西 村 洋 子 の 雑 記 帳 (15)    

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2012年1月11日(水)

明けましておめでとうございます。今年は大災害のない一年でありますように。

2011年12月25日(日)の朝1:20〜2:33でNHK総合「ワンダー×ワンダー プレゼント・オブ・ナイル」という番組が放送されましたが、なかなか良かったです。番組冒頭で「どうしてクリスマスにエジプトなんだ? それはクリスマスと言えばプレゼント。史上最大のプレゼントはナイルの賜物。」という説明にズデッとこけました。「エジプトのキリスト教徒たちがクリスマスを始めたから。」が答えではなかったので、そう来たか...と思いました。番組の焦点はナイル川が運んできた黒い土はどこから来たのか?でした。けれども地質学や気候学の説明がとてもわかりやすくて良い番組でした。

古代エジプト人は第一カタラクトで水が渦巻いているのを見て、ここがナイル川の源流だと思いました。実際には川底の岩に水の流れが当たって渦巻いているだけで、ここから水が湧き出しているわけではありません。皆さんもご存知のように、ナイル川はハルツームで青ナイルと白ナイルが合流して北上しています。白ナイルは一年中水量は変わりませんが、青ナイルは夏になると、ふだんの数十倍の水が流れ込むそうです。そこで、俳優の榎木孝明氏は青ナイルの源流があるエチオピアに向かいました。首都アジスアベバは標高2400m、人口300万人の大都市で、そこにエチオピア学研究所があります。建物はかつての皇帝の宮殿だそうです。ここで榎木氏は水理地質学者のセイフー・ケベデ博士と出会います。青ナイルをさかのぼるのはとても危険な旅で、1968年にようやくイギリス軍の精鋭部隊が初めて青ナイルの踏破に成功したほどです。それまでは未知の世界だったのですね。

エチオピアは6〜9月に雨季になります。それはつぎのような原因があるからです。まず北半球が夏になると、ユーラシア大陸の南の方が太陽の熱で熱くなります。すると空気も熱くなって、強い上昇気流がインド大陸で起こりまする上昇気流が海の上の湿った空気を引っ張ります。さらに、巨大な風が、アフリカ大陸の東岸に沿って大きくカーブしながら、インド洋全体に広がります。その風がインド洋に突き出たアフリカの角(ソマリランド)を通過します。そのとき、湿った空気がエチオピア高原に当たって激しい雨に変わります。これがエチオピア高原の雨季です。

標高2200mのところにゲンネットマリアン(「楽園聖母村」)という村があります。そこの畑の土はエジプトの畑と同じ粘土質の、黒い土です。青ナイルは谷を削って流れる時に、この黒い土も流れ出していきます。つまり黒い土は4000km上流の高原からナイル川によってエジプトに運ばれていたのです。黒い土を含む濁流は一ヶ月かけてエジプトに辿り着きます。

ではなぜ黒い土がエチオピアにあるのでしょうか? ここでセイフー博士がふたたび登場します。今から3000万年前エチオピアが隆起しました。1000万年前に大地溝帯と高さ2000mを越える高原が出来ました。大地溝帯では今も火山が活発にマグマを吹き出していますが、大地が隆起した時も大量にマグマを吹き出しました。マグマが冷えて固まって出来たのが黒い玄武岩です。エチオピア高原一帯は厚さ数百mの玄武岩でおおわれており、ミネラルたっぷりの土が玄武岩から出来ます。こんなに肥沃な土があるのはアフリカ大陸でもここだけだそうです。この黒い土のおかげでエジプト文明が栄えました。エジプトはナイルの賜物と言われますが、エチオピアの人々は神様の恵みだと言っていました。私もこんなに幸運な偶然が重なるのは本当に神様の恵みだと思いました。

2012年2月6日(月)

1月14日(土) 19:00〜19:45にNHK地球ドラマチックで「古代エジプト巨大墳墓の謎」が放送されました。2007年にフランスで制作された番組です。この番組で扱われた巨大墳墓とはルクソール西岸アサーシーフ地区にあるテーベ33号墓(アサーシーフで最大の墓)のことです。約260年前にヨーロッパの探検隊が初めてこの墓に入りましたが、なぜだか約100年前にエジプト当局が壁を築いて内部への立ち入りを禁止したため、長い間調査されず、墓の全貌もまだ解明されていないそうです。しかし、今までまったく調査されなかったというわけではありません。ストラスブール大学エジプト学研究所の創設者ヨハネス・デューミヒェン氏が19世紀に数回にわたって調査しています。デューミヒェン氏は墓の全貌を本にまとめて出版する予定でしたが、出版前に亡くなってしまいました。そこで彼の調査の記録をもとに、ストラスブール大学エジプト学研究所とIFAOが共同調査をすることになりました。調査は二人のエジプト学者クロード・トロネカー氏とアニー・シュバイツァー女史を中心に行われます。

http://fr.wikipedia.org/wiki/Claude_Traunecker

クロード・トロネカー氏はこの2年間何度もこの墓を訪れましたが、奥に入ることを許されずに、多くの時間を控えの間(第一室のこと?それとも前庭のこと?)で過ごしてきました。ほんの数時間前まで過去の調査で発見されたもの(映して欲しかったなあ。)がこの部屋に積み上げられていました。それらがすべて運び出され、ようやく内部の調査が解禁されました。この墓はパディアメンイペトという人物のために作られました。彼の書記座像はカイロ・エジプト博物館(JE37341)にあります。彼は「聖典の奥義を伝授せし者」という称号を持ちます(LÄ IV, 991-992によると、彼の最高の官位は主席典礼司祭)。パディアメンイペトはなぜこのような巨大な墓を造ったのでしょうか?

http://www.corbisimages.com/stock-photo/rights-managed/IH019884/statue-of-petamenophis

http://www.touregypt.net/featurestories/petamenophis.htm

http://www.aegyptologie.com/forum/cgi-bin/YaBB/YaBB.pl?action=lexikond&id=070228173443

ストラスブール大学エジプト学研究所で美術品の管理などにあたっているアニー・シュバイツァー女史がデューミヒェン氏の記録を見せてくれました。墓の平面図には地下三階分のスペースに造られた22の部屋、複数の深いシャフト、地下20mに広がる数百mの回廊などが描かれています。壁にはヒエログリフやレリーフが彫られています。この墓はその位置(テーベ37号墓ハルワの墓の近くにある)と建築様式から紀元前7世紀頃(第25王朝)に造られたと考えられています。クロード・トロネカー氏は「平面図から墓の構造に一貫性を持たせようという意志が感じられる。壁に彫られた宗教テクストからこれは墓に違いない。埋葬室にはおそらく遺体があるだろう。しかし、ここは人が訪れるための場所だったようにも思われる。非常に謎が多い。」と言います。これまでに調査した人は壁に彫られたレリーフとヒエログリフ以外何も見つからなかったと言っていますが、何か見落としているかもしれません。

12月のある朝(2005年12月7日)入口から40mのところにある、エジプト当局によって築かれた壁がついに取り壊されました。数分後壁の向こうにもう一枚壁が発見されましたが、いつ築かれたのか誰にも見当がつきません。エジプト当局のメンバーが最初に足を踏み入れると、中にカートナージュ棺が置かれていました。さらに驚いたのは、急遽配られたマスクも役に立たないほど鼻を突くコウモリの糞の悪臭です。コウモリはとうの昔にいなくなりましたが、悪臭は残っていたのです。トロネカー氏とシュバイツァー女史も中に入りました。どの部屋も2600年以上前に岩をくりぬいて造られています。長い年月の間には火災や地震にさらされ、盗賊に荒らされたこともありましたが、墓は今も設計者が意図した姿を留めています。第四室まで来ると、シャフトがありました。エジプト人の作業スタッフが木製の橋をかけている間、トロネカー氏は横にある階段を一人で下りてみることにしました。先は暗闇です。この墓の設計者はパディアメンイペト自身であると考えられています。古代エジプト人にとって墓は単なる安息場所以上のものでした。この通路はまた改めて調査することにして、トロネカー氏は元の場所に戻りました。シャフトの両端には切れ込みがあり、かつては重い石板で塞がれていたかもしれません。それは墓荒らし達の侵入を阻止するためだったでしょう。埋葬室はこのシャフトを降りた二つ下の階にあるはずです。

まずは火のついたローソクの束を降ろし、十分な酸素があるかどうかを確かめなければなりません。古いはしごが持ちこたえるかどうかも分かりません。洞窟探検家でもあるトロネカー氏が先に降りました。シャフトの下には瓦礫が散乱したもう一つの通路が延びていました。通路はかなり狭く、ロビーのような場所に通じていました。その真ん中に二つ目のシャフトがありました。墓荒らしが道に迷うように墓全体が迷路のようになっています。部屋の壁は「洞窟の書」でおおわれています。トロネカー氏は二つ目のシャフトを降ります。目指すは埋葬室です。トロネカー氏はチームの30m先を移動しています。ついに埋葬室の手前の第二十一室にまでやってきました。埋葬室には壁一面にイミドゥアトが彫られていました。そしてコウモリの糞の下に見事なレリーフを見つけました。シュバイツァー女史は部屋の所々にニッチ(壁がん)があるのに気づきました。おそらく守護神の像が祀られていたのでしょう。しかし、守護神の像もパディアメンイペトの棺も見当たりません。ヒエログリフとレリーフで装飾された壁だけが残されていました。シュバイツァー女史は床が補強されていることにも気づきました。V字型の切れ込みや縁の部分は綿密に設計されており、おそらくカノポス壷を置くために造られたのでしょう。

調査初日の夜トロネカー氏とシュバイツァー女史は墓の中を照らす照明機材を探しにルクソールへ行きました。機材の調達はすべて二人に任されていますが、予算は個人からの寄付金とフランスとエジプトの研究所からのささやかな補助金のみです。彼らは時間をかけて値引き交渉をします。日の出とともにエジプト人チームが照明器具の取り付け作業を始めます。

墓をCGで復元します。外壁の一部を除いて石造建築の外側はほとんど失われてしまいましたが、地下の部屋はすべてもとのまま残っています。とてつもない規模で、調査が成し遂げられなかったのも無理はありません。大変な調査ですが、一部屋一部屋調べて、各部屋の目的が分かれば謎が解けるかもしれません。そしてこの墓を造ったパディアメンイペトの意図が分かるかもしれません。

クロネカー氏は墓碑銘の一部を読みます。「将来生まれる者たちは列をなしてやってくるだろう。」「彼らがこの墓を訪れ、中のものを目にすることを願う。」 碑文の向かい側にはパディアメンイペトの肖像が彫られています。

埋葬室を囲む回廊の真ん中にはなぜかたくさんの石が置かれています。何百人もの労働者達がここで正確無比な仕事をしたでしょう。回廊の北側には三つの小さな部屋があります。これは滅多にない珍しい造りです。通路には壁一面にイミドゥアトが彫られています。イミドゥアトは新王国には王墓にしか彫られることを許されなかった冥界の書です。レリーフは比較的良い状態で残っていました。しかし、通路の両側に交互に残るニッチには小さな像があったはずですが、略奪者によって切り出されていました。三つの小さな部屋はまるで礼拝堂のようです。この一画は死者のためのものだったのでしょうか? それとも遺族が祈りのために使ったのでしょうか? 碑文を一つ一つ書き写すトロネカー氏は、この墓がそれ以前の王国を手本として伝統回帰運動と関係がある、と確信しています。墓が造られた紀元前7世紀当時エジプトはクシュ人によって治められていました。古代の王国の壮麗さに憧れた王は過去二千年にわたるエジプトの歴史を再発見し、過去のしきたりや建築様式を真似ました。パディアメンイペトは古代エジプトの文化遺産を記録し、保管した人物だったとも考えられます。トロネカー氏は「ここはエジプト学者の墓という感じがしてならない。パディアメンイペトは王墓から得た知識を改訂し、すべてここに記したのです。これらを研究すれば、古代エジプトの人々が自国の歴史を再発見した当時に彫った記録の全体像を知ることが出来るでしょう。」と言います。

続いてチームは初日にトロネカー氏が一人で探検した階段を下りていくことにしました。階段の全長は50mです。階段を下りきったところにまたもや深いシャフトがありました。まだ調査は行われていません。シュバイツァー女史がロープを使って降りてみました。すると半分ほど降りたところに壁をくりぬいて造られた部屋がありました。一体なぜここに部屋があるのでしょうか? シュバイツァー女史はこのような部屋は第二の墓に続いている可能性があると言います。もしかしたら、パディアメンイペトの親族が埋葬されているのかもしれません。しかし、墓の存在を示すものは何もありませんでした。それはアーチ型の部屋で、下に降りられるように壁に七つの切り込みが入っていました。このシャフトは他の二つのシャフトよりもしっかりとして大きく、シャフトの底には瓦礫がたまっています。瓦礫を取り除いて、なぜシャフトがここで止まっているのかを調べたら、考古学上面白いことが分かりそうです。壁の切り込みが理由もなく入れられたはずがないからです。トロネカー氏はシャフトの手前にある大きな部屋(第十一室)を詳しく調べてみることにしました。ここには基礎に使われた大きな石がなぜか置かれたままになっています。壁にはピラミッド・テクストが彫られています。トロネカー氏は「下への階段は新王国の王墓のようだ。行き止まりの部屋はもっと古い時代の王墓だろう。そして上の階は礼拝堂が三つある聖堂のようだ。これはつながりのないものをまとめ、高度に組織化された建造物だ。パディアメンイペトは生きている間に真のエジプト学を確立したエジプト学者だったのだろう。先に読んだ墓碑銘はパディアメンイペトからの挑戦状だ。」と言います。

回廊の手前の最初のシャフトは埋葬室がある一画へと続いています。この一画に足を踏み入れるにはロープかはしごを使うしかありません。しかも通路は埋葬室に直接つながっておらず、登ったり降りたりしなければなりません。パディアメンイペトの埋葬室はこの迷路の突き当たりに隠されています。埋葬室に続く通路は葬儀の後永久に封印されたはずです。この空間は死者とその甦った魂のためだけのプライベートなものです。シュバイツァー女史は通路の行き止まりにある部屋に向かいました。その部屋は床から天井まで洞窟の書がぎっしりと彫られていました。壁の保存状態は驚くほど良好で、詳細な研究が行われれば、エジプト学に測り知れない恩恵がもたらされるでしょう。今日知られている古文書の欠けた部分が補われるかもしれません。続いて二人は二つ目のシャフトを降りました。二人は壁があった痕跡を見つけました。埋葬室に続く通路がこの壁の後ろに隠されていたことは明らかです。

なぜ床に大量の瓦礫が残されているのでしょうか? 実際の墓は平面図とは異なる点がたくさんあります。テーベ33号墓の調査は始まったばかりです。埋葬室の壁と天井の保存状態は良好です。しかし棺はありませんでした。棺は盗掘されたとしても破片などの痕跡が残るはずです。パディアメンイペトは初めからここに埋葬されなかったのかもしれません。

パディアメンイペトは政治に直接携わっておらず、高位の神官でもありませんでした。しかし、国中が彼の話に耳を傾けた学者でした。パディアメンイペトは王の宗教面の顧問であり、宗教テクストの権威であり、儀式を司っていました。彼自身は「儀式を研究する者の長」を名乗っています。これは特定の職種というよりも知識人としてのレベルを表しています。パディアメンイペトはその知識によって大きな影響力を持つ人物だったに違いありません。墓兼図書館、それがテーベ33号墓の姿です。墓碑銘にはこう書かれています。「アメン神は来る者を歓迎し、これらの碑文を読み、復元する者に命を与えるだろう。」 トロネカー氏はいつかテーベ33号墓を博物館にしたいと考えています。パディアメンイペトをこれを聞いたら大いに喜んだことでしょう。

古代エジプトのあらゆる宗教テクストが網羅された墓という点でとても興味深い遺跡だと思いました。

2012年3月19日(月)

16日(金)に国立科学博物館で開催中の「インカ帝国展」に行ってきました。なぜか上野に着いたら、涙が出てくるわ、鼻がムズムズするわでスギ花粉がたくさん飛散しているようでした。近畿地方の天気予報では花粉が多いと言っていましたが、東京でも同じなんだなと思いながら、パンダ橋を渡って会場入り口へ。プリントアウトした図録セット券を見せて、図録を受け取り、エスカレーターで地下の会場へ降ります。

インカの起源と初期の歴史はまだよくわからないそうです。インカ国家の形成は遅くとも1300年頃までにはクスコ地方において達成され、1400年頃からクスコの地の外へ拡大を始めたと島田泉・篠田謙一共著『インカ帝国 研究のフロンティア』(東海大学出版会、2012年)、99頁に書いてあります。13代の王たちのうち9代目パチャクティ、10代目トゥパク、11代目ワイナ・カパック、12代目ワスカル、13代目アタワルパの実在が確認されています。図録の年表によると、1476年〜1533年の約60年間がインカ帝国として示されています。ものすごく短期間です。意外でした。

第一部は「インカ : 帝国の始まりとその本質」です。土器は轆轤でも型入れでもなく手捏ねで成形され、幾何学模様で装飾されています。張り子の虎のようなジャガーに支えられた腰掛けは首長が座る玉座なのだそうです。インカの王は太陽神インティで、第一王妃は月の娘コヤだそうです。虹は王家の象徴だそうです。ケロと呼ばれる儀礼用のコップには、赤・緑・黄・青の四色で鮮やかな絵が描かれ、モパモパと呼ばれる木から採れる樹脂で塗装されています。このコップでトウモロコシから造られた酒(チチャあるいはアカと呼ばれる)が飲まれました。その酒は女性達がトウモロコシを噛み砕いて、唾液で醗酵させたものだそうです。(なんか汚らしい) 

織物はアルパカの毛、リャマの毛、木綿で織られ、頭飾りにはコンゴウインコ、オウム、ハチドリなどの色鮮やかな羽根が使われました。アルパカとリャマの毛は、触ってみると、木綿に比べて繊維が細く、ものすごく柔らかくて、温かそうです。ビクーニャの毛で織られた織物は王や貴族しか着られない最高級品でした。大きな耳飾りは貴族であることを表します。織物の模様に見られる八芒星(はちぼうせい)はチュキバンバ地域の伝統を表す図像で、ペルー南部海岸とマヘス川沿いの高地で見られます。棍棒頭の六芒星については説明がありませんでした。目の細かいつづれ織りのチュニック(貫頭衣)は、王からの最も価値ある贈り物の一つだったそうです。インカでは織物が重要だったことが分かります。

重要な農作物はトウモロコシとジャガイモで、標高3500mを超える高地に段々畑(アンデネス)を作り、標高差によって異なる温度や気候条件に合わせて千種を超える品種が栽培されたそうです。大雑把に言うと、ジャガイモは標高2300〜4000mの高地で、トウモロコシは比較的温暖な低地で栽培されました。(この辺すごいと思う) 段々畑には水路が造られ、泉や川から引いた水が上方の畑から下方の畑へ流れていくようになっていました。段々畑を移動するための階段も作られていました。トウモロコシを象った壷はともかく、ジャガイモを象った壷にはジャガイモの芽のような文様が彫られており、妖怪百目(ひゃくめ)のようです。コカの葉は神聖な作物で、供物にされたり儀式に使用されたそうで、コカの葉を入れて運ぶバッグがいくつか展示されていました。

「カミソリの刃一枚入らない」と言われる石組みは、意外なことに、石のハンマーをぶつけて成形されました。石を割るときは木のくさびを差し込み、水分を与えてくさびを膨張させて割るという説明には、古代エジプトと同じなんだなと思いました。

開頭手術を受けた頭蓋骨も展示されていました。陥没骨折などの治療のために行われたそうです。手術には黒曜石を鋭く削った小刀、後には銅製や青銅製のナイフが使われたそうです。

第二部は「インカ : インカ帝国の統治」です。何気なく並んでいるケロは必ず二個一組で、相互補完的な二元性の概念を象徴しています。インカがある集団を征服した場合、インカはその集団の指導者にふんだんの贈り物を与えます。征服された集団の指導者はその贈り物を拒否することも、等価のものを返すことも出来ない。そしてこの贈り物の下賜の際には二個一組のケロでインカ王と征服された集団の指導者がトウモロコシの酒を酌み交わします。この儀式によってインカは征服された集団に服従を義務づけたのだそうです。ただし、同じ外見のケロは相互の密接な絆を表すそうです。その他に、被征服民の首長の娘達を太陽の神殿に仕える女性(アクリャ、織物を織ったり、トウモロコシの酒を造ったりする)にしたり、若い息子をインカ王家に長期間仕える従者にしたり、神聖な品々を「人質」として首都クスコ(ケチュア語で「へそ」の意)に運んだりして、被征服民の忠誠と服従を確保したそうです。またミタと呼ばれる労役が課されたり、ミトマクと呼ばれる入植が行われていたそうです。インカの人々は帝国各地で必要とされる農作物や工芸品の生産にミトマクを採用し、秩序正しく生産的な生活様式と帝国内共通語としてのケチュア語を普及させるのに役立てたそうです。

インカ帝国の最も驚嘆すべき業績の一つが整備された道路網とそれに付随する宿駅、行政センター、倉庫施設、飛脚(チャスキ)で、スペイン人征服者たちも「インカの道はローマの道よりも広範囲かつ効果的に敷設(ふせつ)されている。」と驚嘆したそうです。飛脚たちがキープと呼ばれる結び目のある縄を運んで、王の命令を帝国各地に伝えたり、地方の人口や農作物の収穫などの情報を首都クスコにもたらしたことは有名です。飛脚はリレー方式でなんと一日約280kmを走破できたそうです。すごいですね! 会場では結び目の数字の読み方が解説されていましたね。

インカ帝国は4つの地域(タワンティンスーユ)から成り、帝国の南半分を占めるコリャスーユは銅、銀、錫、砂金が豊富に採れました。また、インカの人々はトルコ石資源の開発にも取り組んでいたことも明らかになっています。それで金・銀・青銅の品々が多く発見されているのですね。ペルー北東部のチャチャポヤス地域は農作物の大規模栽培を行うことが出来、また熱帯雨林なので、材木や色とりどりの鳥の羽根を入手することが出来ました。さらに、砂金、岩塩、辰砂(しんしゃ)も採ることが出来、インカに有形無形の資源を提供したそうです。会場には4体のミイラが展示されており、映像化された日本人研究者(篠田謙一氏かな?)がそれらについて解説してくれます。(最初どこから声が聞こえるのか分かりませんでした) ミイラのCTスキャンやDNA鑑定も行われているそうです。これらのミイラは古代エジプトのミイラとは異なって、人工的に作られたものではないそうです。ちなみに、インカ帝国には死後もミイラとして生き続けるという信仰があり、死者がミイラとして残っていれば、いつまでも子孫を守ってくれると考えられました。そのため、ミイラを家の中に置き、衣服を着せ替え、食事を与えるなど、生きている家族の一員のように扱う地域もあるそうです。また天災に襲われたとき、豊饒を祈願するとき、太陽神や霊に生け贄として幼い子供達が金、銀、クイ(テンジクネズミ)、コカと一緒に捧げられたのですが、そのような子供達のミイラも見つかっています。

インカの最大の敵はペルー海岸部のチムー王国でした。チムー王国は1375年にシカン文化の中心地を征服し、アンデスにおける並ぶものなき経済力と政治権力を持っていました。インカは1470年頃チムー王国の征服によって国政術を学び、絶対的なアンデスの支配者としての正統性を主張出来ました。( 「西村洋子の雑記帳(8)」 2009年8月27日の記事もご覧下さい。) 土器の文様が幾何学模様からトンボや蛾のような昆虫、オウムやハチドリ、カモなどの具象的な文様に変わります。ここでも六芒星の棍棒頭が見られます。ウミギクガイと波はシカン文化の特徴的な図像だそうです。木製の埋葬所の模型は三体のミイラを前にして行われている儀礼の宴席を表しており、モチェ遺跡の月の神殿に供物として埋められていたそうです。三体のミイラは王でしょうか? 王の遺体は古代エジプトのミイラのように内臓処理や防腐処理が行われた後、特別な台座の上に置かれ、ビクーニャの最高級の織物を着せられ、金銀の装飾品で飾られ、輿に乗って祭礼に参加したりしたそうです。そして王は死後も自分の領土を保有し続けたので、新しい王は前王の遺産を相続出来ず、新たに領土を拡大していかなければならなかったそうです。このことはインカ帝国の急速な拡大の原因でもありました。(ここはちょっと理解し難いところです)

第三部は「滅びるインカ、よみがえるインカ」です。第十一代ワイナ・カパックが支配の重点をクスコから北部エクアドルに移し始めると、帝国内に二つの中心があるかのようになり、帝国内の不安定要因となりました。1526年頃ワイナ・カパックがスペイン人が持ち込んだヨーロッパの病原菌によって死亡し、ワスカルとアタワルパが王位継承を巡って内戦を開始します。1532年11月16日フランシスコ・ピサロによって捕らえられた第十五代アタワルパは翌年7月26日処刑されます。ピサロが要求したアタワルパの身代金として帝国中からかき集められた金・銀は溶かして延べ棒にされ、スペイン王家の国庫に吸収されました。こうしてインカ帝国は滅亡しました。

その後、ワイナ・カパックの息子マンコ・インカがピサロたちによって名目だけのインカ王として樹立させられました。けれどもマンコ・インカはスペイン軍の貪欲さに怒りを爆発させ、かつての首都クスコ奪回まで迫りましたが、このとき聖母マリアが出現するという奇跡が起こり(!!)、インカ反乱軍は敗退し、ビルカバンバの森に立てこもり、インカ帝国の復活を願ってトゥパク・アマルまで4代の王が立ちました。しかし、1572年9月24日当時の副王フランシスコ・デ・トレドによってトゥパク・アマルが処刑され、長い植民地時代が始まります。トゥパク・アマルを捕縛した功労者マルティン・デ・ロヨラ(イグナティウス・デ・ロヨラの甥)は、ビルカバンバ朝第二代サイリ・トゥパクの娘ベアトリス・ニュスタを花嫁として与えられます。

征服後の社会を生きたインカの王族の中には、スペイン人の支配を従順に受け入れ、スペインの下級貴族並の待遇を得て、厳しい納税義務や強制労働から免れ、平穏な日々を送る人々もいました。彼らはインカの伝統文化とキリスト教文化の融合を体現しました。しかし、厳しい納税義務や強制労働にあえぐ一般先住民は、いつか再びインカが現れ、苦しみのない新しい社会がやってくるのではないかと期待しました。植民地時代アタワルパの首が切られる場面(本当は絞首刑)を描いた絵画がたくさん描かれました。地中に眠る切断されたインカの首から胴体が成長して完全な身体が出来上がるとき、再びインカが戻ってくるという信仰は「インカリ神話」と呼ばれます。こうしした状況において立ち上がったのが、トゥパク・アマルの末裔を名乗るホセ・ガブリエル・コンドルカンキ、いわゆるトゥパク・アマル2世で、1780年に蜂起しますが、結局副王によって鎮圧されてしまいます。このような歴史を知ってから岡田裕成・齋藤晃共著『南米キリスト教美術とコロニアリズム』(名古屋大学出版会、2007年)を読むと、面白いでしょう。

第四部は「マチュピチュへの旅」です。マチュピチュはケチュア語で「老いた峰」を意味し、「インカの聖なる谷」「天空の都市」と呼ばれています。図録によると、16世紀のある文書に第九代パチャクティがこの地を征服したことを記念すべく、彼の王領の中心施設としてこの都市遺跡が造られたと記されています。マチュピチュは近代の集落から離れた近寄り難い場所にあったため、インカ帝国が征服された後400年近くも人目に触れずに守られてきました。マチュピチュが発見されたのは1911年7月24日のことであり、アメリカ人探検家ハイラム・ビンガム氏によってでした。マチュピチュは1983年にユネスコの世界遺産に登録されました。展示の最後にマチュピチュの3Dスカイビューを見ました。コンドルになった気分でマチュピチュの上空から遺跡の細部までを見渡すことができ、とても良かったです。

史学科卒の私には、やっぱりインカ征服後の歴史が一番興味深かったかな? わざわざ東京まで観に行った甲斐がありました。ありがとうございました。

2012年4月4日(水)

3月29日(木)に大阪天保山特設ギャラリー(旧サントリーミュージアム)で開催中の「ツタンカーメン展」に行ってきました。天気は良く、9時半にギャラリーに到着したら、すでに行列が出来始めていました。私も友人と一緒に列に並び、少しずつ前進して行きました。ギャラリーの中の展示会場の入口の手前まで進んだところで、3分間ビデオを見せられた後、10時ちょうどに入場することが出来ました。展示品の数は107点(あれ、122点じゃなかったの?)と少なめでしたが、私たちはもちろん他の入場者達も食い入るように展示品を見ていたので、見終わって会場から出てきたらもう12時半になっていました。そしてギャラリーから出た時点で待ち時間は150分になっていました。朝一に行って、本当に正解でした。

今回のツタンカーメン展は「何も足さない、何も引かない、サントリーウイスキー山崎」の如しでした。展示品が一級品ぞろいなので、それらをじっくりみるだけで、古代エジプト文明の素晴らしさを十分に実感できました。1965年に開催されたツタンカーメン展もきっと素晴らしかったことと思いますが、私が今までに見たエジプト展の中では今回のツタンカーメン展が断トツで最高でした。近年は毎年のようにエジプト展が開催されていますが、どのエジプト展もミイラ、来世観、葬祭慣習をテーマにして、馴染みのない新王国以降の遺物ばかりが展示されるので、あまり興味がわかなくなっていました。当時の政治状況や王族の日常生活まで垣間みることの出来るエジプト展はなかなかありません。今回ツタンカーメン展を見る機会を与えてくださったザヒ・ハワス博士とその他大勢の関係者の方々に感謝します。

展示会場は6つのステージに分けられています。第1ステージは「ツタンカーメンの世界 : 新王国」です。展示番号1、ツタンカーメン王の立像は背柱に王のエピセットとカルトゥーシュが彫られていますが、ツタンカーメン王の即位名ネブケペルーラーのうちネブケペルーが削られています。王の腰布(シェンディト)の前方部分は実際にはどうやって張り出させていたのでしょうか?  展示番号2、アメンヘテプ2世立像は木像で、全体に瀝青(れきせい)が塗られています。黒い石材から作られたように見せるためだろうかと思いましたが、図録の解説によると、ツタンカーメン王の埋葬室入口に立つ番人の像と同じく、オシリス神の豊饒と再生を表しているそうです。目に象眼されていた貴石やウラエウスは失われていて、右腕と両足先もなく、とても痛ましい姿だと思いました。展示番号3、トトメス4世と王母ティアの座像。父アメンヘテプ2世が王妃と並ぶ群像を作らなかったのに対し、トトメス4世は王妃ではなく母と並ぶ群像を作ったという点で、二人とも異例です。展示番号6、召使いを象った軟膏容器。男性が担ぐとても大きな壷には、よく見ると、飛び跳ねる子牛が描かれています。飛び跳ねる子牛は若々しい生命力を表しています。男性はプリーツのある腰布を着用しており、アマルナ時代の作品であることがわかります。展示番号7、泳ぐ少女を象った化粧用スプーン。図録の解説によると、カツラをつけ、黄金の襟飾りと二本の金帯以外何も着用していない少女の姿は性交渉の用意があることを暗示しているそうです(!)。ということは、当時のエジプト人はこのスプーンですくったよい香りのする軟膏をつけて、セックスをしたということですね。展示番号9、アメンヘテプ2世のアンク形水差し。「生命」を表すアンクは水と深い関連があり、このアンク形水差しから水を注がれた王は永遠の命を保証されたそうです。展示番号10、彫像の顔面部分。この彫像は黒曜石から作られていますが、黒曜石がエチオピアかアナトリアから入手されていたとは知りませんでした。この彫像はアメンヘテプ3世を表していると考えられていますが、もしかしたら王妃ティイを表しているかもしれないそうです。柔和な顔は女性らしく見えます。展示番号11、アメンヘテプ3世像。この小さな凍石製の彫像は第一回セド祭の後に作られたものだそうで、背柱はオベリスクになっています。「天空」を表すペトのサインで囲まれた四角の中に王のエピセットとカルトゥーシュが彫られていますが、ペトのサインの上にもカルトゥーシュが彫られており、王が至高の存在であることを示しているそうです。展示番号19、アメンヘテプ3世と王妃ティイの銘入りチェスト。脚の部分が長く、高さが41cmもあります。この美しいチェストには何を入れたのだろうかと思って図録を見ると、宝石箱あるいは化粧箱と書いてありました。展示番号20、カエムワセトと妻マナナの彫像。この群像はブバスティス(現代名ザガジグ)で発見されましたが、主任査察官ラビブ・ハバシュ氏の勧告に違反して、考古学調査がなされる前に遺跡(バステト女神の礼拝堂か?)の上に病院が建設されてしまったそうです。遺跡の方が大事か現代人の生活の方が大事か、悩むところですね。カエムワセトの顔は彼に敵対する者によって故意に破壊されています。しかし、背柱には6行の碑文がほぼ完全にはっきりと残っています。カエムワセトの胸にはアメンヘテプ3世のカルトゥーシュが刻まれています。展示番号21・23・24は王妃ティイの両親であるユヤとチュヤの墓から発見された石製容器やガラス容器を模造した木製容器です。木の上に漆喰を塗って彩色しているとは思えないほど美しい容器です。展示番号22のガラス容器はトトメス4世時代に王家の谷36号墓に埋葬されたマイヘルペリの墓(1899年に発見されたとき、ほとんど未盗掘だった!)から発見されたもので、粘土と亜麻布で蓋をされています。展示番号18、反物の模型。亜麻布の反物の模型まであるとは驚きでした。実物の亜麻布は腐食してしまうので、模型が副葬されたのだそうです。展示番号25、ガゼルと魚の文様浅鉢。ファイアンスの青の美しいこと! 展示番号27、アメンヘテプ2世の銘入りパピルスの巻物の模型。書記座像がよく手にしているものです。この例では巻物には王名が記されています。展示番号29、アメンヘテプ2世の船の模型。二本の舵櫂もついています。甲板室の真ん中にはマストが立てられていたそうです。船体には敵を踏みつけるスフィンクスの姿をした王や敵を討つメンチュ神が多数描かれているので、てっきり戦艦かと思いましたが、図録によると、冥界を航行するための船だそうです。

ちなみに、図録の解説はすべてザヒ・ハワス博士によるもので、とても詳しくて、考古学者らしい説明だと思いました。図録にはJE(カイロ・エジプト博物館の受け入れ台帳)の番号、CG(カイロ・エジプト博物館の総合目録)の番号の他にSRの番号が記されています。何の略号だろうかと思っていたら、後日知人がギザに建設中の大博物館(GEM)のスペシャルレジスターであると教えてくれました。図録の写真もすばらしい出来映えです。展示会場では見られなかった部分もはっきりと見ることが出来ます。サンドロ・ヴァニーニ氏の撮影になるものです。作品解説にもまして重要なのは、各ステージの冒頭にある解説です。ツタンカーメン王のDNA検査、KV63の調査、ツタンカーメン王の死因、王家の谷でのその他の重要な調査についてなどが述べられています。ナショナルジオグラフィックチャンネルでこの数年間に放送されてきた一連のエジプト番組を見ていなかった方々には有り難い解説でしょう。

第2ステージは「古代エジプトの人々 : 精神性」です。展示番号30、レシの彫像。この彫像は王のハレム(後宮)があったメディネト・エル・グラーブの墓地で発見されたので、レシはハレムに属する貴婦人だったと思われます。手に持っているマイクのようなものは何だろうかと思って図録を見ると、金箔を張られたロータスの花だそうです。この彫像が置かれていたミイラは空気に触れるや否や塵と化してしまったそうです。ああ、はかないことよ...。展示番号31、プタハメスのシャブティ。青・黄・白の多色ファイアンスで作られた精巧で美しいシャブティです。このシャブティはプタハメスの墓からではなくアビュドス(オシリス神の聖地)で発見されたので、巡礼の際に奉納されたものと思われます。展示番号32、ライオンの頭部をもつ女神の座像は、展示番号2のアメンヘテプ2世の立像と同様、瀝青(れきせい)が塗られた木像です。真っ黒な彫像は何かしら異様です。展示番号33、トトメス1世とアメン神、アハメス王妃の三体像。方解石(アラバスター)から作られたこの群像はおそらくアクエンアテン王の時代に破壊され、ツタンカーメン王の時代に修復され、そのときアメン神の顔がツタンカーメン王の顔に変えられたのだそうです。展示番号34、サトアメン王女の椅子。アメンヘテプ3世とティイの娘であるサトアメンが母方の祖父母であるユヤとチュヤに贈った椅子だそうです。椅子の脚部が王女のスフィンクスになっています。王女のスフィンクス像は見たことがありますが、椅子の装飾に使われているのは他に見たことがありません。本来サトアメン王女が父アメンヘテプ3世の妃として公務を執行していたときに使用した椅子でしょうか? 展示番号37、チュヤの内臓包みのマスク。内臓の包みにもこのようなマスクをかぶせていたとは知りませんでした。このマスクはカルトナージュで、その上に金箔が張られています。展示番号46、チュヤのカノポス厨子。厨子の蓋の側面にシェンリングとコブラが描かれていますが、このコブラは何なのでしょうか? 太陽神ラーが夜の12時にその体内を通過するあの大蛇でしょうか? 展示番号38、台に置かれた4つの模造容器。蓋の上の黒ぶちの牛、アイベックス(山羊の一種)、カエル、赤ぶちの牛がとてもかわいいです。これらの動物も豊饒や多産と関連があるのでしょうか? 材質は石灰岩と木となっていますが、容器が石灰岩で、置き台が木です。 展示番号42、アメンヘテプ2世の銘入りウアス杖形祭具。ウアス杖の頂部は動物の頭部のように形作られるけれども、この動物が何なのかは未だにわからないそうです。展示番号41、寝台に置かれたミイラ小像。寝台の側面の模様が王宮の外観(ニッチ・ファサード)を表しているとは知りませんでした。交差させた両腕の下に翼を広げた故人のバーが彫られており、バーがミイラと合体した瞬間を表しているのだなと思いました。展示番号48、トトメス4世のシャブティは付け髭の先端が四角いことから王を表しており、展示番号47、アメンヘテプ2世のシャブティは付け髭の先端が丸いことから神を表しているそうです。王を表すシャブティには王名とエピセットしか銘文がなく、死者の書の呪文6は記されていません。どうしてこのような違いがあるのでしょうか? 王以外の人々のシャブティはオシリスの姿でも現世での姿でも同様に死者の書の呪文6が記されているのに??? 展示番号44、アメンヘテプ2世の小像用ヒョウ形台座。これを見たときは、エジプト革命で破損させられたツタンカーメン王の小像用ヒョウ形台座が日本に来たのかと思いました。他の王にも同様な台座があったのですね。

第3ステージは「ツタンカーメンの謎」です。展示番号53、アクエンアテン王の巨像頭部。王の頭上の4本の羽根は王が大気の神シューの化身であることを示しているそうです。アテン神の初期の名前にはシュー神の名前が組み込まれていたことを思い出しました。展示番号52、アテン神を礼拝するアクエンアテン王一家のレリーフ。アクエンアテン王と王妃ネフェルティティのボディーラインがまったく同じなのはどうなんだろうかと思います。展示番号54、レリーフ習作 : ネフェルティティ王妃。厚さ3.9cmの薄い石灰岩の板の裏には表のネフェルティティ王妃とは逆さにひざまづいて礼拝する人物が彫られています。その人物はヌビア風のかつらを着用した王女と考えられています。しかし、誰なのかは分かりません。展示番号56、王妃ティイの頭部像。なんとこの小さな頭部はフリンダース・ピートリー氏がシナイ半島のセラービト・エル・カーディムで発見したもので、おそらくアメンヘテプ3世がハトホル女神の神殿を増築した際、奉納したものの一つだそうです。王妃ティイは生前からハトホル女神ほかいくつかの女神たちと結びつけられ、神格化されていたそうです。よく見ると、額のダブルコブラの間には王妃ティイのカルトゥーシュがあり、翼のある二匹のコブラに守られています。王妃ティイのきりっとした顔立ちに驚きました。展示番号57、ネフェルティティ王妃の頭部像はアマルナではなく、メンフィスのメルエンプタハ王の宮殿跡で発見されたそうです。なぜそんなところにあったのでしょうね? 展示番号56の王妃ティイの頭部像とは違って、やさしそうな顔立ちです。展示番号58、王女の頭部像。古代エジプトには頭の形を意図的に変形させる習慣はなかったのに、なぜかこの頭部像は後頭部が後ろに長く延びています。これが遺伝病によるものなのかどうかも分かりません。まるでタコの胴体のようです。展示番号59、キヤのカノポス壷。美しい女性頭部の蓋を持つこのカノポス壷はKV55から発見されました。KV55はアマルナの王族の遺物が一緒くたに埋葬されていた墓です。壷の胴体に彫られていた碑文は抹消されていますが、その痕跡からアクエンアテン王の第二王妃キヤのものであることがわかったそうです。ツタンカーメン王のミイラのDNA検査によって、キヤはツタンカーメン王の母ではないことが分かりましたが、このカノポス壷がKV55で発見されたことから、重要な人物だったのではないかと思います。

第4ステージは「ツタンカーメンの墓 : 世紀の発見」です。展示番号60、ダチョウ狩りの装飾付き扇。発見された時にはダチョウの羽根がついていたけれども、その後急速に朽ちてしまったのだそうです。羽根が付けられていた半円形のプレートは意外と小さいです。プレートには狩りの様子が描写されていますが、銘文によると、この時の狩りで捕らえられたダチョウの羽根でこの扇が作られたそうです。扇の杖の部分にもびっしりヒエログリフの碑文が彫られています。友人は両手両足のあるアンクが扇を持って二輪戦車の後に従っているのを興味深げに眺めていました。展示番号61、折り畳み椅子の模型。脚の部分がガチョウの頭部と首に形作られ、しかもガチョウの赤い舌まで薄い赤色の象牙で表現されていることに気づいて、驚きました。展示番号62、儀式用の盾。なぜ儀式用と分かるのかというと、装飾が透かし彫りになっているからです。裏から盾全体に紙が張られていて、裏から見ると光が透けていました。展示番号63、シストラム。テーベで行われた盆祭り、「美しき谷の祭り」で死者のカーを甦らせるために振り鳴らされたそうです。djの音を表すヒエログリフ・サインの形をした金属棒に四角くて小さな銅板が数枚通されていて、振るたびにそれらがぶつかりあって音を出したようです。展示番号65、黄金で死者の書の呪文6が記されたツタンカーメン王の木製のシャブティは、413体のツタンカーメン王のシャブティの中でもとても美しいものです。両手には王権の象徴であるヘカ笏と殻竿(ネケク)を持っていたと考えられています。展示番号67と68、王冠を被ったツタンカーメンの像。両方とも金箔が張られた木像で、目と眉の部分にはガラスが象眼されています。厨子に収められていたときは、亜麻布でおおわれていたそうです。展示番号70、支柱付台座は展示番号69、ツタンカーメンの彫像用厨子の中に置かれました。支柱の台座にはなんと二つの足跡が彫られています。まるで仏足石(ぶっそくせき)のようです。図録では彫像用厨子のレリーフの中の、王妃アンケセナーメンがツタンカーメン王にアンク、ウアス、ヘブセド(「セド祭り」)などがぶらさがった刻み目のたくさんあるレンペトを両手で差し出す場面が、拡大して掲載されています。展示番号71、ツタンカーメンの胸飾り。メンフィスでのセド祭あるいは即位式に関連する装飾が施されています。ツタンカーメンは治世2年が終わる前にアマルナを放棄し、メンフィスに移住しましたが、メンフィスで改めて即位式をしたのでしょうか? 展示番号72と73、ツタンカーメンの殻竿とヘカ笏。会場では気づきませんでしたが、図録の写真から殻竿と王笏の両方の底面と王笏の上部端面にツタンカーメン王のカルトゥーシュがあることを知りました。すると殻竿と王笏は代々の王のために作られたということになります。殻竿と王笏はこのように発見例があるのに、上エジプトと下エジプトの王冠は今までに実物がまったく発見されていないのはどうしてなのでしょうね? 展示番号75、プタハ神像。コバルトブルーの縁なし帽が美しいです。プタハ神の身体は亜麻布ではなく翼でおおわれています。女神の守護を表すのでしょうか? そして三体の彫像が並んでいる中で、プタハ神像の台座の形だけが直方体ではなく、Aa11のヒエログリフ・サインの形をしています。このサインはマアー・ケルー「声正しき者」やマアト「秩序」という古代エジプト語を表す綴りで使われます。台座の形の違いに今まで気づきませんでした。展示番号77、ツタンカーメンの即位名を象った胸飾り。ツタンカーメン王の即位名ネブケペルーラーと有翼スカラベを上手く組み合わせた作品です。スカラベの羽の、ラピス・ラズリ、トルコ石、紅玉髄の象眼がとても細かくて、根気のいる作業だっただろうなと思いました。展示番号78、スカラベ付きブレスレット。ツタンカーメン王が幼少の頃使用していたブレスレットだそうです。展示番号79、有翼スカラベ付き胸飾り。中央のスカラベはそれほど大きくないのですが、グレートサンドシーと呼ばれる西部砂漠の砂丘に散らばる黄緑色のガラスで、隕石の空中爆発の際に砂岩の地表面が溶けて出来たガラスではないかと言われています。それにしても有翼スカラベが持ち上げているのはなぜ月の船なのでしょうね?

第5ステージは「ツタンカーメンの真実」です。展示番号80、ツタンカーメンの半身像です。友人はこのマネキンがたいそうお気に入りです。展示番号83、アンク形鏡箱。中身の鏡は盗まれていました。古代エジプトの鏡は銅製だったのでしょうか? 展示番号86、小型ゲーム盤と駒、さいころ。とても小さなゲーム盤です。けれども、はっきりとヒエログリフの銘文が彫られています。さいころは動物の骨で出来たナックルボーンで、平たい棒でも立方体でもありません。 ゲーム盤も駒もさいころもすべて象牙製です。展示番号87、指輪用宝石箱。象牙製で、王名が彫られている以外は特に装飾はありません。本来この箱の中に入っていた葬祭行列用の金の指輪は、前室の別の箱の中に布に包まれた状態で発見されました。葬祭行列用の金の指輪って通常の指輪とどう違うのでしょうね? 展示番号88、ライオンの飾りのついた化粧容器。蓋の上のライオンも両脇のベス神も赤い舌を出しているのはなぜでしょうね? この舌もピンク色に彩色された象牙だそうです。実物を見て始めて気がついたのですが、底部にヌビア人とアジア人の頭部の装飾があります。ライオンや猟犬に襲われる動物たちと同様ヌビア人とアジア人も混沌の象徴ですが、このように組み合わされた例は初めて見ました。展示番号91、高脚付きチェスト。日本人好みの木製のチェストですが、高価な杉材に似せるために木には彩色が施されているという解説を読んで、驚きました。本当は何の木でできていたのでしょうか? アカシア? シカモアイチジク? 中には展示番号95のツタンカーメンの銘入りガラス製枕が入っていました。展示番号92と93、ツタンカーメンの肘掛け椅子と足台。足台には九つの弓も縛られた異民族の絵も描かれていません。黒檀と象牙で象眼細工が、シンプルながら、とても美しいです。これはツタンカーメン王が子供のときに作られた椅子だそうです。展示番号94、カルトゥーシュ形の箱。この箱り中には王権の儀式で使用される殻竿とヘカ笏などが入っていました。展示番号95、ツタンカーメンの銘入りガラス製枕。頭をのせる部分は狭く、寝るときはカツラを付けないで使用されたと思われます。展示番号96と97、ツタンカーメンの船の模型とパピルスの小舟の模型。ツタンカーメンの墓からは35の船の模型が発見されているそうです。パピルスの小舟は魚や鳥を捕まえるとき、カバ狩りをするときに使われました。こんな小舟でカバ狩りをするなんて危険!と思いますが、墓壁画では王や貴族は確かにパピルスの小舟でカバ狩りをしています。もう一方の船はマストと一本の舵櫂がついた旅行用の船です。ツタンカーメン王の船の模型を全部見てみたいなあ。展示番号98と99と100、ツタンカーメンの二体の胎児(女の子)の木棺(外棺と内棺)とカルトナージュマスク。二人とも死産だったのに、大人と同様マスクと二重の棺を用意してもらえて、幸せなこと。外棺は金箔と樹脂(瀝青ではない)でおおわれています。内棺とカルトナージュマスクは金でおおわれています。

第6ステージは「黄金のファラオたち」です。図録の158頁にはツタンカーメン王の第三の棺の写真が載っています。イシス女神とネフテュス女神の翼で守られているのですね。その上では二羽のハゲワシ(ネクベト女神とワジェト女神か?)が王の遺体を守護している様が表現されています。こんなデザインだとは知りませんでした。展示番号101、ツタンカーメンの棺形カノポス容器。このツタンカーメン展の目玉であるカノポス容器は本来アンクケペルーラー(すなわちスメンクカーラー王)のために作られたものだそうです。展示番号102、ツタンカーメンの黄金の儀式用短剣と鞘。黄金製の短剣は、もちろん実用品ではなく、儀式用です。切れ味はペーパーナイフ並のように見えます。柄の部分のパルメット文様のガラスの象眼がとても美しいです。柄の先端部分にはパルメット文様に囲まれた王の二つのカルトゥーシュが彫られています。鞘の先端部分(表? 裏?)には、動物の頭部が彫られていますが、何の動物でしょうか? この短剣はミイラの腰帯の間に挟んで置かれていたそうです。展示番号105、ハヤブサ形の黄金の胸飾りとおもり。黄金製ですが、とても薄く、少し力を加えるとぐにゃと曲がりそうです。展示番号106、チュヤのカルトナージュマスク。黄金製ではなく、カルトナージュの上に金箔を張り、ガラスや貴石を象眼しているそうです。さらにその上から樹脂を塗っており、かつらや襟飾りの一部が黒くなっています。なぜ樹脂を塗るのでしょう? 私はチュヤのマスクのほほ笑んだ顔が大好きです。展示番号107、チュヤの人型棺。なぜかこの美しい棺は墓泥棒によって持ち出されませんでした。

第7ステージ「王家の谷とその周辺で明らかになったさらなる秘密」については、図録の解説のみで、展示品はありませんでした。ミュージアムショップもすごい人で、数台のレジの前には長い行列ができていました。2時間半も展覧会を見ていたにもかかわらず、あっという間に時間が経ってしまった感じでした。充実した2時間半でした。

後日下記のようなニュースを見つけ、とても残念に思いました...。

http://english.ahram.org.eg/NewsContent/1/64/38308/Egypt/Politics-/Egypts-Indiana-Jones-faces-charges.aspx

図録の解説とあわせて、下記の文献もお読み下さい。

ハワード・カーター著『ツタンカーメン発掘記』(筑摩書房、1971年) ; デローシュ=ノーブルクール著『トゥトアンクアモン』(みすず書房、1966年) ; ニコラス・リーヴス著『図説 黄金のツタンカーメン』(原書房、1993年)。

ちなみに、本で展示されないものについては、下記の12点が判明しています。残り3点については調査中です。

1) 切妻式蓋付き移動用チェスト(Carter 032)  http://www.griffith.ox.ac.uk/perl/gi-ca-qmakesumm.pl?sid=219.122.214.164-1333794600&qno=1&curr=032 ; http://kennethgarrett.photoshelter.com/gallery-image/New-Kingdom/G0000eOLZppqWt00/I0000obB5r8U0j18/C0000f_Q38au9Ddg

2) 縛られたヌビア人捕虜の装飾付き杖(Carter 48C) http://www.griffith.ox.ac.uk/perl/gi-ca-qmakesumm.pl?sid=219.122.214.164-1333794933&qno=1&curr=048c ; http://kennethgarrett.photoshelter.com/gallery-image/New-Kingdom/G0000eOLZppqWt00/I0000WJO2YiSFIXA/C0000f_Q38au9Ddg

3) 銀製トランペット(Carter 175) http://www.griffith.ox.ac.uk/perl/gi-ca-qmakesumm.pl?sid=219.122.214.164-1333795028&qno=1&curr=175 ; http://kennethgarrett.photoshelter.com/gallery-image/New-Kingdom/G0000eOLZppqWt00/I0000xKPasdgm4.Q/C0000f_Q38au9Ddg

4) 儀礼用金箔張り棍棒(Carter 233) http://www.griffith.ox.ac.uk/perl/gi-ca-qmakesumm.pl?sid=219.122.214.164-1333795106&qno=1&curr=233 ; http://kennethgarrett.photoshelter.com/gallery-image/New-Kingdom/G0000eOLZppqWt00/I0000P3zhFoKW898/C0000f_Q38au9Ddg

5) ケペレシュ冠着用の王の小像付き杖(Carter 235B) http://www.griffith.ox.ac.uk/perl/gi-ca-qmakesumm.pl?sid=219.122.214.164-1333795206&qno=1&curr=235b ; http://kennethgarrett.photoshelter.com/gallery-image/New-Kingdom/G0000eOLZppqWt00/I0000n24YY1Uki7I/C0000f_Q38au9Ddg

6) セシェネン冠(Carter 256 4-O, R, S) http://www.griffith.ox.ac.uk/perl/gi-ca-qmakesumm.pl?sid=219.122.214.164-1333795454&qno=1&curr=256,4,o ; http://kennethgarrett.photoshelter.com/gallery-image/New-Kingdom/G0000eOLZppqWt00/I000032.XZGySY28/C0000f_Q38au9Ddg

7) イシス女神とネフテュス女神、両翼展張スカラベの胸飾り(Carter 261M/269A(4)) http://www.griffith.ox.ac.uk/perl/gi-ca-qmakesumm.pl?sid=219.122.214.164-1333978544&qno=1&curr=261m ; http://kennethgarrett.photoshelter.com/gallery-image/New-Kingdom/G0000eOLZppqWt00/I0000KONysxgwYto/C0000f_Q38au9Ddg

8) アラバスター製カノポス容器 : 王の頭部型の蓋(Carter 266c) http://www.griffith.ox.ac.uk/perl/gi-ca-qmakesumm.pl?sid=219.122.214.164-1333795941&qno=1&curr=266c ; http://kennethgarrett.photoshelter.com/gallery-image/New-Kingdom/G0000eOLZppqWt00/I0000K1dEp.kPCws/C0000f_Q38au9Ddg

9) 革製の犬の首輪(JE33774, CG24076) : マイヘルペリの墓(KV36)から出土。 http://kennethgarrett.photoshelter.com/gallery-image/New-Kingdom/G0000eOLZppqWt00/I0000nIdzlG6D7bk/C0000f_Q38au9Ddg

10) 木製人頭蛇身女神像(CG24629) : アメンヘテプ2世墓(KV35)から出土。  http://kennethgarrett.photoshelter.com/image/I0000AJyq9cZa83E

11) 木製牛頭女神像(CG24630) : アメンヘテプ2世墓(KV35)から出土。 http://kennethgarrett.photoshelter.com/gallery-image/New-Kingdom/G0000eOLZppqWt00/I00002_EYKL11K1g

12) 魔術レンガ(CG46042) : トトメス4世墓(KV43)出土。  http://kennethgarrett.photoshelter.com/image/I0000u_XKR3OLVsM

ケネス・ギャレットの写真集はこちらをご覧下さい。ツタンカーメン展の展示物の写真をたくさん含みます。

http://kennethgarrett.photoshelter.com/gallery-collection/Egypt/C0000f_Q38au9Ddg

2012年6月25日(月)

昨夜21:00〜22:00にNHKスペシャル「知られざる大英博物館 第1集 古代エジプト 民が支えた三千年の繁栄」が放送されました。考古学と文字史料の両方から民衆の実像に迫る内容で、しかもメッセージ性「私たちが知っているのは権力者の歴史。しかし、権力者が残した記録からだけでは真の歴史は分からない。」があり、大変良かったですよ。

1753年に創立された大英博物館には約800万点もの収蔵品があり、展示品はそのわずか1%。残りの99%は収蔵庫に眠っています。紀元前三千年頃から紀元前三十年まで約三千年間繁栄し続けた古代エジプトですが、民衆については奴隷のように虐げられていた人々というイメージしかありません。大英博物館の地下にある古代エジプト部門のキング・エドワード収蔵庫には約15万点の収蔵品が保管され、展示室に勝るとも劣らない至宝の数々が眠っています。ジョン・テイラー氏はさらにその奥にある、庶民の墓や住居から出土したおびただしい数の品々を収められた棚からその一部を見せてくれます。古代エジプトのパンや衣服の一部、アイシャドーを入れた瓶などです。庶民のミイラは今まであまり注目されたことがなく、調査はほとんど手つかずのままです。そこで、庶民の実像を解明するため、二体のミイラの化学調査が行われることになりました。一つは百年近く前に大英博物館が購入したミイラで、身長142cm、紀元前700年頃の女性のミイラとしか分かっていません。もう一つは身長52cmの子供の棺ですが、個人を特定するものが何もありません。ともに発見場所は不明です。二体のミイラは大英博物館が提携しているBMIシャーリー・オークス病院に運ばれます。そして、生物考古学者ダニエル・アントワーヌ博士も同席してCTスキャンを使って調査しました。まず子供の棺を調査しましたが、中は空っぽで、棺の足底には何本もの釘が打ち付けられていることがわかりました。おそらく後世の何者かによってミイラが略奪されたのでしょう。ミイラ・コレクターに売りつけるためです。女性のミイラはきれいな歯をしており、骨の形からすると10代後半と思われます。しかし、身体のあちこちの骨が折れており、生前の骨折とは思えない状態でした。庶民のミイラは発掘や輸送の際に乱暴に取り扱われ、破壊されてしまうことが多かったのです。さらに、頭蓋骨の中に縦3cm、横4cmほどの塊が見つかりましたが、それは乾燥して小さくなった脳でした。つまりミイラ処理する際に脳が取り出されていなかったのです。庶民は貧しいながらも自分たちに出来る範囲で大切にミイラ処理をしました。あの世での復活を夢見た思いはファラオも庶民も同じでした。

ジョン・テイラー氏については、下記のURLをご覧下さい。

http://www.britishmuseum.org/about_us/departments/staff/ancient_egypt_and_sudan/john_h_taylor.aspx

今まで庶民に関する遺跡はほとんど見つかっていないので、庶民が実際にどんな生活を送っていたか、詳細を知ることはほとんど出来ません。しかし、スーダンのアマラ西で庶民が暮らした町の遺跡が見つかり、2008年から大英博物館によって大規模な発掘が進められています。それは紀元前1300年の町の跡でした。調査隊のニール・スペンサー氏が説明してくれます。大きなワイン壷が発見されたことから、町の住人の中にかなり裕福な人もいたことが伺えます。町の通りからは何層にも重なったゴミが見つかります。その中には土器のかけらや動物の骨が混じっています。町の人々は通りに向かってゴミを投げ捨てていたので、通りのゴミはどんどん高くなり、それにつれて家の入口も高くなり、とうとう家を建て替えざるを得なくなりました。1.5mぐらい高くなったからです。二世帯住宅の跡も見つかりました。左右二つの家を遮る中央の壁は、年代測定の結果、後から取り付けたものと分かりました。このことから古代エジプト人が家族単位のプライバシーを大切にしながら暮らしていたことが分かります。高さ8mの周壁に囲まれたこの町には400人ほどの人々が暮らしていました。ナイル川のそばに広がる豊かな耕作地。人々はここで家族とともに暮らしていたのです。

アマラ西調査プロジェクトについては、下記のURLをご覧下さい。

http://www.britishmuseum.org/research/research_projects/all_projects/featured_project_amara_west.aspx

ニール・スペンサー氏については、下記のURLをご覧下さい。

http://www.britishmuseum.org/about_us/departments/staff/ancient_egypt_and_sudan/neal_spencer.aspx

アマラ西の住居跡から西へ500m離れたところでは墓地の発掘が行われています。ミケイラ・ビンダー女史が説明してくれます。深さ2mほどの墓の中に人骨が散乱しています。これらはミイラにするほどの余裕のなかった人々の骨です。墓には少なくとも12人が葬られていました。アマラ西の人々は一つの墓を同じ一族で使っていました。何世代にも亘り、ここへ来て、先祖を大切に埋葬していたのです。これらの骨は当時の人々の食生活や健康状態を知る重要な鍵でもあります。発掘された骨は大英博物館に運ばれ、分析作業が行われました。取り出されたある腕の部分の骨は骨粗鬆症を示す50代の女性の骨でした。これは古代エジプト人が短命だったとするこれまでの認識を覆すものです。さらに通風の跡を示す骨も見つかりました。骨の表面のくぼみに尿酸がたまって通風になったのです。通風は贅沢病と呼ばれ、食生活と関わりが深い病気です。そこで、食生活の実態を知るため、ダラム大学で発掘された骨のさらなる分析が行われました。注目したのはコラーゲンです。コラーゲンに含まれる窒素と炭素を分析することで人々が食べていたものの種類を特定出来ます。その結果、炭素からは人々が小麦のパンを食べていたことが、窒素からは山羊や羊などの草食動物の肉を食べていたことが分かりました。ベジタリアンでもなく、肉食ばかりでもなく、バランスのよい食生活だったのです。このことから、庶民は絶えず苦しみ、とても不健康で、いつも飢えていたというのは間違った認識であり、古代エジプト文明は他の文明と比べても突出して豊かな暮らしだったと言えます。エキストラの方々が食卓にパンと肉を盛られた皿とワインを注がれたグラスを前に座って食べているのを見ると、確かにリッチな食生活に見えました。

ミケイラ・ビンダー女史については、下記のURLをご覧下さい。

http://www.dur.ac.uk/archaeology/postgraduate/currentpg/?id=8879

しかし、遺跡の発掘調査からでは人々の想いや考え方までは分かりません。ところが文字の解読によって、庶民の心の内までも解明されようとしています。ロゼッタ・ストーンに彫られているヒエログリフ(神聖文字)は1822年にシャンポリオンによって解読されました。デモティック(民衆文字)も近年急速に解読が進んでいます。(そこのところをもっと詳しく!)

大英博物館の一画には古文書の修復を行う部屋があります。リチャード・パーキンソン氏は古代エジプト文字解読を専門とする世界的権威です。

http://www.britishmuseum.org/about_us/departments/staff/ancient_egypt_and_sudan/richard_parkinson.aspx

パピルスの修復には小さな和紙が使われます。糊をつけた和紙でパピルスを補強しながら断片をつなぎあわせていきます。パーキンソン氏は収蔵庫の奥からケンヘルケプシェフのシャブティ像を持ってきました。この人物は200枚ものパピルス(手紙、教科書、会計簿など)を残し、その多くが大英博物館に保管されています。彼はデル・エル・メディーナで暮らしました。南北132m、東西50mの、紀元前1500年以降使用された遺跡です。最盛期には70〜120戸の家が建ち並び、約400人が暮らしていたと考えられています。町のメインストリートに面してケンヘルケプシェフが暮らした家があります。そこで紀元前1200年頃父パーナクト、母セネトネフェレトと一緒に暮らしていました。兄弟がいたという記録はありません。彼は常々父から次のように言い聞かされて育ちました。「子供の頃はとにかく勉強せよ。そうしないとダメな大人に成ってしまうぞ」。当時の子供達は書記を目指していました。というのは、書記は当時の庶民がなれる最も地位の高い職業だったからです。子供達の学習ノートには文字の中に赤い×印があり、その下に教師によって問題の正解が書き込まれています。通称「ラブレター」と呼ばれるケンヘルケプシェフのパピルスには17編の愛の詩が書かれています(土居泰子著『古代エジプト 愛の歌』、弥呂久、2005年、pp. 138-141参照)。庶民にとって、恋愛をし、結婚をして、子供をもうけることは、何よりも大切なことでした。夫婦円満の秘訣は「妻をふさわしい方法で愛せ。生きているかぎり、彼女の心を喜ばせよ。」(「プタハヘテプの教訓」第21の教訓)です。ケンヘルケプシェフはその後王家の谷で働く職人達を監督する職に就きました。王家の谷にはケンヘルケプシェフのサインがいくつも残されています。またケンヘルケプシェフのパピルスには上司との付き合い方も記されています。「上司の命令には逆らうな。部下であるかぎり上司の言うことは絶対だ。ためになることもあると思え」。(どの教訓に書かれているのかしら?) 40cmほどの石板には労働者の名前、欠勤理由、欠勤した日付が書かれています。いわゆる労働者の出勤簿です。欠勤理由は「自分の誕生日」「サソリに刺された」「ミイラ作り」「二日酔い」などです。(日本でも誕生日は休んでも良いことにしたら良いと思います。「ミイラ作り」というのは何でしょうね? デル・エル・メディーナに住む職人が亡くなったとき、ミイラ職人の役割をするのでしょうか?) 労働者達の出勤を管理するのもケンヘルケプシェフの仕事で、大変だったでしょう。また、ケンヘルケプシェフは仕事上の悩みから不眠症に悩まされていたと思われます。彼のパピルスのお守りには「悪夢よ、退散せよ。」という眠れないときに使われる呪文が書かれています。ケンヘルケプシェフは43年間書記であり続け、デル・エル・メディーナに住み続けました。町を望む高台には彼の墓もあります。記録によると彼は60代の後半でこの世を去りました。私たちはケンヘルケプシェフが残してくれた記録のおかげで当時の一般の人々の暮らしぶりや考え方が分かります。パピルスに残された言葉には現代に通じるものもあります。「母が与えてくれたものを倍にして返しなさい。お前が生まれてからずっと尽くし続けてくれたのだから。」(「アニの教訓」第38の教訓)です。古代エジプト人と現代人は何も変わりません。

ケンヘルケプシェフのシャブティ像

http://www.flickr.com/photos/lenkapeac/364472042/in/pool-68357217@N00/

労働者の出勤簿

http://www.flickr.com/photos/lenkapeac/364509171/in/pool-68357217@N00/

ケンヘルケプシェフのパピルスのお守り

http://www.flickr.com/photos/lenkapeac/364509173/

ケンヘルケプシェフの蔵書については、ニコラス・リーヴス著『古代エジプト探検百科』(原書房、2002年)、174-5頁をご覧下さい。

パピルスに隠された重要なメッセージ、それは古代エジプト繁栄の秘密です。

大英博物館の収蔵庫には紀元前1600年前の数学の問題集「リンド数学パピルス」が収蔵されています。長さ5.64m、幅33cm。デル・エル・メディーナの近くで発見され、87の問題が載っています。例えば「100個のパンを10人で分け、そのうち3人は2倍もらえるとした場合、何個ずつになるか?」「一年に10ヘカト(約50リットル)の油が支給された。一日の割り当てはいくらか?」「直径9ケト(約470m)の円形の土地の面積を求めよ。」 円の面積は現代ではπ×半径×半径=63.585と求められますが、古代エジプト人は(直径−直径×1/9)の二乗、すなわち64と求めています。こうした高度な知識を人々が広く共有することは、古代エジプトの基盤をしっかりと固め、発展を促していく上で、とても重要なことでした。「リンド数学パピルス」にはピラミッド建造の問題も記されています。「底辺360メフ(約190m)、高さ250メフ(訳130m)のピラミッドの傾きを求めよ。」 しかし、このパピルスが記された頃、巨大ピラミッドの建造は千年も前に中止されていました。パピルスの冒頭には「これは約200年前のパピルスから書き写したものである。」と記されています。つまり、この問題集は遥か昔から受け継がれてきたことが分かります。貴重な知識を失わないよう、人々が広く伝承してきたことが長期の繁栄を可能にしました。ヘロドトスは次のように述べています。「エジプトの民は世界中のどの民よりも過去の記録を丹念に保存し、どの国の人々よりもそのことを後世に伝えている」。

頂点に君臨していたファラオも民衆の力と知恵が繁栄には欠かせないことを十分に理解していました。「良き行いにより、お前の下にいる民を栄えさせよ。」(「メリカラー王への教訓」)です。ファラオは民を栄えさせるために様々な情報を広く一般に公開し、伝えていきました。例えば、コム・オンボ神殿の世界最初の暦(農事暦)や医療の情報(手術で使う医療器具、薬の処方箋)です。ファラオがこうした様々な情報を積極的に公開したことが社会全体を活性化させました。

ファラオと庶民の関係を如実に表すパピルス(P. Turin 1880)があります。紀元前1156年にデル・エル・メディーナの職人達が史上初のストライキを行いました。毎月1日に支払われるはずの給料の支払いが遅れていたからです。当時のファラオ、ラムセス3世は訴えから三日後にパンや麦を職人達に与えるよう指示しました。戦争の影響で国全体の穀物が不足していたにもかかわらず、ファラオは民の声を優先したのです。リチャード・パーキンソン氏は「古代エジプトは他の文明と比べてもより公平で、ファラオへの抗議も可能だった。緊張関係もあったが、ファラオと民衆の間には確かな対話が存在した。」と言います。こうした良好な関係が互いの信頼関係を生み、古代エジプト社会の安定をもたらしました。リチャード・パーキンソン氏は続けてこう言います。「三千年に亘る古代エジプトの繁栄はファラオの力だけではなし得なかった。一人一人の民衆の存在が大切だった。古代エジプト文明を担っていた真のエジプト人は、庶民達だったのです」。一人一人の庶民の知恵や努力の積み重ねが高度な文明の礎になっていました。こういうわけで、権力者が残した記録からだけでは真の歴史は分からないのです。

来週の「古代ギリシャ "白い"文明の真実」も期待しています。

NHKスペシャル「知られざる大英博物館 古代エジプト」の本が出版されました。

http://www.amazon.co.jp/NHKスペシャル-知られざる大英博物館-古代エジプト-NHK「知られざる大英博物館」プロジェクト/dp/4140815477/ref=sr_1_2?s=books&ie=UTF8&qid=1340317595&sr=1-2

NHKスペシャル「知られざる大英博物館 古代エジプトの数学問題集を解いてみる」も出版されます。

http://www.amazon.co.jp/NHKスペシャル「知られざる大英博物館」-古代エジプトの数学問題集を解いてみる-三浦-伸夫/dp/4140815469/ref=pd_sim_sbs_b_1

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