古代エジプトの歴史        2010年7月20日  西 村 洋 子

29.  第27王朝(紀元前525〜359年)

年 表

後期王朝
第25王朝(クシュによる支配)
747〜656年

第26王朝
664〜525年

第27王朝(第一次ペルシア支配)
525〜359年
カンビュセス2世

ダリウス1世

クセルクセス1世

アルタクセルクセス1世

ダリウス2世

アルタクセルクセス2世

第28王朝
404〜399年
第29王朝
399〜380年
第30王朝
380〜343年
第二次ペルシア支配
343〜332年

カンビュセス2世(紀元前525-522年)

古代ペルシア語でカンブージヤ。カンビュセスはギリシア語。紀元前530年にアケメネス朝初代の王にして父であるキュロス大王の後を継いで即位。

ホルス名 : セマーターウィ、即位名 : メスティウラー、誕生名 : ケムベト、ケンベジュ、ゲムウェジュ。

大規模な準備の後、紀元前525年春にプサンメティコス3世の支配下で政治的に孤立していたエジプトを征服し、サトラップのアリアンデス支配下の帝国領としてペルシア帝国に併合しました(ヘロドトス『歴史』4巻166章)。

王はパレスティナでバビロニアと小アジアの援軍などを含む陸軍を集め、アッコでフェニキアやキプロスの船団とともに艦隊を集めた後、エジプトの東国境を攻撃し、プサンメティコス3世の傭兵隊を打ち負かしました。傭兵隊の指揮官パネスは明らかに敵方に寝返り、ペルシウムでの非常に損害の多い戦いで防衛策を漏らしました。エジプトの艦隊の司令官にしてサイスのネイト女神の神官長ウジャホルレスネトは抵抗を断念し、艦隊を引き渡しました。メンフィスの降伏を要求したペルシアの代表団はエジプトの襲撃の犠牲になりました。報復に王はメンフィスを占領し、プサンメティコス3世の息子を含む捕虜2,000人を殺害しました。プサンメティコス3世自身はペルシアの捕虜になりました。戦利品と戦争捕虜(職人を含む)に関する古代の報告は、ペルセポリスとスーサにおける多数のエジプトの品々の発見によって裏付けられました。紀元前524年からそこでエジプト人女性とその子供の奴隷としての売却が知られています。

王は紀元前525年の夏の終わりにサイスでエジプトの王に即位しました。王の治世8年に言及している記録文書によれば、王はおそらくペルシアでの即位(紀元前530年)以来エジプトの王としてもみなされていました。王はエジプト人の感情を傷付けないようにエジプト王の装いをしました。

古代の伝承によれば悲劇的な結末に終わった王の二回の軍事遠征は、歴史的には完全に解明されません。ヌビア遠征は軍隊の不十分な給養で挫折し(ヘロドトス『歴史』3巻25章)、シーワ・オアシスへの遠征は砂嵐の中で軍隊が完全に滅亡しました(ヘロドトス『歴史』3巻26章)。紀元前524年のエジプトの反乱は不成功でした。

エジプトにおけるペルシア支配の始まりに関する最も重要な史料は、ヘロドトスの『歴史』を除けば、ダリウス1世の治世4年(紀元前519年)のウジャホルレスネトの自伝碑文(ヴァティカン博物館No.19の祠堂を持つ彫像)です。彼はエジプトで生じた激動と災禍の間、カンビュセス2世の腹心かつ助言者として、エジプトの幸福のために配慮したという自分の役割について述べています。とりわけ彼はカンビュセス2世の称号群を起草しました。古代の物語では、カンビュセス2世はキュロス大王とエジプトの王女の間に生まれた息子としてさえ描写され、サイスのネイト女神の神聖さを穢され、略奪された神殿区域の復旧を達成することが出来ました。ウジャホルレスネトのシャフト墓はM. ヴェルナー氏率いるチェコ隊によって1988/9年にアブシール南で発見されました。ミトラヒーネで発見された紀元前4世紀の彫像によれば、ウジャホルレスネトはここでおそらく聖人として崇拝されました。彼は紀元前517年に亡くなったでしょう。

ウジャホルレスネトについては、下記のURLをご覧下さい。

http://www.livius.org/w/wedjahorresne/wedjahorresne.htm

http://egyptologie.ff.cuni.cz/?req=doc:vedzahor&lang=en

王は、古典作家たちの著作では、神殿を略奪させ、穢させ、神々を嘲笑し、それらの彫像を燃やし、神聖なアピス牛を殺し、アマシス王のミイラをむち打ちした後燃やした、宗教上の冒瀆者として表現されています。この評価は圧倒的に信頼すべきでないと批判されています。王の治世6年(紀元前525年9月)に死んだアピス牛に王は石棺を捧げています。サイスでは王は宗教儀式に参加し、ネイト女神に敬意を表しました。王のエジプトの印章には「ワジェト女神に愛される者」と記されています。経済と行政から保存された史料は状況の悪化を反映していません。デモティック・クロニクルの裏側に保存された、神殿の収入の新規則に関するカンビュセス2世の勅令は、神殿の不利益になり、神官団の怒りを生じさせました。

カンビュセス2世については、下記のURLもご覧下さい。

http://www.livius.org/caa-can/cambyses_ii/cambyses_ii.html

http://www.livius.org/caa-can/cambyses_ii/cambyses_ii2.html

ダリウス1世(紀元前522-486年)

古代ペルシア語でダーラヤワウ。ダリウスはラテン語。ダーレイオスはギリシア語。

ホルス名 : メネフイブ、ウルネブメリーシェマーウ、即位名 : ストゥートラー、メリーアメンラー、誕生名 : デリーウシュ、イネトリウシュ。

父ビシュタスパ(ギリシア語ではヒュスタスペース)。カンビュセス2世の後継者。カンビュセス2世の死後エジプトは束の間の独立を享受するが、紀元前519/18年にダリウス1世がエジプトの完全な支配権を回復することが出来ました。ディオドロスはダリウス1世をエジプトの六番目にして最後の立法者と呼びました。実際に王はエジプトの帝国領の行政のためにデモティック・テクストに基づいてエジプトの法律の編集を指示し、委員会は16年間その仕事に従事しました。それと同時に王はエジプトの神殿への国家の財政援助を制限する前任者の勅令を撤廃しました。伝承で描写されたダリウス1世像はカンビュセス2世像とまったく反対で、エジプトの慣習に対する敬意の念に満ち、寛大な支配者というものでした。 

建設政策で最も重要なのは、ハルガ・オアシスにおけるヒビスのアメン・ラー神殿の建設と装飾です。宗教政策上重要なのは神殿の至聖所が何百というエジプトの神々のカタログを含むことです。その際テーベ、ヘリオポリス、メンフィスが宗教センターとして特別に強調されました。王はハルガ・オアシスのカスル・ゴーイタでも神殿を建設しています。王はメンフィスのプタハ神殿を修復させ、ファイユーム、エル・キャブ(ネクベト女神神殿)、ブシリス、サイスでも神殿を建設あるいは修復しました。これらの活動はワーディー・ハンマーマートの碑文に寄っても証明されています。最近カルナックで王の名前が彫られた柱の円筒部半分の発見によって期待される建設活動が証明されました。エドフのホルス神殿は神殿領を保有しました。

ペルシアからエジプトへの直通の交通路を可能にするために、王はネコ2世によって始められた運河を完成させました。それは全長84kmで、東のペルシウム支流をワーディー・トゥミラートを越えてビッター湖へ、さらに紅海に結びつけました。そして運河に沿ってエジプト語、古ペルシア語、エラム語、アッカド語で石碑を建立しました。本来ヘリオポリスのアトゥム神殿に立てられた王の二体の彫像のうち一体(テヘラン、国立考古博物館所蔵)はスーサの王宮の門の所で再発見されました。というのは、彼の息子クセルクセスがそこへそれを運んだからです。それは運河の完成と同時に碑文を記され、王の死の少し前、紀元前486年の反乱の際にペルシアに運ばれたのでしょう。おそらくエジプトのペルシア人サトラップ、ファレンダテス(アリアンデスの後任)がイニシアティブを取ったこの反乱は、サトラップのアリアンデスの反乱(紀元前510〜496(?)年の間)と同様にはっきり分かっていません。アリアンデス自身は少なくとも519年までにおそらく対立王パディバステト3世が指揮したエジプトの反乱を鎮圧しました。おそらく紀元前518年におけるエジプトへの王の訪問(エジプト訪問はこの一回だけ!)は言及された建設事業と関連して見られるべきです。ウジャホルレスネトの自伝碑文で私たちは王が、サイスの破壊された神殿付属医学校を再建するために、エジプトの官僚をエラムからエジプトへ戻らせたことを知ります。

サトラップはペルシアの上流階級の出であったが、彼の活動は「王の目」「王の耳」のような称号を持つ査察官たちの帝国内のネットワークによって注意深く監視された。彼は印章保管者たちと書記たちを通じて中央行政を運営した。彼らが使用した言語はアラム語で、エジプト人通訳たちの雇用を必要とした。ペルシア人たちは改革に気乗りしなかった。 法体系もエジプト式のままだった。エジプト人は時代を通じて重要な地位を占め続けた。

アリアンデスについては、下記のURLをご覧下さい。

http://www.livius.org/arl-arz/aryandes/aryandes.html

王の政治に協力したエジプト人の官僚として、ウジャホルレスネト、部隊長アマシス、建設事業の長官クヌムイブラー、国庫長プタハヘテプがいます。

カンビュセス2世とダリウス1世の歴史の諸要素はヘロドトスの『歴史』ではセソストリスの像に注入されました。

ダリウス1世については、下記のURLもご覧下さい。

http://www.livius.org/da-dd/darius/darius_i_0.html

http://www.mlahanas.de/Greeks/History/DariusIOfPersia.html

クセルクセス1世(紀元前486-465年)

古代ペルシア語でフシャヤールシャン。クセルクセースはギリシア語。誕生名 : ヘシュリシュ。

ダリウス1世の死後、アケメネス朝ペルシアの王となる。即位前の紀元前486年6月、エジプトで反乱が起こりました(駐屯軍指揮官アルタバノス宛のクヌムエムアヘトの書簡)。しかし明らかにペルシアの支配からメンフィスとテーベ地域を救い出すことは出来ませんでした。そしてバビロンにおける反乱と同様、鎮圧されませんでした。

従来形式的に独立したエジプトは帝国領としてペルシアに結合され、神殿はもはや国家に援助されませんでした。プトレマイオス1世のサトラップ・ステラによれば、ハババシュはブトのワジェト神殿に土地所有を確認し、クセルクセス1世から(あるいはアルタクセルクセス3世、あるいはアルセス?)神殿を奪いました。クセルクセス1世は482年にバビロニア人の反乱を鎮圧しました。ギリシア占領の試みはサラミスとプラタイアイでの敗北で挫折しました。465年8月にクセルクセス1世は殺害されました。

クセルクセス1世がサトラップのファレンダテスを自分の兄弟アケメネスと置き換えた後第二の反乱が起きました。アケメネスはヘロドトスによって述べられた海軍の衝突で軍務に服していました。アルタクセルクセス1世の治世の間、サイスのアミルタイオスがリビア人のイナロスと団結した反乱は、イナロスの父プサンメティコス4世(クセルクセス1世と同時代人)と結びつけられるかも知れません。

クセルクセス1世は一度もエジプトを訪問したことがないにもかかわらず、エジプトで略奪された彫像をペルシアに持って帰ったと言われています。結果としてクセルクセス1世の厳しい統治の記憶はプトレマイオス時代の間、彼の名前に斬首され縛られた敵の限定詞を付加されることによって生き続けました。その記憶はプトレマイオス朝のセレウコス朝に対する戦争に移されました。

デモティック・クロニクルはその感情において反ペルシアとみなされるかもしれないけれども、かつてのペルシア貴族政治の各メンバーは紀元前3世紀のエジプト社会の枠組みにまったく楽々と吸収されました。さらに、ワーディー・ハンマーマートの一連のグラフィティーは、特にその最新のものがクセルクセス1世の治世13年に年代づけられるアティイクワヒーに属するものは、カリア人と関連したメンフィスの記念碑のいくつかがそうであるのと同様に、漸進的なエジプト化の傾向を示します。

サトラップ・ステラ以外のクセルクセス1世と関連づけられる記念碑は数少なく、Berlin 7707の石碑、三言語の碑文がある石製容器、治世17年に年代づけられるアピス牛の青銅製の小像を含みます。ビル・ワシフにあるクセルクセス1世のカルトゥーシュを含む碑文もその中に含まれるべきです。

クセルクセス1世については、下記のURLもご覧下さい。

http://www.livius.org/x/xerxes/xerxes.html

http://www.mlahanas.de/Greeks/History/XerxesIOfPersia.html

アルタクセルクセス1世(紀元前465-424年)

古代ペルシア語でアルタフシャシャ。アルタクセルクセースはギリシア語。誕生名 : アレトヘシュセシュ。

紀元前463年、世開始直後にリビア侯にしてプサンメティコスの息子であるイナロスが、サイス侯アミルタイオスと一緒にペルシアに対して蜂起する。北西デルタの要塞マレアの攻略後、下エジプトはメンフィスまで占領された。紀元前460年アテネは軍事援助の申請に肯定的に回答し、200隻の船にキプロス島からエジプトへ行くように命じた。パプレミスの戦いで、王の兄弟にしてエジプトのサトラップであるアケメネスの軍隊が打ち負かされ、アケメネスは命を失った。シリアのサトラップであるメガビュゾスがメンフィスを奪回し、18カ月の包囲攻撃の後プロソピス島を占領する。メガビュソスはここでギリシアの艦隊の進行を妨げた。ギリシアの介入は挫折した。イナロス自身は紀元前454年にペルシアで処刑された。紀元前449年のカリアの講和で、アテネはキプロス・エジプト軍のペルシアとの紛争において不介入を義務づけられた。

これに反して、上エジプトは、王の治世5年の、ペルシア人官僚アティヤウラタの言及がある、ワーディー・ハンマーマートのグラフィートと、エレファンティネのユダヤ人の町のアラム語のパピルス(治世6年、9年、10年)が示すように、反乱の間、ペルシアの支配下に留まった。

エジプトのサトラップは、アケメネスの死後、アルサメスになったことが、ギリシア語の史料、エレファンティネ・パピルス、革の書簡の発見によって証明されている。

アルタクセクセス1世については、下記のURLもご覧下さい。

http://www.livius.org/arl-arz/artaxerxes/artaxerxes_i_makrocheir.html

ダリウス2世(紀元前424-405年)

古代ペルシア語でダーラヤワウ。ダリウスはラテン語。ダーレイオスはギリシア語。誕生名 : デリーウシュ。

アルタクセルクセス1世の息子。エレファンティネで発見されたアラム語のパピルスでのみ証明される。そのパピルスは紀元前410年の暴動と神殿の略奪を報告している。404年春に死亡。

ダリウス2世については、下記のURLもご覧下さい。

http://www.livius.org/da-dd/darius/darius_ii_nothus.html

アルタクセルクセス2世(紀元前405-359年)

古代ペルシア語でアルタフシャシャ。アルタクセルクセースはギリシア語。

エレファンティネ・パピルスに基づいて、紀元前402年までファラオと認められる。その後サイス侯アミルタイオスの孫アミルタイオスが全土に支配を及ぼし、第28王朝を創設。王は弟キュロスの反乱から身を守らなければならなかったため、エジプトの再征服を断念する。

アルタクセクセス2世については、下記のURLもご覧下さい。

http://www.livius.org/arl-arz/artaxerxes/artaxerxes_ii_mnemon.html

ペルシアによるエジプトの支配

私たちは地方をしっかりと制御するというペルシア側の厳しい決定を見ることが出来ます。すなわちペルシア人が適切であると考えた時に、エジプトとエジプトの施設に非エジプト人を送り込むという事態までには至らなかった政策です。彼らはまた国外・国内の安全の維持のために実質的な軍隊の存在を保証した。エジプトはまたペルシア帝国の帝国領として完全な役割を果たすことが期待された。エジプト人の職工たちは遠くペルシアまで建設作業のために使用されただけではなく、エジプト陸軍はペルシア帝国拡大を促進するために十分に活用されました。エジプト人は紀元前494年にイオニア人の反乱を終わらせたミレトスでの海軍の襲撃にも巻き込まれました。紀元前490年(ダリウス1世の治世)と480年(クセルクセス1世の治世)のギリシア襲撃で、エジプト陸軍と海軍は重要な役割を果たしました。エジプト人はヘレスポント(ダーダネルス海峡)に架けられたクセルクセス王の舟橋(しゅうきょう)のためにロープを供給し、その建設を助けました。クセルクセス王が紀元前480/479年にギリシア本土に対して使用した艦隊は、フェニキア人によって供給された300隻に対して、クセルクセス王自身の兄弟アケメネスの指揮下にあるエジプトの三段ガレー船200隻を含みました。このことはエジプトが当時大した海軍国だったことを示します。この分遣隊は特にアルテミシウムで5隻のギリシアの船を乗組員もろとも捕獲し、十分に活躍しました。最後に、私たちは帝国領の財政上の義務がエジプトに課せられたことに注意すべきです。しかしこれらは過度に圧制的ではありませんでした。

全般的に見て、私たちが持っているような史料によって作られた印象は、エジプトにおけるペルシア体制は圧制的どころではなかったということです。少人数以上のエジプト人がそれを甘受することが完全に可能であると気づきました。確かに征服者たち自身のゆっくりとしたエジプト化の疑う余地のない証拠があります。それにもかかわらず緊張が生じたかもしれない明白な地域があります。ペルシアの王がイデオロギー上の目的のためにファラオとして示されたかもしれない一方、彼はイランに根ざした不在地主であり、多くの人々にとって名目上のファラオのように思われたでしょう。第二に、ペルシア人による征服は国を支配するという土着の支配者たちの野心を弱めませんでした。彼らはエジプトの独立を主張し、彼ら自身の野心を実現する機会を注意深くうかがっていたでしょう。さらに紀元前5世紀にヘロドトスによって強調されたように、エジプト人の外国人嫌いはペルシア人とエジプト人の間の統合を促進しなかったでしょう。このことは、エレファンティネに定住した傭兵達と地域住民を巻き込むダリウス2世の治世におけるエピソードによって例証されたように、 宗教的問題によって一層悪化させられたでしょう。ここで私たちは羊の頭部を持つクヌム神の神官たちがヤーウェ神殿の破壊に終わったユダヤの傭兵達との争いにはまり込んだのを見ます。そのような引火点を仮定すれば、第一次ペルシア支配が反乱によって時々中断されることは驚きではありません。しかし、これらの努力はすべて紀元前404年までに最終的に失敗に終わりました。アミルタイオスが、ファラオ文明が享受することになる土着の支配者たちの支配下での最後の長期の独立時代を開始するために、成功裡(せいこうり)に反乱の旗を掲げました。

第27王朝については、下記のURLもご覧下さい。

http://crystalinks.com/dynasty27.html