古代エジプトの歴史        2008年7月10日  西 村 洋 子

19.  第18王朝(紀元前1,550〜1,295年頃)(4)

年 表

新王国 第18王朝 (1,550〜1,295年頃)
イアフメス王

アメンヘテプ1世

トトメス1世

トトメス2世

ハトシェプスト女王

トトメス3世

アメンヘテプ2世

トトメス4世

アメンヘテプ3世

アメンヘテプ4世/アフエンアテン王

ネフェルネフェルーアテン・セメネフカーラー王

トゥトアンフアメン王

アイ王

ホルエムヘブ王

第19王朝 (1,295〜1,186年頃)
第20王朝 (1,186〜1,069年頃)

★トゥトアンフアメン王

ホルス名 : カーネヘト・トゥトメスート、二女神名 : ネフェルヘプー・セゲレフターウィ、ウルアフアメン、ネフェルヘプー・セゲレフターウィ・セヘテプネチェルーネブー、黄金のホルス名 : ウチェスハーウ・セヘテプネチェルー、ウチェスハーウイトエフラー、誕生名 : トゥトアンフアテン、後にトゥトアンフアメン(しばしばヘカーイウヌーシェマーを伴う)と改名、即位名 : ネブヘペルーラー(しばしばヘカーマートを伴う)。治世年数9年。J. ペレペルキンやボゴスロフスキーは治世年数14年を主張。

両親不明。王が「王の実の息子」と言及されたヘルモポリス出土の石材から、王の父はアフエンアテン王(E. F. ウェンティはアメンヘテプ3世を主張)と推測されています。王の母はアフエンアテン王の妾妃キヤと推測されています。しかし、アマルナ王墓のレリーフ(α-β-γ)を、王を産んだときに死亡した王女の死を悼むアフエンアテン王とネフェレトイイティーと解釈する研究者(R. クラウス、G. T. マーティン)もいます。王家の谷55号墓で発見された遺体は王の近親者であることが医学的に証明されています。正妃はアンフエスエンパーアテン(後にアンフエスエンアメンと改名)。王墓で発見された二体の死産の遺体は、2008年9月の調査で、王夫妻の双子の子供たちであると鑑定されています。

王のミイラが推定年齢18歳なので、即位時の年齢が9歳と思われ、若い王のためにアイが摂政を務めました。治世2年まで王はトゥトアンフアテンの名でアマルナに住んでいました。トゥトアンフアテンあるいはアンフエスエンパーアテンの名前がある多数のファイアンス製の指輪がアマルナで発見されています。治世初めにはアテン神を礼拝し、玉座(Object No.91と351)にはアテン神の後期名のカルトゥーシュが記されています。アマルナを放棄する前に王はトゥトアンフアメンと改名。治世2年が終わる前にアマルナを放棄し、メンフィスに移住。テーベに戻らなかったのは、外交政策上の理由からと思われます。王の政策の中心には古い神々の礼拝の復活があり、カルナック出土のいわゆる復古ステラ(CG34183、後にホルエムヘブ王によって奪われる)があります。すでにアマルナでアテン神礼拝からの転向が見られ、ベルリンの石碑の断片(Berlin 14197)では王はアメン神とムート女神を礼拝し、玉座(Object No.351)には「アメン神の息子、他のどの王よりもアメン神に愛される者」と記されています。アフエンアテン王の宗教改革は今や致命的な失策とみなされ、軍隊は今度は旧体制の復活に重要な役割を果たしました。

アフエンアテン王の治世に、エジプトの同盟国ミタンニはヒッタイトに滅ぼされ、アムッルのアズィル王はエジプトとヒッタイトの間に独立した緩衝国を築き、エジプトはシリアの最北部の領土をいくらか失い、エジプト軍はせいぜい治安活動しかできませんでした。サッカーラの墓の第二中庭のレリーフにおいて、将軍ホルエムヘブの名前はヒッタイトの国で名高かったと主張され、彼はヒッタイトと軍事対決をしたに違いありません。しかし、そのような小戦闘は新しい勢力の均衡を確立することに失敗しました。他方ヌビアにおいてエジプトの権威を再主張することには成功しました。

国庫長マヤはデルタからエレファンティネの主要な神殿に派遣され、それらの歳入に課税しました。ホルエムヘブの即位の碑文とカルナックの勅令に記された施策のうちのいくつかは実際にはトゥトアンフアメン王の治世に行われたかもしれません。さらにマヤはアフエンアテン王のテーベとアマルナにある諸神殿と宮殿の解体も行いました。KV55で発見された死体がアフエンアテン王であると仮定して、アフエンアテン王の死体をアマルナから王家の谷に運んだのもマヤであると推測されています。さらにヴァン・ディイク氏によれば、マヤはトゥトアンフアメン王とアイ王の埋葬にも責任があり、ホルエムヘブ王墓建設のためにデル・エル・メディーナの職人村を再編成しました。

復古ステラについては、下記のURLをご覧下さい。

http://nefertiti.iwebland.com/tutankamun_restoration.htm

http://www.cs.st-andrews.ac.uk/~mjn/egyptian/texts/corpus/pdf/RestorationTutankhamun.pdf

王の建設活動はテーベに集中しています。ルクソールのアメン神殿では列柱廊の装飾を完成させました。神殿内のカシェットからは1989年に王のスフィンクス像が発見されました。カルナックには王の二つの礼拝堂「テーベにおけるネブヘペルーラーの家」と「ネブヘペルーラー、アメン神に愛される者、テーベに秩序をもたらす者の家」が存在しました。アフエンアテン王の神殿は取り壊されました。王の主要な関心事はカルナック・アメン神殿第10ピュロンとムート女神神殿を結ぶスフィンクス参道を完成させることと第6ピュロンの東側のレリーフを復元することでした。カルナックからは多数の石碑と王像および王の容貌を持つアメン神像(カルナックのアメン神とアムネト女神の群像、Louvre E. 11609、Luxor J. 198など)が発見されています。テーベ西岸では、王墓(王家の谷62号墓)、葬祭神殿の二体の巨像(アイ王とホルエムヘブ王によって奪われる)、マルカタのアメンヘテプ3世の宮殿から出土した遺物が知られています。メンフィスとサッカーラでは、二つの門の梁、三番目のアピス牛の埋葬が知られています。テクスト上ではメンフィスの礼拝堂「ネブへペルラーの家」が知られています。ギーザでは門と石碑が知られています。ヌビアではカワにアメン神礼拝堂を、ファラスに神殿を建設しました。

アビュドス、メディネト・グラブ、ワーディ・アバド(石材)、ゲベル・バルカル(奉納碑文のある花崗岩製のライオン)、パレスティナのアラブ・アブ・タウィラ(石材)、テル・エル・アジュール、テル・エル・サフィでも王の遺物が発見されています。さらにマイのための王の勅令を記した石碑があります。

王の時代の宰相はウセルモントとペンチュ、国庫長マヤ、ヌビア総督ハーイ、アメン神官長パーレンネフェル、軍将校ネヘトミン。

王の早死にの後、王は急いで用意された王のためではない墓(王家の谷62号墓)に埋葬されました。葬儀を執り行ったのはアイでした。J. ヴァン・ディイクによれば、王が死んだのは、8月末、エジプトがシリアのアムキで敗北した頃で、埋葬されたのは11月初めでした。C. N. リーヴスによれば、本来王のために用意された墓は後にアイ王によって奪われたWV23(近藤二郎氏によれば、KV57のホルエムヘブ王墓)でした。王墓の入口はラムセス6世王墓造営のために掘り出された土砂で埋まったので、1922年11月4日にハワード・カーターによって発見されるまで、王の財宝は守られました。王の葬祭礼拝はメディネト・ハブの近くの葬祭神殿で行われました。ダハムンズ・エピソード(エジプトの王妃がヒッタイト王シュッピルリュウマに王位継承者として王子を与えてくれるように要求)は王の死の直後に起こったと思われ、ヒッタイト王に外交文書を送った王妃は王妃アンフエスエンアメンであると推測されています。アイ王はトゥトアンフアメン王の記念碑に敬意を払いましたが、ホルエムヘブ王はカルナック・アメン神殿第2・9ピュロンの建設の際に王のレリーフとカルトゥーシュがある石材を利用し、王の彫像を奪いました。

トゥトアンフアメン王については、下記のURLをご覧下さい。

http://www.touregypt.net/featurestories/tut.htm

http://www.digitalegypt.ucl.ac.uk/chronology/tutankhamun.html

http://euler.slu.edu/~bart/egyptianhtml/kings%20and%20Queens/TUTANKHAMEN.htm

トゥトアンフアメン王墓については、下記のURLをご覧下さい。

http://www.griffith.ox.ac.uk/gri/4tut.html

http://www.thebanmappingproject.com/sites/browse_tomb_876.html

http://www.touregypt.net/featurestories/tutt.htm

http://www.osirisnet.net/tombes/pharaons/toutankhamon/e_toutankhamon.htm

2005年5月8日に行われた王のミイラのCTスキャンの結果については、下記のURLをご覧下さい。

http://www.guardians.net/hawass/press_release_tutankhamun_ct_scan_results.htm

2010年2月17日に発表された王のミイラを含む11体のミイラのDNA検査の結果によれば、王の父はアフエンアテン(KV55のミイラ)、母はキヤではなくアフエンアテンの姉妹(KV35の女性のミイラ、かつてジョアン・フレッチャー氏によってネフェレトイイティーのミイラとされた口の部分が損傷しているもの、アメンヘテプ3世とティイの娘)、2体の胎児は王の娘、王は熱帯性マラリア原虫に感染して死んだことが判明。また王は骨壊死症、第二フライバーグ病、右足は欠指症、左足は内反足、免疫不全のため虚弱だったことが判明。さらにアフエンアテン、トゥトアンフアメンともに女性的な体型ではなかったこと、アンフエスエンアメンのミイラはKV21の二体の王族の女性のミイラのうちの一方(KV21A)であると判明しました。

2012年11月27日(火)にディスカバリーch.で放送された番組「好奇心の扉 : ネフェルティティの素顔とは?」によれば、KV21の二体の王族の女性のミイラとトゥトアンフアメン王の胎児のミトコンドリアDNA検査が行われ、KV21の二体のミイラはネフェレトイイティーとアンフエスエンアメンであり、胎児の母と祖母ではないかと推測されましたが、決定的証拠はまだありません。

Marc Gabolde氏はDNA検査の結果を次のように解釈しています。すなわち、アメンヘテプ3世の母ムートエムウイアとユヤは兄妹で、アフエンアテンとネフェレトイイティーはいとこ同士で、アンフエスエンアメンとトゥトアンフアメンは二人ともアクエンアテンとネフェルティティの子どもたちで、姉と弟だった。KV21Aのミイラはムートエムウイアだった。M. Gabolde, "L'ADN de la famille royale amarnienne et les sources Ègyptiennes", ENiM 6 (2013), p. 177-203.

欧米を巡回展の図録は、Zahi Hawass, Tutankhamun: The Golden King and the Great Pharaohs, Washington, D.C., National Geographic, 2008です。

トゥトアンフアメン王墓の写真集に、Susan J Allen, Tutankhamun's Tomb: The Thrill of Discovery (Photographs by Harry Burton), New York, The Metropolitan Museum of Art, 2006があります。

★アイ王

ホルス名 : カーネヘト・チェヘンハーウ、カーネヘト・チェヘンヘペルー、二女神名 : セヘムペフティー・デルセチェト、黄金のホルス名 : ヘカーマート・セヘペルターウィー、誕生名 : イトネチェル・イイ(しばしばネチェルヘカーワセトを伴う)と改名、即位名 : ヘペルヘペルーラー(しばしばイリーマートを伴う)。治世年数4年。楔形文字ではアヤと記されています。

トゥトアンフアメン王の葬儀を行い、後継者として即位。しかし、後世のファラオたちからは正統な王とみなされませんでした。さらに、サッカーラでホルエムヘブの墓が発見されたことにより、王はトゥトアンフアメン王の突然の死後、ホルエムヘブがシリアで軍事活動に従事している間に、権力を奪って即位した王位簒奪者という見方が起こりました(ヤコブズ・ヴァン・ディイク氏)。同じ頃ダハムンズ・エピソードが起こり、王の名前とアンフエスエンアメンの名前が並んで彫られた指輪も発見されています。これらは王がアマルナ王家の存続のために尽力していた証拠と考えられています。しかし、ヒッタイトから派遣された王子は道中で急死し、そのことはエジプトとヒッタイトとの戦争を長引かせました。王はシュッピルリュウマ王に対してヒッタイトの王子の暗殺に対する全責任を否定し、償いをしようと試みましたが、無駄でした。

故郷はおそらくアフミームで、アメンヘテプ3世の治世初めに生まれました。アヘトアテン(テル・エル・アマルナ)の宮廷では「馬の長官」(=戦車隊指揮官−頻繁に王族によって占められた官職)でした。特に、王の舅であることを示す「神の父」の称号を頻繁に使用し、即位後誕生名のカルトゥーシュの中にまで記しました。これは即位の正統性を主張するためと考えられています。さらに、「真の王の書記」、九柱神の儀式を執り行う神官、王の右側の扇持ちでした。十中八九王はアフエンアテンの正妃ネフェレトイイティーの父でした。ネフェレトイイティーは最初の結婚で生まれた娘で、二番目の妻ティイは彼女の乳母でした。さらにおそらく王はユヤの息子、すなわちアメンヘテプ3世正妃ティイの兄弟で、アフエンアテン王の伯父でした。アマルナの共同墓地に官僚として墓を築き、アテン神大讃歌・小讃歌を彫らせました。アメンヘテプ3世時代からポスト・アマルナ時代まで、継続する社会的興隆の時代にあって、すばらしい適応能力を発揮し、トゥトアンフアメン王の治世には宰相でした。さらに、トゥトアンフアメン王の治世初めには摂政でした。そのような資格で、ホルエムヘブとともに旧体制への復古に取り組みました。

アマルナのアイの墓については、下記のURLをご覧下さい。

http://www.osirisnet.net/tombes/amarna/ay_amarna/e_ay_amarna.htm

王は自分の死後にホルエムヘブが王位継承権を主張しないように、自分の後継者に軍隊の指揮官かつ孫であるネヘトミンを指名しました。にもかかわらず、ホルエムヘブは王の死後即位することに成功し、アイの記念碑を傷つけ、ネヘトミンの記念碑を破壊しました。

王はアマルナの墓を放棄して、王家の西の谷に王墓(WV23)を造営しました(ただし、近藤二郎氏によれば、WV23はアフエンアテン王がアマルナに遷都する前に造営した墓でした)。壁画はトゥトアンフアメン王墓の壁画に非常に似ています。さらにテーベ西岸のメディネト・ハブに葬祭神殿、アフミームに岩窟神殿(ミン神官長ネヘトミンが指揮)、アビュドスの礼拝堂(ルーヴルC55と65、「フートヘペルヘペルーラーイリーマートエムアブジュー」)、カルナック(第2ピュロンの石材)とルクソール(門の改築)での建設活動が知られています。ネヘトミンは大将軍でもあり、ホルエムヘブの地位を占めました。ホルエムヘブの二番目の妻ムートネジェメトがネフェレトイイティーの姉妹と同一人物で、アイ王の娘であったかどうかは、ヤコブズ・ヴァン・ディイク氏によれば、疑わしいです。アイ王墓を傷つけ、王名を消させたのはホルエムヘブでした。この冒涜はネヘトミンとアンフエスエンアメンにも加えられました。ウェンティとハリスの調査によれば、従来アメンヘテプ3世とされてきた、暴力的にひどく破壊されたミイラは、実際にはアイ王のミイラと思われます。

アイ王の後継者ネヘトミンについては、河合望著「第18王朝末の王子ナクトミンをめぐって」(『エジプト学研究』第14号、2006年、13-30頁)もご覧下さい。

アイ王墓については、下記のURLをご覧下さい。

http://www.osirisnet.net/tombes/pharaons/ay/e_ay.htm

http://www.touregypt.net/featurestories/ayt.htm

http://www.thebanmappingproject.com/sites/browse_tomb_837.html

アイ王については、下記のURLをご覧下さい。

http://ib205.tripod.com/ay.html

http://www.nefershapiland.de/biografie_eje.htm

http://euler.slu.edu/~bart/egyptianhtml/kings%20and%20Queens/KingAye.htm

★ホルエムヘブ王

ホルス名 : カーネヘト・セペドヘルー、二女神名 : ウルビアウトエムイペトスート、黄金のホルス名 : ヘルーヘルマートセヘペルターウィ、誕生名 : ホルエムヘブ(しばしばメリエンアメンを伴う)と改名、即位名 : ジェセルヘペルーラー(しばしばセテプエンラー・ヘカーマートを伴う)。治世年数28年。ヘルク氏はマネトーの『エジプト史』の記述に従って、治世年数13年と考えます。残念ながら王の治世後半からはほとんど碑文がなく、本当の治世年数は不明です。碑文に残された最高の日付は治世13年で、未完成の王墓(KV57)も長期の治世年数を受け入れがたくしています。

王はアマルナ王家ともラムセス王家とも血縁関係にありませんでした。上エジプト第18州のフートネスート(コムエルアフマルサワリス、ホルス神の信仰地)の出身です。フートネスートのホルス神は王の守護神となりました。王はアメンヘテプ3世の治世に生まれました。両親は不明です。アフエンアテン王の時代に軍隊の経歴を始めました。アマルナ24号墓(未完成)のパーアテンエムヘブと同一人物かどうかは不明です。アヘトアテン(アマルナ)における彼の地位は確かな情報がないため推測の域を出ません。しかし、トゥトアンフアメンの時代に最大の職権を持ちました。すなわち、軍隊の総司令官、王領地総監督、世襲貴族、「国の最高の口」、「両国の先端にある王の名代」で、事実上アイと並ぶ摂政でした。それは王都アマルナの放棄と旧体制への慎重な転向が決定された後のことでした。トリノ・エジプト博物館にある王の彫像の背面に彫られた即位の碑文(Urk. IV, 2113-2120)にはアフエンアテン王の死後混沌が王宮内に広まった時、アマルナを放棄するようにとトゥトアンフアメン王に助言したのは自分であると示唆しているように思われます。

この時代に王はサッカーラにりっぱな墓を築き、宰相たちよりも高い自分の地位を強調しました。最初の妻アメンイアはトゥトアンフアメン王の治世1年の終わりか治世2年の初めに亡くなり、この墓に埋葬されました。王の二番目の妻ムートネジェメトは王の治世初めに亡くなり、国庫長かつ建設事業の長官マヤ(彼の墓は1986年にサッカーラで発見されました)が彼女を王妃の谷に埋葬しました。ムートネジェメトはネフェレトイイティーの姉妹で、アイの娘と言われていますが、当時の政治状況から考えて、王がアイの娘と結婚することは考えられません。そしてネフェレトイイティーの姉妹の名前の読み方については、ムートベネレトが提案されています。トゥトアンフアメン王の死後アイの権力奪取が決定的となりましたが、これはホルエムヘブとの合意の上の決定だったと推測されています。当初ホルエムヘブはアイに忠実に仕えていましたが、ダハムンズ・エピソードをきっかけに仲違いしたと思われます。というのは、後の王名表ではアフエンアテン王だけではなく、トゥトアンフアメン王とアイ王の名前も省略され、逆にホルエムヘブ王は血縁関係にないラムセス王家から前任者として讃えられたからです。

サッカーラのホルエムヘブの墓については、下記のURLをご覧下さい。

http://www.osirisnet.net/tombes/saqqara/horemheb/e_horemheb_surface.htm

http://www.osirisnet.net/tombes/saqqara/horemheb/e_horemheb_substructures.htm

アイの死後ホルエムヘブは即位し、オペト祭でアメン神に王位を証明されました。統治プログラムでは国の刷新が強調され、勅令によって神殿の修復と寄進、神々の像の制作と供物の奉納を命じました。王はさまざまな法的事件に関する法令を発布し、マートの確立のために努力しました。この勅令は第10ピュロンの前に建てられた石碑に彫られ、それぞれの条文で具体的な権利・経済・社会上の弊害に対する対応が見られ、王を「国の改革者」として強調しています。すなわち、船と奴隷の非合法的な徴用、牛の革の強奪、個人の農地の違法な課税、税額査定における詐欺的行為、メンフィスとテーベの間の旅で王が毎年オペト祭を訪問するのを準備する官僚たちによる一般市民の財産強奪、地方法廷と王のハレムの職員たち及びその他の国の職員たちの取り締まりなどです(Urk. IV, 2140-2162、勅令の日本語訳については、「ホルエムヘブ王の勅令」をご覧下さい)。

王は自分の建設事業のために神殿を解体して、石材(タラタート)を再利用しました。その証拠はカルナックのアメン神殿の大列柱室の中央の列柱廊と第2、9、10ピュロンです。王はルクソールのアメン神殿の列柱廊を完成させ、ヌビアのゲベル・シルシラとゲベル・アッダに岩窟神殿を建設しました。メンフィスとサッカーラ(プタハ神殿、セラペウムでの二頭のアピス牛の埋葬)では石材、石碑、彫像の断片が発見されています。ナパタのアメン神殿も王の時代にさかのぼるかもしれません。王はアイの葬祭神殿を奪い、拡張しました。また、王墓(KV57)の埋葬室を「イミドゥアト」ではなく「門の書」で装飾させました。王夫妻の群像(Turin 1379)やアメン神とホルス神との群像も知られています(カルナック北のアラバスター製の彫像、BM 441、Turin 768、BM 442、Wien 8301)。王はトゥトアンフアメン王の碑文や彫像をたくさん奪いました。治世8年に略奪されたトトメス4世の墓の修復を行いました。

シリアにおける対外政策については、私たちはヒッタイトの史料からしか知ることが出来ません。エジプトとヒッタイトの年代は互いに照応しないので、さまざまな復元案が論じられています。J. フロイ氏によれば、トゥトアンフアメン王の死とほぼ同時に、ヒッタイト王シュッピルリュウマは6年間フリ(かつてのミタンニの支配地域)と戦争し、カルケミシュを奪いました。エジプトがカデシュを再び奪回しようとしたのに対抗して、二人のヒッタイトの将軍がエジプト支配下のアムキ(オロンテス川とリタニ川の間にある)を攻撃しました。これに続いて、ダハムンズ・エピソード、王子を暗殺されたと思い込んだヒッタイト王シュッピルリュウマによる復讐の軍事遠征の始まり、ヒッタイトの王位継承者アルヌワンダ王子によるミタンニの再征服、ミタンニ王トゥシュラッタの息子シャッティワザがヒッタイトの属国の王として即位、が起こりました。王の治世が始まって最初の10年間に、カデシュのアイタカマ王とヌハッシェのテッテ王がヒッタイトの宗主権に反抗し、少なくとも一度エジプトは彼らの離反を支持しました。しかし、疫病がシュッピルリュウマ王と後継者のアルヌワンダを襲い、二人とも亡くなりました。さらにヒッタイトの勢力圏内で反乱が相次いだので、ホルエムヘブ王はヒッタイト(ムルシリ王が統治)との直接対決を免れました。しかし、W. F. マーネイン氏によれば、アフエンアテン王の治世17年にアムキが攻撃され、それを受けてエジプトがカデシュを攻撃し、ダハムンズ・エピソードが起こり、ヒッタイトがカルケミシュを征服し、アムッル王アズィルがヒッタイト側に寝返りました。ヌハッシェのヒッタイトに対する反乱とエジプトのカデシュ攻撃はムルシリ王の治世7年に、二回目の反乱は治世9年に起こりました。

もしかしたら王はヒッタイトとの条約締結にこぎつけたかもしれません。というのは、後のヒッタイトのテクストが、ムワタリ王とセティ1世の治世の間に破られる以前に有効だった条約に言及しているからです。

第18王朝後半の軍事史については、J. C. Darnell and C. Manassa, Tutankhamun's Armies ; Battle and Conquest during Ancient Egypt's Late 18th Dynasty, Hoboken(New Jersey), 2007が参考になります。

ホルエムヘブ王については、下記のURLをご覧下さい。

http://touregypt.net/featurestories/horemheb.htm

http://www.digitalegypt.ucl.ac.uk/chronology/haremhab.html

http://ib205.tripod.com/horemheb.html

http://euler.slu.edu/~bart/egyptianhtml/kings%20and%20Queens/Horemheb2.html

ホルエムヘブ王墓(KV57)については、下記のURLをご覧下さい。

http://www.osirisnet.net/tombes/pharaons/horemheb/e_horemheb_part1.htm

http://www.osirisnet.net/tombes/pharaons/horemheb/e_horemheb_part2.htm

http://www.touregypt.net/featurestories/horemhebt.htm

http://www.thebanmappingproject.com/sites/browse_tomb_871.html

アイとホルエムヘブの関係については、河合望著「アイとホルエムヘブ−ポスト・アマルナ時代史の一局面」(『オリエント』第51巻第2号、2009年3月、27-56頁)をご覧下さい。

河合望著『ツタンカーメン 少年王の謎』(集英社新書、2012年)には、アメンヘテプ3世からホルエムヘブ王までの時代の最新の歴史的解釈が示されています。

ポスト・アマルナ時代の葬祭文化

うわべでは国はアフエンアテン王以前の伝統的な宗教に戻ったように見えますが、実際には二度と元に戻りませんでした。エリートの埋葬準備にはいくつかの変化が見られます。最も目立っているのは墓建築における発展です。特にメンフィスでは独立した墓はあらゆる本質的な面で神殿に似ているように思えます。テーベでは岩窟墓が使われ続けましたが、墓は故人の葬祭神殿であるという新しいコンセプトに従って、建築され、装飾されました。故人の葬祭礼拝はオシリス神の礼拝に統合されました。オシリス神は今や太陽神ラーの夜の顕現として普遍的に見られ、葬祭におけるその役割は劇的に増大しました。これらの墓では、かつて王の特権だった太陽のシンボル、すなわちピラミッドが中央の礼拝堂の上に安置され、さらにラー神とオシリス神の前で故人が礼拝する場面が彫られたピラミディオンが載せられていました。中央の礼拝堂にはしばしばこれらの二柱の神が背中合わせに座っているシンメトリーの場面が彫られた石碑がありました。故人の彫像は今や神殿にではなく、故人の墓に置かれました。墓にはさまざまな神々の彫像や神の像を納めた厨子を両手で持っている故人の彫像が見られました。墓壁のレリーフと壁画はもはや故人の経歴や職業とは関係なく、長いプリーツのある麻の衣服と手の込んだかつらを着用して、神々を礼拝している故人を示しています。同様なお祝いの衣装は人型棺とウシャブティにも見られます。これらはかつてもっぱらミイラとしての故人を示してきました。故人が王に捧げものをする場面は完全に消え、オシリス神が王の立場に取って代わりました。一般にポスト・アマルナ時代の墓の装飾は「死者の書」から取られました。また「太陽神ラーの連祷書」と「イミドゥアト」のような王のための宗教テクストからの図解やテクストの抜粋が故人の墓の壁に現れ始めました。これはデル・エル・メディーナだけではなく、他の場所でもすぐに見られる現象です。故人は今や王の仲介なしに直接神々を礼拝できる自分自身の神殿を持ちました。

「サッカーラの新王国の墓地」もご覧下さい。

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