古代エジプトの歴史        2006年8月14日  西 村 洋 子

1.  ナカダ1期・2期(紀元前4,000〜3,200年頃)

 どの時点から書き始めるべきか随分悩みましたが、王朝文化のルーツが紀元前4,000年頃から見られるので、ナカダ1期から始めることにしました。エジプトの歴史の始まりはエジプト最古の文字史料が現れる時です。それはアビュドスのU-j 墓から出土した骨製のラベルに記されていました。この墓の年代は紀元前3,200年頃です。従って、まずナカダ1期と2期をひとまとめにして、先王朝時代として、記述します。それ以前は先史時代とし、紀元前5,100〜4,700年頃に最盛期を迎えるナブタ・プラヤ(アブ・シンベルの西約100km)の遺跡、紀元前5,000〜4,100年頃のメリムダ文化(デルタ)については記述しません。ただし、紀元前5,500年〜4,500年頃のファイユーム文化については、世界遺産ワーディー・ヒタンのページで言及していますので、ご覧下さい。また、紀元前4,400〜4,000年頃のバダリ文化はナカダ文化の起源なので、このページの最後で記述します。U-j 墓以後から紀元前3,000年頃のエジプト統一まではナカダ3期で、原始王朝時代(the protodynasty)とも第0王朝とも呼ばれます。ナカダ3期と第1王朝をひとまとめにしたのは、エジプト統一を成し遂げ、最初の王朝を創始した王の名前がまだ知られていないからです。またナカダ3期と第1王朝は王墓がアビュドスに築かれ、第2・3王朝は王墓がサッカーラに築かれるので、第1・2王朝を初期王朝としてひとまとめにすることはせずに、あえて分離してみました。

年 表

先史時代 (5,500〜4,000年頃) ナブタ・プラヤ遺跡、ファイユーム文化、メリムダ文化、バダリ文化など。穀物栽培開始。
先王朝時代 ナカダ1期(アムラー期) (4,000〜3,500年頃) 世襲のエリート層出現。半牧畜・半農耕の生活。
ナカダ2期(ゲルゼー期) (3,500〜3,200年頃) ヒエラコンポリス、ナカダ、ティスを中心とする3つの支配領域の形成。
ナカダ3期(原始王朝時代、第0王朝) (3,200〜3,000年頃) エジプト全土の政治的統一へのプロセスが進行。ヌビアや砂漠への軍事遠征。最古のヒエログリフの使用。サバンナの砂漠化が進行。
王朝時代 第1王朝 (3,000〜2,800年頃) 南パレスティナに植民都市を築く。建築・工芸・行政の発展。王達はアビュドスに巨大なマスタバ墓を造営。
第2王朝 (2,800〜2,700年頃) サッカーラに王の墓地が移る。政治上の分裂(?)。
第3王朝 (2,700〜2,600年頃) サッカーラに階段ピラミッドが建設される。シナイ半島への採掘隊の派遣。

フリンダース・ピートリーの土器の形式分類に基づく相対的な編年法、すなわち継起年代法(Sequence Dating System)では、ナカダ1期はSD30-38、ナカダ2期はSD39-60、ナカダ3期はSD61-80に相当します。上の年表における先王朝時代の年代は熱ルミネセンス年代測定法と放射性炭素年代測定法に基づきます。

ナカダ1期の地理的範囲は北は中エジプトのマトマルから南は下ヌビアのホル・バハンまでです。ナカダ2期になると、ナカダ文化圏は南北に拡大し、北は東デルタのミンシャト・アブ・オマルから南は下ヌビアのガマイまで広がります。

ナカダ文化の命名の由来は1892年にフリンダース・ピートリーが上エジプトのナカダで3,000以上の墓からなる大規模な共同墓地を発見したことにあります。

先王朝時代のエジプトの地図はこちらをご覧下さい。

ナカダ1期(上エジプト)

通常死者は小さな長円形土壙墓に埋葬されました。頭を南に向け、顔を西に向け、左の脇腹を下にした屈葬です。遺体の下の地面の上にはゴザが敷かれ、時々頭は藁か革でできた枕の上に置かれました。遺体はゴザか山羊やガゼルの皮でおおわれるか、包まれました。たいてい供物の上にもそのようなおおいがかけられました。死者は通常織物の腰布か動物の皮の腰布を着用していました。

大多数の墓には一体だけ埋葬されましたが、複数の遺体の埋葬もかなり頻繁で、母親と乳幼児の埋葬を含むこともありました。遺体が木製や粘土製の棺に収められ、さまざまな供物と副葬品を伴うより大きな墓が出現します。特にヒエラコンポリスの墓は大型で、最大の墓は2.5×1.8mです。そのうち2例に、斑岩製の円盤型棍棒頭が副葬されており、有力者の埋葬であることを示します。しかし、ナカダ1期にはまだ社会の階層化を示すものよりも単に故人が誰かを示すものが副葬されました。

バダリ文化に多く見られた赤色黒縁土器は次第に減少し、先王朝時代の終わりに消滅します。土器の表面につけられたさざ波のような効果は稀になります。それに代わって、さまざまな形の赤色磨研土器が作られ続けます。土器の表面に白の顔料で幾何学模様、動物や植物のモチーフが描かれたり、立体彫刻の装飾が付けられたりしました。これがいずれファラオ文明の中核となる図像学の始まりです。土器に描かれた動物は、カバ、ワニ、トカゲ、フラミンゴ、サソリ、ガゼル、キリン、エジプトマングース、牛などです。ナカダ2期に中心的なモチーフとなる船も時々描かれました。

人の姿はまだ少な目で、丸い頭と逆三角形の胴体だけで表現されました。手足は表現されないことがしばしばでした。人の姿は第一に狩りの場面で、第二に勝利の戦士のテーマで現れました。狩りをする人のイメージはファラオ時代の終わりまで、王や貴族の狩りの場面で使用され続けました。勝利の戦士は、髪の毛に植物の茎あるいは羽根を結びつけ、両腕を頭上に挙げ、勃起した生殖器によって精力をはっきりと示しています。(ミン神の原型か?) ピートリー博物館所蔵のある土器に描かれた場面では、戦士の身体から伸びる白い線は両腕を縛られた、髪の長いより小さな人物の首の周りに巻き付いています。この勝利の戦士と縛られた人物のテーマは征服者と征服された者のイメージを強力に暗示し、ファラオ時代の伝統的な勝利の場面の原型であると思われます。早くもナカダ1期に狩りをする人=勝利の戦士=有力者という図式が確立されています。

性的特徴を強調した葬祭用小像が千の墓に一体の割合で発見されます。たいてい一つの墓に一体だけ見つかりますが、最も多い例で16体の小像が見つかります。小像以外に副葬品がないことも時々あります。特に象牙やカバの牙に彫られた男性像のあごひげは明らかに権力の象徴であり、後に王や神々のための儀式用の付けヒゲに発展します。

ナカダ1期に特徴的なもう一つの権力の象徴は円盤型棍棒頭で、通常硬い石材から作られています。(ちなみに後のナルメル王やさそり王の棍棒頭は梨型です)。ナカダ1期から硬砂岩、花崗岩、斑岩、閃緑岩、角礫岩、石灰岩、アラバスターなどの石材の加工技術が発展し始め、ついにはエジプト文明を「石の文明」にします。硬砂岩の化粧パレットもナカダ1期に特徴的な副葬品で、単純な長円形から動物を象ったもの(魚、カメ、カバ、ガゼル、ゾウ、鳥)まで、形は様々です。

ナカダ1期の墓からは石器はあまり多く発見されませんが、両面を加工され、時々長さが40cmもある鋸歯状の刃は高品質です。それらはすべて二次加工される前によく磨かれていました。このような加工は魚尾形ナイフ付きの短剣にも施されました。これは後に古王国の葬式の口開きの儀式で使われるペセシュケフ・ナイフに発展します。

エジプト・ファイアンスを作る最初の試みはナカダ1期に年代づけられるように思われます。砕かれた石英が望みの形に象られ、金属酸化物によって着色されたナトロンベースの釉薬をかけられました。

住居は泥と木材、葦、シュロなどを使って建てられた小屋だったので、ナカダ1期の集落跡はあまり残っていません。小屋が建っていた地面は叩いて固められており、炉と柱穴が残っています。また厚さ数十cmの有機物の堆積層があります。発掘された集落跡が決定的に乏しいので、ナカダ1期の経済に関する私達の知識は不正確です。山羊、羊、牛、豚は供物としての肉や粘土像から家畜化されていたことが知られます。野生の動物ではガゼルと魚がたくさんいたように思われます。植物では大麦、小麦、豆、エンドウ豆、ナツメの実、スイカの祖先と思われるものが栽培されました。

ナカダ2期(上エジプト)

この時期にはナカダ文化が突然南北に拡大します。少数の有力者がより大きな墓にたくさんの供物と副葬品とともに埋葬されるという傾向は一層強くなり、その例としてナカダの共同墓地Tとヒエラコンポリスの第100号墓(いわゆる装飾墓)が挙げられます。ヒエラコンポリスの第100号墓は今までに発見されてきた唯一の先王朝時代の壁画装飾のある墓です。壁画のモチーフは船や勝利の戦士などです。

ナカダ2期の共同墓地には供物・副葬品が少ない小さな土壙墓から、遺体が土器の中に収められ、泥レンガの壁で仕切られて供物のための区画がある長方形の土壙墓まで、さまざまなタイプの墓がありました。木製や空気乾燥の土器の棺がありました。遺体を亜麻布の包帯で包むミイラ処理の例が上エジプトのアダイーマの二重墓で初めて見られます。大多数の墓には一体だけ埋葬されましたが、最高五体までの複数の遺体の埋葬がもっと普通になりました。時々遺体の切断が見られます。ナカダのT5号墓にはいくつかの長い骨と5つの頭蓋が墓の壁の周りに配置されました。アダイーマでは頭部が胴体から切り離された例がいくつか見られます。ピートリーはナカダで殉葬の可能性に気付きました。アダイーマでは喉を切り裂かれた後斬首された例が二つ確認されています。自ら殉葬される例はまだまばらですが、アビュドスの初期王朝の王墓の周囲に見られる大量の殉葬の前兆でしょう。

土器については、二つの新しいタイプが登場します。一つは「粗製」土器で、この時代には墓から発見されますが、後には集落址から発見されます。もう一つは「マール土器」で、部分的に砂漠のワーディーから採られた泥灰土(マール・クレイ)で作られました。マール土器はナカダ1期の白の顔料で装飾された赤色磨研土器に取って代わります。時々クリーム色の下地に赤茶色の顔料で装飾されました。モチーフは二つのタイプがあり、一つは幾何学模様(三角、山形、渦巻き、市松模様、波線)で、もう一つは具象的な図像です。レパートリーは10程度で、まだ正しく理解されていない象徴的表現システムに従って組み合わされました。主要な具象的図像は船で、魚や野鳥を捕まえられる場所として、主要な交通路としてのナイル川の重要性を示しています。ナカダ文化が2期に急激に南北に拡大したのはナイル川を利用してでした。南からは象牙、黄金、黒檀、香料、野生のネコの皮が、北と東からは銅、油、石材、貝が船で運ばれ、たいていエリートのために使用されました。土器の装飾では、船は交通手段でもあり、ステイタス・シンボルでもありました。しかし、ナイル川は最初の神々が船で航行した神話上の川に変わっていました。すなわち人間の秩序と宇宙の秩序の結びつきがすでに確立されつつありました。

ナカダ2期には石の加工技術が相当発展しました。石灰岩、アラバスター、大理石、蛇紋岩、玄武岩、角礫岩、片麻岩、閃緑岩、斑れい岩がナイル河谷の周囲や砂漠、特にワーディー・ハンマーマートで採石されました。石製容器を作る技術はファラオ時代の石造建築の大偉業への道を用意しました。この時代のさざ波のように加工されたフリント製のナイフ「波状剥ぎ取りナイフ」は世界中のフリント製品の中で最も優れた例です。

化粧パレットは数が減少し、単純な長方形や菱形に発展します。同時にレリーフで装飾され、ナカダ3期の物語的に装飾された化粧パレットへの発展を始めます。ナカダ1期の円盤型棍棒頭は梨型棍棒頭に取って代わられます。ナカダ2期までに棍棒頭は権力の象徴になり、ファラオ時代には勝利の王が持つ典型的な武器になりました。

銅の加工はますます増加し、斧、刃、腕輪、指輪などの製品を作り始めました。また黄金や銀の使用も増大しました。アダイーマのような遺跡では金属製品目当ての墓泥棒の跡がたくさん見られます。

石や金属の加工技術の発展は、後にエリートのために働くことを専門とする職工階級の発展に至ります。この事実には二つの意味合いがあります。第一に、一年のある時期、自給自足できない職工たちのグループを養うことができる経済がなければなりませんでした。第二にお客、工房、徒弟職人、物々交換のための施設をもたらす都市センターがあったに違いありません。

このような文化的発展のプロセスは常にナイル川と密接に結びつけられました。川の近くに集落が密集しました。耕地は簡易な人工の灌漑技術によってナイル川の毎年の氾濫を利用できました。残っている村の共同墓地からナイル川全体に沿って集落が連なっていたことが分かります。耕地では大麦、小麦、亜麻、スイカやナツメの実などの果物、野菜が栽培されました。家畜として牛、山羊、羊、豚が飼育されました。アダイーマの集落址から犬の埋葬例が発見されているので、犬は特別な地位を享受したことがわかります。魚は重要な食料でした。カバ、ガゼル、ライオンなどの狩りは次第に社会的に制限され、ついにエリートの特権になりました。

上エジプトでは次の3つの都市が発展しました。ワーディー・ハンマーマートの入口にある「黄金の都市」ナカダ、南のヒエラコンポリス、最初のファラオたちの墓地が作られることになるアビュドスです。ナカダには「北の町」「南の町」と呼ばれる二つの居住区域があり、「南の町」では神殿か王の住居と思われる50×30mの巨大な泥レンガの建築物の跡が発見されました。この建築物の南側に長方形の住居群と周壁が見分けられます。長方形の住居群と周壁はナカダ2期の都市に典型的です。ナカダ2期の集落の例は乏しいですが、エル・アムラーのナカダ2期の墓からはテラコッタ製の家の模型が発見されています。また、アバディーヤのナカダ1期の墓からは壁に狭間のある家の模型が発見されており、このタイプの住居が比較的早い年代に使われ始めたことを示唆します。

マーディ文化(下エジプト)

マーディ文化は紀元前4,000〜3,200年頃マーディ(現在のカイロ郊外)を中心とする10の遺跡に見られる文化です。マーディ文化の遺跡は、上エジプトのナカダ文化の遺跡とは違って、共同墓地からよりも圧倒的に集落址から、情報が得られます。マーディには三つのタイプの集落址があります。そのうち一つはエジプトでは稀で、南パレスティナのベールシェバの集落址を強く思い出させます。住居は自然の岩の中に面積が3×5m、深さが最高3mの長円形の形に掘られています。この半地下式住居に通じる通路も掘られています。壁は石材と泥レンガで化粧張りされています。炉、半分土中に埋められた壷、家庭ゴミの存在が、この住居は定住用だったことを示しています。他の二つのタイプはエジプトの他の場所でもよく見られ、一方は長円形の小屋で、住居の外に炉があり、半分土中に埋められた貯蔵用の壷を伴い、もう一方は長方形の住居で、壁は植物の材料から作られていたと思われます。

一般にマーディ文化の土器は球形で、底は広く平らで、首の部分が狭くなり、口縁部が外側に向かって開いています。装飾は稀です。しかし、ブト、テル・エル・イスウィド、テル・イブラヒム・アワドの最古の先王朝時代の地層からは、サハラ・スーダン土器を思い出させる刻印で装飾された土器片が発見されています。マーディ文化以前にさかのぼる上エジプトとの関係は輸入された赤色黒縁土器の土器片の存在によって示されます。初期青銅器時代のパレスティナとの交易関係は、泥灰土(マール・クレイ)で作られ、脚部があり、口・首・把手の部分に刺突装飾(?)があり、輸入品(油、ワイン、樹脂)を容れた土器の存在によって示されます。マーディ文化は一種の文化の十字路で、西部砂漠、近東、ナカダの小王国の影響も受けました。

パレスティナの影響はマーディ文化の加工されたフリントにもはっきりと認められます。マーディの一括遺物に含まれる円形のスクレイパー(へら)は、大きなフリント塊から割られて滑らかな表面を持ち、近東中でよく知られています。「カナーン・ブレイド」として知られるまっすぐな鋭利な刃もマーディ文化の遺跡で見つかっています。これらはファラオ時代の剃刀に発展します。数は少ないけれども、両面加工の刃を持つものに尖頭器、短剣、鎌があります。

上エジプトから輸入された硬砂岩の化粧パレットは比較的稀なので、贅沢品だったことを示します。他方、多数の石灰岩の化粧パレットは日常の使用を示す磨耗痕があります。棍棒頭は円盤型です。磨かれた骨や象牙からは針、銛、錐が作られました。なまずの骨から作られた投げ矢は大量に見つかっており、特に壷に入っていたものはおそらく輸出用に貯蔵されたものでした。

マーディでは特に銅製品はありふれており、針や銛のような小さなものだけではなく棒、ナイフ状の細いへら、斧もあります。これらのものはファイユームやメリムデ文化では石で作られました。この状況は同時代のパレスティナの状況に似ており、石製品は銅製品に取って代わられました。このことは両地域が共生関係にあることを示す技術の進歩のプロセスの結果に違いありません。マーディではシナイ半島の南東角のティムナあるいはフェナンの銅採掘地からもたらされた大量の銅鉱石も発見されてきました。これらの鉱石はおそらく主に化粧用として輸入され、最初の加工処理は銅鉱山の近くで行われたに違いありません。

近東との接触にもかかわらず、マーディ文化は定住の、牧畜農耕文化でした。豚、牛、山羊、羊が大量に飼育され、その肉は共同体の食料となりました。犬も飼われていましたが、犬の肉は食べられませんでした。ロバは商品の輸送に役立ちました。何キロもの大麦、小麦、豆類が壷や貯蔵用の穴に蓄えられていました(Triticum monoccum, Triticum dicoccum, Triticum aestivum, Triticum spelta, Hordeum vulgare)。

墓は控えめで、社会の階層化の証拠は見られません。上エジプトでは15,000以上の先王朝時代の墓が見つかっているのに、マーディ文化の墓は600しか発見されていません。おそらく下エジプトの共同墓地はナイル川の氾濫によってもたらされた厚い泥の層の中に埋まっているのでしょう。しかし、副葬品の質と量においても、上エジプトと下エジプトは対照的です。下エジプトの墓は長円形の土壙墓で、遺体は屈葬で、ゴザか織物で包まれ、土器を一つか二つ伴いました。時には副葬品が何もないこともあります。それにもかかわらず、ゆっくりとした社会の階層化への傾向が見られます。マーディ文化の最後の段階はナカダ2期の中頃に相当します。

ブトでは、マーディ文化からナカダ3期への移行が認められる7つの連続する考古学上の層があります。この移行の間に、マーディ文化の土器が次第に消滅し、ナカダ文化の土器が増加します。マーディ文化の終わりは突然起こった現象ではなく、ナカダ文化への同化のプロセスで起こりました。ブトはナイルデルタの海辺に位置したので、重要な交易地であり、おそらく地域の支配者の宮殿があったでしょう。ブトでも社会の複雑化に至る相当な文化的発展のプロセスがあり、ついには独自の信仰、儀式、神話、イデオロギーによって特徴づけられる社会を生み出しました。これはナカダ3期と初期王朝時代に起こったエジプト史の次の大きな一歩に必要な前提条件でした。

マーディについては、下記のURLもご覧下さい。

http://touregypt.net/featurestories/maadi.htm

A-グループ文化(下ヌビア)

ヌビアの最初の文化、A-グループ文化は紀元前3,700〜2,800年頃アスワンの北のクバニヤから第二カタラクトの地域まで下ヌビアに存在しました。すなわちナカダ1期から第一王朝の間エジプト南部と交易関係を持ちながら発展しました。

A-グループのヌビア人たちは、2〜3の家族からなる共同体で半遊牧生活をしていました。一年の大部分をナイル川の土手近くに葦小屋を建てて住み、氾濫季には氾濫原の端まで移動しました。岩の隠れ場所を利用することもありました。一カ所に定住するようになったのは紀元前四千年期の終わり頃でした。

農耕は広く行われ、大麦、小麦、豆類が栽培され、穀物を粉にするために石臼が使われました。山羊や羊などの動物の飼育も行われていましたが、その証拠が乏しいので、採集と狩猟が主な食料獲得の手段でした。

エジプト南部との交易はA-グループの社会的・経済的発展の重要な要因でした。おそらくエレファンティネ島にエジプトの市場があり、A-グループの人々は交易の仲介者として活動しました。エジプトの職工たちはこの交易でもたらされた象牙と黒檀を加工して、小像や護符、家具の付属品などを作りました。A-グループの人々の墓からはエジプト製のワイン壷とビール壷が多数出土します。亜麻布、チーズ、油、蜂蜜なども取り引きされました。豊かな墓ではエジプトタイプの銅製の斧と手斧が発見されます。錐や針のような銅製の道具もエジプトからもたらされたと思われます。サヤラにはナカダ2期様式の船の岩絵があり、ここが重要な交易センターだったことを示しているかもしれません。また柄の部分が黄金の二本の儀式用棍棒、銅製ののみ、上等の土器、エジプトタイプの化粧パレットが副葬品に含まれる裕福な墓もサヤラで発見されています。クストゥルにも豊かな副葬品を含む共同墓地があります。これらはエジプトとの交易で利益を得た有力者達の墓かもしれません。

A-グループの墓は通常供物を捧げるための円形の石の塚がある長円形あるいは四角形の土壙墓でした。顔を西に向け、右の脇腹を下にした屈葬で、副葬品が遺体の周りに置かれました。貝殻、象牙、骨、ファイアンス、石、ダチョウの卵の殻から作られたネックレス、ブレスレット、アンクレット、護符、ペンダントがありふれた副葬品です。粘土製の女性像や動物像も特徴的な副葬品です。女性像はお尻が大きく、手足はだんだんと細くなり、顔の細部は表現されていません。腹部と太ももには入れ墨のような装飾が見られます。孔雀石から作られた緑色のアイシャドー、菱形の化粧パレット、顔料をすりつぶすのに使われた小石も多くの墓から出土しています。ベルトや革の腰布、革の帽子、頭につける羽根も見つかっています。裕福な墓からはエジプトのビーズのような輸入品も発見されています。

A-グループの土器は手作りで外側が赤く研磨され、口縁部と内側が黒く、表面にしばしば波模様の仕上げが施されています。最も上等な土器はエッグシェルポタリーと呼ばれる広口の鉢や杯で、厚さは3〜5mmしかなく、外側をレッドオーカーで幾何学文様や籠細工の文様で装飾されています。このタイプの土器は比較的稀で、貴重品でした。

下ヌビアの自然環境は苛酷だったので、エジプトのような急激な文化的発展は見られず、都市化・社会階層化への発展はゆっくりでした。A-グループの中心地はサラヤ、クストゥル、ダッカにありましたが、考古学上の証拠は初期国家の出現を証明しません。

エジプトが統一されると、エジプトの支配者達は直接南方の贅沢品を獲得するために、たびたびA-グループ文化を襲撃しました。ワーディー・ハルファの近くのゲベル・シェイク・スレイマンに初期王朝の王によるヌビア襲撃の岩絵が残されています。また第二王朝の終わりに第二カタラクトの北のブーヘンに要塞化されたエジプトの集落が建設されました。その後A-グループの人々は気候の悪化とエジプトの政策のために徐々に南方へ移住したため、A-グループ文化は消滅しました。

ヌビア博物館によるA-グループ文化の解説は下記のURLをご覧下さい。

http://www.numibia.net/nubia/a-group.htm

バダリ文化

バダリ文化は上エジプトで農耕が証明される最古の文化で、エル・バダリ、カウ・エル・ケビル、ハンマミーヤ、モスタゲッダ、マトマルを中心に多数の土壙墓と集落跡が発見されています。年代はまだ議論の対象で、熱ルミネッセンス年代測定法によれば、紀元前五千年頃までにすでに存在したかもしれませんが、はっきりと確認されるのは紀元前4,400〜4,000年頃の期間だけです。長い間バダリ文化はパダリ地域に限定されたと考えられましたが、バダリ文化に特徴的な遺物がさらに南のマフガル・デンデラ、アルマント、エル・キャブ、ヒエラコンポリス、ワーディー・ハンマーマートでも発見されてきました。ただし、上エジプトで発見されたバダリ文化の遺物は非常に数が限られているので、本来は上エジプトにもバダリ文化が一様に存在したけれども、新たに発展してきたナカダ文化に取って代わられて、中エジプトのバダリ地域で存続し続けたということはありそうです。

バダリ文化の起源はまだはっきりとしていません。土器と石器に西部砂漠の後期新石器文化、サハラの新石器文化、ハルトゥームの新石器文化との結びつきが見られる一方で、バダリ文化の人々は西アジアに起源があるとされる農耕と家畜の飼育も行っているからです。バダリ文化の経済は主に農耕と家畜の飼育に基づいています。貯蔵施設からは大麦、小麦、レンズ豆、塊茎が発見されてきました。ハンマミーヤには多数の円形の動物の囲いがあり、厚さ20-30cmの羊か山羊の糞の層が発見されています。漁労も非常に重要で、一年のある時期には主要な経済活動だったかもしれません。他方、狩猟は明らかに二義的な重要性しか持ちませんでした。

バダリ文化の集落は小さな村か部落で、かなり短期間居住した後、移動したように思われます。貯蔵用の穴と貯蔵用の土器が集落の最も明白な特徴です。小屋は木材や葦などの軽い材料で造られ、一時的に使用されました。これらの集落が季節的なキャンプ地だったことはありえます。もっと大きな集落が氾濫原の近くにあり、ナイル川に流されたのか、沖積層でおおわれてしまったのかは、不明です。

バダリ文化の外国との接触に関する情報は限られています。紅海との関係は墓の中に紅海の貝が存在することによって証明されます。銅は東部砂漠から来たかもしれません。東部砂漠経由のバダリ文化とシナイ半島との結びつきはワーディー・ハンマーマートでの発見物によって確認されるかもしれませんが、発見物はまだ完全に公表されていません。

墓はすべて質素な土壙墓で、遺体はしばしばゴザの上に置かれました。遺体は通常ゆるやかな屈葬で、左脇腹を下にして、頭を南に、顔を西に向けています。子供の墓はありません。子供はもはや使われなくなった集落の一部に埋葬されたと思われます。副葬品の分析は富の不平等な分配を証明します。このことは明らかにエジプト史のこの時点ではまだ限られていた社会階層化を示しています。

土器は全てナイル川の泥から手作りされました。それらはナカダ文化の粗雑な土器よりも上等でした。再高級品に関しては、陶工達は粘土の精製と薄い器壁を作る努力を惜しまず、後のどの時代の土器よりも勝っていました。土器の形は単純で、主に口縁部がまっすぐで丸底のカップと鉢からなります。重要なのは茶色の黒縁土器です。ナカダ1期の黒縁土器にかけられた赤いスリップはまだほとんどかけられていません。最高の土器は仕上げに磨かれて、表面にさざ波のような装飾効果を与えられました。

石器産業が集落跡から知られます。主に薄片か刃で、両面加工の石器も、数は少ないですが、含まれます。主な石器はエンド・スクレイパー、穴あけ器、二次加工品です。両面加工の石器は斧、鎌、矢じりです。その他の製品には骨や象牙から作られたヘアピン、櫛、ブレスレット、ビーズのような私物を含みます。硬砂岩製の化粧板は当時長円形か長方形に限られていました。粘土製・象牙製の小像が少数発見されています。

バダリ文化については、下記のURLもご覧下さい。

http://www.digitalegypt.ucl.ac.uk/badari/badarian.html

[Back to Essays]

1