古代エジプトの歴史        2008年9月11日  西 村 洋 子

20.  第19王朝(紀元前1,295〜1,186年頃)(1)

年 表

新王国
第18王朝
(1,550〜1,295年頃)

第19王朝
(1,295〜1,186年頃)
ラムセス1世

セティ1世

ラムセス2世

メルエンプタハ王

アメンメススー王

セティ2世

ラーメススー・サープタハ王

ターウセレト女王

第20王朝
(1,186〜1,069年頃)

★ラムセス1世

ホルス名 : カーネヘト・ウアジュネシート、二女神名 : ハーエムネスートミーアテン、黄金のホルス名 : セメンマートヘトターウィ、誕生名 : ラーメススー(時々ヘカーマートを伴う)、即位名 : メンペフティーラー(時々へカーマート、ティトラーを伴う)。治世年数1年と数ヶ月。

父は将校スーティー。スーティーの妻はサトラーとティアと呼ばれており、二人の妻がいたのか、あるいは一人の妻の宮廷名と誕生名なのかは不明です。ラムセスとサトラーの息子が後のセティ1世です。王の即位前の経歴と血縁関係については、議論が続いています。ラムセスがカルナックのアメン神殿第10ピュロンの前で発見された一対の書記の姿の彫像、宰相パーラーメススー(JE44863とJE44864)と同一人物ならば、部隊と要塞シレの司令官、参謀本部の将校、王の使節、戦車部隊の長官などの軍事経歴を経て、ホルエムヘブ王の時代に宰相となり、ついに上・下エジプトにおける陛下の名代、全土における世襲貴族、王の息子としてホルエムヘブ王の後継者に指名された、ということになります。ラムセスは宰相としてファイユームのグローブに墓を築き、付属室にはラムセスの血縁者(妻?)が埋葬されました。ホルエムヘブ王の治世の終わり頃ラムセスは自分の名前をカルトゥーシュで囲みました。ラムセスの称号とホルエムヘブ王の称号が記された小オベリスク(?−エディンバラ・ロイヤルスコティッシュ博物館No. 1965-318)の存在から、ラムセスは共同統治者だったと思われます。戴冠後グローブの墓にある外棺と内棺のうち内棺がテーベに移され、王墓(KV16)は王家の谷に新たに建造され、グローブの墓は放棄されました。後世別人の骨が発見されています。ラムセスが東デルタ出身だったのか、グローブ出身だったのかは不明です。王のミイラは1870年代以降長い間行方不明になっていましたが、2003年にカナダ・アトランタのマイケル・カルロス博物館からエジプトのカイロ博物館に返還されました(http://www.carlos.emory.edu/RAMESSES/index.html参照)。

ホルエムヘブ王が出身地フートネスートのホルス神を信仰したように、王はセト神を信仰し、ラムセス朝はセト神を王家の祖先神とみなしました。本来ヘリオポリスに建てられ、最近アレクサンドリア沖の海底で発見されたオベリスク(カイト・ベイの花崗岩製のオベリスク)は、セト・アニマルの頭部をつけたスフィンクスとしてラー・アトゥム神に捧げものをするセティ1世を示しています。

王の即位名は第18王朝の創始者イアフメスの即位名を参照してつけられ、新しい時代の始まりを意識していたことを示しています。また、息子のセティ1世がアビュドスに建設したラムセス1世のための礼拝堂の碑文では、王の治世が不幸なアマルナ時代と第18王朝の終わりの後の新しい始まりとして叙述されています。アビュドスでは彫像(JE89525)も発見されています。セティ1世には二人の兄弟と三人以上の姉妹がいたことが、礼拝堂の碑文から知られています。

王の建設事業として、カルナックのアメン神殿第2ピュロンと大列柱室の入口の建設に着手(事業はセティ1世に引き継がれる)。また同神殿境内に治世1年にオシリス・ネブジェト神殿を奉納。メンフィス(彫像台座、Louvre E.7690)とヘリオポリスで発見された石材とオベリスク断片(コペンハーゲン国立博物館468)から太陽神ラーの地所と水路の存在が知られています。シレからは要塞のアメン・ラー神のための寄進の石碑(Strasbourg 1378)が発見されています。ワーディー・ハルファ出土の治世2世の石碑(Louvre C57、シャンポリオンが発見)にはブーヘンのアメン・ミン神に神殿を奉納し、寄進したことが記されています。セティ1世は治世1年にこの石碑に自分の名前を付け加えさせ、同じ内容の石碑をもう一つこの神殿内に建立させました。王はミルギッサの神殿の装飾にも関与したかもしれません。シナイ半島のセラービート・エル・ハーディム出土の二つの石碑(ハトホル女神に捧げられる、Bruxelles E.2171とJE38264)からも王の存在が知られています。セティ1世は皇太子の時南パレスティナで治安活動を行いました。捕虜たちはブーヘンの神殿に寄進された地所に所属させられました。セティ1世がベト・シェアンに建設した神殿の下からラムセス1世の名前がある鎮壇具が発見されています。

王墓(KV16)は二つの通路と埋葬室と付属室からなる小さな墓で、ホルエムヘブ王墓のように「門の書」で装飾されました。ジョバンニ・ベルツォーニは1817年に花崗岩製の石棺と二体の見張りの像(BM854とBM883)と木像を発見しました。王はまずKV16に埋葬され、スメンデス王/ピネジェム1世の時代に隣接するセティ1世の墓の代わりの棺(CG61018)にラムセス2世と一緒に埋葬され、さらにサーアメン王治世10年にデル・エル・バハリの隠し場所に移されました。テーベ西岸とデル・エル・メディーネで、王は第19・20王朝に始祖として崇拝されました。セティ1世はクルナの自分自身の葬祭神殿でも父ラムセス1世のための礼拝堂を建て、ラムセス1世の礼拝を確立しました。また、エル・カンタラではメセンのホルス神と父ラムセス1世に記念碑を捧げました。

ラムセス1世については、下記のURLをご覧下さい。

http://touregypt.net/featurestories/ramessesi.htm

ラムセス1世王墓については、下記のURLをご覧下さい。

http://www.thebanmappingproject.com/sites/browse_tomb_830.html

http://www.osirisnet.net/tombes/pharaons/ramses1/e_ramses_1_droite.htm

http://www.osirisnet.net/tombes/pharaons/ramses1/e_ramses_1_gauche.htm

★セティ1世

ホルス名 : カーネヘト・ハーエムワセト・サンフターウィ、二女神名 : ウヘムメスート・セヘムヘペシュ・デルペジェト9、黄金のホルス名 : ウヘムハーウ・ウセルペジュートエムターウネブー、誕生名 : セテヒー(メルエンプタハあるいはメルエンアメンを伴う)、即位名 : メンマートラー。治世年数15年。

ラムセス1世とサトラーの息子。正妃トゥーヤ。息子はネブエンハーセトネベトとラムセス(2世)、娘はティア。長い間セティ1世の娘とされたヘヌートミーラーはラムセス2世の娘です。

王は皇太子の時、宰相、要塞シレの司令官、セト神をはじめデルタで信仰されていた神々の神官でした。

王は即位前に最高司令官としてパレスティナに進軍したことが、ブーヘンのラムセス1世とセティ1世の石碑から知られています。捕虜たちは奴隷としてブーヘンの神殿に割り当てられました。カルナックのアメン神殿の列柱室の北側の壁面の戦闘レリーフと石碑の碑文から、即位後は精力的な対外政策を行いました。治世1年に、シレとラフィアの間で、あるいはガザで、交易と交通路の安全を保証するために、ホルスの道を攻撃してくるシャス・ベドウィンと戦いました。帰途アメン神殿のためにレバノンのもみの木を伐採しました。ベト・シェアン出土の第一の戦勝碑は諸都市、すなわちハマト、ベト・シェアン、イェノアム(ヨルダン川中流)の征服に言及しています。カルナックの戦闘レリーフではさらにカデルも言及されています。 ティルスとハウロンのテル・エル・シハブの石碑も治安のための遠征を証明しています。ベト・シェアン出土の第二の戦勝碑で言及されているヤルムトのアピルに対する軍事行動もおそらくこのときに行われました。そして地域の争いを終わらせました。地名リストで沿岸のアッコ、ウス、ティルス、内陸のハツォル、ベト・アナト、さらに北方のクミディ(ダマスカスの北西)とウラザ(アムッル王国)も言及されているので、北方への進撃を行ったのかもしれません。このカナーン遠征はシャス・ベドウィンに対する作戦とは別に行われました。

シリア遠征でヒッタイトとの対決が行われたことは、カルナックの戦闘レリーフ、カデシュ出土の戦勝碑、ヒッタイト王ハットゥシリ3世とトゥドゥハリヤ4世とアムッル王たちとの二つの条約の前文から知られています。このとき(治世3〜5年)セティ1世はアムッル王国とカデシュを征服しましたが、カデシュはその後エジプトから離反したため、ラムセス2世がカデシュに対して軍事遠征を行いました。治世7年にヒッタイトとその属国たちに対して軍事遠征を行いました。おそらくクルナの葬祭神殿の地名リストがその史料です。しかし、ヒッタイト王ムワタリはセティ1世に対して軍事遠征を行いませんでした。リビア遠征(遅くとも治世6年)はカルナックでのみ言及されています。また治世8年に交易路の安全保証と労働力獲得のためにスーダンのイアム地方に軍事遠征(指揮官ヘカーネヘト)を行ったことがサイ島とアマラ西の石碑から知られています。

王はエジプト建築史上すばらしい建築物を残しました。カルナックでは大列柱室(ホルエムヘブの治世に建設が始まり、ピュロンの建設も含む。大列柱室の軸はテーベ西岸のクルナの葬祭神殿の軸に一致させられている)、アビュドスでは葬祭神殿(王名表、色彩の保存状態の良いレリーフ、ラムセス1世の礼拝堂)とオシレイオン(オシリス神の偽の墓)を建設しました。治世9年に、ワーディー・アッバードの東約60kmのカナイス(ワーディ・バラミーヤとワーディー・ミヤの合流点)に、岩窟神殿と井戸を建設し、架空のヌビア遠征で装飾させました。この岩窟神殿はアビュドスのセティ1世葬祭神殿の神々に捧げられ、柱廊玄関、4本の柱のある広間、 3つの礼拝堂から成ります。エドフの東のワーディー・バラミーヤの金鉱山の収益は、カナイスの岩窟神殿の碑文によれば、アビュドスの神殿に充てられ、ヌビアのナウリ勅令によってアビュドスの神殿職員たちと神殿財産が保護されました。ルクソールでは大列柱廊を装飾しました。カルナックからルクソールへの途中にあるトトメス3世とアメンヘテプ2世の聖船休息所も再建しました。

アビュドスの王名表ではアメンヘテプ3世にホルエムヘブ王が続き、アマルナの王たちが今や公式記録から完全に抹消されたことを示しています。また他の史料はアフエンアテン王からアイ王までの治世年数の合計がホルエムヘブ王の治世年数に加えられたことを示します。

アビュドスの葬祭神殿とオシレイオンについては、下記のURLもご覧下さい。

http://touregypt.net/featurestories/setiabydos.htm

http://www.egyptsites.co.uk/upper/abydos/seti.html

クルナの葬祭神殿については、下記のURLもご覧下さい。

http://www.egyptsites.co.uk/upper/luxorwest/temples/seti1.html

http://www.touregypt.net/featurestories/seti1temple.htm

王家の谷に築いた王墓(KV17)は新王国で唯一完全に装飾された王墓で、太陽神ラーへの連祷書、イミドゥアト、門の書などで装飾されました。埋葬室の天井には天体図が描かれました。アラバスター製の石棺には門の書が記されました。クルナの葬祭神殿は第19・20王朝の模範となりました。セティ1世の祈りが彫られた石碑も建てられました。ラムセウムの北側に正妃トゥーヤとイアフメス・ネフェレトイリーのために二重神殿を建設し、デル・エル・メディーナにハトホル神殿を建設しました。さらに美しき谷の祭りのためにデル・エル・バハリのハトシェプスト女王葬祭神殿を緊急に修復させました。

メンフィスではプタハ神殿に接して葬祭神殿と礼拝堂(イシス女神、ネフテュス女神、プタハ神に捧げられる)を建設しました。プタハ神殿内にも多数の彫像や建築物を追加しました。セド祭を描写した石材も発見されています。ギーザではアメンヘテプ2世のハウロン神殿を拡張し、ハルマキス神としての大スフィンクスには石碑を捧げました。ヘリオポリスではラー・アトゥム神殿の前にオベリスクとスフィンクス参道とともにピュロンを建設しました。それらはテル・エル・ヤフディエ出土の模型(あるいは願掛け?)に描かれています。オベリスクは現在ローマにあります。デルタでは新しい王都ペル・ラムセスの建設を始めました。アヴァリスのセト神殿には新しい聖船の台座を捧げました。スペオス・アルテミドスのライオン女神パヘトの岩窟神殿の至聖所も装飾されました。

ペル・ラムセスについては、下記のURLをご覧下さい。

http://www.touregypt.net/featurestories/qantir.htm

ヌビアでは第4カタラクトのゲベル・バルカルとブーヘンのアメン神殿で建設活動をしました。アクシャとアマラに都市を建設しました。石碑と岩壁碑文は、ゲベル・バルカル、ナウリ(ナウリ勅令)、ブーヘン、サヤラ、サイ、アマラ、カスル・イブリーム、アスワン、エル・ディバービーヤ、ゲベル・ドシェ、ゲベル・エス・シルシラ(年に2回のナイル犠牲祭の勅令)、カルナック、ワーディー・ハンマーマート、ヘルモポリス(勅令)、シナイ半島で発見されています。アマルナ時代に破壊された多数の神殿とレリーフが修復されました。エル・カンタラではメセンのホルス神と父ラムセス1世のためにハヤブサの彫像を捧げました。

王の治世からは行政文書、例えば、メンフィスのトトメス1世の宮殿の会計簿が発見されています。王は時々トトメス1世の宮殿に住みました。王の治世の宰相はネブアメンとパセル、ヌビア総督はアメンエムイペトとイウニ、穀倉長官はネフェルセシェルーと老サーアセト、テーベのアメン神官長はウプワウトメスとネブネチェルーです。

カルナックの戦闘レリーフでは、多くの場面で元帥かつ扇持ちのメヒー(アメンエムハブ、ホルエムヘブなどの名前の短縮形)が王に付き添っています。ラムセス2世はメヒーの名前と図像を抹消させ、いくつかの場面ではその代わりに皇太子としての自分に置き換えさせました。このためメヒーはラムセス2世の即位を脅かすほど王に信頼された人物(あるいは兄?)だったと思われます。

王墓は第21王朝に短期間ラムセス1世と2世のミイラの隠し場所になりました。王のミイラはラムセス1世と2世のミイラとともにサーアメン王の治世10年にデル・エル・バハリの隠し場所に運ばれました。

セティ1世については、下記のURLもご覧下さい。

http://www.touregypt.net/featurestories/seti1.htm

http://www.digitalegypt.ucl.ac.uk/chronology/setyi.html

セティ1世王墓(KV17)については、下記のURLをご覧下さい。

http://www.thebanmappingproject.com/sites/browse_tomb_831.html

http://www.touregypt.net/featurestories/seti1t.htm

カルナック神殿の戦闘レリーフと碑文については、The Epigraphic Survey, The Battle Reliefs of King Seth I, Reliefs and Inscriptions at Karnak, vol. 4 (Oriental Institute Publications, vol. 107), The Oriental Institute of the University of Chicago, Chicago, 1986をご覧下さい。

セティ1世の全記念碑については、Peter James Brand, The Monuments of Seti I : Epigraphic, Historical and Art Historical Analysis, Leiden, 2000をご覧下さい。

王墓の壁画の写真については、Erik Hornung, The Tomb of Pharaoh Seti I, Zürich, 1991をご覧下さい。

★ラムセス2世

ホルス名 : カーネヘト・メリーマート(他にも多数有り)、二女神名 : メクケメト・ウアフハースート(他にも多数有り)、黄金のホルス名 : ウセルレンプート・アアネヘトゥー(他にも多数有り)、誕生名 : ラーメススーメリーアメン(ネチェルヘカーイウヌーあるいはメルーティーミーアメンあるいはウルメヌーを伴う)、即位名 : ウセルマートラー(エピセットとしてティトラー、ヘカーワセト、イワラー、メリーラー、セテプエンラー、ネブヘペシュ、セテプエンラー・ペフティーミーメンチューを伴う)。治世年数66年。

父はセティ1世、母はトゥーヤ(治世22年に死亡。王妃の谷80号墓に埋葬される)。妹はティアで、彼女は宝庫長かつラメセウムの家畜の長官ティアと結婚(ティアとティアの二重墓は1982年にサッカーラで発見される)。正妃はネフェレトイリー(治世25年に死亡。王妃の谷66号墓に埋葬される)とイシスネフェレト(治世34年、ヒッタイトの王女の輿入れ直前に、死亡。墓は見つかっていないが、オストラコンによれば、王家の谷に埋葬されたらしい)。その他に王女ヘヌートミーラー(長い間王の姉妹であると信じられてきたが、実際にはラムセス2世の娘である)、ヒッタイト王女マートヘルネフェルーラーともう一人のヒッタイト王女、3人の王女たち(メリトアメン、ビントアナト、ネベトターウィ)と結婚する。少なくとも40人の王女たちと45人の王子たちが知られています。そのうちアメンヘルヘペシュエフ、セトヘルヘペシュエフ、ラーメススー、ハーエムワセトなど12人の王子たちはラムセス2世より先に死亡。彼らは王家の谷の巨大な墓(KV5)に次々と埋葬されました。そしてついに13番目の王子メルエンプタハ(母イシスネフェレト)が後継者となりました。

ラムセス時代の間王子たちは父王の記念碑で目立っていますが、これはおそらく新しい王朝が安泰で、再び世襲制に戻ったことを強調するためだったと思われます。皇太子は例外なく「軍の司令官」の称号を保有します。

ラムセス2世の王子たちについては、Marjorie M. Fisher, The Sons of Ramesses II, 2 vols., Wiesbaden, 2001をご覧下さい。

アビュドスの奉献碑文には10歳で王位継承者に昇格したと記されていますが、実際には父の後継者メヒーを排除した後昇格しました。そして父の死後17歳かあるいは25歳で即位しました。即位後ホルエムヘブ王の即位の碑文と同じ方法で自分の即位を正当化しました。さらに後には誕生神話によって即位を正当化しました。

ラムセス2世の対外政策はヒッタイトとの対決と平和条約締結に特徴づけられます。治世4年の夏に第一回目のシリア遠征を行い、沿岸のティルス、ビブロスへと進んだ後、内陸部を攻撃し、アムッル王国(ベンテシナ王)を奪回しました(ビブロスとナール・エル・ケルブのラムセス2世石碑)。そして、ヒッタイトの宗主権下にあるシリアを要求して、ヒッタイト王ムワタリと対立しました。治世5年にエジプト軍事史上最も有名なカデシュの戦いが行われました。史料としてアビュドス、カルナック、ルクソール、ラメセウム、アブシンベルの諸神殿に記された戦勝報告と叙事詩とレリーフ、その他に13バージョンのパピルス史料があります。まず最初にカデシュでエジプト王とヒッタイト王が直接相対峙しました。約2万人の四つの師団(アメン、ラー、プタハ、セト)からなるエジプト軍はカデシュの南まで進撃し、10km毎に離れていた四師団のうち先頭のアメン師団がオロンテス川を渡りました。オロンテス川の支流を越えた後、カデシュの西に陣営を築きました。カデシュの背後(北側)で待ち伏せしているヒッタイト軍の策略に騙され、残りの三師団から分断させられて、軍事力を弱められ、37,000人の兵士たちと2,500台の戦車からなるヒッタイト軍に対する完全な敗北の危機が迫りました。アメン師団と王と彼の親衛隊が包囲されている間、ヒッタイトの戦車隊は進軍中のラー師団を粉砕しました。プタハ師団とセト師団はまだ南の方にいました。西からカデシュに達するために東地中海沿岸を北へ行軍していた特別部隊は、時宜を得て到着し、包囲を開き、包囲されていた人々の脱出を可能にしました。すなわち、ヒッタイト軍は救援に駆けつけた特別部隊に後方から攻撃され、逃亡した敵の戦車兵たちはオロンテス川に飛び込みました。戦闘の終わり頃プタハ師団が、日没時にセト師団が到着しました。しかし、翌朝、今まで投入されていなかったヒッタイトの歩兵隊との見込みのない対戦を敢行する代わりに、全エジプト軍は撤退しました。アムッル王国は再びヒッタイトに帰属させられました。その際アムッル王ベンテシナはシャピリに取って代わられました。ダマスクスの北のウペ地域はヒッタイト領となりました。カデシュでの敗北は、エジプト側の史料では、エジプト軍に見捨てられ、アメン神の助けでたった一人で戦った王によって成し遂げられた勝利として描写されました(王のアメン神への祈り)。

カデシュの戦いから平和条約締結までの16年間王はシリア・パレスティナ地域でさらに戦い続けました。紀元前1271年(治世8年)、テュロス、シドン、ベイルート、ビブロス、ウラザ、イルカタ、シミュラ(スムル)、エレウテロスの谷とオロンテス川を通過して、チュニプとダプールを征服し、ダプールに彫像を建てました。翌年にかけてモアブに遠征(P. W. ハイダー氏の意見。ただし、キッチン氏は異論)。治世11〜20年の間にハウランに遠征(テル・エス・シハブに石碑建立)、カデシュの南のシャブトゥナを再征服。ヒッタイトではムワタリ王が亡くなり、ウルヒテシュプがムルシリ3世として即位。ラムセス2世は紀元前1270/69年(治世10年)にシリアに再び進出して、ダプールまで進軍し、ナール・エル・ケルブに石碑を建立。征服された属国はエジプト軍が帰国するとすばやくヒッタイト陣営に戻りました。エジプトがカデシュとアムッルを取り戻すことはありませんでした。ラムセス2世の治世16年に伯父のハットゥシリ3世によって退位させられ、追放されたムルシリ3世は最初はバビロニアの援助で、次いでアッシリアの援助で王位を奪回しようとしましたが、失敗に終わり、ラムセス2世の治世18年にエジプトへ亡命。エジプトはムルシリ3世の引き渡しを拒否したため、ヒッタイトによる攻撃の危機が迫り、バビロニアと同盟を締結(ベト・シェアンにラムセス2世の石碑)。ヒッタイトの手に落ちたハニガルバト(ミタンニ)はアッシリアに征服され、さらにアッシリアがカルケミシュとヒッタイト本国に迫っていたため、後に続く数ヶ月間交渉されたエジプトとの平和条約(治世21年)は両国にとって有益でした。平和条約締結によって、エジプトの北部戦線は安定し、新しい国境はユーフラテス川、黒海、東エーゲ海に開け、アメンヘテプ3世時代と同様の国際貿易がすぐに栄えました。

バビロニア語による両宮廷間の通信の一部はヒッタイトの王都ハットゥシャ/ボアズキョイで発見されています。平和条約締結後、王の治世34年にハットゥシリ3世の娘(エジプト名マートホルネフェルーラー)との結婚、皇太子ヒシミシャルマ(後のトゥドハリヤ4世)のエジプト訪問、ハットゥシリ3世のエジプトへの医療援助の要請、二番目のヒッタイト王女の輿入れが、ありました。

王は治世のごく初めにヌビアの反乱を鎮圧するために初めての軍事遠征を経験しました。その後ヌビアの状況は比較的落ち着いていました。ヌビア総督(「クシュの王子」)の官職はアメンエムイペト、ヘカーネヘト、パセル、ハーイ、セターウ、パセル2世、イウニ2世、メルネジェム、アンヘテプ、ホリの順に継承されました。セターウは治世44年にヌビアに襲撃しました。治世21年に行われたスーダンのイアム/イレムへの軍事遠征(アマラ西の描写とアビュドスの不完全な碑文)では7,000人の捕虜が捕らえられました。ワーディー・アラーキーの金鉱山の開発のために泉を掘削しました(クバーンの石碑)。

ヒッタイトとの平和条約締結後、王はデルタ西方の国境の防衛に専念しました。海の民の脅威とリビア人の来襲に対して王は西デルタの集落の防備を固め、リビアの沿岸地域に一連の要塞群を建設しました。ザウィエト・ウンム・エル・ラハム、エル・アラメイン、タニスの碑文はリビア人とシャルダヌ人(海の民の一グループ)に言及しています。ヒッタイトの通信文書から、エジプトは海からの脅威に対する艦隊の建設の際にヒッタイトを援助し、明らかにヒッタイトのために海の民と戦い、勝利したことが知られています(治世34年の後)。しかし、王はすでに治世2年にシャルダヌ人の部隊と戦い、「下エジプトが再び静かに眠ることが出来るように、海洋の戦士たち」を打ち負かしました。シャルダヌ人部隊はその時以来エジプト軍と王の親衛隊で役立ちました。この時までに、戦争捕虜としてやって来た多数の外国人が、その後エジプト軍に重要な戦力として雇われました。

旧約聖書は王をエジプトでイスラエルの民を抑圧したファラオとしていますが、これは後の伝承によって作り上げられた像です。古典的理解では、イスラエルはパレスティナで初めて、一部は既に定住していたグループ、一部は移住してきたグループというようにさまざまなグループから成りました。この中にはエジプトから脱出したグループも含まれます。

南部の宰相はパセル(セティ1世の治世からラムセス2世治世21年まで勤務)、ハーイ、ネフェルレンペト、北部の宰相はイリー(ネフェル?)、パラーヘテプ、ラーヘテプ、・・・マイ、ジェフーティーメスー、ネヒ(順不同)でした。アメン神官長はネブウェンネフェル、ウェンネフェル、パセル、バクエンコンス。国庫長はネブイオト、パーネヘシー、スーティー、パーイトエンヘブです。王の高官たちの多くはペル・ラムセスに住み、勤務しました。メンフィスではラムセス時代の35の墓が発見されており、それらのうちの幾つかは非常に巨大です。これらの墓はまだ神殿の形式を取っていますが、第18王朝末の墓と比べると、出来映えは見劣りします。第18王朝末の墓は頑丈な泥レンガ造りで、擁壁は石灰岩でしたが、ラムセス時代の墓は壁が中間に荒石を詰めた二列の石灰岩のオーソスタット(壁の下部を覆う石の板)から成り、ピュロンとピラミッドにも同じ技術が使われました。さらに、石灰岩自体の質がしばしばあまりよくなく、石材を互いに注意深く接合させるよりも、漆喰を豊富に使って石材の隙間を埋めました。墓壁に彫られたレリーフについてもラムセス時代のものは劣ります。このような技量の質の低下は全国的に見られ、王自身の神殿でさえ見られます。高浮き彫りは手間がかかり、高価なので、王の治世の最初の数年の後、消滅し、沈み彫りが一般的になりました。王の記念碑は、繊細さや完成度によってよりも、規模と数で圧倒します。

王の建設事業は完全に列挙するのが不可能なくらい多数でした。東部デルタに新しい王都としてペル・ラムセスを建設(テル・エル・ダヴァとカンティールに広がる10平方kmの敷地にアメン・ラー・ハラクティー・アトゥム神の神殿と21体の巨像、アナト女神の神殿を始めとする多数の西アジアの神々−バール、アスタルテ、ハウロン、カデシュ、レーシェフ−の神殿、セド祭の広間)。王都はシレの国境の要塞に通じる道の近くに、ナイル川のペルシウム支流に沿って位置し、重要な国際貿易都市かつ軍事基地となりました。王都には多数の外国人が住み、そのうちのあるものは高官になりました。ヒッタイトの武器職人たちが王都のよろい工房でエジプト人に最新の武器技術を教えたり、非常に需要の多いヒッタイトの楯を製造しました。

アブ・シンベルにはヌビアの神殿建設プログラムの頂点にして岩窟神殿の傑作であるアブ・シンベル大神殿(アメン・ラー神、メフーのホルス神、ラムセス2世、プタハ神に捧げられる。カデシュの戦いや他民族に対する勝利のレリーフ)と小神殿(イブシェクのハトホル女神と王妃ネフェレトイリーに捧げられる。アスワンハイダム建設に伴って、1964-68年に移転)。ヌビアでのその他の神殿建設は、ゲベル・バルカル(ナパタのアメン神殿の拡大)、アマラ西(アメン神殿)、アクシャ(アメン神、ラー神、ラムセス2世に捧げられた岩窟神殿。プント遠征の描写?)、エル・デッル(ラー・ハラクティー、アメン・ラー神、プタハ神、ラムセス2世に捧げられた岩窟神殿)、ワーディー・エス・セブア(アメン・ラー神、ラムセス2世、ラー・ハラクティー神に捧げられた岩窟神殿。ヌビア総督セターウによって治世44年の襲撃の後王のために建設される。大規模な彫像プログラムと祭列の参道)、ゲルフ・フセイン(メンフィスのプタハ神、ラムセス2世、プタハ・タテネン神、ハトホル女神のための岩窟神殿)、ベイト・エル・ワリ(アメン・ラー神、ラー・ハラクティー神、ラムセス2世、クヌム神、アヌキス女神に捧げられた神殿。美しいレリーフ。皇太子アメンヘルウネムエフと第四王子ハーエムワセトを伴った王の戦闘場面)。

テーベ東岸では、カルナック(アメン神殿 : 第一ピュロンの前のスフィンクス参道、大列柱室の装飾、トトメス3世のオベリスクを囲む日の出の太陽の神殿、カデシュの戦闘場面のある第九ピュロン、神官長バクエンコンスによって建てられた東のラムセス2世神殿、モント神殿の拡張、コンス・パーヒェレド神のためのムート女神構内の神殿A)、ルクソール(アメン神殿第一中庭とピュロンによる神殿拡張、二本のオベリスクと16体の巨像の建立。第一中庭の軸はラムセウムの軸に一致させられています)、テーベ西岸では、クルナ(セティ1世葬祭神殿の装飾、ラー・ハラクティー神の祭壇のある広間を北に増築)、デル・エル・メディーナ(アメン神とハトホル女神のための神殿)、葬祭神殿ラメセウム(第一ピュロン、第二中庭、オシリス柱、巨像、儀式用宮殿、列柱室、天井の天体図、アーチ型の屋根の倉庫、トゥーヤとイアフメス・ネフェレトイリーのための神殿、参道)。

ラメセウムについては、下記のURLもご覧下さい。

http://www.egyptsites.co.uk/upper/luxorwest/temples/rameses2.html

http://www.touregypt.net/ramseum.htm

アビュドスのラムセス2世の神殿については、下記のURLもご覧下さい。

http://www.egyptsites.co.uk/upper/abydos/rameses.html

http://www.touregypt.net/featurestories/ramessesiiabydos.htm

王墓はKV7(8本の柱に支えられ、多数の付属室のある埋葬室、かつてはセティ1世王墓と並ぶ最も美しい王墓でしたが、水や泥の侵入によりひどく損壊している)。

さらにエレファンティネ(礼拝堂。1837年にアメンヘテプ3世の聖船休息所とともに破壊される)、エル・キャブ(ラー・ハラクティー神、ハトホル女神、アメン神、ネクベト女神、ラムセス2世に捧げられた神殿)、アビュドス(セティ1世葬祭神殿の装飾、カデシュの戦闘場面と王名表のコピーがあるラムセス2世のオシリス神殿)、アフミーム(消滅したミン神殿の門?)、ヘルモポリス・マグナ(トート神構内南のトート神殿とアメン神殿へ至るピュロン、テル・エル・アマルナの都市を破壊して石材を再利用)、アンティノウポリス(神殿)、ヘラクレオポリス(ヘリシェフ神の神殿新築)、メンフィス(プタハ神殿の至聖所の新築、ピュロンのある前庭、西の広間、巨像群。ハトホル女神神殿。王子ハーエムワセトによる治世16年のアピス牛の埋葬と治世30年のセラペウムの小回廊の建設。ちなみに、プタハ神の聖牛アピスはそのときまでは独立した墓に埋葬されていました)、ヘリオポリス(治世26年のムネヴィス牛の最古の埋葬を行う)、テル・エル・ヤフディエ(原初の丘の神殿の新築)、テル・エル・サムニ(門のまぐさ)、メンデス(アマシス王の神殿に先立つ神殿)、ブト(彫像)、シナイ半島セラービート・エル・ハーディム(石碑)。ラムセス2世のオベリスクは35本知られています(24本は現在タニスにあります。他はアブ・シンベル、アトリビス、ヘリオポリス、カルナック、カンティール、ルクソールで発見されました。記念門の断片はガザで発見されました。2008年9月にはカイロ郊外アイン・シャムスでラムセス2世の神殿が発見されています。

ラムセス2世の巨像の数と大きさはどの王の巨像にも勝り、また新王国のほとんどの王像はラムセス2世によって奪われました。何百体もの王像と神像が奪われました。また彫像制作において、アメンヘテプ3世の彫像を真似たので、場合によってはオリジナルとラムセス2世のコピーとの区別が困難です。中王国第12王朝の王像さえラムセス2世によって奪われました。それらは新しいエジプトの古典的模範として役立ちました。古王国・中王国の賢人たちの著作(「プタハへテプの教訓」「カゲムニの教訓」「イプウェルの訓戒」「ネフェルティの予言」など)も新たな関心を持たれました。中期エジプト語で書かれたそれらの著作はアフエンアテン王によって書き言葉に採用された新エジプト語で書かれた恋歌や民話や神話よりもはるかに優れていると考えられたからです。さらに、王の治世に歴史意識は最高潮に達しました。それは遺跡に残された訪問者の碑文、王名表、歴史的出来事の詳細な記述に表れています。

ラムセス4世がアビュドスの石碑で言及しているように、王は14回セド祭を祝いました。最初のセド祭は治世30年に王子ハーエムワセトによって全国に公布されました。その後は約3年毎に、晩年は毎年セド祭が行われました。王は治世8年以前から「ラムセス神」と彫られた巨像をすべての大神殿のピュロンの前や通路のそばに建てさせました。それらは規則的な礼拝を受け、町の住民たちの崇拝の対象になりました。諸神殿の中に「ラムセス神」は自分自身の礼拝用の彫像と祭列用の聖船を持ちました。神格化された自分自身に供物を捧げる王のレリーフも見られます。

第四王子ハーエムワセトはメンフィスのプタハ神官長であり、ローマ時代まで続く学者と魔術師の名声を獲得しました。彼はメンフィス地域の古王国のファラオたちのピラミッドをいくつか修復し、自分自身の記念碑のいくつかでは、古王国の墓のレリーフの様式をコピーしようとしました。王の治世52年までに彼は生き残っている最年長の息子になり、皇太子になりましたが、数年後に55歳頃に亡くなりました。彼がKV5にではなくメンフィス地域に埋葬されたことは確かですが、セラペウムに埋葬されたかどうかは確かではありません。

王は96歳で亡くなりました。古王国第6王朝のペピ2世と並ぶ長寿で、晩年には既に伝説的存在になっていました。本来王墓に埋葬されたミイラは、第21王朝に、最初はセティ1世の王墓に、次いでデル・エル・バハリの隠し場所に、再埋葬されました。

王の治世の出来事や政策は後世に影響を与えました。第20王朝ラムセス3世はラムセス2世の政策を真似、メディネト・ハブの葬祭神殿建設においてラメセウムを手本にしました。第三中間期に現れる「ラムセス2世の王子」の称号は神格化されたラムセス2世の礼拝にさかのぼります。王はベントレシ・ステラ(ペルシア時代あるいはプトレマイオス時代の始めに作られた物語)、ディオドロス・シクルスとタキトゥスの歴史書にも登場します。ラメセウムは1817年に詩人パーシー・シェリーによって「オジマンディアスの墓」と歌われています。

ラムセス2世については、下記のURLもご覧下さい。

http://www.touregypt.net/19dyn03.htm

http://www.digitalegypt.ucl.ac.uk/chronology/ramsesii.html

http://pagesperso-orange.fr/sylvie.griffon/art_ramses/chrono.htm  (ラムセス2世の治世年表)

王墓(KV7)については、下記のURLもご覧下さい。

http://www.thebanmappingproject.com/sites/browse_tomb_821.html

http://ourworld.compuserve.com/homepages/Gerard_Flament/

http://www.touregypt.net/featurestories/ramesses2t.htm

王の息子たちの墓(KV5)については、下記のURLをご覧下さい。

http://www.thebanmappingproject.com/sites/browse_tomb_819.html

http://www.thebanmappingproject.com/about/progress.html

第19王朝の史料集として、K. A. Kitchen, Ramesside Inscriptions, 7 vols., Oxfordのうちの第1〜4巻(1975〜1982)があります。英訳はK. A. Kitchen, Ramesside Inscriptions : Translated and Annotated : Translations, vols. 1〜4, Oxford, 1993〜2003です。

ラムセス2世時代を概観したものに、K.A. Kitchen. Pharao Triumphant. The life and times of Ramesses II, Warminster, 1982とM. van de Mieroop, The Eastern Mediterranean in the Age of Ramesses II, Oxford, 2007があります。

第19王朝については、下記のURLもご覧下さい。

http://euler.slu.edu/~bart/egyptianhtml/kings%20and%20Queens/Dynasty19.html

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