古代エジプトの歴史        2006年9月16日  西 村 洋 子

5.  第5王朝(紀元前2,500〜2,350年頃)

年 表

古王国 第4王朝 (2,600〜2,500年頃)

第5王朝 (2,500〜2,350年頃) ウセルカーエフ王

サフラー王

ネフェルイルカーラー王

シェプセスカーラー王

ネフェルエフラー王

ニーウセルラー王

メンカーウホル王

ジェドカーラー王

ウナス王

第6王朝 (2,350〜2,180年頃)

太陽神殿と太陽神ラーの優勢

新しい王朝、第5王朝の最初の王はウセルカーエフでした。彼の名前は第4王朝最後の王の名前、シェプセスカーエフと同じ構造です。ウセルカーエフ王は第4王朝ジェドエフラー王の娘ネフェルヘテプエスの息子、すなわちジェドエフラーの孫だったと示唆されてきました。ただし、ウセルカーエフ王と第4王朝との間に何らかの結びつきがあったことは確かですが、正確にどのような結びつきだったのかは不確かです。私達はウセルカーエフ王の治世について何も知りませんし、ウエストカー・パピルスで語られたような出来事を支持する同時代の証拠もありません。(ウエストカー・パピルスの日本語訳についてはこちらをご覧下さい)

ウセルカーエフ王の主要な建築上の業績は太陽神ラーに捧げられた神殿の建設でした。これはトレンドの始まりでした。第5王朝の王たちのうち6人が次の80年間に太陽神殿を建設しました。これらの神殿の名前は神官達の称号群から知られますが、今まで2つだけが位置を突き止められ、発掘されてきました。すなわちウセルカーエフ王のものとニーウセルラー王のものです。ウセルカーエフ王の太陽神殿はサッカーラの北、アブシールにあります。ただし、サッカーラとアブシールの区別は現代の考古学者たちによって生じ、古代にはその区別は感じられなかったという見方が最近の発掘によって確認されるように思われます。

太陽神殿の建設は太陽神の重要性が次第に高まった結果でした。ラー神は今やエジプトで国家神に匹敵するものになりました。各々の王が新しい太陽神殿を建てました。ピラミッド複合体との近接と平面図における王の葬祭記念碑との類似は、それらが現在よりも来世のために建てられたことを示します。太陽神殿は参道によって上方の神殿に結び付けられた河岸神殿からなります。上方の神殿の主要な特徴は、太陽神の象徴であるオベリスクを載せた巨大な台座でした。祭壇は太陽に向かって開かれた中庭にありました。ウセルカーエフ王の太陽神殿には壁のレリーフはありませんでしたが、ニーウセルラー王の太陽神殿では広範囲にレリーフがありました。一方では、それらのレリーフは究極の生命を与えるものにして本質的に動力としての太陽神の役割を強調し、他方では、それらはセド祭の定期的な挙行を示すことによって出来事の永遠のサイクルにおける王の立場を確立しました。太陽船の巨大な泥レンガのレプリカも近くに建てられました。それゆえ神殿は来世における太陽神と各々の王との継続する関係のための個人的な記念碑でした。ピラミッド複合体と同様、太陽神殿は土地を授与され、祭日に現物で寄贈を受けとり、それら自体の職員がいました。

太陽神殿と太陽神ラーの信仰については、「エジプトの世界遺産 3-(5) アブシール編」もご覧下さい

第5王朝の社会

この時代における行政上の最も目立った発展は最高位の官職から王族が撤退したことでした。もう一つの注目すべき特徴は太陽神殿が国の経済システムに組み込まれた見事な方法でした。太陽神殿の神官職への任命はあるものは純粋に名目的で、そのような官職から得られる恩恵を受け取る権利を官職保有者に与えるためになされました。これらの恩恵は職権上賃貸された神殿領を含んだかもしれません。同じことはピラミッド施設の職員への任命にもあてはまりました。神々と死者の世界の要求と生者達の必要との間に紛れもない矛盾はありませんでした。国家の生産物の大部分は理論上故王たち、彼らの太陽神殿、地方神たちの諸神殿の必要のために指定されたけれども、実際にはエジプトの住民の大部分を養うために使われたシステムを思い浮かべることができるでしょう。

古代エジプト人の宗教信仰は地域的に多様で、社会的に階層化していました。実際にエジプトのあらゆる地域にその地方神がいて、地方神は地域の住民達にとって最も重要な神であり、太陽神ラーの国家神レベルへの昇格はこのことに何の影響も及ぼしませんでした。むしろ、年代記パレルモ・ストーンは王たちが今や、神殿にしばしば土地を寄進したり、神殿を租税と強制労働から免除することによって、国中の地方神たちにもっと注意を払い始めたことを示します。

遠征隊はエジプト外の伝統的な場所に、特にワーディー・マガーラ(サフラー王、ニーウセルラー王、メンカーウホル王)とワーディー・ハリト(サフラー王)からトルコ石と銅を、アブ・シンベル北西の採石場(サフラー王とニーウセルラー王)から片麻岩を持ち帰るために、派遣され続けました。サフラー王とニーウセルラー王の治世の間、プント、すなわちナイル上流域とソマリ沿岸との間のどこかにあるアフリカの国から異国の物品(クジャク石、没薬、金と銀の合金)を獲得するための遠征隊への言及があります。ビブロスとの交易は維持されました(サフラー王、ニーウセルラー王、ネフェルイルカーラー王)。アナトリアのマルマラ海の近くのドラクの遺跡でいくつかの第5王朝の王たちの名前が記された物品が発見されたことについては、あいまいなままです。

参考) Egypt's Acquisition of Foreign Goods (and Labor-Power) Mainly in the Old Kingdom: Trade Versus Plunder  by Morris Silver (Economics Department, City College of New York)

http://members.tripod.com/~sondmor/index-10.html

第5王朝の間自分の努力で墓を確保できた神官達と官僚達の数の増加がありました。これらのマスタバ墓のうちのいくつかは、おそらくニーウセルラー王の治世のティの墓(サッカーラ)とプタハシェプセスの墓(アブシール)の場合と同様、古王国で最も大きく、最も見事に装飾された墓でした。それらの多くは王のピラミッドの近辺よりはむしろ地方の共同墓地にあります。王の恩恵への依存がそのように緩まることは、必然的に、彫像とレリーフの形式と芸術上の品質に多様性を伴いました。これらの墓に現れる「理想の自伝」碑文は当時の社会への新しい洞察を提供してくれます。それらの大部分は慣例表現としばしば墓の所有者と王との関係に関連した異例の話題からなりました。これらの傾向は古王国の終わりまで続くことになっていました。

ピラミッド・テクストの時代

変化の兆しはメンカーウホル王の死後現れました。太陽神ラーの地位は影響されないままでしたが、メンカーウホル王の後継者達は太陽神殿を建造しませんでした。ウナス王の治世は長く続きました。彼のピラミッドはネチェリヒェト(ジェセル)王の階段ピラミッド複合体の周壁の南西角にあり、ジェドカラー・イセシ王のピラミッドよりもさらに小さなものでした。約700mもの長い参道には、今は非常に断片的であるけれども、本来注目すべき場面で装飾されました。それはエジプトの王権を斬新な方法で伝えています。例えば、アスワンの花崗岩採石場から王のピラミッド複合体までの柱の運搬のような、ウナス王の治世中の出来事の記録を含みました。しかし、ウナス王のピラミッドの主要な革新であり、古王国の後のピラミッドに特徴的であることになっていたものは、ピラミッド内部の壁に彫られたピラミッド・テクストの最初の登場でした。ピラミッド・テクストは古代エジプトから知られる最古の宗教作品を表します。それらの諸要素のうちのいくつかはウナス王の治世以前に創作され、先史時代からのエジプトの宗教思想の発展をはっきり描きます。亡くなったウナス王は太陽神ラーとオシリス神と同一視され、オシリス・ウナスとして言及されました。オシリス神の宗教教義はピラミッド・テクストでははるかに重要ですが、太陽神と関連した観念も、星優先の概念の名残とその他のおそらくもっと古い概念と同様に、重要です。しかし、ピラミッド・テクストの複雑さは個々の呪文の解釈を難しくし、それらの相互の関係の理解は特に難解です。ピラミッド内にそれらを配置した理由は来世における故王の存続と幸福のために最も重要とみなされたテクストを故王に用意するためでした。おそらく、それらを配置しさえすれば、それらを有効にするのに十分であると考えられました。ピラミッド内のピラミッド・テクストの配置は偶然ではなく、それらが葬儀のような一時的な出来事と関係がありそうにありません。

今や死後故人がオシリス神の王国に入るという信仰が広まりました。本来東部デルタの地方神だったオシリス神は、農耕と本質的に毎年起こる出来事と関連がある地下の(大地と結びつけられた)神でした。毎年の氾濫が退いた後エジプトの土壌の活性化を反映したオシリス神の復活を仮定すれば、オシリス神はおそらく普遍的な死者の神のために選ばれた理想的な神でした。オシリス神の礼拝の発展の初期の段階はまったく明らかではありません。オシリス神は太陽神ラーにふさわしい相対物であり、オシリス神の傑出した地位への上昇は相応する考察によって引き起こされたかもしれません。しかし、私達の文字史料はこのことが正確にいつ起こったのかを確証するのに不十分です。故人は墓の中ではオシリス神の下でイマークー(「尊敬された」)と述べられます。言い換えれば、来世で必要なものはオシリス神との関連の故に満たされました。(「扶養された」とも訳せる)イマークーの概念は、エジプト社会のあらゆる階層に行き渡り、社会の不平等の極端な例を是正した、すばらしい道徳的金言の表現でした。家長が家族全員に責任があるのと同様に、貧者と社会的に恵まれない人々の面倒を見ることは、もっと影響力があり、もっと裕福な人の義務でした。

ピラミッド・テクストについては、「エジプトの世界遺産 3-(2) サッカーラ編」もご覧下さい。 

オシリス神信仰

オシリス神は本来王の葬祭神でしたが、幅広い人気を獲得し、その機能を著しく拡張しました。そして中王国の直前に王だけとの結びつきを放棄しました。しかし、葬祭的側面は常に存続し、オシリス神は常にミイラの状態で示されました。葬祭的側面は主に死の経験に基づいていますが、神話と儀式の力によって、死後の生が保証されたという確信を信者達が受け取ることを可能にしました。

発展させられた姿ではオシリス神は上エジプトの白冠を着用し、ヘカ笏と鞭(ネヘフ)を持っています。白冠はしばしば二枚羽根が追加されたアテフ冠になり、さまざまな複雑なバリエーションがありました。オシリス神の初期の姿において白冠が優勢なのは、オシリス神の上エジプト起源を暗示します。

オシリス神は常に両足をぴったりと結び付けられたミイラの姿で表されますが、このようにして葬祭的意味合いが強調されました。しかし、第5王朝ジェドカーラー・イセシ王の葬祭神殿の石材のレリーフに示されたオシリスの名前を持つ神の図像は議論を巻き起こしました。それは神々の図像の列の一部で、第5王朝の終わり頃に年代づけられてきました。オシリス神の図像の下半身は失われていますが、左腕は自由に挙げられており、ミイラの姿を取っていません。ヘカ笏と鞭(ネヘフ)も見られません。頭には長いカツラを着けています。オシリス神に特徴的なアトリビュートを何一つ持たない人型の立ち姿です。このことはジャッカルの姿をした他の葬祭神、すなわちアヌビス神、ヘンティ・アメンティウ神、ウプワウト神からオシリス神を際立たせるためだったと思われます。オシリス神も本来ジャッカルの姿で想像されたということは、ネフェルカラー王のピラミッドの言葉によって暗示されてきました。それは故王に向かって「あなたの顔はオシリス神のようにジャッカル(の顔)である。」と話します。その後オシリス神の人の姿は明らかにその魅力の最も重要な特徴になり、故王との同一視はオシリス神の人気に貢献しました。

ピラミッド・テクストはオシリス神話の連続した記述を提供してくれませんが、オシリス神の運命と特に故王との関係に関する詳細をあちこちで豊富にほのめかしています。オシリス神はイシス女神の兄弟かつ夫であり、ヘリオポリスの九柱神のメンバーとして示されました。そのグループではゲブ神とヌート女神の名前が明らかに両親としてオシリス神、イシス女神、セト神、ネフテュス女神の前に挙げられました。オシリス神の兄弟セト神は彼を死なせたと言われています。しかし、オシリス神の死については明白な言及は欠けています。オシリス神の場合、彼が死んだという確かな断言はありませんが、あちこちのほのめかしから明らかです。とりわけ彼は常にミイラの姿で表されます。

最古の証拠では、オシリス神は死者の領域の君主の役割を与えられ、故王はオシリス神と同一視されました。第219章はピラミッド・テクストの中で最古のオシリス神の連祷で、「彼(オシリス神)は生きる。この王は生きる。彼(オシリス神)は死んでいない。この王は死んでいない。」と主張します。オシリス神と故王との類比が力説され、王がまだ生きているという主張はオシリス神の継続した生命に基づきました。さらにもっとしばしば、オシリス・ウナスのように名前の並列が起こりました。それは事実上「今やオシリス神となったウナス王」を意味します。

第5王朝の終わりから、オシリス神への言及は個人の墓の中に、たいてい供養文に現れました。しかし、オシリス神との特別な関係をほのめかすものはありません。生きているホルス神である王は、彼の神性の神学的意味合いにもかかわらず、エジプト文学では、人間の弱点を受けやすいことが最近示されてきました。対照的にオシリス神となった故王は、主として死の経験に根付いているので、あらゆることを免れてきました。同様な犯されない尊厳は無数の王でない信者達との同一性を伴います。

ある初期の史料はオシリス神をデルタのヘリオポリスとブシリスに結びつけます。しかし、他の史料はオシリス神を上エジプト、特にアビュドスと結びつけます。さらに、オシリス神はしばしば上エジプトの白冠を着用しました。あるテクストはオシリス神をブシリスにもアビュドスにも結びつけます。デイヴィッド・ロートンはメンフィスの宮廷がエジプト全体の政治目的のために二重の強調を計画したのだろうと示唆してきました。

オシリス神の葬祭的役割は恐怖の念を起こしたでしょうが、復活させられた生命の恵み深い約束は、自然の豊穣のサイクルで、特に水と草木とともに、新しい生命の魅力を通じて、表現されるようになりました。初めはそれは死者のための献水で使われた水でした。しかし、オリオン、シリウス星、新年との結びつきを通じて、オシリス神はナイル川とその毎年の氾濫と関連づけられました。オシリス神はまた先史時代の収穫の神ネプリと同一視され、小麦と大麦の創造者であると信じられました。これと関連していたのは穀物のオシリスとオシリスの苗床の葬祭慣習です。コイアク祭のために、オシリス神の形をした型が目を出し始めた植物で満たされました。

ギリシア・ローマ時代には、オシリス神信仰は、その人間的魅力が強く感情に訴え、他の国々に広められました。ギリシア・ローマの文学作品から間違って推論される観念は、オシリス神の身体の一部がさまざまな地域で聖遺物として崇拝されたということです。しかし、本当のエジプト人の信仰は、オシリス神の身体の各部分は明らかにエジプト諸州と同一視され、その結果オシリス神はエジプト全体と同一視されたということでした。ただし、特別な礼拝はありませんでした。

死者の領域に対するオシリス神の支配はオシリス神を最も重要な役割、すなわち死者の裁判の最高裁判官の役割に導きました。そのような裁判の一般的な概念は古王国初期の史料に現れますが、新王国にはテクストでも絵画でも複雑に発展させられました。いわゆる死者の書の第125章です。ローマ時代には、故人のオシリス神との同一視を強めたいという衝動が故人を神の姿で表現することに見られます。そこでは個人はオシリス神の王冠を着用させられます。オシリス神の前での裁判は他の宗教、特にユダヤ教とキリスト教の終末論に、最後の審判の日の発展とともに、強い影響力を持ちました。

オシリス神については、下記のURLもご覧下さい。

http://www.osirisnet.net/dieux/osiris/e_osiris.htm

★ウセルカーエフ王

ホルス名 : イルマート、二女神名 : イルマートネブティー、黄金のホルス名 : ネフェルビクネブー、誕生名 : ウセルカーエフ

第4王朝ジェドエフラーの王女ネフェルヘテプエスの息子と言われています。第一王妃はギーザに大マスタバ墓を建造したヘントカーウエス1世かもしれません。もしそうなら、ウセルカーエフ王はサフラー王とネフェルイルカーラー王の父ということになります。

サッカーラの階段ピラミッド複合体の北東角にピラミッドを建て、王位の正当性を強化しました。また、アブシールに初めて太陽神殿を建設しました。このとき太陽神ラーの礼拝が絶頂に達し、称号「ラーの息子」は王の称号群の分離できない要素となりました。

上エジプトのトードから柱の断片が発見され、神殿建設を行ったことが分かっています。ブーヘンから発見された印章刻印によりヌビアへの軍事遠征を行ったことが分かっています。エーゲ海のキュテーラ島で発見された王名のある石製容器は、エジプトとこの地域との間に交易があったことを証明しています。

カイロ・フラグメント1裏第二段第一欄に「・・・(ピラミッド)『ウセルカーエフの場所は清い。』のために303人の捕虜(?)と70人の山岳の国(?)の女性達(?)(と一緒に?)連れて来られた。一回目の家畜の頭数調査の時の後の年・・・」(治世3年)、第二欄に「上・下エジプトの王ウセルカーエフ、彼は神殿・・・に寄進した。ヘリオポリスの神霊たち : 彼らのために神の供物を制定すること。新年祭(?)の最初の時と・・・その後の(?)新年祭(?)に4252+x/4255のパンとビールの供物、43頭の雄牛、・・・133羽のガチョウ。ラー神 : 44アルーラの耕地。ハトホル女神(?) : (ピラミッド)『ウセルカーエフの場所は清い。』の前の(?)23アルーラの耕地・・・、・・・に続くもの(?)。(ナイル川の水位)3キュービット2パーム3フィンガー(?)」(治世4年)が記録されています。

バレルモ・ストーンの裏第二段に治世5〜7年の記述があります。第二段第一欄に「ホルス神とセト神の家の財産目録(を作る)3回目の(時?)」(治世5年)、第二欄に「上・下エジプトの王ウセルカーエフ、彼は(以下の神々に)寄進した。ヘリオポリスの神霊たち : 『6日目の』祭毎に20のパンとビールの供物、ウセルカーエフの(地所)・・・から36+1/2+1/4+1/8?アルーラの耕地。(太陽神殿)『ラーの時』の神々 : (ウセルカーエフの(地所)・・・から)24アルーラ(の耕地)、毎日2頭の牛と2羽のガチョウ。ラー神 : 下エジプトの諸州の44アルーラの耕地。ハトホル女神 : (下エジプトの諸州の44アルーラの耕地)。ジェバウト(=ブト)の地所の神々 : 54アルーラ(の耕地と)クソイス州のペーの彼の神殿に台座を建てること。ホルス神 : 2アルーラ(の耕地と)彼の神殿(の壁?)を建設すること。上エジプトの神の宮殿のネクベト女神 : 毎日10のパンとビールの供物。ペルヌーのワジェト女神 : (毎日)10(のパンとビールの供物)。上エジプトの神の宮殿の神々 : (毎日)48(のパンとビールの供物)。三回目の家畜の頭数調査の時。(ナイル川の水位)4キュービット2 1/2フィンガー」(治世6年)、第三欄に「[上・下エジプトの王ウセルカーエフ、彼は(以下の神々に)寄進した]。・・・下エジプトの1704[+x]+1/2+3/4(?)+10/100アルーラの耕地・・・、・・・」(治世7年)が記録されています。

王から寄進を受けた神々はすべて王権とイデオロギー上特に密接な結びつきを持っていることを理解できます。

ウセルカーエフ王については、下記のURLもご覧下さい。

http://www.touregypt.net/featurestories/userkaf.htm

★サフラー王

ホルス名 : ネブハーウ、二女神名 : ネブハーウネブティー、黄金のホルス名 : ビクウィネブー、誕生名 : サフーラー

母はヘントカーウエス1世。

王の治世中に、シナイ半島のワーディ・マガーラで銅が採掘されたことが採掘場に記された王の碑文とレリーフから知られています。また、アブ・シンベルの近くで閃緑岩が採石されたことは、岩壁碑文によって知られます。西部砂漠の採石場が利用されたことはワーディー・グダミのグラフィートによって証明されます。杉木材がビブロスから輸入され、シリアの熊も連れて来られました。プント遠征が行われたことは東部砂漠のグラフィートによって証明されます。ブーヘンから出土した王名のある印章群からヌビアとの交易も行われたことが分かります。不思議なことに、アナトリアのマルマラ海の近くのドラクの遺跡でも王の名前が記された物品が発見されています。

アブシールのウセルカーエフ王の太陽神殿の近くにピラミッドを建造し、新しい王の墓地を開きました。王のピラミッド複合体は大きさよりも、全体の大きさのバランス、石材の色の調和(玄武岩の敷石とアラバスターの祭壇)、レリーフ装飾に重点が置かれました。葬祭神殿の通路に描写されたリビア人に対する勝利は史実ではなく、君主制を高めるための表現と思われます。中庭にはネフェルイルカーラー王の描写が見られます。王の太陽神殿は発見されていません。

コプトスの地方神と王の群像(アビュドス出土、MMA18.2.4)はおそらくカフラー王の彫像を再利用したものです。

カイロ・フラグメント1裏第三段第一欄に「サフラーの彫像6体・・・口[開け]・・・の月、・・・、ホルス神とセト神の家の財産目録公刊(?)の最初の時、・・・周囲を走る年、・・・」(治世2年)、第二欄に「上・下エジプトの王、彼は彼の父のために(?)寄進をした。・・・、・・・」(治世3年)が記録されています。

バレルモ・ストーンの裏第三段に治世5・6年の、第四段に最後の治世年の記述があります。第三段第一欄に「[上・下エジプトの王]サフラー、彼は(以下の神々に)寄進した。ヘリオポリスの・・・ : ・・・息子、200人のウアブ神官達・・・聖船(?)・・・。ペルウルのネクベト女神 : 毎日800の神の供物。ペルネセルのワジェト女神 : (毎日)4800(の神の供物)。セヌーティ礼拝堂のラー神 : (毎日)138(の神の供物)。上エジプトの神の宮殿のラー神 : (毎日)40(の神の供物)。屋根(?)のラー神 : (毎日)74(の神の供物)。(太陽神殿)『ラー神の耕地』のハトホル女神 : (毎日)4(の神の供物)。(太陽神殿)『ラー神の耕地』のラー神 : 下エジプトの第10州の24アルーラの耕地。メス神(?) : ブシリス州の2(00?)(アルーラの耕地)。セム神(?) : (ブシリス州の)2(00?)(アルーラの耕地)。ヘンティイアウテフ : メンフィス州の2(00?)+20+8+1/4+1/8?(アルーラの耕地)。(ピラミッド)『サフラーはバーとして現れる。』のエル-シュのハトホル女神 : 東の地区の2(00?)+20+6+1/4+4/100(アルーラの耕地)。(西の)銛州の1(00?)(アルーラの耕地)。白い雄牛 : 「東の最前」の州の13+20+1/4+2/100(アルーラの耕地)。ホルス神とセト神の家の財産目録(を作る)3回目の時。2回目の頭数調査の後の年。(ナイル川の水位)2キュービット2 1/4フィンガー」(治世5年)、第二欄に「上・下エジプトの王[サフラー、彼は(以下の神々に)寄進した]。・・・九柱神 : 神殿領・・・礼拝堂?、西の地区の王領地。(ナイル川の水位)3キュービット・・・」(治世6年)、第四段第一欄に「[上・下エジプトの王サフラー、彼は](以下の神々に)寄進[した]。西の地区のラー神 : 下エジプトと上エジプトの・・・[アルーラの]耕地・・・、・・・ハトホル女神 : 王領地?・・・、(下エジプトと上エジプトの)204?アルーラ(の耕地)・・・あらゆるもの、もたらされたもの : トルコ石(の国から?) : 6,000?単位の銅?、プント(から) : 80,000(単位の)没薬、6,000?(単位の)琥珀金、2,900(単位の)くじゃく石、23,020(単位の)・・・ドゥ・・・」(治世最後の年)、第二欄に「6回目の?頭数調査の後の年、・・・月・・・日」が記録されています。

ペルウルは本来ヒエラコンポリスにあったと上エジプトの礼拝堂。ペルネセルは本来デプにあった赤冠の礼拝堂で、後にペーにあった下エジプトの礼拝堂ペルヌーと混同されました。屋根(?)のラー神は神殿の屋上の屋外の礼拝堂を指すと思われます。セヌーティ礼拝堂はヘリオポリスにあったと思われます。寄進された耕地の所在地から王領地はデルタに集中していたことが分かります。ヘンティイアウテフはプタハ神のエピセットですが、その正確な意味は不明です。九柱神はヘリオポリスの九柱神を指しています。トルコ石の国はシナイ半島南西部のワーディー・マガーラで、エジプト人が第3王朝以来トルコ石の採掘をしてきた鉱山です。プントはエチオピアのエリトリア地方にあった没薬の国です。

サフラー王については、下記のURLもご覧下さい。

http://www.touregypt.net/featurestories/sahure.htm

★ネフェルイルカーラー王

ホルス名 : ウセルハーウ、二女神名 : ハーイエムネブティー、黄金のホルス名 : セヘムーネブー、誕生名 : カーカーイ、即位名 : ネフェルイルカーラー

母はヘントカーウエス1世。サフラー王の兄弟。第一王妃はヘントカーウエス2世で、ネフェルエフラー王とニーウセルラー王の母。

王は地上の神であり続けましたが、行政官職と神官職の増大により、王権が次第に弱まりました。王の時代に高官達が詳細な自伝碑文を墓壁に彫り始めました。特に宰相プタハウアシュと宮廷官吏ラーウルの自伝碑文が有名です。ニーウセルラー王の時代に死んだ王の理髪師ティは2つのピラミッドと4つの太陽神殿と100以上の地所を監督したことが知られています。

アブシールにピラミッドと太陽神殿を建造しました。第5王朝の王たちによって建造された太陽神殿の中で最大と言われた王の太陽神殿はまだ見つかっていません。葬祭神殿から発見されたアブシール文書は王の葬祭礼拝の組織と当時の複雑な経済的・行政的・宗教的状況への洞察を可能にしてくれます。アブシール文書はジェドカーラー王の治世15〜41年、ウナス王の治世6〜15年、さらに第6王朝のテティとペピ2世の治世まで続きます。葬祭神殿からはネフェルエフラー王からペピ2世までの多数の印章も発見されています。アビュドスのヘンティアメンティウ神殿のための保護勅令は王の治世におけるアビュドスの重要性の増大を示します。王はまたウセルカーエフ王の太陽神殿を増築しました。

ヌビア以外との交易は知られていません。

バレルモ・ストーンの裏第四段に治世1年の、第五段に治世10・11年の記述があります。第四段欄外に「ホルス・ウセルハーウ、上・下エジプトの王、二女神ハーエムセヘムー?」、第四段第三欄に「2カ月7日。神々(の図像)を制作すること。上・下エジプトを統一すること。壁の周囲を走ること。上・下エジプトの王ネフェルイルカーラー、彼は(以下の神々のために)寄進した。神の領地?のセヌーティ礼拝堂の九柱神 : 『九柱神に愛されるネフェルイルカーラー』(という名の)メンフィス州(の町で)、ネフェルイルカーラーの葬祭財団(の管理)下にある4アルーラの耕地(とそれに属するもの?)。ヘリオポリスの神霊たちとヒェルアハの神々 : 『ヘリオポリスの神霊たちに愛されるネフェルイルカーラー』(という名の)東の地域(の町)で、10?アルーラの耕地。東の地域の最前(にあり)、神(すなわち王)の耕地と同様[租税を免除された?]土地?であり、二人の『見る者たちの中でもっとも偉大な者』と彼の地所の神官達と官僚達?(の管理)下にある250+xアルーラの耕地。ラー神とハトホル女神 : それぞれ一つの供物卓、支配者?の穀倉から神の供物210?(単位と)パンとビール(の供物)203単位。それのために?二つの倉庫が作られ、それのために?人々・・・。『スネフェルに愛されるもの』(という名の町)にあるシカモア(イチジク)の(女主人)ハトホル女神(の神殿)に行幸させられたイヒ神の琥珀金の彫像(に)口開けの儀式(を行うこと)。屋上?(の)ラー神 : ・・・同様に彼のためにすること。(ナイル川の水位)3[+x]キュービット・・・」(治世1年)、第五段第一欄に「[上・下エジプトの王ネフェルイルカーラー、彼は(以下の神々のために)寄進した]。ハトヌーブの入口?・・・ネフェル[イルカー]ラーの・・・(太陽神殿)『ラー神のお気に入りの場所』のラー神。彼のために周囲を走ること?・・・フニ王(の葬祭財団)。・・・アルーラの耕地。[家畜の頭数調査の]5回目の時の年。・・・」(治世10年)、「上・下エジプトの王のお出まし・・・南の角でマーティ船を建立すること・・・[太陽神殿『ラー神のお気に入りの場所』の]。上・下エジプトの王ネフェルイルカーラー、彼は(以下の神々のために)寄進した。[太陽神殿]『ラー神のお気に入りの場所』のラー・ホルス神 : 夜の船と朝の船の8キュービットの長さの銅(製の模型)、・・・。ヘリオポリスの神霊たち : 琥珀金。壁の南のプタハ神 : 2+xアルーラ(の耕地)・・・。南のワジェト女神? : 琥珀金・・・。・・・」(治世11年)が記録されています。

王の治世1年は2カ月と7日しかありません。また新しい治世の始まりに重要な神々の彫像を作り直したか、奉納し直したことが分かります。ヘリオポリスの神霊たちに寄進された土地はおそらく東部デルタにありました。ヒェルアハは現在のオールドカイロで、ホルス神とセト神が戦った場所と言われています。ヒェルアハもまた九柱神の主要な礼拝センターでした。東の地域の最前は下エジプト第14州でした。『見る者たちの中でもっとも偉大な者』はヘリオポリスのラー神官長の称号です。寄進された土地は神官長と神殿職員達の管理下にあり、これは神殿の土地保有が神官長に経済力を与えた初期の例です。また王の穀倉から来て、祭壇の上に差し出された神の供物を保管するための倉庫が作られました。次に新しいイヒ神の彫像が作られ、口開けの儀式が行われ、イヒ神の母ハトホル女神の神殿を訪問するための行列が行われたことが記されています。ここでは王とイヒ神の同一視が表現されているのかもしれません。シカモアイチジクの女主人ハトホル女神の礼拝堂はメンフィスの壁の北とギーザのピラミッド群の近くで知られています。ハトヌーブはアラバスター採石場の所在地です。第3王朝最後のフニ王の葬祭礼拝は第5王朝中頃まで続いていたことが分かります。マーティ船は太陽船で、王の太陽神殿の南の角に埋葬されました。ラー神とホルス神の習合がすでに行われており、後にラー・ホルアフティー神の登場に至ったことが分かります。「壁の南にいる者」はプタハ神のエピセットで、プタハ神の主要な礼拝センターがメンフィスの壁の南にある神殿だったことを示しています。

現存するパレルモ・ストーンは王の治世の途中で終わっていますが、まだ記録が続いていたことを示しています。

ネフェルイルカーラー王については、下記のURLもご覧下さい。

http://www.touregypt.net/featurestories/neferirkara.htm

★シェプセスカーラー王

ホルス名 : セヘムハーウ、誕生名 : ネチェルウセル(?)、即位名 : シェプセスカーラー

アブシール出土の印章刻印(P. Kaplony, Die Rollsiegel des Alten Reiches II, 1981, pp.289-294.)からのみ知られています。カプロニーによれば、太陽神殿の名前とピラミッドの名前は知られています。サフラー王のピラミッドの北の掘削跡がシェプセスカーラー王のピラミッドかもしれません。

★ネフェルエフラー王

ホルス名 : ネフェルハーウ、二女神名 : ネフェルエムネブティー、黄金のホルス名 : ネフェルビクネブー、誕生名 : イシ、即位名 : ネフェルエフラー

ネフェルイルカーラー王とヘントカーウエス2世の息子。

葬祭記念碑はピラミッドではなくマスタバ墓の形をしています。王の墓を完成させたのはニーウセルラー王でした。葬祭神殿からはいくつかの王の彫像、多数のヌビア人とアジア人の捕虜達の彫像、行政文書、何百という印章刻印が発見されました。王の葬祭礼拝はペピ2世の時代に途絶え、中王国に少しだけ行われました。

ネフェルエフラー王については、下記のURLもご覧下さい。

http://www.touregypt.net/featurestories/neferefre.htm

★ニーウセルラー王

ホルス名 : セトイブターウィ、二女神名 : セトイブネブティー、黄金のホルス名 : ネチェリービクネブー、誕生名 : イニ、即位名 : ニーウセルラー

ネフェルイルカーラー王とヘントカーウエス2世の息子。ネフェルエフラー王の兄弟。第一王妃はレプートネブー(Berlin 17438)。王女ハーメレルネブティはメンフィスの神官長プタハシェプセスの妻となり、アブシールのマスタバ墓に埋葬される。

王は未完成だった両親の墓とネフェルエフラー王の墓も完成させました。その際父のピラミッド複合体の参道と河岸神殿を自分のものに変更しました。アブグラーブに建造した太陽神殿は最大かつ最も保存状態が良好です。壁のレリーフには王のセド祭の場面、いわゆる「世界の間」と呼ばれるラー神が創造した世界を描いた場面(動物の交尾と出産、デルタへの渡り鳥の飛来、亜麻の収穫、蜂蜜とイチジクなど)、エジプトの州のリストなどが描写されています。

シナイ半島のワーディー・マガーラに王の名前が彫られています。しかし外国との関係は何も知られていません。

王の時代の官僚達はサッカーラに複雑な墓を築きました。例えば、双児の王のマニキュア師たち、ニーアンフクヌムとクヌムヘテプの墓と王の主席理髪師ティの墓があります。

ニーウセルラー王については、下記のURLもご覧下さい。

http://www.touregypt.net/featurestories/niuserre.htm

★メンカーウホル王

ホルス名 : メンハーウ、二女神名 : セトイブネブティー、黄金のホルス名 : ヘジュビクネブー、誕生名 : ホルイカーウあるいはカーイウ(?)、即位名 : メンカーウホル

シナイ半島のワーディー・マガーラの岩壁碑文とアブシールの印章(Berlin 20383)から王の支配が証明されます。アラバスター製のセド祭の彫像(CG40)が発見されていますが、セド祭を行ったとは思われません。さまざまな円筒印章とその刻印も発見されています。王の記念碑はアナトリアのマルマラ海の近くのドラクの遺跡で発見されています。

太陽神殿を建造した最後の王。王の太陽神殿の名前は第6王朝ペピ1世の保護勅令から知られています。王のピラミッドは2008年6月にサッカーラで発見されたピラミッドであると推測されています。このピラミッドはレプシウスが1842年に調査したピラミッドのうちの29番で、本来の高さは45mでした。埋葬室の址から発見されたのは石棺の蓋だけでした。

メンカーウホル王については、下記のURLもご覧下さい。

http://www.touregypt.net/featurestories/menkauhor.htm

★ジェドカーラー王

ホルス名 : ジェドハーウ、二女神名 : ジェドハーウネブティー、黄金のホルス名 : ジェドビクネブー、誕生名 : イセシ、即位名 : ジェドカーラー

誕生名イセシは王の記念碑には現れず、常に即位名で現れます。しかし、王のピラミッド建設の責任者セネジェムイブの自伝碑文、プタハヘテプの教訓、カルナックの王名表では、誕生名で言及されます。

ルーヴル美術館所蔵の容器(E. 5323)には王のセド祭を記念する碑文が彫られています。

王は太陽礼拝を放棄し、太陽神殿を建造しませんでした。そのため、ラー神の礼拝は重要性が減少し、オシリス神の礼拝が表立つようになりました。一方、アブシールでの諸王の葬祭礼拝の再編成を行いました。その結果、諸王の葬祭礼拝に関わる官職とその特権は今や下級官吏たちに与えられました。

ネフェルイルカーラー王の葬祭神殿で発見されたアブシール文書は大部分がジェドカーラー王の時代に属します。ピラミッドはアブシールにではなく南サッカーラに建造されました。アビュドスで王の座像の下部が発見されています。

王の時代に地方官吏達は自治を獲得し、中央行政は弱まりました。そこで、王は王権を強化し、国家行政を改善するために「上エジプトの長官」職をアビュドスに創設しました。官職の世襲の傾向は特に宰相職で明らかになりました。例えば、サッカーラに埋葬されたプタハヘテプの一族とギーザに埋葬されたセネジェムイブ・インティとセネジェムイブ・メヒの親子がいます。二人の宰相、セネジェムイブ・インティとラーシェプセスの王との密接な関係は墓壁に彫られた王からの書簡によって示されます。

シナイ半島のワーディー・マガーラ、ヌビアのトーシュカとトーマスに王の碑文が彫られています。ブーヘンからは印章刻印が発見されています。ダフラ・オアシスへの道の途中にも碑文が残されています。ビブロスからはアラバスター製容器が発見されています。王の葬祭神殿には外国の動植物と諸都市のリストの断片が残されており、外国での活動を証明します。中エジプトのデシャシェのインティの墓には西アジアの要塞の攻略場面が描写されています。プントからは小人のダンサーが連れて帰られました。

高官達が念入りにレリーフで装飾された大きなマスタバ墓を築くようになったので、その制作依頼を受けた職工達は技の完成度が高まり、新しい裕福な階級を形成するようになりました。

ジェドカーラー王については、下記のURLもご覧下さい。

http://www.touregypt.net/featurestories/djedkare.htm

★ウナス王

ホルス名 : ワジュターウィ、二女神名 : ワジュエムネブティー、黄金のホルス名 : ワジュビクネブー、誕生名 : ウニス

王妃達はネベトとヘヌート。王女イプートは第6王朝初代テティ王の妻にしてペピ1世の母。

ピラミッドをサッカーラの階段ピラミッド複合体の南西に建造し、内部の壁にピラミッド・テクストを彫らせた最初の王。700mの長い参道の壁は、敵に対して勝利する王、神々と共にいる王、セド祭、州の行列、季節、アスワンからの花崗岩の柱の運搬、狩りと農耕の場面、手工業、交易、アジアのベドウィンとエジプト軍との戦い、ビブロスから帰還した船、植えている砂漠の住民達からなる伝統的な場面で装飾されています。しかし、史実に基づいた場面は描写されていません。

太陽神ラーは万物の支配者としてすべての神々の中で最高の地位に留まり続けましたが、オシリス神はより強く冥界の王かつ裁判官としての側面を帯びました。アビュドスはオシリス神の主要な礼拝センターとなりました。オシリス神の礼拝は来世信仰に革命的変化をもたらしました。王に代わって、オシリス神が死後の永遠の生命の保証者になりました。来世における存在はもはや王との関係あるいは個人の社会的地位に依存しませんでした。その代わりに、オシリス神との直接の関係における個人の倫理的立場と結び付けられました。王の時代の官僚達は王の参道に沿って自分の墓を築き、理想化された自伝碑文が初期の時代の現実に基づいた自伝碑文に取って代わります。

エレファンティネの岩壁碑文、葬祭神殿とビブロス出土のアラバスター製容器、多くの印章とスカラベに王の名前が記されています。

ウナス王については、下記のURLもご覧下さい。

http://www.touregypt.net/featurestories/unas.htm

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