古代エジプトの歴史        2009年1月4日  西 村 洋 子

21.  第19王朝(紀元前1,295〜1,186年頃)(2)

年 表

新王国
第18王朝
(1,550〜1,295年頃)

第19王朝
(1,295〜1,186年頃)
ラムセス1世

セティ1世

ラムセス2世

メルエンプタハ王

アメンメススー王

セティ2世

ラーメススー・サープタハ王

ターウセレト女王

第20王朝
(1,186〜1,069年頃)

★メルエンプタハ王

ホルス名 : カーネヘト・ハーエムマート(他にも多数有り)、二女神名 : イリーバーウエルターエヌチェヘムー(他にも多数有り)、黄金のホルス名 : ネブセネジュ・アアシェフィート(他にも多数有り)、誕生名 : メルエンプタハ・ヘテプヘルマート、即位名 : バーエンラー・メリーアメン(時々メリーネチェルーを伴う)。治世年数9年。

ラムセス2世と正妃イシスネフェレトの息子。父ラムセス2世の治世15年に生まれ、治世40年以来将軍として活躍し、治世55年に王位後継者に指名され、ラムセス2世の死後紀元前1213年頃即位。死亡時の年齢は60歳ぐらいと推定される。王妃イシスネフェレト2世。王女イシスネフェレト。王子セティ・メルエンプタハ(後のセティ2世)。

治世5年にリビア人と海の民に対する防衛戦を行う。この戦闘に関する史料はカルナックのアメン神殿の大碑文、メヌーフ出土のアトリビス・ステラ(JdE 50568)(と花崗岩製の柱の断片)、テーベ西岸の王の葬祭神殿で発見された「イスラエル・ステラ」(及びカルナックのアメン神殿にある断片的なコピー)、さらにヌビアにある4つの戦勝碑です。 リビア王マリイウ/メレイェの指揮で、リビア人たち(リブ、メシュウェシュ、ケヘク)がエジプトに進撃しました。彼らにさまざまな海の民のグループ(シャルダヌ、ルッカ、トゥルシャ、シャカラシュ、アキーアワシュ)が参戦しました。海の民の故郷はバルカン半島、エーゲ海、小アジアにありました。海の民の広範囲の移動途中のエジプトへの攻撃は最終的にラムセス3世によって防衛されましたが、その間にヒッタイト王国と多くのシリア・パレスティナの諸都市が滅亡しました。明らかに南西の敵対的なグループは略奪しながらデルタに進出しました。しかし、カルナックの大碑文で言及されたその前のデルタの町の脅威がそれと結びつけられるかどうかは論争中です。リビア人来襲に関する報告によれば、王は軍隊を総動員して、ペルイル(下エジプト第3州?)で6時間の戦闘後敵の軍隊を壊滅しました。戦利品リストには6,000人以上の戦死者、9,000人以上の捕虜、さらに大量の武器が挙げられています。マリイウ/メレイェ自身は逃亡しましたが、リビアにおける指導者としての地位を失いました。彼の6人の息子たちは戦死し、12人の妻たちは捕らえられました。敵の大多数はメンフィスで串刺しにされました。戦死者たちの切り落とされた手と生殖器はメンフィスの王の宮殿の前に積み上げられました。

リビア戦争以前の何十年かの間に広範囲の飢饉のためにエーゲ海地域とイオニア海地域からの大移住が見られます。ミケーネの多数の重要な諸都市がひどく破壊され、ヒッタイト帝国の西端が崩壊し始めました。襲撃する「海の民」は北アフリカ沿岸(キレナイカ〜メルサ・マトルー)にも到達し、リビア人たちとともに16,000人の軍隊となって、エジプトに進撃しました。彼らは女・子供、家畜、家財道具を持っていたので、明らかにエジプトに定住するつもりでした。彼らは西デルタに侵入し、さらに南下してメンフィスとヘリオポリスを脅かしました。しかし、王の軍隊によって、6時間の戦闘後、敗北させられました。戦争捕虜たちはデルタの軍事植民地に定住させられました。

アマダの石碑で言及されたヌビアの反乱はおそらくリビア戦争以前に起こり、鎮圧されました。西アジアに対する外交政策はリビア戦争と比べるとあまり知られていません。治世3年からはエジプトの東の国境警備をする官吏の勤務日誌の一部(アナスタシ・パピルスIII)が残されています。それにはパレスティナへの書簡の配達やエドムのベドウィンたちをピトムへ通過させたことなどが記されています。さらにエジプトとヒッタイトの国境はダマスカスとビブロスを結ぶ線の北にあり、アムッルとカデシュはヒッタイトの属国だったことや、シリア・パレスティナのエジプト保護領のあちこちには、エジプト軍が駐屯していたことも勤務日誌から分かります。カルナック神殿の長い碑文(第7ピュロンと神殿中央部の間にある)によれば、王は治世5年のリビア戦争以前に、エジプトとヒッタイトの平和条約に基づいて、飢饉に脅かされたヒッタイト王国に穀物を供給しました。治世3年〜5年にパレスティナへの軍事遠征が行われたかどうかについては論争中です。アマダの石碑では王は「ゲゼルの征服者」と自称しています。F. J. ユルコとK. A. キッチンはアシュカロンの征服を示すカルナックのレリーフを王のものとしていますが、H. スールージアンは否定しています。イスラエル・ステラの最後の一節は王がパレスティナ地域に軍事介入したという意味で理解されています。歴史的解釈にも関わらず、ここには古代オリエントで「イスラエル」(国や都市ではなく部族として)の最古の証拠(しかもエジプト語の史料では唯一の証拠)が見られます。

イスラエル・ステラについては、下記のURLをご覧下さい。

http://members.tripod.com/~ib205/israel_stela.html

http://www.digitalegypt.ucl.ac.uk/thebes/merenptah/israelstela.jpg

テーベにおける王の主要な建設事業は王家の谷の王墓と葬祭神殿に集中しています。王墓(KV8)はまっすぐな軸、沈み彫りのレリーフ、付属室の少なさ、堂々とした入口で目立っています。装飾については、いくつもの冥界の書と埋葬室の天井の天体図が挙げられます。4つの石棺(3つは花崗岩製で、一番内側の棺はアラバスター製) には王のミイラが納められていましたが、第20王朝の終わりにアメンヘテプ2世の墓に移されました。

王の葬祭神殿は部分的にアメンヘテプ3世の解体された葬祭神殿の石材を利用しており、ピュロン、イスラエル・ステラの置かれていた第一中庭とそれに連結する南の宮殿、第二中庭(オシリス柱と王の巨像群)、二つの小列柱室、テーベの三柱神のための聖船休息所、太陽神礼拝のための広間、故王の葬祭礼拝のためのいくつかの部屋、聖なる湖から成っていました。現在王の葬祭神殿は博物館として公開されています。カルナックにはリビア戦争に関する報告が残されています。

王はメンフィスに王宮、プタハ神殿、王の葬祭神殿からなる複合体を建設しました。第19王朝メルエンプタハ王の宮殿はペンシルベニア大学博物館の下エジプトギャラリーに復元展示されています。平面図については下記のURLをご覧下さい。

http://www.digitalegypt.ucl.ac.uk/memphis/palaces/merenptah.html

ヘリオポリスからはリビア戦争の描写がある花崗岩製の柱とオベリスクが発見されています。本来アトリビスに建っていたと思われるリビア戦争に関する記述のある石碑(JdE 50568)はメヌーフというデルタの村から発見されています。デルタのカフル・マトブルでは二体の王とラー神あるいはアメン神との巨大な群像が発見されています。ペル・ラムセスからは多数の王像が発見されています。ファイユームのメディネト・マーディからは一体の王像が発見されています。王は中エジプトのエル・シリリヤにハトホル女神のための岩窟神殿を建造しました。またヘルモポリスのトート神殿の境内にアメン神殿を建設し、第一ピュロンの前に王の巨像を建てました。アビュドスではオシレイオンを「門の書」で装飾しました。

ヌビアにはヌビア総督メススーイによってアマダ、ワーディー・エス・セブーア、アマラ、アクシャの四カ所に設置された治世6年の日付の戦勝碑文が見られます。ゲベル・エス・シルシレにはハピによって捧げられた王の石碑のための礼拝堂があり、王妃イシスネフェレト2世への言及が見られます。ここには採石隊を率いた宰相パーネヘシーの礼拝堂と二つの石碑も残っています。

ゲゼルでは象牙製の旅行用日時計(王名入り)が、ウガリットからは王名入りの青銅製の剣の刃が発見されています。

さらに王は多数の古い記念碑、特に第12王朝の記念碑(例えば、デンデラのメンチュヘテプ2世のハトホル女神のための礼拝堂)を奪い、修復を行い、寄進(例えば、治世2年のオペト祭の時にカルナックのアメン・ラー神殿に寄進された彫像)を行いました。

王の重要な高官には、宰相パーネヘシーとペンサクメト、ヌビア総督ハーエムチェリー(王の不興を買い、メススーイに取って代わられる)とメススーイ、カルナックのアメン神官長レマーラーイがいました。

王の正統な王位後継者はセティ・メルエンプタハ(後のセティ2世)でした。しかし、ひどい関節症、動脈硬化、歯痛を患って王が亡くなったとき、アメンメススーが2〜3年間権力を完全に奪ったか、あるいはエジプト南部を支配しました。故王の礼拝はメンフィスでプトレマイオス時代まで続きました。

王の時代には『二人兄弟の物語』(パピルス・ドービニー)、『アポピとセケンエンラー』(サリエ・パピルス I)、『模範書簡集』などの文学作品が多数創作されました。

王は頻繁に出エジプト時の王とみなされてきました。しかし、パレスティナ地域にはすでに「イスラエル」と呼ばれる民族グループが定住しており、後の「イスラエル」にはさまざまな民族グループが加わり、旧約聖書の伝承の中に異なる諸要素が流入しました。そのため歴史上の事実は旧約聖書の単一的なイメージよりもはるかに複雑です。

メルエンプタハ王については、下記のURLもご覧下さい。

http://www.touregypt.net/featurestories/merenptah.htm

http://www.digitalegypt.ucl.ac.uk/chronology/merenptah.html

王墓(KV8)については、下記のURLをご覧下さい。

http://www.touregypt.net/featurestories/merneptaht.htm

http://www.thebanmappingproject.com/sites/browse_tomb_822.html

メルエンプタハ王の葬祭神殿については、下記のURLをご覧下さい。

http://www.egyptsites.co.uk/upper/luxorwest/temples/merenptah.html

http://www.touregypt.net/featurestories/merenptaht.htm

http://www.osirisnet.net/monument/temple_merenptah/e_temple_merenptah.htm

http://www.digitalegypt.ucl.ac.uk/thebes/merenptah/index.html

★アメンメススー王

ホルス名 : カーネヘト・メリーマート・セメンターウィあるいはネブへブーセドミーターチェネン、二女神名 : ウルビアウトエムイペトスート、黄金のホルス名 : 不明、誕生名 : アメンメススー・ヘカーワセトあるいはメシー、即位名 : メンミーラーセテプエンラー(時々メリーアメンを伴う)。治世年数4年(?)。

R. クラウス氏によれば、王はメルエンプタハ王時代のヌビア総督メススーイであり、ブーヘンに中心を置くヌビアから上エジプト南部を支配したセティ2世の対立王。セティ2世の治世2〜5年に在位。J. フォン・ベッケラート氏によれば、メルエンプタハ王の後に4年間単独で統治した王。L. ハバシュ氏によれば、かつての宰相アメンメス。K. A. キッチン氏はメイドゥームの北東4.5km、リカーで土器を発見し、王が上エジプト北部でも統治した証拠であるとします。このように、王のアイデンティティーについては論争中です。ソールト・パピルス124では王の名前の省略形に敵の限定詞が付加されています(「新エジプト語文法入門 5.6」の練習問題3をご覧下さい)。

王の記念碑は知られていません。王が古い記念碑に残したカルトゥーシュはセティ2世によってすべて抹消されました。

王墓はKV10。王墓の装飾はセティ2世によって取り除かれました。

http://www.kv-10.com/

http://www.kv5.com/sites/browse_tomb_824.html

アメンメススー王については、下記のURLもご覧下さい。

http://www.digitalegypt.ucl.ac.uk/chronology/amenmesse.html

http://www.touregypt.net/featurestories/amenmesses.htm

★セティ2世

ホルス名 : カーネヘト・ウルペフティあるいはカーネヘト・メリーラーあるいはカーネヘト・メクケメト、二女神名 : ネヘトヘペシュ・デルペジェト9あるいはセヘムヘペシュ・デルペジェト9あるいはメクケメト・ウアフハスート、黄金のホルス名 : アアネルーエムターウネブーあるいはアアネヘトゥーエムターウネブー、誕生名 : セテヒーメルエンプタハあるいはセティーメルエンプタハ、即位名 : ウセルヘペルーラー・セテプエンラー(いくつかのエピセットを伴う)。治世年数5年10ヶ月。

妃はターハトとターウセレト。王子セティ・メルエンプタハは早死。

王墓(KV15)、カルナックの第2ピュロンの前の中庭にあるアメン神、ムート女神、コンス神のための聖船休息所、カルナック出土の贈収賄に対する神殿勅令(KRI IV, 263-5; KRI IV translations, pp. 189-9)が主要な記念碑です。アナスタシ・パピルスVは要塞建造に言及しています。さらに王はシナイ半島セラービート・エル・ハーディム、ブト(青銅製の剣)、ペル・ラムセス、アトリビス(ラムセス2世のオベリスク上に)、テル・エル・ヤフディエ(彫像)、ヘリオポリス、アトフィー(厨子を持った彫像)、ヘルモポリス(ピュロンの王号とレリーフ)、メダムード、カルナック(オベリスク、石碑、彫像、さまざまな碑文)、ルクソール(碑文)、デル・エル・メディーネ(石碑)、シルシラ西とアマダ(石碑)、アブ・シンベル(神託のテクスト)で証明されます。

王の治世に年代づけられる重要なパピルスにアナスタシ・パピルスIV-VI(学童のための模範書簡集)とドービニー・パピルス(二人兄弟の物語)があります。ファイユームのハレムに関する記録文書も含まれます。

王はペル・ラムセスで死亡。新しく発見されたグラフィートによれば、サープタハ王の治世1年冬第3月11日にKV15に埋葬されました。H. アルテンミューラー氏によれば、王のミイラはターウセレト女王の治世7年に彼女の墓に移され、セトナクト王の治世初めに本来の墓に新たに埋葬されました。

セティ2世については、下記のURLをご覧下さい。

http://touregypt.net/featurestories/seti2.htm

http://www.digitalegypt.ucl.ac.uk/chronology/setyii.html

王墓KV15については、下記のURLをご覧下さい。

http://www.thebanmappingproject.com/sites/browse_tomb_829.html

ラムセス時代のパピルスについては、下記のURLをご覧下さい。

http://www.digitalegypt.ucl.ac.uk/writing/library/ram.html

★ラーメススー・サープタハ王

ホルス名 : カーネヘト・メリーハーピ・サンフターネブエムカーエフラーネブあるいはカーネヘト・メリーハーピあるいはカーネヘト・ウルペフティーミーアメンあるいはカーネヘト・ウルペフティー、二女神名 : サアーイウヌ、黄金のホルス名 : 不明、誕生名 : ラーメススー・サープタハ(治世2年まで使用)あるいはサープタハ・メルエンプタハ(治世3年以降)、即位名 : セハーエヌラー・メリーアメン(治世2年まで使用、セテプエンラーをエピセットに伴うことあり)あるいはアフエンラー・セテプエンラー(治世3年以降使用、メリーアメンをエピセットに伴うことあり)。治世年数5年9ヶ月。

ルーヴルのレリーフ(E26901)によれば、セティ2世とシリア人の妾妃スーテレリーの息子。ミイラの年齢は20歳ぐらい。小児まひだったと思われます。

王はーディー・ハルファとアブ・シンベル(治世1年にヌビア総督セティを任命)、セーヘル、アマダ、アスワン、ゲベル・エス・シルシラの碑文や描写によって証明されます。その他に、クルナ出土のサープタハ王によって奪われたアメンメススー王の石碑、パレスティナ出土の二つのスカラベ、ターウセレト王妃の膝の上に座る王の彫像があります。またターウセレト女王の墓のレリーフ、デル・エル・バハリの国庫長バイの墓の壁画、ヘルモポリスのピュロンの台座に残された王名、ヘルモポリス出土の方形座像の上の王子として現れます。

王墓(KV47)は治世1年に建造を開始されましたが、未完成です。カルトゥーシュはなぜか抹消された後、再び彫られています。王の石棺とミイラ(CG61080)は第21王朝にアメンヘテプ2世の墓に移されました。葬祭神殿の鎮壇具はファイアンス製のプレート、黄金や銀の薄い板、スカラベ、指輪、国庫長バイの多数の品々(ワイン壷の上書き)などを含んでいました。

国庫長バイは真の実力者で、義理の母ターウセレトが王の摂政を務めました(デルタのビルガイ出土の石碑より)。王と並ぶバイまたはバイとターウセレトを示す記念碑が多数見られます。バイは王家の谷に墓(KV13)を造り、デルタにぶどう園を所有し、王の葬祭テクストで自分の名前を言及させ、王の称号群を名乗りました。セトナクト王の時代のハリス・パピルスでは、バイは「シリア人アルスー」として現れます。H. アルテンミュラー氏によれば、バイは王よりも先に亡くなりました。P. グランデ氏によれば、バイは王の命令で治世5年に処刑されました。バイはKV13に埋葬されず、第20王朝の二人の王子メンチュヘルヘペシュエフ(ターウセレトの石棺を再利用)とメンチュヘルヘペシュエフが埋葬されました。バイがウガリット王アンムラピに宛てた書簡(RS 86.2230)がラス・シャムラで発見されています。バイの経歴は旧約聖書のヨセフに似ています。

国庫長バイの墓(KV13)については、下記のURLをご覧下さい。

http://www.thebanmappingproject.com/sites/browse_tomb_827.html

http://www.uni-hamburg.de/Wiss/FB/09/ArchaeoI/Aegypto/projekte.htm#3

ラーメススー・サープタハ王については、下記のURLをご覧下さい。

http://www.digitalegypt.ucl.ac.uk/chronology/siptah.html

http://www.touregypt.net/featurestories/siptah.htm

王墓(KV47)については、下記のURLをご覧下さい。

http://www.thebanmappingproject.com/sites/browse_tomb_861.html

バーゼル大学の「王家の谷」調査については、下記のURLをご覧下さい。

http://pages.unibas.ch/talderkoenige/

★ターウセレト女王

ホルス名 : カーネヘト・メリーマート・ネブアンエムネスートミーアテンあるいはカーネヘト・メリーマート、二女神名 : ゲレグケメト・ウアフハスート、黄金のホルス名 : 不明、誕生名 : ターウセレト(メリトエンムートあるいはセトペトエンムートをエピセットに伴うことあり)、即位名 : サトラー・[ヘヌート]ターメリー(メリトエンアメンあるいはメリトアメンをエピセットに伴うことあり)。治世年数1年6ヶ月。

セティ2世の正妃。KV56(女王の娘の墓?)からセティ2世と女王の名前が記された銀製の腕輪や装飾品が発見されています。セティ2世の死後妾妃スーテレリーの息子ラーメススー・サープタハが即位しましたが、未成年の子供だったので、女王が摂政を務めました(デルタのビルガイ出土の石碑より)。ラーメススー・サープタハ王の死後、女王は摂政の期間も含めて治世年数を数えたので、マネトーンは治世年数を7年と記しています。シリア出身の国庫長バイは第19王朝最後の状況におけるキーパーソンでした。女王とバイの関係については未だに正確に明らかになっていません。いずれにしてもバイの墓(KV13)と女王の墓(KV14)はラーメススー・サープタハ王墓(KV47)のすぐ近くに造営されました。R. ドレンクハーン氏によれば、バイは女王またはセトナクト王に反して王権への野心を示しましたが、ラーメススー・サープタハ王よりも先に亡くなりました。

女王の墓はセティ2世の治世2年に造営され始めましたが、後にセトナクト王に略奪されました。女王は単独統治の期間中ラメセウムの南に自分の葬祭神殿(未完成)を建設しました。その他に、ブバスティス(黄金製と銀製の容器)、メンフィス(石材)、ヘルモポリス(女王によってセティ2世のピュロンの台座にラーメススー・サープタハ王の名前を上書き)、シナイ半島(セラービート・エル・ハーディム出土の30の物品)、カンティール(レンガ)が知られています。またヨルダンのデル・アッラ出土の容器とスカラベも女王のものです。トリノ・パピルス32(ラムセス6世時代)は、女王の時代にはもはやデル・エル・メディーナに設立されたラムセス2世の彫像の礼拝が中断されたことを伝えています。膝の上にラーメススー・サープタハ王を抱いた女王の座像(R. ドレンクハーン氏によれば、女王ではなくバイの座像)がミュンヒェンにあります。女王の墓は、ラーメススー・サープタハ王の亡くなった年のオペト祭の後に、真の王墓として拡張工事が始まりましたが、女王はセトナクト王との王権争いで敗北しました。

KV56については、下記のURLをご覧下さい。

http://www.thebanmappingproject.com/sites/browse_tombimages_870.html

ターウセレト女王については、下記のURLもご覧下さい。

http://www.touregypt.net/featurestories/tausert.htm

http://www.digitalegypt.ucl.ac.uk/chronology/tausret.html

ターウセレト女王とセトナクト王の墓(KV14)については、下記のURLをご覧下さい。

http://www.touregypt.net/featurestories/tst.htm

http://www.thebanmappingproject.com/sites/browse_tomb_828.html

第19王朝については、下記のURLもご覧下さい。

http://euler.slu.edu/~bart/egyptianhtml/kings%20and%20Queens/Dynasty19.html

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