西 村 洋 子 の 雑 記 帳 (16)    

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2012年7月3日(火)

一昨日21:00〜22:00にNHKスペシャル「知られざる大英博物館 第2集 古代ギリシャ "白い"文明の真実」が放送されました。ギリシャの大理石の彫刻にかつて彩色が施されていたということは、だいぶ前にFacebookで流れていたニュースで知っていましたが、それについて詳しく知ることが出来ました。またエルギン・マーブルの事件の詳細とその背景についても詳しく知ることが出来、大変良い番組でした。

古代ギリシャは紀元前7世紀から紀元前2世紀まで約500年に亘って栄えました。最盛期はパルテノン神殿が築かれた頃で、アレクサンダー大王がギリシャに攻め入ったことでギリシャ文明に影が差し始めました。

大英博物館の古代ギリシャ展示室にはパルテノン神殿を飾っていた彫刻群が展示されています。地下の収蔵庫には古代ギリシャ・ローマの品々が約9万点眠っており、一定に保たれた温度と湿度の下で急激な環境変化がないよう厳重に管理されています。

科学調査部で色の研究を続けているジョバンニ・ヴェリ博士はトロイ・ヘッドと呼ばれる大理石の彫像の頭部に赤・白・青からなる強力なライトを当て、特殊なカメラで撮影します。これは2007年に大英博物館が開発したシステムで、古代の青い顔料に含まれる特殊な成分を感知すると、モニターに反応が現れるようになっています。その結果、目の部分に反応があり、眼球に青色が使われていたことが分かりました。そこで、アクロポリスで文化財修復をしているミラ・フランジー女史がパルテノン神殿の隣に立つエレクティオン神殿で同様の調査をしました。この調査は大英博物館がギリシャに調査のノウハウをすべて提供することにより実現可能になりました。その結果、神殿の天井の四角いくぼみに反応があり、天井が青く塗られていたことが分かりました。

ジョバンニ・ヴェリ博士については、下記のURLをご覧下さい。

http://www.britishmuseum.org/about_us/departments/staff/conservation_and_science/giovanni_verri.aspx 

フランクフルトのリービッヒハウス美術館では、色彩研究の世界的権威であるヴィンツェンツ・ブリンクマン博士が、青色だけではなく他の色の調査も続けています。まずそれぞれの色が持つ独自の波長データを収集し、その後ギリシャ彫刻の表面を調べ、肉眼では見えない色の痕跡を測定し、どの色の波長と一致するかを解析します。博士は純白の彫像を作り、当時の色を再現しました。約2500年ぶりに彫像が甦ります。肉眼ではまったく見えなかった衣服の鮮やかな文様もすべて科学的な測定に基づき、厳密に再現されたものです。肌にも色が施されていました。そこには色と色がぶつかりあう極彩色の世界が広がっていました。ブリンクマン博士は「古代ギリシャ人は大理石をキャンバスとして利用していたのです。」と言います。

ヴィンツェンツ・ブリンクマン博士については、下記のURLをご覧下さい。

http://www.ruhr-uni-bochum.de/archaelogie/institut/personal/dozenten/brinkmann.html.de

さらに、大英博物館の調査でまた新たな事実が判明しました。きっかけはエジプト展示室の紀元前14世紀に描かれたネブアメンの沼沢地での狩りの壁画です。壁画では植物や鳥は青く塗られており、それはライトを当てるとトロイ・ヘッドの目の青色とまったく同じでした。もともと青色はその元となる顔料が自然界にはほとんどないため、人工的に作り出されなければ手に入らない色です。科学調査部の分析によると、その青色はエジプシャン・ブルーと呼ばれる古代エジプトでしか作れなかった色と判明しました。ブリンクマン博士は「カラフルな色や文様はエジプトなど外国からもたらされたものでした。ギリシャ文明はエジプトや西アジアの色を取り入れることで初めて色彩豊かな芸術を作りあげることが出来たのです。」と言います。最新の研究成果を総合して、当時のギリシャをCGで再現してみると、神殿も町も何もかも色鮮やかで、その姿は私たちが想像していた白いギリシャとはまったく違っています。

ネブアメンの狩りの壁画については、下記のURLをご覧下さい。

http://www.britishmuseum.org/explore/highlights/highlight_objects/aes/n/nebamun_hunting_in_the_marshes.aspx

エジプシャン・ブルーについては、下記のURLをご覧下さい。

http://ja.wikipedia.org/wiki/エジプシャンブルー

古代ギリシャの彩色された彫像については、Vinzenz Brinkmann and Andreas Scholl, Bunte Götter : Die Farbigkeit Antiker Skulptur, HIrmer Verlag, 2010をご覧下さい。

ギリシャ文明は長年にわたってエジプトと西アジアから大きな影響を受けてきたにもかかわらず、紀元前7世紀までは暗黒時代で、その時代のギリシャを知る手がかりは素朴な壷のみです。それではギリシャ文明はなぜ紀元前7世紀に突然花開いたのでしょうか?

大英博物館の収蔵庫には巨大な彫像の足の指先の部分があります。それはデロス島で発掘されました。デロス島には足の指先の部分以外にも彫像の一部分が残されたままになっています。さらに周囲8mにもなる彫像の台座もあります。デロス島調査チームのマンサ・ザルマクゥビ女史は「ここにあった彫像はギリシャが人体像を作るようになった最も初期の時代のものと考えられます。それはかつてない見上げるほどの大きなものでした。」と言います。現存する身体の一部をもとに再現された彫像は高さ9mです。この彫像が作られたのは紀元前7世紀です。色鮮やかな巨大神殿もそれを境に次々と建てられました。

アレクサンドラ・ヴィリング女史が高さ15cmにすぎない小さな石像を見せてくれました。それはエジプトとギリシャの要素が入り混じった珍しい石像です。その石像と一緒に発掘された土器には古代ギリシャ文字で「ナウクラティス」と記されていました。それは紀元前7世紀(エジプトは第26王朝)にナイルデルタに建設された町の名前です。小さな石像はフリンダース・ビートリー氏によって19世紀終わりに発掘されました。他にも古代ギリシャ文字が記された土器が大量に出土しました。ナウクラティスにギリシャ文明誕生のどんな謎が隠されているのかを解明するため、大英博物館はナウクラティスの本格的な発掘調査を計画しました。準備のために4人の専門家(ヴィリング女史を含む)がナウクラティスを訪れました。カイロから車で3時間、小さな農村を越えた先の静かな湿地帯の中にナウクラティスの遺跡があります。辺りにはギリシャ様式初期の土器の破片が散らばっています。地元の古老からギリシャ神殿の一部と思われる白い石を教えてもらいました。ナウクラティスは商人や職人をはじめとする多くのギリシャ人が住む貿易港として栄えました。この町の始まりは紀元前7世紀で、エジプト王(プサンメティコス1世か?)がギリシャ人たちに与えた土地でした。エジプト王は青銅の兜を身につけたギリシャ人達を傭兵として雇いました。というのは、当時のエジプトはアッシリア、リビア、ヌビアと国境付近で戦う混乱期にあり、ギリシャ人傭兵をナウクラティスに住まわせて戦いに備えていたのです。一方ギリシャは、土地がやせ、資源にも乏しかったので、エジプトと比較にならないほど貧しい国でした。そのためエジプトから傭兵の募集があると若者達は進んで志願しました。エジプトでの任期は数年に及んだとされています。

ナウクラティスの南800km、アブ・シンベル神殿の四体のラムセス2世の巨像の内右端の像の左脚に古代ギリシャ語の落書きがあります。「王プサンメティコスがエレファンティーナ(アスワン)にいた時、外国人部隊が率いられて、川をさかのぼれるところまで船を進めた。」と記されています。これはギリシャ人傭兵による落書きです。彼らは王が行ったヌビア遠征の帰りにここへ立ち寄り、ラムセス2世の4体の巨像に驚いたことでしょう。こうした経験がギリシャ文明の礎になりました。軍事遠征の先々で様々な文化に出会い、色鮮やかなで魅惑的な世界に感動し、それらを急速に吸収したと考えられます。ヴィリング女史は「ピラミッドなど数千年続いた偉大な文明の蓄積に触れたのだから、エジプトでの体験がギリシャ人達の意識を変えていったことは間違いない。」と言います。

アレクサンドラ・ヴィリング女史については、下記のURLをご覧下さい。

http://www.britishmuseum.org/about_us/departments/staff/greece_and_rome/alexandra_villing.aspx

ナウクラティスについては、下記のURLをご覧下さい。

http://ja.wikipedia.org/wiki/ナウクラティス

エジプトにいたギリシャ人傭兵は3万人を上回ったと言われています。他にも西アジアの国々で多くの兵士が雇われていました。紀元前7世紀高度な文化と技術に触れた傭兵達が続々とギリシャに帰還し始め、地元の人々に自らの経験を次々と伝えました。その結果ギリシャ文明は劇的に花開いたのです。スニオン岬にはポセイドン神殿が、アテネにはパルテノン神殿が建設されました。ギリシャ文明の目を見張る発展には決して歴史の表舞台に出ることのない傭兵達が大きな役割を果たしていました。現在から250年前まではギリシャがエジプトや西アジアの影響を受けていたことはごく当たり前のこととして知られていました。それではなぜ歴史は歪められたのでしょうか?

大英博物館にはディスコボロスと呼ばれる前を見据えて円盤投げをする男性像があります。これは古代ギリシャの彫刻家ミュロンが造った彫像を真似て後のローマ時代に作られたものです。手本となったミュロンの彫像は失われ、世界で27体の模倣作品だけが残されています。そのうちの一体でローマ国立博物館にあるものは顔が後ろを向いています。もともと同じ彫像を真似たはずなのに、なぜ顔の向きが異なるのでしょうか? 実はローマの彫像は完全な形で発見されたのに対し、大英博物館の彫像には頭部がありませんでした。イアン・ジェンキンス氏は「修復にはミュロンとは関係のない全く別の作品が使われました。ディスコボロスとは違う頭をつけてしまったのです。」と言います。しかし、修復された彫像はその後も展示され続け、1948年ロンドン・オリンピックの公式ポスターにまで採用されました。誤りが広く浸透するにつれて、本当の姿は忘れ去られていきました。

イアン・ジェンキンス氏については、下記のURLをご覧下さい。

http://www.britishmuseum.org/about_us/departments/staff/greece_and_rome/ian_jenkins.aspx

古代ギリシャに対する見方が歪んでいったのもこの経緯によく似ています。きっかけは19世紀にイタリアで発見された数多くの美術品です。人々はそれらの美しさに驚き、古代芸術へのブームがわき起こりました。ヨーロッパを代表する高名なドイツの美術史家ヨハン・ヴィンケルマン氏は『ギリシャ美術模倣論』で「人類が到達した最高の美」「ギリシャ人にしかなしえない偉業」と論じました。フンボルト大学文化科学研究所のレナーテ・レシュケ女史はこう言います。「ヴィンケルマンはギリシャ彫刻がエジプトや西アジアの影響を受けており、決して白くなかったことも知っていました。しかし、それを無視し、古代ギリシャはギリシャ人だけによって創られた白い文明であり、純粋で高度なものであると考えたのです。」 ヴィンケルマン氏のこのような考えは利用されていきます。というのも、丁度この頃はヨーロッパで産業革命が始まり、急速に台頭してきた時期でした。西洋が世界で優位に立つための歴史的根拠を必要としており、そこで古代ギリシャが注目されました。古代ギリシャはヨーロッパのルーツとしてまさにふさわしいものでした。この考えは教育によって普及されました。ドイツでは19世紀に古代ギリシャ語を必修とする教育改革が行われました。ベルリンにあるゲーテ・ギムナジウムでは実生活で全く使うことのない古代ギリシャ語が週5回4年間みっちり教えられます。こうして子供達は西洋文明の源を学び、ギリシャ語を通して西洋思想の基盤を学ぶのです。西洋文明のルーツとしてますます理想化されるうちに、古代ギリシャの本当の姿は忘れ去られていきました。そして19世紀のある流行が古代ギリシャを「白い」文明として決定づけました。イギリスのヴィクトリア女王が着た純白のウェディングドレスがヨーロッパ中に流行し、白い色が純粋で穢れのない理想的な色として大いにもてはやされたのです。白いギリシャ彫刻はまさにその象徴として人気を博しました。

ピーター・ヒッグス氏はこう言います。「ほとんどのギリシャ彫刻は時間とともに色が薄れていきました。色が残っていることはほとんどなく、白く見えました。中には当時わずかに古代の色が残っているものもあったのですが、一般の人々はそれを信じませんでした。ヴィクトリア朝のイギリスでは、色のついた大理石の彫刻は冗談か悪趣味という評価が与えられたため、真っ白にされたのです。」 白が重視される風潮が続く中、大英博物館で衝撃的な事件が起こりました。エルギン・マーブル・スキャンダルです。

ピーター・ヒッグス氏については、下記のURLをご覧下さい。

http://www.britishmuseum.org/about_us/departments/staff/greece_and_rome/peter_higgs.aspx

1938年の大英博物館常任委員会の内部文書に事件の詳細が生々しく記されており、エルギン・マーブルを洗浄するために使われた道具類(太い筆と銅のへら、ダイヤモンド並の硬い石、メモ書き)も収蔵庫に眠っています。エルギン・マーブルとはパルテノン神殿の壁や梁に備え付けられていた大理石の彫刻で、現存する半分近くが大英博物館に所蔵されています。洗浄作業は大英博物館のスポンサーだったジョゼフ・デュヴィーン卿の指示の下で地下の部屋で行われました。「白さが足りない。もっと白くしろ!」というデュヴィーン卿の一言で、作業員達は彫刻の表面を念入りに磨きました。この事件を詳細に取材した歴史家・作家のウィリアム・シンクレア氏はこう言います。「この事件は『ギリシャは白いもの』という既成概念があったために起こりました。博物館の来場者が『大理石は白い』と期待していることに迎合したのです。」 芸術品を保管するには最も安全な場所であるはずの博物館で起きてしまった事件でした。イアン・ジェンキンス氏はこう言います。「この結果表面の数分の一が削られてしまい、浮き彫り彫刻が白くなめらかになりました。この事件は博物館のスタッフや学芸員がまったく知らない間に起こりました。やがて当時の新聞はこのをスキャンダルとしてかき立てました。その結果博物館のスタッフが数名解雇となる一大事となりました。事件は大英博物館の歴史上極めて異例のことでした。」 この時期大英博物館以外の博物館でもギリシャ彫刻が白く磨かれたと言います。ウィリアム・シンクレア氏はこう言います。「古代の彫刻作品は芸術品であると同時に長い歴史を含んだ資料なのです。オリジナルの表面を削り取ると、歴史も永遠に失われてしまうのです。」。大英博物館の収蔵庫にはまだ手つかずの至宝が数多く眠っています。その一つ一つに古代ギリシャの真実を知る手がかりが秘められています。250年に亘る誤ったイメージから解き放たれた古代ギリシャ。その真の姿の解明はまだ始まったばかりです。

エルギン・マーブル・スキャンダルについては、シャロン・ワックスマン著『奪われた古代の宝をめぐる争い』(PHP研究所、2011年)の第9章もご覧下さい。

今回のNHKスペシャルは内容が濃くて、とても見応えがありますね。

「NHKスペシャル 知られざる大英博物館 古代ギリシャ」が近日発売されます。

http://www.amazon.co.jp/NHKスペシャル-知られざる大英博物館-古代ギリシャ-NHK「知られざる大英博物館」プロジェクト/dp/4140815485/ref=sr_1_3?s=books&ie=UTF8&qid=1341300854&sr=1-3

2012年7月7日(土)

6月4日(月) 23:00〜0:00にディスカバリーチャンネルで「古代エジプトの支配者達 1. ナルメル王と王朝の始まり」が放送されました。エジプトが紀元前3000年頃どのようにして統一されたのかをナルメル王を中心にして現在の専門家たちの見解が紹介されました。

ナルメル王については、下記のURLをご覧下さい。

http://xoomer.virgilio.it/francescoraf/hesyra/narmer.html

ケント・ウィークス氏(テーベ・マッピング・プロジェクト)はこう言います。「第0王朝のことが分かってきたのは10年ほど前からです。それ以前の研究ではずっとこの時代に王はいないと考えられていました。」 

従来ナルメル王のパレットから次のような推測がなされてきました。デルタに首長国がいくつかあり、南部にはナルメル王の王国がありました。ナルメル王はさらに勢力を拡大し、北部の部族を取り込もうと考えていましたが、デルタの首長達はナルメル王による統合を拒否しました。ナルメル王の野望は南部から地中海まで全エジプトの統一でした。ナルメル王は戦争に繰り出し、敵を打ち負かし、エジプト中の民族を一つの国家にまとめました。しかし、ナルメル王が実際にどう動いたのかは検証が始まったばかりです。ナルメル王のパレットは第0王朝の謎を解き明かす重要な史料です。

ナルメル王のパレットについては、下記のURLをご覧下さい。

http://xoomer.virgilio.it/francescoraf/hesyra/palettes/narmerp.htm

ギュンター・ドライヤー博士(ドイツ考古学研究所)は「力による統一が行われたのは明らかです。」と言います。しかし、ケント・ウィークス氏はこう言います。「私はエジプトは平和的に統一されたと考えています。このプロセスは長い時間をかけてゆっくりと進められたもので、数世代には亘っていたでしょう。その間に統一された一つの文化が徐々に形成されたと考えられます。」

一体統一は平和的だったのでしょうか? それとも戦争によるものだったのでしょうか?

アビュドスの初期王朝の王墓群の隣には現在確認されている最古の墓地(ウンム・エル・カーブ)があります。その一番端でナルメル王の墓(B17-B18)が発見されました。ギュンター・ドライヤー氏は「レンガで出来たただの溝のような造りで、非常にもろい墓でした。大昔に崩れてしまった部分もあります。」と言います。墓は一度掘り起こして、写真を撮った後は保存のために埋め戻されました。1980年代初めの発掘で撮影された写真からナルメル王の墓の様子が分かります。内部はレンガによって二つの部屋に仕切られており、一方に遺体が、もう一方に埋葬品が収められていました。ナルメル王が本当にエジプトを統一したのであれば、盛大な葬儀をしてもおかしくないはずです。しかし、そうではありませんでした。歴代のエジプト王たちは、実際に戦争がなくても、自身を勝者として描写させています。ナルメル王も例外ではないかもしれません。

ナルメル王の墓については、下記のURLをご覧下さい。

http://www.narmer.pl/abydos/qaab_en.htm

ヒエラコンポリスは王朝の誕生に重要な役割を果たしました。500年間に亘り南部における権力の中枢だったヒエラコンポリスはナルメル王の支配の要(かなめ)でした。19世紀この地でナルメル王のパレットが発見されました。ルネ・フリードマン女史による10年以上に及ぶ発掘調査によって、当時ヒエラコンポリスが最も栄えた都市の一つだったことが明らかになっています。

ケント・ウィークス氏はこう言います。「早くから古代エジプト人は互いの協力体制が成功の鍵であると認識していました。成功とは不作のときでも乗り切れるだけの食料の余剰があることと、激しい洪水で被ったダメージを立て直す力があることです。このような協力の精神から生まれたのが、社会の発展のため各分野の専門家を置くという極めて重要な考えでした。」 ダム・貯水池・灌漑用水路など古代エジプト人が発展させた技術は実にシンプルです。第0王朝のサソリ王の棍棒頭には王が用水路を開通させる儀式が描写されています。エジプトの麦は驚くべきスピードで成長し、当時およそ100万人と言われる住民を養うのに十分な穀物をもたらしました。穀物は貨幣の役割を果たし、国の最も重要な輸出品となりました。

ナイル川は生活に欠かせない水と穀物を供給してくれるだけではありませんでした。ナイルシルト(泥)は建築材としても利用され、住居や宮殿が建てられ、都市が築き上げられました。ナイル川の水辺に生育するパピルスからは紙の原型が作られました。パピルス紙には様々な記録が記されたり、手紙や死者の書も書かれたりしました。さらにナイル川は重要な交通機関でもありました。ナイル川を渡って移動するため、船(パピルス・ボートや木造船)が活躍しました。南への移動は風力を利用します。時速4kmでデルタから最南端までわずか30日で到達出来ます。北へ戻るときは水の流れに従います。船が運ぶのは作物、建築用資材、人間と彼らがもつ思想で、まさに生活の必需品でした。農民や漁師は泥が堆積して出来た陸の間をパピルス・ボートで自由自在に移動しました。長距離の移動にはより強度のある材料を使い、高度な技術で組み立てられた木造船が用意されました。

シェリル・ウォード女史(Coastal Carolina University)はこう言います。「これらの船には木の板が使われていました。実際に同じ年代に造られた船も発見されています。それらはパピルス・ボートと同じ方法でつなぎあわされていました。」 古代エジプトではパピルスの茎を束ねてボートが作られていました。両端が持ち上げられた三日月のような形は流れに逆らって進むためです。船上にはかまぼこ型の丸い屋根が取り付けられ、オールで進みます。木造船もパピルス・ボートの形状や構造を真似て造られました。木の板をつなぎあわせるのに使われたのはパピルスの葉です。重い積荷にも長時間耐える耐久性と、解体して運搬出来る手軽さを兼ね備えていました。このような船を基盤として交易と交通システムが発展していったと言えます。ケント・ウィークス氏は「主要な交通手段であった船は部族が持つ統一のツールでもありました。」と言います。

シェリル・ウォード女史については、下記のURLをご覧下さい。

http://ww2.coastal.edu/cward/drward.php

考古学上の証拠を検証する限り、5000年前のエジプトではナイル川に沿って農耕と交易を中心とした社会が平和的に繁栄していました。それはナルメル王のパレットからはとても想像出来ない事実です。この矛盾する事実を考古学者はどう説明するのでしょうか?

ナルメル王のパレットが発見されたのはヒエラコンポリス。この都市の神殿に祀られているホルス神に捧げられたと考えられます。パレットが語るのは、エジプトを統一し、可能性に満ちた未来への礎を築いたナルメル王の姿です。しかし、ナルメル王の戦争は単なる象徴や誇張かもしれません。

ベルギー人エジプト考古学者スタン・ヘンドリクス氏はナルメル王のパレットの分析をしています。彼は「このパレットには具体的な土地の名前や、処刑された敵の重要人物と見られる人間の名前など、あまりにも多くの詳細が記されています。ここまで詳細に富んでいるとただの象徴と考えるのは難しい。」と言います。

スタン・ヘンドリクス氏については、下記のURLをご覧下さい。

http://www.archeonil.fr/programme.html

ギュンター・ドライヤー氏はアビュドスの研究所で出土品を検証しています。破片の多くは油や穀物の輸送について記したものです。その中にナルメル王が北の部族を倒した年の油の輸送について記したものがありました。この小さな破片が歴史を塗り替えました。第1王朝成立後は年を数えるときに1年2年3年ではなく、その年に起こった重要な出来事にちなんで名付けていたことが分かっています。この破片はその記述方法を使ったきわめて初期のもので、ナルメル王が北の部族に勝利したことが記されています。したがって、第0王朝に行われた激しい戦争はただの伝説ではありませんでした。

マリア・カルメラ・ガット女史(アスワン・コムオンボ・プロジェクト・ディレクター)は2011年にアスワン北西のナグ・エルハンドゥラブで白い冠を被り杖を持った人物、扇を持つ従者、犬が描かれた岩壁画を発見しました。近年損傷が進んでいますが、幸運にも数年前にラビブ・ハバシュ博士によって撮られた写真が残されていました。最新の研究では、この遺跡が第0王朝のナルメル王の墓と同じ頃にさかのぼるとされています。従って、白い冠を被った人物はナルメル王と考えられます。ナルメル王の権力は中枢から遠く離れたこの地まで及んでいたと考えられます。周辺から次々と発見された同様の壁画が当時の王の力を示しています。やはりナルメル王が戦争によって古代エジプトを統一したのは事実だったようです。

ナグ・エルハンドゥラブの岩壁画については、下記のURLをご覧下さい。

http://www.egyptologyforum.org/bbs/Nag_el-Hamdulab.html

マリア・カルメラ・ガット女史については、下記のURLをご覧下さい。

http://yale.academia.edu/MariaCGatto/Blog/18399/DISCOVERED-IN-ASWAN-THE-EARLIEST-REPRESENTATION-OF-AN-EGYPTIAN-KING-WEARING-THE-WHITE-CROWN

南部の指導者が北部へ進出しようとした一番の理由は東方への交易ルートの確保だったと考えられます。ナルメル王のパレットに描かれた戦争は記録に残る最古の大戦争の一つでした。ナルメル王の棍棒頭には凱旋の様子が描かれています。王は赤い冠を被り、従者が後ろに続きます。戦果がヒエログリフで記されています。捕虜12万人、山羊100万頭以上、牛40万頭。ナルメル王のパレットにも敵兵の死骸が描かれています。首ははねられ、性器は切断されています。

ナルメル王の勝利によって、南北に伝わるそれぞれの王冠が一つに融合され、以降三千年の長きにわたってエジプトの王達に継承されていくことになります。こうしてエジプトは史上初の王国となりました。

謎の多いナルメル王を取り上げた興味深い番組でした。

2012年8月2日(木)

2010年11月から2011年3月まで大英博物館で開催された死者の書展の図録は持っていますが、「大英博物館古代エジプト展」の図録にはグリーンフィールド・パピルスの全容が載っているというので、観に行くことにしました。(John H. Taylor, Journey Through the Afterlife : Ancient Egyptian Book of the Dead, London, The British Museum, 2010.)

そこで昨日4時に起きて、6:09の新幹線に乗り、8:53に東京着。まず両国にある江戸東京博物館で「二条城展」を見てから、地下鉄大江戸線で六本木へ移動。六本木ヒルズに初めて行きました。東京ミッドタウンの近くだったのですね。森タワーの3階からエレベーターに乗って会場の52階へ行くのですが、このエレベーターの場所が分かりにくかったです。チケット売り場に着いたのは12時頃でしたが、並ばずに入場券を買えました。会場内は「二条城展」よりは混んでいましたが、見学するのに困るほどではありませんでした。

古代エジプトは農作物など物質的に豊かな社会で、社会階級の下層にいた人々には厳しい生活が待っていましたが、エリート階級にとってはそこは離れ難い楽園でした。この幸福な生活に終止符を打つのは「死」であり、古代エジプトのエリートたちは永遠の生命を得ようとして、幾多の文化的な手段を使って「死」に対抗しました。遺体をミイラにし、墓をつくり、定期的に供物を捧げ、さらに個人の永遠の存続のための呪文集を生み出しました。それが「ピラミッド・テクスト」「コフィン・テクスト」に続く「死者の書」です。「死者の書」は危険な冥界への旅に備えて、死者に力を与え、死者を守り、導くことがその目的でした。「死者の書」は紀元前二千年紀の中頃からプトレマイオス時代まで使用されましたが、ローマ属州時代にはそれらに代わって「息をするための書」や「永遠を横切るための書」が使用されました。「死者の書」の多くは全長10メートル以上あり、博物館ではガラスのフレームに収まる長さに切って保管することが標準となっています。古代の資料を読むために、繰り返し開き、再び巻き戻すのは巻物に取り返しのつかないダメージを与えるかもしれないからです。しかし、今回全長37mのグリーンフィールド・パピルスを公開するのは、パピルスが本来どのような姿をしていたかを示すためです。また呪文に添えられた挿絵や美しい書は古代の絵師や書記の卓越した技能を示しています。「死者の書」は古代の信仰体系の記念碑としてだけではなく、偉大な芸術作品としても価値があります。(ジョン・テイラー氏の序文より)

第一章「古代エジプトの死生観」。図録番号1「オシリス神像」。第19・20王朝には「死者の書」がオシリス神の小像の中に保管され、墓に納められる例が見られた。どんなふうに小像の中に容れられていたのかしら? 図録番号2「デニトエンコンスの供養碑」。彩色木製供養碑は葬祭文書がテーベで使われなくなっていった第22王朝には上流階級の間で標準的な副葬品だったそうです。つまり葬祭文書の代わりだったと思われるのです。意外と重要だったのですね。図録番号4「セニの外棺に記された『コフィン・テクスト』」。棺の底に描かれた「二つの道の書」の実物を初めて見ることが出来ました! 図録番号5「『死者の書』が描かれたミイラの覆い布」。トトメス3世界の治世になると、「死者の書」は王族以外の一般の人々のパピルスやミイラの覆い布にも記されるようになったそうです。一瞬トトメス3世のミイラの覆い布かと勘違いしてしまいましたが、残念ながら所有者の名前は未記入です。図録番号6「ネブセニの『死者の書』」。呪文も挿絵もものすごく丁寧に書かれています。ネブセニの椅子の下には書記の道具が、妻センセネブの椅子の下には鏡と軟膏が置かれています。図録番号7「ベスエンムウトの人形棺(ひとがたかん)に記された『死者の書』」。第25・26王朝には多くの木棺に「死者の書」からの長い抜粋が記されました。ベスエンムウトの棺にも内側と外側に注意深く呪文が配置されており、死者はこれらの呪文によって守られていたそうです。図録番号8「レリの『死者の書』」。これはプトレマイオス時代のものです。一つの列に複数の呪文が記され、このような構成によって、空白を無駄にすることなく、容易に「死者の書」を準備することが出来たそうです。図録番号9「亜麻布の包帯に記された『死者の書』」。これもプトレマイオス時代のものです。棺を乗せた船がさらに台車に乗せられて曳かれている図が描かれています。私はこれを見て第18王朝初めのイアフヘテプ王妃の戦車に乗せられた船を思い出しましたが、同様な表現はプトレマイオス時代に数例確認されているそうです。

第二章「冥界の旅」。図録番号10「フウネフェルの『死者の書』」。この展覧会のポスターにその挿絵が使われている美しいパピルス。図録番号18「ミイラマスク」。プトレマイオス時代またはローマ属州時代。鉢巻に記された銘文は「死者の書」151章の「マスク・テキスト」を簡略化したものだそうです。新王国にはこの呪文が記されることはツタンカーメン王のマスクを例外として稀でしたが、末期王朝から紀元後1世紀後半まで見られたそうです。ただし不完全で間違ったものが多かったそうです。正しい「マスク・テキスト」の例が、図録番号19「ネブセニィの『死者の書』」に見られます。護符は置かれる場所も唱えられるべき呪文も決まっています。それらの例が図録番号20-25に見られます。図録番号27「カノポス容器の模型」。第三中間期には防腐処理された内臓は遺体に戻され、カノポス容器に容れられることはありませんでした。しかし、カノポス容器が廃れることはなく、その模型が作られ続けました。図録番号34「トカゲ形護符の金製ネックレス」。トカゲは、手足や尻尾を失われてもすぐに生えてくることから、再生の象徴だったそうです。失われてもすぐに生えてくるのは尻尾だけかと思っていましたが、違うのでしょうか? 死者がオシリス神の領域に達するには14の丘と21の門を通らなければならないそうです。「死者の書」にはそれらの門や丘にいる神々や魔物たちの名前が記されています。また天の牛(7頭の雌牛と1頭の牡牛)と舵、セネトゲーム、死者の魂であるバーが様々な姿に変身するための呪文、様々な危険や災難から死者を守るための呪文、42の罪を否定する告白、オシリス神の前での審判の場面が記されたり、描かれたりします。それらは棺に記されたり、描かれたりもしました。死者が審判をくぐり抜けた証拠として来世の楽園である「イアルの野」が描かれます。死者はそこで供物を与えてくれる神々を礼拝し、農作業をします。しかし、農作業はシャブティ像たちが代わりにやってくれます。

第三章「世界最長の『死者の書』《グリーンフィールド・パピルス》」。このパピルスはアメン大司祭パネジェム2世の娘であり、アメン第三司祭ジェドプタハイウエフアンクの妻でもあったネシタネベトイシェルウのものです。年代は第21王朝の終わりから第22王朝の初めです。「死者の書」は第18・19王朝には男性用にだけ作られていましたが、第21王朝になると女性用も作られ、男女とも「死者の書」と「アムドゥアト」が副葬されるようになったそうです。第21王朝の高位の女性の中には非常に長い「死者の書」を持つ者も何人かいましたが、ネシタネベトイシェルウはそのような女性の一人でした。このパピルスについては、Wallis Budge, The Greenfield Papyrus in the British Museum, London, 1912に翻訳があります。展示会場には近藤二郎氏が所蔵するこの本が展示されていました。図録の巻末の66頁に全96葉の挿絵の解説が載っています。ところで、図録の後ろから66ページ目に「ヒエログリフ研究者村本卓夫」という名前が見られますが、この方は一体誰なんでしょうね?

第四章「『死者の書』をめぐる研究」。グリーンフィールド・パピルスを見終わると、少し足が痛くなってきたのですが、このコーナーには彩色されたパピルスがたくさん展示されていて、最後まで楽しく見ることが出来ました。「アムドゥアト書」や「洞窟の書」も見られます。図録番号168「『死者の書』第168章(冥界の洞窟)」には冥界に数多く存在する洞窟とその住人である神々が記されていますが、所有者の名前は何らかの理由で消されています。パピルスの制作を依頼したものの代金を払えなかったので、職人によって消されたのかもしれません。前述の通り、ローマ属州時代には「死者の書」に代わって「息をするための書」や「永遠を横切るための書」が使用されましたが、図録番号172「センコンシスの『息をするための第二の書』」と図録番号173「永遠を横切るための書」はものすごく雑な挿絵と呪文から成っています。パピルスの挿絵はものすごく細い線で描かれていますが、そのときに使われたであろう極細の葦ペンも展示されていました。図録番号177「書記のナイフ」に見られるように、ペーパーナイフもあったのですね。

この展覧会では宗教テクストはどれも縦書きと思い込んでいましたが、時代が下ると横書きになることを初めて知りました。勉強になりました。

ちなみに、ミュージアムショップでは鳥獣戯画のシルエットがプリントされたTシャツを買いました。サイズもぴったり! けれども、スフィンクスダックは見向きもされていませんでしたよ。

2012年10月16日(火)

「大英博物館古代エジプト展」は10月6日から福岡市美術館で開催中ですが、実は7月24日(火)20:00〜21:00にBS日テレで「ぶらぶら大英博物館の至宝 古代エジプト展」という番組が放送され、近藤二郎氏による展覧会の解説がありました。

まずコフィン・テクストが記されたセニの外棺。ミイラはもう一つの内棺に左肩を下にして、顔の部分が棺に描かれた眼の奥にくるように置かれました。仰向けではなく横向きです。だからこの棺は幅が狭くて、高さがあるのです。ミイラの頭部は北枕で、東側を向くことによって再生した太陽の光をミイラが顔面で受けることが出来ます。セニの外棺に記されたテクストや副葬品の色はとてもあざやかですが、緑色は退色しやすいので、緑色や青色がよく残っているものほど、保存状態が良いのだそうです。実際に発見された時は今作られたばかりのようであっても、地上に引き上げられてしまうと、色はくすんでしまい、木製品はひびが入ったり割れたりして、残らなくなるのだそうです。だからセニの外棺のような例は非常に貴重なのです。

アニの死者の書に記された口開けの儀式では、チータの毛皮を着た人物が故人の長男かつ喪主です。儀式で使われる手斧(ちょうな)は、元々板を削る鉋(かんな)のような大工道具ですが、ミイラの口を開けるために使われます。こうすることによって、故人は来世で話したり食べたり出来るようになります。

神官イレトホルイルウの人型棺には死者の書のテクストと絵がびっしりと記されています。それは末期王朝時代には一人一人の墓が造られずに家族墓が造られるようになったので、今まで墓壁に記されていた死者の書のテクストと絵は棺自体に記されるようになったのだそうです。一つの棺に記しきれない場合には、二重三重に棺に記されたそうです。棺に描かれたかつらは儀式の時に着用されたり、地位を表すために着用されたそうです。あごのラインはあごの付け髭を耳に掛ける紐を表しています。

4つのカノポス壷は肺、肝臓、胃、腸が納められたと言われていますが、実際には、内臓の量が多すぎて壷の中に収まりきらないので、その一部だけが入れられたそうです。脳みそはすべて捨てられていました。心臓はオシリス神の審判で必要になるので、ミイラに残されました。

プトレマイオス時代あるいはローマ支配時代の黄金のミイラマスクは、カルトナージュの上に金箔が貼られています。それは黄金が永遠性を表し、肉体を保存するために永遠・不変の象徴を用いたからです。ツタンカーメン王のマスクのように純金に近いミイラマスクは稀だそうです。マスクの頭頂部には翼のあるスカラベが彫られています。スカラベ(フンコロガシ)は、ナイル川の氾濫水が退いた時、最初に地中から現れる虫なので、再生のシンボルなのだそうです。マスク・テクストも死者の書の章の一つです。

この展覧会の目玉であるグリーンフィールド・パピルスは、当時エジプト南部を支配していたアメン大神官パネジェム2世の娘ネシタネベトイシェルーのために作られた死者の書です。筆記体ヒエログリフで記されています。故人の前に描かれたヘビやワニがそっぽを向いているのは、故人が呪文によってそれらを撃退したことを示しているそうです。

良い番組でした。

2012年11月12日(月)

昨日21:00〜21:50に「NHKスペシャル 中国文明の謎 第二集 漢字誕生」という番組がありました。文字に関する番組は見ておかなければと、録画しながら見ました。

紀元前1600年頃殷(いん)王朝は夏(か)王朝を攻め滅ぼしました。それは2010年に高速道路の拡張工事の現場で発見された望京楼遺跡から明らかになりました。殷は大量の青銅の武器を生産し、夏を一気に征服したのです。発掘では顔が鈍器で潰され、足首や頭部などが切断された大量の人骨が発見されました。夏の人々は青銅のまさかり(鉞 えつ)で処刑されていました。その後殷は500年以上に亘って栄えました。殷王朝後半の都、殷墟(河南省安陽市)は1928年に農民が奇妙な形をした骨を掘り当てたことから発見されました。発掘では千以上の墓と五千点を超える青銅器が発見されました。さらに深さ5mほどの穴の中で六万点以上の亀の甲らや牛の骨が折り重なって発見されました。それらに刻まれていたのが、最古の漢字、甲骨文字です。甲骨文字が登場したのは殷王朝半ばで、突然五千字も現れました。それ以前の文字はまったく見つかっていません。

甲骨文字には現代の漢字と似た文字があったため、解読がスムーズに進みました。エジプトのヒエログリフは4世紀以降使用が途絶えたため解読出来なくなっていました。18世紀末にロゼッタ・ストーンが発見されたことにより解読されたのです。しかし、漢字は殷の時代以来ずっと使われ続け、文法も三千年間大きく変わらなかったため、他の古代文字が滅びた中で、唯一生き残った文字となりました。殷墟で発見された六万点の甲骨は現在中国社会科学院考古研究所に保管され、ほとんどが解読されています。甲骨文字は占いのために使われました。占いは王が取り仕切り、わずかな側近だけがその場にいることを許されました。王が吉凶を尋ねる相手は主に神となった祖先の霊です。王は政治から軍事までほとんどすべてを甲骨文字を使って神に問いかけました。甲骨に焼けた青銅の棒を当てると、卜(ぼく)の形のひびが生じ、その形を見て王は神の意志を読み取って口にしたので、占という字が生まれました。占いの結果は甲骨に刻まれました。甲骨坑は最後に人目に触れられないよう埋められました。このように甲骨文字は主として王とわずかな人々しか目に出来ない神聖な文字でした。甲骨に頻繁に登場する文字があります。それは羌(きょう)です。羌は占いに当たって神に捧げられた人々の生け贄でした。殷墟ではいくつもの祭祀坑が発見されていますが、一つの坑が一度の占いの痕跡で、その中にはおびただしい数の人骨がありました。すべて頭を切断されています。これまでに発見された生け贄の数は14,000体に及びます。殷の神は好んで人頭を食べると考えられていました。生け贄は神の意志を聴くための代償でした。(恐ろしい...。)

2012年5月アメリカ合衆国マディソン市にあるウイスコンシン大学考古科学研究所で羌に関する中国・アメリカの共同調査が行われました。当初生け贄は罪人や奴隷と考えられていました。調査には150余りの中国各地の人の歯のサンプルが使われました。人は育った環境によって異なる量の放射性物質を持ち、それらを比較することによって、羌の出身地を特定出来るのです。調査の結果、羌は殷墟から約800km離れた甘粛省の部族であることが分かりました。殷は余り強くなかった羌の人々を都に連行し、殷とは文化的に相容れないために不従順だった部族への見せしめとしていたと推測されます。(残酷...。)

しかし、門外不出のはずだった甲骨文字は殷墟から600km離れた周に流出していました。周原の大きな建造物の地下の穴から300点もの甲骨が発見されました。宝鶏青銅器博物館研究所ではなぜ甲骨文字が周に流出したのか研究が進められました。周の甲骨は2cm四方の小さな亀の甲らで、それに刻まれた文字の大きさは何と1mmです! 甲骨から周の人々はかつて殷に服従していたことが明らかになっています。周は以前には文字を持たず、話し言葉も異なっていましたが、周の人々は自分たちの言葉に合わせて巧みに甲骨文字を使っていました。京都大学の阿辻哲次氏は「漢字が表している意味はそれぞれ話し言葉・方言の中にあるので、音声で話し合って通じなくても、文字を見たらお互いに理解出来る。つまり話し言葉は違っていても、漢字の意味は理解出来るという特徴があって、殷から周へはその一番早い例と思われる。」と述べています。漢字は音(おん)ではなく意味を表しているため言葉の壁を越えて伝わるのです。ところが紀元前11世紀、周は殷に反乱を起こし、中国第三の王朝となりました。甲骨から周は殷に取り入る一方、漢字を使ってほぼ同じ時期に外の部族とも連帯していたことが明らかになっています。この甲骨は周のしたたかさを示しています。

殷と周の合戦、牧野(ぼくや)の戦いが河南省新郷市で起こりました。司馬遷の『史記』には、周の軍には8つの部族の旗がたなびき、わずか一日で周の圧勝に終わったことが、記されています。これは異なる文化間の衝突でした。殷の正規軍は70万という大軍でしたが、周はそれに劣らぬ軍勢を整えていました。殷の軍は戦わずして崩壊し、周が王朝を開く時がやってきました。周は他の部族を束ねるために漢字を大いに活用しました。漢字の大革命です。陝西(せんせい)省楊家村では今から10年前に大量の周の漢字が発見されました。それらは27点の青銅器(紀元前8世紀のもの)に記されていました。青銅器の内側には370の漢字が記されていて、「土地を保証するから税を納めよ。」という内容の周と単(せん)の部族との契約でした。周の本拠地から700km東の河南省で出土した青銅器には「有事の際には兵を率いて参加せよ。」という出兵義務が記されていました。周の本拠地から1000km離れた江蘇(こうそ)省で出土した青銅器には「諸族をまとめて精鋭部隊を指揮せよ。」という命令が記されていました。話し言葉に関係なく意味を伝えることが出来る漢字は、この時大きな役割を果たしました。漢字が記された青銅器が送られた数百の部族と周は新たな支配関係を結びました。これを封建制度と呼びます。周は様々な部族を緩やかにまとめ、その領域を束ねました。

周とは異なる文化を発展させた長江流域で漢字のさらなる発展を示す発見がありました。湖北省隨州市曾侯遺跡から大量の青銅器が出土しましたが、それらには周にはなかった新しい漢字が記されていました。漢字を知った人々が新しく「桑」「挙」「敞」という漢字を作り出していたのです。このことは、文字のない地域に伝わるや否や、漢字が見る見るうちに普及したことを示しています。周の時代になると、契約や外交など漢字の用途が圧倒的に広がり、周から学んだ文字だけでは足りなくなったので、新しい漢字を作り、積極的に漢字を活用したと考えられます。言葉も文化も異なる人々の間に浸透し、同じ文字を共有する一つの文化圏を作り上げる、それが漢字の秘められた力でした。

英語のアルファベットなど多くの文字はその国の言葉を話せなければ使えません。しかし、漢字は中国とはまったく言葉が違う日本でも千年以上使われてきました。中国でも、何度か断絶の危機はありましたが、三千年以上に亘って使われ続けています。たくましい文字です。17世紀清の時代には、漢字に断絶の危機が訪れていました。金(女真族)や元(モンゴル帝国の中国王朝)などの異民族王朝は漢字に変わって自らの文字を普及させようとしました。満州国が建国した清も同様に満州文字(表音文字)を公文書に使い、全土に普及させようとしました。しかしその計画は頓挫しました。一転して、清の皇帝は皇太子に漢字を学ばせることを決意します。その最初の教育を受けたのが第四代康熙(こうき)帝でした。康熙帝の命のもと漢字の集大成として編纂されたのが康熙字典で、五万字を収録し、三十六巻に及びました。その編纂の理由を康熙帝はこう記しています。「およそモンゴル、西域、ヨーロッパの諸国は表音文字で国を治めている。しかし、多くの言葉があるこの国で、それはことのほか難しい。」 中国で漢字が使われ続けてきた理由は、この国に住む多様な人々にこそ漢字(表語文字)が必要とされたからかもしれません。

番組の内容に加えて、漢字圏の人々に日本語を教える時、漢字を使って説明するとスムーズに伝わることを思うと、改めて漢字ってすごいなあと思いました。

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