古代エジプトの歴史        2007年7月14日  西 村 洋 子  

14.  第二中間期 (紀元前1,650〜1,550年頃)(2)

メンフィス地域

フラウィウス・ヨセフスは著書『アピオン反駁』で、ヒクソスによるエジプトの征服と占領についての記述において、マネトーンの『エジプト史』から直接引用していると主張します。「主力軍によって彼らは一撃を加えることなく容易にそれを奪取した。彼らはその国の支配者達を打負かし、それから彼らの都市を無情にも焼き払い、神々の神殿を完全に破壊した。・・・ついに彼らはサリティスという彼らの仲間の内の一人を王として任命した。彼はメンフィスにいて、上・下エジプトから貢ぎ物を徴集し、常に最も有利な地点に駐屯軍を残しておいた。」 このヒクソス支配の光景はテーベの支配者カーメスが属王としての自分の地位を拒絶したという事実によって確認されます。中エジプトのクサエにある国境の厳格な監督、ナイル川の全交通に対する課税、エジプト人指揮官に統率されたアジア人の駐屯軍の存在はすべてカーメス王の戦勝碑で言及されています。ヒクソス王は第12王朝の王たちによってヌビア支配のために創設されたモデルに従っているように思われます。おそらくヌビア支配のための行政施設と軍事施設はまだ同じ場所にありました。メンフィスの重要な役割はカーメス王の記述からも明らかです。アヴァリスはヒクソス王の本拠地で、彼の権力の中心地でしたが、エジプトはその北部でさえ東部デルタからは支配されなかったでしょう。エジプトを支配することはナイル川を監督することを意味し、エジプトのどの支配者もメンフィス地域からそれを行いました。

ヒクソスによる破壊と略奪の明白な証拠は稀です。第12王朝アメンエムハト3世の四体の巨大なスフィンクス像と第13王朝スメネフラー王の二体の彫像は、ヒクソス王アアケニエンラー・アペピの名前を彫られてタニスで発見されました。それらの本来のプタハ神への奉納文はそれらが最初メンフィスに建てられたことを示します。それらはアペピ王によって略奪され、アヴァリスに運ばれ、それからラムセス時代にタニスに移動させられたといつも仮定されますが、私達に確かなことはアペピ王がそれらに自分の名前を彫らせることによってそれらを自分のものと主張したということであり、それらはラムセス時代までまったくメンフィスを離れなかったかもしれません。ただし、おそらくサッカーラに建設された、第13王朝メルネフェルラー・アイ王のピラミッドの頂上のピラミディオンは、テル・エル・ダヴァに近いファクスで発見されました。

今日までヒクソス王がメンフィスを見下ろす西部砂漠で、メンフィスの伝統で葬祭記念碑を制作依頼したことを示すものはありません。しかし、私達は、反証がないので余りにも容易に認める前に、イアフメス王によるテル・エル・ダヴァの大規模な破壊と後世の王たちによる建築用石材を求める貪欲さを思い出す必要があります。例えば、キヤン王とアアウセルラー・アペピ王の名前がある石灰岩と花崗岩の二つの石材は、ゲベレインのハトホル神殿で発見されてきました。ヒクソスがかつてエジプトのこの部分を支配し、そんな南方まで記念碑を残したという明白な証拠はないので、石材がおそらくメンフィスに由来し、新王国にゲベレインに運ばれたということはありそうです。

1980年代に、エジプト調査協会(EES)によるメンフィスの広大な廃墟の実地踏査の一部として、都市の小さな区画が発掘され、第二中間期の地層を明らかにしました。この共同体の文化は、土器、住居、スカラベ型印章による捺印がある泥の封印、金属細工、ビーズによって明らかにされ、特にテル・エル・ダヴァの文化と比較されるとき、まったくエジプト的で、第13王朝から途切れない文化的発展を示します。エジプト式土器の類似点はメンフィスの地層をテル・エル・ダヴァの地層と関連づけることを可能にします。これは最後のヒクソスの地層、テル・エル・ダヴァD/2の後に、両遺跡で大きな断絶を明らかにします。メンフィスではその後に恒久的な建築物が建てられず、まさに第18王朝の始まりに年代づけられる、ますます増大する上エジプトのタイプを含む砂の堆積層が続きます。その後に続く時期はまったく異なって整列した建築物と、明白な第18王朝初期の土器を示します。これらの砂の堆積層はヒクソス対テーベの戦争の時代に一致すると考えられます。メンフィスに欠けているものは第12王朝末以降テル・エル・ダヴァで見られるような中期青銅器時代の痕跡です。パレスティナ式土器の輸入品とエジプトの模造品は、両遺跡に存在しますが、メンフィスではレパートリーの2%以下しか現れないのに、テル・エル・ダヴァでは20〜40%現れます。メンフィスでは第13王朝中頃から第二中間期の終わりまで文化の断絶はありません。

サッカーラでは、中王国末における活動の中心地は第6王朝テティ王の葬祭神殿でした。第13王朝前半まで王の礼拝の継続の証拠と個人の墓群があります。第13王朝末と第二中間期に関する限り、今まで四角い棺に収められた男性の未盗掘の墓が一つだけあります。男性の名前アブドゥは彼がアジア人であることを示し、アペピ王の従者ナフマンという名前が彫られた短剣を備えられていました。私達はこの短剣が墓と同時代のものなのかあるいは先祖伝来の家宝なのか知りません。また、その墓がテル・エル・ダヴァの同時代の墓と比較できるのかどうかも知られていません。同地域内に第18王朝イアフメスとアメンヘテプ1世の治世に属する大規模な共同墓地の明白な証拠があります。

第12王朝センウセレト3世とアメンエムハト3世の葬祭複合体があるダハシュールでは、儀式活動は少なくとも第13王朝初めまで続いたに違いありません。なぜならアウイブラー・ホル王はその時代にそこに埋葬されたからです。少し後の年代にアメンエムハト3世の葬祭神殿内に大きな泥レンガの穀物サイロが建てられました。穀物サイロが破損した時、それは近隣の小さな村から捨てられた土器のための便利なゴミ捨て場として利用されました。同様な土器はメンフィスでは砂の堆積層の下の地層と、テル・エル・ダヴァではG/4層以降に現れます。その特徴ははっきりと中王国のエジプトのものです。建築物は第13王朝初めより後の時代にダハシュールの神聖な空間に建てられました。これらの建築物は村と関連がありました。ただし村の居住がいつまで続いたのかは不明です。その後ラムセス時代まで活動の証拠はありません。ダハシュールの「サイロ」の土器はラフーンの、センウセレト2世の葬祭神殿の近くで発達した村にもあります。その後ラフーンでは第18王朝中頃の土器が現れるまで途切れがあります。

リシュトでは状況はもっと複雑です。大きな個人の共同墓地がアメンエムハト1世のピラミッド周辺に発達し、ついに王の葬祭複合体そのものの中に侵入しました。これらの最新の墓の中には「テル・エル・ヤフディエ式」土器のタイプを含む少数のかなり裕福な墓がありました。これらの墓は特徴がまったくエジプト的でした。共同墓地と結びついた労働者村は第13王朝の間に同じ地域で発達しました。いくつかの墓のシャフトは居住期間中もその後も住居内に掘られました。この非エジプト的な様式の墓はテル・エル・ダヴァと似ています。しかし、住民達がエジプト人ではなかったことを示すさらなる証拠はありません。住居と墓の発掘から生じた屑の中で、第16王朝スワジュエンラー・ネブイリエルアウ1世の名前が彫られたスカラベ型印章が二つ発見されました。リシュトではトトメス3世の治世まで第18王朝の証拠はありません。

リシュトの共同墓地の使用と第二中間期までそこで中王国の文化が継続していたという二つの証拠でさえ、王と廷臣たちがいつイチーターウィからテーベに移ったのかという質問に答えてくれません。その地域に記念碑があったことが知られている最後の第13王朝の王はメルネフェルラー・アイです。またホルエムハーウエフという名の官僚の証言もあります。彼はネケン(=エル・キャブ)のホルス神とイシス女神の神殿彫像を集めるために派遣された神官達の主席監督官でした。エル・キャブにある彼の墓の中庭で発見された供養碑はこの任務の間にイチーターウィを訪問したことを述べています。ホルエムハーウエフによって集められた神像はおそらく王権と結び付けられた祭礼で使われた修復された小像かあるいは新たに作られた小像でした。それゆえ、王都は当時職工、書記、典礼司祭たちがそのような像を作ることが出来た唯一の場所だったように思われます。このことはホルエムハーウエフが長旅を企てる必要と任務成功における彼の誇りを説明してくれます。残念ながら、彼を派遣した王の名前は言及されていません。そのような彫像の制作はエジプト王の最も重要な行為の一つで、王自身の神の地位を確認することを可能にしました。王の神像制作への言及は古王国の始まりにさかのぼるすべての残存する王の年代記に現れます。この神聖な職人技の伝統は、王都が放棄され、メンフィスとのつながりが断たれた時、明らかに断絶しました。

この芸術の伝統の喪失の結果は「ヒエログリフの伝統」と述べられてきたことの断絶でした。供養碑文で使われた定式文の書き方が変化しました。というのは、以前は碑文は石の記念碑に彫られたヒエログリフの碑文で明確に訓練された書記達によって創作されたけれども、今や行政文書で使われるヒエラティックで訓練された書記達の影響下で生産されたからです。葬祭用定式文の書き方におけるこの変化は中王国の終わりの前か後の時代に碑文を年代づける方法として使えます。ホルエムハーウエフの供養碑の書き方は中王国後のタイプです。そのことはおそらく政治的分裂が事実上彼の生涯に起こったかもしれないということを示します。年代学は碑文に記録されたエル・キャブ出身の官僚達の系図から推論されてきました。これに基づいてホルエムハーウエフの墓は紀元前1650年〜1630年の間に準備されたと示唆されています。もし彼の王都訪問が20年間の高官職の保有期間の始まりに起こったならば、それは1685年のメルネフェルラー・アイの治世の終わりの後の少なくとも15年の間に年代づけられるかもしれません。

ファイユーム・オアシスの入口にある3つの共同墓地、マイヤナ、アブシール・エル・メレク、グローブは、ヒクソスとテーベ朝との戦争期間に年代づけられます。これらのファイユームの墓は特徴がエジプト的で、遺体は四角い棺に伸ばして安置されています。グローブでは二つの墓がケルマ土器を含んでおり、被葬者がテーベ軍に勤務するケルマのヌビア人だったかもしれないことを示します。アブシール・エル・メレクの未盗掘の墓はヒクソス王キヤンのスカラベ型印章を含み、埋葬がキヤンの治世より後だったことを示しています。セドメント・エル・ゲベルに近いマイヤナの土器は円筒形のテル・エル・ヤフディエ式水差しと輸入されたキプロス産の水差しを含みます。投げ棒を別にして武器はありませんが、羊の皮の使用と羽根と草花で死者を飾ることは典型的にエジプト的ではありません。この小さな共同墓地は外国人共同体の短期間の存在を記録するように思われますが、アヴァリスでの繁栄とは異なるものです。

第二中間期の最終期から第18王朝の始まりまでの移行期よりおよそ130年前に、王はイチーターウィからテーベに都を移しました。この出来事が起こる以前でさえ、王の祖先達の礼拝が途絶えたので、第12王朝の王たちの葬祭複合体の神聖な空間は侵害され始めました。しかし、リシュトでは共同墓地は、おそらく村も、第二中間期の終わりまで使用され続けました。もし共同墓地の寿命が王都の寿命と似ていたならば、それもまた何らかの形で続きました。

中エジプト−エジプトとヒクソスとの境界

テーベ王カーメスは自分の顧問達に「中部はクサエまで我々とともにあります。」と助言されました。カーメス王の治世からのテクストは私達にとって第二中間期における中エジプトの歴史に関する最高の文字史料であり続けています。スペオス・アルテミドスのハトシェプスト女王の碑文はその地域における神殿の大規模な修復と再奉献を記録しています。「妾は、アジア人たちが北部のアヴァリスにいて、彼らの間で遊牧民が作られたものを破壊していた時以来、初めに解体されたものを建てた。」(Urk. IV, 390)、「クサエの女性支配者(パヘト女神)の神殿は崩壊して倒れていた。大地がその高貴な礼拝堂を飲み込み、子供達がその屋根の上で踊っていた。」(Urk. IV, 386)。このプロパガンダは混沌の後の秩序の回復者という伝統的な王の役割を果たすハトシェプスト女王を示そうと意図されました。女王の書記はヒクソス対テーベ戦争の後80年以上経って書きました。「遊牧民」がアヴァリスの軍隊と同様にテーベ軍だったことはありそうです。そんなにずっと後に、エジプトの支配者達がヒクソス追放をまだ自慢していたということは興味深いです。

クサエはヘルモポリス(現在のエル・アシュムネイン)の約40km南にあり、中王国の間その地域の行政の中心地でした。ホルエムハーウエフのエル・リシュト訪問の後、クサエはエジプトとヒクソスとの境界になり、南からの旅人が北へ進みたい時アヴァリスの支配者に税を支払わなければ成りませんでした。アペピ王からクシュの王への書簡を持った使者を捕らえたというカーメス王の記述から判断すると、ヒクソスは「サコ(おそらく現代のエル・ケス)から西部砂漠オアシスを経てヌビアのトゥマス(第一カタラクトと第二カタラクトの途中)までのルートを支配していたように思われます。このルートは同盟者−クシュの王たち−と黄金への接近をアヴァリスの王に可能にしました。少なくとも3つのカタラクトの要塞(ブーヘン、ミルギッサ、ウロナルティ)は、それらがエジプトの支配下にあったのかクシュの支配下にあったのかについての議論はありますが、まだ機能していました。それにもかかわらず、組織はオアシス・ルートを支配し、金鉱山へ遠征隊を送るために存在しました。クサエに境界があるにも関わらず、オアシス・ルートを通じて、下エジプトとヌビアとの間に定期的な接触と物資の交換が続きました。このことはカタラクトの要塞群とクシュの都ケルマの両方での土器と封泥の発見から明らかです。

私達はクサエの南約50kmで発掘された共同墓地群、デル・リファ、モスタゲッダ、カウを見ることによって中エジプトの光景を拡大することが出来ます。デル・リファのCemetery Sは「フライパン型墓(pan-grave)」の人々として知られるヌビア人グループの墓を含みます。彼らは砂漠の端で生活する半遊牧の牛の飼育者たちでした。彼らの共同墓地と村は第13王朝の間エジプトに現れ、カーメス王のテクストのメジャイと同一視されてきました。彼らの独特な手作りの土器は中王国のどこの村にもあり、北はメンフィスまで発見されます。デル・リファでは彼らの墓はテル・エル・ダヴァのE/1層(第15王朝中頃に年代づけられる)から出土する土器と比較できるテル・エル・ヤフディエ式土器を含みました。関連するエジプトの土器はメンフィス地域の中王国の様式に属し、共同墓地が第13王朝の始まりにさかのぼることを示します。デル・リファのほぼ対岸のモスタゲッダもフライパン型墓の人々の墓を含みます。これらの墓は彼らがエジプトの埋葬習慣に従ったかあるいはヌビアの埋葬習慣に従ったかによって年代順に並べられます。第18王朝始まり以前の二つの時期がモスタゲッダで見られ、両方ともデル・リファとは著しく異なるエジプトの土器を含みます。これらの二つの時期は、モスタゲッダとデル・リファの南15kmのところにあるカーウの広大なエジプト人共同墓地でも発見されてきました。土器は念入りに刻まれた装飾、砂質の泥灰土(マール・クレイ)の使用、肩部が高くて頚部が細い貯蔵用の壷、胴体部の下部は丸く上部が反り返っている壷(carinated jar)によって特徴付けられます。この土器集成は明らかに上エジプトの伝統に属し、第18王朝初期の地層で、十分に発達した形で、メンフィスとテル・エル・ダヴァに現れる容器の原型を示しています。デル・リファとモスタゲッダの共同墓地は同じヌビアの文化グループに属しましたが、葬祭用備品の相違はデル・リファがメンフィス地域と接触しており、モスタゲッダが上エジプトと結びついていたことを示します。両方に現れるヌビアの工芸品は、それらの相違が時代によるものではなく、富や地位(一般にモスタゲッダの方が裕福)、とりわけ地域の関連によるものであることを示すのに十分同様です。それらの所在地はクサエ地域が確かに上エジプトと下エジプトとの境界を成し、その境界は少なくとも第13王朝の始まりまで存在したことを示します。ここに境界地域を巡察するメジャイの傭兵達の二つのグループの共同墓地があると推測することは可能です。おそらくデル・リファに基地があるグループはヒクソスのために西岸を守り、もう一方のグループはテーベ王たちのために東岸を守りました。

テーベ−第16王朝

リホルトのトゥーリン・キャノンの復元に基づいて、私達は第17王朝の王たちの前任者達として15人の王たち(マネトーンの第16王朝)を確認できます。彼らのうち5人は同時代史料に現れ、彼らの権力の中心地が上エジプトにあったことを示します。彼ら全員がテーベから支配したかどうかは確かではありません。何人かはアビュドス、エル・キャブ、エドフのような重要な都市の地域支配者だったかもしれません。確かにテーベから支配したイイヒェルネフェレト・ネフェルヘテプ王は非常に印象的な石碑を残し、自分自身について勝利の王、自分の軍隊に愛される者、自分の都市を養う者、反逆者を負かす者、反抗的な諸外国を和解させる者と述べています。ネフェルヘテプ王はアメン神とモント神、テーベの都市を擬人化した女神によって守護されているのを示されています。女神は偃月刀と弓矢で武装して現れます。この石碑はヒクソスに対するテーベの決起を祝って建てられたかもしれません。しかし、私達はネフェルヘテプ王がヒクソスと戦ったかどうか知りません。カナダ人エジプト学者ドナルド・レッドフォードはカルナック東部にある町の一部に第13王朝の後の破壊層に注目してきました。ネフェルヘテプ王の名前はエル・キャブとゲベレインの同時代の記念碑からも知られます。そのような不確かな時代に、軍事指揮官としての王の役割はますます顕著になり、王の連祷でも正式に記されます。そのような語句と同様イデオロギーは第18王朝まで残存します。

第16王朝の王たちに仕えた官僚達は自分自身の記念碑を持ち、そこに記録された系図から相対的な年表が作成されてきました。息子はしばしば父親の後を継いで王に仕え、王は有力な官僚の一族から妻を娶り、その結果相互依存のネットワークが次第に王たちを官僚達の故郷の町(テーベ、エル・キャブ、エドフ)に束縛しました。系図の証拠はたった三世代がイチーターウィの放棄を第16王朝の6番目の王ネブイリエルアーウ1世の治世から隔てているに過ぎないことと、第13王朝から第16王朝への移行が王たちに仕える官僚達に気付かれずに公式に進行したことを示します。

第二中間期(第13〜17王朝)の諸王については、下記のURLをご覧下さい。

http://www.digitalegypt.ucl.ac.uk/chronology/2interkings/kings2intermediateryholt.html

第二中間期(第13〜17王朝)のテクスト史料には、次のような文献があります。

Wolfgang Helck, Historisch-Biographische Texte der 2. Zwischenzeit und Neue Texte der 18. Dynastie (Kleine Ägyptische Texte), Wiesbaden, 1975, 1983.

Wolfgang Helck, Historisch-Biographische Texte der 2. Zwischenzeit und Neue Texte der 18. Dynastie (Kleine Ägyptische Texte 6,2), Wiesbaden, 1995.

Frank T. Miosi, A Readingbook of Second Intermediate Period Texts, Tronto, 1981.

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