古代エジプトの歴史        2007年5月26日  西 村 洋 子  

13.  第二中間期 (紀元前1,650〜1,550年頃)(1)

概 観

第二中間期の始まりは、リシュトにある王都を放棄して、テーベに王宮と政府の所在地を移転したことによって目立たせられます。第二中間期の終わりはテーベ王イアフメスによる東部デルタのアヴァリスにあるヒクソス王たちの都の征服とともにやってきます。イアフメス王が成し遂げたエジプト再統一は400年以上の間再び乱されることはありませんでした。これらの二つの出来事の間の期間はおおよそ150年でした。リシュトの最後のファラオはイイ・メルネフェルラーでした。アヴァリスの征服はイアフメス王の治世18〜22年の間(1,532〜1,528年頃)に年代づけられます。

一世代は25年と計算して、たった六世代の間に深い文化的・政治的変化が起こりました。しかし、エジプトの不統一はそれがさまざまな地域で、さまざまな程度で、さまざまな風に起こったことを意味しました。それゆえ、エジプトの主要な地域のそれぞれの視点から歴史を述べるのが良いように思われます。国は私達が現在考えている以上に分断されていたことはありそうです。たった一つの歴史叙述が適切なように思われるのは、最終的にエジプト全体を巻き込むヒクソスとテーベとの戦いの始まりの後です。

文字史料は乏しいどころか豊富すぎて特殊な問題を提示します。しかし、それらが考古学上の証拠とともに私達に語ることを統合する難しさは甚大なままです。文字史料は6つのカテゴリーに分類されます。

1. トゥーリン・キャノン  ラムセス2世時代にメンフィスですでに存在する王名表から編纂されたヒエラティックでパピルスに記された最も詳細な王名表。

2. マネトーンのアエギュプティアカ  紀元前三世紀に書かれたエジプト史ですが、現存するのは後の年代記作者達によって抜粋された断片のみです。

3. プロパガンダとして書かれた王の碑文(当時のものも後世のものも含む)  当時の状況をいきいきと伝えてくれます。

4. 当時の個人の自伝碑文

5. 行政記録

6. 文学テクストと学問のテクスト  サリエ・パピルスIやリンド数学パピルスなど。

これらのテクストは常に貴重ですが、最も重要な王の碑文がしばしば本来のコンテクストから切り離されてきたので、曖昧さが入り込みます。テーベの王の石碑の大部分は壊れたり、後世の建築物で再利用されているのが発見されました。アヴァリスではヒクソス王たちの記念碑的な泥レンガの建築物の中の碑文のある石材はどれもそれが本来属した地層で発見されてきませんでした。

考古学上の史料は思いがけない危険を含んでいます。というのは、残存する史料の乏しさあるいは部分的な発掘のために記録にギャップがあるからです。当時の遺跡はデルタの中央部や西部では発掘されてきませんでした。またマイヤナとデル・リファの間の中エジプトでも発掘されてきませんでした。下ヌビアの第二カタラクト地域の泥レンガの要塞はエジプトとクシュとの関係の歴史を語ってくれます。しかし1960年代のユネスコ・キャンペーンにおけるほんの部分的な発掘調査の後、それらはナセル湖の水中に失われました。残っているのは大量だけれども散在する情報のパッチワークです。証拠への地域的アプローチの採用はエジプト史において繰り返し起こるテーマ、すなわち第二中間期の終わりにテーベとアヴァリスとの戦いで最も極端な状態になった上エジプトと下エジプトとの競争を強調するのに役立ちます。

アヴァリスの支配地域

第二中間期の核心にある問題はヒクソスの本質です。たいていの歴史家達はエジプト側からの文字史料に頼ります。カーメス王戦勝碑に匹敵するヒクソスのテクスト史料はありません。その代わりに私達が持っているのは、彼らの都アヴァリス(現代名、テル・エル・ダヴァ)の組織的発掘調査からの証拠です。私達は今やヒクソスの宮殿、神殿、住居、墓がどのようであったかを知っています。私達は彼らの文化が時間を経るにつれてどのように発展したかを観察できます。しかし、ヒクソスは単なる一つの現象ではありませんでした。

アァムーはアヴァリスの人々をエジプト人から区別するために使われた当時の用語です。それは第二中間期のずっと以前から使われ、その後も一般的な意味でシリア・パレスティナの住民たちを示すために長く使われました。例えば、ラムセス2世はカデシュでの敵達に対してアァムーを使っています。エジプト学者達は慣例的にアァムーを「アジア人たち」(すなわち西アジアの住民たち)と訳します。他方、「ヒクソス」という用語はギリシア語を経てエジプトのエピセット、ヘカーウハスート「諸外国の支配者たち」に由来し、アジア人支配者達にのみ適用されました。それ自体はエジプト王よりも低い地位を示すこと以外に軽蔑的な意味合いを持たず、エジプト人によってもヒクソスの王達によっても使われました。

この時代のエジプトにおけるアジア人たちの名前は個人も王もすべて西セム語に由来します。アジア人への言及は中王国には多数あります。アジア人たちは、時々アァムーという呼称を維持しながらエジプト名を採用して、様々な職業で働きました。これらの移民は経済的移住者たちであると考えられました。しかし、第12王朝アメンエムハト2世のメンフィスの年代記ははっきりとした言葉でレバノン沿岸への海路での遠征を記録しています。そして1,554人のアジア人からなる戦利品リストて終わります。そのような遠征はテル・エル・ハブアからの考古学上の証拠に一致します。それはエジプトの東の国境が南の国境と同じくらい強固に防備されていたことを示します。テル・エル・ハブアは中王国以降テル・エル・ダヴァの東に位置した大きな遺跡です。発掘者のモハンメド・マクスードは、第二中間期の集落の地層の下に、壁の厚みから判断して、おそらく城砦を発見しました。ヌビアの第二カタラクトの要塞との類推によって、巡察隊は疑いなく周辺砂漠にまで出ていって王都に送られた急送文書に「エジプトに渡りたい」と願うすべての人々の動向を記録したでしょう。

非常にエジプト化されていたけれども、アジア人たちの共同体が第13王朝初めと同じくらい早くにそこに存在したというテル・エル・ダヴァからの証拠があります。しかし、今までのところ、これは中王国の間エジプト国内にいるアジア人住民達の唯一確信できる考古学上の証拠です。同時代のテクストには「アジア人労働者達のキャンプ」への言及もあります。テル・エル・ダヴァの最古の集落が第一中間期に年代づけられ、東の国境を守るために建設された防衛システムの一構成要素として故意に建てられたことはありそうです。第12王朝末と第13王朝初めの間その遺跡は、アジア人によって居住された集落の出現を含み、非常に拡張しました。共同体の非エジプト的特徴は、明らかにシリア・モデルに従った住居の平面図と、墓が居住区域内に統合されたという事実から、明らかです。土器と武器によって定義された物質文化における相違があるだけではなく、埋葬の本質がエジプトの特徴とパレスティナの特徴の混合を示します。墓の礼拝堂に開けられた泥棒の穴から、等身大以上の投げ棒を持って座る男性の石灰岩製の彫像の断片が現れました。芸術様式と衣服は非エジプト的です。しかし、大きさが最も重要な人物を示します。皮肉にもこの彫像の最も良い類例はベニ・ハサンの中王国の墓から出土した小さな木製の像で、赤ん坊を背負うアジア人女性を表現しています。

ヒクソスについては、下記のURLをご覧下さい。

http://www.touregypt.net/featurestories/hyksos.htm

ヒクソスに関するマネトーンの記述については、下記のURLをご覧下さい。

http://www.touregypt.net/manethohyksos.htm

d/1層では中期青銅器時代の文化がもっと顕著になり、墓には時々つがいでロバが埋葬されます。その他に北シリア様式の円筒印章の刻印、ミノア文化のカマレス土器の断片、ミノア文化のものと思われる二匹の猟犬で装飾された黄金の胸飾りも発見されています。そのようなものは、中期青銅器時代の輸入土器とエジプトの模造品とともに、文化が混合した集落の特徴を確かにします。もしこれらのアジア人たちの出身が単一ならば、彼らの出身を決定することは容易ではありません。アジア文化は確かに根底にあるエジプト文化によってひどく純度を落とされていました。大量の土器はエジプトの土器で(その割合はd/1層によって80%から60%に落ちています)、スカラベ型印章に彫られた官僚達の称号から判断して、行政はエジプト・モデルで遂行されました。外国の特徴の類例はテル・エル・アジュールのような南パレスティナの遺跡、シリアのエブラ、ビブロス(現在のレバノン)で発見されてきました。テル・エル・ダヴァの中王国末の都市の富はレバント海岸沿いの海上交易に集中し、キャラバン・ルートは北部シナイ半島からパレスティナを横断していたので、その住民達の特異な文化は意外ではありません。

テル・エル・ダヴァの人々の文化は急速に新しい特徴を発展させ、古い特徴を放棄しました。このことは建築、埋葬習慣、土器、金属、その他の工芸品によって各層の特色を比較的明確にしますが、なぜどのようにしてこのような文化混合と急速な発展が起こったのかという疑問には答えてくれません。一つの仮説は、エジプト人住民達が時が経つにつれて、初めはレバノン・シリアの地域から、その後パレスティナとキプロスから、新しい定住者たちの到来を受け入れたということです。アジア人エリートはエジプト人女性と結婚しました。これは人骨の予備研究によって支持された提案です。

テル・エル・ダヴァはシリア・パレスティナの中期青銅器時代第二期A−Cのよく知られた時代に属することが認められる何百という工芸品をもたらしました。この物質は9つの層(H−D/2)で発見されます。その最上の層と最下層はオーストリアの発掘者マンフレッド・ビータック氏によってそれぞれ中王国第12王朝アメンエムハト4世と第18王朝イアフメスの治世に結び付けられてきました。ビータック氏は結果として生じた248-282年の期間を、それぞれ約30年の9つの層に分け、このようにして自分の相対年代のための絶対年代の枠組みを獲得します。しかし、これらの年代が、出土品がテル・エル・ダヴァの出土品と似ているシリア・パレスティナの遺跡に当てはめられた時、時々すでに存在している年代学と衝突がありました。激しい討論は結果的に、テル・エル・ダヴァの層の年代だけではなく、東地中海地域全体に対して中期青銅器時代を年代付けるのに使われた方法も、根本的な修正を要求するでしょう。

テル・エル・ダヴァの最初の拡張は流行病によって一時的に確認されました。遺跡のいくつかの部分で、ビータック氏は多数の遺体が何の儀式も行われずに安置された大きな共同体の墓を発見しました。その後、F層以降、集落と共同墓地のパターンは以前ほど平等社会を示しません。周囲に小さな家が集まった大きな家、集落の端よりも中心により複雑な建造物があること、主人の墓の前に埋葬された召使いたちはすべて、裕福なエリートグループの社会的優勢を示します。

都市の歴史のこの時点で、テクストで証明されたヒクソスの都アヴァリスとの同定が明らかになります。二つの石灰岩の扉の側柱に「よき神、両国の支配者、ラー神の実の息子、ネヘシー」と記されているのが見つけられました。テル・エル・ハブア、タニス、テル・エル・ムクダム出土の銘文のある断片はこの人物のさらなる称号とエピセット、「セト神に愛されるもの、アヴァリスの支配者、王の長男」をもたらします。最後のエピセットは高い軍事的位階を暗示する称号で、その保有者が文字通り「王の息子」だったということを意味しません。セト神への言及はその礼拝がすでに確立され、アメン神がテーベの守護神だったのと同じくらい、セト神がアヴァリスの守護神だったことを示します。セト神の礼拝は、ヘリオポリスですでに存在している礼拝と、アジア人たちによって導入された北シリアの天候神バール・ゼフォンの礼拝との混合から発展したのかもしれません。

ネヘシーはトゥーリン・キャノンでは一般に第14王朝と同定されるグループに名前を挙げられています。第14王朝の都はマネトーンによれば西デルタのクソイスでした。実際にはネヘシーはアヴァリスで短期間王の地位を奪ったエジプト人かあるいはヌビア人の高官でした。ネヘシーの碑文はエジプト王国の分断の最初の同時代の証拠です。ネヘシーは第13王朝末に相当するテル・エル・ダヴァのF層(b/3)の相対年代にうまくはまります。その後アヴァリスの征服までエジプト全土を支配できる単独の支配者はいませんでした。105以上の王名がその時代から残され、その大部分がトゥーリン・キャノンに現れます。このことはどんなに短期間の統治で、その支配が局地的であってもすべての王の名前がメンフィスで記録され続けたことを暗示します。デンマークのエジプト学者、K. S. B. リホルトはテクストの分析と同様繊維の一致によって断片的なトゥーリン・キャノンを骨折って復元し、結果として私達はさらにもっと一貫した記録を持っています。王名は現在マネトーンの第14−17王朝に相当する4つのグループに分けられます。第14・15王朝は東部デルタに根拠地があり、アヴァリスを都としました。第16・17王朝は上エジプトのテーベに中心を置きました。テーベ王の初期のグループがマネトーンの第16王朝に割り当てられるという考えには議論が集中していますが、ここではリホルトの解釈に従います。

トゥーリン・キャノンでは確認されないけれども、記念碑に名前が残っているわずかな王達がいます。そのような王の一人はセケルヘルで、5つの完全な王号を持ち、そのうち3つが知られていますが、彼はヘカーハスート「諸外国の支配者」と自称しました。彼の碑文はテル・エル・ダヴァの第18王朝初期の建築物に再利用された扉の側柱に残されています。ビータックはセケルヘルをマネトーンの歴史(ヨセフス版)に記されたメンフィスの征服者サリティスと同定します。しかし、スカラベ型印章にのみ登場する約15の王名のグループもいます。それらの王名はエジプト風であったり、西セム系であったりし、さらに「よき神」「ラー神の息子」「諸外国の支配者」のエピセットを持ちます。しかし、エジプトの史料で使われるネスート「王」はこれらの王たちを呼ぶのに決して使われません。スカラベ型印章は様式上エジプト製とパレスティナ製の両方に見られるタイプに属します。考古学上のコンテクストはそれらが第13王朝に続く時代に属し、様式上それらは第14・15王朝の諸王の名前を持つスカラベ型印章と結びつきます。彼らは印章で王のエピセットを廃止する地域の権力者である高官達なのかもしれません。テル・エル・ダヴァからの発見物は今までのところ彼らの権威の程度を示したり、年代学上の順序に彼らを配置するのに役立ちません。

中期青銅器時代IIBのモデルとセケルヘルによって採用された名前の文字通りの解釈を仮定すれば、セケルヘルが小王達が貢ぎ物を納めた大君主だったことはありそうです。もしそうなら、このことはアヴァリスの支配者達の碑文とその他の無名の人々のスカラベ型印章に記された称号「諸外国の支配者」の使用を説明してくれるでしょう。ビータックはテル・エル・ダヴァの最後のヒクソスの段階をマネトーンの第15王朝およびトゥーリン・キャノンの記述「108年間統治した6人の諸外国の支配者たち」と関連づけます。トゥーリン・キャノンでは最後の王名ハムディだけが読めます。テル・エル・ダヴァからはセケルヘル、アペピ、キヤンの息子ヤナシの名前が発見されています。考古学上の証拠も文字史料もこれらの支配者達の権威が彼らの前任者達よりも非常に強大だったことを示します。父子継承とアペピの40年以上の治世は真の王朝が今やアヴァリスから支配していたことを示します。アヴァリスの都市自体は最大で約4平方km、第13王朝の時の2倍の大きさで、パレスティナの最大の都市ハツォル(中期青銅器時代IIA-C)の3倍以上の面積を占めました。最新のヒクソスの層D/2では、城塞がナイル川を見下ろす都市の西の端に築かれ、南東200mのところに陸上交通を監視する塔が築かれました。これらの周囲を幅6.2m(後に8.5mに拡張される)の、ところどころに控え壁のある巨大な周壁が築かれました。防衛施設は本来広大な宮殿複合体の一部だった大きな庭園の上に建設されました。

テル・エル・ダヴァの歴史と年表については、下記のURLをご覧下さい。

http://www.auaris.at/html/history_en.html

ヒクソス時代の絶頂期はアアウセルラー・アペピの治世で、テーベの二人の王が彼に対して軍事遠征をしました。エジプト方式で統治するために必要とされた複雑な官僚機構を創設し、管理するのに必要不可欠なエジプトの初期の伝統の意識的な復活が見られます。アトゥと呼ばれる書記のパレットで、アペピは「トート神自身によって教えられたラー神の書記、ナイル川が流れるように、彼がどんな難しい書物の章句も正確に読む日に数々の功績とともに・・・」と述べられています。リンド数学パピルスがコピーされたのは、彼の治世の33年のことでした。それは最高レベルの筆記技術にまで訓練され、メンフィスのプタハ神殿以外には存在しなかったような専門書に近づくことが出来た書記によって成し遂げられた仕事でした。新王国後に年代づけられるメンフィス出土の石碑には第11王朝にさかのぼる神官達の家系が記録されています。その石碑には代々の王の名前も記され、イアフメス王の前のアペピとシャレクが記録されています。自分達の西セム系の名前をエジプトのヒエログリフで記している二人のアジア人によって捧げられた、アペピとその妹タニーを記念する礼拝堂の断片がテル・エル・ダヴァで発見されています。アペピの娘ヘリトのためのヒエログリフの銘文を持つ皿もアメンヘテプ1世の墓の中で発見されました。

エジプトとシリア・パレスティナの文化の特徴の混合は、テル・エル・ダヴァのD/3とD/2(アペピの治世)の層から出土した物に示されるように、デルタの広大な地域で認められます。すなわち、タニスのナイル川支流の西方、テル・ファウジナとテル・ゲジレト・エル・ファラス、そして、ファラシャ、テル・エル・ヤフディエ、テル・エル・マシュフタ、テル・エル・ハブアを含みます。これらの遺跡はすべてテル・エル・ダヴァより非常に小さく、主な居住時期はそれぞれの場合最新のヒクソスの層に一致します。しかし、テル・エル・ヤフディエとテル・エル・マシュフタはテル・エル・ダヴァの最後のヒクソスの層(D/2)に代表される時期よりも前に終わりました。テル・エル・マシュフタとその周辺の遺跡は、シナイ半島北部を横断してパレスティナへ通じる主要なルートの一つに至るワーディー・トゥミラートに位置します。それはおそらくある季節だけ居住されました。アヴァリスの富はパレスティナとレバントとの交易からだけではなく、その最新の段階では、特にキプロスとの交易からも生じました。カーメス王戦勝碑はヒクソスによって輸入された物資(戦車と馬、船、木材、黄金、ラピス・ラズリ、銀、トルコ石、青銅、無数の斧、油、香料、脂、蜂蜜)を列挙します。しかし、ヒクソスの王達が交換で供給する物資に関する証拠はほとんど残っていません。

私達はカーメス王戦勝碑からヘルモポリスがアヴァリスの王の理論上の南の国境であり、その少し南のクサエが明らかな国境点を示したことを知っていますが、アヴァリスの王は上・下エジプトの王であると主張しました。この地域はメンフィスとイチーターウィを含みます。どのようにしてアヴァリスの王の権威がこの地域に及ぼされ、どのようにして私達はそこで東部デルタの独特の文化を識別することが出来るのかについては、「古代エジプトの歴史 第二中間期(2)」をご覧下さい。

★アペピ王

第15王朝(ヒクソス)の最も重要で、最もよく証明された王。3つの即位名(1. アアケニエンラー、2. アアウセルラー、3. ネブヘペシュラー)を使用。治世年数約40年。アペピの二人の妹タニーとチャルージェト、娘ヘリトが知られています。アペピの支配地域にはデルタとパレスティナの一部が含まれます。

即位名アアウセルラーはリンド数学パピルス、カーメス王戦勝碑、ゲベレイン出土の軒縁、テーベ西岸出土の花崗岩製の皿、スペインで発見された二つの容器、書記アトゥのパレット、スカラベに現れます。ヒクソスの都アヴァリスからはスミス医学パピルスとエーベルス医学パピルスも発見されています。これらの証拠は、テーベのプロパガンダに反して、エジプトの支配者としてのアポピを示しています。

即位名アアケニエンラーはアヴァリスのセト神に捧げられた供物皿、短剣、容器の碑文、タニスから出土したアメンエムハト3世の強奪されたスフィンクスで証明されます。供物皿にはアペピのホルス名セヘテプターウィも記されています。

即位名ネブヘペシュラーはメンフィス出土のある従者に贈られたミケーネの短剣、容器の断片、スカラベに見られます。

誕生名アペピはサリエ・パピルスIに記された『アペピとセケンエンラーの物語』、メンフィス出土の神官達の家系を記した石碑(ベルリン博物館所蔵)、センウセレト3世の強奪されたスフィンクス、ブバスティスの奉献碑文、その他の記念碑に現れます。大英博物館所蔵の石製容器にはアペピがラー神に捧げたことを示す碑文が記されています。

アペピの治世中、当初ヒクソス王朝とテーベ王朝は共存していました。テーベ王朝はデルタから穀物を購入し、デルタで家畜を放牧させてもらい、それによってヒクソス王朝は上エジプトの採石場への通行と交易を可能にしました。アペピによって直接支配された地域は納税と労役の義務を負いました。しかし、治世末に『アペピとセケンエンラーの物語』とカーメス王戦勝碑から知られるように、ヒクソス王朝とテーベ王朝の対決がありました。最終的にアヴァリス陥落とヒクソスの追放は第18王朝初代イアフメス王とヒクソス王ハムディの時に起こりました。

アペピ王については、下記のURLもご覧下さい。

http://users.telenet.be/royalnames/hyksos/apophis.htm

クシュ王国

クシュの王はエジプトの史料でケルマに都を置く王に与えられた名前です。考古学者たちはクシュの人々の文化を記述し、C-グループとフライパン型墓(pan grave)のような他の同時代のヌビア文化からそれを区別するためにケルマを形容詞として使います。ケルマは第三カタラクトの南、西オアシスルートの終点に位置し、ジュネーヴ大学によって発掘調査されています。

ケルマの人々は文字史料を残しませんでしたが、私達はヌビアの至る所で発見された彼らの文化が古王国初めにさかのぼることを知っています。王は古典ケルマ期の間最も有力でした。それは大雑把に第二中間期に相当します。第17王朝のカーメス王はブーヘンを奪回するのに成功したかもしれません。しかし、ケルマ自体が征服されたのは第18王朝末になってからです。その後の破壊は徹底的だったので、都市を復元するのは現在困難です。王が埋葬された大きな墳墓には殺された召使いたちと大量の食料の貯蔵が含まれていたことを私達は知っています。その多くは上エジプトから輸入されたものであり、エレファンティネ島を越えて南へ通過したいと願う人々によって支払われた租税だったかもしれません。少なくとも第13王朝中頃まで、王は上エジプトとも下エジプトとも交易をしていました。それはおそらくカタラクトの要塞群を通じて管理された交易でした。

ケルマのヌビア人たちは牛飼いかつ戦士で、特に有名な射手でした。彼らの墓で発見された弓矢と、射手から防衛するために設計されたプーヘンの巨大な防壁はこの評判を確かにします。ケルマの王宮は防御柵内に建てられた巨大な円形の小屋でした。また広大な聖域や行政上の建築物もありました。ケルマ古典期の大規模な建築事業・再建事業は王の意のままになる物資と人力からなる莫大な資源を証明します。

カーメス王とイアフメス王の軍隊にケルマのヌビア人たちがいたことは議論の余地がありませんが、彼らがカーメス王の遠征中に自発的に雇われたのか、あるいは強制的に徴募されたのかは不明です。ケルマのヌビア人たちが部族連合だったことはありそうに思われます。しかし彼ら全員が必然的にケルマの王の権威と、テーベ王たちへの敵意の政策を認めたわけではありませんでした。王の政策が何であれ、交易は第二中間期末の間ケルマとテーベとの間で栄えました。人々も物品と同様よく行き来しました。おそらくエジプトの職工たちがケルマへ、そして確かにケルマのヌビア人たちがエジプトへ行きました。

エレファンティネ島とカタラクトの要塞群

エレファンティネは第二中間期を研究する上で興味深くて有利な立場にあります。地方都市として、それはテーベ朝側の史料と釣り合いをとる史料を提供してくれます。また第12王朝末から第16王朝まで途切れなく続く王と個人の奉献があります。層状の都市の遺跡と同時代の共同墓地はドイツ考古学研究所によって発掘調査されています。

エレファンティネの運命はヌビアの運命と複雑に結びついています。中王国の大部分の間エレファンティネは南の国境を示しませんでした。南の国境はセンウセレト3世によって400km南のセムナに設置されました。しかし、テーベの王達の権力がどん底にあった時、エレファンティネが独立して支配されたかあるいき、ヌビア人たちが時々都市を襲撃したことはありえます。エレファンティネあるいは要塞に対する襲撃から得られた略奪品は、第二中間期末のケルマの王墓がセンウセレト1世の治世に生きたアシュートの州長官とその妻の彫像を含んでいたという事実に対する有利な説明です。

下ヌビアの価値は採石場、特に閃緑岩、花崗岩、アメシストの採石場、金鉱山と銅鉱山への通路、砂漠と川のルートの支配という点で戦略的な位置にあることです。第6王朝のエレファンティネの地方官吏ヘカーイブは死後神格化され、多数の願掛けの石碑と彫像がヘカーイブの礼拝堂で発見されてきました。特に第13-16王朝はその典型で、第18王朝の到来によって断絶します。碑文に記録された系図は同じ一族が第13王朝末の王たちと第16王朝の王たちの両方に仕えたことを示します。エレファンティネの市長の地位は地方の重要人物の地位からテーベの王の従者達の中の軍事的な地位へ変化しました。そのような人物の一人はネフェルヘテプで、テーベからエレファンティネまでの全地域の責任を王に負いました。ネフェルヘテプの石碑の正書方から判断して、彼の時代すなわち第16王朝の後、ヘカーイブ礼拝堂での奉献は終わります。このことがクシュの王の権力が最盛期で、カタラクトの要塞群でさえクシュの王の支配下に落ちていた時代であることとは、偶然の一致ではないかもしれません。

要塞群の一つ、ブーヘンの運命はまだ完全に公表されていない証拠から継ぎ合わせられるかもしれません。第12王朝末以後、兵士達はブーヘンのCemetery Kに家族と一緒に埋葬されました。これらの墓はメンフィス地域からの土器によって特徴づけられています。このことは要塞の生活用品がまだ王都の工房から来ていたことを確認します。Cemetery Kは第二中間期まで継続して使用され、テル・エル・ヤフディエ式土器の水差しを含む未盗掘の複葬墓が少なくとも2グループあります。テル・エル・ヤフディエ式土器の水差しはE/1層(おそらく第15王朝初め)まで現れないタイプを含みます。遺体の一つは首の回りに大きな黄金のナゲットを身につけています。このことは金鉱山地区に近いことから住民達がブーヘンに留まったことを示しています。このときまで上エジプトと下エジプトの境界は同じ場所にあり、下エジプトからの供給はオアシス・ルートを通じてのみブーヘンに到達したのでしょう。北端では誰がこの交易を組織していたのでしょうか? 官僚達はヒクソス王の時代にイチーターウィでまだ勤務していたと推測しても良いでしょう。リシュトの共同墓地はまだ使用されていたことを私達は知っています。アヴァリス自体はテル・エル・ヤフディエ式土器の水差しの製造・流通センターでした。水差しの中身はまだ同定されていませんが、明らかに非常に貴重なものでした。

要塞の住民達は、下エジプトとの結びつきにもかかわらず、ますます孤立感を深め、弱気になっていたに違いありません。だから彼らは地域の軍事勢力、すなわちクシュの王に順応しなければなりませんでした。5世代に亘る一族がブーヘンに残した碑文によると、彼らの最後の二世代はクシュの王に仕え、王のために遠征も行ったことを示します。この時代は考古学上、下エジプトからの土器の代わりに、テーベ地域から輸入された土器の存在によって目立たせられています。カーメス王の碑文が示すように、テーベと要塞群の間はクシュの王に通行税が支払われた場合のみ、川は通行可能でした。大火の後があるので、ブーヘンはついに奪取されましたが、おそらくヌビア人によってよりもカーメス王の軍隊によってでした。他の要塞、ミルギッサとアスクートは第二中間期の終わりまで、ヌビア人と一緒にエジプト人が継続して居住した同様な歴史を示します。ついにケルマの王によるカタラクト地域の支配はテーベの支配者達にとって耐えられなくなり、ヒクソスに対して安全に進軍する前に要塞群を取り戻すことが不可欠になりました。カーメス王の治世3年に、その地域が再びテーベの支配下にあった最古の証拠があります。壁の建設がブーヘンで記録されています。それはおそらくヒクソス王アペピからクシュの王への書簡で言及された成功した遠征の後の要塞の再建でした。

アスクートの要塞については、Stuart Tyson Smith, Wretched Kush ; Ethnic Identities and Boundaries in Egypt's Nubian Empire, London, 2003をご覧下さい。

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