古代エジプトの歴史        2010年8月21日  西 村 洋 子

30.  第28〜30王朝(紀元前404〜343年)

年 表

後期王朝
第25王朝(クシュによる支配)
747〜656年

第26王朝
664〜525年

第27王朝(第一次ペルシア支配)
525〜359年

第28王朝
404〜399年
アミルタイオス王
第29王朝
399〜380年
ネフェリテス1世

ハコリス(アコリス)王

ネフェリテス2世

第30王朝
380〜343年
ネクタネボ1世

テオス王

ネクタネボ2世

第二次ペルシア支配
343〜332年
アルタクセルクセス3世

アルセス王

ダリウス3世   対立王ハバ(バ)シュ

アミルタイオス王(紀元前404-399年)

リビア人サイス侯アミルタイオスの孫。第28王朝唯一人の王。誕生名はアメンイルディスー。

リビア侯にしてプサンメティコスの息子であるイナロスがアルタクセルクセス1世のサトラップに対して起こした反乱に加わる。6年間統治するが、地域的にしか認められていない支配期間を含む。すなわち、西デルタでは紀元前404年以来彼の支配を築いたが、エレファンティネでは紀元前402年までペルシア王アルタクセルクセス2世がエジプトの王とみなされた。エレファンティネでは紀元前400年6月に初めてアミルタイオスの名前が言及され、紀元前401年にエレファンティネが彼のものになった。しかし、アラム語で書かれたブルックリン・パピルス13は紀元前399年10月にアミルタイオス王が亡くなり、その後継者がネフェリテス1世であるとほのめかしている。

王の建設事業は知られていない。それゆえヒエログリフでは彼の名前は証明されておらず、アラム語で書かれたエレファンティネのユダヤ共同体の記録文書と、デモティックで書かれた「デモティック・クロニクル」でしか証明されない。彼の支配はデモティック・クロニクルでは否定的に評価されている。

紀元前404年のダリウス2世の死後、エジプトはペルシアから離反。ディオドロスの報告(『歴史叢書』第十四巻35章3-5節)によれば、紀元前400年にペルシア王キュロスからイオニアとエオリアの統治を任されていたメンフィス出身のターモスは息子と艦隊と一緒にエジプトへ逃亡する。ディオドロスによれば、彼を殺害させたのはプサンメティコスだったが、H. de Meulenaere氏によれば、アミルタイオスが問題になる。

すでに紀元前399年にアミルタイオスと同時に統治していた第29王朝の創設者ネフェリテス1世への王位交替は明らかに暴力的に行われた。      

アミルタイオス王については、下記のURLもご覧下さい。

http://www.narmer.pl/dyn/28en.htm                                                                                      

ネフェリテス1世(紀元前399-393年)

ホルス名 : アアイブ、即位名 : バーエンラー・メリーネチェル、誕生名 : ナーイエフアアウルージュー。

第29王朝の創設者。紀元前399年の秋に支配権を掌握する。ブルックリン・パピルス13によれば、ネフェリテス1世はアミルタイオス王を捕らえ、処刑し、メンフィスかサイスで戴冠され、どちらかに住んだ。対外政策では、彼はペルシアと戦うスパルタを支援し、50万シェッフェルの穀物と100隻の三段ガレー船のための装具を供給した。しかし、彼は軍事計画も行わなかった。内政ではとりわけ彼の建設活動が証明される。メンデス(今日のテル・エル・ルバア、テル・ティマイ)ではすでに1869年に王の一体のウシャブティが、花崗閃緑岩製の内棺が入った石灰岩製の外棺における埋葬(おそらく、ネフェリテス1世の埋葬)の残骸と一緒に発見された。しかし、トート神殿の花崗岩製の扉と石材の断片もその場所に由来する。ブトからは王の彫像が知れ渡っている。現在ルーヴル美術館にある玄武岩のスフィンクス(Louvre A26)は本来おそらくメンフィスに由来する。ネフェリテス1世はとりわけカルナックで証明される(おそらくハコリス王の礼拝堂の建設の開始、聖湖の南の供物用倉庫、さまざまな石材)。またソハーグの白い修道院内に建設された礼拝堂(身廊の床に再利用されている)によって証明される。ネフェリテス1世の彫像の神官はアフミームから知られている(ライデン・ステラV, 20)。サッカーラのセラペウムの4つの石碑(治世2年)とデモティックの上書きがあるミイラの包帯(治世4年)が彼の治世に年代づけられる。デモティック・クロニクルによると、おそらく第30王朝の創設者ネクタネボ1世の父はネフェリテス1世である。

メンデスの王墓については、下記の文献もご覧下さい。

http://www.flipkart.com/excavations-mendes-donald-redford-volume-book-9004136746

ハコリス王(紀元前393-380年)

ホルス名 : アアイブ・メリーターウィ、二女神名 : ケヌー、黄金のホルス名 : セヘテプネチェルー、即位名 : ヒェネムマートラー、誕生名 : ヘケル。マネトの『エジプト史』ではアコリスと記される。

第29王朝で最も重要な王。王の治世中、エジプトは東地中海地域で最も重要な政治的役割を果たした。おそらくハコリスはネフェリテス1世の息子あるいは血縁者で、ネフェリテス1世の死とそれに続く王位争いの後、紀元前392年に即位した。同年4月にメンフィスで王として認められる。

国の自主性への意志は王にアテナイ人シャブリアスに指揮された傭兵隊と艦隊を組織させた。傭兵隊のためにエジプトの最初のコインが鋳造された。そして反ペルシア同盟政策を促進した。それはハコリス王とキプロス島サラミスの王エウアゴラスとの条約の締結において、小アジアのギリシア諸都市やバルカン人との条約締結およびピシディア(小アジア南部の古代の地名)とのよい関係に現れる。すでに紀元前389年にアテネとの同盟が締結された。武力外交的な意味ではなく、ギリシア世界における威信がシーワ・オアシスの支配者セトイルディス(彼自身上・下エジプトの王の称号を持つ)によるハコリス王の王としての承認に至りました。紀元前387年にエウアゴラス王がキプロスを奪い返した後、コリントス戦争の終わりにヨーロッパのギリシア人(エウアゴラス王)とペルシア人(アルタクセルクセス2世)との紀元前386年の平和条約締結による反動が続く。ハコリス王とエウアゴラスの孤立というペルシアの主要目的は達せられたが、ハコリス王が紀元前385年にペルシアによる国の再征服の試みを撃退し、おそらく西アジア領土まで進撃し、他方、エウアゴラス王はテュロスを征服し、キリキアに確かな地歩を占めた。紀元前381年エウアゴラス王に対するペルシアの攻撃によって転機が訪れた。紀元前380年のキプロス島の陥落の少し前に、ハコリス王が亡くなり、息子のネフェリテス2世を後に残した。しかしこのネフェリテス2世は王として記念碑では少ししか証明されていない。それに対して、また別の王として、記念碑を建てたプサンムティス(誕生名パーシェリーエンムート)に出会う。しかし、彼の地位と評価は議論されている。伝統的に彼はハコリス王の治世の始まりからの対立王とみなされ、年代学上紀元前393/2年に置かれる。

様々な状況(デモティックでは治世6年しか証明されない。)はそれに対してプサンムティスがハコリス王を2〜3年後に押しのけた可能性も持たせる。しかし、1年という短期間の支配の後ハコリス王によって再び権力を奪われたのであろう。治世のよい部分と悪い部分を区別するデモティック・クロニクルも不明である。

この「紀元前4世紀におけるエジプトの実権を握る地位の本当の創設者」の記念碑は、スエズ地峡からエル・キャブまで証明される。トゥラとマサラの採石場が再開された後、王は神殿装飾に没頭した。王はネフェリテス1世によって始められたカルナックの礼拝堂を完成させた。ホル・パー・ラー神殿の列柱室も彼の作である。エル・キャブでは王はネクベト神殿の列柱室を、メディネト・ハブではエチオピアのピュロンの前のキオスク(と第18王朝の門と柱)を、ハルガ・オアシスのヒビス神殿では第一列柱室を建設した。レトポリスとメンデス(門の柱)、サッカーラ(軒縁)、アフネス・エル・メディネとソハーグ(ナオス)、トード、エレファンティネでも建設活動が証明される。エジプトは王の下で秩序と繁栄を取り戻した。

王墓は発見されていないが、ハコリス王はメンデスに埋葬されたと認められている。現在まで二体のウシャブティだけが破壊を免れた王の唯一の副葬品である。

ネフェリテス2世(紀元前380年6月〜9月あるいは同年7月〜10月)

誕生名 : ナーイエフアアウルージュー。

第29王朝最後の王。ネクタネボ1世に対して4ヶ月間だけ王位を主張。この王の同時代史料はない。しかし、マネトーの『エジプト史』とデモティック・クロニクルに王名を挙げられている。

第29王朝については、下記のURLもご覧下さい。

http://www.narmer.pl/dyn/29en.htm#1

ネクタネボ1世(紀元前380-363年)

ホルス名 : チェマーア、二女神名 : セメネフターウィ、黄金のホルス名 : イルメルートネチェルー、即位名 : へペルカーラー、誕生名 : ネヘトネブエフ。

エジプト最後の土着の王朝、第30王朝の創設者。ハコリス王の正統な後継者としてのネフェリテス2世を退け、紀元前380年から統治する。息子は後継者テオスと将軍チャーハプイムー。通常彼の妃はウジャシューとみなされるが、K. P. クールマンは彼女を将軍チャーハプイムーの妻とみなす。その代わりK. P. クールマンはアフミームのアイの岩窟礼拝堂の碑文からギリシア人プトレマイスを王妃とみなす。ネクタネボ1世の父はセベンニュトス出身の元帥ジェドホルである。「デモティック・クロニクル」によれば、ネクタネボ1世はネフェリテス1世の血統である。

内政は全土における集中的な建設活動と寄進活動によって特色づけられる。北から南へ : ナウクラティス(石碑、サイスでの戴冠、ナウクラティスからの租税と関税は国にではなく、ネイト神殿に納められた。)、サフト・エル・ヘンネフ(ソペド神殿の建設、花崗岩製の厨子、王像)、バクリエフ(レフーイのトート神殿出土の二体の横たわるライオン、王像)、タニス(神殿建築)、レトポリス(ホルス神殿)、メンデス(メンデスの牡羊のための厨子)、デルタのその他の場所(石棺の断片、東デルタ出土品、セベンニュトスの王像、サイスのネイト女神のための厨子、ロゼッタ/アレクサンドリア出土のアトゥム神殿の石材)、トゥラ(採石場の碑文 : マサラとワーディー・エン・ナフレでも同様に)、メンフィス(セラペウムの石碑)、ヘルモポリス・マグナ(治世4〜8年の建設と寄進への言及がある石碑、スフィンクスの門、王像)、ヘルモポリス・パルヴァ(トート神殿)、ハルガ・オアシス(ヒビス神殿の修復)、アビュドス(神殿の礎石、厨子)、デンデラ(古い方の誕生殿の至聖所の描写)、モアラ(礼拝堂)、メダムード(二体のスフィンクス)、コプトス(イシス神殿領域内の砂岩製の石碑)、カルナック(第一ピュロン、神殿区域全体のレンガ製の周壁、いわゆるネクタネボの東門)、ルクソール(スフィンクス参道)、メディネト・ハブ、エル・キャブ(レリーフ)、エドフ(プトレマイオス10世の碑文によると大規模な土地寄進)、エレファンティネ(クヌム神殿の門)、フィラエ(イシス神殿)。さらに出土地不明のもの(ヴァティカン博物館の王像、ルーヴル美術館の砂岩製のスフィンクスなど)が加わる。偉大な過去を引き合いに出すはっきりした建設政策と宗教政策は、たしかに国のまとまりに役立つ政治的手段としても理解されるべきである。

エジプトはペルシア帝国の脅威に再び出会った。ハコリス王からネクタネボ1世の下に寝返ったアテネの軍司令官シャブリアスはペルシアの圧力によってアテネに帰った。紀元前373年春アルタクセルクセス2世のペルシア軍とパレスティナのアッコの艦隊がシリアのサトラップ、ファルナバゾスとギリシア人傭兵隊長イピクラテスの指揮下でエジプトへの進撃を始めた。エジプトは特に東デルタに強力な防衛施設を建設した。ペルシア軍はメンデスのナイル川支流に来襲できたが、エジプトの反撃、ペルシア軍の指揮における不一致、始まったナイル川の増水はペルシア軍の退却に導いた。紀元前360年第のペルシア帝国の西部諸州のサトラップの大反乱はまったく変わってしまった状況に導く。エジプトは具体的に小アジアのギリシア、スパルタ、アテネを支援した。ネクタネボ1世の推定上の共同統治者としてここですでにテオスに指揮の責任があった。テオスはネクタネボ1世の死後紀元前363年に支配を引き継いだ。ネクタネボ1世の埋葬地は知られていない。しかし、石棺とウシャブティの断片が保存されてきた。

王の治世からは宰相ホルサイシス。王の書記チャーイシスイムウ、大監獄の書記の長官ウェンネフェル、ヘルモポリス州知事シェプセスイルディスが知られているが、大部分の他の指導的な官僚たちは知られていない。ネクタネボ1世と第30王朝の評価は分かれている。王の治世は愛国主義の飛躍と懐古趣味への関心によって目立たせられる。とりわけ第26王朝は彼にとって模範として役立った。

ネクタネボ1世については、下記のURLもご覧下さい。

http://www.touregypt.net/featurestories/nectanebo1.htm

http://www.livius.org/ne-nn/nectanebo/nectanebo_i.html

テオス王(紀元前363-360年)

ホルス名 : ハーエムマート・セシェムターウィ、二女神名 : メリーマート・サーフペルーネチェルー、黄金のホルス名 : フーバケト・ウアフハスート、即位名 : イルマートエンラー、誕生名 : ジェドホル(セテプエンインヘレトが付くこともある)。

ネクタネボ1世の息子。紀元前365年におそらく共同統治者に昇格する。王は支配開始前にすでにスパルタのアゲシラオス王の資金供給者かつアテネとの関係の支援者として現れる。彼は明らかに父の存命中にサトラップたちの大反乱の間エジプトの対外政策に関与して決定的な役割を果たした。政権を引き受けた後ペルシア帝国の崩壊に直面してシリア・パレスティナの奪回を決心した。これは以前に第26王朝のアプリエス王によって追求された政策の再開だった。軍事遠征は全面的な武装によって準備された。王は最高指揮権を持った。スパルタのアゲシラオス王はギリシア人傭兵達を指揮した。アテナイの戦略家シャブリアスは艦隊を指揮した。紀元前360年春に出発した軍隊は抵抗せずに追放されたらしい。しかし、王の軍事遠征と支配は王の兄弟チャーハプイムーの裏切りによって水泡に帰せられた。すなわち、チャーハプイムーは王の不在中総督として王によって任命されたが、王から離反し、王の息子ネクタネボ2世を王に昇格させた。軍隊は王位簒奪者に従った。テオス王はペルシア王アルタクセルクセス2世の下に亡命し、庇護を受けた。

王の記念碑にはカルナックのコンス神殿の北壁にある礼拝堂があります。その他には、カンティール出土のレリーフの断片、厨子の断片、トゥーラの採石場の碑文、カルナックのコンス神殿の修復碑文、メンフィス出土の皿、タニス出土の二つの碑文の断片、錘り、壷の蓋、貨幣鋳造がある。

テオス王については、下記のURLもご覧下さい。

http://www.livius.org/te-tg/teos/teos.html

ネクタネボ2世(紀元前360-343年)

ホルス名 : メリーターウィ・メクケメト、二女神名 : セヘルーイブネチェルー・テケンハスート、黄金のホルス名 : セメンヘプー・フーペジェト9、即位名 : セネジェムイブラー・セテプエンインヘレト、誕生名 : ネヘトホルヘビート。

テオス王の甥かつ後継者。父はテオス王の兄弟チャーハプイムー。第二次ペルシア支配前の第30王朝最後の王。スパルタ王アゲシラオスと彼の軍隊の支持のおかげで、メンデス出身の対立王(名前は不明)を排除した。10年間は危機のない状態が続いた。その間ペルシア帝国は小アジアにおける忠誠心の回復に従事した。紀元前351/350年にアルタクセルクセス3世はエジプトの征服の新たな試みに取り組んだが、再び失敗に終わった。修辞学者イソクラテスと政治家デモステネスの話によると、ペルシア王の敗北の印象はひどい。直接の結果として、フェニキア諸都市はシドンのテネス王の指揮下でペルシアから離反し、エジプトおよびキプロス諸侯と同盟を締結した。しかし、ネクタネボ2世は新たな宗主権の機会をつかまなかった。王はシドンのテネス王に4,000人のギリシア人傭兵を派遣した。経済的・内政的理由とエジプト軍の構造(ギリシア人指揮官の指揮下にあるギリシア軍は決定的だった)がエジプト外でのより大きな軍事的雇用契約を実現不可能にさせた。

反乱を起こした人々の初期の成功後ペルシアは紀元前343年までに再びキプロスもフェニキアも自らの帝国に束ねた。シドン市の大災害の後、紀元前343/342年冬にペルシア軍はデルタの占領、ついには中エジプトと上エジプトの占領に成功した。他方、ネクタネボ2世は下ヌビアに逃走した。将軍プサンメティコスはこの歴史的コンテクストにおいて神殿の大囲壁の建設によってエル・キャブを要塞に建て替えたように思われる。

王の建設政策は激しかった。北から南へ : ピトム、カンティール、エル・タウィラ、サフト・エル・ヘンネフ、ブバスティス(神殿の中庭、「魔術の厨子」、王像、ハルサフェス神とバステト女神のための小神殿)、ホルベイトとビルベイス(神殿建築)、セベンニュトス(オヌリス-シュー神の神殿、厨子)、ベフベイト・エル・ハガル(イシス神殿、スフィンクスの断片)、アトリビス(祭壇)、アレクサンドリアで発見された緑色角礫岩製の第二の棺、二本の玄武岩のオベリスク)、ハルガ・オアシス(ヒビス神殿の修復)、シーワ(神殿)、ヘリオポリス(祭壇、彫像)、メンフィスとサッカーラ(セラペウムの石碑、神殿、ライオン像)、トゥーラとマスラ(採石場の碑文、ワーディー・ハンマーマートにも有り)、ヘラクレオポリス・マグナ(花崗岩の小神殿)、アブシール・エル・メレク(プタハ神、ソカル神、オシリス神のための神殿)、ヘルモポリス(トート神のための花崗岩製の厨子、石材)、アビュドス(アビュドスの聖なる山での採石活動の禁止、二つの厨子)、コプトス(門、花崗岩製のオベリスク、彫像、供物卓)、カルナック(モント神殿、プロピュロン、モント神殿の西の小アメン神殿、通用門の入口、コンス神殿の修復、ムート神殿の東の神殿)、エル・キャブ(修復と神殿建設、大周壁)、アルマント(神殿、ブキス牛の最初の埋葬)、エドフ(ホルス神殿への大土地寄進、花崗岩の厨子)、エレファンティネ(クヌム神殿の新築、厨子)。その他に様々な彫像とウシャブティが言及されうる。

王の治世の官僚として、二人のあらゆるものの計算の書記チャーヘルパーター(CG29306の棺)とトートイルディス(CG29315の棺)が証明される。メトロポリタン美術館のメッテルニヒ・ステラとトリノ博物館の円形祭壇も王の治世に帰せられる。

アレクサンダー大王はネクタネボ2世の息子であるという伝説が作られる。

ネクタネボ2世については、下記のURLもご覧下さい。

http://www.livius.org/ne-nn/nectanebo/nectanebo_ii.html

第30王朝については、下記のURLもご覧下さい。

http://www.narmer.pl/dyn/30en.htm#1

☆第二次ペルシア支配(紀元前343-332年)

1. アルタクセルクセス3世(紀元前343-338年)

紀元前343年に新たにエジプトを支配し、第二次ペルシア支配(第31王朝とも呼ばれる)を築いたペルシア王。ヒエログリフでは証明されないが、「アルタクセルクセス、ファラオ」という銘のある銀貨テトラドラクマがある。

ネクタネボ2世は紀元前351年にアルタクセルクセス3世に率いられたペルシア軍を撃退することが出来た。ネクタネボ2世はキプロス(紀元前349年)とシリア(紀元前346年)における反乱に対して中立の態度を取るが、紀元前346年にシドン王に4,000人の傭兵隊を派遣した。アルタクセルクセス3世は全力をあげてキプロスとシドンの征服後エジプトに対して進軍し、紀元前343年にペルシウムを攻撃した。エジプトの防衛線は裏切りによって知られた。アルタクセルクセス3世の軍指揮官バゴアスはついに下エジプト全体を征服した。ネクタネボ2世はヌビアに逃走した。エジプトのサトラップはファレンドテスになった。紀元前338年にアルタクセルクセス3世はバゴアスによって毒殺され、アルセスが後継者として即位させられた。

カンビュセス王の場合と同様、古代の伝承はアルタクセルクセス3世を、アピス牛を殺して食べさせ、その代わりにロバを崇拝するよう勧め、ムネヴィス牛とメンデスの牡羊も殺し、神殿を略奪し、諸都市を破壊した宗教冒瀆者として記す。サトラップ・ステラによると、アルタクセルクセス3世はブトの女神が所有する土地を押収した。デモティック・クロニクルでは、ペルシアがエジプトのすべての家を没収したので、エジプトの海と諸島はワインに満ちていたと言われている。しかし、フランスのリールにあるデモティック・パピルスは明らかに通常の状況を反映しているので、ここでも反ペルシアのプロパガンダが込められている。

http://www.livius.org/arl-arz/artaxerxes/artaxerxes_iii_ochus.html

http://persianempire.info/ArtaxerxesIII.htm

2. アルセス王(紀元前338-336年)

毒殺されたアルタクセルクセス3世の後継者としてペルシア軍指揮官バゴアスによって即位させられたペルシア王。しかし、彼もまた紀元前336年に殺害される。アルセス王の名前がある壷の蓋はユニバーシティー・カレッジ・ロンドンにある。

http://www.livius.org/arl-arz/artaxerxes/artaxerxes_iv.html

3. ダリウス3世(紀元前336-332年)

アレクサンダー大王によるエジプト征服の前にエジプトを支配した最後のペルシア王。アレクサンダー大王は紀元前332年12月にサトラップマザケスによってエジプトの国を譲渡された。ダリウス3世自身は紀元前331年10月1日にアレクサンダー大王とのガウガメラでの戦いで打ち負かされ、バビロン、スーサ、ペルセポリス、エクバタナに前進してきたアレクサンダー大王から逃れ、ついに自らの将校たちによって殺害された。

http://www.gaugamela.com/

http://www.thenagain.info/webchron/MiddleEast/DariusIII.html

http://www.pothos.org/content/index.php?page=darius-iii

http://persianempire.info/DariusIII.htm

☆対立王ハバシュ(あるいはハババシュ)

即位名 : セネンセテプエヌプタハ、誕生名ハバシュ(あるいはハババシュ)

プトレマイオス1世のサトラップ・ステラ、治世1年のデモティック・パピルス、治世2年のアピス牛の石棺で証明される。ハバシュ王の名前がある護符はホルエムヘブ王のメンフィスの墓でも発見された。誕生名から王が非エジプト人(リビア人か?)であるように思われる。治世の始まりはおそらく紀元前337/336年である。プトレマイオス1世のサトラップ・ステラによれば、ハバシュ王はペルシア王によって取り上げられたブトのワジェト神殿の土地所有を確認した。

後の王プトレマイオス1世がこのエジプトのナショナリズムの代表的人物を引き合いに出したことは注目に値する。

第二次ペルシア支配については、下記のURLもご覧下さい。

http://www.narmer.pl/dyn/31en.htm#1

http://www.touregypt.net/hdyn31.htm

連続体としての文化

私たちが文化現象に目を転じる時、政治・軍事・経済の変転とは非常に異なる光景が現れます。ヴィジュアル・アートは模範的です。それらは、クシュ時代と同様、古王国・中王国・新王国の伝統に頼る決心を示す一方、それらは非常にしばしば非難される貧弱なアルカイズムに過ぎないものを示します。逆に古い伝統との連続性の主張は、ファラオ時代の全コーパスにおける最も注目すべき彫刻のうちのいくつかを生み出すとき、材質と図像の両方におけるかなりの独創性と創意工夫の実行と結びつけられます。文化活動の他の領域については、時々現存の資料のいらいらさせる欠損があります。たとえば、この時代に正確に年代づけられる文学的テクストがありません。それらすべてについては、私たちが所有するような証拠の密接な分析が、エジプト社会と文明が全体としてヴィジュアルアートと同じ特色によって特徴づけられることを確認します。私たちはごく普通にもっと早い時代の研究者が完全に馴染みになる特徴に出会います。

葬祭コンテクストは、時々壮観な形で、家族の絆の強烈な重要性を示し続けます。プサンメティコス1世の治世のサッカーラにある宰相バクエンレンエフの墓は300年のうちの最良の期間一族のメンバーたちの埋葬のために使われたように思われます。トゥナ・エル・ゲベルにあるペトシリスの墓は第30王朝からプトレマイオス時代まで続く彼の一族の五世代の埋葬を含みました。非埋葬的銘辞は同じ方向を示します。クヌムイブラーのワーディー・ハンマーマートの碑文は、私たちがこの記録史料の歴史的正確さに用心深くなければならないけれども、第19王朝と同じくらいさかのぼって二十世代以上の彼の家系を記録すると主張する、第27王朝における一族の家系に対して比較できるほどの意識を示します。そのような史料はまた一族内の官職の継続の途切れない重要さを立証します。ペトシリスの一族は五世代以上ヘルモポリスのトート神の神官長の官職を占めました。他方クヌムイブラーの祖先たちは何世紀も宰相と建設事業の長官の官職に対する完全な支配に時々近づいたと言われています。

地域の忠誠は、どちらかといえば、昔よりもさらに強いです。ウジャホルレスネトは第27王朝の始まりに故郷の町のために彼がした立派な勤務を力説しました。他方、ヘラクレオポリス・マグナの故郷の町にあるハルサフェス神の神殿に設置されたソムトゥテフネヘトの4世紀の碑文はそのような勤務が地方神への献身に性質を変えられたことを示します。それはこの時代にありふれた容易で自然な定式文でした。地方神へのそのような献身は容易に早い時代と比較されますが、後期時代におけるその顕著さは、疑いなく、新王国の崩壊後地方に固有の政治的分裂に源を発して、非常に目立ちます。この状況の当然の結果は、主要な都市の神になるための個人の献身の主要な焦点への著しい傾向です。都市の主神はこのようにして万神殿の伝統的な偉大な神々の全能と全知を獲得します。この現象は次には神の存在の強烈な切迫感を生じさせました。それはおそらく、後期時代に特有の宗教的特徴の一つ、動物礼拝の発展における主要な要因です。この直接存在する神への献身は当然神の恩寵への人の依存の強力な確信に伴われました。それは頻繁に自らの地方神の像を支え、捧げる故人の彫像を通して彫刻で表現されます。

自伝碑文はさらに人生において成功に至る要因は本質的に伝統的な言葉で理解されるということを示します。王の寵愛はまだ成功に欠くことの出来ないものとみなされました。それはまた身体的にも道徳的にも宇宙の秩序マートを基礎として人の一生を導くのに最も重要と考えられました。マートは世界創造時に生じ、完成しており、すなわち改善することが出来ません。マートに従った生活はペトシリスの墓で「生命の道」と述べられ、この道に従いたいという頻繁に言及された刺激は個人の心に、すなわち彼の道徳的存在の源に作用する神の影響力です。再びこの概念はもっと早くに(例えばネチェルイミーエック「あなたの中にいる神」の古い概念)比較することは困難ですが、後期王朝のテクストでさらにもっと体系的に発展させられます。神の導きの下で「生命の道」に従うことは、この世においてと、別の制裁が待ち伏せしている墓の向こうでも成功をもたらしました。二つのマートの間での裁判の日は万人に定められ、金持ちと貧乏人との間で区別されませんでした。しかし、正義は結局なされるというこの強い確信は、エジプト人は生に対する愛を少しも失わなかったことを示す、現在を楽しめという哲学の表現を妨げませんでした。そして人生が差し出すあらゆるものの享受を妨げた早世の不公平に対して時たま抗議が起こるのを見るのは意外ではありません。しかし、ここで再び私たちは完全な目新しさに直面しない。というのは、死後の生に関するエジプト人の確信のもろさは盲目のハープ弾きの歌や死者の書の第175章のようなもっと早い時代のテクストで雄弁に表現されているからです。葬祭礼拝の原則については、慣習の中でそれ程念入りに発展させられなければ、それらは後期王朝でも同一のままでした。定式文の朗唱と葬儀の実行によって得られる恩恵のような古い信念はそれらの力の大部分を保有しました。

来世に欠くことの出来ないものという概念は幾分矛盾する光景を示しました。しかし再びそれは古い考えを研究対象とし、発展させる問題でした。多くの努力が墓を造る余裕がある人々によって費やされました。そのうちのいくつかは派手な誇示の壮観な例です。テーベのモントエムハトの葬祭複合体はどの地域においても最も印象的な非王族の遺跡です。数多くの新王国の宰相がサッカーラの東の断層崖から谷を見下ろすバクエンレンエフのために造られた墓を妬んだでしょう。

サイス時代には、独特の工夫の才が埋葬後に砂でしっかりと満たされた盗掘出来ない墓の建設に費やされ、正確に望ましい効果を有しました。しかし、副葬品は、たとえ銀や金でメッキされたマスクと宝石類がまだ故人とともに埋葬されたとしても、もはや新王国と同じほど豊かではありませんでした。この副葬品の乏しさは埋葬室が小さいということを意味します。それはしばしば石棺より少し大きい程度でした。地位の低い埋葬に関しては、私たちはたいていの他の時代よりもこの時代について、特にサッカーラで、よりよく知らされています。そこでの発掘は最も貧しい棺に埋葬されたほとんどあるいはまったくミイラ処理されていない遺体を明らかにしました。頻繁にわずかヤシの葉のマットだけに包まれていたり、あったとしても、簡単な墓標以外に地面の上に識別できるものがない砂の中の穴に置かれたりしました。これはすべてより早い時代からの兆候とうまく一致し、このレヴェルでも後期王朝が古代のやり方を続けていたことを立証します。

自伝碑文はファラオと臣下たちとの隔たりを明白な狭まりにおいてもう一つの強調点の移動を明らかにします。このことは王族でない人々が古代の王の葬祭文学を請求することが出来た気楽さで反響されます。サッカーラのいくつかの墓(宰相バクエンレンエフ、王の艦隊の指揮官チャネンヘブー、医師プサンメティコスを含む)では、ピラミッド・テクストが使用され、4世紀の棺もこの発展を例証しました。ペトシリスの墓はペトシリス自身が自分の自伝碑文で紐を張る古い王の起工式を行ったと主張する平行して起こる現象を示します。しかし、このことすべてにおいて、私たちは再びまったく新しいものに出会っていません。例えば、第12王朝はすでに神王と思われていた人物の人間性を喜んで認めようとしたことの十分な証拠を提供します。それはすべて、エジプト史のどの時代でも、王権のイデオロギーと人生の実際的なこととの関係が最終的に歴史的経験によって定義されたという事実を無視することが出来るほど容易ではありません。これらの後の史料における隔たりの狭まりは後期王朝エジプトにおける権力の分布の現実にほかならないものを反映します。

後期王朝については、山花京子著『古代エジプトの歴史 新王国時代からプトレマイオス朝まで』(慶應義塾大学出版会、2010年)もご覧下さい。