古代エジプトの歴史        2006年12月1日  西 村 洋 子

8.  第一中間期 (紀元前2,180〜2,040年頃)(2)

ヘラクレオポリス朝(紀元前2,160〜2025年頃)

ヘラクレオポリス朝の諸王については、その人数も継承順も不明です。プトレマイオス時代のエジプト人歴史家マネトーンがギリシア語で記した『エジプト史』によれば、創設者の名前はアクトーエスです。『メリカーラー王のための教訓』の写本パピルス・レニングラード・エルミタージュ1116A裏面の143行目とテーベの石碑(J. J. Clère et J. Vandier, Texte de la Première Periode Intermédiaire et de la XIème Dynastie, Brüssel, 1948, 18.3; 30, 3)にペル・ヒェティという表現があり、これがヘラクレオポリス朝を指していると仮定されてきましたが、J. F. Quack, Studien zur Lehre für Merikare, Wiesbaden, 1992, p. 84では「ありえない、それはむしろ地域の名前である。」と否定されています。トゥーリン・キャノンの第4欄21行目、23行目、24行目にヘラクレオポリス朝の王名が記されていますが、非常に保存状態が悪く、はっきりと読めません。第4欄18行目にはヘラクレオポリス朝の創設者の名前が記されていると考えられていますが、欠損しています。次のようなものがヘラクレオポリス朝の同時代史料および後世の史料とされています。

1. メイルとリシュト出土の家具にホルス・メリーイブターウィー・メリーイブラーの名前が記されています。

2. ワーディー・トゥミラートのテル・エル・ラタバ出土の石の錘りにネブカーウラーの名前が記されています。『雄弁な農夫の物語』でも王として言及されています。

3. デル・エル・ベルシェ出土の第12王朝の棺のコフィン・テクストにウアフカーラーの名前が見られます。本来王のために書かれたテクストを適用する際のミスと考えられます。

4. ハトヌーブに2か3のどちらかの王の名前を囲んでいたと思われるカルトゥーシュが残されています。

5. 第12王朝の石碑によれば、東部デルタのエル・ハタナにヘラクレオポリス朝の王の神殿がありました。

6. 『メリカーラー王のための教訓』の109行目に「ヒェティ王が教訓で定めた。」と記されています。

7. メリカーラー王の父の名前は『メリカーラー王のための教訓』の1行目に記されていましたが、欠損しています。欠損した名前はヒェティと復元されてきましたが、J. F. Quack, Studien zur Lehre für Merikare, Wiesbaden, 1992, pp. 16-17では復元されていません。

いずれにしても私たちはこれらの王たちの治世年数も知りませんし、王朝の創設者がどのようにして即位したのかも知りません。当時の史料はヘラクレオポリス朝とヘラクレオポリス・マグナの都市が関係あるというマネトーンの主張をはっきりと確証します。ヘラクレオポリス朝最後の王あるいは最後から二番目の王、メリカーラーがサッカーラの古い王の共同墓地にある墓に埋葬されたという事実は、ヘラクレオポリス朝の王たちが自分達はメンフィスの王権の伝統内にいると感じた明らかなしるしですが、非常におそらく王たちは実際にヘラクレオポリスに住みました。ヘラクレオポリス朝の王たちは記念碑を残しませんでした。あるいは少なくとも誰も記念碑を発見されていません。このことはヘラクレオポリス・マグナの遺跡自体の考古学調査が1966年以来途中であるという事実に一部原因があるかもしれません。ヘラクレオポリス朝のピラミッドのどれも今まで確かにサッカーラの共同墓地で確認されて来なかったという事実は、これらがかなり目立たない建造物だった証拠とみなされてもよいでしょう。明らかにヘラクレオポリス朝の王たちは自らの支配の中心地でさえ古王国の方針に沿って強力な中央集権国家を確立することに成功しませんでした。

ヘラクレオポリス朝への同時代の言及の大部分は、主に自伝碑文からなる中エジプト南部と上エジプトからの個人の記念碑に由来します。それらはヘラクレオポリス朝とテーベ朝の戦争に集中する傾向にあります。ヘラクレオポリス朝の時代はまた古代エジプトから伝わってきた最も重要な文学的・哲学的テクスト、すなわち『メリカーラー王のための教訓』と『雄弁な農夫の物語』の歴史背景をも形成しました。それらの起源の正確な状況とテクストの伝承の変転は議論の的であり続けていますが、今日これらの「知恵文学」が実際には中王国に作成されたことに広く行き渡った同意があります。それゆえ最大限の注意がそれらを歴史史料として使うどんな試みでも賢明です。例えば、『メリカーラー王のための教訓』は教訓の受取人の父が東部デルタへのアジア人の侵入を防ぐことに従事しているという背景の叙述を組み込んでいます。全体的な状況を見れば、そのようなシナリオはありそうにないように聞こえません。しかしアジア人の移民が第一中間期の間問題だったという独立した証拠はまだありません。もっとも中王国末期には確かに証明されますが。

社会・文化史におけるヘラクレオポリス時代

ヘラクレオポリス朝の歴史に関するデータの欠如を考慮すれば、ヘラクレオポリス王国が独特の社会・文化的存在とみなされるのかどうか調査することはますます重要であるように思われます。考古学上の証拠を調べれば、私たちはヘラクレオポリス王国の中心地、すなわちメンフィスとファイユーム地域に注意を集中すべきです。考古学上の視点から、中エジプト南部は効果的に上エジプト地域でした。北部では私たちは二重の問題に直面します。利用できる証拠史料は上エジプトからのデータのような豊かで一貫した歴史的枠組みを形成しません。それゆえ信頼できる考古学上の編年を確立することは極めて困難です。さらに王朝の期間内にしっかりと年代づけられる重要な資料グループがありません。それゆえ、どの記念碑がヘラクレオポリス時代それ自体に割り当てられるのか、実際には国家の再統一後の時代と中王国初期にのみ由来するのか、しばしば疑わしいままです。

多くの点で北部における考古学上の資料の発展は南部におけると同様の過程を辿っています。例えば、召使いと工房の木製模型、カートネージュ・マスク、大規模な家族墓はすべて両地域に現れます。埋葬習慣は一般に主として同一です。石製容器とボタン型印章護符のようないくつかの工芸品の種類については、北部と南部は明らかに同じ型を利用しました。考古学上の資料から判断すると、ヘラクレオポリスの社会を形成する共同体群は国の残りの地域と同様な社会的・文化的発展のパターンを経験したように思われます。

しかし、重要な相違点が見落とされてはなりません。例えば、土器の形状の発展は北部でまったく異なる経過を辿ります。ここでは古くから続いている卵形のパターンは南部におけると同様に放棄されませんでした。むしろ、しばしば尖底とまったく独特な円筒形あるいはじょうご状の首のある細長い卵形の壷という一連の非常に特別なタイプが出現しました。第一中間期の間北部で発展した形態学上のパターンは、明らかに古王国の伝統にもっと密接に固執しました。

しかし、ヘラクレオポリス朝の王国でさえ、古王国の貴族社会の様式のエリート文化は存続しませんでした。それゆえ、メンフィス地域における古い宮廷の共同墓地の占有者たちの社会的プロフィールは根本的に変化しました。判断基準のためにまったく古王国の宮廷文化との比較に頼るのが常だった初期のエジプト学者たちにとって、このことは劇的な出来事を示すように思われました。しかし、より広範な背景を比べて、メンフィスの墓地が地方諸都市の共同墓地に似ていた時、私たちが単に非常に異常な状況から比較的通常の段階への変化を証言していることは明らかです。確かに、古王国の終わりにメンフィスがその優勢な地位を失った時、このことは疑いなくその住民達の生活状況における厳しい変化を必然的に伴ったに違いありません。しかし、メンフィスの共同墓地からの考古学上の記録は古王国の終焉後の社会改革あるいは内乱の証拠として解釈されません。

サッカーラ、ヘリオポリス、ヘラクレオポリス・マグナの重要な遺跡では、装飾された供養室と偽扉型石碑を組み込まれた小さなマスタバ墓が証明され、ヘラクレオポリス芸術の様式が評価されることを可能にします。古王国の伝統はのしかかるように現れます。儀式場面と日常生活の場面、装飾の配列、彫刻の様式は密接に古王国のパターンに従いますが、あらゆるものはミニチュアです。エジプトの輝かしい過去の記念碑が手早い検査のために利用でき、その工房の伝統が何世紀間も定着してきた、メンフィス地域とその周辺地域では、古王国の遺産は忘れられることはありませんでした。

20世紀終わりの考古学調査の状態では第一中間期の間これらの伝統が行われた状況の全容を把握することは出来ません。しかし、王国の再統一直後に、第11王朝の王ネブヘペトラー・メンチュヘテプ2世はデル・エル・バハリの自分の葬祭神殿の建設と装飾のためにメンフィスの職工たちと石工たちの熟練の技を利用することが出来ました。私たちが古王国のピラミッド以来証明されてこなかったレベルの熟練の技の突然の再出現を証明できるのは、メンチュヘテプ2世の治世です。

ヘラクレオポリス朝の王国の内部組織

ヘラクレオポリス時代初期の間、上エジプト南部は王の支配を免れました。しかし、王国の再統一までヘラクレオポリス朝の支配下にあり続けた地域では何が起こったのでしょうか? 関連史料は中エジプト南部からの自伝碑文とプロソポグラフィーの記録を含みます。これらの中で、優位にあるのはアシュートの神官長たちの墓です。ヘラクレオポリス時代の後半に、アシュートは上エジプトにおいて最も重要な軍事要塞として出現し、テーベの反逆者たちに対する戦いにおいてヘラクレオポリス朝の王たちに忠実であり続けました。三人の連続する官職保持者たちの自伝碑文は、政治的出来事の経過と支配のイデオロギーに対する現在の見方の両方に関して非常に重要な情報を提供してくれます。

追加の情報はエル・アシュムネインの州長官ネヘリの使者たちによってハトヌーブのアラバスター採石場の壁のグラフィーティ群から得られます。ネヘリの岩窟墓はエル・ベルシャで知られています。これらのテクストがヘラクレオポリス時代の終わりの直後に年代づけられることは非常にありそうに思えます。しかし、確かにそれらの知的外観はしっかりとヘラクレオポリス朝の伝統に根付いています。

アシュートとハトヌーブのこれらのテクストで扱われた話題は、多くの点で、もっと南からのテクストで出くわす話題と似ています。再び危険な状況で自分達の町の面倒を見たという地域の支配者たちの主張が目立った特色を示しています。アシュートの最古の神官長の自伝碑文は不作の年に十分な収穫を確保するために自分がとった灌漑システムを改良する方法の詳細な記述を提供してくれます。さらに、州長官たちの軍事上の武勇が強調されます。テーベの支配者との戦いにおける自分達の成功と自分の州内の公共の安全の確立の両方が強調されます。最後に、地域の権力者たちによる町の神殿の世話が忘れられていません。神殿の建設作業と関連する礼拝に必要な食料の準備の両方が言及されます。

しかし、アンフティフィのテクストとはっきりと異なって、王との密接な関係の維持がアシュートの権力者たちのテクストにおいて重要な役割を果たしています。彼ら自身は由緒ある貴族の家柄の出身であることを主張します。例えば、彼らのうちの一人は子供時代に王の子供達と一緒に水泳のレッスンを受けたことに言及します。さらに、上エジプトでのヘラクレオポリス朝の軍隊の介入が言及されます。それゆえ、ヘラクレオポリス朝の支配は中エジプト南部の地域の支配者たちにとって現実のものでした。

ヘラクレオポリス朝の王国の内部構造に関する史料はきわめて概略的なままです。それにもかかわらず、利用できる資料はヘラクレオポリス朝の君主たちが、特に(おそらく血縁関係、結婚、友情によって)強力な個人的絆があった場合に、王に忠実であり続けた地方貴族の階級を頼ったかもしれないことを示すように思われます。しかし、これらの貴族達は同時に自分達の町を自分達にとって非常に重要であるとみなしたでしょう。この点において、ヘラクレオポリス朝の王国は再び古王国の特徴の一つを継承したように思われます。それゆえ、古王国の構造上の弱さの一つも共有したかもしれません。

コム・ダラの巨大マスタバ墓

この状況において、重要だけれどもかなり謎めいた記念碑は意義深いかもしれません。中エジプトのアシュートの下流約27kmのダラの共同墓地に、コム・ダラとして知られる本当に巨大な泥レンガのマスタバ墓が見晴しのよい場所を占めています。この建築物はまだ本格的に調査されていません。現状では、138×144mの区域が、本来約20mの高さに達した巨大な外壁によって境界を定められています。確かにかつて複合体の一部を形成したに違いない葬祭礼拝堂の遺構はまだ発見されていません。しかし、内部へは建築物の北側の中央から入って、巨大な石灰岩の石板から造られた地下の埋葬室に降りる傾斜道によって達せられました。

この墓の巨大な規模は、その四角い設計図とその埋葬室の位置と共に、直接ピラミッドを思い出させます。しかし、その構造を厳密に分析すると、この建築物が決してピラミッドとして計画されたのではないということが疑いなく明らかになります。実際には、北からの埋葬室への接近は古王国末の個人の墓の建築においてかなりありふれた特徴である一方、上部構造の四角い設計図はダラの共同墓地のもっと小さな墓と比較されます。それゆえ、テーベの王のサフ墓が普通の人々の葬祭礼拝のために建てられたもっと質素なタイプのサフ墓から発展したように、コム・ダラは地域の原型に由来する記念碑的な墓として理解されてもよいでしょう。

土器に基づいて、コム・ダラは第一中間期の前半に年代づけられます。その所有者は知られていません。フイ王の名前は遺跡の別の建築物で再利用されているのが発見されたレリーフの断片に現れますが、そうでなければ証明されていないフイ王との頻繁に繰り返される同定を支持する確かな証拠はありません。しかし、所有者が実際に思いきって王号を帯びたかどうかにかかわらず、墓自体は単なる州長官の役割をはるかに超えた政治的役割への熱望をはっきりと示しています。

実際にこの遺跡で何が起こっていたかを私たちに語ってくれる歴史記録はありません。しかし状況全体がコム・ダラの墓の所有者は実際には、テーベ王が少し後に成功したように、独立した権力の中心を確立することに成功しなかったことを明らかにします。しかし、もう少し推測してみることは魅惑的です。中エジプトの幅広く肥沃な平野では、どの野心的な地域の支配者もすぐに自分が多数の強力な競争者たちに囲まれていることに気づかなければなりませんでした。それゆえ、地理的な状況自体は多数の中エジプトの地域の支配者たちの間で権力の均衡を安定させることに役立ったかもしれません。そのことは次には王の宗主権を維持するのに重大だったでしょう。さらに、ここで、農業上国内の最も生産的な地域の一つで王が重要な利益が危ういのを見て、それゆえ「南部頭部」(すなわちテーベ地域)の遠く離れた地域におけるほど地域の支配者たちの政治的冒険心を大目に見る気にならなかったと仮定することは不自然であるようには思われません。

コム・ダラのマスタバについては、下記のURLもご覧下さい。

http://www.touregypt.net/featurestories/fipp.htm

最後の戦争

ウアフアンフ・インテフ2世がティニス州を攻撃し、北進し、ついにアシュートの州長官たちによってその前進を食い止められた時、諸問題は恐らく主要な問題になりました。少なくとも一度のヘラクレオポリス朝による反撃の記録がイティイブ(アシュートの神官長の順序では二番目)の墓の非常に断片的な碑文の形で残ってきました。イティイブは「南部諸州」に対する成功した軍事作戦を報告します。さらに、「メリカーラー王のための教訓」で語られた叙述は、メリカーラー王の父がアビュドスを奪い返したと主張します。これらの事実が、メンチュヘテプ2世の治世14年の石碑に記録された「ティニスの反乱」と結び付けられるべきかどうかは、推測の問題のままです。

しかし、メリカーラー王の時代の、イティイブの息子ヒェティ2世の墓がテーベの攻撃者たちとのさらなる戦闘に関する報告を含むので、このヘラクレオポリス朝の軍事上の成功が結果に長く続く影響を及ぼさなかったことは明らかです。この戦争の最終段階における一連の出来事の記録は残っていません。しかし、アシュートが武力で奪われたことに疑いはありません。とにかく、アシュートの支配一族はテーベ王の勝利から生き残りませんでした。

メンチュヘテプ2世のさらなる北進に関する情報は欠けています。しかし、前進する度に絶えず戦わなければならなかったということはありそうに思えません。代わりに、中エジプトに対するヘラクレオポリス朝の支配のネットワークがアシュートの敗北後崩壊し、地域の支配者たちが手遅れになる前に勝者に味方したがり、このようにして自分達と自分達の町をテーベ王家によって広められた恐怖から救いたかったかもしれないことはあり得ます。私たちは最後のヘラクレオポリス王の運命もヘラクレオポリスの都市の攻略の詳細も知りません。しかしイフナスヤ・エル・メディーナの共同墓地における最近の発掘は、その葬祭記念碑が中王国初期のある時点で文字通り粉々に破壊されたことを示します。この考古学上の所見をエジプトの北の都の最後の包囲と略奪の証拠として解釈することは魅惑的に思えます。

回顧における第一中間期

現代のエジプト学者たちはまだ広く第一中間期の否定的なイメージを示します。それは混沌、衰退、悲惨、社会的・政治的崩壊の時代、すなわち栄光と権力の二つの時代を分ける「暗黒の時代」として特徴づけられます。しかし、この光景はその時代の同時代史料の評価に部分的にしか基づいていません。それは主として中王国の文学テクストのグループにおいて発展させられた文学テーマを、時々驚くほど単純素朴に、再現します。いわゆる『ある賢人の警告』と『ネフェルティの予言』はこのジャンルの中核を形成しますが、『ハーヘペルラーセネブの不平』と『生活に疲れた男と彼の「バー」との対話』のようないくつかの他の「厭世的」テクストもこのリストに加えられるかもしれません。この種類のテクストでは、無秩序の状態が嘆かれ、物事の本来のあり方と対照させられます。社会秩序は逆さまにひっくり返り、富める者は貧しく、貧乏な者は富み、政治的不穏と不安が国中に行き渡り、行政文書はバラバラに引き裂かれ、同時に多数の異なる支配者たちが政権を握り、国は外国人達に侵入され、社会生活の道徳的基礎は損なわれ、人々は互いに無視し、憎みあい、神聖な書物が汚されます。この一般的な乱れた状態は地上の社会に限られません。それは本当に宇宙の次元に達します。川は時々本来あるべきとおりにもはや流れないと言われ、太陽でさえそのかつての輝きを維持しなかったと気づかれます。

これらのテクストは実際には第一中間期に置かれることを要求しないということに注目されるべきです。それらはいかなる歴史的事項に言及していません。『ネフェルティの予言』では、アメンエムハト1世の到来は、年代学上第一中間期にではなく、第11王朝末になければならない混沌の状態からの救済をもたらすとして予言されます。それゆえ、もし私たちがこれらのテクストが第一中間期の歴史と何らかの関係を持つかどうか決定すべきならば、注意深い精査が要求されます。たとえそれらが第一中間期の歴史と何らかの関係を持っていても、私たちはそれらがどのように実際の歴史的事件を物語るのか正確に調べる必要があります。

第一中間期自体に由来するテクストは中王国の「厭世」文学の顕著な特徴である絶望の調子をまったく欠いています。それらは危機について話すけれども、危機が見事に打ち勝ちます。自分の業績における活気、自信、誇りがその時代の雰囲気を特徴づけます。確かに、第一中間期の自伝碑文と中王国の厭世テクストとの間に、ナイル川の衰退、飢饉、社会的不穏、戦争、国家の基盤に影響する危機のような、多数の目立ったテーマ上の類似点があります。しかし、これらの類似点は、第一に、双方の文学的結びつきを証明します。

テクスト上の証拠のもう一つの側面はさらにもっと十分であるように思われます。第一中間期の碑文では、危機の話は地域の支配者たちの権力を正当化するのに役立ちました。同様にして、後の厭世文学における完全な混沌の時代の非常に複雑にされた光景は、中王国の王たちによって実行された法と秩序の厳しい政治が正当化され、慈悲深く思われ始めさえしたことに対する暗い背景を提供してくれます。それゆえ、中王国の支配のイデオロギーの基礎はしっかりと第一中間期の政治的思想に基づいています。

中王国の「厭世」文学と第一中間期の同時代のテクストとのこのような比較は、どれくらい深く第一中間期の衝撃が中王国のエジプト人の集団意識と社会的・政治的関係に関する彼らの見方に影響を及ぼしたのかを明らかにします。他方、中王国の文学テクストを第一中間期の歴史に関する確かな史料として使おうとすることは極めて心得違いでしょう。ここで示された第一中間期の考察はまったく同時代史料に基づいています。そのあらゆる側面において伝わってきた記録史料を評価するこの試みは、その時代の伝統的な否定的展望に賛成することをさらにもっと難しくします。対照的に、その時代のダイナミズムと創造性に感心させられるはずです。

センウセレト1世がカルナック神殿に第11王朝の祖先、「領主」インテフの彫像を寄進した時、彼は第一中間期の間に地域の支配者たちが権力と政治的優勢のために戦った争いの中に、中王国の王権の起源を認めていました。その政治的重要性を別にして、第一中間期がエジプトの文化史に及ぼした衝撃は否定されるはずがありません。新しい形態論上のタイプが、スカラベ型印章のような非常に成功した新しい考案を含む、物質文化のほとんどあらゆる領域において発展させられました。

しかし、強烈な宮廷文化の影響力が消え、中央政府の大きな弱体化があったとき、とりわけ民衆文化が栄える機会を与えられました。第一中間期に国中の全住民が目立った富を享受しました。彼らはまた文化的表現とコミュニケーションのさまざまな新しい手段を獲得し、彼らの直接の関心の小規模な限界の中で彼らの生活を整えることができました。

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