古代エジプトの歴史        2006年9月3日  西 村 洋 子

4.  第4王朝(紀元前2,600〜2,500年頃)

年 表

古王国
第4王朝
(2,600〜2,500年頃)
スネフェル王

クフ王(ケオプス)

ジェドエフラー王

カフラー王(ケプレン)

メンカーウラー王(ミュケリノス)

シェプセスカーエフ王

第5王朝
(2,500〜2,350年頃)
第6王朝
(2,350〜2,180年頃)

王権と来世

深い宗教的経験と信仰を知らない者にとって、ピラミッド建造のような、巨大で、浪費にしか見えない事業の理由を理解することは容易ではありません。この理解の欠如はそれらの目的と起源に関する多数の難解な理論に反映されています。そのことはエジプト語のテクストの、主題に関する無言によって助長されます。

古代エジプトでは、王は神々と人間との仲介者としての特別な地位を享受し、両方に責任がありました。ホルス名は王をハヤブサのホルス神と同一視し、ネブティ名は王をエジプトの二人の守護女神ネクベトとワジェトに関連づけました。王は通常ネチェル・ネフェル「完全な神」と形容されました。カフラー王の治世以降、王の名前の一つが称号「ラー神の息子」によって導かれました。王は神々によって選ばれ、承認され、死後神々の間に引退しました。儀式を通じて行われた神々との交流は、王の特権でした。エジプトの人々にとって、王は彼らの世界の規則正しい運動の保証人でした。すなわち季節の規則的な変化、ナイル川の毎年の氾濫、天体の予測できる運行、自然の脅威や外敵からの安全です。これらの責任を遂行する際の王の効力はすべてのエジプト人の幸福にとって最も重要でした。国内に反対する者はほとんどおらず、みんな心から体制を支持していました。警察のような威圧的な国家の仕組みはありませんでした。人々は国と結び付けられ、各人に対する支配は閉鎖的な地域共同体によって行われました。

王の役割は王の死で終わりませんでした。というのは王のピラミッドの近くに埋葬された同時代の人々と王の葬祭礼拝に関わる人々にとって、彼らの王との関係は永遠に続いたからです。それゆえ王が生きている間と同様王の死後も王の地位を守ることがみんなのためでした。エジプト史のこの時代には、記念碑性がそのような概念を表現するのに重要な方法でした。国が享受した経済的反映の度合い、労働力の供給源の有用性、高水準の管理運営を仮定すれば、エジプト人が完璧にピラミッド事業を完成させることができたことを疑う必要はありません。

第3王朝の王族、神官、官僚達の墓は王のピラミッドの区域から離れていました。これらの墓のほとんどすべてが泥レンガで建てられ続けました。しかし、第四王朝にはそのような墓は今や石造りで、あたかもそれらの墓自体がピラミッド複合体の一部であるかのごとく、ピラミッドを取り囲みました。なぜなら、墓は王からの贈り物であり、王の職工達によって造られたからです。王の建設活動はピラミッドだけから推測されるよりもさらにもっと大規模でした。全体的なプランに従って建設されたマスタバ墓の広大な区域は、第4王朝に独特で、特にメイドゥームのピラミッド、ダハシュールのスネフェル王の赤いピラミッド、ギーザのクフ王のピラミッドの周囲から知られています。私達が古王国の歴史の復元で使った証拠の大部分は葬祭コンテクストに由来し、偏っている可能性があります。技術水準については、技術が応用された事業から推論されますが、詳細な情報は欠けています。だから、古王国後の史料だけが、ピラミッド建設労働者達が、車輪は知られていたけれども、車を使わなかったことを明らかにしてくれます。

第4王朝のピラミッドについては、「エジプトの世界遺産 3-(3) ダハシュール編」「エジプトの世界遺産 3-(4) ギーザ編」「エジプトの世界遺産 3-(5) アブシール編」をご覧下さい。

古王国の経済と行政

第3王朝と第4王朝の間に行われた大規模な建設作業は国の経済と社会に深い影響を及ぼしました。初期王朝時代の泥れんが造りの大マスタバ墓の建設で要求された相当な努力と専門技術を過小評価するのは間違いでしょうが、石造りのピラミッド建設はそのような事業をまったく異なる局面に高めました。必要とされた専門の建設労働者達の人数は、もし石材の採石と運搬、建設労働者達に必要とされた傾斜路の建設、食料、水、その他必需品の供給のような兵站業務すべて、道具の管理、その他のたくさんの関連する仕事に携わる人々も全員考慮に入れるなら、大勢だったに違いありません。

エジプト経済は奴隷労働に基づいていませんでした。たとえ、作業の大部分が氾濫季の畑で作業できない時に行われたことを考慮したとしても、ピラミッド建設に必要とされた労働力の大部分は農作業と食料生産から外れなければなりませんでした。このことは現存の供給源に相当なプレッシャーを及ぼし、農行生産を増加させ、国の行政を改善し、徴税の効果的な方法を発展させ、追加の収入源と外国の労働力を捜すべき努力への強力な刺激を与えたに違いありません。

農業生産への需要は、食料生産から外された人々を養う必要から、ピラミッド建設の開始とともに劇的に変化しました。管理のエリートに加わった人々の消費と期待は新しい地位と相俟って増加しました。しかし、農業技術は同じままでした。国家の主要な貢献は体制的で、よそから余剰資源を持ち込むことによって地域の飢饉を防ぐ、低水位のような主要な災いの影響を減らす、調停を行うことによって損害を与える地域の紛争を除去する、安全の改善のような行為を含みました。灌漑作業は地域の行政官たちの責任でした。農業生産を増加させる試みは、国家が労働力とその他の資源を提供できた耕地を拡大することに集中させられました。

このことは国のよりよい行政組織ともっと効率的な徴税方法の必要と関連して起こりました。しばしば王領地だった人口の主な集中地は今や州都となり、他方国の都は戦略的にデルタの頂点に置かれ、上エジプト(ターシェマー)と下エジプト(ターメフー)に均衡をもたらしました。しかし、古王国の町の上に後世の集落が重なり、特にデルタでは古王国の町はしばしば現在の地下水面の下にあります。従って、これらの初期の集落跡は考古学上知られていないのも同然です。メンフィスでさえまだ発掘されていません。エレファンティネやダフラ・オアシスのアイン・アシルのような町は例外です。半自治の村や私有地は消滅し、すべて王領地に取って代わられました。初期の家畜の頭数調査は包括的な財政システムに変えられました。

古王国の間エジプトは中央によって計画され監督された国家で、王を頂点としていました。王は理論上あらゆる資源の所有者で、その権力は実際上絶対的でした。王は人々を徴用し、強制労働を課し、租税を獲得し、国のどの資源も自分のものであると主張できましたが、実際にはたくさんの制約を受けました。第3・4王朝の間国家の最高官僚達の多くは王族で、彼らの権威は王との密接な結びつきに由来しました。最高の官僚は宰相(チャーティー)で、宗教的な問題を除いて、国家のあらゆる部門の運営を監督することに責任がありました。第4王朝の間何代も王子達が宰相職をうまく保有しました。

さまざまな官職称号がエジプトの行政に関する主要な情報源です。第4王朝初めの官僚メチェンの墓碑銘のような詳細なテクストは例外です。行政のあらゆるレベルで多数の官僚が相応して増加し、その結果官僚の経歴は王族と何の関連もない有能で文字の読み書きができる新参者に開かれました。官僚達はいくつかの異なる方法で勤務に対する報酬を受け取りました。最も重要だったのは職権上国有地(王領地)の賃貸でした。そのような地所はそれらの職員達が必要とするあらゆるものを事実上生産し、職権上の報酬はそれらの余剰生産物でした。少なくとも理論上、この土地は官職の任期が終わった時王に返還され、別の官僚の報酬として割り当てられました。貨幣を知らない経済システムでは、それは官僚に給料を支払う非常に効果的な方法でした。しかし、それはまた王の資源の重大な侵食でもありました。

王の葬祭礼拝

ピラミッド建造の効果は建築物自体の完成で終わりませんでした。各ピラミッド複合体は無期限に続く故王の礼拝の焦点でした。その目的は王が必要とするものと、そして間接的に、王の家族と王墓の近くの墓に埋葬された官僚・神官達が必要とするものを供給することでした。恩恵を施す者は王自身でした。王は生きている間に自分のピラミッドに葬祭財団を与えるか、あるいは国庫から寄贈されるよう準備をしました。これらの財団から生産物のほんの一部が祭壇や供物卓の上に供えられ、それから神殿職員によって消費されるかあるいはもっと広く再分配されました。その大部分が葬祭礼拝に関わる神官と官僚達、ピラミッド都市に住む職人達を養うために、あるいは王墓ではない墓での葬祭礼拝を支援するために向けられました。このことは国家の生産物を再分配する古代エジプト独特の方法でした。その恩恵はエジプト社会のあらゆる階層に少しずつ滴り落ちました。しかし、ピラミッドの葬祭財団への土地の寄贈は王の勅令で永遠に保護されました。勅令はそれらの土地を永久に譲渡できないようにし、その結果王の経済力が次第に削減されることになりました。

王の葬祭礼拝の準備は諸州でも行われました。王の葬祭礼拝は小階段ピラミッドに集中させられたかもしれません。それぞれの底面積は約20平方メートルで、少なくとも7つ(エレファンティネ、エドフ、エルクラ、オンボス、アビュドス、エル・セイラ、ザウィエト・エル・マイティン)が知られています。エル・セイラにあるピラミッドだけが石碑と彫像によってスネフェル王の治世に正確に年代付けられます。

大規模な建設事業はエジプト国内で入手できない鉱物とその他の資源を確保するために外国へ派遣された遠征隊の刺激となりました。これらは国家に組織されていました。第6王朝以前には他の形態の長距離交易は知られていませんでした。ネチェリヒェト王、セヘムヒェト王、スネフェル王、クフ王の名前がシナイ半島のワーディー・マガーラのトルコ石と銅の鉱山の岩壁碑文で証明されます。年代記パレルモ・ストーンはスネフェル王の治世に無名の外国の土地から木材を運んできた40隻の船の記録を含みます。クフ王とジェドエフラー王の名前はアブ・シンベルの北西65km、ヌビアの西部砂漠の奥深くにある片麻岩の採石場に刻まれました。地位を作る硬砂岩はコプトス(現代のキフト)と紅海との間のワーディー・ハンマーマートからやってきました。商業あるいは外交はおそらく、ベイルートの北、ビブロスにあるクフ王、カフラー王、メンカウラー王の治世のエジプト品の存在と、シリアのテル・マルディク(エブラ)にあるカフラー王の時代のエジプト品の存在を説明します。

第3・4王朝の間外国からエジプトへの深刻な脅威は存在しませんでした。諸外国、特にヌビアとリビアでの軍事遠征はすぐに間に合う資源を求めて近隣地域を探索したと認識されなければなりません。エジプトの外敵を征服することはエジプト王の主要な任務の一つであり、王権の教義と現実の政策がここで都合よく一致しました。大部分の証拠はスネフェル王の治世に由来します。しかし、このことはおそらくよりよく記録されたせいでした。そのような露骨な対外政策の形態は、国の経済がおそらくその限界まで伸長した第4王朝の間とくに普通だったように思われます。ヌビアは人間の捕虜、家畜の群れ、木材を含む原料のような資源を求めて、スネフェル王によって派遣された大規模な遠征隊の目的地でした。パレルモ・ストーンは7,000人の捕虜と20万頭の家畜からなる戦利品を記録します。第4王朝の間、南の集落が第2カタラクト地域のブーヘンに設置されました。

記念碑建設は芸術家達に前例のない機会、特に彫像を造り、レリーフを彫刻する機会を与えました。今までの時代に獲得された小規模な石材加工の経験は大規模ですばらしい彫刻に変えられました。王のピラミッド複合体はたいてい王の彫像を備えられ、時々神々の彫像を伴いました。これらの芸術作品は、その美学的な品質は驚くべきですが、第一に機能的でした。このようにして、最古の保存された大きな王像はサッカーラの階段ピラミッド複合体で発見されたネチェリヒェト王の彫像でした。それはピラミッドの北側のセルダブの中に置かれ、王のカーが遺体に現れた後、この彫像に現れることを意図されました。同様な動機は故人のために造られた墓の彫像に原因を帰せられなければなりません。

神殿内に建てられた王像の数は第4王朝の間に増加しました。ハヤブサに守護されたカフラー王の片麻岩の彫像は、しばしば後の時代に真似されましたが、決して匹敵されなかった傑作です。神々の彫像はまた地域の神々の神殿に捧げられましたが、どれも残っていません。

ピラミッドと関連した神殿と参道は上質の高浮彫りで装飾され、第4王朝中頃からの多数の墓の礼拝堂も同様でした。これらのレリーフは単なる装飾ではなく、王の記念碑においては王権のような概念を、王墓ではない墓においては来世での必要の充足を表現しました。サッカーラの高官ヘシラーの墓からの木製のパネル(カイロのエジプト博物館所蔵)は初期の時代のレリーフ装飾の高水準を示します。これらのレリーフは王の記念碑で働いた芸術家達によって制作され、墓や彫像と同様王の贈り物でした。

ヒエログリフは今や記念碑目的のために十分に発展した書記法になりました。その草書体、ヒエラティックはパピルスでの筆記のために使われました。しかし、第5王朝以前に年代づけられるそのような文書の発見は極めて乏しいです。

★スネフェル王

ホルス名及び二女神名 : ネブマート、黄金のホルス名 : ビクネブー、誕生名 : スネフェルー

第3王朝最後の王フニの息子と信じられています。パレルモ・ストーンの記述により、母はメルエスアンフで、メイドゥームでスネフェル王とともに崇拝されました。第一王妃はヘテプヘルエス1世で、後継者のクフ王の母。その他にも少なくともネフェルマートとラーヘテプの二人の王子が知られています。

パレルモ・ストーンの第六段に3年間の治世の記述があります。第六段第一欄に「『二人の王の子供達』の制作」(治世12年?)、第二欄に「100キュービットの船『両国を礼拝する』と60隻の16本のオールのある(?)船を杉木材で建造すること、ヌビアを討ち、7,000人の男女の生きた捕虜と20万頭の羊と山羊を連れて帰ること、『スネフェルーの邸宅群』と呼ばれる南部と北部の壁を建てること、40隻の船がもみ木材を積んで(?)戻ってくること、(ナイル川の水位)2キュービット2フィンガー」(治世13年?)、第二欄に「35の地所と122の家畜の牧場を創設すること、100キュービットのもみ木材の船『両国を礼拝する』と100キュービットの杉木材の2隻の船を建造すること、7回目の家畜の頭数調査、(ナイル川の水位)5キュービット1パーム1フィンガー」(治世14年?)、第三欄に「南の門のふもと(?)に(建築物)『白冠の高いスネフェルー』と北の門のふもと(?)に(建築物)『赤冠の高いスネフェルー』を建設すること、王宮の扉をもみ木材で作ること、8回目の家畜の頭数調査、(ナイル川の水位)2キュービット2パーム2 3/4フィンガー」(治世15年?)が記録されています。

ブーヘンに古王国初期に年代づけられる町があり、そこを拠点にして下ヌビアでのエジプトが活動していたように思われます。戦利品の数は文字通りに受け取ってはいけません。40隻の船はおそらくビブロスから戻ってきたと思われます。『スネフェルーの邸宅群』は国境沿いの要塞かもしれません。また、新しい王宮をダハシュールに建設し、その巨大な門を輸入木材で作ったと思われます。

シナイ半島のワーディー・マガーラにある地域の首長を討つスネフェル王の図は王がシナイ半島でも活動的だったことを暗示します。

王はメイドゥームのピラミッド、ダハシュールの二つのピラミッド、セイラの小階段ピラミッドを建造しました。王は中王国と同じくらい早くにシナイ半島とメイドゥームのピラミッドとダハシュールのピラミッドで神格化され、ホルス神と同一視されました。ウエストカー・パピルス(ヒクソス時代の写本に記された物語)では理想の王として描かれています。

スネフェル王については、下記のURLもご覧下さい。

http://www.touregypt.net/featurestories/snefru.htm

★クフ王(ギリシア語でケオプス)

ホルス名 : メジェドゥー、二女神名 : メジェドエルネブティー、黄金のホルス名 : ビクウィネブー、誕生名 : ヒェネムーフウエフウィー(「クヌム神は私を守護する。」)

スネフェル王とヘテプヘルエス1世の息子。第一王妃はメリトイトエスで、皇太子カーウアブの母。しかし、後継者はジェドエフラー王子でした。ジェドエフラーの後継者となったカフラーもクフ王の息子です。もう一人の王妃ヘヌートセンのピラミッドに付属する葬祭神殿は第18王朝以来「ピラミッド群の女主人、イシス女神」の礼拝場所となり、第21王朝にイシス神殿に改築されました。

王はギーザ台地に大ピラミッドを建造しました。王族は大ピラミッドの東側の共同墓地に、高官達は大ピラミッドの西側の共同墓地に埋葬されました。60の王の葬祭財団が第4・5王朝に知られています。

国内では、アビュドスから高さ7.5cmの象牙製の小さな座像(カイロ・エジプト博物館所蔵)が発見されています。また2001年にサッカーラ近郊で早稲田隊によって長さ約70cmのスフィンクス像が発見されました。シュターデルマン博士によれば、ギーザの大スフィンクスはクフ王の彫像です。その他にはブトの近くのティダで花崗岩の石材が、デンデラのハトホル神殿のクリプトの中にトトメス3世によるクフ王の建築物の修復碑文が、ハトヌブとワーディー・ハンマーマートの採石場でグラフィティーが発見されています。

国外では、アブ・シンベル西の閃緑岩採石場で王の石碑が、シナイ半島のトルコ石鉱山ワーディー・マガーラに遊牧民を討つ王の図が、ビブロスからアラバスター製容器の断片が発見されています。これらから活発な採石活動と交易が行われていたことを示しています。

カイロ・フラグメント2(JE39735)に女神の彫像と赤冠を着用した王の彫像の制作を記録していると思われる記述があります。

ウエストカー・パピルス(ヒクソス時代の写本に記された物語)には、自分のピラミッド建造のためにトート神の至聖所の部屋の数について魔法使いジェディに尋ねる王が述べられています。第26王朝には神として崇拝され、その礼拝の維持を任された当時の神官二人の名前が知られています。ローマ時代でさえ原始時代の王とみなされました。従ってエジプト史を通じて人気のあった王だったことが分かります。しかし、ヘロドトスの『歴史』第二巻124〜126節の中では、非常に残酷で、信仰心のない王として描かれています。このように王の実像を歪められたのは、ヘロドトスが古王国の来世信仰を理解しなかったからです。

クフ王については、下記のURLもご覧下さい。

http://www.touregypt.net/featurestories/khufu.htm

[追記]2013年4月11日エジプト考古省の発表によると、スエズ運河の南180kmのワディ・エル・ジャルフで、クフ王時代の港とパピルス40巻がエジプト・フランス共同調査隊によって発見されました。港はシナイ半島で採掘されたトルコ石や銅をエジプトに運ぶために使用されたと推測されています。パピルスには港湾労働者達の生活を垣間みることの出来る記述と、クフ王の治世27年の日付があります。

http://www.egyptologyforum.org/bbs/Wadi_el-Jarf.pdf

http://news.discovery.com/history/ancient-egypt/worlds-oldest-port-and-egyptian-papyrus-uncovered-130412.htm

★ジェドエフラー王

ホルス名 : ヘペル、二女神名 : ヘペルエムネブティー、黄金のホルス名 : ビクーネブー、誕生名 : ジェドエフラー

クフ王の息子。母は不明。「ラー神の息子」を初めて自称。クフ王のピラミッドの東側の船のピットに残されたグラフィティーによれば、ジェドエフラー王がクフ王を埋葬しました。

王がアブ・ラワシュに建造したピラミッドは未完成です。ピラミッドの東側に葬祭神殿と船のピットがあります。船のピットからは、王妃ヘンテトエンカー、三人の王子たち、すなわちセトカー、バーカー、ホルネトの彫像断片が発見されています。ピラミッドの南西角には従属ピラミッドがあります。

王の第一王妃はヘンテトエンカーですが、クフ王の皇太子カーウアブの未亡人ヘテプヘルエス2世とも結婚しました。彼らの間に生まれた王女ネフェルヘテプエスを第5王朝の創始者ウセルカーエフ王の母とみなす学者もいます。彼女の彫像断片もアブ・ラワシュで発見されています。

なぜ兄弟のカフラーが王の後継者になったのかは不明。王位継承をめぐって争いがあったかどうかも不明です。

カイロ・フラグメント3(JE39734)に「20年(?)1+x月、王の印章保管者、神々の書記、20キュービット2フィンガーの・・・、(王の)埋葬室のための花崗岩(の石材)、上・下エジプトの王ジェドエフラー、彼は[彼の母]バステト女神のための彼の記念碑として・・・で造った。」が記録されています。

ジェドエフラー王については、下記のURLもご覧下さい。

http://www.touregypt.net/featurestories/djedefre.htm

ジェドエフラー王のピラミッドに関する最近の調査については「西村洋子の雑記帳(5)」の中の2008年9月28日の記事をご覧下さい。

★カフラー王(ギリシア語でケプレン)

ホルス名 : ウセルイブ、二女神名 : ウセルエムネブティー、黄金のホルス名 : セヘムビクネブー、誕生名 : ハーエフラー

クフ王の息子。母は不明。第一王妃はハーメレルネブティー1世。もう一人の王妃はクフ王の皇太子カーウアブの娘メルエスアンフ3世。王子メンカーウラーは王の後継者で、姉妹のハーメレルネブティー2世を第一王妃にしました。

王はクフ王のピラミッドの隣に自分のピラミッドを建造しました。さらに「ラー神の息子」のエピセットを使用し、自分の誕生名にラーの名前を組み込むことで、ジェドエフラー王の太陽神ラーの礼拝を推進しました。ギーザの大スフィンクスは太陽神ラーに供物を捧げるホルス神としての王を表しています。

ヌビアのトーシュカの閃緑岩の採石場とシナイ半島に岩壁碑文が残っています。ビブロスでも第4王朝の他の王たちとともに円筒印章が知られています。このことは外交あるいは交易の結びつきを暗示しています。しかし、エジプト国内では、ピラミッド複合体を除いて、ほとんど王の記念碑は知られていません。

第4・5王朝には51の王の葬祭財団が知られています。王の葬祭神官たちは第一中間期までと第26王朝から知られています。

(ヘロドトスの『歴史』第二巻127節はカフラー王に関する記述ですが、その中にクフ王のピラミッドの内部について興味深い記述があります。「ケオプスのピラミッドでは、ナイルの水が特に作られた水路を通じて内部に流れ込んで部屋の周囲をめぐっているので、地下室はさながら孤島の如き観を呈しているが、この中にケオプスの遺体が横たわっていると伝えられる。」 まるで、ザヒ・ハワス氏が発見したオシリス・シャフトのようですね。)

カフラー王については、下記のURLもご覧下さい。

http://touregypt.net/featurestories/khafre.htm

★メンカウラー王(ギリシア語でミュケリノス)

ホルス名 : カーヒェト、二女神名 : カーネブティー、黄金のホルス名 : ネチェリービクネブー、誕生名 : メンカーウラー

カフラー王とハーメレルネブティ1世の息子。第一王妃はハーメレルネブティ2世。

王が急死したため、後継者のシェプセスカーエフ王が泥レンガでメンカウラー王のピラミッド複合体を完成させ、河岸神殿に父を記念して神殿を建てたことを示す碑文を残しました。第6王朝のメルエンラー1世の勅令は彼の治世中に河岸神殿が使用されていたことを示します。河岸神殿の玄関ホールで発見されたペピ2世の勅令はピラミッド都市の神官達に特権を授けています。ギーザのピラミッド複合体は古王国の終わりまで使われました。第26王朝に修復が行われ、新しい石棺が制作されました。

王はアスワンから花崗岩を採掘し、シナイ半島に採掘隊を派遣しました。ピラミッドは花崗岩の化粧石で全体をおおわれる予定でしたが、王の急死のために下層の16段だけ花崗岩でおおわれ、上層部は石灰岩の化粧石でおおわれました。

王の治世についてはほとんど知られていません。古王国のテクスト上の証拠と考古学上の証拠は王の宮殿がメンフィスにではなく、ピラミッドの近くにあったことを示しています。

年代記パレルモ・ストーン裏第一段第一欄に「・・・月24日」(最後の治世年)とだけ記録が残っています。

ヘロドトスの『歴史』第二巻129-133節はメンカウラー王に関する記述で、慈悲深い王として描かれています。そして、王女の自殺やブトの神託の逸話が述べられています。

メンカウラー王については、下記のURLもご覧下さい。

http://touregypt.net/featurestories/menkaure.htm

★シェプセスカーエフ王

ホルス名 : シェペスヒェト、二女神名 : シェペスネブティー、誕生名 : シェプセスカーエフ

メンカウラー王の息子と言われています。王女ハーマートはメンフィスの神官長プタハシェプセスと結婚しました。

王はピラミッドではなく巨大な石棺型のマスタバ墓を南サッカーラに建造しました。第5王朝のサフラー王とネフェルイルカーラー王の母ヘントカウエス1世もそれにならいました。これが葬祭信仰の変化を表すのかどうかは不明です。

年代記パレルモ・ストーン裏第一段第二欄に「・・・月11日、上・下エジプトの王のお出まし、上・下エジプトの統一、壁の周囲を走ること、環状冠の祭礼、二体のウプワウト神(の像)の制作、両国を統一する神々の王(が)付き従うこと?、・・・ピラミッド『シェプセスカーエフの泉』の位置を選ぶこと、上・下エジプトのセヌーティ祠堂・・・、20日毎。・・・1624・・・600・・・、(ナイル川の水位)4キュービット3パーム2+1/2フィンガー」(治世1年)が記録されています。

シェプセスカーエフ王については、下記のURLもご覧下さい。

http://touregypt.net/featurestories/shepseskaf.htm

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