西 村 洋 子 の 雑 記 帳 (17)    

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2013年3月10日(日)

2月23日(土)19:00〜20:00にナショナルジオグラフィックチャンネルでナショナルジオグラフィック協会創立125周年記念「Explorer TOP 125」の一つとして、「エジプト・世界最古の階段ピラミッド」が放送されました。この日私は講演後の懇親会に出席していたので、録画をしておき、昨日ようやく見ることが出来ました。サッカーラの階段ピラミッドを修復する様子を映した番組です。

サッカーラは紀元前2800年から紀元後400年頃にかけて墓が蜂の巣状に密集した墓地遺跡で、人間だけではなく動物も埋葬されています。ここで歴史は始まり、いまだに歴史が作られる場所です。

階段ピラミッドは今から約4650年前に王の権力の象徴として建てられた史上初の記念碑であり、エジプトにある全ピラミッドの原型です。しかし、何世紀もの間放置され、遺跡荒らしや地震、積年の侵食によって崩壊が進んでいます。時が階段ピラミッドを塵に変えていきます。2002年にザヒ・ハワス博士がSCA長官に任命されました。彼は階段ピラミッドに入ることを禁じました。石が崩れ落ちてくるため、あまりにも危険だからです。そしてエジプト史上最も大掛かりな修復計画を立ち上げました。彼は「人生で一番誇りに思うことは、階段ピラミッドの修復をしていることです。」と語ります。イギリス人とエジプト人の技師たちが5年間修復に奮闘しました。地上で一番大変なのは階段状部分の修復です。数千年の間に崩れたり、盗まれた石を取り替えます。しかし、最大の危険を伴う難関は内部の修復です。およそ28m地下へ降りた王の玄室(縦坑か?)が崩れ始めています。天井から降ってくる岩が石棺(玄室の天井石か?)を粉砕する恐れもあります。しかも玄室から延びる複雑な地下通路の多くが危険で、前人未到の場所です。修復は危険な仕事となるでしょう。

イギリス人たちはウェールズにある、壊れた建造物の修復を専門とするシンテック社(Cintec)の技師たちです。彼らにとってもこれは初めての試みです。彼らは玄室の天井(縦坑の上部開口部)にスチール製のアンカーを何本も挿入して、構造を完璧に安定させる計画を立てました。しかし、計画は物議を醸し、エジプト人技師たちもアンカーの挿入が崩壊に拍車をかけるのではないかと懸念しました。アンカーを挿入するかどうか決断を下すのは、内部の作業を監督するハッサン・ファハミー博士(Hassan Fahmy)です。

イギリス人技師たちが初めて階段ピラミッドを訪れ、修復計画を立て始めたのは5年前のことでした。通路の天井には最近出来た亀裂が長く走っています。全長5kmものトンネルと空洞だらけの内部(つまり、縦坑、通路、細長い部屋、倉庫などからなる全長5.7km以上の地下構造)でした。王の玄室は崩れ落ちた瓦礫で埋め尽くされていました。梁が崩れたのです。玄室の天井(縦坑の上部開口部か?)を見上げると、石がぶら下がっていました。玄室(縦坑か?)の公開は1930年代から中止されています。学者も入れません。イギリス人技師たちはどうやって修復しようかと頭を抱えました。彼らはアンカーを打ち込むため、玄室の天井(縦坑の上部開口部)に深さ5mほどの穴を開けたいと考えています。アンカーで石を固定して、天井(縦坑の上部開口部)を支え、ピラミッドにかかっている荷重を内部へ移動させて、崩壊を防ぐのです。エジプト人技師たちの心配を取り除くため、彼らは三段階の工程を提案しました。最初に天井(縦坑の上部開口部)を安定させ、次に石の隙間を埋め、最後にアンカーを挿入するのです。しかし、パイプで支柱を施した場合、天井(縦坑の上部開口部)を支えている重要な石に圧力がかかり過ぎ、一歩間違えば天井(縦坑の上部開口部)が落ちてくる可能性もあります。そこで、空気でふくらませたエアバッグによって、天井(縦坑の上部開口部)を下から支えるという方法を提案しました。空気なら圧力を拡散出来るはずです。このエアバッグは特許品で、内部に厖大な数のナイロン製の糸が通っています。空気を入れてふくらませると、隙間が埋まり、糸が強く引っ張られます。そして硬くて大きなエアバッグになるのです。硬いだけではなく、驚くべき強度があります。各エアバッグの耐荷重は3トン。天井が崩れてきても、支えることが出来ます。

シンテック社については、こちらをご覧下さい。

http://www.cintec.com/worldwide/home.php

http://www.dailymail.co.uk/sciencetech/article-2013857/Crash-test-mummies-Egypts-oldest-pyramid-saved-collapse-giant-airbags.html

階段ピラミッドは地震の起きやすいエリアに建っています。1992年10月エジプトをマグニチュード5.9の地震が襲いました。震源地はサッカーラからほんの数kmの地点でした。階段ピラミッドの内部では200トンもの石が崩れ落ちました。再び大きな地震が起きたら、壊滅的な被害を受けるでしょう。

史上最古のピラミッドで修復作業が急ピッチで進められています。崩れた石を一つずつ取り替えていく職人たち。工業用の機械は、振動が大きいため、手作業で行います。最善策は古代の手法を真似ることです。現場監督の73歳の老人は10歳の頃から石工でした。彼は「階段ピラミッドを修復するには、建築方法を知る必要がある。」と言います。階段ピラミッドの石は少し斜め上を向くように配置されています。石を積む角度があるのです。石の段はそれぞれが異なる角度で積まれています。また安定を得るために、石は下が尖るように内側へ削られています。古代エジプト人は階段ピラミッドを緻密な計画と原始的な道具によって建てました。現在の職人たちも同じ手法で修復していきます。

一方、階段ピラミッド内部では近代的な技術が試されます。計画では玄室の床(天井)から天井(縦坑の上部開口部)の触れられる高さまでおよそ28mに達する足場を構築します。この足場によって、エアバッグを設置し、天井(縦坑の上部開口部)にアンカーを挿入するための作業台が確保されます。そのためには揺るぎない土台が欠かせません。玄室は瓦礫で覆われ、その下には王の遺体を収めた石棺があります。エジプト人技師たちに瓦礫の撤去作業が課せられます。イギリス人技師たちはクレーンで石を引き上げて、南から搬出するのが最前だと考えましたが、エジプト人技師たちは上部の通路はクレーンの重さに耐えられないと懸念し、回り道を選択しました。つまり、石を一つずつ選り分け、玄室(縦坑)の底から脆くて複雑な通路を通り、北側から搬出するのです。これは危険な方法でした。頭上にぶら下がっている石が今にも落ちてきそうです。(イギリス人技師たちの言う上部の通路、エジプト人技師たちの言う脆くて複雑な通路がどの通路のことなのか分かりません)。

瓦礫の中に驚くべき遺物がありました。星のレリーフを施した石材、人骨、王の妻と娘の割れた石棺、そして何よりも重要な遺物である王の石棺(玄室)です。王の石棺(玄室)について考古学者(おそらくジャン・フィリップ・ロエール氏)が最後に記録してから70年以上が経っています。それ以降とてつもなく大量の瓦礫が石棺(玄室)の上に降り積もりました。貴重な遺物が破壊される恐れもありました。ザヒ・ハワス博士は瓦礫の撤去作業が始まってから毎週サッカーラを訪れ、状況を確認しました。やがて王の石棺(玄室)が現れ始めました。それは32個の花崗岩で作られ、各石の重さは3〜4トンあります。上に置かれた大きな丸い石が王の遺体を収めたと思われる穴を塞いでいました。ある天井石には「南の」を意味するrswのヒエログリフ・サインがありました。これは1000km離れたアスワンの花崗岩採石場で付けられたマークです。古代エジプト人はこのマークを手がかりに石棺(玄室)を作りました。この平たい石棺(玄室)は古代エジプト式です。

サリマ・イクラム女史は瓦礫が撤去された玄室の写真を見て驚きました。ずっと昔に崩壊した部屋は、王の遺体を玄室に降ろす前に浄めた準備室だったのです。星はアーチ型の天井に彫られていたようです。王が死後に行く世界で、神と一体になることを表しています。不滅の星です。穴を塞ぐ石については、彼女は次のように推測しました。石の大きさから遺体が安置されたとき、石棺(玄室)は完成していなかったと思われます。もしミイラが何層もの布に覆われてしっかりとくるまれていたとしたら、遺体はこの穴を通らないので、きっと石棺(玄室)の中にも人がいて、受けとめた遺体を上手く操り、この穴を通したのでしょう。そして石棺(玄室)から這い出ると、最後の石を上部の決められた場所に設置してから、穴を塞いだのでしょう。

[マーク・レーナー著『図説 ピラミッド百科』によると、星のレリーフを施した石材は石灰岩で、最終的な王の玄室が造られる前に造られた玄室の丸天井を形成していたと思われます。これは天井に星のレリーフを施した最古の知られている例です。最終的な王の玄室は花崗岩製で、内側の大きさは2.96m×1.65m×高さ1.65mです。穴を塞いでいた石も花崗岩で、重さ3.5トンです。幅1m以上のものは穴から中へ入れられなかったでしょう。]

瓦礫を片付け終えた技師たちは、石棺(玄室)の損傷という最悪の事態に気づきました。周りを締め付けていた瓦礫がなくなったことで、石棺(玄室)が崩れ始めたのです。これ以上崩れないようにするために、技師たちは素早く石棺(玄室を形成する石材)を鉄の棒で支え、ストラップと木で縛り付けました。これは急場凌ぎで、根本的に解決するには天井(縦坑の上部開口部)を修復し、落石を防ぐしかありません。イギリス人技師たちは作業開始を切望しています。彼らはもう数ヶ月待ち続けています。まだ作業台となる足場さえ完成していません。ようやく足場が出来て、エジプト人技師たちがエアバッグを確認しにやってきました。彼らは階段ピラミッド内部の映像を持参してきました。足場の最上部から玄室の天井(縦坑の上部開口部)を初めて至近距離で撮影したものです。崩れた石に楔が打ってあります。天井(縦坑の上部開口部)は想像以上にでこぼこで、つなぎが何もありません。何か手を打たなければなりません。点検したエアバッグを「緊急」と明記して、エジプトへ発送します。機材は現地に到着し、フライトも予約しました。ところが、2011年1月25日エジプト革命が起こりました。

政府に抗議する民衆が大挙してカイロの通りを占拠しました。民衆は30年以上実権を握っていたムバラク大統領の退陣を求めました。18日間の武力闘争の末、大統領は辞職しました。無政府状態が続き、歴史遺産が危険にさらされました。カイロ・エジプト博物館を混乱に乗じた泥棒が襲います。ザヒ・ハワス博士は「1月29日私は人々とともに博物館を守ろうとした。若者たちが一緒に戦ってくれた。」、サリマ・イクラム女史は「警察と軍は遺跡を守ろうとしませんでした。まったくもってひどいことです。」と言います。サッカーラにも墓泥棒たちが襲来しました。彼らが最初に荒らしたのはティの墓でした。そしてメレルカの墓もです。有名なすべての墓が荒らされました。エジプト中で混乱が続きました。イギリス人技師たちは、現地に到着したときに機材が残っているか、現地で作業を始める前に混乱が治まるかどうか、心配しました。ザヒ・ハワス博士は「サッカーラはもうおしまいだと思った。」と語ります。4ヶ月後カイロで起きた武力闘争が鎮火し、状況が改善しました。そこでイギリス人技師たちは5月に現地入りしました。幸い機材はすべて無事でした。

ついにエアバッグを設置します。イギリス人技師たちは初めて玄室(縦坑)に入り、今や玄室(縦坑)いっぱいに組み立てられた足場から、至近距離で天井(縦坑の上部開口部)を観察しました。大量の泥や粘土がむき出しで、不安になりました。それに別の人間がいるかのような妙な気配を感じました。(王の霊が彼らを見ていたのでしょうか?) ともかく作業を始めることにしました。その前に足場が玄室(縦坑)の壁に固定されておらず、激しく揺れたので、安全のために他の作業員たちを降ろさせ、足場を留め具で補強させました。エアバッグはでこぼこの天井(縦坑の上部開口部)にぴったり合わないため、高密度の資材で隙間を注意深く埋めていきました。18個のエアバッグを設置し終えると危険が少し遠ざかりました。天井(縦坑の上部開口部)が崩れても、それらがその重さを支えてくれるはずだからです。とはいえ、エアバッグを設置した足場は脆い岩の上に立っています。

実は石棺の周囲の瓦礫の撤去中に、エジプト人が信じられない発見をしました。重さ100トンほどもある王の石棺(玄室)の下に延びるトンネルがあったのです。発見されたトンネルは封鎖されていて、石棺(玄室)の下がどうなっているか分かりませんでした。石棺(玄室)は岩の上ではなく、石灰岩で出来た18本の足で支えられていました。(映像では玄室の長い方の一辺に5本の足が立っています。) そこで、不安定な足場を支えるために床(玄室)が補強されました。(玄室を形成する側面の石材と縦坑の間に)土嚢を敷き詰めて頑丈な土台を作り、天井(縦坑の上部開口部)に届く程の高い足場を組んだのです。

さて、階段ピラミッドの修復は新たな局面に入りました。玄室の天井(縦坑の上部開口部)に穴を開け、アンカーを挿入するのです。しかし、エジプト人技師たちは渋っています。振動が最も少ない最適なドリルを探さなければなりません。また天井(縦坑の上部開口部)にドリルで穴を開ける前に、天井(縦坑の上部開口部)にぶら下がっている不安定な石を固定しなければなりません。そのために石灰岩を練った新たなモルタルを使い、石を固定していきます。まず古いモルタルを剥がす必要があります。しかも玄室(縦坑)の隅に入るためエアバッグを移動させる必要がありました。なんとかしして古いモルタルを剥がすと、深さ1m、幅50cmほどの空間が広がりました。大量のモルタルが必要です。一番深い空間にはホースでモルタルを注入します。石が固定され、一安心です。

重要な発見もありました。玄室の天井(縦坑の上部開口部)の隅に穴があり、深さ6mにもわたって天井内部(階段ピラミッド内部)に延びています。この穴は崩壊によるものなのか? なにか特別な穴なのか? 別の部屋かどこかにつながる通路なのか? ギザの大ピラミッドにある通風口のようなものか? 丁度この穴も北向きです。階段ピラミッドが修復されれば、考古学者は多くの謎を調査出来ます。

外部では作業は日に日に高い場所へ移動していきます。内部では玄室のシャフト(縦坑の上部開口部)の修復が最大の局面を迎えました。壊滅的な崩壊を防ぐために、天井(縦坑の上部開口部)にスチール製のアンカーを挿入する計画です。しかし、エジプト側の最終承認がまだ取れていません。決断を迫られるエジプト人技師たち。ハッサン・ファハミー博士が「やろう。」と言いました。許可が下りたのです。最初のアンカーが打ち込まれるのは玄室(縦坑)の隅です。×印が付いています。いよいよ穴を開ける時が来ました。20年前にはこのような工事は考えられませんでした。上部にある木製の梁はモルタルで囲まれています。モルタルを剥がすことは認められません。考古学上重要だからです。エジプト人が振動の安全レベルを確認する計測器を付けました。作業開始。ドリルの正面に身体を据え、ドリルの先端がどう動いているのか想像しながら作業をします。突如ドリルが古いモルタルに当たり、硬い石を含むため、深刻な振動が発生しました。振動がピークに達し、ファハミー博士が中断を求めました。イギリス人技師たちはいつ撤収を命じられるかと心配しました。しかし、ファハミー博士は続行を決意し、作業再開です。ついに石を打ち砕きました。この日は思った以上に時間がかかり、アンカーを挿入出来なかったため、イギリス人技師たちは不安な夜を過ごしました。

実は古代に修復工事が行われた形跡が玄室(縦坑)の至る所に残っています。紀元前500年頃のエジプト人は玄室(縦坑)が崩れ始めていることに気づいていました。木材を挿入して石を支えています。その中に代わった板がありました。修復作業を進めるために、この板の撤去が求められました。瓦礫が取り除かれると、ヒエログリフの銘文が見えました。サリマ・イクラム女史は「第26王朝かそれ以降の棺です。ヒエログリフで書かれているのは死者のための葬祭テクストです。もちろんもっと詳しく調べる必要があります。」と言います。

翌朝アンカーを挿入する準備が始められました。挿入した最長5mのアンカーで緩んだ石を留め付け、天井(縦坑の上部開口部)の重さをピラミッド内部へ移動させて、崩壊を防ぎます。アンカーにはネットがかぶせられ、液状のグラウトが注入されます。このグラウトは天井(縦坑の上部開口部)の内部で隙間を埋めるように膨張して、石と石の間をつなぎ止めます。アンカーが挿入されるたびにイギリス人技師たちは安心しました。天井(縦坑の上部開口部)を補強するアンカーは全部で72本! 最初の2本が、工事が成功する鍵となるので、特に重要です。何世紀もの損傷を修復するのは時間との戦いです。グラウトの適温は17度。水温24度は、グラウトを練るには高すぎるので、氷を使って水の温度を下げます。長く放置しすぎるとグラウトは流れにくくなります。1本のアンカーが支えられる重さは8トン。穴に瓦礫がたまっていたり、アンカーのネットが破れたりする恐れがあるので、慎重に挿入されます。ついにグラウトが注入され、穴が埋まり始めます。ピラミッドを救う戦いは終わりが見えてきました。

イギリス人とエジプト人の技師たちがタッグを組んで5年。350立方mの瓦礫を撤去し、何千もの石を交換しました。塞ぎ、削り、アンカーを挿入しました。彼らは、傷跡を最小に抑えて、遺跡に手術を施しました。アンカーの挿入が終わり、エアバッグの空気を抜き、足場を撤去します。玄室の安全が数世紀にわたって確約されました! (すごい!) 崩壊から救われたことで、このピラミッドが秘める多くの謎が明らかになるはずです。

様々な困難を乗り越えて、階段ピラミッドを修復した技師たちや職人たちに賞讃あれ!

[追記1] 後で確認のためにマーク・レーナー著『図説 ピラミッド百科』を見たところ、石棺と説明されていたものは、玄室の天井でした! そこで、マーク・レーナー著『図説 ピラミッド百科』とK.H氏からのご教示を参考にしながら、番組の解説が間違っていると思われる箇所には( )内に正しいと思われる語句を記しました。読みにくくなったかもしれませんが、ご理解の程よろしくお願いいたします。

[追記2] 以下は、J. Ph. Lauer, Histoire monumentale des pyramides d'Égypte, I, Les pyramides à degrés (IIIe dynastie Ègyptienne), T.39, BdE, IFAO, Le Caire, 1962 に基づく記述です。

階段ピラミッドの縦坑は建設当時の地表面を垂直に28〜29mほど岩盤を掘削したもので、地表面の開口部は約7m20cm四方である。この開口部を塞ぐような形で、最初のマスタバ型上部構造が築かれたが、地表の開口部をどう塞いだのかは不明である。上部構造は二度拡大された後、階段状に増改築が行われた。すなわち、3基のマスタバと2基の階段型のマスタバを積み上げて、最終的に6段の階段ピラミッドとなった。Lauerの本の図12によると、開口部の周囲は高さ6m以上の石材構築物で囲まれ、地表面では南北に木製の梁が差し渡され、同様に南北の縦坑内部を支点(?)とする支柱2本で支えられている。K.H氏は、内部核材が崩落しないで済んでいるのは、石材を内側に持たせかける工法による構築材のせめぎあいのせいではないかと、推測する。

縦坑は、中央部では、南北約7m50cm、東西約7m、底面から上方約6mまでは「玄室」構築のため、東西・南北ともに約11mに拡張されている。

「玄室」の外観は長方形に近く、赤色花崗岩製である。長軸を南北において約5m強、東西は約4m、高さも約4mである。天井石は8枚(北側の栓が2枚分を占める)、東西南北の両側面は平重ねで計8枚、床石は10枚である。この「玄室」を花崗岩と思われる切り石で岩盤底部から約2m20〜30cmの高さにたち上げ、支えている。南北列で6箇所、東西側から見ると4列で、計24箇所のサポートである。

「玄室」の内部は、南北に約3m、東西に約1m80cm、高さも約1m80cmであり、北側に赤色花崗岩の「栓」が差し込まれているため、南北のスペースは約2m50cmになっている。栓の直径は約99cm、長さは約2m10cm、重さは約3.5トンと言われる。

J. Ph. Lauerの記述を教えて下さったK.H氏に深く感謝いたします。

サッカーラの階段ピラミッドについては、下記のURLもご覧下さい。

http://www.odysseyadventures.ca/articles/saqqara/saqqara_text02pyramid.html

http://emhotep.net/2013/01/23/em-hotep-digest/em-hotep-digest-vol-02-no-03-djosers-step-pyramid-complex/

http://www.touregypt.net/featurestories/dsteppyramid2.htm

http://xoomer.virgilio.it/francescoraf/hesyra/dyn3-Djoser.htm

2013年4月24日(水)

4月20日(土) 21:00〜22:00に4ch.で放送された「世界ふしぎ発見」に河江肖剰さんが出演されたので、2012年2月17日(金) 17:00〜17:37にNHK BS1で放送された「ほっと@アジア 金曜特集 古代エジプト学者 河江肖剰さん」の番組内容をここにまとめておきます。

この時点で紹介された河江肖剰さんのプロフィールは次の通り。1972年 兵庫県宝塚生まれ。ピラミッドの謎に憧れ、19歳でエジプトへ渡航。観光ガイドをしているうちに考古学を学びたいと思うようになった。26歳でカイロ・アメリカン大学へ入学。優秀な成績で表彰される。卒業後は国際考古学調査チームに参加。現在は(AERAの)プロジェクトマネージャーとして活躍。「未来へつなげられる布石を残したい。」そういう願いで人類最大の遺跡に取り組んでいる。(スタートは遅いが、生まれつき優秀なのだろう)

以下、インタビュー形式で河江さんが話された内容を述べる。

「ピラミッドの建設方法については、解明されていない謎が多々あるが、石材をどこからどのように切り出して、どのようにして運んだかについては、分かりつつある。」 エジプト考古学の範囲は広くて、三千年をカバーしているが、河江さんが調査しているのは紀元前2,650〜2,550年頃の時代で、ピラミッドを建造した人々がどんなところに住んで、何を食べて、どんな生活をしていたのかということを中心に調査している。特に、スフィンクスの南400〜500mのところで発見されたピラミッド・タウンという町の発掘を中心に行っている。クフ王のピラミッド建設当時の想像図が映され、ピラミッドの西の端から南北の傾斜路がのびており、さらに傾斜路はピラミッドの側面に沿って斜めに上昇していくように描かれている。ピラミッド・タウンはとても区画整理されていた。ピラミッドは2万〜3万の人々が建てたと言われているので、おそらく発掘しているのはその一部であって、さらに巨大な都市が今のギザの町の下にあるのではないかと考えられている。「カラスの壁」の前に発掘現場があり、ピラミッド・タウンの人口は、もし平屋だと二千人くらい、二階建てだと四千人くらいと推定される。

貴族や高官達の住むエリアにある邸宅の復元図が映され、次に地面よりも数cm高くなったベッド(やけに低いな。それともその上にベッドを置いたのかな?)に横たわってみせるエジプト人の写真が映される。ピラミッド・タウンの中心に位置するギャラリー(長屋)では40〜50人が寝ることが出来、王の衛兵達が住んでいたと考えられる。炭化した穀物や羊・牛など動物の骨が大量に発見されていることから、彼らは豊かな食生活を送っていたと思われる。貴族は柔らかい子牛の肉を食べていた。肉はナイル・アカシアの木の炭を使って炭火焼にして二日に一度は食べていた。水瓶や肉を入れる容器など洗練された土器も出土している。(ナイル・アカシアを使い尽くしたから、サハラの砂漠化が一気に進んだのかな?)

主食はパンで、エンマー小麦を使ってパンをやいていた。イタリア産のエンマー小麦が映される。エンマー小麦はグルテンが少ないため、ふわっと焼き上がらない。だから古代エジプト人はどっしりとしした重いパンを食べていた。パンの焼き方を描写した墓壁画が残されている。素焼きの壷を高温で熱し、その壷をひっくり返して、その中にパン種を流し込み、後はそれに蓋をするようにして蒸し焼きにする。ベーカリーコンサルタントの笠原明さん(元日清フーズの研究者)に当時のパンの再現に協力してもらう。発見された道具からパンの粉は粗挽きにして使われていたことが分かる。 そこで、エンマー小麦を粗挽きの全粒粉(ぜんりゅうふん)に挽いて使う。現材料はエンマー小麦、水、塩、ラード。さらにエンマー小麦の自然発酵種を加える。練り上がった生地をボウルに入れて一時発酵させる。2〜3時間30度のところへ入れる。パンを焼くために使われていた道具は円錐形の陶器なので、今回は素焼きの植木鉢を使う。植木鉢の内側に動物性の油を塗り、一時発酵した生地を丸めていれる。30度で3時間寝かせて二次発酵させる。パンを焼く方法は正確には分かっていないが、蒸し焼きのように長い時間かけて焼かれたのではないかと考えられている。今回は230度で一時間かけてゆっくりと焼き上げた。古代パンの完成! よく焦げて硬そうなパンが映される。形はスフレのようだが、どっしりと重い。河江さんが手で割ってちぎって食べる。現代の薄く切って食べるライ麦パンに似ている。ほんのり酸味があり、しっとりしている。癖がなくて食べやすい。

当時はピラミッドを中心に様々な物資が流入し、大量消費社会が形成されていた。魚や野菜も食べていた。ワインやビールもあった。豊かな生活だった。(ピラミッドの労働者達がものすごく優遇されていたことは確か)。

古代のゴミが現代の考古学者にとっては宝で、そこからいろんな情報が分かってくる。そこにある種のリアリティーを見ている。記録が古代の解明に役立つが、時間がかかる。写真を撮ったり、顕微鏡を見ながら記録したり、実測したり、記述をしたりする。記録のない考古学と発掘は一歩間違えると破壊になる。適切な記録を取りながら古代を再現していかなければならない。昔の考古学者達が残した記録は、ピラミッドに関しては50年くらい情報がアップデートされていない。いまだに50年前、100年前のデータを使っている。(それは意外。)

最新の技術でピラミッドのデータをアップデートするプロジェクトを行う。サッカーラの階段ピラミッドを持ち運びの出来る三次元計測装置と設置型計測装置を使って調査する。プロの登山家が羽根の部分に4つのスキャニングマシンのついた計測装置を背負って階段ピラミッドを上から下へ降りる。とったデータはその場で解析する。かつて線画でやっていたことが今やmm単位でデータをとることができる。この調査ではトラブル続出で大変だった。50度の炎天下だったので、機材自体が熱くなって動かなくなり、冷えピタを貼ってみたりした。他にも電源をどこからとってくるか、砂の対策などさまざまな問題があった。大量のデータ処理にも時間がかかった。データ収集自体は三週間で終わるが、データ解析には何ヶ月もかかった。高さ60mのピラミッドのデータを緻密にするというプロジェクトは世界初。出来上がった3D画像が映される。今までの線画とは比べ物にならない程のデータ量を含む。実証的にピラミッド建設に関する仮説を提示するのに役立つ。エジプト政府が3D画像の重要性を見て、独自のプロジェクトを始め、今は3D計測プロジェクトがいくつか行われている。

さらに現地の人々とのコラボレーションと教育を行っている。エジプト考古省の下に遺跡の査察官たちがいるが、彼らはエジプトの歴史の知識は持っているが、現場でどういうふうにして働くのかということを学ぶ機会が少なかった。そこで個別の専門家がそれぞれに計測の方法、発掘の方法などを教えるフィールドスクールを2005年から行っている。数百人がスクールを卒業し、エジプト各地へ行き、学んだことを生かして発掘作業をしている。(http://www.egyptologyforum.org/bbs/PENDING_AFT_brochure_halfpage.pdf)

AERAは毎年五カ月から半年間調査を行うが、大学・研究機関の関係があるので実際には一カ月しか調査出来ない。研究を進めていくには現地の人々が発掘調査を進めていくのが一番良い。エジプト人達の調査隊と外国人の調査隊が、技術力を切磋琢磨して、調査を行っていきたい。

エジプト革命後、不安定な社会の中では、ますますエジプト人達とのコラボレーションが重要になってくるだろう。考古省が落ち着かない場合には、外国隊が入っていったときにもなにか問題がある。そのときには現地の人々とコミュニケーションをしながら、いかにスムーズに発掘を進めていくのかが重要になってくる。エジプト文化省の下にあった考古局が考古省へ昇格したのは、遺物・遺跡保護の点で、よいことだった。

短い番組だったにもかかわらず、内容の濃い番組でした。

ついでに、TEDxKyoto 2012でスピーチをする河江さんの様子をYouTubeでご覧下さい。

http://www.youtube.com/watch?v=3xs-XWk_oQA

2013年4月27日(土)

4月20日(土) 21:00〜22:00に4ch.で「世界ふしぎ発見 ピラミッドに隠された古代の英知」が放送されました。「世界ふしぎ発見」を記録するのは今回が初めてです。

クフ王のピラミッドで使われている石の重さは平均2.5トン、石の長さは一辺が約1.5m、石の数は300万個と言われています。ピラミッドの高さは147mで、イギリスのリンカーン大聖堂(高さ160m)が1311年に建設されるまでは世界最高の建築物でした。クフ王のピラミッドはどうやって作られたのかはいまだに不明です。

今回は吉村作治氏ではなく、河江肖剰さんが解説して下さいます。河江さんは1972年生まれ。カイロ・アメリカン大学を卒業し、名古屋大学で博士号を取得。アメリカ人エジプト考古学者マーク・レーナー博士の下でピラミッド・タウンを発掘中。日本学術振興会特別研究員です。

「ピラミッドは何だと思いますか?」という竹内海南江さんの質問に次のように答えます。「ピラミッドというのはやはり王の墓だと思います。私たち現代人が思っているような墓よりも、様々な意味があったと思います。例えば、クフ王のピラミッドは世界が生まれた最初の場所、もっと言えば宇宙の中心であると、古代エジプト人は考えていたと思います。」

ピラミッドは一辺が230mの四角錐だと思われていたが、近年不思議な現象で、四角錐ではなく八面体だったことが明らかになった。(見ていないけど、2012年に公開された『ピラミッド 5000年の嘘』という映画の中でそう言われている)。春分・秋分の朝気象条件の良いときに、ほんの数秒だけ見ることの出来る現象で、真東から昇る太陽が作る影によってピラミッドの一つの面は真ん中でくぼんで見え、二つに分けられることが分かった。これはピラミッドの新たな謎です。

[追記] クフ王のピラミッドの面の中央部を少しくぼませる工法はダハシュールにあるスネフェル王(クフ王の父)の赤のピラミッドにすでに見られる工法で、水平に積まれた石材が外へ崩れていかないようにするための工夫です。

またフランスに古代エジプト最大の謎ピラミッドを解明する新しい学説が登場しました。建築家のジャン・ピエール・ウーダン氏の「ピラミッド内部螺旋階段説」です。それによると、ピラミッドの内部には広大な未知の空間があり、それは螺旋状の回廊になっている。まさにそこを使って、ピラミッドは造られた。」といいます。そこで河江さんがその説を検証するため、特別な許可をいただいてピラミッドに登ることになりました。実はピラミッドの登頂は1983年以来禁止されています。この企画は2年前のもので、エジプト革命が起きたために中断していましたが、今回再開となったのです。

クフ王のラミッドに使われていた石のほとんどを切り出していた石切り場があります。石切り場には碑文のある墓が並んでいます。それらの墓はカフラー王の時代のものです。河江さんは「カフラー王の時代に既に石灰岩がここまで切り出されているということは、それ以前の王がここを石切り場にしていたということです。これだけの石を必要とするのはクフ王しかいないので、ここがクフ王の石切り場であると分かります。」と解説します。

「石はここからピラミッドまでどうやって運んだのですか?」という竹内さんの質問には次のように答えます。「マーク・レーナー博士は石切り場から長い傾斜路を用いてピラミッドの高さの3分の1まで石を運んだと考えています。上まで行くには、ここからだと傾斜角度が高すぎるので、その後は螺旋形の傾斜路をピラミツドの外側に造って、てっぺんまで石を運びました。」 つまり外部螺旋傾斜路説です。(この番組で写された想像図では傾斜路はピラミッドの西の端からではなく、南側の中央から伸びています)。ウーダン氏もピラミッドの高さ3分の1までは同じように直線の長い傾斜路で石を運ぶが、その後は内側の螺旋傾斜路で運んだと考えています。(詳しくは「西村洋子の雑記帳(7)」 2009年7月5日(日)の記事をご覧下さい)。

ウーダン氏は次のように語ります。「実はそれを最初に考えたのは父でした。でも自分だったらどうやってピラミッドを造るかを考えているうちに、この方法しかないと確信したのです。」 1. ピラミッドの内部の傾斜路を使って、石を運び上げる。2. 角で滑車のようなものを使って石を方向転換させ、さらに上へひっぱり上げていく。その方向転換の場所が今でも残っています。ウーダン氏が自分の説に自信を深めたのが、ピラミッドの面にうっすらと見える白い筋でした。その筋を辿っていくと、角にあるくぼみに行き着きます。ここは内部傾斜路説にとって重要な場所で、石を90度回転させた場所の名残だそうです。その場所はピラミッド北東の角にあります。

河江さん、カメラマン、コーディネーターの3人がくぼみに登る許可を得ました。河江さんは登る途中で地上にいる竹内海南江さんに手を振ります。そして「ピラミッド建設の労働者達はここまで石を運んだので、こう言った景観を見ることが出来たのでしょうね。」とつぶやきます。くぼみまで15分で到着。地上からおよそ100mのポイントです(104段目、地上から87mではなかったのか?)。くぼみを計測すると、5.5m×4.4mでした。河江さんは「石を方向転換させるにはちょっと狭くて難しいのでは...。」と言います。ここからさらにピラミッド内部へ入る穴があります。内部の空間は東西2.9m×南北3.3m(5畳程の広さ)です。河江さんは空間内部を照らしながら、「ウーダンさんの内部回廊がここにあるとすれば、南側か西側に向かってそういう回廊があるはずですが、どちらも石が完全にはまってしまっているので、石の組み合わせから見ると、これが後から塞いだ跡にはとても見えない。」と言います。河江さんが降りてくるのはわずか7分でした。そして「くぼみの中の空間は、小さい石を砂利みたいにはめ込んだり、モルタル(石灰と砂を水で混ぜ合わせたもの)で補強していたり、古代の落書きがあったりして、非常に人間臭い。時間を節約しながら、ピラミッドを造ろうとした跡が見られて、面白い。」と感想を述べました。確かに、ウーダン氏の石を整然と積み上げたという説は苦しくなります。ただ、フランスの重力測定調査(1986〜1987年)の結果、ピラミッド内に螺旋状の空間があるらしいとされ、ウーダン氏の説を完全に否定することは出来ません。

[追記] クフ王の内部にところどころ空所があり、良質の砂が詰め込まれているらしいことは、今までの研究から分かってきたことですが、これは免震装置の効果をもたらします。つまり、クフ王のピラミッドは300万個の石材からなるわけではありません。

問1. クフ王のピラミッドの名前はクフ王の何か?  選択肢1. クフ王の太陽、2. クフ王の地平線、3. クフ王の大河。正解は2で、河江さんが「アケト・クフ(クフ王の地平線の意)です。アケトとは「地平線、光り輝く場所」という意味で、夕方太陽が地平線に沈みゆき、辺りが淡く光り輝く。それがアケト・クフ、クフ王の地平線です。クフ王はそこで霊的な存在になると信じられていました。」と解説しました。(私は、J. P. アレン氏のピラミッド・テクストの解説から、死者がアク(霊)になるのは真夜中の12時だと思っていました。ピラミッド・テクストが登場するまでにアケトの概念が変ったのでしょうか?)

次にピラミッド内部の大回廊と呼ばれる大きな空間を目指します。この空間は宗教的な理由から必要とされたのでしょうか? それとも機能的な理由からでしょうか? 河江さんと竹内さんは大回廊から重量軽減の間に登りました。第一の部屋には至る所にヨーロッパ人の落書きがあります。次に発見したイギリス人がダイナマイトで無理やり開けた穴を通って第二の部屋へ上がりました。玄室の上には1つ37〜58トンの石が梁として張り巡らされています。第三の部屋には古代の石工達が石を切り出したときに書いた落書き(労働班の名前)が残されています。第四の部屋にも古代の落書き(労働班の名前)が残っています。クフ王のホルス名メジェドゥが見られます。アペル(Aa20)が労働班を表します。労働班が競うようにしてピラミッドを造ったことがうかがえます。第五の部屋には「クフ王は輝く」という労働班の名前が残っています。このような落書きは名古屋城の石垣に残る大名達の刻紋と同様です。重量軽減の間は玄室にかかる重量を拡散させるために作られ、天井は切妻式になっています。櫓状に五層になっているのは、重量が大回廊にかかるのを避けるためです。重量軽減の間に飛び込んでくるコウモリたちはどこから入ってきたのでしょうか? 秘密の空間からでしょうか?

玄室の壁はきれいに加工されています。玄室に使われている大きな石と重量軽減の間に使われている大きな石は一体どうやって運んだのでしょうか? ウーダン氏はそのために大回廊が使われたと考えます。「どうやって石を運んだのかを考えていたときに、エッフェル塔のエレベーターの釣合いおもりのシステムを思いついたのです。片側でものをひっぱりあげて、反対側におもりをつける。すると小さな力ですごく重い石を引き上げることが出来ます。つまり、大回廊で大きなおもりを付けた台車を走らせたのです。600人必要だった人間が180人ですむことになります。そうやってあの数十トンという石を運びあげたのです。」 大回廊には削られた跡があります。これは台車がここを通ったときに出来たものだとウーダン氏は言います。足元のシミみたいなものは台車に使う潤滑油の跡だと言います。河江さんは「ウーダンさんの、大回廊には機能的な目的があったという考えは面白いと思います。大回廊の天井は蓋をしたように石が積み重なっています。その天井が釣合いおもりのシステムのために開いていて、最終的にシステムを使い終わった後、蓋をしたという指摘は面白いと思います。」と言います。しかし、果たしてそれを可能にする技術力があったのでしょうか?

問2. ヒエログリフ・サインU31で表される職人の仕事は何か? 正解はパン焼き。(私は以前これはペセシュケフ・ナイフ、すなわちへその緒を切るナイフだという説を何かで読んだことがある。再生復活は来世に生まれ変わることだから、ペセシュケフ・ナイフが副葬品として必要だったという説明に納得していたのですが、違うのかな?)

近年ピラミッドのそばに技術者集団の町、ピラミッド・タウンがあったことが明らかになりました。長屋みたいな住居がいくつもあって、労働者達が二千人あるいは二階建てなら四千人が寝泊まりしていて、ここから出て、カラスの壁の穴を通って、ピラミッド建設に向かいました。貴族や高官達の大きな邸宅跡も見つかっています。労働者達は羊や山羊の肉も食べていましたが、貴族や高官達は二歳以下の子牛の柔らかい肉を食べていました。パン焼きの土器がたくさん出土しており、パン釜以前のパンの作り方を再現する様子を写した写真が数枚映されました。土器は使い捨てで、一回使ったら壊されました。固形燃料は牛糞ではなく、99.9%以上ナイル・アカシアの炭でした。

玄武岩・花崗岩という硬い石を切りかけた跡や完全な円筒の穴が残っている。カイロ・エジプト博物館へ行くと、ピラミッド時代の道具が展示されています。造られたものとのギャップがありすぎる単純なものばかりです。硬い石は銅の鋸に砂をかけながら少しずつ切っていく。ものすごく時間がかかり、クフ王の石棺は28,000時間(三人一組で行って8年。通常五組で一年半)かけて作られた。河江さんは次のように言います。「実際王の遺体が石棺の中にいれられていたと思います。盗掘されたと考えるのが自然だと思います。石棺の縁には穴があって、蓋がスライド式にはまって開かなくなるようになっているので、おそらくもともとは蓋があったのだと思います。盗掘されたとき、壊されたんでしょうね。」(石棺の縁に穴が開いているなんて知らなかったよ)。

以上のような発見から、ピラミッドの建造方法はもう一度見直されなければなりません。

問3. クフ王が労働者のために作った世界最古の施設とは何か? 正解はダム。河江さんは次のように説明します。「鉄砲水によって破壊されてしまい、今は一部しか残っていませんが、世界最古のダムだと言われています。ここから砂漠の方へ7km程行ったところに採石場がありましたが、そこで働く人々の飲料水を確保するために造られました。」 ダムの大きさは高さ14m、長さ113m、幅98mです。(それは初耳!)

発掘現場を知り尽くした人ならではの知識と情報が満載の番組でした。

2013年8月6日(火)

8月3日(土) 21:00〜22:00に4ch.で「世界ふしぎ発見 エジプト スフィンクスの謎 ついに解明!」が放送されました。河江肖剰さんが「世界ふしぎ発見」に登場するのは今回が2回目です。(意外に早い登場だなあ)

河江さんはギザの大スフィンクスを「謎だらけになってしまった遺物」と言います。スフィンクスという名前はギリシア語のスピンクス(スフィンクスの影響で生まれたギリシアの怪獣)に由来し、大スフィンクスが造られた当時の名前は不明です。スフィンクスの影響はイラク、インド、中国、沖縄のシーサー、日本の狛犬など世界中に広まりました。

河江さんとミステリーハンターの竹内さんはまずカフラー王の河岸神殿の前に行きました。河岸神殿の前方には船着き場があり、河岸神殿のすぐ前には簡易式のテントが建てられ、そこでカフラー王の遺体がミイラにされました。その後70日間(当時の記録によると、カフラー王の妻メルエスアンクの場合272日間)河岸神殿にミイラが安置されました。河岸神殿にはカフラー王のミイラを守るかのようにカフラー王の座像群が並んで配置されていました。このように河岸神殿は「死の神殿」です。

スフィンクス神殿は大スフィンクスとほぼ同時に造られたことが分かっています。太陽の再生や創造と深く関わる「生の神殿」です。東西に二本ずつ大きな柱が建っていて、両者を結ぶ線がスフィンクス神殿の中心になります。東西の二本の柱の上に天空の女神ヌートが頭を西に、足を東にして、スフィンクス神殿を覆うようにかぶさっています。スフィンクス神殿の中心軸は春分・秋分の太陽の動きに一致し、大スフィンクスとカフラー王の真横を通って太陽が沈み、また昇ってくるのです。このように太陽の再生と復活の動きにあわせて造られているのがスフィンクス神殿です。

河江さんは「大スフィンクスは下から眺めるもの」と言います。大スフィンクスの全長73m、幅は尻の部分で19m、高さ20m、世界最古の巨大な石像です。大スフィンクスは岩盤を削るようにして造られました。両脚等に見られる石積みは新王国時代からローマ時代に行われた修復の跡です。古王国時代が終わると大スフィンクスは砂に埋もれてしまったので、一体何のために造られたものなのかその名前すら分からなくなってしまいました。新王国第十八王朝トトメス4世(ツタンカーメン王の曾祖父)が大スフィンクスを掘り起こし、夢のステラを建立しました。トトメス4世は大スフィンクスを掘り起こしたために王になることが出来たと言われています。この時から大スフィンクスは願いをかなえてくれるものとして信仰を集めました。夢のステラでは大スフィンクスはホルエムアケトと記されています。(番組の映像ではアケトの部分しかハイライトが当てられていませんでした) また新王国時代大スフィンクスは着色されていました。頬やネメス頭巾に赤茶色や青色がかすかに残っています。(番組ではネメス頭巾がメネス冠と表示されていました)

ところで夢のステラでは大スフィンクスは厨子のような台の上に安置されているように彫られています。このため大スフィンクスの下に謎の空間があると信じられ、19世紀以降宝探しの対象となりました。ハワード・ヴァイスが宝探しのため無理矢理大スフィンクスのお尻に、尻尾の付け根の左側に穴を開けました。河江さんが中に入ってみると、すぐ下が行き止まりになっていて、大スフィンクスの内部にも、つまり上方にも、穴が開けられました。今は崩れないように何本もの木の棒で支えられています。1925年から36年まで行われたエミール・バレーズの発掘も宝探しが目的だったので、報告書は作成されませんでした。しかし、新王国に造られた大スフィンクスの祭壇に下りる階段やツタンカーメン王の別荘などがあったことが写真から分かっています。

問1. スフィンクス詣でをした新王国の王たちがギザで行っていたレジャーとは何か? 正解は狩り。当時ギザは「ガゼルの谷」と呼ばれていたそうです。

さて、大スフィンクスを造ったのは誰でしょう? 参道が大スフィンクスを避けて斜めに伸びていることから、大スフィンクスはカフラー王以前に造られたと主張しているフランス人の学者がいます。カフラー王の兄ジェドエフラー王はアブ・ラワシュにピラミッドを建てました。今は土台部分しか残っていませんが、ピラミッドを覆っていた化粧板がたくさん発見されているので、おそらく完成していたと思われます。ローマ時代、イスラム時代に大量の石材がはぎ取られて再利用されたのです。完成時ジェドエフラー王のピラミッドはメンカウラー王のピラミッドと同じくらいの大きさがありました。高さは60m以上だったでしょう。ジェドエフラー王は太陽信仰をさらに強めようとしました。そして王名にラーが組み込まれるようになります。(「西村洋子の雑記帳(5)」 2008年9月28日の記事をご覧下さい)

アブ・ラワシュからは最古のスフィンクスが発見されています。ルーヴル美術館にあるジェドエフラー王頭部はスフィンクスの頭部だったと考えられています。彼の妻ヘテプヘレス2世のスフィンクスも完全な形で発見されています。そのためジェドエフラー王がギザの大スフィンクスを造ったと考える学者がいます。

ヘテプヘレス2世のスフィンクス(カイロ・エジプト博物館所蔵)については、下記のURLをご覧下さい。

http://en.wikipedia.org/wiki/File:Sphinx_of_Hetepheres_II_-_fourth_dynasty_of_Egypt.jpg

しかし、河江さんはカフラー王が大スフインクスを造ったと考えます。河江さんの説明によると、カフラー王の治世晩年に河岸神殿の周壁の北側が破壊されて、その右隣にスフィンクス神殿が造られ、さらにその背後に大スフィンクスが造られたそうです。(大スフィンクスが造られた後にスフィンクス神殿が造られたんじゃないんだ)

[追記]ギザがかつて「ガゼルの谷」と呼ばれていたとは初耳だったので、トトメス4世の夢のステラの碑文を確認したところ、一般に「ガゼルの谷」と訳されている箇所にはawt xAst「砂漠の野生動物(アンテロープ、ガゼル、アイベックスなど)」と記されており、地名ではなく狩りの対象として記されていることが分かりました。従ってギザが「ガゼルの谷」と呼ばれていたというのは間違いです。

問2. 大スフィンクスを表す漢字「獅身(?)」は何か? 正解は「女」。夏目漱石が『虞美人草』の中でスフィンクスを「獅身女」と書いています。おそらくギリシアのスピンクスが女だったため、夏目漱石もギザの大スフィンクスを女だと思ったのでしょう。ちなみに同小説ではピラミッドは「稜錐塔」と書かれています。

それでは、大スフィンクス建造に秘められた野望とは何だったのでしょう? カイロ・エジプト博物館には新王国時代の大スフィンクスのひげの断片が展示されています。それは編み込みで、先端が丸くなっている神がつけるタイプのひげです。夢のステラのスフィンクスにも長いひげが彫られています。これは大スフィンクスが神である証しです。ではなぜ大スフィンクスは身体がライオンなのでしょう? 河江さんと竹内さんはウナス王のピラミッドに入りました。前室には王が再生復活するための呪文、ピラミッド・テクストが彫られています。前室東壁にアトゥム神のヒエログリフと一緒に一対のライオンが彫られています。(音訳するとJtmw Hna rwtyで、一対のライオンはアトゥム神の双子の子どもたち、すなわちシュー神とテフヌート女神です。ヒエログリフはK. Sethe, Die Altaegyptischen Pyramidentexte, Leipzig, 1908, Bd. 1, Seite 232, Spruch 301 §447をご覧下さい。英訳はJ. P. Allen, The Ancient Egyptian Pyramid Texts, p. 55をご覧下さい) ライオンは後に太陽神そのものになりました。夏至の日太陽は二つのピラミッドの真ん中に沈みます。この光景こそがホルエムアケト「地平線の太陽」です。河江さんは次のように言いました。「カフラー王はこの光景を永遠に残すべく二つのピラミッドの真ん中に大スフィンクスを建て、再生復活を表しました。大スフィンクスは太陽そのものです。」 (この番組放送時に河江さんが視聴者からの質問にツイッターで答えておられましたが、ライオンのスフィンクスはアトゥム神なのだそうです。河江さんは、ギザを世界が最初に創造され、その出来事が繰り返し行われた場所と考えているので、創造神アトゥムが現れるのにふさわしいと考えたのかもしれません。)

問3. ウナス王の前室の天井に描かれた海の生物とは? 正解はヒトデ。これは近藤二郎氏が『わかってきた星座神話の起源 エジプト・ナイルの星座』(誠文堂新光社、2010年)、60ページで述べられている説ですが、紅海のヒトデが空の星として描かれているそうです。竹内さんは紅海のヒトデが売られている店に入りました。出てきたのは人の頭ほどもある大きなヒトデです! ヒトデは何のために売られているのでしょう? 店主のハッサン・メトワリさんは「(それを)ドアにかけておくと、運が良くなるんだ。」と言います。(本当かしら?)

河江さんがギザでの発掘を通じて大スフィンクスをどのように考えているのかを知ることが出来て、良かったです。ちなみに、マーク・レーナー博士が建造時の大スフィンクスの役割についてどのように考えているかについては、「西村洋子の雑記帳(10)」 2010年9月21日の記事をご覧下さい。

ギザの大スフィンクスについては、私の講演「ギザ台地の歴史とスフィンクス信仰」もご覧下さい。

http://www.geocities.jp/kmt_yoko/SeiryoLecture2011.2.27.html

[追記]問3の星のヒエログリフ・サイン=ヒトデ(☆の起源)について。

Peter Kaplony, Die Inschriften der Ägyptischen Frühzeit, 3. Bd., Wiesbaden, 1963に初期王朝時代の封泥が掲載されています。あいにく写真ではありませんが、星のヒエログリフ・サイン(N14)が7つ確認されました。第一王朝アネジュイブ王と第二王朝ヘテプセヘムウィ王、ハーセヘムウィ王のものです。アネジュイブ王の封泥の図205では☆の形で、図278は中央の丸から5つの突起がある形で、図300Aでは中央の丸はなく5つの突起で(つまり、N14の形で)現れます。ヘテプセヘムウィ王の封泥の図281では☆の形で、図307では☆の形で、ハーセヘムウィ王の封泥の図291では☆の形で、ハーセヘムウィ王の封泥の図303では☆の形で現れます。だから星のヒエログリフ・サインはヒトデを象ったものであり、☆の起源であると言えるのではないでしょうか? たぶん古代エジプト人は統一王朝成立以前から東部砂漠を通って紅海沿岸にしばしば行き、ヒトデをよく目にしていたのでしょう。そして煌めく星を表すのに、その形を借りて表したのでしょう。ただし、ウナス王の玄室や通路などの天井に星を表すものとしてヒトデが彫られたのは、単に星が煌めく様に似たその形を借りただけであって、古代エジプト人が天空にヒトデがたくさんいると考えていたわけではありません。

2013年9月2日(月)

8月31日(土) 19:00〜19:45にNHK Eテレ「地球ドラマチック」で「ヘラクレイオン 海底に沈んだ古代エジプトの都市」(2012年、ドイツ制作)が放送されました。ヘラクレイオンの発見については、2001年6月8日の読売新聞、2003年12月9日のディスカバリーチャンネル、2009年の「海のエジプト展」とそれに関連するTBSの番組で何度も紹介されてきたので、あれから何か新しいことでも分かったのだろうかと思いながら、見ていました。

アブキール湾には二千年前に島が点在し、かつてそこには伝説の都市ヘラクレイオンとトーニスがあったと考えられています。というのは、古代ギリシアの歴史家たちが残した文献(ストラボンの『地理誌』やヘロドトス『歴史』第二巻113章以外にどんな文献があるのかな?)に言及があるからです。現在アブキール湾には海しかないので、何かあるとすれば海の下にあるということです。オックスフォード大学考古学研究所のバリー・カンリフ教授(考古学の世界的権威)によると、「多くの歴史家が港町について書き、手がかりを残しているものの、どこにあったかなど、詳しいことは誰にも分かっていなかった。」そうです。二千年前のナイル川の河口の様子を伝える数少ない史料の一つ、ナイル・モザイク(イタリア・パレストリーナ市、http://www.mmdtkw.org/AU0106dNileMosaic.jpg)には、日常生活の様子、神殿、船が描かれていますが、このような絵には現実と想像が入り混じることがあるので、事実を描写したものかどうか分かりません。フランスの海洋考古学者フランク・ゴディオ氏は30年前にこの話を聞き、伝説の都市の確かな証拠、すなわち遺跡を見つけることにしました。

古代の歴史書にあるヘラクレイオンのことだと思われる港町についての記述はごくわずか。しかもヘラクレイオンとトーニスの話が混在しており、分からないことだらけです。文献に残る町は紀元前500年頃最盛期を迎えたと考えられています。港町は現在の海岸線からそう遠くないところにあったでしょう。オックスフォード大学考古学研究所のアンドリュー・ウイルソン教授(古代の海上交易の専門家)は「エジプトとギリシア世界との間にはどんな交流があったのか、海上交易の重要性や規模については分かっていません。専門家の間では、エジプトの海上交易はさほど重要ではなかったと考えられています。古代の歴史書では交易については余り触れられていないからです。また考古学者の研究課題が美術や建築に偏っていて、余り研究が進んでいないのも一因です。」と語ります。古代エジプトでは本当に交易は盛んではなかったのでしょうか? それとも記録に残されなかっただけなのでしょうか?

ゴディオ氏はパリで計画を始めました。彼は元々数学者・統計学者でした。海に沈んだ都市の探査ではその経歴が生かされることになります。彼は36歳の時人生を変えたい、何か価値のあることをしたいと考え、考古学に対する情熱と海に対する愛着から海洋考古学に関するあらゆることを学ぼうとしました。そんな時偶然エジプトの海岸沖に沈む伝説の都市に関する噂を耳にしたのです。ゴディオ氏は発見したものはすべてエジプトに渡すという約束をして、アブキール湾に調査隊を送る許可を得ました。調査範囲はおよそ150平方km。これまでに例のない大プロジェクトです。ゴディオ氏はまず自分には必要とされる能力があることを証明しなければなりませんでした。そうすれば専門家たちも真剣に受けとめてくれるからです。(この苦労はひしひしと分かる) 彼は数学的に考えて、都市があった場所を推定しようとしました。そしてそれまでの海洋考古学の探査には使われたことのない電磁気を使いました。これは当時画期的なことでした。またフランス原子力庁の許可を得て、核磁気共鳴する特殊な磁気探知機を開発しました。探査には何年もかかりましたが、地道な方法は着実に成果をもたらしました。

ゴディオ氏はすべてのデータをコンピューターに入力し、海底の様子を視覚化しました。するといくつか強い磁気信号を示す箇所が現れました。アブキール湾のどこを探すか目星を付けたゴディオ氏はついに海中の探索を開始しました。ダイバーのチームが海に潜ると、都市の排水やナイル川から運ばれてきた泥のため、水中がひどく濁っていて、1m先がやっと見える程度でした。チームは何も発見出来ないまま何度も船に戻りました。ゴディオ氏は磁気信号が強かった場所にダイバーを向かわせるためにずっとパソコンの前に座っていました。ダイバーたちはついに一続きの石の壁を発見しました。そこで最初の発掘に取りかかりました。発掘といっても表面をさらうくらいのものでしたが、そうして大きな石灰岩で出来た壁を発見しました。石灰岩はなめらかで、海底にきちんと並んでいました。壁の位置はあらかじめ計測していたデータと一致していました。ゴディオ氏の作戦は成功したのです! ゴディオ氏はこう語ります。「事前探査で150mに及ぶ長い磁力線が見つかりました。一体何に反応しているのか探ろうと思いました。磁力線の丁度まん中に当たる部分を掘ったら、石灰岩で出来た壁が見つかりました。東側にも西側にも75mにわたって伸びていました。150mの磁力線は石灰岩の壁でした。さらに北側にもこれに平行して同じ長さの壁を発見しました。最終的にこの壁は巨大な建物を囲んでいたことが分かりました。次の疑問はこの建物は何だったのかということです。」

ゴディオ氏はヘラクレイオンを発見したと確信していましたが、まだ確かな証拠は得られていませんでした。そこで、学術的な支援を受けるため、オックスフォード大学考古学研究所の研究者たちの協力を仰ぐことにしました。カンリフ教授とウイルソン教授はゴディオ氏の話を聞いて衝撃を受けました。海中に遺跡があるとは思わなかったからです。発掘チームはさらに探索を行うことにしました。ダイバーの他に考古学者や技術者、修復家、エジプト学者も同行しました。発掘チームは濁った水の中でどこを探索したかが分かるように針のような棒を地中に突き刺します。何か見つかったらまず何mも積もった泥や堆積物を吸い出さなければなりません。発掘チームは壁の近くで巨大なナオスを発見しました。赤色花崗岩製で、保存状態は良好です。刻まれていた碑文から、アメン・ゲレブ神(聞いたことがない。ゲレブとはどういう意味かな?)の像が祀られていたことが分かりました。アメン・ゲレブ神殿はヘラクレイオンにあったことが知られているので、発見された建物はアメン・ゲレブ神殿だったことが分かりました。さらに神殿にあった三体の巨像(それぞれ王、女王、ハピ神の像)を発見しました。それらはいくつかに割れていましたが、ほぼ原形をとどめていました。発掘チームはそれらを海中でまっすぐに立て直し、付着物を取り除いてから、引き上げました。ゴディオ氏はこう語ります。「150mに及ぶ建物はアメン・ゲレブ神殿でした。西側に入口があり、巨大な石像が建っていました。新しい王はこのような神殿で称号と権力を授かりました。とても重要な神殿です。」(クレオパトラがこの神殿で称号と権力を授かったらしいが、何世のクレオパトラだろうか?) ダイバーたちは他にもオシリス神が横たえられる石の桶を見つけました。ヘラクレイオンが宗教的に重要な場所だったことが分かります。しかし、それ以外の存在意義はあったのでしょうか? カンリフ教授は「ヘラクレイオンは、エジプトと地中海の国々との関係において、とても重要な場所です。水中に沈んでいたため、見事な状態で保存されています。もし陸地にあったなら、他の建物の下敷きになり、失われていたでしょう。」と語ります。

[注記] 「海のエジプト展」図録、127頁にエジプト学者ジャン・ヨヨッテ氏によるアメン・ゲレブ神の解説があります。アメン神は王権の委譲に関わるゲレブ書類が入った筒メケスを新しい王に授ける神だったそうです。

神殿の周辺からは石の錨も発見されています。石の錨は小さな船には使われません。長い航海に耐えられる大きな船がここに停泊していたことが分かります。発見された錨は数百にものぼります。ゴディオ氏が発見された場所をコンピューターに入力すると、町の輪郭が徐々に現れてきました。錨は主に神殿の北側で見つかりました。発見された場所を表示すると一本の線になりました。線に沿って発掘すると、そこは古代の運河だったことが分かりました。幅はおよそ30mあります。西側にも同じように運河が続いていました。運河は数百mにわたって続いていたと考えられます。古代の運河に沿って調査を続けた結果、古代の木造船(!)が発見されました。たくさんの船の残骸が一カ所に集まって見つかりました。運河の東側でたくさんの錨が見つかりました。錨の間にはいくつもの船の残骸がありました。おそらく波止場があったのでしょう。ウイルソン教授は次のように語ります。「最終的に発見された船の数は60隻以上。おかげで古代の船の建造技術について多くの情報が得られました。船は小さな木片をほぞでつないで組み立てられていました。ヘロドトスが歴史書の中に記していた非常に特徴的な船とはこれだったのか!と長年の疑問が解決して嬉しかったよ。発見されたのが、ナイル川の小さな川舟ではなく、航海用の船だったということが重要です。多くの書物において、地中海交易で活躍したのは、エジプト人ではなくギリシア人とフェニキア人だと記されています。しかし、航海用の船がヘラクレイオンでたくさん発見されたということは、エジプト人も交易に多いに関わっていたということかもしれません。」(発見された船の数はウェンアメンの物語で述べられているビブロスとシドンの船の数よりも多いですね) この発見は活発な交易の様子を描いたナイル・モザイクの信憑性を高めることにもなりました。ゴディオ氏はこう語ります。「神殿の南東でも新たに大量の船の残骸が発見されました。65隻以上が眠っていると見られます。ここにも波止場があったのでしょう。こうした発見によってかつての町の姿が明らかになってきました。エジプトの玄関口であり、地中海への入口でもあったヘラクレイオンでは活発な交易が行われていたのです。」

ゴディオ氏は次に鉢や壷といった焼き物に注目することにしました。船がどこから来て、何を運んでいたのか、地中海周辺の国々とエジプトとの間でどれだけ活発に交易が行われていたのか、を知る手がかりになるかもしれません。古代の土器や陶器の専門家、カトリーヌ・グラタルー女史は次のように語ります。「過去に地震があったにもかかわらず、遺物はどれも驚く程よい状態で保存されています。ヘラクレイオンは地中海全域と交易していました。中でも焼き物は重要な交易品だったと考えられます。海底からギリシアの島々で作られた多くの焼き物が見つかりました。アンフォラがありました。どれもサモス島やレスボス島など地中海東部の島々からもたらされたものです。様々なタイプのアンフォラはヘラクレイオンの交易が順調だったことを証明しています。」 交易によってもたらされた焼き物は、ヘラクレイオンが様々な文化が行き交う国際都市だったことを、物語っています。

ヘラクレイオンに暮らしていたエジプト人やギリシア人の生活はどのようなものだったのでしょうか? 儀式に使われたと思われる品々や日用品、彫像用の小さな王冠等から、豊かで華やかな暮らしが偲ばれます。ゴディオ氏は「歴史書の何頁かは書き直す必要が出てくるでしょう。裕福な人々のために輸入された物もあれば、地元で作られたものもありました。またギリシア語が刻まれたエジプトの品もあれば、ヒエログリフが書かれたギリシアの品もあります。ギリシア文化とエジプト文化の交流が非常に盛んだった証拠です。」と語ります。カンリフ教授は「ヘラクレイオンでは、すべてのものが手つかずで、美しく保存され、まだ使える状態にあります。技術と技能と人手があれば、学べることは無限にあります。ヘラクレイオンは考古学者の夢です。」と語ります。

海岸から7km沖合でライオンを象った金細工の耳飾りが発見されました。おしゃれのための装身具だったかもしれない一方で、金細工の多くは神を讃えて海に投げ込まれた捧げものだった可能性もあります。というのは、ヘラクレイオンには聖地だったと思われる場所がいくつもあるからです。ゴディオ氏は町の地図を念入りに書き直しました。「さらに多くの神殿が見つかりました。例えば、町の北東には石灰岩製の小さくて美しい神殿がありました。学問の神(イムヘテプかな?)を祀っていたようです。こうした神殿がいくつもあるということは、アレクサンドロス大王が交易の拠点をアレクサンドリアに移した後も、レラクレイオンが宗教的重要性を持ち続けたということかもしれません。」 アレクサンドロス大王が新しい港町アレクサンドリアを建設したのは紀元前331年。神殿の周辺で発見された金細工はアレクサンドリアが建設された後の時代のものでした。ヘラクレイオンは宗教の拠点として残ったのです。

ヘラクレイオンの場所は分かりました。ではトーニスはどこにあったのでしょうか? ダイバーたちは高さ2m、幅1mの黒色花崗岩(閃緑岩)製の石碑を発見しました。2500年間海に沈んでいたとは思えないほど保存状態は良好でした。石碑には外国の交易船はすべての商品について70%の関税を支払わなければならないというエジプト王(第30王朝ネクタネボ1世)の勅令が刻まれていました。さらに石碑には「トーニスの町にこの石碑を建てるように命ずる。」と刻まれていました。エジプト人がここをトーニスと呼んでいるということは、トーニスとヘラクレイオンが一つの同じ町だったということを意味し、石碑はその決定的な証拠です。(「海のエジプト展」図録、158頁にあるジャン・ヨヨッテ氏の解説によると、ヘラクレイオン-トーニスの古代エジプト名はホーネだそうです)

ゴディオ氏は発見された多くの遺物を基に、ヘラクレイオンの地図を作り上げました。ヘラクレイオンが再び地上に甦りました。ゴディオ氏は次のように語ります。「大小の神殿、運河、波止場、船があります。もちろん住宅地もあったでしょう。目安は交易のための品々が出てこない地域です。当時の家は泥や植物で出来ていました。そのような素材は消えてなくなってしまうため、後には日用品しか残らないのです。住宅地は神殿の周りに広がっています。これがヘラクレイオン(=トーニス)の港町の全体像です。町の様子以外にも、船がどうやってナイル川から運河を通って波止場に着いたのか、波止場と海やナイル川を結ぶいくつもの運河についても解明しました。私たちはこの町の構造を再現したのです。」

隆盛を誇っていたヘラクレイオンはなぜ沈んだのでしょうか? 理由は一つではありませんが、ゴディオ氏は次のように語ります。「ヘラクレイオンが位置していた地中海東部の地盤は、百年に10cmほどの割合でゆっくりと沈んでいました。ヘラクレイオンは水分を多く含む砂地の上に立っていました。さらにあるとき突然都市全体が数m沈下したことが分かっています。」 7〜8世紀にかけて起きたと思われる地震か津波が原因だと考えられます。それ以降の遺物はほとんど発見されていません。

ゴディオ氏が調査を開始してから20年。失われた都市の研究は今も続いています。ゴディオ氏は次のように語ります。「ヘラクレイオンはポンペイよりもはるかに重要な意味を持っています。エジプトの王が神から称号と権力を授かった場所ですから。しかも広さはポンペイの2〜3倍もあり、海に沈んでいます。ここを残らず調査するには、後2〜300年(!!)は必要でしょう。私たちの研究はまだ始まったばかりなのです。」

多数の錨の発見がきっかけになって町の構造が明らかになったこと、多数の木造船の発見、ビブロスやシドンに匹敵するあるいはそれ以上に大きな港町だったらしいことなどに興味を持てた番組でした。「海のエジプト展」の図録を見ながらこの番組を見ると、内容がよりよく分かってよいでしょう。しかし、ヘラクレイオンはギリシア人の町だったのだから、地中海全域と活発に交易していたのは当然じゃないの?という気もします。

ヘラクレイオンの全体像は下記のURLでご覧下さい。

http://www.telegraph.co.uk/earth/environment/archaeology/10022628/Lost-city-of-Heracleion-gives-up-its-secrets.html

2003年12月9日の記事もご覧下さい。

http://www.geocities.jp/kmt_yoko/MyNotebook-1.html

2009年8月27日の記事と9月27日の記事もご覧下さい。

http://www.geocities.jp/kmt_yoko/MyNotebook-8.html

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