古代エジプトの歴史        2006年6月25日  西 村 洋 子

2.  ナカダ3期・第1王朝(紀元前3,200〜2,800年頃) 

年 表

先王朝時代 ナカダ3期(原始王朝時代、第0王朝) (3,200〜3,000年頃) ナカダ、アビュドス、ヒエラコンポリスを中心とする支配地域が限られた王たちの存在。サソリ王、カー王など。
王朝時代 第1王朝 (3,000〜2,800年頃) ナルメル王

アハ王

ジェル王

ジェト王(いわゆる「ヘビ王」)

メルネイト(デン王の母、摂政)

デン王

アネジュイブ王

セメルヒェト王

カア王

先王朝時代のエジプトの地図はこちらをご覧下さい。

ナカダ3期にエジプト全土が一つの領域国家に統一され、初期王朝の礎が置かれました。第1王朝の王たち以前に王たちが存在した証拠が見られるので、第0王朝とも呼ばれます。彼らはアビュドスの第1王朝の王たちの墓地の近くに埋葬されました。年代記パレルモ・ストーンに見られるように、古代エジプト人自身も第1王朝以前に王たちが存在したと信じていました。しかし、第0王朝の起源は何か、統一のプロセスがどのようであったか、統一はいつ行われたのかなどについては、まだ多くの議論がなされています。

ナカダ2期以降、上エジプトの共同墓地で大量の副葬品を伴うエリートの墓が見つかります。副葬品には外国から輸入された物資も含まれ、地域間の経済的相互影響と長距離交易の発展によって、一層の社会の階層化、地域政体の権力拡大と地域政体間の競争が起こったことを暗示しています。外国の原料の流通管理と威信を示す工芸品の生産は各地の首長達の権力を強化し、そのような物品は重要なステイタス・シンボルになりました。考古学上の証拠はないけれども、おそらく上エジプトの大きな都市は工芸品生産の中心地だったと思われます。またナカダの南の町のような周壁で囲まれた都市も現れました。

ナカダ2期にナカダ文化はエジプト北部にも拡大しました。ファイユーム地域のエル・ゲルザ、さらに北のデルタのミンシャト・アブ・オマルなどにその遺跡があります。このことはナカダ2期に上エジプトから北へ人々が徐々に移動していたことを示します。

上エジプトの主要な遺跡は東部砂漠の近くに位置しています。東部砂漠からは黄金とさまざまな種類の石材が得られたので、上エジプトの遺跡は下エジプトの遺跡よりも天然資源が豊富です。ナカダの古代名がヌーブト(「黄金(の都市)」)で、ナカダに先王朝最大の共同墓地があるのは偶然ではありません。農耕は上エジプトで順調に発展し、余剰の穀物は専門的に生産された工芸品と交換されたでしょう。上エジプトの商人達はエジプト北部に進出したでしょう。ナカダ文化の北への拡大は東地中海の諸地域との交易を直接管理下に置き、もっと儲けたいという欲望からだったかもしれません。マーディ、ブト、テル・イブラヒム・アワド、テル・エル・ルバ、テル・エル・ファルハのような遺跡の地層は、マーディ文化の人々が、理由は分かりませんが、町を放棄し、その後ナカダ文化の人々が定住したことを暗示しています。このようにしてナカダ2期の終わりまでに、ナカダ文化はエジプト北部に拡大し、マーディ文化は自然消滅しました。

上エジプトの政治的統一は、おそらくナカダ3期初めに、ナカダ、アビュドス、ヒエラコンポリスの政体間での同盟あるいは戦争あるいはその両方によって達成され、その後エジプト全土の政治的統一が行われたと推測されています。

ナカダ3期

ナカダ最大の先王朝時代の共同墓地とエリートの共同墓地Tは、ナカダ3期になると、ナカダ2期の墓と比べて、貧弱になります。これらの共同墓地の約6km以上南に、外壁が「宮殿の正面」で装飾された二つの大きな泥レンガの墓と初期王朝の高官達の共同墓地があります。二つの大きな泥レンガの墓のうち一方は第1王朝アハ王の母ネイトヘテプの墓です。このことはナカダがより大きな政体、すなわちアビュドスの政体に吸収されたことを示します。

対照的に、アビュドスのウンム・エル・カーブ地域は、ナカダ1期のほとんど画一的な墓群から、ナカダ2期末期のエリートの共同墓地へ、そしてついに第0・1王朝の王の埋葬地へと発展しました。紀元前3,200年頃のU-j 墓は12の部屋からなり、全体で66.4平方mの面積を占めます。略奪されていましたが、骨や象牙の工芸品、大量のエジプトの土器、パレスティナから輸入された約400のワイン壷が副葬されていました。墓の中で発見された150の小さなラベルにはおそらく最古のヒエログリフが記されていました。埋葬室に木製の厨子の形跡があること、象牙製の笏杖の模型が見つかったこと、多数のラベルにその地所の名前が記されていることから、発掘者のギュンター・ドライヤーは、これがサソリ王の墓であると推測しました。ただし、棍棒頭で有名なサソリ王の1世紀前の王なので、それぞれ1世、2世と区別されます。

アビュドスのウンム・エル・カーブ地域については、下記のURLをご覧下さい。

http://www.touregypt.net/featurestories/abydos.htm

ヒエラコンポリスのLocality 6では、ナカダ3期の土器を含み、床面積が22.75平方mもある大きな墓がいくつか発掘されています。11号墓は、略奪されていましたが、まだ紅玉随、石榴石、トルコ石、ファイアンス、金、銀のビーズ、ラピス・ラズリと象牙、黒曜石、水晶の刃から作られた工芸品の破片、雄牛の脚を象った木製のベッドが副葬されていました。これらの副葬品から墓に埋葬されたエリートたちは相当な資力を有していたけれども、まだ王ではなかったことが分かります。

初期王朝時代ナカダは政治的に重要ではありませんでしたが、アビュドスは最も重要な故王崇拝地であり、ヒエラコンポリスは現国王を象徴するホルス神の重要な信仰地でした。アビュドスの支配者達がヒエラコンポリスの有力者たちと同盟を結んでナカダを征服し、全国統一を進めたことはありえます。

様式上ナカダ3期に年代づけられる多数の儀式用化粧パレット(戦場のパレットリビア・パレット雄牛のパレットなど)に彫られた軍事的な場面は、特定の歴史的事件を示すのではなく、象徴的な戦闘場面と思われます。しかし、ヒエラコンポリスのホルス神殿のメイン・デポジットから発見された三つの重要な工芸品、すなわちサソリ王の棍棒頭ナルメル王の化粧パレットナルメル王の棍棒頭に彫られた場面はエジプトの統一が最終的に軍事的征服によってなされたかもしれないことを示しています。これらは三つともおそらく神殿への王の奉納物で、ナカダ3期の終わりにはまだヒエラコンポリスは重要な中心地だったことを示します。ナルメル王の化粧パレットには死んだ敵、打ち負かされた人々あるいは集落が描写されており、明らかに上・下エジプトの統一を表していると解釈できます。ナルメル王の棍棒頭には戦争捕虜と戦利品が、サソリ王の棍棒頭には征服された人々が描写されています。これらの場面は戦争が初期国家の建設のある時点で役割を果たしたことを示します。たとえデルタの集落址でナカダ3期の破壊層が見られなくても、戦争はまだ初期国家の強化とその下ヌビアと南パレスティナへの拡大に貢献したでしょう。

1970年代以来、アビュドスとヒエラコンポリスでの発掘はエジプト文明が土着の、上エジプトのルーツを持つことを明らかに証明してきました。確かに、紀元前四千年紀には外国との接触の証拠がありますが、エジプト文明は外国からやってきた民族の軍事的侵略によって突然もたらされたのではありませんでした。

ナカダ2・3期とパレスティナの初期青銅器時代は明らかに同時代で、エジプト北部と南パレスティナとの接触は陸路で行われました。シナイ半島のカンタールとラフィアの間には約250の集落がありました。これらから出土するエジプト土器の8割がナカダ2・3期に年代づけられます。集落の間には季節的な野営地と中継地点が散らばっています。このことは初期青銅器時代にエジプト人によって商業ネットワークが確立され、管理されたことを表しています。南パレスティナの初期青銅器時代の土器の研究からは、料理用の土器はエジプト人の陶工によってエジプトの技術でパレスティナの粘土を使って製作されたことが証明されています。またエジプトから輸入されたに違いない多数の貯蔵用の土器も初期青銅器時代の地層から発見されます。このことはエジプト人住民が南パレスティナに居住していたことも示します。

メソポタミアで考案された円筒印章は、輸入品もエジプト製品もナカダ2・3期の少数のエリートの墓で発見されています。アフガニスタンでしか採掘されないラピスラズリ性のビーズと小工芸品は初めて上エジプトの先王朝時代の墓で発見されます。二頭のライオンあるいは猛獣を両側に従えて立つ勇者のモチーフを含むメソポタミアのモチーフも上エジプトと下ヌビアに現れます。「宮殿の正面」や船首と船尾の高い船のようなその他の典型的なメソポタミアのモチーフは、ナカダ2・3期の工芸品と岩絵にも見られます。これらのモチーフの様式は南西イランのスサの彫刻芸術に典型的なので、スサと上エジプトとの南ルートの接触の可能性を生じさせます。ただしどのような接触だったのかについては現在不明です。

★サソリ王

ヒエラコンポリスに棍棒頭を奉納した王。支配者を意味するローゼット・サインとともにサソリのサインが記されているので、サソリが王の名前と思われます。アビュドスからはこの王の存在を示す証拠は見つかっていないので、ナルメル王とほぼ同時代にヒエラコンポリス地域を支配した王だったかもしれません。

サソリ王については、下記のURLもご覧下さい。

http://www.touregypt.net/featurestories/scorpionking.htm

★カー王

アビュドスの二重墓B7/9墓に埋葬されました。この王の存在を示す証拠は北東デルタのテル・イブラヒム・アワドから上エジプトのアビュドスまでとイスラエルのロッドで発見されています。ヘルワンではカー王のセレフが彫られた二つの壷が発見されているので、メンフィスがナルメル王の治世以前に存在し、ヘルワンがメンフィスの墓地として役立っていたことを示します。アビュドスの王墓で発見された土器の銘辞は王の宝庫によって受け取られた収入に言及しており、第1王朝の始まり以前に租税徴収が中央集権化されていたことを示します。

この二人の王以外にもセレフの中のサインの読み方が分からない王やセレフの中に王名が記されていない例が多数発見されており、エジプト統一以前の支配地域が限られた王たちの存在が暗示されます。

第1王朝

紀元前三千年までに、デルタからアスワンの第一カタラクトまでナイル河谷の大部分を支配する初期王朝国家がエジプトに出現しました。このように広域の領土国家は同時代のヌビア、メソポタミア、シリア・パレスティナには見られませんでした。第1王朝とともに、発展の中心は南から北へ移動しました。初期王朝国家はメンフィス地域にいる神王によって統治される中央集権国家でした。紀元前四千年紀に外国との接触は確かにありましたが、初期王朝国家は類例のない土着国家でした。

ナカダ文化の北エジプトへの拡大の結果、非常に複雑な国家行政が確立されたでしょう。第1王朝の始まりまではそれは印章や国家物資に付けられた札で使われた筆記によって部分的に維持されました。国家による支配の考古学的証拠は壷、印章、容器に付けられたラベルなどに現れるセレフに囲まれた王の名前です。そのような証拠は国家の課税システムがすでに初期王朝に適切に働いていたことも示します。全国共通の言語あるいはいくつかの方言が存在したかもしれませんが、話し言葉については何も知られていません。

メンフィス地域では墓は第1王朝以降発見されます。高官たちの墓はメンフィスに近い北サッカーラで発見され、他のランクの官僚達はメンフィス地域の他の場所に埋葬されました。このことはメンフィス地域が国家行政の中心地であり、初期エジプト国家が社会組織において非常に階層化していたことを示します。他方、アビュドスは非常に重要な礼拝センターであり続けました。第1王朝には泥レンガで町が建設されました。第1王朝の王たちはアビュドスに埋葬されました。王朝時代の始まりから、王権の制度は強力で、歴史時代を通じてそうあり続けたでしょう。当時近東にはこれほど王権が重要で中心的だった国家はありませんでした。

他の都市もエジプト中で行政センターとして発展あるいは創建されたに違いありません。しかし、都市は南メソポタミアのように礼拝センターの周囲に組織されたのではありませんでした。また、エジプトの都市や町はメソポタミアよりも空間的に緩やかに組織されたかもしれません。王の住居は位置を移動したことが知られています。さまざまな要因のために、古代エジプトの都市や町の跡はよく残っておらず、残っているとしても沖積土の下深くに埋もれていたり、現代の集落の下にあったりして、発掘できません。しかし、ヒエラコンポリスとブトには最古の都市の考古学的証拠が残っています。ヒエラコンポリスには町の中に宮殿があったかもしれず、ブトには町の中に神殿があったかもしれません。

初期王朝の大部分のエジプト人は小さな村で生活する農民でした。農業は国家の経済的基盤でした。村は次第にエンマー小麦と大麦の栽培に依存し始めました。それはナイル川の氾濫原で信じられないほど成功しました。初期王朝時代までに単純なため池灌漑農法が行われて、耕地面積の拡大と生産量の増加が達成されたかもしれません。毎年ナイル川の氾濫水が塩分を洗い流すので、エジプトでは塩化作用は起こりませんでした。7・8月に氾濫が起こり、氾濫水が引いた後、9月に小麦の種が蒔かれました。小麦は冬の間に成長し、春が来る前に収穫されました。そうでなければ、高温と旱魃で穀物は枯れてしまったでしょう。このような環境の中で多くの余剰農産物が産出され、そのような余剰農産物を国家が管理するとき、エジプト文明の開花が可能になりました。

★ナルメル王

ヒエラコンポリスに奉納された化粧パレットでは、セレフの中にナマズ(音価「ナル」)とのみ(音価「メル」)が記されていることから、ナルメルと読まれてきましたが、しばしばナマズだけで表記されるので、本当の読み方は不明です。アビュドス地域のティニス出身で、二重墓B17/18に埋葬されたと思われます。サッカーラではこの王の記念碑は発見されていません。しかし、ネゲブ砂漠のテル・エラニ、テル・アラド、ナハル・ティラフ出土の土器片に王名が見られます。デルタのミンシャト・アブ・オマル、ブト、ザウィエト・エル・アリヤン、トゥーラ、ヘルワン、ファイユームに近いタルハン、アビュドス、ナカダ、ヒエラコンポリスで王名を記された土器片が発見されています。東部砂漠のワーディー・カシュのSite 18では王のセレフと空のセレフからなる岩壁碑文があります。この王はデン王とカア王によって王朝創設者とみなされたように思われ、伝説のメネス王と同一視されるかもしれません。

化粧パレットに描かれた場面は、一般には下エジプトに対する勝利と支配の出来事を記録していると解釈されていますが、パレスティナに対する軍事遠征を記録したものという解釈や初期の軍事的成功を即位の儀式で再現したものという解釈、王は至る所に存在することを伝えるものという解釈も出されています。ヒエラコンポリスに奉納された棍棒頭に描かれた場面は、かつては北部の王女との結婚を記念したものと解釈されてきましたが、王妃ネイトヘテプの出身が南部であるらしいことから、現在は神の礼拝と関連があるのではないか、あるいは下エジプト王としてのお出ましの儀式ではないかと推測されています。

出土地は不明ですが、王家の祖先崇拝を示すヒヒ像に王名が彫られています。ベルリン博物館所蔵です。ピートリーがコプトスで発掘した三体の石灰岩製の豊穣神(ミン神?)像は高さが最大4m以上あり、第0王朝か第1王朝に年代付けられています。もしかしたらこの王の治世に属するかもしれません。これらはおそらくコプトスにかつて存在した神殿の中庭に建っていたと思われます。そのうち一体はアシュモール博物館に復元展示されています。

ナルメル王については、下記のURLもご覧下さい。

http://www.touregypt.net/featurestories/narmer.htm

http://www.geocities.jp/kmt_yoko/MyNotebook-16.html (2012年7月7日(土)の記事)

先王朝から初期王朝にかけての宗教については、下記のURLもご覧下さい。

http://www.touregypt.net/featurestories/religiousorigin.htm

★アハ王

母ネイトヘテプはナカダに埋葬されました。ナルメル王がナカダ王国との政治的同盟を強固にするためにその王女と結婚したことはありえます。

メンフィスを見下ろす北サッカーラに王族や高官達のマスタバ墓を築かせたけれども、王自身はアビュドスに埋葬されました。王の複合墓を構成する三つの埋葬室(B19, B15, B10)では大きな木製の祠堂の痕跡が発見されました。そして、20代前半の男性たちの遺体が埋葬された33の従属墓を伴います。彼らは王が埋葬される時殉死させられたと思われます。また少なくとも7頭のライオンが埋葬された墓も従属墓の近くで発見されています。また従属墓の一つからは王妃の名前かもしれないベネルイブという銘辞を記されたものが発見されています。

王名はアブ・ラワシュ、ザウィエト・エル・アリヤン、サッカーラ、ヘルワン、アスワン、アビュドス、ナカダで発見されてきましたが、ナイル河谷の外では発見されていません。しかし、南パレスティナでの植民地や貨物集散地を経由したもっと直接的な資源開発が行われました。アビュドスの王墓からはシリア・パレスティナの土器のたった一つの断片が出土しています。またナカダのネイトヘテプの墓から出土した四つの黒檀製のラベルの内の一つに、ある年の出来事として、サイスのネイト女神神殿への王の訪問と、シリアから到着した木材の受け取りが、別の一つにヌビアへの軍事遠征が記されています。

王名が記され、優れた職人技を示すものがあります。それらは二つの銅製の斧、王名とベネルイブの名前のある象牙の箱の断片、王のセレフが濃い色の釉薬を象眼されたファイアンス製の大きな容器の断片、二つの無傷の銘辞のある白い大理石です。

パレルモ・ストーン(年代記)の表第二段第一欄に、「ホルス神に付き従うこと、アヌビス神像の制作」が、第二欄に「6カ月7日」が記録されています。「ホルス神に付き従うこと」とは租税徴収のために王あるいは官僚達が隔年で行っていた国内の旅と考えられています。「6カ月7日」は王の治世の最後の年の統治期間を示します。

一年のラベル(油の壷に付けられ、一年の出来事が記された札)が四つ見つかっています。第一のラベル(アビュドス出土)には「ホルス・アハによるヌビア討伐、ヘンティアメンティウ神像の制作、建築物ヘルペヒェルイフーの建設(?)」、第二のラベルには「ホルス・アハによる運河を土地に巡らすこと(?)、『船に乗ったハヤブサ』の旅、王冠の神殿『ニ女神は永続する』の建設、上エジプトの租税の引き渡しと下エジプトの扶養の際の厳粛な捧げもの」、第三のラベルには「イミウトの制作、二隻の船での旅とサイスのネイト女神神殿での滞在、セム神官によってジェバウト(=ブト)で四回砂漠の動物を狩りすること、ベシュからの杉木材ともみ木材を受け取りに行くこと、『鳥の地』からの船の到着」、第四のラベルには「イミウトの制作、ホルス神に付き従うこと、上・下エジプトの獲得」と記されています。(http://xoomer.alice.it/francescoraf/hesyra/2aha.htm参照)

アハ王については、下記のURLもご覧下さい。

http://www.touregypt.net/featurestories/menes.htm

パレルモ・ストーンについては、下記のURLもご覧下さい。

http://www.touregypt.net/featurestories/palermo.htm

★ジェル王

下ヌビアのゲベル・シェイク・スレイマンの岩壁碑文はジェル王の軍隊によるヌビア討伐と考えられてきましたが、セレクの中に王名は記されておらず、現在は先王朝時代末期に年代づけられています。

アビュドスの王墓は338の従属墓を伴い、ハレムの女性達や廷臣たちが殉葬されました。小人や猟犬も殉葬されていました。王の葬祭複合体のレイアウトに革新がもたらされ、王墓が周壁に囲まれ、さらに従属墓に囲まれた最初の例です。また廷臣たちの持つ称号から宮廷の構成を垣間見ることが出来ます。王墓の面積は従属墓も含めると70×40mで、アビュドスの第一王朝の王墓の中で最大です。埋葬室には木製の厨子がありました。埋葬室の壁は泥レンガでおおわれており、その大きさは18×17m×深さ2.6mでした。埋葬室の三方に垂直の短い仕切り壁があり、独立した倉庫になっていました。埋葬室の天井の上には、高さ1.5mの砂山が築かれていました。後の中王国時代に王墓はオシリス神の礼拝堂に転換されます。しかし、ピートリーはここで本来の被葬者のものと思われる、ブレスレット(黄金、トルコ石、アメシスト、ラピスラズリのビーズから作られた)を多数装着して麻布に包まれた腕を発見しました。腕はもう無くなりましたが、装身具類はカイロのエジプト博物館に所蔵されています。

さらに高度な職人技が維持されます。柄の部分に王のセレフを浮き出しにし、金箔でおおわれたフリント製のナイフ、王の従属墓の一つから出土した王のセレフを刻まれた銅製の手斧、アハ王のものと類似の大理石、エレファンティネ島のサティス女神神殿から出土した淡青色の釉薬をかけられた頭部の欠けた王の座像、北サッカーラのマスタバ墓S3471から出土した銅製の道具、武器、容器類などです。その他にトゥーラとヘルワンで王名を持つものが発見されていますが、エジプト国外からは見つかっていません。

アビュドスから出土した象牙製のラベルにはシリアからの木材の到着が記され、王墓からはシリア・パレスティナの土器の破片が十数個発見されているので、近東との交易が証明されます。また同じラベルには王のブトとサイスへの訪問が記されているので、アハ王と同じ宗教政策を取ったと思われます。

パレルモ・ストーン(年代記)の表第二段第三欄に「4カ月13日、上・下エジプトの統一、壁の周囲を走ること、(ナイル川の水位)6キュービット」(治世1年)、第四欄に「ホルス神に付き従うこと、デシェル祭」(治世2年)、第五欄に「『二人の王子』の制作、(ナイル川の水位)4キュービット1パーム」(治世3年)、第六欄に「ホルス神に付き従うこと、生け贄に香を焚くこと(?)、(ナイル川の水位)5キュービット5パーム1フィンガー」(治世4年)、第七欄に「建築物『神々の友』の計画(?)、ソカル祭(?)、(ナイル川の水位)5キュービット5パーム1フィンガー」(治世5年)、第八欄に「ホルス神に付き従うこと、イアト女神像の制作、(ナイル川の水位)5キュービット1パーム」(治世6年)、第九欄に「nzwtとしての王のお出まし、ミン神像の制作、(ナイル川の水位)5キュービット」(治世7年)、第十欄に「ホルス神に付き従うこと、アヌビス神像の制作、(ナイル川の水位)6キュービット1パーム」(治世8年)、第十一欄に「第一回目のジェト祭、(ナイル川の水位)4キュービット1スパン」(治世9年)、第十二欄は「・・・」(治世10年)が記録されています。

アハ王の最後の治世年の統治期間とジェル王の最初の治世年の統治期間の合計が1年にならないことについては、さまざまな議論があります。ジェル王の即位が完了するのに1カ月15日を要した、短命な王が1カ月15日間統治した、書記の書き間違い、スペース不足による省略などです。王がその周囲を走った壁はメンフィスの壁であり、この儀式によって王による国土と民衆の支配を明らかにしました。ナイル川の水位については、いつの時点の水位なのか、定点から上の水位なのか、定点から下の水位なのか、史実なのかフィクションなのかが議論されています。ナイル川の水位を表す単位スパンについてはどれくらいの長さなのかは不明です。

カイロ・フラグメント1の表第二段第五欄に「ホルス神に付き従うこと、セチェト(の国)を討つこと、(ナイル川の水位)4キュービット」(治世x+5年)と記されています。セチェトは通常シリア・パレスティナを指しますが、ジェル王の北東方面への軍事遠征を証明する同時代史料はありません。

一年のラベルは三つ見つかっています。第一のラベル(アビュドス出土)には「ブトでの滞在と王宮『銛を撃つホルスの座』の建設、王冠の神殿での滞在、鳥の地からの杉木材の到着など」、第二のラベル(ヘマカーの墓から出土)には「礼拝対象の制作と奉納、上・下エジプトの獲得、雄牛の神の旗の制作など」、第三のラベルには「宮殿建築」が記されています。

(http://xoomer.alice.it/francescoraf/hesyra/3djer.htm参照)

ジェル王については、下記のURLもご覧下さい。

http://www.touregypt.net/featurestories/djer.htm

★ジェト王(正しい読み方はワジュあるいはワジェトかもしれません)

アビュドスの王墓(Z墓)から出土した高官アムカーの印章は、彼の経歴がジェト王の治世に始まり、王妃メリネイトが幼王デン王の摂政期間だった時まで続いたことを示します。王墓に立っていたすばらしい墓碑はルーヴル美術館所蔵です。

ギーザのすぐ南のナズレト・バトランで発掘されたマスタバVは、ジェト王の印章が出土したことから、ジェト王の王妃あるいは母の墓であると推測されています。タルハンの「宮殿の正面」で装飾された二つの大きなマスタバ墓も彼の治世に属します。

王墓を囲む従属墓からは大きな銅製の斧と大きな銅製の手斧が出土しています。サッカーラとアビュドスの彼の治世の墓から発見された外国の土器によって、シリア・パレスティナとの交易が続いていたことが証明されます。

エドフの南の西部砂漠にある岩壁碑文では王のセレフの上に二重冠を戴いたホルス神のハヤブサが止まっていると報告されており、二重冠の最古の例と考えられています。

一年のラベルは二つ見つかっています。第一のラベル(S3504墓出土)には「ニ女神が王冠の神殿に立つことなど」が記されています。(http://xoomer.alice.it/francescoraf/hesyra/4djet.htm参照)

ジェト王については、下記のURLもご覧下さい。

http://www.touregypt.net/featurestories/djet.htm

★王妃メルネイト(正しくはメレトネイト)

彼女の墓で発見された多数のデン王の印章とデン王の墓から発見された墓地の印章の銘辞「王の母メレトネイト」から、彼女はデン王の母であると確認されました。デン王が即位した時幼少だったので、摂政を務め、デン王によって王と同等の地位を与えられました。ただし後のカア王の墓地の印章では彼女の名前は第1王朝の王たちのリストから省略されています。彼女の摂政期間はエジプト史において女性が権力を握った最初の時です。

出土地不明のアラバスター製の円筒型容器に彼女の名前が浮彫りされています。サッカーラ出土の小さな象牙製容器にも彼女の名前があります。

王妃メルネイトについては、下記のURLもご覧下さい。

http://xoomer.alice.it/francescoraf/hesyra/merneith.html

★デン王

デン王の墓には埋葬室に通じる階段があり、副葬品や供物の供給と埋葬自体を容易にしました。また墓全体が王の一生の間に建てられることを可能にし、非常に深い縦坑での建設作業を容易にしました。階段の中頃に木製の扉があり、その向こうの埋葬室への入口に、墓泥棒を防ぐ落とし石がありました。墓の面積は従属墓を含めて53×40mで、埋葬室自体の大きさは15×9×深さ6mです。埋葬室の床にはアスワンからの花崗岩と閃緑岩の石板が敷かれていました。南西の小さな部屋はセルダブ(彫像安置室)だったかもしれません。副葬品には印章刻印がある多数の壷、石製容器、銘辞のあるラベル、その他の象牙製品と黒檀製品、家具の象眼がありました。埋葬室の南の異常に長い付属室群には多数のワイン壷が収められていました。デン王の墓はアビュドスで最も念入りに建設された墓です。

nzwt-bity「上・下エジプトの王」の称号を採用し、二重冠とともに王権のイデオロギーの発展を示します。デン王の「上・下エジプトの王」名はSmtiで、東部砂漠と西部砂漠に王の支配が及ぶことを強調しています。二重冠は南北のエジプト全体に王の支配が及ぶことを示しているので、両方合わせて東西南北に王の支配が及ぶことを強調しています。さらに、ウラエウスを王の記章に採用しました。

王墓南西の付属建築物から発見された石灰岩製容器の断片には「二回目のセド祭の時」への言及があり、大変長い治世だったことを示しています。北サッカーラとアブ・ラワシュにはデン王の治世に年代づけられる30以上のエリートの墓が集合しています。このことは単に治世の長さだけではなく、行政の構造改革にも原因があるかもしれません。

アビュドスと北サッカーラ出土の遺物はすばらしい工芸技術を示します。特に高官ヘマカの墓(S3035)はゲームの円盤(ガゼルを狩る二匹の猟犬を彫ったアラバスターを象眼した凍石の円盤)からエジプト最古のパピルスを収めた木製の箱まで豊かな工芸品をもたらしました。デン王の名前を彫られた銅製の鉢はセメルヒェト王の墓に家宝として副葬されました。また葦で編んだ籠から花を象ったさまざまな石製容器が、デン王の治世に年代づけられる墓から大量に発掘されてきました。デン王の名前を記されたもっと単純な形の石製容器はサッカーラの階段ピラミッドの地下回廊で発見されました。

パレルモ・ストーン(年代記)の表第三段欄外に王の母メレトネイトの名前が記されています。第三段第一欄に「ヘカ(?)とサウ(?)の神殿での滞在、(ナイル川の水位)3キュービット1パーム2フィンガー」(治世x+1年)、第二欄に「イウンティウを討つこと、(ナイル川の水位)4キュービット1スパン」(治世x+2年)、第三欄に「nzwt-bityとしての王のお出まし、セド祭、(ナイル川の水位)8キュービット3フィンガー」(治世x+3年)、第四欄に「北西(デルタ)の保有耕作地(?)と東(デルタ)の全住民の組織(?)、(ナイル川の水位)3キュービット1スパン」(治世x+4年)、第五欄に「二回目のジェト祭の時、(ナイル川の水位)5キュービット2パーム」(治世x+5年)、第六欄に「建築物『神々の玉座』の計画(?)、ソカル祭(?)、(ナイル川の水位)5キュービット1パーム2フィンガー」、第七欄に「セシャト女神の神官による建築物『神々の玉座』の大きな扉でロープを張ること、(ナイル川の水位)4キュービット2パーム(?)」、第八欄に「建築物『神々の玉座』に(聖なる)湖を開くこと、カバを銛で撃つこと、(ナイル川の水位)2キュービット」(治世x+6-8年)、第九欄に「ヘラクレオポリスとヘリシェフ神神殿の湖での滞在、(ナイル川の水位)5キュービット」(治世x+9年)、第十欄に「船でサフ(?)ニスートの町とウルカーの町へ下ること、(ナイル川の水位)4キュービット1スパン」(治世x+10年)、第十一欄に「セド神像の制作、(ナイル川の水位)6キュービット1パーム2フィンガー」(治世x+11年)、第十二欄に「bitiとしての王のお出まし、アピス牛の第一回目の走る時、(ナイル川の水位)2キュービット1スパン」(治世x+12年)、第十三欄に「セシャト女神像とマフデト女神像の制作、(ナイル川の水位)3キュービット5パーム2フィンガー」(治世x+13年)、第十四欄に「nzwtとしての王のお出まし、・・・の制作」(治世x+14年)が記録されています。

イウンティウは西アジアのアジア人です。5つのラベルが南パレスティナでの軍事活動を記録していること、エン・ベソルにある第1王朝時代のエジプトの建築物からデン王の印章が出土していること、デン王の治世の墓から少なくとも76のシリア・パレスティナからの輸入土器が発見されていることから、デン王の治世にエジプトと西アジアの集中的な接触があったと思われます。

第四欄の記述はデルタで国勢調査を実施し、王領地を創設したことを述べていると思われます。

第六〜八欄には神殿建設の三段階が述べられています。カバを銛で撃つ儀式、ヘリシェフ神神殿での滞在、アピス牛が走る儀式、マフデト女神像の制作への言及は、デン王の礼拝活動が盛んだったことを示しています。

一年のラベルは五つ見つかっています。第一のラベルには「セド祭、要塞『美しき門』を開くことなど」、第三のラベルには「二重の銛でカバを突き刺すことなど」、第四のラベルには「セド祭、トキの制作など」、第五のラベルには「ホルス神に付き従うこと」が記されています。(http://xoomer.alice.it/francescoraf/hesyra/5den.htm参照)

デン王については、下記のURLもご覧下さい。

http://www.touregypt.net/featurestories/den.htm

http://xoomer.alice.it/francescoraf/hesyra/den.html

北サッカーラの第1王朝のマスタバ墓群については、「エジプトの世界遺産 3-(2) サッカーラ編」もご覧下さい。

★アネジュイブ王

サッカーラの階段ピラミッドの地下回廊から発見された石製容器に記されたデン王−アネジュイブ王−セメルヒェト王−カア王の順序と、アビュドス出土のカア王の墓地の印章によって、デン王の後継者であることが確認されました。サッカーラ出土の石製容器とアビュドス出土の石製容器にセド祭への言及があります。王名はサッカーラ、アビュドス、ヘルワンの遺跡でしか見つかっていません。

王の治世の最も重要な記念碑は北サッカーラのマスタバ墓S3038で、墓の上部構造が階段状の建造物になっています。これはかつて第3王朝の階段ピラミッドの先駆ではないかと考えられました。この上部構造の下に深さ4mの縦坑があります。墓はニッチのある周壁で囲まれています。周壁の長い方のニッチは偽扉と考えられ、象られた牛の頭部(ただし角は本物)によって守られていました。

アネジュイブ王については、下記のURLもご覧下さい。

http://www.touregypt.net/featurestories/anedjib.htm

★セメルヒェト王

この王の治世は8年半で、第1王朝の中で最も短い治世でした。その完全な記録は以下の通りです。

カイロ・フラグメント1の表第三段第三欄に「nzwt-bityとしてのお出まし、上・下エジプトの統一、壁の一周、(ナイル川の水位)4キュービット4パーム」(治世1年)、第四欄に「川岸の上での『ホルス神に付き従うこと』、アピス牛(の走ること)、(ナイル川の水位)4キュービット...パーム」(治世2年)、第五欄に「nzwtとしての王のお出まし、imiut?の制作、(ナイル川の水位)4キュービット」(治世3年)、第六欄に「ホルス神に付き従うこと、...、(ナイル川の水位)4キュービット」(治世4年)、第七欄に「nzwtとしての王のお出まし、...の制作、建築物『ホルス神、銛を撃つ者の玉座』(?)を開くこと(?)、(ナイル川の水位)4キュービット4パーム」(治世5年)、第八欄に「ホルス神に付き従うこと、ミン神(の像)の制作、(ナイル川の水位)3キュービット4パーム」(治世6年)、第九欄に「nzwt-bityとしてのお出まし、ソブドゥ神の祭り、(ナイル川の水位)4キュービット」(治世7年)、第十欄に「ホルス神に付き従うこと、...、(ナイル川の水位)4キュービット2パーム」(治世8年)、第十一欄に「nzwt-bityとしてのお出まし、...の制作、(ナイル川の水位)4キュービット」(治世9年)と記録されています。

一年のラベルは二つ見つかっています。第一のラベルには「ホルス神に付き従うこと、ヘジュウルウの祭礼」が記されています。

アビュドスの王墓の前に立っていた一対の墓碑(花崗閃緑岩製)の内の一方が残っています。ピートリーは入口の傾斜道で王墓全体に香油の匂いが充満していることに気付きました。大量の香油の存在は王によって管理された大規模な外国交易を示唆します。従属墓は王の埋葬室に隣接して配列され、同じ上部構造によっておおわれていたと思われます。従属墓には家臣とハレムの女性達が殉葬されました。

カア王の墓から出土したセメルヒェト王の一年のラベルには、ホルイブネチェルーという名の建築物の計画が記されています。この建築物は葬祭用の周壁のことかもしれません。またこのラベルがつけられていた容器の中の油はリビアから輸入されたものかもしれません。(http://xoomer.alice.it/francescoraf/hesyra/7semerhet.htm参照)

セメルヒェト王については、下記のURLもご覧下さい。

http://www.touregypt.net/featurestories/semerkhet.htm

★カア王

この王の治世は、サッカーラから二回目のセド祭に言及する泥岩製の石製容器の断片が発見されているので、長かったかもしれません。カイロ・フラグメント1には、第三段第十二欄の「nzwt-bityとしてのお出まし、上・下エジプトの統一、壁の一周、(ナイル川の水位)3キュービット」(治世1年)という記述しか残っていません。王墓から発見されたいくつかの一年のラベルには、ホルス神に付き従うこと、王の工房のための木材の収集、カーウネチェルーと名付けられた建築物の建設、アピス牛が走ること、ソカル祭、その他さまざまな祭礼を行ったことが記されています。(http://xoomer.alice.it/francescoraf/hesyra/8qaa.htm参照)

王名はサッカーラ、アブシール、ヘルワン、アビュドスから出土した印章とラベルの他に、エル・キャブの近くのワーディ・ヘラルとナガ・エル・オクビヤの岩壁碑文にも現れます。王墓から出土した象牙のゲーム棒にはセチェトの住民(アジア人捕虜)がエジプトの一般的な敵として表現されています。王墓からは油の供給を記した30のラベルが発見されました。これらの油はおそらくシリア・パレスティナから輸入されたもので、その地域の樹脂や果実から作られたのかもしれません。カア王の治世に属する北サッカーラの墓から出土した18の輸入されたシリア・パレスティナの壷は北東地域との交易の継続を示します。また王墓から出土した3つの銅製の容器のうち2つには、王のセレフと王宮を含む施設への言及が見られます。

王墓であるマスタバ墓の北側に初めて葬祭神殿が追加され、供物室からは二体の等身大の木像の残りが発見されました。埋葬室からは木製の厨子の残りが発見されています。マスタバ本体は従来の王墓より小さくなり、一重の周壁で囲まれ、埋葬室は東西の方向に向けられ、埋葬室に通じる通路の入口は北側にあります。これらは第3王朝の階段ピラミッドへの発展のための重要な革新を示しています。

カア王については、下記のURLもご覧下さい。

http://www.touregypt.net/featurestories/qaa.htm

初期国家の南パレスティナへの拡張

第0王朝と第1王朝の初めには、エジプトの下ヌビアへの拡張とシナイ半島北部と南パレスティナにおける継続したエジプト人の存在の証拠があります。ヌビアの土着のAグループ文化については、ナカダ1期・2期をご覧下さい。

バレスティナで発見された城塞都市は初期青銅器時代2期に年代づけられ、エジプト第1王朝に対応します。ピートリーはデン王の墓とセメルヒェト王の墓で彩色されたデザインのある輸入土器の破片を発見しました。それらは南パレスティナの初期青銅器時代2期の文化に由来することが知られています。南パレスティナのアイン・ベソルの第三層ではエジプト王の印章刻印の断片が90も発見されています。それらはエジプトの泥レンガの建築物と土器と関連があることが分かりました。印章刻印は明らかに土着の粘土から作られ、明らかに第1王朝の官僚達のものでした。ジェル王、デン王、アネジュイブ王、セメルヒェト王の王名が証明され、土器と印章刻印はアイン・ベソルに住むエジプト人の官僚達によって指揮された国家組織の交易を示します。しかし、第2王朝までに陸路での積極的な接触は断絶し、レバノンとの海上交易が強化されました。レバノンからの木材、油、針葉樹の樹脂はますます大量に輸入されました。ビブロスで最古のエジプト王の銘辞は第2王朝最後のハーセヘムウィー王の治世に属します。

ヒエログリフ書法の考案と使用

アビュドスのU-j墓における最古の文字の使用例から、ナカダ3期/第0王朝までに国家の書記と職工たちによって書法が使用されたことは確かです。ヒエログリフ書法は紀元前四千年紀末にメソポタミアからの刺激で考案されたと信じる学者達もいますが、両地域の書法は非常に異なるので、独自に発展した結果であると思われます。

サインの体系化はおそらくナカダ3期/第0王朝に起こり、初期のヒエログリフは表意文字と表音文字からなっていました。しかし、初期王朝の碑文の多くが未解読のままです。書法もまた美術と同様に宮廷中心の制度として発展しました。初期国家成立まではヒエログリフ書法は王のコンテクストで使用されましたが、成立後は経済・行政目的で使用されたり、王の美術で使用されたりしました。ヒエログリフは物資を確認するために王の印章刻印、ラベル、壷の印に現れ、同様に国家官僚の印章にも現れました。物資の所有者の称号や産地も時々記録されました。

第0王朝の始まりに、ヒエログリフはセレフの中に表音文字からなる王名として現れます。セレフは壷やラベルに記され、壷の封印に押されました。それらの壷は国家によって租税として集められた農産物の容器で、そのうちのいくつかはシナイ半島北部を経て南パレスティナに輸出されました。第一王朝初めに、ヒエログリフとグラフィック・アートの組み合わせがラベルに見られます。文法に従って並べられたサインからなるテクストがないので、ラベルで伝えられた情報はおそらく歴史的情報を含む一年の名前として読まれます。ドナルド・レッドフォードは一年のラベルの情報は年代記システムに従っていると示唆してきました。パレルモ・ストーンのデン王の治世中の一年のサインの追加は治世年のより明確な記録システムを表します。

王の記念碑芸術では、場面に登場する人物やおそらく地名の同一確認のためにヒエログリフが使用されます。そのような場面では、王は新しいイデオロギーに基づいて本当の役割と象徴的役割の両方で描かれます。数詞のサインは戦利品や捕虜を表し、おそらく非常に誇張された数字を表しています。権力の図像学はいくつかの重要な慣例の使用を含みます。王と官僚達は官職を表す衣装を身につけ、征服された敵は裸です。社会階層は人物の大きさで表現され、王が最大で、官僚達は王よりも小さく描かれ、征服された敵や農夫、従者達は最も小さく描かれました。初期のヒエログリフは場面が伝える情報と重複しませんが、地名や人物名のラベルとして役立ちます。

初期の書法の例は王墓やエリートの墓で葬祭崇拝と関連して見つかります。アビュドスの王墓からはセレフの中に王名を記した墓碑が、従属墓からはより小さい墓碑が見つかります。サッカーラの第一王朝末のメルカーの墓から出土した長いテクストが記された墓碑は、メルカーの称号のリストを示しています。初期国家は経済・行政上の必要から一種の会計簿をつけていたと思われますが、ラベルという間接的な証拠しかありません。

初期王朝の礼拝センター

コプトス、エレファンティネ島、アビュドス、ヒエラコンポリスに、後世の神殿の下に、初期王朝の礼拝センターがあったと推測されています。しかし、それらの神殿は所在地が未確認で、未発掘です。コプトスの神殿は、ピートリーが発掘した三体の巨大な豊穣神像から、堂々たるものだったと思われますが、一般に初期王朝の神殿はそれほど大きくなかったでしょう。にもかかわらず、都市の礼拝センターは、王の葬祭崇拝よりも、地域住民の生活にとってもっと直接重要だった共有の信仰体系に都市や州の社会を統合するのに役立ったかもしれません。

先王朝末期時代と初期王朝については下記のURLもご覧下さい。

http://xoomer.alice.it/francescoraf/index.htm

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