古代エジプトの歴史        2006年8月2日  西 村 洋 子

3.  第2・3王朝(紀元前2,800〜2,600年頃) 

年 表

初期王朝 第1王朝 (3,000〜2,800年頃)
第2王朝 (2,800〜2,700年頃) ヘテプセヘムウィ王

ネブラー王

ニーネチェル王

ウネグ王

セネド王

ネブーネフェル王

ペルイブセン王

セヘムイブ・ペルエンマート王

ハーセヘム(ウィ)王

第3王朝 (2,700〜2,600年頃) ネチェリヒェト王

セヘムヒェト王

ハーバー王

サーネヘト王/ネブカー王

フニ王

第2王朝

★ヘテプセヘムウィ王

前任者カア王の埋葬を監督することによって自分の地位を正当化したと思われます。彼の印章はカア王の墓の入口に近い供物の間で発見された。王墓はアビュドスではなくサッカーラに築きました。それは複雑な地下回廊墓で、上部構造はなくなっています。王墓からは王の多数の刻印が発見されています。メンフィス出土の葬祭神官ヘテプディエフ(あるいはレディト)の彫像の右肩に第2王朝の最初の三人の王の名前が記されています。バダリにある初期王朝の墓からは王のセレフ、地所の名前、葬祭神官の称号を記されたアラバスター製容器の断片が出土しています。ペルイブセン王墓、ハーセヘムウィ王墓、ネチェリヒェト王墓、メンカウラー王のピラミッド複合体で王名が記された多数の石製容器が発見されています。

ヘテプセヘムウィ王については、下記のURLもご覧下さい。

http://www.touregypt.net/featurestories/hotepsekhemwy.htm

http://xoomer.alice.it/francescoraf/hesyra/htpsxmwy.html

サッカーラの第2王朝の王墓については、下記のURLをご覧下さい。

http://www.touregypt.net/featurestories/2nddynastysaqqara.htm

★ネブラー王

この王名はかつてはラーネブイー「ラー神は(我が)御主人様である。」を表すとされてきましたが、現在はネブラー「太陽の支配者」を表すと考えられています。

王の印章はサッカーラの地下回廊墓でヘテプセヘムウィ王の印章とともに発見され、彼が前任者の埋葬を監督したことを示します。階段ピラミッドからはヘテプセヘムウィ王のセレフとネブラー王のセレフが併置された石製容器が出土しています。メンカウラー王のピラミッド複合体からはヘテプセヘムウィ王の名前を自分の名前に彫り直させたフリント製の鉢が出土しています。アビュドスのペルイブセン王墓からは王のセレフを持つ鉢が発見されています。メンフィスからは王の墓碑が発見されています。そのため王墓はサッカーラにあったと思われます。またアルマント後方の西部砂漠のSite34 の岩でも王のセレフが発見されています。

ネブラー王については、下記のURLもご覧下さい。

http://touregypt.net/featurestories/raneb.htm

http://xoomer.alice.it/francescoraf/hesyra/nebra.html

★ニーネチェル王

ヘテプセヘムウィ王の墓の130m東に、同様な地下回廊墓を築きました。

バレルモ・ストーンの第四段に治世5/6〜20/21年の記録があります。治世の最初の5年間は失われた部分に書かれていたに違いありません。治世1年目には即位式と戴冠式が、治世2年目には第一回家畜の頭数調査が記録されていたと思われます。王の治世は少なくとも35年だったと考えられています。というのはネチェリヒェト王の階段ピラミッドから出土した石製容器には「17回目の家畜の頭数調査」という銘文があるからです。家畜の頭数調査は隔年で行われ、王が最高位の官僚達に伴われて国内を巡行し、農作物の収穫量と税額を査定しました。徴収された租税は国庫に集められ、国全体の経済活動を維持しました。この出来事は「ホルス神に付き従うこと」と関連があり、行政の仕組みが支配のイデオロギーとしっかりと結び付けられていたことを示します。また、隔年で行われるため、治世年を数える指標にもなりました。

第四段の上にホルス名ニーネチェル、二重王冠を冠って玉座に座る王、nn rn nbwが記されています。最後のnn rn nbwは黄金のホルス名の先駆かもしれません。第四段第一欄に「ホルス神に付き従うこと、・・・」(治世6年)、第二欄に「nzwtとしての王のお出まし、(建築物)『ホルス神の口』(で)ロープを張ること、(ナイル川の水位)3キュービット4パーム2フィンガー」(治世7年)、第三欄に「ホルス神に付き従うこと、四回目の家畜の頭数調査の時、(ナイル川の水位)4キュービット2フィンガー」(治世8年)、第四欄に「nzwt-bityとしての王のお出まし、雄牛『生きている息子』が走ること、(ナイル川の水位)4キュービット1パーム2フィンガー」(治世9年)、第五欄に「ホルス神に付き従うこと、五回目の家畜の頭数調査の時、(ナイル川の水位)4キュービット4パーム」(治世10年)、第六欄に「bitiとしての王のお出まし、二回目のソカル(?)祭、(ナイル川の水位)3キュービット4パーム2フィンガー」(治世11年)、第七欄に「ホルス神に付き従うこと、六回目の家畜の頭数調査の時、(ナイル川の水位)4キュービット3フィンガー」(治世12年)、第八欄に「第一回目の『天空のホルス神の崇拝』祭、シェムラー(地名)を開墾すること、ハー(地名)を開墾すること、(ナイル川の水位)4キュービット3フィンガー」(治世13年)、第九欄に「ホルス神に付き従うこと、七回目の家畜の頭数調査の時、(ナイル川の水位)1キュービット」(治世14年)、第十欄に「bitiとしての王のお出まし、二回目のアピス牛が走ること、(ナイル川の水位)3キュービット4パーム3フィンガー」(治世15年)、第十一欄に「ホルス神に付き従うこと、八回目の家畜の頭数調査の時、(ナイル川の水位)3キュービット5パーム2フィンガー」(治世16年)、第十二欄に「bitiとしての王のお出まし、三回目のソカル(?)祭、(ナイル川の水位)2キュービット2フィンガー」(治世17年)、第十三欄に「ホルス神に付き従うこと、九回目の家畜の頭数調査の時、(ナイル川の水位)2キュービット2フィンガー」(治世18年)、第十四欄に「bitiとしての王のお出まし、ネクベト女神への供物奉納(?)、ジェト祭(?)、(ナイル川の水位)3キュービット」(治世19年)、第十五欄に「ホルス神に付き従うこと、十回目の家畜の頭数調査の時」(治世20年)、第十六欄に「・・・」(治世21年)が記録されています。

『生きている息子』はアピス牛あるいはアピス牛とは異なる神聖な牛を指していると思われます。ソカル(?)祭はニーネチェル王の治世までに6年毎に行われるようになったと思われます。治世23年の4回目のソカル(?)祭がサッカーラ出土の石製容器に記されています。治世13年の出来事はシェムラーとハーに対する懲罰行為を表しており、上・下エジプトの間に敵対が生じた証拠であるとする説もありますが、その証拠はありません。しかし、治世14年にナイル川の水位が著しく低いことから、国内に社会不安が広まったことは考えられます。

北サッカーラの3つの墓から王の印章が、ギーザ近くの大マスタバで5つの壷の封印が発見されています。王の存在はメンフィス地域外ではほとんど証明されず、その活動は下エジプトに限られたように思われます。ジョージ・ミハイリデス・コレクションの王のアラバスター製小像(出土地不明)はセド祭のマントを身につけていますが、同時代の碑文からは証明されていません。王の石製容器は第2王朝末と第三王朝の王達によって再利用されました。ヘテプディエフの彫像の右肩に二人の前任者とともに王名が記されていることはすでに触れた通りです。また階段ピラミッドからは王のセレフとヘテプセヘムウィ王のカー礼拝堂を並記した石製容器が出土しています。石製容器以外で王名を持つものは、サッカーラ出土の小さな象牙製容器と、前述のセド祭のマントを着た王のアラバスター製の小像です。

王は第2王朝の王達の中でもっともよく証明された王ですが、彼の後に短命な王が二人続いた後、セト名を持つペルイブセン王が即位していることから、王国が二分されたのではないかと推測されています。

ニーネチェル王については、下記のURLもご覧下さい。

http://touregypt.net/featurestories/ninetjer.htm

http://xoomer.alice.it/francescoraf/hesyra/ninetjer.htm

★ウネグ王

階段ピラミッドから出土した12の石製容器に王名が記されています。サッカーラ以外では王の証拠は見つかっていません。王墓も見つかっていません。

ウネグ王については、下記のURLをご覧下さい。

http://xoomer.alice.it/francescoraf/hesyra/wneg.htm

★セネド王

第四王朝のセネド王とペルイブセン王の葬祭神官達の長官シェリーの碑文から王の存在が確認されます。王墓は見つかっていませんが、サッカーラのどこかにあったと推測されています。

セネド王については、下記のURLをご覧下さい。

http://xoomer.alice.it/francescoraf/hesyra/sened.htm

★ネブーネフェル王

階段ピラミッドから出土した二つの石製容器で王名が証明されます。ニーネチェル王の同時代人だったと推測されています。

ネブーネフェル王については、下記のURLをご覧下さい。

http://xoomer.alice.it/francescoraf/hesyra/nnn.htm

★ペルイブセン王

セレフの上にハヤブサではなく、セト・アニマルを載せた唯一の王。このことはセト神の礼拝の確立を示しており、王国は分裂していないのか、それとも王国が二つに分裂し、王は上エジプトだけを統治したことを示すのかは、不明です。王墓と葬祭用周壁はアビュドスにありますが、葬祭神官達の長官シェリーの碑文から、サッカーラで王の葬祭礼拝が行われたと思われます。王墓から出土したいくつかの印章はinw ZTt「セチェトの贈り物」の銘文を持っています。セチェトは通常シリア・パレスティナの国を指します。王墓の前から二つの墓碑が発見されました。王墓はかなり小さく、16.1×12.8mです。中央の埋葬室は泥レンガで作られています。

エレファンティネ島のサテト女神神殿の北の居住区から王の治世の官僚の印章が発見されました。印章には「上エジプトのあらゆるものの印章持ち」という称号が示され、エレファンティネ島に国家行政の施設の存在を示しています。ベイト・ハラーフのマスタバ墓K1は、第3王朝ネチェリヒェト王の治世に年代づけられるけれども、そこから王の印章が見つかっています。出土地不明の赤い石灰岩製の円筒型容器に王のセレフが浮彫りにされています。

ペルイブセン王については、下記のURLもご覧下さい。

http://www.touregypt.net/featurestories/peribsen.htm

http://xoomer.alice.it/francescoraf/hesyra/pribsn.htm

★セヘムイブ・ペルエンマート王

ペルイブセン王がセト名を採用する前のホルス名であるという説とペルイブセン王の後継者と見る説があります。現在前者の説がわずかに有利です。というのは、ペルイブセン王の墓と葬祭用周壁からセヘムイブ・ペルエンマートの名前を持つ印章が発見されているからです。階段ピラミッドから出土した石製容器にはinw xAzt「外国の贈り物」の銘文が記され、ペルイブセン王のinw ZTt「セチェトの贈り物」の銘文を思い出させます。その他には、エレファンティネの古王国の町のゴミ捨て場からセヘムイブ・ペルエンマートの名前を持つ印章が発見されています。また出土地不明のアラバスター製の鉢の内側にもセヘムイブ・ペルエンマートの名前が見られます。

セヘムイブ・ペルエンマート王については、下記のURLもご覧下さい。

http://xoomer.alice.it/francescoraf/hesyra/Sekhemib.htm

★ハーセヘム(ウィ)王

治世の始まりにホルス名ハーセヘムを採用しましたが、後にセレフの上にセト・アニマルを追加し、ハーセヘムウィと改名し、さらにnbwy Htp im.f「二つの力は彼の中で平和である。」というエピセットを採用しました。

ハーセヘム王の名前は階段ピラミッド複合体から出土した閃緑岩製の容器とヒエラコンポリスのホルス神神殿から出土した石灰華製と花崗岩製の容器に見られます。bS「反乱」という銘辞を含むリングの上にネクベト女神が立っており、「北方の敵と戦う年」と記されています。王は白冠しかかぶっていません。このため王が即位した時は上エジプトしか統治せず、エジプト北部に対する軍事遠征の結果エジプトを再統一したと推論されています。しばしば後世の『ホルス神とセト神の争い』の神話がこの出来事を象徴していると言われてきました。しかし、それが歴史的事実かどうかは不明です。ヒエラコンポリスで出土した石灰岩製の座像と泥岩製の座像の台座には「北方の敵47,209人」という銘文と敗北した敵達のレリーフがあります。またヒエラコンポリスから出土した断片的な石碑はヌビア遠征を表しているかもしれません。外国人の頭部で終わる台座の上に捕虜がひざまづいており、ヌビアを表すと思われる弓が載っています。さらにその場面の下には王のセレフと「外国を卑しめる」という銘文があります。個人所有の出土地不明の銅製の斧にも王のセレフが見られます。

ハーセヘムウィ王の名前はヒエラコンポリスからビブロスまで広く証明されます。ビブロスの神殿からは「ハーセヘムウィ、生命を与えられる者」という銘文が記された角礫岩製の石製容器の断片が発見されています。王の治世に属する印章刻印にはimy-r xAzt「諸外国の長官」の称号が初めて登場します。ヒエラコンポリスから出土した石材には外国のリストが記されていますが、貢ぎ物や戦闘で殺された敵の数も記していたかもしれません。もしそうならば、王の治世にエジプトの覇権が外国に強力に示されたことになります。王の碑文はサッカーラのS3043墓と階段ピラミッド複合体とアビュドスでも発見されています。

王墓と葬祭用周壁はアビュドスにあります。王墓は一つの長い回廊からなり、長さ68m、最大幅39.4mで、58の部屋に分けられています。埋葬室(8.6×3m)は、化粧仕上げされた石灰岩の石材で区画されており、現在知られている最古の石造りの埋葬室です。副葬品は大量の銅製の道具と容器、石製容器(そのうちいくつかは黄金のシートを被せられていました)、黄金の帯がある紅玉髄の笏、青銅製の水差しと水盤、フリント製の道具、穀物と果物が詰まった土器、小さな釉薬をかけられた工芸品、紅玉髄のビーズ、道具の模型、籠、大量の印章です。倉庫の数の多さから第1王朝の王墓すべての副葬品よりも多かったと思われます。巨大な葬祭用周壁(シュネト・エズゼビブ、かつて「要塞」と呼ばれた)は泥レンガで建設され、124×56mの区域を囲みました。壁の内側は「宮殿の正面」で装飾されています。周壁の中庭には、泥レンガで囲まれた方形の砂と小石の築山がありました。これは第3王朝の階段ピラミッドを予示します。しかし、このような築山は第1王朝から葬祭用周壁の中庭に築かれていたかもしれません。周壁の巨大さは莫大な労働力と資源の投資を示しており、王権の新しい秩序を反映しています。周壁に隣接して12隻の船が埋葬されました。船の長さは18-21mですが、高さは50cmです。これらの船の埋葬の目的は知られていません。おそらく葬儀で実際に使われたかあるいは来世での旅のために象徴的に埋葬されたのかもしれません。これらは船と王の葬祭礼拝との関連を示す最古の証拠です。

王はヒエラコンポリスの大きなワーディの北側にも同様な巨大な周壁を築いています。ヒエラコンポリスの町の遺跡からは花崗岩製の扉のわき柱と二つの石材が発見され、王によって建設された巨大な神殿の存在を暗示しています。エル・キャブでも王のセレフがある花崗岩の石材が町の周壁内で発見されており、もう一つの建築物の存在を暗示しています。もしゲベレインのハトホル神殿から見つかった初期王朝のレリーフがある石材も王の治世に年代付けられるならば、初期王朝最大の神殿建設者になります。

パレルモ・ストーンの第五段に治世12〜18年の記述があります。隔年の家畜の頭数調査はもはや行われず、行政上の変革があったことを示しています。第五段第一欄に「ホルス神に付き従うこと、6回目の家畜の頭数調査、(ナイル川の水位)2キュービット4パーム1.5フィンガー」(治世12年)、第ニ欄に「nzwt-bityのお出まし、建築物『女神は永続する』を石材で建築すること、(ナイル川の水位)2キュービット3パーム1フィンガー」(治世13年)、第三欄に「ホルス神に付き従うこと、7回目の黄金と耕地の調査、(ナイル川の水位)3分の2キュービット」(治世14年)、第四欄に「銅像『ハーセヘムウィは高い』の制作、(ナイル川の水位)2キュービット6パーム2.5フィンガー」(治世15年)、第五欄に「ホルス神に付き従うこと、8回目の黄金と耕地の調査、(ナイル川の水位)4キュービット2パーム2+2/3フィンガー」(治世16年)、第六欄に「4回目の壁を・・・(?)、ドゥワジェファ(?)での船の建造(?)、(ナイル川の水位)4キュービット2パーム」(治世17年)、第七欄に「2カ月23日」(治世18年)が記録されています。

黄金は国内の鉱山あるいは鉱物の生産全体を、耕地は農業資産に言及しています。耕地の面積、所在地、生産性は農業の富の主要な指標だったに違いありません。銅製の王像の制作は最古の例です。

ロンドン・フラグメント(UC15508)の上段はおそらく王の治世3〜6年を記録しています。第一欄に「1回目の黄金の調査(?)、・・・」(治世3年)、第ニ欄に「[ホルス神に付き従うこと]、2回目の家畜の頭数調査、(ナイル川の水位)3キュービット6パーム2フィンガー」(治世4年)、第三欄に「臣民の・・・、(ナイル川の水位)3キュービット1パーム」(治世5年)、第四欄に「3[回目の家畜の頭数調査]、(ナイル川の水位)1キュービット・・・」(治世6年)が記録されています。

ハーセヘム(ウィ)王と王妃ニーマートハプの息子が第三王朝の創始者ネチェリヒェト(ジェセル)王であることは、アビュドスの王墓から出土した印章の銘文「王の子供達の母、ニーマートハプ」と、ネチェリヒェト王の治世に年代づけられるベイト・ハラーフのマスタバ墓K1から出土した印章の銘文「上・下エジプトの王の母」から証明されます。

ハーセヘム(ウィ)王については、下記のURLもご覧下さい。

http://www.touregypt.net/featurestories/khasekhem.htm

http://xoomer.alice.it/francescoraf/hesyra/Khasekhemwy.htm

サッカーラの第2王朝のマスタバ墓群については、「エジプトの世界遺産 3-(2) サッカーラ編」をご覧下さい。

第3王朝

古王国初期の建築、芸術、関連する信仰は明らかに初期王朝時代の形式から発展しました。ネチェリヒェト王の階段ピラミッド複合体に見られるものは、初期王朝時代の墓の巨大な世界初の石造りの記念碑への転換です。この記念碑は王によって行使された巨大な支配の象徴である一方、そのような権力はナカダ3期/第0王朝の広域領土国家の統一に続いて、第1・2王朝を通じてますます発展したに違いありません。

国家の官僚体制がうまく組織され、王の支配下に国全体を置くために拡大された時、初期王朝時代は統一の巨利を強化する時代でした。このことは、王と大規模事業を支援するために、シナイ半島、パレスティナ、レバノン、下ヌビア、東部砂漠への物資を求めた遠征を含めて、課税を通じて行われました。おそらく巨大な王の葬祭記念碑を建設し、軍事遠征のための兵士達を供給するために、徴兵も行われました。初期の書法の使用は疑いなくそのような国家組織を容易にしました。

メンフィス地域の川の両側の初期の共同墓地がはっきりと証明するように、国家官僚への明らかな報酬がありました。葬祭礼拝の恩恵の信仰は、南部・北部ともにこの社会を統合するのを助けた結合力のある要因でした。王が国、労力、資源に対して強大な支配を行使し始めた初期王朝では、神王のイデオロギーはそのような支配を正当化し、統一する信仰体系としてますます強力になりました。

エジプトにおける初期文明の開花は社会政治的・経済的組織とイデオロギーの両方における主要な転換の結果でした。西アジアのどの同時代の政体も領土と人口がもっと少なかったことを仮定すれば、そのような転換が初期王朝時代に成功だったことは、本当に驚くべきです。この国家が古王国が終わるまで約800年間うまくいったことは、一部にはナイル川の氾濫原での巨大な農業生産力のおかげですが、エジプト人の組織技術と強力に発展した王権制度の結果でもあります。

★ネチェリヒェト(ジェセル)王

ニーマートハプの印章とハーセヘムウィ王墓で発見されたネチェリヒェト王の印章から、ハーセヘムウィ王の息子かつ後継者としてハーセヘムウィ王の埋葬を監督したことが分かります。またハーセヘムウィ王の葬祭用周壁とネチェリヒェト王の階段ピラミッドの周壁との建築上・象徴上の類似は両者の治世の近さを物語ります。

階段ピラミッド・コンプレックスの中の「南部の家」の中庭の礼拝堂の壁には、新王国以降の訪問者達の碑文が残っています。これらの碑文の中で初めて階段ピラミッド・コンプレックスの所有者としてジェセルという名前が言及されています。セーヘル島の「飢饉の石碑」はプトレマイオス5世時代の偽造ですが、クヌム神信仰がジェセル王の治世にさかのぼると主張しています。ジェセル王は階段ピラミッド複合体が建てられた王として尊ばれているので、ジェセル王がネチェリヒェト王を指していることは間違いありません。またラムセス2世時代の王名表トゥーリン・キャノンでは、書記はジェセル王の名前を赤インクで書いており、王の即位をエジプト史の重要な一里塚と考えていたことを示します。ちなみにトゥーリン・キャノンは王の治世年数を19年と記録しています。

王がアビュドスの王の埋葬地を最終的に放棄したことについては、王が今や恒久的にメンフィスの王都に住んだからかもしれません。王の階段ピラミッド複合体はサッカーラで最も堂々とした記念碑の一つです。それは王朝時代初期の宗教と王権の最も重要な史料であり続けています。ピラミッドの地下回廊と南の墓の地下回廊の6つのパネルの枠となる偽扉のまぐさ石に王の完全な称号群が彫られています。階段ピラミッド複合体から出土した境界碑には王名と王族の女性達の名前が彫られています。

王の他の業績と他の地域での王の活動については、次のような証拠があります。王がヘリオポリスに建てさせた礼拝堂の断片(トリノ、エジプト博物館所蔵)にゲブ神やセト神のレリーフがあり、九柱神の礼拝を示すかもしれません。ベイト・カラーフのマスタバ墓K1からは王の大量の印章刻印とニーマートハプの印章が発見されたので、マスタバ墓K1はニーマートハプの墓だったかもしれません。ベイト・カラーフには王の治世に年代づけられるK2〜K5のマスタバ墓群があり、王の印章がそれぞれの墓から発見されているので、これらはニーマートハプの一族の墓だったかもしれません。またエレファンティネの町の東の区域から王のセレフのある4つの壷の封印が発掘されています。サッカーラでは王の印章は三つの高官の墓で発見されています。そのうちの一つはヘシラーの墓です。

シナイ半島のトルコ石鉱山、ワーディー・マガーラには中央によって組織された遠征隊が定期的に派遣されたことが、岩壁碑文から証明されます。

パレルモ・ストーンの第五段に治世1〜5年の記述があります。第五段第八欄に「nzwt-bityのお出まし、上・下エジプトの統一、壁の巡行、(ナイル川の水位)4キュービット2パーム2+2/3フィンガー」(治世1年)、第九欄に「nzwt-bityのお出まし、snwt(i)礼拝堂に王を案内すること、(ナイル川の水位)4キュービット1+2/3パーム」(治世2年)、第十欄に「ホルス神に付き従うこと、ミン神像の制作、(ナイル川の水位)2キュービット3パーム2+3/4フィンガー」(治世3年)、第十一欄に「nzwt-bityのお出まし、建築物『神々の泉』でローブを張ること、(ナイル川の水位)3キュービット3パーム2フィンガー」(治世4年)、第十二欄に「ホルス神に付き従うこと、(ナイル川の水位)3キュービット」(治世5年)が記録されています。

snwt(i)礼拝堂はセド祭で重要な役割を果たした上エジプトの礼拝堂(「ペルウル」)と下エジプトの礼拝堂(「ペルヌー」)と関連があり、ヘリオポリスにあったと思われます。カイロ・フラグメントにも王の治世年の記述がありますが、こちらはほとんど残っていません。

ネチェリヒェト王については、下記のURLもご覧下さい。

http://www.touregypt.net/featurestories/djoser.htm

http://xoomer.alice.it/francescoraf/hesyra/dyn3-Djoser.htm

ネチェリヒェト王の階段ピラミッド複合体については、「エジプトの世界遺産 3-(2) サッカーラ編」をご覧下さい。

★セヘムヒェト王

ネチェリヒェト王の後継者のホルス名はセヘムヒェト、トゥーリン・キャノンではジェセルティで、この二つの王名の一致はセヘムヒェト王の階段ピラミッド複合体での象牙製の飾り板の銘辞nbty Dzrti anxから証明されました。ネチェリヒェト王の階段ピラミッドを設計したイイエムヘテプはセヘムヒェト王の階段ピラミッド複合体の建設にも関わったようです。というのは、北の周壁に記されたグラフィートは、コンテクストは不明だけれども、イイエムヘテプの名前に言及しているからです。ピラミッドの下部構造の主要な通路では黄金のセットが発見されています。

シナイ半島のワーディー・マガーラにはベドウィンの捕虜を討つ王のレリーフが岩壁碑文とともに残されています。エレファンティネの古王国の都市からは王名のある印章刻印が発見されています。エレファンティネの古代名Abwが現れる最古の例です。

ちなみにトゥーリン・キャノンは王の治世年数を6年と記録しています。

セヘムヒェト王については、下記のURLもご覧下さい。

http://www.touregypt.net/featurestories/sekhemkhet.htm

http://xoomer.alice.it/francescoraf/hesyra/dyn3-Sekhemkhet.htm

★ハーバー王

メンフィスの墓地の一つ、ザウィイェト・エル・アリアンの層状ピラミッドの近くの共同墓地にあるマスタバ墓Z500から王のセレフが記された8つの石製容器が出土しています。ヒエラコンポリスの初期王朝時代の町から王名を記された印章が発見されています。エレファンティネの東の町からはアシュ神と王のセレフが彫られた印章が出土しています。ピートリー博物館の出土地不明の閃緑岩製の鉢とダハシュール出土と言われているもう一つの閃緑岩製の鉢にも王のセレフが見られます。

ハーバー王については、下記のURLもご覧下さい。

http://www.touregypt.net/featurestories/khaba.htm

http://xoomer.alice.it/francescoraf/hesyra/dyn3-Khaba.htm

★サーネヘト王/ネブカー王

ベイト・ハラーフのマスタバ墓K2から出土した多数の印章に王名が見られます。エレファンティネ島の初期王朝の建築物で発見された印章刻印にも王名が見られます。その刻印には小階段ピラミッド付属の王領地と結びついた行政施設と関連した称号も見られます。シナイ半島、ワーディー・マガーラの一対の岩壁碑文があります。一方の場面には、白冠をかぶり、ウプワウト神の旗に先導された王とハヤブサが載った祠堂が描かれています。もう一方の場面には赤冠をかぶり、捕虜を討つ姿勢を取る王が描かれています。この場面にはトルコ石(mfkAt)への最古の言及が見られ、ネチェリヒェト王以来エジプト人がその鉱山地域で激しく活動していたことを示します。

ベイト・ハラーフの印章刻印に基づいて、サーネヘト王の上・下エジプト王名はネブカーです。ネブカーの名前はサッカーラの「ネブカー王の神官」アヘトアアの墓とウエストカー・パピルスに記された中王国の物語に現れます。物語ではネブカー王の治世は、ネチェリヒェト王の治世の後に、かつフニ王の治世の前に置かれています。この順序が年代順なら、ネブカー王は第3王朝の終わり頃に統治したことになります。

サーネヘト王については、下記のURLもご覧下さい。

http://www.touregypt.net/featurestories/sanakhte.htm

http://xoomer.alice.it/francescoraf/hesyra/dyn3-Sanakht.htm

★フニ王

第3王朝の最後の王かつスネフェル王の前任者であることは、プリッセ・パピルス(第2欄7行目、『カゲムニへの教訓』)とサッカーラのメチェンの墓の自伝碑文から確認されています。メチェンは「(故王)フニの地所管理の長官」でした。1909年にエレファンティネで発見された花崗岩の円錐には、王宮zSd Hwni「フニ王の環状冠」という碑文があります。

エジプト中にある7つの小階段ピラミッドのうち、スネフェル王によって建てられたことが分かっているセイラのものを除いて、残り6つがフニ王の治世に年代付けられます。すなわち、中エジプトのザウィエト・エル・メイティン、南アビュドスのシンキ、ナカダ近くのトゥフ、ヒエラコンポリス近くのエル・クラ、南エドフ、エレファンティネ島です。小階段ピラミッドは王の礼拝あるいは王領地と関連がある地域の指標として建てられ、少なくとも上エジプト南部の各州に一つありました。もしかしたら、フニ王の治世に地方行政の再編成があったかもしれません。年代記パレルモ・ストーンの第5王朝ネフェルイルカラー王の治世の欄にフニ王の地所の記述があります。このことはフニ王の死後150年経っていても王の記憶が残っていたことを示します。

メイドゥームのピラミッドはフニ王の治世に建設が始められ、スネフェル王によって完成されたと考えられています。メチェンの墓に記録された地方行政の構造は第4王朝の大ピラミッド建設に反映された労働力と資源の絶対的な中央管理を予感させます。このようにしてフニ王の治世とともに、エジプト文明の形成期が終わります。

フニ王については、下記のURLもご覧下さい。

http://touregypt.net/featurestories/huni.htm

http://xoomer.alice.it/francescoraf/hesyra/dyn3-Huni.htm

7つの小階段ピラミッドについては、下記のURLもご覧下さい。

http://www.touregypt.net/featurestories/smallstep.htm

1960年代末にルーヴル美術館によって購入されたカーヘジェト王の石碑については、下記のURLをご覧下さい。(ルーヴル美術館の解説では、カーヘジェト王=フニ王になっています)

http://xoomer.alice.it/francescoraf/hesyra/dyn3-Qa_Hedjet.htm

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