西 村 洋 子 の 雑 記 帳 (21)    

(1)(2)(3)(4)(5)(6)(7)(8)(9)(10)(11)(12)(13)(14)(15)(16)(17)(18)(19)(20)もご覧下さい。

2015年11月5日(木)

昨日は国立西洋美術館で開催中の「黄金伝説 古代地中海世界の秘宝展」と六本木・森アーツセンターギャラリーで開催中の「黄金のファラオと大ピラミッド展」を観てきました。

3:40起床。6:09新神戸駅発の新幹線に乗り、8:53東京着。高速バスで一足先に東京に到着していた友達と合流して、国立西洋美術館に向かいます。国立西洋美術館は、学部生の頃博物館実習で一度だけ訪れたことがありますが、その後利用する機会がなく、ほとんど初めて訪問したも同然でした。インターネットで購入しておいた黄金のペアチケットを提示して入場。31日(土)にBS-TBSの特別番組「地中海黄金伝説を巡る」で予習していたのですが、期待以上の内容でした。

まずはギリシア神話から。アポロドロス『ギリシア神話』第一章VIII,1に金の羊毛を巡る物語が記されています。ボイオティア王妃ネフェレーがヘルメス神より授かった金の牡羊は空を飛ぶことが出来、ネフェレーは息子プリクソス王子を王の後妻から守るために金の牡羊をプリクソスに与えます。プリクソスは金の牡羊に乗って(あるいは羊の角につかまって)黒海東岸のコルキスに逃れます。そこで、プリクソスはアイエテス王に娘婿として迎えられ、プリクソスは金の牡羊をゼウス神に、その羊毛をアイエテス王に贈ります。金の羊毛は龍の監視下に置かれますが、イオルコスの王子イアソンがヘラクレスやオルフェウスらを伴ってアルゴー船に乗り込み、コルキスに到着し、幾多の試練を乗り越えて、見事金の羊毛を手に入れます。この神話はギリシアが黄金豊かなコルキス沿岸をさすらいつつ、植民地化していたことを反映しているそうです。しかし、この神話がただの伝説ではなかったことが、1972年に黒海西岸のヴァルナで大量の金の副葬品を納めた墓地が発見されたことによって明らかになりました。そこで、この神話に基づいた西洋絵画が数点展示されています。次いで、ヴァルナ第43号墓の出土状況がすべての副葬品とともに復元展示されています。この墓は数にしておよそ千点、重量にして1.5kgもの金製品を含み、墓地全体の金の総重量(6kg)の4分の1を占めていました。それらは腕輪、指輪、耳飾り、ビーズの首飾り、衣類に縫い付けられていた多数の飾り金具、男根を表す飾り金具などでした。また錫杖や斧も副葬されていたことから、権威と軍事力を併せ持つ族長だったことが分かります。図録の20頁によると、年齢は50〜65歳、身長は170〜175cmの男性だそうです。

この展覧会を通じて、展示品の解説は展示品から少し離れたところに展示品の拡大写真とともにいくつかまとめて配置され、展示品を見る人々と解説を読む人々が一カ所に集中しないように配慮されているところがとても良かったです。

次に古代ギリシアの宝飾品です。45の蛸の形をした飾り板は地中海文明らしさを感じさせます。46の毛虫の形をした飾り板、48のパピルスの形をしたビーズの首飾り、47のロゼット紋のビーズの首飾りは地上の生命の再生と若返りを象徴しています。ロゼット紋のビーズの首飾りはさりげなくかわいらしくて、身につけてみたくなりました。74の帯状の腕輪に打ち出された人間の頭部は一瞬ネメス頭巾を被ったツタンカーメンのように見えました。80の女神アフロディテを表す壷も自宅の棚に飾っておきたい愛らしい壷です。91のディアデマ(冠)を始めとして、ヘラクレスの結び目はほどけにくいことから装身具によく見られます。106の金の帯にも見られます。101の蛇形の腕輪は紀元前3〜2世紀のもので、クレオパトラ7世が身につけていそうです。110の耳飾りや腕輪などは現代日本でも宝飾屋さんで販売されていそうなほどモダンなデザインです。このあたり細部の装飾がものすごく手のこんだ作品が続きます。黄金のまばゆい輝きに目がくらみそうです。146の首飾りには琥珀色のトパーズを磨いてハエの形に造形された飾りが下げられており、古代エジプトの武勇を誇る黄金のハエの首飾りを思い出させます。147のシリアで制作され、エジプトで発見されたというペンダントも愛らしく、図録の表紙に選ばれています。153〜157は打ち出し細工の作品です。164の色ガラスと金のビーズを交互に並べた首飾りも興味深いです。170-172の皿や壷に描かれた女性の横顔は、目の位置がおかしいです。それから、触るものすべてを黄金に変える力を持つミダス王、黄金のリンゴをわざと投げ落とすことによってアタランテと結婚できたヒッポメネス、ペレウスと海の精テティスとの結婚(彼らの結婚披露宴に呼ばれなかった不和の女神が宴会場に投げ込んだ黄金のリンゴがトロイア戦争の原因だとは知りませんでした)、黄金の雨に姿を変えたゼウス神の子ペルセウスを産むダナエ、という4つのギリシア神話に基づいた西洋絵画が続きます。ルノワールの描く女性は頭部と乳房が小さく、体つきが豊満なので、すぐに見分けがつきますね。

次はトラキアのヴァルチトラン遺宝とパナギュリシュテ遺宝です。前者は13点の器物から成り、ぶどう畑から発見されました。誰が制作し、どのようにして使用され、なぜ墓でも神殿でもないところに埋められたのか、前例のない技法など、謎に満ちた遺宝だそうです。後者は9点の食器セットで、ギリシアとペルシアの二つの文化の伝統が見られます。小アジアのランプサコスという町で、アレクサンドロス大王によってペルシアから解放された頃に制作され、紀元前278年ケルト人が侵略した際に、地中に隠されたそうです。206のフィアレには一番内側にドングリが、その外側に三重の同心円状に黒人の頭部が彫られており、何だか不気味でした。

次にエトルリアと古代ローマの金製品です。エトルリア人は死後の世界に惜しみなく投資する民族で、エトルリアの金製品は彼らの文化の最良の遺産の一つだそうです。盗掘を免れた「レゴリーニ・ガラッシの墓」は紀元前7〜5世紀、つまりエトルリアの最盛期に生きた女性の墓で、ローマの北西チェルヴェテリの墓地で発見されました。 他方古代ローマ人は共和制時代には質実剛健を美徳としていましたが、帝政時代にはスケールのでかい金鉱山開発を行いました。

地中海に広く見られる粒金(りゅうきん)細工の最古の例は紀元前2500年頃のウルの王墓で出土した短剣の鞘に見られます。エジプトでは紀元前二千年紀に入るまで知られていなかった技術で、クレタ島、ミュケナイ文明へと引き継がれ、ミュケナイ文明崩壊後しばらく見られませんでしたが、紀元前900年頃ギリシアで復活し、紀元前700年頃エトルリアで高度に発展したそうです。粒金の大きさは青銅器時代には約0.4mm以上でしたが、エトルリアでは0.2〜0.3mmの粒金が用いられ、地金への粒金の接合にはとても精巧な技術が使用されました。最小の粒金は0.15mmを下回ります。ちなみに古代エジプトの平均的な粒金は約1mmだそうです。エトルリアの粒金細工の技術は紀元千年頃に歴史の部隊から姿を消しました。

211の動物模様のある留め金はすごい! 131体のライオン、セイレン、スフィンクス(エジプトとフェニキアの伝統的モチーフ)、馬とキマイラ(ギリシアの伝統的モチーフ)が並び、さらにエトルリアの伝統である卍の列といったさまざまな線状装飾が施されています(卍装飾がエトルリアの伝統だったとは知らなかった)。213と214はギリシアやオリエントの典型的な作例に着想を得た装飾を特徴とする「フェニキア容器」です。

馬やライオンと並んで有翼のスフィンクスや、ハトホル風の髪型をしたポトニア・テロン(動物たちの女王)、「天国の花」と呼ばれるパルメットといったオリエントのモチーフが225、232、233に見られます。234は「フェニキア容器」ですね。240にはドングリの垂れ飾りが見られます。244はなんとエトルリア語とフェニキア語が記された黄金板です! エトルリアのチェルベテリの港ピルジの神域から出土し、銘文からチェルベテリの王がエトルリアの女神ウニ(フェニキアの女神アスタルテと同一視された)に神殿を捧げたことが分かります。253はアキレウスが彫られた紅玉髄のスカラベ型指輪です。

19世紀にエトルリアの墓地が相次いで発見され、エトルリアの金製品に注目が集まりました。イタリアの金細工師カステッラーニはエトルリアの粒金細工を研究しました。カステッラーニ一族は宝飾品の研究・制作に従事しつつ、古代遺物を収集しました。カステッラーニの工房で制作された宝飾品は「考古学スタイル・ジュエリー」を流行させました。すばらしい!

281と282は右手を握りあった結婚指輪です。古代ローマ時代右手を握りあうことは結婚の儀式の一部で、デクストラールム・ユンクテイオーと呼ばれました。今でもカトリック教会の結婚式では司祭が「あなたたちが結婚する意志があるのなら、右手を差し出しなさい。」と朗読するそうです。

古代ローマ帝国が金鉱山を開発する際に使用された「山崩し法」の解説で展覧会の展示は終わりですが、最後に住友金属鉱山株式会社が開発している鹿児島県の菱刈鉱山から採掘された大きな鉱石が展示されています。全体的にキラキラと光っていますが、石英が光っているのかと思いましたが、茶色の点々が薄く層状に見られるところがあり、どうやらそれが砂金となるのではないかと思いました。はっきりと金の層が見えるのではないのですね。金を含んだ鉱石を見たのは初めてです!  とても見応えのある展覧会で、見に来た甲斐があったと思いました。

見終ったのはちょうど12時だったので、四谷で昼食をとって、エネルギーチャージ!  六本木のエジプト展会場に着いたのは14時を過ぎていたかもしれません。まばゆい黄金の数々を見た後だったので、TBSテレビ60周年、早稲田大学エジプト調査50周年を記念する展覧会なのに、エジプト展会場はとても地味に見えました。

まず、エル・ダマティ考古大臣の挨拶の中に「2000年の初開催から数えて6回目となる本展覧会は」という文言があり、この展覧会はすでに他の国で5回開催されたのだろうか?それともカイロ・エジプト博物館の収蔵品による展覧会が日本で開催されたのは6回目という意味だろうか?と疑問に思いました。我が家にある図録を調べたところ、2000年以前からカイロ・エジプト博物館の収蔵品による展覧会はしばしば開催されているので、前者の意味かもしれません。エジプトと日本の協力関係について、ギザに建設中の大エジプト博物館(GEM)とそれに併設する保存修復センター、GEMスタッフの研修、さらにクフ王の第二の船の取り出しと復元、1966年以来11のチームが行ってきた学術調査が挙げられています。この展覧会ではピラミッド時代、すなわち古王国(第三〜六王朝)と中王国第十二王朝に焦点が当てられていますが、新王国や末期王朝のものも少し展示されていました。図録では、章解説を吉村作治氏、103点すべての作品解説と章末のコラムを河合望氏が担当しており、その他に早稲田大学関係者8人の寄稿が載せられています。

大エジプト博物館(GEM)の構想の背景に、カイロ・エジプト博物館が古代の出土遺物だけを展示しており、観光客やエジプト国民にエジプトの正しい理解を阻んでいるという民族主義的意見があったということに驚きます。そこで、厖大な数のコレクションを再編成し、古代から現代までの文化財を年代を追って展示し、エジプトの輝ける歴史を知ってもらおう、ということになったのだそうです。保存修復センターではすでに100名を超す研究員が修復を行っているそうですが、おそらくFB友達の松田泰典さん(http://www.jica.go.jp/project/egypt/0702247/news/general/20100426_01.html)が育てた方々なのでしょうね。

展覧会の前半には約30点の王像や高官たちの彫像が展示されており、やや単調に感じられます。その代わり、古代エジプトの知識がまったくない人のために、パネル解説が充実しています。第三王朝ジェセル王から第十二王朝アメンエムハト3世までの王たちについては、図録の24〜31頁に解説が載っていますが、古王国・中王国の歴史の概観を知ることが出来ます。河合望氏の解説によると、「つまりピラミッドは、ファラオとして現れた創造神である太陽神ラーの巨大な記念物であり、民衆は神の化身であるファラオへの祈りと感謝をこめて壮大な建設プロジェクトに参加したのだ。」とあります。この説明には、ピラミッドがそもそも何であったのか、何のために造られたのかがはっきりと示されており、単に「ピラミッドは王墓である。」という説明よりも説得力を感じます。

第一章は「ピラミッド建設とその技術」です。002「石の表面を平坦にする道具」はどのように使われたのかがわかりにくいので、想像図で示してもらえたら、良かったと思います。005「石槌」は石を叩いているうちに木の棒で挟んだ石がはずれて使えなくなるのではないかと心配になりました。006「石製分銅」の重さはいくらなのでしょうか? 008「鍬」は柄の部分が短すぎて、掘りにくいのではないかと思いました。009「ブーメラン」は平たくなくて、本当に木の棒なんですね。戦闘の際に相手を撹乱させるために使われたという説明を読み、水鳥の狩猟の時だけ使ったのではなかったのだと思いました。010「棍棒」。このような形の棍棒は初めて見ました。

第二章は「ピラミッド時代のファラオたち」です。013-014「クフ王とペピ1世像を伴うライオン女神像」は、第四王朝のクフ王と第六王朝のペピ1世が一緒に表されていますが、王の力にかげりが見えてきたため、繁栄を極めたクフ王との結びつきを強めたいというペピ1世の意図が現れているそうです。ライオン女神がどの女神かは銘文で示されていませんが、解説によると、当時「王の母」として位置づけられていたバステト女神だそうです。図録に王名の部分を撮った写真が載っていますが、もっとズームアップした写真でないとまだ見にくいです。016「カフラー王像」。いつも後頭部をハヤブサに守護された片麻岩製のカフラー王像を見慣れているので、こちらはそれほど威厳を感じさせないな、と思いました。017「メンカウラー王のトリアード」。ボストン美術館にある王像では眼球の丸さが目立ちますが、こちらはそれほどでもないですね。018-020の王像は平凡ですね。王の威厳も王の個性や人間性も感じさせません。それに比べて023-026「アメンエムハト3世像/頭部」は王の個性や人間性が表情に現れています。 

第三章は「ピラミッド時代を支えた人々」です。彩色された彫像には襟飾り(ウセク)が表現されていますが、彩色されていない彫像には襟飾りは表現されていませんね。男性のカツラには何段もの層になった短い立て巻き髪のカツラとまっすぐの左右に広がるカツラがありますね。032「ネムティネフェルの夫婦像」。妻が夫の隣に建っているのは珍しいですね。042「ヘテプの方形彫像」。顔も足も横幅が広すぎます。048「パン作りとビール造り職人の模型」の中央に置かれた白と黒のものは何か分からなかったのですが、図録の解説によると粉を挽くための台だそうです。ちなみに、027「矮人ペルニアンクの座像」と028「カイとその子どもたちの像」はともにザヒ・ハワス博士によって大ピラミッドの西部墓地で発見されたものだそうです。前者は1990年1月11日に、後者は1999年に発見されました。

第四章は「ピラミッド時代の女性たち」です。この展覧会に華やかさを添えている部分ですね。050「サトメレトの立像」。彼女が身につけている襟飾りと胸飾りの華やかさから彼女の高貴さがよく分かりますね。ここから「ダハシュールの財宝」と呼ばれる装身具類が展示されています。054「クヌメト王女の襟飾り」は美しいですね。しかし、意外と短く、どうやって装着したのだろうと思いましたが、解説によると王女のミイラの上に置かれていたようなので、短くても良かったのでしょうね。055「イタ王女の襟飾り」。紅玉髄の色が思いのほか茶色くて、赤くなかったので、意外でした。057「金製の首飾り」では珍しく牡蠣の貝の形をしたペンダントが垂れ下がっています。牡蠣の貝の形のペンダントは中王国に流行したそうです。058「サトハトホル王女のベルト」と059「ウェレト王妃(センウセレト3世の妃)のベルト」ではタカラガイ(子安貝とも言う)が使用されていますが、こちらは中王国によく見られます。060「メレレト王女のアンクレット」はかぎ爪の形をしたペンダントがなければ、数珠のようです。065-066「アメンエムハト2世銘入りスカラベ」。裏面のぐるぐる巻きの模様は蛇のとぐろを表していたのですね。王母ヘテプヘレスの墓から発見されたアラバスター製の容器(069-073)もすばらしいですね。077「ハトホル女神とベス神を象ったシストラム」。ベス神が二頭のスフィンクスの上に立っているのはなぜでしょうか? 

第五章は「黄金の輝く来世」です。078-081は階段ピラミッド複合体から発見されたものです。082「ネフェルマアトとアテト墓の壁画片」ではkとAの音を表すヒエログリフが描かれています。その彩色から確かにAはエジプトハゲワシであることがわかります。083「身代わりの首」はいまだに何のために作られたのか、なぜ耳がそぎ落とされているのか、分からないのですね。085-089はアビュドスの北墓地から発見されたものです。特に086「ケペルカーラーのステラ」は美しい! 091「太陽の船の模型」も展示されています。私はこの船の上に載っているものが何か知らなかったのですが、解説によると、船首から船尾の方へ、シュウ神やマアト女神らが頭につけるダチョウの羽根、太陽神の棺(!)、てっぺんにハヤブサが乗った円筒、ホルス神の(従者たちの)象徴であるシェメスウ、太陽神の内臓を入れたカノポス壷(!)が並んでいるそうです!! そんなものが載っているとは思いもよりませんでした。この章の展示はなかなか重要で、見応えがありますね。100-102「アメンエペルムウトの彩色木棺とミイラ・カバー」。第二十一王朝の彩色木棺はいつ見ても美しい! 名前の書き換えられている部分や主な宗教テクストの図像の解説があり、とても良かったです。もうこれで終わり? 肝心の黄金のマスクはまだ見ていないのに?と思いながら、先に進むと、103「アメンエムオペト王の黄金のマスク」が一点だけ展示された空間がありました。アメンエムオペト王は第三中間期第二十一王朝の王で、ウラエウスが繁栄期の王たちのものと比べてとても小さく、紐が付いているようにしか見えないのが、残念です。おやっ? 会場のパネル解説にはマスクの発展の歴史が書いてあったのに、図録の解説には書かれていないのはなぜ?

特設販売会場ではメジェド様のぬいぐるみが販売されていました。枕代わりに良さそうでした。吉村作治先生古稀記念論文集と吉村作治先生の論文集も販売されており、とても欲しかったのですが、両方買うと5万円の出費になるので、思いとどまりました。友達ががちゃがちゃでゲットしたメジェド様のストラップ(?)にはちゃんとメジェド様の解説が書いてありました。死者の書第17章に登場する神様だそうです。黄金の財布、黄金のトートバッグ、黄金のポーチは、もし「黄金伝説展」の特設販売会場で販売されていたら、買っていたかもしれません。そんなこんなで、エジプト展の会場を出たのは17時を過ぎており、辺りは既に真っ暗。友達がまだもう一件観に行きたい、古代オリエント博物館へ行きたいというのを「もう閉まっているから、また今度にしようよ。」と抑えて、18:50東京発の新幹線で神戸に帰りました。

ああ、楽しかった! 「黄金伝説展」「黄金のファラオと大ピラミッド展」どちらもお勧めです。是非ご覧下さい。

2016年5月25日(水)

2011年10月19日から12月18日まで京都大学総合博物館で「埃及考古」展が開催されました。その時の様子は「西村洋子の雑記帳(14)」の2011年10月23日(日)に記しましたが、ピートリーから浜田耕作氏に贈られたエジプト発掘出土品の目録完成を記念して、2016年2月18日(木)にシンポジウムが開催されました。場所は京都大学百周年時計台記念館でした。丁度昼前に到着したので、1Fのフレンチレストラン「ラトゥール」で昼食をとりました。一見敷居が高く見えましたが、料理のお値段はそんなに高くなく、ゆったりとした時間の流れを感じながら、おいしく味わえました。ただテーブルマナーに気を使うレストランでの食事にちょっと緊張しましたが...。

会場に行くと、まだ準備中でした。しばらくして、受付が始まり、シンポジウムの要旨集を受け取りました。要旨集はなぜか英語版しか用意されておらず、また期待していた図録もこちらでは販売されていませんでした。会場に来る前に京都大学総合博物館へ寄れば、ミュゼップで買うことが出来たかもしれません。(そのため、図録については後日ミュゼップで購入しました。) シンポジウムは13:00から始まりました。まず京都大学の阪口英毅氏が京大エジプトコレクションの展示と図録刊行について、次いで中部大学の中野智章氏が京大にエジプト古遺物品がやってきた経緯を話し、さらにピートリー考古博物館学芸員アリス・スティーヴンソン女史がArtefacts of Excavation プロジェクトについて話しました。この後京大エジプトコレクションの中のコプト織物の染料の分析について、ナウクラティス・プロジェクトと京大エジプトコレクションの中のナウクラティス出土品について、ローマ・ビザンチン時代のパピルス文書についてと講演が続きました。私が聴いたのは、時間の都合上、コプト織物の話までです。

アリス・スティーヴンソン女史のArtefacts of Excavation プロジェクトの話が興味深かったので、以下に要旨集からまとめておきます。

博物館はギャラリーに展示されたモノや収蔵庫に保管されたコレクション以上の存在です。博物館は人、モノ、場所との関係からなる複合的な集まりです。それゆえ考古コレクションの取り扱いはモノと関連する歴史との考えられるつながりをもっと広く目に見えるようにすることを含みます。この哲学は3年間のArtefacts of Excavation プロジェクトの中心にあります。そのプロジェクトはエジプトでイギリスによって行われた発掘出土品の世界最大かつ最も複雑な分配の一つを調査するために2014年に開始されました。

1880年代から1980年代の間にエジプトでイギリスによって行われた現地調査(フィールドワーク)は何十万もの遺物の発見に至りました。それらは分配システムによって合法的にエジプトから輸出され、世界中の博物館、大学、学校の間で分けられました。京都大学は20世紀初めにエジプト古遺物の箱を受け取ったおよそ320の目的地の内の一つでした。これらのコレクションについての以前の議論は古代に関する情報源として遺物自体に焦点が当てられる傾向にありました。対照的に、Artefacts of Excavation プロジェクトはこれらのモノの交換、使用、受け入れがどのように近現代史を表すのかに関心を持ちます。例えば、19世紀後半と20世紀初めの分配は学問としての考古学と研究機関としての博物館との両方の発展への洞察を与えてくれます。両者はしばしば共生関係にあります。日本のコレクション獲得の事例は、エジプトの物質文化に向かい合った西洋に基盤を持つやり方に対比して、これらの分野が日本でどのように発展したかを考察する機会を与えてくれるので、格別に興味深いです。

いかなるモノもエジプトから持ち出されるには公的な許可が義務づけられると明確に述べる法律制定を含む、古遺物の輸出を禁じる法律は1835年以来エジプトに存在しました。しかし、これらの法律の効力には限界がありました。最初の発掘許可はフランスが取り仕切るエジプト考古局(Service des Antiquités de l'Égypte)によってイギリスの新たに創設されたエジプト探査協会(EEF)に1883年に、イギリスによるアレクサンドリア砲撃とその後のイギリスによる占領の1年後に、与えられました。イギリスの発掘の間に発見された古遺物の輸出はそれから1883年11月にパリでのフリンダース・ピートリーとガストン・マスペロの会合に続いて確定されました。この二人の協定がフリンダース・ピートリーに、カイロにあるエジプト博物館の最初の選択を条件として、彼のチームによってなされた発見物の一部をイギリスに輸出することを可能にしました。このシステムは「分配(partage)」と呼ばれました。    

分配によって最初のモノの箱は1884年にタニスからイギリスへ出発しました。その後何年間もナウクラティス、ネベシェ、ダフネ、ブバスティスでのEEFの調査からの発見が続きました。その度毎に発見物の量は多くなり、さらにもっと途方もなく多くなりました。個人がEEFの調査団を後援することは出来ましたが、主要な受益者たちは博物館でした。どのように発見物を分けるかを決定する際に、EEF委員会は基金への個人の寄付の人口学的プロファイルを考慮し、寄付の強い地域的集中があるようならば、その地域の博物館が得をしたでしょう。博物館はまた望むモノを確保するために基金に直接寄付することが出来ました。大学と学校は同様に古遺物の適切な受取人と見なされました。これらの場合には得をした施設はたいてい個人間のネットワークに影響されました。非常に時たま個人が彼ら自身の私的コレクションにとって「二重の」すなわちあまり貴重でないモノと見なされた物を少量受け取りました。しかし、しばしばこれらは後に博物館に徐々に広まりました。

1880年代後半に、フリンダース・ピートリーのEEFとの関係は悪化し、彼の現地調査のために個人の後援を捜し求めながら独立して調査することを決めました。彼は裕福な後援者、ジェシー・ハワースとマーティン・ケナードを見つけました。両者はラフーン、グローブ、ナカダのような遺跡での彼の調査を後援しました。これらの年に発掘の掘り出し物は三人の間で分割され、それぞれがイギリスや海外のいくつかの博物館に贈呈しました。1892年にフリンダース・ピートリーはエジプト学におけるイギリスで最初の大学の職に任命されました。すなわち、ユニバーシティー・カレッジ・ロンドンのエジプト考古学と文献学のエドワーズ教授職です。このことはピートリーに彼がエジプト調査口座(Egyptian Research Account)と呼んだものを通じてエジプト調査の資金調達のための彼自身のやり方を確立することを可能にしました。その主要な目的はイギリスの考古学の現場監督たちの次世代の訓練を支援することでした。1905年にERAは発展して在エジプト・イギリス考古学校(BSAE)を組織しました。それもまたエジプトでの考古学の調査隊活動を開始し、 EEFと同様なやり方で後援者たちに発見物を分けました。この時までにピートリーの弟子の一人、ジョン・ガルスタングもまたリヴァプール大学のために彼自身の現地調査に着手しました。これらの調査隊活動の間に発見されたものは多数の国内外の研究機関の間に流通されました。それゆえ、第一次世界大戦までにイギリスが率いる発掘の複雑なパッチワークと遺物分配ネットワークが出現しました。   

1920年代のエジプトにおける政治的変化に続いて、外国の探査とモノの持ち出しは縮小され、フリンダース・ピートリーはパレスティナ、すなわちBSAE後援者たちに売り込まれたように「国境を越えたエジプト」で調査するために去りました。しかし、エジプトの古遺物の流通に影響したのはエジプトの政治的変化だけではありませんでした。イギリス生活の知的・社会的枠組みにおける変動もまた資金提供に影響を与えるようになりました。第二次世界大戦に続いて、フリンダース・ピートリーの妻ヒルダはエジプト学への関心がイギリスを越えて減退したことに気づきました。博物館はエジプトのモノを獲得することにそれほど関心がありませんでした。過密状態のケースのためあるいは展示ホールが第二次世界大戦の爆弾で失われたために、学芸員たちは明らかに博物館内にもはやいかなるもののスペースもないと不平を言いました。他の研究機関はエジプトのモノはもはや彼らの収集方針に合わないと指摘しました。彼らの収集方針は今や内にイギリス史あるいは地域の関心の方へ向きました。結果としてBSAEは正式に1952年に解散しました。EESはスエズ運河危機の余波による中断の後1960年代にサッカーラでエジプト調査を再開することが出来ました。EES発掘からのより少ない「二重の」モノが1980年代後半までイギリスの研究機関のさらにもっと限られた共同出資のためにエジプトを出発することを許され続けました。1990年代以降より厳しくなったエジプトの規則はもはや古遺物がエジプトを出発することを許されないことを意味しました。 

これらの分配の広さと範囲は、古い発掘を復元しようとする多くの試みと同様研究者たちと博物館の実務者たちにとって、厄介な遺産を残してきました。たった一つの墓からのモノでさえしばしばまったく離れ離れでした。 例えば、アビュドスのジェト王の葬祭周壁のそばの387号墓からの三つの銅製の道具は現在ピートリー博物館にありますが、埋葬のための土器と墓の所有者の頭蓋骨は日本にあります。それゆえ、Artefacts of Excavation プロジェクトの目的の一つは、それらの獲得を画策した地域の人々の物語と同様、現在分散させられたモノをそれらの発掘の歴史と再び結びつけられるのを可能にするかもしれないオンライン・リソースを創ることです。そのウェブサイトは、UCLのピートリーエジプト考古博物館を管理するERAとBSAEのアーカイヴ(保管文書)とともに、エジプト探査協会のルーシー・グラ・アーカイヴで現在保管されているEEF/EESの分配記録を利用出来るようにし、解釈するための手引きを与えるでしょう。1960年代から1980年代までのもっと後のEES分配に関する記録文書は大英博物館のエジプト・スーダン部門によって保管されており、それらもまた含まれるでしょう。発掘への手引きはモノを目立たせ、これらを特定のアーカイヴに結びつける方法もまた、遺跡に関する情報と直接関連する出版物とともに、このリソースに組み込まれるよう計画されています。プロジェクトのこのような側面は、博物館コレクションの中で個々のモノを同定するプロジェクト・チームとは対照的に、モノ自体を別の状況に当てはめるツールを与える方法であるように構想されています。

多数の他の研究が既に京都大学コレクションの歴史をより十分に記述してきたので、それ相応に簡単な概観だけがここで述べられます。日本へのエジプトのモノの到達は、主に東京帝国大学の最初の人類学教授、坪井正五郎氏(1863-1913)のイニシアティヴによって、人類学というより幅広い学問の創設と発展に密接に関連があります。正五郎氏のエジプト学への強烈な関心はあまり良く知られていません。彼は頻繁に高等師範学校と公的行事でエジプト学について講義しました。正五郎氏を通じて、東京大学は1906年にデル・エル・バハリとオクシリュンコスでのEEFの調査からおよそ17点のモノを受け取りました。正五郎氏の弟子、浜田氏は1909年に京都大学の美術史の講師として任命されました。同年京都大学博物館はアビュドスでのEEF調査からの発見物のうち最初に選ばれたものを受け取りました。京都大学は浜田氏に海外で3年間を過ごすことを許しました。それはロンドンでフリンダース・ピートリーとともに考古学を学ぶ時間を含みました。しかし、浜田氏はエジプト考古学自体にはそれほど関心がありませんでした。それよりも彼は新しい考古学の方法、特にフリンダース・ピートリーが追随した歴史への型式論的アプローチについて学ぶことに関心がありました。彼が日本に戻った後、考古学部が浜田氏を部長として創設され、彼が教えた文化史的枠組みは20世紀の多くの間日本考古学の核を定義するようになりました。

浜田氏は、浜田氏の弟子たちの多くがしたように、フリンダース・ピートリーと連絡を取り続けました。彼らはロンドンに教授を訪ね、Reports upon Archaeological Research in the College of Literature, Kyoto Imperial Universityを持ってきたでしょう。これらのレビューは、これらのReportsが証明する日本における考古学研究の方法論的厳格さと進歩について好意を持って所見を述べる論評者たちとともに、幾分不釣り合いに、フリンダース・ピートリーのAncient Egypt magazineで公表されたでしょう。1922年にフリンダース・ピートリーは京都大学のために広範囲なエジプト発見物の個人的な選択をしました。このモノの割り当ては先史からローマ・ビザンティン時代まで及ぶ、オクシリュンコスとアビュドスのような、BSAEによるいくつかの異なるシーズンの考古学的調査から再発見された品々を含みました。

モノの流通は一方通行ではありませんでした。ピートリー博物館のコレクションは、フェニックスのデザインを彫刻された−多分11世紀か12世紀の−韓国の青銅鏡(UC25494)を含みます。それは浜田氏によってピートリーに贈られました。その出所は、イギリスへの到着の日付と同様、知られていません。それにもかかわらず、20世紀始まりの東西の知的つながりへの物的証拠としてのその重要性は留まります。

世界中の研究機関内にエジプトの発見物を配置し直すことは本来目的ではありません。Artefacts of Excavation プロジェクトは最終的にイギリスの発掘から古代エジプトの古遺物を獲得する動機、どのようにしてそれらが世界中の異なる博物館内に受け入れられたか、どのようにして地域の物語が考古学と博物館学におけるより幅広い発展と関連づけられるのかを理解しようと努力しています。日本にとって、1868年の明治復古に続く博物館の発展は、西洋(欧米)文化を理解する手段として機能する博物館とともに、日本の国家的アイデンティティーの再定義と結びつけられてきました。このコンテクストでエジプトの物質文化の役割は何だったのでしょうか? 19世紀後半と20世紀初めのヨーロッパのエジプト占有は頻繁にエジプト文明からヨーロッパ史までの直接の由来を構想する。しかし、どのように日本人の弁明はそのようなレトリックに関与しあるいは答えたのでしょうか? エジプトのモノの博物館展示は日本の大学で教える際にどのように使用されたのでしょうか? これらのものはどんな種類の歴史的物語に組み込まれたのでしょうか? これらは、発見物が現地と博物館との間で分配された時、モノ、人々、場所がどのように知らされたかを考察することを通じて、私たちが問いかけたい質問のうちのいくつかに過ぎません。                                                                                                               

Artefacts of Excavation プロジェクトとそれに参加しているAlice Stevenson女史については、こちらをご覧下さい。

http://www.ucl.ac.uk/museums/petrie/research/research-projects/AHRC_project

ナウクラティス・プロジェクトとそれに参加しているRoss Iain Thomas氏については、こちらをご覧下さい。

https://www.britishmuseum.org/research/research_projects/all_current_projects/naukratis_the_greeks_in_egypt/naukratis_research_project.aspx

ローマ・ビザンチン時代のパピルス文書を研究しているTodd M. Hickey氏については、こちらをご覧下さい。

http://www.classics.berkeley.edu/people/todd-hickey

京都大学のエジプト・コレクションがこのように世界的な出土品分配のコンテクストの中に位置づけられることを知って、大変驚きました。聴きに行った甲斐がありました。

2016年7月16日(土)

8:13にJR須磨海浜公園駅から電車に乗り、丁度二時間かけてJR信太山駅に到着。大阪府立弥生文化博物館の前の横断歩道まで行くと、セミがワンワン鳴いていました。二階に上がると、「世界の文字の物語−ユーラシア 文字のかたち」展の会場はすでに賑わっていました。見慣れない文字ばかりが並ぶ展覧会ですが、意外と人気があるようです。学芸員さんの話によると、「この展覧会で初めてこの博物館に来ました」というお客様がたくさんいらっしゃるそうです。また古代オリエント博物館と協力して展覧会を開催するのは今回が二回目ですが、ひとえに学芸員さんの人脈のおかげだそうです。大活躍ですね。

会場に入ると、最初にナルメル王のパレットが展示されています。パネル解説には「かつては上・下エジプトの統一を記念した奉納碑と考えられていたが、奉納された年の主要な出来事あるいは神話や儀式の一場面を描写したものという解釈がなされている。」と記されていて、ちょっと驚きました。確かに後者の説の存在は知っていましたが、まだ前者の説の方が有力だと思っていました。統一王国の都メンフィスはナルメル王よりも何代か前のイリ・ホルの時代にはすでに建設されていたという説も聞いたことがあるので、ナルメルが上・下エジプトの統一者だったという説は捨てられ、後者の説が逆転したのでしょうか? 個人蔵のヘテプディネスート(「王賜の供物」)の碑文が記された石材は解説にはリンテルと書かれていますが、「まぐさ」などの日本語の建築用語に訳して欲しいですね。アーキトレーヴも最近日本語に訳されなくなって、図を使った説明もなく使われているので、古代エジプトの建築を知らない人には分かりにくいでしょう。  パピルスは湿気に弱く、よく乾燥したエジプト以外では傷みやすいので、内容が羊皮紙に書き写されて保管されたという説明にはちょっと驚きました。ギリシア文字・エトルリア文字の展示を見ていると、学芸員によるギャラリートークが始まりました。声が大きく、滑舌もよく、笑いのポイントも押さえており、聴いていて退屈ではありませんでした。学芸員の説明によると、ハンムラビ法典前面の下部に銘文がないのは、この法典が刻まれた石碑を戦利品としてスーサに持ち帰ったエラム王が、自分の業績をたたえる碑文を彫らせようとして、下部の碑文を消させたからだそうです。イソップ物語はマニ教徒によって宗教説話として中央アジアにもたらされた時、物語はウイグル文字(ソグド語)で書かれていました。インダス文字は文字として解読されておらず、記号だったかもしれないと議論されていることや、マンガのようなトンパ文字もほとんど解読されていないことや、甲骨文字は占いの結果が良くなるように細工が施されていたという説明にも驚きました。「漢委奴國王印」は紙に捺されたのではなく、封泥に捺されたことにも初めて気づきました。思い込みって恐いですね。

それから、展示内容を大人も子どもも楽しめるように「文字展トリビアを探せ!」という9つのクイズがあります。トリビア03の「いつかは死ぬのだ。(お金を)使ってやろう。長くも生きたい。貯蓄しよう。」や「心が憎しみを生んだことはない。憎しみを生むのはいつも言葉だ。」という楔形文字に残された言葉には共感しました。

午後14時からは京都大学非常勤講師の山本孟(はじめ)氏の講演が開催されました。10:00〜11:00には楔形文字のワークショップをされたそうですから、一日仕事ですね。しかし、28歳(だったかしら?)の若い方なので、体力的には大丈夫なのでしょう。名刺の表には漢字と楔形文字で名前が記されており、裏面には英語で名前が記されていました。研究者には通用する名刺ですね。講演には170名近い大勢の聴講者が集まりました。すごい人気です。テーマが良かったのでしょうか? ちなみにテーマは「ヒッタイト人の"愛"を探る」でした。失恋がきっかけだったと笑いながらおっしゃっておられましたが、それをバネにacademistというサイトでクラウドファンディングによる研究資金の調達を行い、プロジェクトを推進したことは、本当にすばらしい。

https://academist-cf.com/projects/?id=23

失恋の経験、「天は赤い河のほとり」という少女マンガからの影響、そして「愛」をヒッタイト文化を知る手がかりにしようという気持ち、がこの研究の動機であり、プロジェクトを通じて自分がどんな研究をしているのかを知ってもらいたいという欲求があったと語ります。私は今まで「天河」を読んだことはなかったのですが、この講演を聴いて初めて主人公はヒッタイト王ムルシリ2世と王妃タワナンナをモデルにしていることを知りました。

講演の前半約1時間(トイレ休憩を含む)はメソポタミア文明とヒッタイト王国の概略、ヒッタイト王国の発見とヒッタイト語の解読、ヒッタイト王国の歴史について説明がなされました。ヒッタイトというのは旧約聖書のヘテ人を英語読みしたもので、ヒッタイトの人々が自分たちの国をヒッタイトと呼んだわけでも、自分たちの言葉をヒッタイト語と呼んだわけでもないそうです。

後半約1時間(質問タイムを含む)はヒッタイト語で「愛」を意味するアシヤータルという単語が見られる粘土板50個のうち、文脈の分かる12〜3個の中から、3つの例をとりあげて、どんな愛の例があるのかを説明されました。ハットゥシリ3世と王妃プドゥヘパの夫婦愛はイシュタル女神から与えられたものであること、ハットゥシリ3世の息子(後のトゥドゥハリヤ4世)とクルンタ(ハットゥシリ3世の兄の息子)の友情愛、イシュタル女神への讃歌に見られる夫婦愛です。ヒッタイトの文献史料から人間らしい感情の交流が感じ取れるなんて思いもよりませんでした。

日本では一般的に「愛」とは「相手をいつくしむ心」とされていますが、キリスト教では「アガペー(神の愛)」、仏教では「自我の欲望に根ざし、解脱を妨げるもの」とされ、宗教や地域が変れば、愛の意味も異なるという例を示されました。確かに、古代エジプトで「愛」が主に「王や神が有能な人物を気に入り、恩恵を与えること」という意味で使われるのとは大違いですね。

講演が終わると、数名の聴講者が山本氏の周りに集まり、質問攻めにしていました。今まで気づかなかったけど、関心のある人はちゃんといるのですね。どうせ誰も興味がないから、やっても無駄、と止めてしまうのは努力が足りない証拠と反省しました。

ちなみにこの展覧会の図録は、古代オリエント博物館で開催時にはA4用紙一枚分の正誤表がついていましたが、今はほとんどの間違いが訂正され、第二版として販売されています。会期は9月4日(日)までです。是非一度ご覧下さい。

講演会の内容については、こちらをご覧下さい。

https://academist-cf.com/journal/?p=1277

ワークショップについては、こちらをご覧下さい。

https://academist-cf.com/journal/?p=1259

[Back to Essays]