型に挙げている女性はかつて、身分の高い人の葬式に現れる泣き女であるとか、勝利の儀式で踊っている女性であると言われてきました。クレイグ・パッチ女史は、装飾土器に描かれた図像すべてが季節の移り変わり、すなわち年毎の再生を表現していると説明しています。船はナイル川の存在を示しています。またナイル河谷を秩序のある世界、砂漠を混沌の支配する世界とみなす古代エジプト人の世界観を反映しているのだろうとも述べています。グウェノラ・グラーフ女史は、船は葬祭船か神が乗る船で、女性は生命を恵み与えるものであり、装飾土器の絵全体を死者の再生復活と関連づけています。スタン・ヘンドリクス氏も、岩絵に描かれた男性の図像が政治力と経済力を表すのに対し、装飾土器の女性の図像は生命と誕生の象徴であると説明しています。船については、それは岩絵でも装飾土器でも権力の表現であるけれども、装飾土器では船は再生復活のコンテクストで描かれており、王朝文化の葬祭船あるいは神が乗る船の原型であるとみなすことができます。扇状に広がる樹木は、王朝時代の樹木の女神の信仰と関連があるのなら、葬祭コンテクストで説明出来ます。なぜなら樹木の女神は死者に水と食べ物を与えてくれるからです。ヌビアアイベックスやアンテロープが死者の再生復活とどのような関連があるのかは分かりにくいです。いずれにしても装飾土器の絵は宗教の枠組みと構造的な視覚言語の中に統合されるべきです。(Gwenola Graff, Les peintures sur vases de Nagada I-Nagada II : Nouvelle approche sémiologique de l’iconographie prédynastique, Leuven, 2009)

 エジプト最古の墓壁画が描かれているヒエラコンポリス100号墓もナカダ2期に属します。この墓は1899年に発見されました。墓壁画は現在カイロ・エジプト博物館に所蔵されていますが、すでによく傷んで、三分の一は漆喰の下の泥レンガが見えており、オックスフォードのグリフィス・インスティテュートにある水彩画のコピーによって私たちはその全体像を知ることが出来ます。壁画は白い漆喰の上から彩色されています。色は黄色、赤色、茶色、白色、黒色の五色が使われています。人物像は地の黄褐色の上に目立つようにレッド・オーカーで描かれています。また装飾土器に描かれた船と同じタイプの船が五隻描かれており、そのうち一番大きな船には船室の上に支配者と思われる人物あるいはその彫像を保護する天幕が描かれています。おそらく100号墓に埋葬された支配者でしょう。船にはオールも漕ぐ人も描かれていません。船尾の高い黒い船については、支配者の遺体を運ぶ葬祭船であると考えられています。

 船の周囲にはたくさんの動物や武器を持つ人々が描かれています。その中には王朝時代の権力を表すモチーフの原型と思われるものも含まれています。左上にはライオンらしき野獣に対して棍棒を振り上げる人物が、左下には縛られた三人の捕虜を討つ人物が、その右隣にはヘカ笏を持つ人物とウアス笏を持つ人物がいます。ヘカ笏もウアス笏も王朝時代における王権の象徴です。その右には牛を逆さまに倒す人物が描かれています。さらに右側には棍棒と盾を持って戦闘中の二人の人物がいます。勝利者は倒れた相手の上に棍棒を振り上げています。三人のしゃがんでいる人々は捕虜でしょう。二頭の向かい合う野獣の間に立つ英雄像はメソポタミアのギルガメシュ王の伝説から借用された図像です。右上には犬を使ってアンテロープを追う人々がいます。左下の五頭のアンテロープが立っている小さなサークルは、捕らえられた砂漠の動物が囲われている丘を表現しているのかもしれません。100号墓に埋葬された支配者は、たくさんの役割で描かれるとともに、船団の存在によってより広域の社会に結びつけられたことを、この墓壁画は示しています。

 次に注目すべき船の絵は、カイロ・エジプト博物館所蔵ナルメル王のパレット(CG14716)の表側の面に現れます。ナルメル王は紀元前3200年から3000年頃のナカダ3期の王で、このパレットは1894年にヒエラコンポリスの神殿跡から発見されました。それには明らかに神が乗る船が描かれています。従来このパレットは、歴史上画期的な出来事すなわちエジプト全土の初めての政治的統一を記念して、ヒエラコンポリスのホルス神殿に捧げられたものと理解されてきました。しかし、このパレットの描写を純粋に歴史的な出来事とは捉えずに、王の支配を祝って代々の王によって繰り返されるべき儀式行為が象徴的に表現されている、と考えるエジプト学者たちもいます。はたしてこのパレットの描写はどのように解釈されるのでしょうか? 

 パレットとは孔雀石(くじゃくせき)や方鉛鉱をすりつぶして、アイシャドーを目の縁に塗るための道具で、中央の丸い凹みが孔雀石や方鉛鉱をすりつぶす場所です。古代エジプトでは、強い日差しと眼病をもたらすイエバエから両目を守るために、男女ともアイシャドーを塗りました。ヒエラコンポリスには王権の守護神であり、ハヤブサの姿をしたホルス神が祀られていました。ホルス神は天空の神でもあり、その右目は太陽、左目は月でした。それゆえ神殿にはホルス神の目を守るためにたくさんのパレットが奉納されました。ナルメル王はホルス神に捧げるパレットに自分の業績を誇らしげに描写させました。ナルメル王のパレットは硬砂岩製で、高さは64cmもあり、他の化粧用のパレットと比べるとかなり大きいです。

 パレットの上部両端には牛の角と耳を持つ正面向きの人の顔が二つあります。これらは天の雌牛バト女神の顔であり、天空を表すと考えられてきました。パレットの下部は対照的に地面を表します。バト女神の二つの顔の間にこのパレットを奉納した王の名前が記されています。この名前の正確な読み方は知られていませんが、王朝時代なまずはナル、大工道具ののみはメルと発音されたことから、慣例的にナルメルと読まれています。王の名前はセレクと呼ばれる宮殿を象った四角い枠の中に記されています。

 パレットの表側の面は三つの段に分けられています。一番上の段には王が敵の死体を視察する場面が描写されています。王の後ろの四角形はヒエラコンポリスのホルス神殿です。王はサンダル持ちに従われて、裸足で歩いています。というのは、視察が行われたのはホルス神殿の前という神聖な場所だったからです。そこは神の世界に属していました。王の前を、筆記道具を肩から下げ、長いカツラを着用した人物が進みます。サンダル持ち、王、筆記道具を下げた人物の三人は、地域の標章を掲げた旗を持つ四人の人物によって先導されています。敵の死体は十体で、両腕を後ろ手に縛られ、首を切り落とされて、地面に倒れています。首は両足の間に置かれています。これらの死体の上に扉と鳥と船が描かれています。船の上には銛をつかんだハヤブサ、すなわちホルス神がいます。

 二段目には丸いくぼみがあり、そのくぼみに沿って蛇のように長い首を交差させた豹と思われる二頭の動物が描かれています。それぞれ首をロープにつながれ、二人の人物によって抑えられています。一番下の段には牡牛が角で敵の集落の周壁を破壊し、ひづめで敵を踏みつけている場面が描写されています。この牡牛は王を表しています。その証拠にナルメル王は牡牛の尻尾を腰から下げています。牡牛の尻尾は王の勇猛な力を象徴します。

 パレットの裏側の面には、二段ぶち抜きで王がひざまずく敵の髪の毛をつかみ、棍棒を振り上げている様子が描かれています。王の後ろにはやはりサンダル持ちがいます。敵の上には人間の腕を持つハヤブサがパピルスの生えた土地から突き出た人の頭の鼻先に結びつけられたロープを握っている様子が描かれています。これはホルス神が服従した土地と人々を王に差し出していることを意味します。下の段には敵の死体が二体描かれています。ホルス神はこれらの描写を見て、パレットが伝えようとしている意味を直ちに理解したでしょう。

 先ほども述べた通り、このパレットは上エジプトがデルタの下エジプトに対して最終的な勝利を収め、エジプト全土を政治的に統一したことを記念していると解釈されてきました。しかも、近年の発掘成果はエジプトの政治的統一がナルメル王の時代までにほとんど成し遂げられ、ナルメル王の時代に最終的な戦いがあったことを証明しています。ナルメル王のパレット以来、棍棒を振り上げて敵を討つ王の図像は秩序を維持する王の役割を示すものとして王朝時代を通じて使用され続け、敵が敗北する場面は、狩りで捕らえられる多くの獲物たちの図像とともに、混沌に秩序をもたらすことを意味しました。王は英雄でした。この二つの場面は魔除け的性質を持ちました。

 ナルメル王のパレットの描写の解釈については、近年太陽信仰との関連が指摘されています。太陽神ラーの信仰はこの時代にはまだはっきりと証明されていませんが、太陽信仰の別の形の現れと見ることが出来ます。ナルメル王が敵の死体を視察する場面で着用している冠は、王朝時代には下エジプトの赤い王冠として現れますが、カチャ・ゲブズ女史はそれを単なる日の出の象徴と見ずに、太陽神が殺戮した敵たちの血を表していると考えます。新王国時代、太陽神ラーは夕方西の地平線に沈んだ後、夜の間地下の冥界を船で旅し、新たな生命を得て、翌朝東の空から昇ると考えられていました。太陽神ラーの毎朝の再生復活は原初の世界創造を記念するものであり、日の出とともに世界は活性化します。日没と日の出というこのサイクルが止まると、世界は滅亡します。ところが、冥界には太陽神ラーの旅を妨げようとする様々な魔物たちがいます。その代表格がアペピと呼ばれる大蛇です。アペピは混沌の象徴です。魔物たちは太陽神ラーに付き従う神々によって殺されますが、日の出の直前に太陽神ラーはアペピと壮絶な戦いを行います。日の出の頃東の空が赤く染まって見える朝焼けは、このような魔物たちの流した血で空が染まることによって起こるのだと考えられました。太陽神ラーは、敵の死体を食べることによって大いなる力に満たされて、日中天空を渡ることが出来るのです。(Katja Goebs, Crowns in Egyptian Funerary Literature : Royalty, Rebirth and Destruction, Oxford, 2008)

 このような新王国時代の太陽信仰を考慮すると、ナルメル王のパレットの表側の面の一番上の段の描写は、王が太陽神に代わって、この世の秩序を乱す敵たちを処刑した場面であり、首を切り落とされた敵たちは太陽神の敵たちであると解釈することが出来ます。そうすると、十体の死体の上の船は太陽神の船であり、太陽神は銛を持つハヤブサということになります。ハヤブサが銛を持っているのは、もちろん敵を倒すためです。船の前の鳥はおそらく太陽神の接近を告げ知らせるツバメであり、鳥の前の扉は、東の地平線にあって、太陽神が冥界から東の空へ昇るときに通る門でしょう。太陽信仰との関連でナルメル王のパレットを解釈すれば、それは特定の歴史的出来事の記録というよりも、太陽神が再生復活するドラマを再現した一般的な王の儀式であると言えます。カチャ・ゲブズ女史は、ナルメル王が棍棒を振り上げている場面で着用し、王朝時代に上エジプトの白い王冠として現れる冠については、太陽と月と星々の輝く光を象徴していると考えます。

 ただし、ナルメル王のパレットの描写を太陽信仰と関連させて解釈することについては、さらなる調査が必要でしょう。ナルメル王の次に即位し、第一王朝を開いたアハ王の象牙製のラベル(CG14142)と黒檀製のラベル(Philadelphia, Univ. Mus. E9396)にも、後の時代の太陽の船によく似た船が描かれています。これらはかつてホルス神としての王が乗る船として理解されてきました。太陽神としてのハヤブサが乗る船は、第一王朝のジェト王(通称蛇王)の象牙製の櫛(JE47176)に現れます。ジェト王の櫛は長さ8cm、幅4.5cmで、アビュドスで発見されました。王宮を表現したセレクの中に王名が記され、セレクの上にハヤブサがとまっています。これは王がホルス神の化身であることを示しています。セレクの左側には王権を象徴するウアス笏が、右側にはウアス笏と生命を象徴するアンクが描かれています。これらの図像は天空を表すハヤブサの翼の下に描かれています。ハヤブサの翼の上には船が描かれています。その船首は高く、飾りが付けられています。船室の上には鳥がいます。この鳥は太陽神としてのハヤブサと思われます。ただし、ツバメの可能性もあります。いずれにしてもこの船は天空を渡る太陽神の船と考えられています。しかも船に乗って空を渡る神の船の最初の描写です。なお、天空を表すハヤブサの翼は、後の時代に有翼日輪として、石碑や建築物の軒縁の装飾に使用されます。果たして太陽信仰は王朝時代以前から存在したのでしょうか? 太陽信仰の起源を初期王朝さらに王朝時代以前に遡る傾向が現れたのは、2007年に発表されたヨッヘム・カール氏の著書の影響ですが、まだまだ懐疑的なエジプト学者の方が多いです。(Jochen Kahl, Ra is my Lord : Searching for the Rise of the Sun God at the Dawn of Egyptian History, Wiesbaden, 2007)

 今まで見てきたように、エジプト学者達は船の絵を政治的によりも宗教的に、象徴的に解釈しようとしていることが分かります。一般に、古代エジプトでは、船は魚を捕るために、あるいは旅をしたり、交易をしたりするのに利用されました。日常生活でも軍事活動でも、船は人や家畜や物資を運ぶのに役立ちました。船を使えばアスワンから東地中海沿岸までどこでもスムーズに行くことが出来ました。ナイル川の増水期には船がなければどこにも行けません。船はナイル河谷で生活して行く上で必要不可欠なものでした。ですから、古代エジプトでは、船の絵だけではなく、たくさんの船の模型も発見されています。発見場所はピットと呼ばれる土壙墓(どこうぼ)、ピラミッドの周壁の外の砂の中、岩窟墓です。神殿と住宅で発見された例も一例ずつあります。

 昨年大阪天保山で開催されたツタンカーメン展では三つの船の模型が展示されました。一つはアメンヘテプ二世王墓で発見されたもので、模型とは言うものの、長さが2m13cm、幅36cmもあるかなり大きな木造船です。これは王がエジプト国内および帝国領土内を視察する際に用いた典型的な船です。船体には敵を踏みつけるスフィンクスの姿をした王、羊の頭部を持つスフィンクスの姿をしたアメン・ラー神、敵を討つルクソールの守護神にしてハヤブサの姿をしたメンチュウ神、ウジャトすなわちホルス神の目、マート女神が描かれ、船首と船尾近くの波除(なみよけ)にも敵を踏みつけるスフィンクス姿の王が描かれています。船室はクレタ風のロゼッタ文様と渦巻き文様で装飾されており、二本の舵櫂はウジャトとロータスの花で装飾されています。二つ目はツタンカーメン王墓で発見されたパピルス・ボートで、長さ124.3cm、幅22.5cm、深さ10.5cmです。沼沢地で魚や水鳥を獲るために使われた他、カバ狩りにも使われました。三つ目も同じくツタンカーメン王墓から発見された木造船で、パピルス・ボートとまったく同じ大きさです。船体は矢羽根模様や市松文様、船室は市松文様で装飾されています。この船には船室を突き抜けて立っているマストが残っています。舵櫂は一本だけです。これは新王国時代に上流階級の人々が旅をするときに使った典型的な船です。アメンヘテプ二世王墓から発見された船の模型は三つだけですが、ツタンカーメン王墓から発見された船の模型は35もあります。

 実は船の模型はバダリ文化の時代から現れます。発見場所はエル・バダリとその周辺地域で、粘土製や象牙製の人形、パレット、石製容器、フリント製の道具と一緒に発見されます。

 ナカダ1期には船の模型はアビュドスからルクソールの間の地域で様々な土器と一緒に発見されています。これらの地域は東部砂漠の交易ルートに近いことから、必然的に造船が発展したと思われます。王朝時代以前のものは粘土で作られたものがほとんどで、長さは最大で61cm、装飾も何もない簡素な船です。一つだけ1895年にナカダに程近いエル・バラスで発見され、現在アシュモール博物館に所蔵されている、ナカダ2期の船の模型(AN1895.609)には、装飾があります。ナカダ2期の装飾土器に見られるのと同じ男性像と編み目模様です。男性像はオールを持っているので漕ぎ手を表し、右舷四人左舷四人合計八人がいます。編み目模様はおそらく漕ぎ手達が座る板を表しているのだろうと考えられています。

 初期王朝から中王国には実物の船が埋葬されました。主な例を見て行きましょう。

 初期王朝の船については、2012年7月にアブ・ロアシュでフランス・オリエント考古学研究所(IFAO)の調査によって第一王朝デン王時代の木造船が発見されました。船は長さ6m、幅1.5mで、11片の板材から成っていました。これらの板材は近い将来フスタートに開館予定の国立エジプト文明博物館に運ばれ、修復を受けています。

 サッカラからは第一王朝の船のピットが少なくとも四つ発掘されました。すなわちS3357、S3503、S3506、S3036の墓のそばで、です。それらは船の形をした泥レンガのおおいで囲まれていました。ピットの大きさは長さ14.3〜19.3m、幅2.15〜4.25m、深さ0.75〜1.1mです。そのうちの一つには木造船が納められていましたが、詳細は不明です。船の発掘者エマリー氏は第一王朝の船の板材が棺や墓の天井に再利用されている例も発見しています。

 ヘルワンはメンフィスに統一王朝の都が築かれる以前の下エジプトの都と信じられてきました。ここでは王族ではない貴族のマスタバのそばで19隻の船が発見されました。残念ながら、これらの船は詳細が公表されておらず、その意義については議論されています。 

 タルハンでは第一王朝の船の板材の断片が四つ発見され、ロンドンのピートリー博物館(UC17156、17157、17162、17166)に収蔵されています。

 アビュドスからは1991年に12隻の、2000年にさらに2隻の、合計14隻の木造船が発見されました。それらは第二王朝カーセケムウィ王の葬祭周壁に隣接して並んで埋葬されていました。船のピットは泥レンガで囲われていました。発掘者デイヴィッド・オコナー氏は、これらの木造船が埋葬された年代をもっと早い第一王朝アハ王の時代と推測しています。これらの木造船は鋸で切断された板材がほぞとほぞ穴とロープを使って接合された最古の船です。継ぎ目には葦の束が詰められていました。板材はギョリュウの木から作られ、その上には漆喰と黄色の彩色の痕が残っていました。これらの木造船の長さは19〜29m、幅は約3.25m、深さ0.6mで、細い船首と船尾を備えています。漕ぎ手は30人前後必要とされたでしょう。船首の近くには錨の役割を果たした石が置かれていました。海洋考古学者シェリル・ウォード女史は、これらの船には固定された接合部分がないので、解体して、紅海とナイル川の間を運ぶことができ、また能率的に素早く組み立てることが出来たと、主張しています。

 古王国の船については、1954年にギザのクフ王のピラミッドの南側で二隻の巨大な木造船が発見されました。それらは東西の方向を向いて前後に並んでいます。そのうちの東側の船がすでに復原されて、1982年以来船の博物館で展示されていることは皆さんもよくご存知の通りです。復原されたクフ王の木造船は長さ42.3m、幅5.7m、深さ1.8mで、古代から完全な形で残っている唯一の船です。船体はレバノンから輸入された杉木材で造られています。クフ王のピラミッドの東側には葬祭神殿を挟んで一隻ずつ南北の方向を向いた船のピットがあり、かつては同様な船が埋葬されていたかもしれません。参道の北側には五番目の船のピットがあり、東西の方向を向いています。さらにクフ王の王妃たちのピラミッドGIaとGIbのそばにも船のピットが一つずつあります。

 カフラー王のピラミッドの東側には五つの船のピットがあります。それらは葬祭神殿の南北に二つずつ東西の方向を向いて並んでいます。さらにもう一つピラミッドの東側にあり、南北の方向を向いています。カフラー王の船のピットは、クフ王の四角く掘られた船のピットとは違って、船の形に岩盤を掘って作られ、朽ちやすい木造船よりも王の葬祭信仰に役立ちました。葬祭神殿の南北の四つの船のピットは長さ21〜25m、幅3.6〜5.1m、深さ1.6mです。

 メンカウラー王のピラミッドの東方にあるケントカウエス女王の墓の南西にも船のピットが一つありますが、もう一つある可能性は排除出来ません。というのは、彼女は「上・下エジプトの王にして上・下エジプトの王の母」あるいは「二人の上・下エジプトの王の母」と読めるきわめて地位の高い称号を持つからです。

 アブ・ロアシュでは、1900〜1902年の間にクフ王の息子ジェドエフラー王のピラミッドの東側にある葬祭神殿の南側から船のピットが一つ見つかりました。それらは南北の方向を向いています。ピットの大きさは長さ35m、幅3.75m、深さ9.2mでしたが、船の痕跡はありませんでした。おそらくまだ発掘されていない船のピットがあるでしょう。

 アブシールでは、第五王朝ネフェルイルカラー王の葬祭神殿からアブシール文書が発見され、それには少なくとも四隻の船への言及があり、そのうち二隻は封印された部屋の中にあり、残りの二隻はピラミッドの南側と北側に埋葬されていると書かれていました。実際に1984年にピラミッドの南側で大きな船のピットが発見されましたが、残念ながら木造船は塵と化していました。この船のピットは東西の方向を向いていました。

 同じくアブシールの第五王朝ネフェルエフラー王の葬祭神殿の倉庫から二隻の船の残骸が発見されました。それらは長さ3mで、東西の方向を向いて横に並んで置かれていました。

 サッカラにある第五王朝のウナス王のピラミッドの参道の南側からは船のピットが二つ発見されていますが、船は残っていませんでした。それらは東西の方向を向いています。完全に残っているより北側の船のピットは長さ36.5m、幅6.1m、深さ7mで、より南側の船のピットは一部破壊されています。皆さんもご存知の通り、ウナス王のピラミッド内部の部屋や通路には最古のピラミッド・テクストが記されています。

 中王国の船については、リシュトにある第十二王朝初代アメンエムハト一世のピラミッドの外側で船のピットが発見されています。また、1906年から1934年までと1985年から1988年までの発掘で、センウセレト一世のピラミッド複合体の参道や通路などで90本に及ぶ貨物船の板材が基礎として再利用されているのが発見されています。板材はアカシアとギョリュウからなり、儀式用の船の板材よりも厚みがありました。

 ダハシュールでは1894年にセンウセレト三世のピラミッドの外側で五隻か六隻の船が発見されました。そのうちカイロ博物館(CG4925-6)、シカゴ自然史野外博物館(A31760)、ピッツバーグ・カーネギー自然史博物館 (CMNH1842-1)の四隻が知られています。これらの船は長さが9.25〜9.92m、幅が2.15〜2.43m、深さが0.72〜0.79mあります。船体はレバノンから輸入された杉木材で造られています。舷縁(げんえん)には漆喰、赤色、青色、黒色の縞模様があります。これらのうち一隻は船底が赤かったように思われます。二隻の舵櫂はウジャトすなわちホルス神の目、睡蓮の葉、ロゼット文様でカラフルに装飾され、舵櫂の支柱は赤と緑の縞模様で装飾されていました。残念ながらこれらの装飾は現在かなり色褪せています。センウセレト三世は第十二王朝で最も権力の強い王だったのに、彼の船が第四・第五王朝の船の三分の一あるいは四分の一の大きさであることが、不思議に思われます。

 実物の船を埋葬する習慣は中王国で終わったかのように思われましたが、もしかしたら紀元前450年頃まで続いていたかもしれません。というのは、マタリヤで第二十七王朝の船が1987年に発掘されたからです。船体はパワーショベルによって一部破壊されましたが、残りの部分は復原されました。

 以上見て来たように実物の船を埋葬した例はそれほど多くなく、第一王朝、第四王朝、第五王朝、第十二王朝にのみ見られます。墓に副葬された船のほとんどがもっと小さな模型の船です。アン・メリマン女史の博士論文によると、586の模型が知られています。それらの模型を年代別に見ると、王朝時代以前のものが52、初期王朝すなわち第一・第二王朝のものが17、古王国のものが31、新王国のものが51、第三中間期第二十一王朝のものが1、残りの434が第一中間期から中王国第十二王朝までのものです。第三王朝と第二中間期からは船の模型は見つかっていません。また第三中間期以降船の模型は見つかっていません。これらの数値から、副葬される船の模型は古王国崩壊後急激に増加していることが分かります。これは経済状況の悪化と政治的混乱が原因です。船の模型は、故人が生前使用していた実際の船や、墓壁画に描かれた船の描写に代わって、故人が来世で船を使用出来るように願って副葬されるという魔術的役割を持ちました。

 副葬される船の種類は次第に増えていき、沼沢地で狩りをするためのパピルス・ボート、領地の視察旅行をするための船、ミイラを墓に運んだり、故人がオシリス神の聖地アビュドスとブシリスを訪問したりするための葬祭船、故人を護衛するための船団、そして少数ながら太陽の船を含みました。第十一王朝ネブへペトラー・メンチュヘテプ二世の高官メケトラーの14隻の模型船は特に有名です。古代エジプト人にとって、墓に船を副葬されない故人は、来世に旅立つことを拒否され、永遠不滅の生への希望を絶たれたも同然でした。

 太陽の船については、アブ・グラーブの第五王朝ニーウセルラー王の太陽神殿の南側から、日干し煉瓦で造られた巨大な船が発見されています。船の長さは30m以上、幅8.8m、深さ3.5mで、東西の方向を向いています。それはかつて漆喰を塗られ、その上から彩色されていました。この船は太陽神ラーが天空を渡るために使ったと思われる太陽の船を表現しています。また、エル・ベルシェのセパ二世・三世の墓から一隻ずつ太陽の船の模型(CG4949、CG4953)が発見されています。セパ三世は第十二王朝に生きた人物です。エル・リシュトではヘリオポリスのラー神官長イムヘテプのマスタバ墓から二隻の太陽の船の模型(MMA14.3.21-22)と一隻の葬祭船の模型(MMA14.3.23)が発見されています。イムヘテプは中王国第十二王朝アメンエムハト二世からセンウセレト二世の治世に生きた人物です。

 実は多くの船が三つの理由から太陽の船であると言われてきました。第一にピラミッドのそばに埋葬されているから、第二に特定の方向に向いているから、第三に単に葬祭コンテクストの中にあるからです。しかし、現存する船の模型の中で、太陽の船の特徴を示しているものは、わずかしかありません。太陽の船には船首と船尾と船上に太陽神ラーの象徴があります。例えば、四角い箱で前後を覆われた直立する船首、上方にやや高く直立してから鎌形に曲がった船尾、四方に棒の立った四角い縦長の箱、太陽神ラーの従者たちを表すシェメス・サイン、ハヤブサがとまる四本の棒が立った円柱、八本の棒が立った四角い横長の箱、船の前方の側面を飾るビーズ付きの織物、九本のマートの羽根が立つ板、玉座、天蓋などです。そしてこれらはミイラや棺のような葬祭船に見られる特徴を持っていません。またピラミッド・テクストには、神々や星々が乗る船、故王に食べ物を運ぶ船、葬祭船など32の異なるタイプの船の名称が現れます。このことは埋葬された船がすべて「太陽の船」として分類されるべきではないことを示しています。シェリル・ウォード女史はエジプトの葬祭慣習において葬祭船と太陽の船は別の概念として存在したと考えます。そして、彼女の著書でアビュドス、ギザ、ダハシュールから発見されたいずれの儀式用の船も葬祭船であり、太陽の船ではないと主張しています。しかし、実際には葬祭船は再生復活した王が太陽神ラーとともに天空を渡る太陽の船として説明されているのが現状です。ですから、私たちは葬祭船と太陽の船をもっと明確に区別して考えるべきでしょう。(Frank Miosi, Boats in the Pyramid Texts, Ph.D. diss., Unversity of Tronto, 1975)

 今まで古代エジプト史を通じて葬祭コンテクストにある様々な船を見てきましたが、ここでクフ王の木造船について考察してみましょう。

 古王国第四王朝から第六王朝の王墓はピラミッド本体、従属ピラミッド、ピラミッドに隣接する葬祭神殿、参道、河岸神殿からなるピラミッド複合体を形成しています。そして周囲に王族の女性達の小規模なピラミッド群を伴っています。船の埋葬自体はピラミッド複合体に含まれるものではありませんが、クフ王、ジェドエフラー王、カフラー王のピラミッドのそばからは大きな船のピットが複数発見されています。ただし実際に船が発見されたのはクフ王のピラミッドのそばからだけです。はたして船の埋葬はピラミッドと関連があるのでしょうか? さらに太陽信仰と関連があるのでしょうか?  

 クフ王の二隻の木造船のうち、すでに復原されているほうは「第一の船」、まだ復原されていない方は「第二の船」と呼ばれます。早稲田大学名誉教授吉村作治氏は工学博士の学位請求論文において「第一の船」の復原に関する研究を行いましたが、その博士論文は2009年に汐文社(ちょうぶんしゃ)から出版されており、誰でも読むことが出来ます。第一の船は1954年5月に長さ31.2m、幅2.6m、深さ3.5mの船のピットの中から解体された状態で発見されました。ピットの内壁にはジェドエフラー王の名前が18個記されていたので、船はクフ王の葬祭に関連して埋葬されたものと判断されました。船の木材は1955年12月に取り出され、エジプト考古局修復部門のエジプト人技師アハメド・ユーセフ・ムスタファ氏が復原作業に当たりました。船の復原作業は困難を極め、1970年9月にようやく終了し、長さ42.3m、幅5.7m、深さ1.8mの巨大な木造船が姿を現しました。

 ちなみに、舷側板(げんそくばん)、船底板(せんていばん)、目板(めいた)の1131箇所には各部材の配置を示すための符号がヒエラティックで記されていましたが、1964年から1967年に行われた復原最終チェックの時にその存在がようやく気づかれて、若干の修正が行われたそうです。しかし、吉村氏が入手したアハメド・ユーセフ・ムスタファ氏の部材カードから他にも216箇所にヒエラティックで文字と数字が記されていることが明らかになりました。そこで吉村氏はそれらの文字と数字を解読・分析し、模型によるシミュレーションを通じて、アハメド氏の復原の検証と新復原案の提示をし、古王国時代の船のレリーフや壁画と比較して、新復原案の妥当性を検証したというわけです。216箇所の符号は主に甲板梁(こうはんはり)、天蓋柱(てんがいちゅう)、天蓋梁(てんがいはり)に見られ、吉村氏は天蓋と舵櫂の復原に問題点を指摘しました。天蓋は植物を編んで作った天幕をかけることによって船上にいる人々を強い日差しから守る役割があったと考えられています。吉村氏はヒエラティックに塗料で記されたものと刻線で記されたものの二種類がある事実を示し、その理由をクフ王が来世で船を再び組み立てるためと推測していますが、はたしてどうでしょうか? 二種類のヒエラティックが記された理由は船の使用目的を推測するのに役立つように思われます。

 アハメド氏の復原と吉村氏の復原の主な違いは、次の二点です。アハメド氏は天蓋を船室から船首へ延びる11mを覆うものとして復原しましたが、吉村氏は古王国のレリーフや壁画を参考にして、天蓋を船室の前後に延びて船上を覆うものとして復原しました。またアハメド氏は舵櫂を二本とし、支柱なしで船体に綱止めされているものとして復原しましたが、吉村氏は舵櫂を四本とし、前後に交互して支柱に綱止めされているものとして復原しました。そのため漕ぐためのオールは、アハメド氏の復原では十本、吉村氏の復原では八本になっています。舵櫂と漕ぐためのオールを前後に交互して綱止めした例は、王家の遺物としては異例ですが、狭い船上ではこの方が合理的である、と吉村氏は述べています。けれども、吉村氏の博士論文では、新復原案の提示に成功したものの、クフ王の木造船が何のために造られ、埋葬されたのかについてはまったく考察されていません。

 クフ王の木造船は船首が直立し、船尾の方が上方にやや高く直立してから鎌形に曲がっています。船上には船室と船首楼はありますが、マストはありません。このような船は吉村氏が参考にした古王国のレリーフと壁画には見られません。第五王朝サフラー王の葬祭神殿の船のレリーフがクフ王の木造船に最も近いと思われますが、あいにく船首の方しか残っていません。そうでなければ、クフ王の木造船のような船首と船尾を備えた船は、第一中間期以降に見られる故人がオシリス神の聖地を巡礼するための船および新王国の葬祭テクストに描かれた太陽の船のみです。ビョールン・ランドストローム氏は、「クフ王の木造船と同じ型の船体は、王朝時代を通じて王家の船、葬祭・巡礼船の定形として生き続け、また太陽の船として描かれた。私としては、この形は太陽の船を意識して象られたのではないかと思わざるを得ない。クフ王の船が太陽の船であることを象徴する付属品は一切発見されなかったことは明らかであるが、クフ王自身が太陽神であり、神への帰属を示す付属品を必要としなかった。だから、クフ王の船を太陽の船と称しても間違っていないのではないか?」と述べています。確かに船の形だけを見れば、クフ王の木造船は太陽の船と言えるでしょう。しかし、本当に、「太陽の船」の特徴を何一つ示していないクフ王の「第一の船」を「太陽の船」であると言ってよいのでしょうか?

 古王国に埋葬された船の役割についてはまだ議論されています。一般に、埋葬された船は「太陽の船」、来世で使用するための船、王のミイラを運ぶ船あるいは王の治世中に使われた国家の船という説が出されています。クフ王の船が「太陽の船」であるという説を最初に唱えたのはセリム・ハッサン氏です。彼は1946年にギザの発掘報告書の中で「一隻だけであろうと二隻一組であろうと、東西の方向を向いた船は、太陽神の旅のコースをたどる太陽の船であると容易に認識される。」と述べました。また彼は「太陽の昼の船は西に到達するために南方へ進路を取り、太陽の夜の船は東に到達するために北方へ進路を取ると言われた。」とも述べているので、南北の方向を向いた船も太陽の船と考えたように思われます。しかし、彼の説明はそれほど説得力がなかったので、様々な観点から再考されることになりました。(Selim Hassan, Excavations at Giza VI, Part 1, Cairo, 1946)

 例えば、ヤロスラフ・チェルニー氏は1955年に、クフ王の四隻の船は天空の四方位(しほうい)に向けて故王がいつでも自分の好きな方向に行けるように埋葬されたもので、「第一の船」は王のミイラを運ぶために実際に使われた船だろう、と推測しました。しかし、クフ王の「第一の船」は、彼が推測したように東を向いているのではなくて、西を向いていたので、彼の説は崩れました。「第一の船」も「第二の船」も西を向いていたことは、昨年のTV放送で皆さんもご存知の通りです。(Jaroslav Cerny, “A Note on the Recently Discovered Boat of Cheops” in The Journal of Egyptian Archaeology 41 (1955), pp. 75-79)

 アハメド・ファクリー氏は1961年に、ピラミッド・テクストから、船は故王が来世で使用するものであり、それらのうち二隻だけが「太陽の船」と呼べるだろうと推測しました。(Ahmed Fakhry, The Pyramids, Chicago, 1961)

 アハメド・ユーセフ・ムスタファ氏とアブデル・モネイム・アブバクル氏は1971年に「第一の船」復原報告書の代わりに提出した論文で、クフ王の五隻のうち東側の三隻は故王が来世で聖地ヘリオポリス、サイス、ブトへ訪れるための船、南側の二隻の船は戴冠式で使われた船および戴冠式に参加した「ホルス神の息子たち」のための船であると推測しています。彼らはピラミッド・テクストが故王のために「太陽の船」を用意するよう要求していないことを正しく指摘しながら、「第一の船」は「太陽の船」ではないと結論づけました。(Abdel Moneim Abu Bakr and Ahmed Youssef Moustafa, “The Funerary Boat of Khufu” in Beiträge zur Ägyptischen Bauforschung und Altertumskunde, Heft 12, Wiesbaden, 1971, pp. 1-16)

 ザヒ・ハワス氏は1990年に、クフ王のピラミッドの南側の二隻は太陽神ラーとしてのクフ王が天空を渡るための「太陽の船」であり、東側の二隻はホルス神としての王のための船であると説明しています。また五番目の船については、クフ王のミイラを運ぶ船かあるいはハトホル女神の船であると考えます。(Zahi Hawass, “The Pyramids and Temples of Gizeh. An Update.” In W. M. F. Petrie, The Pyramids and Temples of Gizeh, London, 1883, revised 1990, pp. 111-115.)

 ミロスラフ・ヴェルナー氏は、1992年のネフェルイルカラー王とネフェルエフラー王の船に関する論文で、船の埋葬の主目的は王に来世での移動手段を提供することだったが、宗教思想の発展に従って、時代によって異なる側面が強調されたので、それ以上踏み込んだ結論を下すのは疑問である、と述べています。(Miroslav Verner, “Funerary Boats of Neferirkare and Raneferef” in U. Luft ed., The Intellectual Heritage of Egypt. Studies presented to László Kákosy by Friends and Colleagues on the Occasion of his 60th Birthday, Budapest, 1992, pp. 587-602.)

 今のところ、ミロスラフ・ヴェルナー氏の説が最も妥当なように思われますが、ハルトヴィヒ・アルテンミュラー氏はさらに、船は二隻一組で埋葬されることが多く、しかも二隻一組の船は東西あるいは南北に前後して配置されているという二つの事実から、埋葬された船は縦一列の船団ではないかと考えました。そこで彼は古王国第四王朝から第六王朝の貴族の墓壁画に描かれた船団を考察しました。

 特に注目すべきは第四王朝初めから貴族の墓の船の場面に登場するヘネト船とシャベト船です。ヘネト船は船首が後ろを振り返っているハリネズミの頭部を象った木造船です。シャベト船はパピルス・ボートの船体を真似て造られた木造船です。ヘネト船がなぜハリネズミの頭部を象った船首を持つのか、この世で実際に使われていた船なのか、それとも来世にだけ存在する船なのかは私には分かりません。とにかくクフ王とジェドエフラー王の時代からヘネト船が現れます。

 ギザの第四王朝初めのセネブという貴族の墓の供養室には、一番上の段にシャベト船を漕ぐ場面が、その下の段に帆を張って進むヘネト船が描かれています。船の方向はどちらも同じです。同様な描写はギザの第四・第五王朝の他の墓にも見られますし、中エジプトのエル・ハンマミーヤやメイルにある古王国の墓にも同様な例が見られます。プリント9-32にはニカーニスート(G2155)の例を挙げておきました。ヘネト船は帆船で、シャベト船はこぎ船です。ところが、ヘネト船がこぎ船として描かれたり、シャベト船が帆船として描かれたりする場合があります。それは複数の船が描かれた場合で、帆船の船団ではヘネト船が先頭に立ち、こぎ船の船団ではシャベト船が先頭に立ちます。つまり、こぎ船の船団では、ヘネト船はマストをはずして船室の上に置き、こぎながらシャベト船の後を進みます。逆に、帆船の船団では、シャベト船は帆船としてヘネト船の後を進みます。このときシャベト船はオールを船の舷縁(げんえん)に横にして置かれています。これは図解1のようになります。

 船団は同じ段の中で上下に描かれることもあります。これは二隻の船が並んで進み、一方が右舷に、もう一方が左舷にいることを示しています。これはこぎ船の船団にも帆船の船団にも見られます。主な相違は帆船の船団ではヘネト船が右舷で、こぎ船の船団ではシャベト船が右舷にいることです。これは図解2のようになります。

 船の方向は、帆を張っている場合、船がナイル川を上流へさかのぼっており、すなわち北から南に進んでいることを示します。漕いでいる場合、船は逆に南から北へ進んでいます。しかし、船団の場面に付けられたヒエログリフのキャプションには、ヘネト船が先頭にいる帆船の船団は東の地平線にある「供物の野原」(sxt-Htp)に向かって「西の運河」(mr jmntt)を航行していると記されており、南へ進んでいるとは書いてありません。逆にシャベト船が率いるこぎ船の船団は「美しき西方」(jmnt nfrt)に向かって漕いでいると記されており、北へ進んでいるとは書いてありません。すなわち、これらの船の場面はナイル川の航行を描いているのではなく、来世における天空の航行を描いているのです。この仮定は、古王国初めの船の場面が供養室の入口の天井のすぐ下に描かれているという事実によって補強されます。そしてもし船の場面を地上から天空への旅と解釈するなら、北から南へ、あるいは南から北へ航行するのに、帆船とこぎ船の両方が使用されていることとキャプションとの矛盾は取り除かれます。つまり、船は西から東へ、あるいは東から西への旅であると想定されます。

 太陽の船について述べている中王国のコフィン・テクストでは、太陽の東西の進路が次のように述べられています。「あなたは太陽の夜の船で南へ航行している。あなたは太陽の昼の船で北へ漕ぎ進んでいる。」(CT I (44) 84g)。従って帆船は夜の間に西から東へ航行しているのであって、北から南へ進んでいるのではなく、またこぎ船は昼の間に東から西へこぎ進んでいるのであって、南から北へ進んでいるのではないのです。だから、中王国のコフィン・テクストと同様に、古王国初めの墓壁画でも、北から南へ帆船が進むのは、故人が西から東へ夜の旅をしていることに相当し、南から北へ漕ぎ船が進むのは、故人が東から西へ昼の旅をしていることに相当する、と推測出来ます。帆船であるヘネト船とこぎ船であるシャベト船からなる船団は、夜の間ヘネト船がリーダーシップをとって西から東へ進み、昼の間はシャベト船がリーダーシップをとって東から西へ進みます。このことは図解3のようになります。

 古王国の墓壁画で二隻が並んで航行している場面は死者の書151章の対句から説明されます。その箇所では故人の身体の神格化の文脈において、故人の両目が両方とも太陽の船と等しく考えられています。「あなたの右目は太陽の夜の船であり、あなたの左目は太陽の昼の船である。」(BD ch.151)。このことは太陽の夜の船は天空のナイル川の西側のコースを進み、昼の船はナイル川の東側のコースを一緒に進むことを意味しています。太陽の夜の船が夜の間天空の北から南へ進み、昼の間天空の南から北へ進むことは、王族でない貴族のヘネト船とシャベト船の旅に等しいと考えられます。このことは図解4のようになります。

 貴族の墓の船の場面から確かめられたこの概念は王の領域にも間接的に影響を及ぼします。故王が夜と昼の天空を旅することは貴族の墓の船の場面と同様にして起こると考えられなければなりません。最大の違いは、貴族は通常の船を使うのに対し、王は国家の船を使うということです。従って、王の船にも昼の航行と夜の航行のどちらかを示す違いがあるはずなのです。王の船が二隻一組だったことは、船のピットが二つ一組で発見されているという考古学上の証拠によって示されます。そのことからピラミッドの近くの船のピットに埋葬された船は特徴的な細部によって区別されます。それらは太陽神のための昼の船あるいは夜の船ではなく、故王が夜の間西から東へ空を渡り、昼の間東から西へ空を渡るための船であるとみなされます。

 二隻の船が故王の夜の旅のものか昼の旅のものかは、どうやって分かるのでしょうか? クフ王のピラミッドの南側で発見された二隻の船は両方とも西を向いており、東から西へ航行するように置かれていました。「第一の船」はマストと帆を持たないこぎ船です。しかも「第一の船」が西へ向かう船団の後方の位置を占めることから、ヘネト船とシャベト船の順序に関する貴族の船の墓壁画からの推論に基づいて、アルテンミュラー氏は「第一の船」を昼の旅をすることになっている夜の船であり、「第二の船」を昼の旅で「第一の船」を先導する昼の船であると結論づけます。ナショナルジオグラフィック・チームは1987年に「第二の船」の写真を撮りましたが、「第二の船」もこぎ船でした。ザヒ・ハワス氏は「クフ王の二隻の船は、両方とも帆を持たないので、葬祭船ではない。もし一組の葬祭船なら、一方は帆船であり、他方はこぎ船であろう。」と述べています。しかし、夜の間に西から東へ航行する帆船は、昼の間マストを倒して、こぎ船に先導されて、東から西へ航行するこぎ船になると考えるアルテンミュラー氏は、ザヒ・ハワス氏の結論を否定します。そして、クフ王のピラミッドの東側の二隻の船を帆を張って夜の旅をすることになっている夜の船と昼の船であると考えます。

 さらに、アルテンミュラー氏はサッカラにあるペピ二世の王妃ネイトのピラミッドのそばに埋葬されていた四隻の模型船(JE56386-56389)すなわち二組の船団に言及します。一組の一方の船はシャベト船で、王妃の昼の船として役立ちました。もう一方の船はおそらく王妃の夜の船でしょう。それらはクフ王の昼の船と夜の船と同様な形をしていたでしょう。

 このように、アルテンミュラー氏はクフ王の木造船を、太陽神が乗るための船ではなく、王が乗るための船であるとしながらも、「昼の船」「夜の船」という言葉の使用によって、太陽信仰と関連づけて、説明しています。しかし、シェリル・ウォード女史は古王国に埋葬された木造船と岩盤を船の形に掘ったピットから推測される船の形から、すべてを二隻一組の「太陽の船」あるいは王の船と解釈することに疑問を投げかけます。

 けれども、今までクフ王の木造船と太陽信仰が関連づけて考えられてきたのは無理もないと言えます。というのは、古王国において太陽信仰は第四王朝に絶頂期を迎えるからです。サッカラの階段ピラミッドはヘリオポリスの神官長イムヘテプによって「原初の丘」として設計されました。「原初の丘」はアトゥム神が世界を創造した場所です。しかし、ヘリオポリスにおけるアトゥム神の信仰は早い段階で太陽信仰に吸収され、太陽神ラーが世界の創造者とみなされるようになりました。クフ王の息子ジェドエフラー王は王が太陽神ラーの息子であることを示す称号サー・ラー(sA-Ra)を導入しましたが、これは王の神性の正統化と考えられます。

 第五王朝の諸王はメンカウホル王の治世まで太陽神殿の建設を続けました。こうすることによって、故王の太陽神としての神性を目に見える形で強調したのです。ところが、次のジェドカーラー王が太陽神殿の建設を放棄すると同時に、彼の葬祭神殿に初めてオシリス神が登場します。オシリス神はヘリオポリスの九柱神の一柱でしたが、アビュドスの死者たちの支配者であるケンティ・アメンティウ神を吸収して、冥界の支配者となった神です。オシリス神信仰の興隆によって故人は死後オシリス神と同様地下の冥界に下ることになりました。太陽神ラーも昼の間は天空を東から西へ船で渡り、夜の間は空の女神ヌートの体内ではなく地下の冥界を西から東へ船で旅することになりました。第五王朝最後のウナス王の治世以来ピラミッド内部にはピラミッド・テクストが記されますが、それらでは太陽神ラーとオシリス神がほぼ同等に重要な神々として登場します。第六王朝以降オシリス神信仰の重要性が増し、王はオシリス神の息子のホルス神としての側面が強調されるようになります。すなわち故王は父オシリス神とみなされるようになったのです。ピラミッド・テクストでは王の再生復活という葬祭的側面が強調されます。第四王朝のクフ王の時代にはまだオシリス神信仰は現れていません。だから、太陽神ラーは王権の守護神ホルスと同一視されていました。サー・ラーの称号が導入されてからは、故王は太陽神ラーであり、現国王はその息子のホルス神とみなされました。いずれにしても王は死後も世界を支配し続けることを望み、臣下たちからもそのように期待されました。

 他方、埋葬された木造船と船のピットを詳細に調査したシェリル・ウォード女史は、第五・六王朝の船は確信を持って「太陽の船」と言えるが、クフ王とカフラー王のそれぞれ五隻の船についてはどれも「太陽の船」ではなく、それぞれ異なる役割を持つ葬祭船であると主張しています。ダハシュールのセンウセレト三世の船については、エジプト学者たちによって、「太陽の船」と考えられたことは今まで一度もありません。それらは葬祭船であると考えられています。その理由はおそらく船の大きさが太陽の船にふさわしくないから、そして第十二王朝にはオシリス神信仰が最盛期を迎えたからでしょう。カイロ博物館に復元展示されている二隻のセンウセレト三世の船は赤色と白色に彩色されていました。この赤色と白色は下エジプトと上エジプトを暗示しているのでしょうか? それとも、太陽の光と関連があるのでしょうか? アビュドスで発掘調査をしているデイヴィッド・オコナー氏は、アハ王の14隻の船団の役割について、故王に定期的に食料を運ぶ船、故王だけではなく現国王も含めて儀式に関連した船、王の国家船、来世にのみ存在する船、太陽神の乗る船などが考えられるけれども、どれか一つを選ぶ方法はないと言っています。これらのことから、古王国のピラミッドのそばに埋葬されたすべての船を太陽信仰と関連づけて考えるのは物事を単純化し過ぎでしょう。 

 今まで見てきたように、クフ王の木造船の埋葬目的については、まだまだ不明な点が多いですが、「第二の船」の復元と今後の調査研究によって明らかにされていくことを期待しましょう。

 ご清聴ありがとうございました。

(伊藤和正氏撮影)

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ヒエラコンポリス100号墓については、下記のURLもご覧下さい。

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カイロ博物館所蔵のセンウセレト3世のダハシュールの船については、下記のURLもご覧下さい。

http://www.ltrr.arizona.edu/webhome/pcreasman/Creasman,P.P-Cairo_Dahshur_Boats-thesis.pdf

Paul Lipke氏によるクフ王の船の記録史料については、下記のURLもご覧下さい。

http://inadiscover.com/projects/all/africa/cheops-khufu_i_boat_documentation/introduction/

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