古代エジプトの歴史        2009年4月9日  西 村 洋 子

22.  第20王朝(紀元前1,186〜1,069年頃)

年 表

新王国
第18王朝
(1,550〜1,295年頃)

第19王朝
(1,295〜1,186年頃)

第20王朝
(1,186〜1,069年頃)
セトナクト

ラムセス3世

ラムセス4世

ラムセス5世

ラムセス6世

ラムセス7世

ラムセス8世

ラムセス9世

ラムセス10世

ラムセス11世

アマルナ時代とラムセス時代に起こった歴史的・社会的反動

ラムセス時代の偉大な王たちが測り知れないほど強力な支配者たちだったことに疑いがあるはずがありません。ラムセス11世でさえ明らかに敵の軍隊を遥かヌビアにまで撃退するのに十分強力な軍隊をまだ動員できました。それにもかかわらず、第19・20王朝の間王の威信が次第に浸食されていったことは否定できません。私たちが見てきたように、中央政府の解体とアメン神官長たちの手中にさらに多くの権力が集中することに至った政治的・経済的発展は、大いにこの浸食に寄与しました。他方、これらの発展はさらにもっと根本的な変化の結果あるいは少なくとも兆候だったかもしれません。この変化の根底にはアマルナ時代があります。

アフエンアテン王は社会を作り直そうとして、たとえ初めのうちは軍隊の支持を受けたとしても、失敗しました。しかし、もっと悪いことは、アマルナのエリートたちのうちほんの少数を除いて全員の目には、本当は王自身が社会を破滅させたように見えたということです。私たちは既に、どのようにしてアマルナ時代後の埋葬習慣が、アフエンアテン王が臣下たちの葬祭信仰を独占しようとした方法に対する反動として、王に対してまったく異なった態度を反映しているかを見てきました。この独占は来世における生活に限らず、この世における生活にも深く影響を及ぼしました。伝統的に神殿内の神像に近づくことは王とその代理をする専従の神官団に限られました。大多数の住民にとって、国や公式の神殿での礼拝の介入なくして、自分の故郷の町の神々と接触する唯一の方法は、定期的に行われた祭列の間、すなわち神像が宗教的祭礼の時に一方の神殿から他方の神殿へ運ばれたときでした。かなり頻繁だったこれらの祭礼は祝日で、人々の宗教的・社会的生活において非常に重要な役割を果たしました。たいていのエジプト人たちは自分の生まれ故郷と自分が終生忠誠を示した「町の神」と強い感情的な絆を持ちました。町の神は地域の墓地の神、すなわち自らの忠実な僕たちに「老年の後の良き埋葬」を授ける「埋葬の支配者」でもありました。

アフエンアテン王はアテン神以外の全ての神々を禁止し、それらの諸神殿での日々の儀式を廃止しただけではなく、祭列を伴う祭礼も終わらせ、そうやって臣下たちの社会的アイデンティティーを傷つけました。その代わり、王は自分自身に対するあらゆる献身と忠誠を要求し、国の繁栄とその住民たちの幸福は王一人に依存しました。王は王都アヘトアテンだけの「町の神」ではなく、国全体の「町の神」であり、王がアマルナの王道を毎日戦車で行くことは神々の祭列に取って代わりました。アマルナ時代以前の第18王朝の歴史はさまざまな神々とその崇拝者たちとのもっと個人的な関係へという明らかな発展を見ました。アフエンアテン王がその息子すなわち王によってのみ崇拝される神を宣言し、他方個人の献身は王自身に向けられなければならなかった時、この発展は突然停止しました。この個人の信心の完全な権利侵害は神王の教義の信頼性を危険にさらしました。

アマルナ後の時代に、神と王との均衡は劇的な変化を経験しました。王はこれを最後に自分が臣下たちの生活で占めた中心的立場を失いました。その代わり、今や神が王権の多くの伝統的な側面を獲得しました。伝統的象徴的神政では、神々は時の始まりに自分たちが創りだした宇宙の秩序を具現し、王はそれらの仲介者として地上の神々の代理をし、神殿儀式によって宇宙の秩序を維持し、統治によってそれらの意志を実行しました。非常にまれにしか神々は直接自らを現さず、彼らがそうする時は王に対してでした。

アマルナ時代後、アフエンアテン王が唯一神を除いて全ての神々の存在を否定することによって解決しようとした神々の単一性と複数性の問題は異なった方法で解決されました。アメン・ラー神は自分の創造物から独立して離れて存在する普遍的な超越神になりました。他の男神たちも女神たちもアメン・ラー神の側面であり、それらはアメン・ラー神の内在的顕現でした。この状況は(現在ライデン博物館にあるパピルスに保存された)アメン神への讃歌集で気品高く表現されています。それによると、アメン神は「まだ何も存在していなかったとき、自らを顕現し始めたけれども、まだ世界は始まりにおいてアメン神を欠いていませんでした」。この普遍神は今や真の王であり、ファラオの伝統的な称号−それは神話に根付き、王の神性を表現する−は変わらなかったけれども、現実にはエジプト史において今までよりももっと人間的になりました。アイ、ホルエムヘブ、ラムセス1世、セティ1世でさえ即位する前はみんな平民だったという事実は、この変化が起こった速さと何か関係があったかもしれません。代理の神政は直接の神政になりました。もはや王は神の意志を実行した地上の代理人ではありませんでした。むしろ、神がそれぞれの人間に直接自分の意志を啓示し、日常生活の出来事と歴史の流れに直接介入しました。

新しい超越神は同時に国と個人の運命を決定する個人の神になりました。テクストは遠く離れて存在するけれども近くに存在することの正反対の事象の間にある隔たりに橋渡しをすることによってこのことを表現します。「遠く離れて彼は見る者であり、近くでは彼は聴く者である」。アメン・ラー神は遠くから自分の崇拝者たちを見下ろしましたが、同時に近くにいました。なぜなら、アメン・ラー神は彼らの祈りを聞き、神意の啓示によって、神ご自身の介入によって彼らの生活に自らを現しました。

通常「個人の信心」と呼ばれる宗教経験の新しい形は、その始まりはアフエンアテン王によって抑圧されて第18王朝中頃に逆戻りしたけれども、まったくラムセス時代に特徴的でした。文字の読み書きが出来る普通の人々によって願掛けの石碑やオストラカに記された改悛の詩編はこの信心が現された一つの形でした。個人が罪を犯したとき、特にこの罪が気づかれなかったり、人間の法廷で罰せられなかったとき、神の介入が天罰を意味したでしょう。これらの改悛の詩編は病気(この言葉はおそらくメタファー的な意味で使われたけれども、しばしば盲目でした)を隠された罪を犯した状態の原因とされました。隠された罪がいったん願掛けの石碑にテクストで明かされるやいなや、神が自分の崇拝者のところに戻り、再び見えるようにしたでしょう。罪を犯すのは個人だけではなく、国全体の場合もありました。アマルナ時代の終わりにパーイリーの墓壁(TT139)に記されたこのタイプのテクストでは、アメン神は戻ってくるように請われ、トゥトアンフアメン王の復古ステラでは、神々はエジプトを見捨てたと言われました。

別のタイプの願掛けの石碑は、神もまた自分の崇拝者の人生に積極的に介入することが出来ると考えられました。例えば、崇拝者をワニから救ったり、サソリに刺されたり蛇に噛まれたりしたとき、崇拝者を生き延びさせたりすることによってです。多くの神々は自分の崇拝者を救ったことに対する感謝として特別に作られた石碑やその他のものを受け取りました。名前が「救済者」を意味し、アマルナで初めて現れる特別な神シェド神さえいます。ある人々はさらに一歩進んで、全財産をその神殿に譲渡するほどにまで、彼らの全生活を彼らの個人的な守護神あるいは守護女神の手にゆだねました。

王でさえ困った時には自分の神に懇請したかも知れません。カデシュの戦いでまったく敗戦したように思われ、ラムセス2世がヒッタイトの敵軍に今にも捕らえられ、あるいは殺されそうになったとき、王は彼の神アメン神に助けを叫び求め、危機の時の王の援軍の到着は神の個人的な介入の証拠として解釈されました。このことは明らかに王はもはや地上の神を表さず、神より下位に置かれたことを示します。たとえ伝統的な神話学上の言葉で王がまだ神王として見られ、王の記念碑でこの側面が強調され続けたとしても、ちょうど他の全人類と同様に、王は神意の支配下にありました。明らかに神学上の教義と日常の現実との区分はかなり広がりました。

神意が現実に起こったあらゆることにおいて支配的要因であると認識されるや否や、神意を前もって知ることが強制的になりました。おそらく古王国と同じくらい早くから本来王によってのみ助言を求められ(、第18王朝の間王の即位や主要な交易、軍事遠征について神の承認を得るために使われ)た神託は、ラムセス時代に普通の人間たちの生活におけるあらゆる種類の問題について神に助言を求めるために使われ始めました。神官たちは神殿からの祭列で神像を乗せた携帯用の聖船を運び、質問の書かれたパピルス片やオストラコンが神の前に置かれたでしょう。神はそのとき神官たちをわずかに前へ移動させるかあるいは後ろに移動させることによって承認あるいは否認を示したでしょう。約束、財産争い、犯罪の告発、後には来世で無事に暮らせるという神の保証を求める質問さえ、このように神意の支配下にありました。

これらの発展は全て地上における神の現れとしての王の役割を一層最小限にしました。王はもはや神ではなく、神自身が王になりました。アメン神が真の王と見なされるや否や、地上の支配者たちの政治力は最小限に抑えられ、アメン神の神官団に移りました。彼らの祖先のミイラ群はもはやかつての地上における神の顕現とみなされず、それでためらいなく、彼らの墓は略奪され、彼らの遺体は包帯を剥がされました。

セトナクト

ホルス名 : カーネヘト・ウルペフティー、二女神名 : トゥートハーウミーターチェネン、黄金のホルス名 : セヘムヘペシュ・デルヘルーエフあるいはフーイペジェト9・アンエヌメシート、誕生名 : セテヒネヘト・メレルアメン(・ラー)あるいはセテヒネヘト・メレトラー・メリーラー、即位名 : ウセルハーウラー・セテプエンラー(しばしばメリーアメンを伴う)。治世年数2年。

王妃ティイ・メルエンアセト、息子ラムセス3世。

第19王朝から王の治世への移行時の出来事は論争されています。ハリス・パピルスI(ラムセス4世の治世初め)とエレファンティネ出土の王の石碑によれば、太陽神ラーがセトナクトを王に選び、彼が敵たちを打ち負かすまで、エジプトは無政府状態にありました。神殿では供物が捧げられず、略奪が行われていました。敵たちは明らかにエジプト軍の一部によって支持され、パレスティナ地域から部隊を徴募しようと試みました。ブバスティスにおける金製・銀製の容器の発見がこのことと関連しています。すなわち、これらの貴金属はパレスティナからの徴兵のための資金です。R. ドレンクハーン女史によれば、この出来事では外国人バイ/イルスーがターウセレト女王の死後権力をつかもうとしたことが問題です。しかし、H. アルテンミューラー氏の、サープタハ王と摂政バイ/イルスーは当時もはや生きておらず、ターウセレト女王がセトナクト王の敵とみなされなければならないという見方の方がより説得力があります。セトナクト王は一年以上ターウセレト女王と戦い、女王の死後彼女の記念碑を破壊しました。

王墓(KV11)はセトナクト王のために王家の谷に建造され始めましたが、アメンメススー王墓(KV10)とぶつかったので、すぐに放棄され、ターウセレト女王の墓(KV14)を奪いました。あるいは、ラムセス3世がセトナクト王のためにKV14を奪い、KV11を自分の墓として引き継ぎました。KV14に彫られた王名とレリーフはセトナクト王のために変更されました。ターウセレト女王の彫像は故意に破壊されました。メディネト・ハブに描かれたミン祭の際の彫像の行列では、セトナクト王は、サープタハ王とターウセレト女王を省略して、直接セティ2世に続きました。しかし、単独統治の確立後、セトナクト王はたった10ヶ月しか統治しませんでした。王はまずKV14に埋葬され、第21王朝に王のミイラの隠し場所となったアメンヘテプ2世の墓に再埋葬されました。そこでは木棺の断片が発見されています。

王はデル・エル・メディーナに二つの礼拝堂を建て、古い建造物(テル・ネベシェ、ヘリオポリス、メンフィス、カルナック、メディネト・ハブ)を奪うかあるいは自分の名前を彫らせました。その他の証拠はアマラ西(ヌビア総督にしてカマの息子ホリの石碑)、シナイ半島(セラビート・エル・ハーディムのセティとアメンエムオペトの石碑)、テーベ西(オストラコン)に由来します。

王の治世中宰相はホリ、アメン神官長はバクエンコンスでした。ラムセス3世時代にアビュドスに創設された神格化されたセトナクト王と王妃ティイ・メルエンアセトの礼拝は、さまざまな記念碑によって証明されます。

セトナクト王については、下記のURLをご覧下さい。

http://www.touregypt.net/featurestories/setnakhte.htm

王墓KV14については、下記のURLをご覧下さい。

http://www.thebanmappingproject.com/sites/browse_tomb_828.html

http://www.touregypt.net/featurestories/tst.htm

ラムセス3世

ホルス名 : カーネヘト・アアネシート(他にも多数有り)、二女神名 : ウルヘブーセドミーターチェネン(他にも多数有り)、黄金のホルス名 : ウセルレンプートミーアトゥム(他にも多数有り)、誕生名 : ラーメススー・ヘカーイウヌー、即位名 : ウセルマートラー・メリーアメン。治世年数32年(デル・エル・メディーナのオストラカの日付より)。

父セトナクト、母ティイ・メルエンアセト、正妃イシス(シリア人ハバジラートの娘、王妃の谷51号墓に埋葬される)、娘かつ王妃ティティ(王妃の谷52号墓に埋葬される)、妾妃ティイ(王の暗殺を企てる)、息子パーラーウネムエフ(QV42)、セトヘルヘペシュエフ(QV43)、ハーエムワセト(QV44)、ラーメススー(QV53)、アメンヘルヘペシュエフ(QV55)、他多数(妾妃ティイの息子ペンターウレトを含む)。

王の最大の功績は治世5年と11年に行った、西方から来襲するリビア人たちと北東からデルタに向かって進出する海の民に対する防衛でした。この戦いに関する史料はメディネト・ハブに建設された王の葬祭神殿(治世12年に完成)の壁に彫られた戦闘場面と戦勝碑文、およびラムセス4世の命令で作成されたハリス・パピルスI(76, 6-77, 6)に記された王の業績報告です。治世5年に王はリブ、メシュウェシュ、セベドからなるリビア人連合軍に対して第一回リビア遠征を行いました。このとき疑わしいほど多数の敵が殺され、戦争捕虜たちがエジプトに連行されました。治世11年にはメシュウェシュの首長メシャシェルとさらに6部族のリビア人たちの連合軍に対して軍事遠征が行われました。彼らは西デルタに侵入し、クソイスの州を荒廃させました。エジプト軍の勝利の後、捕らえられたリビア人たちは、女子供も含めて焼き印を押され、ファイユームとデルタの特別な入植地に定住させられました。彼らの家畜群はカルナックのアメン神殿に譲渡されました。

治世8年の西アジアにおける不気味な情勢がメディネト・ハブの碑文で述べられています。その出身地がおそらくバルカン半島からエーゲ海の地域にあった海の民の移動の際、さまざまな部族(特に、シャルダヌ人、フィリスティア人、シャカラシュ人)のグループによる破壊と略奪行為が問題であり、紀元前1200年頃北シリア(ウガリット、アララフ)から南カナーン(アシュドド、アシュカロン)まで破壊地域が確認されます。キプロスも海の民によって滅亡しました。その直後にヒッタイト帝国は王都ハットゥシャとその他の多数の村々の壊滅とともに没落しました。王はデルタの国境の防備を固めました。南パレスティナ(おそらくガザ)での陸上の戦闘と、東デルタ河口地域での海戦によって王は侵入者たちを撃退し、エジプトを外国人の支配から守りました。海の民とのその後の戦いはメディネト・ハブにある治世12年の石碑とデル・エル・メディーナ出土のいわゆる修辞的石碑に記されています。捕らえられた海の民はエジプト軍に統合され、一部はエジプトに定住させられました。それに対して、フィリスティア人とチェケル人はパレスティナ沿岸に定住し、フィリスティア人の王国を築きました。

王の建築活動の頂点にメディネト・ハブの葬祭神殿があります。それは巨大で、非常に良く保存されており、高い塔門、儀式用宮殿、オシリス柱の並ぶ前庭、列柱室、神々のための供物卓のある広間、至聖所、さまざまな儀式用の部屋、宝庫室、モント神のための礼拝所、王の葬祭礼拝の部屋、太陽神礼拝所、礼拝堂、九柱神のための聖所、さらに倉庫、兵営、厩舎、庭園などがあります。葬祭神殿に描写されたシリア人、ヒッタイト人、黒人たちとの戦闘場面は史実に基づかない慣例的な場面かあるいはラメセウムのレリーフのコピーとみなされます。

王墓は王家の谷のKV3に造営され始めましたが、放棄され、セトナクト王墓(KV11)を奪いました。新たに造られた10の付属室と壁画がすばらしいです。王のミイラは第21王朝にデル・エル・バハリの隠し場所に運ばれました。しかし、石棺はアメンヘテプ2世王墓の隠し場所で発見されました。その中にはアメンヘテプ3世のミイラが入っていました。石棺の蓋はセティ2世のものでした。王のミイラの推定年齢は65歳です。王のミイラには暗殺を暗示させる外傷はありませんでした。

王のその他の建設活動として、カルナックのアメン神殿(第一中庭の聖船休息所、コンス神殿)とムート神殿境内の神殿C、ルクソール神殿のそばの礼拝堂の奉納碑文、エドフのピュロンがあり、さらに彫像、石碑、碑文、建築物の断片がブーヘン、エレファンティネ、コムオンボ、ゲベル・エス・シルシラ、エルキャブ、メダムード、クス、コプトス、トード、ナズレト・エル・バトラン、クルナ、デル・エル・バハリ、デル・エル・メディーネ、スラリア、ティフナ、ヘルモポリス、ハシンダリヤ、ファイユーム、メンフィス(アピス牛埋葬の3つの石碑)、ヘリオポリス、テル・エル・ヤフディエ、レオントポリス、ブバスティス、タニス(ペル・ラムセス由来)、パレスティナのベト・シェアン(彫像、門、石碑)、ゲゼル、メギド、ビブロス、ワーディー・ラダディ、ティムナ、シナイ半島(銅またはトルコ石が採掘される)から発見されています。ハリス・パピルスIはペル・ラムセス、ヘリオポリス、メンフィス、アトリビス、ヘルモポリス、アシュート、ティニス、アビュドス、オンボス、コプトス、エル・キャブの建設活動に言及しています。歴史的に重要なのは神殿の防備施設の言及です。さらにテクストで葬祭神殿、カルナック、メンフィス、ヘリオポリスの諸神殿へのおびただしい寄進(土地、人々、家畜、その他の所有物)、王個人の彫像礼拝のための耕地の譲渡が言及されています。このため王の治世の終わりには、耕地の3分の1を諸神殿が所有し、そのうち4分の3をテーベのアメン神殿が所有しました。国と神殿、王とアメン神官団との均衡が崩れました。その結果国は財政を管理できなくなり、深刻な経済危機が起こり、穀物の価格は高騰しました。

行政の危機に関する明白な徴候が見られます。すなわち、デル・エル・メディーナでの報酬支払いの度重なる遅滞(治世29/30年頃)、腐敗と墓の略奪、アトリビスでの宰相の解任です。デル・エル・メディーナでは二ヶ月間報酬の支払いが滞ったので、職人たちが史上初のストライキを起こしました。飢えた職人たちはラメセウムに行き、ちょうどセド祭のためにテーベに滞在していた宰相ターが彼らにいくらかの食糧を分け与えましたが、彼らは再びストライキを起こしました。

テーベ地域へリビア人部族による襲撃が繰り返され、治安は悪化しました。

治世30年に第一回のセド祭を祝う。

治世31年の終わり頃に王は王子ペンターウレトの即位を目的としたハレム(おそらくペル・ラムセスにあった)の陰謀の犠牲になりました。首謀者は妾妃ティイで、ハレムの官僚たち(ハレムの書記、王の執事、家令など)も関与しました。計画はオペト祭の間に王を暗殺することでした。しかし、魔法の呪文やろう人形も利用されました。しかし、王子ペンターウレトの即位は王の正当な後継者ラムセス4世によって阻止されました。犯罪者たちは死刑もしくは身体の一部切断の宣告を受けました。訴訟に関する報告はトリノ法律パピルス、ローリン・パピルス、リー・パピルス、リフォードの断片に記されています。

王子ペンターウレトかもしれないミイラ(2008年11月10日掲載)については、下記のURLをご覧下さい。

http://www.dailymail.co.uk/sciencetech/article-1083945/Mystery-screaming-mummy.html

ハリス・パピルスIにはプント遠征、アティカ(おそらくティムナ)での銅獲得、シナイ半島でのトルコ石の採掘も記されています。

王の治世の宰相はホリとター、ヌビア総督はもう一人のホリ、テーベ市長はパーセル、テーベのアメン神官長はバクエンコンス、ウセルマートラーネヘト、ラーメススーネヘトです。

ラムセス3世については、下記のURLをご覧下さい。

http://touregypt.net/featurestories/ramessesiii.htm

http://www.digitalegypt.ucl.ac.uk/chronology/ramsesiii.html

http://www.specialtyinterests.net/ramses3.html

王墓KV11については、下記のURLをご覧下さい。

http://www.thebanmappingproject.com/sites/browse_tomb_825.html

http://www.touregypt.net/featurestories/ramesses3t.htm

[追記]2012年12月12日(水)にBritish Medical Journalに掲載された論文によると、CTスキャンの結果、ラムセス3世は喉を深く切り裂かれて即死したことが明らかになりました。こちらをご覧下さい。 (http://www.bmj.com/content/345/bmj.e8268)

ラムセス4世

ホルス名 : カーネヘト・アンフエムマート・ネブへブーセドミーイトエフプタハターチェネン、二女神名 : メクケメト・ウアフペジェト9、黄金のホルス名 : ウセルレンプートウルネヘトゥー、誕生名 : ラーメススー・ヘカーマート・メリーアメン、即位名 : ウセルマートラー・セテプエンアメン(治世1年のみ)、治世2年以降ヘカーマートラー・セテプエンアメン(セテプエンラー、セテプエンプタハも使われる)。治世年数7年。

父ラムセス3世。母はおそらく正妃イシス。兄弟はラムセス6世。息子ラムセス5世の母は妾妃テントイペト(王妃の谷74号墓)。

父ラムセス3世の治世の終わり頃王位後継者に任命され、総司令官の称号のみ保有しました。父ラムセス3世の暗殺事件後も王位継承者の地位を維持することに成功し、王位の正統性を強調する政治的な碑文として、アビュドス出土の記念碑とアメン・ラー讃歌の他に、大ハリス・パピルスという形でラムセス3世の架空の功績報告書を献呈しました。大ハリス・パピルスには父ラムセス3世に対するハレムの陰謀の関与者たちの裁判の調書も記されています。

アビュドス出土の記念碑については、下記のURLをご覧下さい。

http://reshafim.org.il/ad/egypt/texts/abydos_stela_of_ramses_iv.htm

外交上の事業は何も知られていませんが、ワーディー・ハンマーマートに何度も採石隊を派遣しました。治世が始まった直後に神官長ウセルマートラーネヘトが指揮官として、治世1年の終わりにモント神の神官長トゥル・ヘカーマートラーネヘトが指揮官として採石隊を率いました。治世2年にも採石隊が派遣されました。治世3年にはアメン神官長ラムセスネヘトが8,400人の大採石隊を率いました。その際900人の参加者が事故で死亡しました。最後の採石隊は治世6年に派遣されました。シナイ半島(治世5年)とティムナの銅鉱山にも採石隊が派遣されました。

テーベ西岸に葬祭神殿(デル・エル・バハリへ行く途中の山麓に建設されますが、ハプの息子アメンヘテプの葬祭神殿とデル・エル・メディーネとの間の建造物に取って代わられます)、王家の谷に王墓(KV2)の造営を始めました。王子の時に造られた最初の墓(QV53)と王位後継者として王家の谷に割り当てられた(KV3)は放棄されました。トリノ・パピルスに描かれた図面によると、王墓は3つの通路と前室と埋葬室からなりました。王墓の装飾は、太陽神ラーへの連祷書、洞穴の書、死者の書、門の書からなり、埋葬室には天空の女神ヌートの書と夜の書が見られます。実際の葬祭礼拝はハプの息子アメンヘテプの葬祭神殿の北の建造物で行われました。

王の建設活動にはさらに、ヘリオポリス(ラムセス2世・3世の神殿での作業とオベリスクCG17026)、メンフィス(彫像)、テーベ西岸(デル・エル・バハリのハトシェプスト女王の河岸神殿の北の小さな柱廊のある神殿)、カルナック(供物奉納の碑文、トトメス3世の祝祭殿でのラムセス3世の作業の続行、コンス神殿の至聖所と周歩廊の装飾)、アビュドス(二つの石碑JE48876とJE48831、その他にも彫像Philadelphia Univ. Mus. 16024、ウシャブティなど)があります。王はまた古い建築物や彫像を奪ったり、称号やカルトゥーシュを付け加えたりしました。その証拠はブーヘン、ゲルフ・フセイン(彫像の台座)、エドフ(トトメス3世の神殿)、エル・キャブ、エスナ(ハトホル牛の頭部)、メディネト・ハブ(見張り小屋)、ラムセウム(増築された壁全体、第二中庭の柱と基礎部分)、カルナック(彫像CG36351とファイアンス製小像CG42151、第8ピュロンの彫像、列柱室の柱など、ムート神殿、マート神殿)、ルクソール、コプトス(治世3年の石碑JE27740)、アルマント、メダムード、トード(トトメス3世小神殿)、アビュドス、メンフィス(メンカウラー王のピラミッドの南のれんが造りの建築物の柱の残り)に見られます。ヌビアではアニバとアマラ西で王の石碑が見つかっています。

治世2年に特に急ぎの建設作業のためにデル・エル・メディーネの労働者の人数が倍の120人に増やされました。作業はうるうの5日間でさえ行われました。デル・エル・メディーナからは村の出来事を記した多数のオストラカ、パピルス、グラフィティが発見されています。再びデル・エル・メディーネで日用品の支給が遅れました。アメン神官長ラムセスネヘトは国家官僚たちを連れて、労働者たちの月々の賃金の支払いに行きました。アメン神官長の影響力は増大しました。実際には国家の最高の官職と神官長職は二つの一族の手中にありました。ラムセスネヘトの息子ウセルマートラーネヘトは「アメン神の領地の監督」として神殿領を管理しましたが、中エジプトの国有地の大部分も管理しました。「アメン神の第二神官」「第三神官」と「アメン神の神の父」の官職保有者たちは婚姻によってラムセスネヘトと結びつけられていました。このことは高位の神官職が世襲になるという顕著な傾向を例証しています。ラムセスネヘトは息子たちのうち二人に後継され、神官長職はもっともっと独立し、王は自らが任命したアメン神官長を名目的に支配しているだけでした。

パレスティナでは王の名前が彫られたスカラベが発見されています。

王の治世からはマレット・パピルス(治世3〜4年)とエレファンティネ・スキャンダル(神殿への供給品の横領)に関する報告(トリノ・パピルス1887)が知られています。

王の時代の宰相はネフェルレンペト2世、宝庫長はモントエムターウィとハーエムティル、テーベのアメン神官長はラムセスネヘト、ヌビア総督はホリ3世、テーベ市長アメンメス、コプトスのホルス神とイシス女神の神官長はウセルマートラーネヘトです。

宰相ネフェルレンペト2世の墓については、下記のURLをご覧下さい。

http://www.osirisnet.net/tombes/nobles/neferrenpet178/e_nfrrnpt_01.htm

アビュドスの石碑48876でラムセス2世の治世の倍(67年×2)の期間統治できるように神々に祈りました。しかし、王のミイラは約50歳で、アメンヘテプ2世王墓(KV35)で発見されました。ペンアメンのグラフィートによって移されたことが証明されます。王の葬祭礼拝は第20王朝の間続けられたことが、ウイルボー・パピルスとテーベの貴族の墓から知られています。

ヘルク氏は精神的堕落と退廃を王の治世の特徴としますが、E. ホルヌンク氏は新しい創造の傾向が見られると反論しています。

ラムセス4世については、下記のURLをご覧下さい。

http://touregypt.net/featurestories/ramessesiv.htm

http://www.digitalegypt.ucl.ac.uk/chronology/ramsesiv.html

王墓KV2については、下記のURLをご覧下さい。

http://www.touregypt.net/featurestories/ramesses4t.htm

http://www.thebanmappingproject.com/sites/browse_tomb_816.html

http://www.panoramas.dk/2008/flash/valley-of-the-kings.html

A. J. Peden, The Reign of Ramesses IV, Warminster, 1994も参考になります。

ラムセス5世

ホルス名 : カーネヘト・メンマート、二女神名 : 不明、黄金のホルス名 : ウセルレンプートミーアトゥム、誕生名 : ラーメススー・アメンヘルヘペシュエフ・メリーアメン、即位名 : ウセルマートラー・セヘペルエンラー。治世年数4年。

父ラムセス4世、母テントイペト。王妃はヘヌートウアティーとターウレトテル(ウイルボー・パピルスからのみ知られる)。

デル・エル・バハリの父ラムセス4世の葬祭神殿を受け継ぎました。王墓(KV9)を造り始めますが、ラムセス6世に受け継がれます。そのためKV9は前半部分がラムセス5世の装飾、後半部分がラムセス6世の装飾からなる二重王墓です。ラムセス5世・6世ともに第21王朝にアメンヘテプ2世王墓に再埋葬されます。ミイラから王が天然痘(史上最古の例)で30代で亡くなったことが分かっています。

王の記念碑はティムナとシナイ半島、ヘリオポリス(石碑、扉のまぐさの断片)、カルナック(後にラムセス10世に奪われた石碑)、デル・エル・バハリ(ラムセス4世から受け継いだ神殿の石材)、ゲベル・エス・シルシラ西(採石隊の碑文)、ブーヘンから知られています。

王の治世の最も重要な記録文書はウイルボー・パピルス(中エジプトにおける徴税のための土地台帳)で、エジプト経済理解のための重要な史料の一つです。法制史上の証拠はトリノ・パピルス1887のエレファンティネ・スキャンダル(神殿供給品の横領)に関する報告とデル・エル・メディーネの職人村から発見されたナウナクテの遺言書です。チェスター・ビーティー・パピルスI(裏、治世2年)には太陽神ラーの讃歌が記されています。

王の時代の宰相はラムセス4世・5世・6世に仕えたネフェルレンペトです。

ラムセス5世については、下記のURLをご覧下さい。

http://www.digitalegypt.ucl.ac.uk/chronology/ramsesv.html

王墓KV9については、下記のURLをご覧下さい。

http://www.thebanmappingproject.com/sites/browse_tomb_823.html

ラムセス6世

ホルス名 : カーネヘト・アアネヘトゥー・サンフターウィ、二女神名 : ウセルヘペシュ・ヘドヘフヌー、黄金のホルス名 : ウセルレンプートミーターチェネン、誕生名 : ラーメススー・アメンヘルヘペシュエフ・ネチェルへカーイウヌー、即位名 : ネブマートラー・メリーアメン。治世年数7年/8年。

ラムセス3世と母正妃イシスの息子。ラムセス4世の兄弟。王妃ネブーヘスベド。王女イシスはテーベのアメン神妻(宰相ネフェルレンペトの後継者ネヒのデル・エル・バヒトの石碑より)。

デル・エル・メディーナの墓地日誌によれば、治世1年に敵の来襲があり、その間王墓での作業を停止しなければなりませんでした。この敵の来襲については、ヘルク氏、ホルヌンク氏、キッチン氏によれば、リビア人の山賊行為であり、チェルニー氏によれば、エジプトの内乱です。しかし、数人の高官たちはラムセス4世から6世まで連続して仕えているので、内乱はありえません。

カルナックのアメン神殿の第2ピュロンの玄関には勝利の場面が描写されました。この場面とカルナック出土の彫像(CG42152)はアマー氏によってリビア人の脅威の排除と結びつけられます。

王による記念碑については、メンフィス(ピュロンの建設、巨像の破片、アピス牛の埋葬)、ヘリオポリス(碑文の断片)、カルナック(石碑、ムート女神神殿出土の石碑とクロスワードパズルのように配列された二つのムート女神讃歌)、メディネト・ハブ(ラムセス3世の王子たちのリストに自分の名前と自分の兄弟の名前を追加)、シナイ半島(シナイ半島に残された最後のエジプト王名)、その他多くの彫像(タニス、ブバスティス−CG634, 1218、コプトス、カルナック−CG42152, 42153, JdE67842)、メギド出土の青銅製の小像の台座)と一体のスフィンクスと小品が知られています。

王の彫像の礼拝はデル・エル・メディーナとヌビアのアニバ(官吏パーエンヌートによって)に設立されました。トリノ・パピルスには二つの太陽神ラー讃歌が記されています。

ラムセス5世から引き継いだ王墓(KV9)での作業継続はラムセス5世の埋葬を遅らせ、ラムセス5世はラムセス6世の治世2年に埋葬されました(oCairo CG252549。そして、治世2年に王墓での労働者の人数は120人から60人に減らされました(oBerlin P. 12465 vso, 1-3)。KV9の装飾は傑出しており、埋葬室にはアケルの書、天井には天空の書が描かれました。王墓は墓泥棒の裁判記録から第20王朝に略奪されたことが知られています。王のミイラはラムセス5世のミイラとともにアメンヘテプ2世王墓に再埋葬されました。

母イシスを王妃の谷51号墓に埋葬しました。

ラムセス6世については、下記のURLをご覧下さい。

http://www.digitalegypt.ucl.ac.uk/chronology/ramsesvi.html

王墓KV9については、下記のURLをご覧下さい。

http://www.thebanmappingproject.com/sites/browse_tomb_823.html

http://www.osirisnet.net/tombes/pharaons/ramses6/e_ramses6.htm

http://www.touregypt.net/featurestories/ramessesvit.htm

ラムセス7世

ホルス名 : カーネヘト・アンエムネスートあるいはアンエムネチェルあるいはネフェルヘル、ネブへブーセドミーイトエフプタハターチェネン、二女神名 : メクケメト・ウアフハースティウあるいはメクケメト・ウアフペジュート、黄金のホルス名 : ウセルレンプートミーアトゥムあるいはウセルレンプートミーアメン、誕生名 : ラーメススー・イトイアメン・ネチェルヘカーイウヌー、即位名 : ウセルマートラー・セテプエンラー・メリーアメン。治世年数7年/8年。

父ラムセス6世。

王の治世から知られている記念碑には、ムネヴィス牛の墓(ヘリオポリス)、扉のまぐさ(テル・エル・ヤフディエ)、旗標を持つ人の彫像(メンフィス)、父ラムセス6世に捧げられた扉の抱き石(デル・エル・メディーネ)と、小物、さまざまな場所に付け加えられたカルトゥーシュしかありません。ルーヴル美術館所蔵のオストラコンには二つの王の描写と早死にした王子ラムセスのための奉納碑文の下書きが記されています。

王墓(KV1)は父ラムセス6世の墓と比べると粗末で、石棺、ウシャブティ、デル・エル・バハリの隠し場所で発見された4つのファイアンス製容器以外何も残っていません。ミイラの所在は不明です。

王の治世からは多くの行政文書や経済文書(特に黄金と方鉛鉱の採掘隊の会計文書、二つの航海日誌)とトリノ・パピルスに記された5つの王への讃歌(王の治世は幸せな時代として記述されている)が知られています。 デル・エル・メディーネの労働者村からの記録資料は、穀物の価格高騰が続く当時の経済危機を示しています。そして、地方貴族の協力で、ラムセス9世の時代に続く墓地の略奪が行われます。

穀物の価格高騰については、J. J. Janssen, Commodity Prices in the Ramessid Period, Leiden, 1975をご覧下さい。

ラムセス7世については、下記のURLをご覧下さい。

http://www.digitalegypt.ucl.ac.uk/chronology/ramsesvii.html

王墓KV1については、下記のURLをご覧下さい。

http://www.touregypt.net/featurestories/kv1.htm

http://www.thebanmappingproject.com/sites/browse_tomb_815.html

ラムセス8世

ホルス名 : 不明、二女神名 : 不明、黄金のホルス名 : 不明、誕生名 : ラーメススー・セテヒヘルヘペシュエフ(エピセット、メリーアメンを伴う)あるいはラーメススー・アトゥムヘルヘペシュエフ(エピセット、メリーアメンを伴う)、即位名 : ウセルマートラー・アフエンアメン。治世年数おそらく1年未満。

おそらくラムセス3世の息子。

王の書記ホリのアビュドス出土の石碑(Berlin 2081)に王への言及があります。また、テーベの神官キネブの墓(TT113)のグラフィートに王の日付(治世1年冬第1月3日〜氾濫季第1月12日)があります。メディネト・ハブの王子たちの行列に自分の名前を書き加えました。付け札と小品(BM2372)にも王名が見られます。王墓もミイラもその他の墓の備品も知られていません。ちなみに、王墓の候補としてラムセス9世の王子メンチュヘルヘペシュエフの未完成の墓(KV19)が挙げられています。

ラムセス8世については、下記のURLをご覧下さい。

http://www.digitalegypt.ucl.ac.uk/chronology/ramsesviii.html

ラムセス9世

ホルス名 : カーネヘト・ハーエムワセト、二女神名 : ウセルヘペシュ・サンフターウィ、黄金のホルス名 : ウセルレンプートミーアンジェティー・ウルネシートデルペジェト9あるいはウセルレンプートミーラージェト、誕生名 : ラーメススー・ハーエムワセト(エピセット、メリーアメンあるいはメレルアメンを伴う)、即位名 : ネフェルカーラー・セテプエンラー(エピセット、メリーアメンを伴う)あるいはネフェルカーウラー・セテプエンラー。治世年数18年。

両親については論争中。キッチン氏によれば、ラムセス3世の息子モントヘルヘペシュエフの息子、すなわちラムセス3世の孫。息子はヘリオポリスの神官長ネブマートラーとモントヘルヘペシュエフ(KV19)。後継者ラムセス10世とその妻ティティは王の息子(あるいは娘婿)と娘(あるいは息子の嫁)。

王墓(KV6)。その他の王の記念碑はヘリオポリス(彫像、供物卓(CG23093)、門の通路)、メンフィス(治世13年の石碑、断片、アピス牛の埋葬)、カルナック(第7ピュロンの北の中庭に至る門の通路と壁の装飾、石碑、彫像、神官長アメンヘテプの顕彰碑文)に見られます。王のカルトゥーシュと小品はメディネト・ハブ、アマラ西、ダフラ・オアシス、アンティノエ、パレスティナのゲゼルに見られます。二重の供物台が王によってラムセス2世・3世・7世のために捧げられました。

テーベのアメン神官長職はラムセスネヘト(王の治世初めに死亡)、ネスアメン、アメンヘテプの順に継承されました。ネスアメンとアメンヘテプは二人ともラムセスネヘトの息子で、後者は治世10年に王から報賞の黄金を与えられました。このときアメンヘテプに与えられた王からの贈り物の量は王の富の少なさも示しています。アメンヘテプが王から受け取った高価な軟膏の量は2ヒンでしたが、ホルエムヘブ王時代の国庫の書記は自分の主人の国庫長マヤの副葬品として同じ軟膏を4ヒン寄贈することが出来たからです。ちなみに、カルナックの二つのレリーフで、アメンヘテプは王と同じ大きさに表現されており、王とアメン神官長が事実上対等の関係にあったことを示しています。

経済危機、リビア人の襲撃、官僚たちの汚職(頂点にテーベ西市長パーウルアア)は、組織的な団体による、ドゥラ・アブル・ナガの第17王朝の王墓と多数の貴族の墓の略奪に至りました。かなりの数の有名なパピルスが調査委員会の活動と墓泥棒の裁判(治世16/17年)について報告しています(トリノ・パピルス2084+2091 ; 1930+2050 ; 1976)。犯罪者たちは串刺しの刑にされました。その後墓の略奪はラムセス11世の時代に再び行われました。神殿からのさまざまな窃盗も調査されました。

墓泥棒については、T. E. Peet, The Great Tomb Robberies of the Twentieth Egyptian Dynasty, 2 vols., Oxford, 1930をご覧下さい。Pascal Vernus, Affairs and Scandals in Ancient Egypt, Ithaca New York, 2003も参考になります。

リビア人の襲撃(治世8〜15年)はまだ続いていました(ルーヴル・パピルス3169, 7)が、ヌビアからの鉱物の獲得には影響しませんでした。

王のミイラは、棺のそりの滑り木の発見により、王墓(KV6)に埋葬されましたが、第21王朝にデル・エル・バハリの隠し場所に再埋葬されました。

ラムセス9世については、下記のURLをご覧下さい。

http://www.digitalegypt.ucl.ac.uk/chronology/ramsesix.html

王墓KV6については、下記のURLをご覧下さい。

http://www.touregypt.net/featurestories/ramesses9t.htm

http://www.thebanmappingproject.com/sites/browse_tomb_820.html

ラムセス10世

ホルス名 : カーネヘト・セハアラー、二女神名 : 不明、黄金のホルス名 : 不明、誕生名 : ラーメススー・アメンヘルヘペシュエフ(エピセット、メリーアメンを伴う)、即位名 : へペルマートラー・セテプエンラーあるいはヘペルマートエンラー・セテプエンラーあるいはヘペルマートラー・メリーアメン。治世年数3年(デル・エル・メディーネの日誌の日付による)。

ラムセス9世の息子か娘婿。王妃ティティ(王妃の谷52号墓)はラムセス9世の娘か息子の嫁。

カルナックに銘文と奪われた石碑、アニバからの断片が王の唯一の記念碑です。王墓はKV18ですが、川原石が堆積したまま放置されました。ミイラも墓の備品も所在不明です。

王の治世の宰相はハーエムワセトです。

ラムセス10世については、下記のURLをご覧下さい。

http://www.digitalegypt.ucl.ac.uk/chronology/ramsesx.html

王墓KV18については、下記のURLをご覧下さい。

http://www.thebanmappingproject.com/sites/browse_tomb_832.html

http://touregypt.net/featurestories/kv18.htm

ラムセス11世

ホルス名 : カーネヘト・メリラー、二女神名 : ウセルヘペシュ・ヘドヘフェヌー、黄金のホルス名 : ウル・ペフティー・サンフターウィ・イティ・ヘルーヘルマート・セヘテプターウィ、誕生名 : ラーメススー・ハーエムワセト(エピセット、メレルアメン・ネチェルヘカーイウヌーを伴う)、即位名 : メンマートラー・セテプエンプタハ(エピセット、セヘムセテプエンプタハを伴う)。治世年数30年。

父ラムセス10世、母ティティ。

王墓はKV4ですが、未完成かつ未使用でした。王の記念碑はカルナックの碑文、アスワンの扉の抱き石、ブーヘンのグラフィート、アピス牛の埋葬しか知られていません。

上エジプトで内乱が起こり、秩序回復のために王は治世12年にヌビア総督パーネヘシーを軍隊とともに派遣しました。パーネヘシーは、経済危機に苦しんでいる都市で軍隊の食料を確保するために、おそらく自発的に穀倉の長官職を引き継ぎました。当時国土の大部分と生産物はカルナックのアメン神殿が所有していました。そのためテーベのアメン神官長アメンヘテプとの権限争いが起こり、パーネヘシーはアメンヘテプをメディネト・ハブで8〜9ヶ月間包囲しました。アメンヘテプの救援要請に応じて王は最高司令官ピーアンフの命令下にある軍隊を派遣しました。戦争は北方にも広がり、中エジプトのキノポリス(ハルダイ)がパーネヘシーによって攻略されました。おそらくパーネヘシーの軍隊はさらに北上したと思われますが、遅くとも治世19年に戦争はピーアンフがパーネヘシーをエジプトから追放することによって終わり、ピーアンフはパーネヘシーの官職をすべて引き継ぎました。おそらく王墓は撤退するパーネヘシーの軍隊によって治世9〜19年の間とその後も略奪されました。ヌビアでの戦争はさらに10年間続き、パーネヘシーはアニバに埋葬されました。ピーアンフによって(?)エジプトにおける象徴的に新しい時代の始まりとしてウヘムメスート「再生」が創設されました。従って治世19年がウヘムメスート1年です。テーベ地域では記録書類は王の治世年よりもウヘムネスートの年数で日付を記されました。

ピーアンフは宰相、テーベのアメン神官長、ヌビア総督の官職を兼任します。ピーアンフは王の治世28年(ウヘムメスート10年)に亡くなり、義理の息子ヘリーホルがピーアンフのすべての官職を引き継ぎました。ヘリーホルは「ウェンアメンの物語」によると、アメン神の聖船のための木材を入手するために、ウェンアメンを派遣しました。ヘリーホルは、カルナックのコンス神殿の列柱室の装飾に見られるように、王の死後王号を名乗りました。ただし、その使用範囲はテーベ地域に限定されました。王の治世の終わり頃、デルタではスメンデスが、上エジプト南部とヌビアではピーアンフとヘリーホルが実権を保有しました。この政治状況については「ウェンアメンの物語」で言及されています。スメンデスは、ヘリーホルの長男で、王の死後即位し、第21王朝を創始します。

墓泥棒の裁判の記録に「ハイエナの年」という記述が見られ、飢饉があったことが分かります。リビア人の襲撃が続いていたので、デル・エル・メディーネの職工たちは墓地へ働きに行くことが出来ませんでした。神殿や宮殿からの窃盗も続きました。

ラムセス11世については、下記のURLをご覧下さい。

http://touregypt.net/featurestories/ramessesxi.htm

http://www.digitalegypt.ucl.ac.uk/chronology/ramsesxi.html

王墓KV4については、下記のURLをご覧下さい。

http://www.thebanmappingproject.com/sites/browse_tomb_818.html

http://touregypt.net/featurestories/ramessest11.htm

ヘリーホルの王号は次の通りです。ホルス名 : カーネヘト・サーアメン、二女神名 : セヘテプネチェルーあるいはスワブベンベンメフスーエムメヌーあるいはセヘブワセトエムメヌーウルーウセルヘペシュアンフターウィ、黄金のホルス名 : イリーアフートエムイペトスートエヌイトエフアメンあるいはイリーマートエムヘトターウィ、誕生名 : ヘリーホルサーアメン、即位名 : ヘムネチェルテピーエンアメン。

ヘリーホルの建築活動はカルナックに限られ、コンス神殿列柱室と周柱式中庭の完成、第2ピュロンの修復、大列柱室と第9ピュロンの中庭での作業、第10ピュロンの南のスフィンクス参道の修復のみです。

妻ネジェメトはラムセス11世の娘だったかもしれません。彼女のミイラはデル・エル・バハリの隠し場所から発見されています。またヘリーホルとネジェメトの共同の死者の書も同じ場所から発見されています。

ヘリーホルについては、下記のURLをご覧下さい。

http://www.touregypt.net/featurestories/herihor.htm

http://ib205.tripod.com/herihor.html

ネジェメトのミイラと棺(CG61024)については、下記のURLをご覧下さい。

http://www.cesras.org/Ppl/TIP/Nedjemet.html

http://www.cesras.org/Ding/Coffins/Nedjemet-coffin-damage.html

ラムセス11世の治世中の出来事に関する新説については、下記の論文をご覧下さい。

K. Jansen-Winkeln, "Das Ende des Neuen Reiches", ZÄS 119(1992), pp. 22-37.

ピーアンフとパーネヘシーのヌビアでの戦いについては、下記の論文をご覧下さい。

J. Lull, "La guerra de Paiankh contra PAj-nHsj en Nubia durant whm msw", Aula Orientalis 26/2(2008), pp. 239-256.

ラムセス3世の治世後、エジプトはついにシリア・パレスティナの帝国領土を失います。デルタの問題はナイル川のペルシウム支流が徐々に東方に移動しているため、ペルラムセスの港が次第に砂で埋まっていくことで一層悪化していました。第20王朝の王たちはもはやヌビアの金鉱山に採掘隊を派遣するだけの財源も権力も持っていませんでした。王朝の終わり頃アメン神殿の宝庫部門は黄金と鉱物を求めて東部砂漠に小規模な採掘隊を数回派遣しましたが、採掘できた量は少しでした。ウヘムメスートの時代、ピーアンフとその後継者たちは、今やメディネト・ハブに住んでいるデル・エル・メディーネの労働者たちの子孫に支持されて、黄金と貴石の異なる鉱山を開発し始めました。すなわち、王家の谷にある王墓群と西テーベの墓地にある貴族墓群でした。一世紀以上かけて墓から黄金と貴重品が奪われていきました。ついにはそれらは完全に空っぽになり、新王国の偉大なファラオたちのミイラでさえ包帯を剥がされ、貴重な護符や装飾品を奪われ、テーベの崖の所有者不明の墓に一緒に再埋葬されました。皮肉なことに二体の王のミイラがこの運命を免れました。すなわち、KV62のトゥトアンフアメン王のミイラとKV55のアフエンアテン王のミイラです。

第20王朝については、下記のURLもご覧下さい。

http://euler.slu.edu/~bart/egyptianhtml/kings%20and%20Queens/Dynasty20.html