/ 

古代エジプトの歴史        2007年11月12日  西 村 洋 子

17.  第18王朝(紀元前1,550〜1,295年頃)(2)

年 表

新王国 第18王朝 (1,550〜1,295年頃) イアフメス王

アメンヘテプ1世

トトメス1世

トトメス2世

ハトシェプスト女王

トトメス3世

アメンヘテプ2世

トトメス4世

アメンヘテプ3世

アメンヘテプ4世/アフエンアテン王

ネフェルネフェルーアテン・セメネフカーラー王

トゥトアンフアメン王

アイ王

ホルエムヘブ王

第19王朝 (1,295〜1,186年頃)
第20王朝 (1,186〜1,069年頃)

★ハトシェプスト女王

ホルス名 : ウセレトカーウ、二女神名 : ワジェトレンペト、黄金のホルス名 : ネチェレトハーウ、誕生名 : ハトシェプスート・ヒェネメトアメン、即位名 : マートカーラー  しかし、時々女王の即位名に続けて、トトメス3世の誕生名が続きます。

トトメス1世とイアフメスの娘。異母兄弟のトトメス2世と結婚し、王女ネフェルーラーを出産。トトメス2世とイシスの息子トトメス3世の治世7年に即位し、トトメス3世の共同統治者となりました。即位に際して、父トトメス1世による任命(カルナックの第8ピュロンの碑文)とアメン神の神託(カルナックの赤い礼拝堂の碑文と女王の戴冠を描写したレリーフ)を示し、自らの正統性を主張しました。さらにデル・エル・バハリの葬祭神殿に誕生神話を描かせ、自分がアメン神の娘であり、生まれる時から王になることを定められていたことを示しました。即位までの5年間はトトメス3世の摂政でした。建設事業の長官イネニは自伝碑文で「彼(トトメス2世)の息子(トトメス3世)が両国の王として立った。彼は彼を生ませた者の玉座で支配した。彼(トトメス2世)の姉妹、神妻ハトシェプストが国を統治していた。両国は彼女の計画に従っていた。」(Urk. IV, pp.59-60)と述べています。イアフメス・ペンネクベトは自伝碑文(Urk. IV, p.34)で女王の即位名に言及しています。女王は摂政の期間も含めて治世年数を数えました。従って、治世年数20年。

王女ネフェルーラーも頻繁に「王の娘、神妻」と呼ばれ、また一度ならずも「両国の女主人」「上・下エジプトの女性支配者」と呼ばれました。しかし、彼女がトトメス3世の妻だったかどうかについては議論されています。トトメス3世の治世22年か23年に彼女はトトメス3世と一緒に「アメン神妻」として現れました。トトメス3世は単独統治開始後まもなくサトイアフと結婚しました。もしネフェルーラーがかつてトトメス3世の妻だったならば、トトメス3世は治世20年か21年の女王の死後彼女との公的な関係を終わらせたに違いありません。

政治的には中王国の模範に戻り、ヒクソス時代に神の存在を認めない時代という烙印を押しました。

治世中の主な出来事に、治世2年にカルナックのアメン神殿東に一対のオベリスクを建立、治世9年のプント遠征(ネヘシーが5隻の艦隊を指揮)、シナイ半島のワーディー・マガーラでの銅の採掘、治世初めのヌビア遠征(セーヘル島の国庫長ティイの碑文)、シリア・パレスティナ遠征(デル・エル・バハリ葬祭神殿の第一列柱廊の碑文、トトメス1世の遠征への言及を伴う)、治世15年のヌビア遠征(タングル西の女王とトトメス3世の二重の日付けのある碑文)、治世15年のセド祭を機会に治世16年にカルナックの第4ピュロンと第5ピュロンの間にさらにもう一対のオベリスクを建立したこと、トトメス3世治世20年のヌビア遠征(トンボスの石碑)、トトメス3世による治世20〜22年の間のミーウ(フィルカ地域)遠征とサイ狩り(アルマント・ステラ−JE67377)、トトメス3世によるガザ占領、治世終わり頃の3回目のヌビア遠征(テーベ71号墓センムートの断片的な自伝碑文)が挙げられます。

「ヌビア総督かつ南方諸国の長官」によるヌビア支配は中断されることなく、セニ、アメンネヘト、もう一人の無名の人の順に官職が引き継がれ、トトメス3世の単独統治の時代にネヒーに引き継がれました。彼らはヌビアでの建設事業とヌビアの産物の「貢ぎ物」としての納品も監督しました。またプント遠征以来、象牙、ヒョウの毛皮、生きている象、黄金などのアフリカの産物がヌビアの産物とともに記録されました。墓壁画にもヌビア人とともに貢ぎ物を運ぶ黒人たちが描かれました。女王の治世にはクレタ島との接触を示すものはありません。ケフティウ(ミノア人)の派遣団が墓壁画に描かれていますが、実際にはクレタとの交易はキプロス島やシリア・パレスティナを通じて行われたかもしれません。

建設事業として、デル・エル・バハリの葬祭神殿(ジェフーティーとセンムートによる設計と仕上げ)、メディネト・ハブ(古代名ジェメ)の周壁に囲まれた神殿、カルナックのアメン神殿の中央部(聖船休息所の周囲に一連の部屋を造り、清めの場面と神々に歓迎される場面を描かせた)、第8ピュロン(ムート神殿へのルートに建設された最初の砂岩製の門)、赤い礼拝堂(珪岩製、現在野外博物館に展示されており、オペト祭と美しき谷の祭の祭列が描かれている)、カルナックとルクソールの間の聖船休息所、ムート女神の神域(アシェルー)の建築物、さらにヘルモポリスのトート神殿の新築、アルマントのトトメス3世の大モント神殿に先行する建築物、スペオス・アルテミドスのライオン女神パヘトのための岩窟神殿、ファラスのハトホル女神の岩窟神殿、カスル・イブリームとゲベル・エス・シルシレの岩窟神殿が挙げられます。コム・オンボの門、ブーヘンの南のホルス神殿、エレファンティネのサテト女神のための神殿、セムナ/クンマのアメンヘテプ2世のクヌム神殿も女王の治世にさかのぼるかもしれません。女王がブーヘンに建てた周柱式のホルス神殿には女王の即位と彼女の父の崇拝の場面もありました。女王とトトメス3世の二人の場面もありましたが、トトメス3世は後に女王の名前を父トトメス2世、祖父トトメス1世の名前に変えました。サイ島からは女王の座像(ハルツーム博物館所蔵443)が発見されています。

女王が築いた第8ピュロンは夫トトメス2世が築いた第4ピュロンから注意をそらさせ、ムート神殿とルクソールのアメン・ラー・カームートエフの礼拝堂をカルナックのアメン神殿に結びつけることによって、女王の治世のためにテーベ三柱神の恩恵を受け、王権の神性を一層主張することができたでしょう。またカルナック神殿内のどこかに女王は儀式活動のための宮殿を建てました。

女王はヘベヌー(オリックス州の州都)、ヘルモポリス、クサエの諸神殿を再建したと主張しています。これらの建設事業は国庫長、中エジプトのヘルウルの州長官、ヘルモポリスのトート神の神官長ジェフーティー(テーベ11号墓から発見されたノーサンプトン・ステラの自伝碑文)の監督下で遂行されました。ヒクソスとの戦争以来女王の治世まで中エジプトで王の建設事業が行われたことはなく、諸神殿は荒れ放題でしたが、女王によって中エジプトで信仰されていたホルス神、ハトホル女神、トート神に新しい経済源が与えられました。

ノーサンプトン・ステラについては、Dariusz Niedziolka, "On the Obelisks Mentioned in the Northampton Stela of Djehuti, Director of the Treasury during Hatshepsut's Reign" in Egyptology at the Dawn of the Twenty-first Century : Proceedings of the Eighth International Congress of Egyptologists Cairo, 2000, vol. 2, pp. 407-415, Cairo, 2003をご覧下さい。また、ジェフーティーの墓(テーベ11号墓)は第二埋葬室の壁のうち二つが『死者の書』からのテクストで装飾されている珍しい墓であることが、2009年3月にスペインの調査隊によって確認されました。

女王と高官たちの碑文では記念碑とその材料がはっきりと述べられており、女王が東部砂漠とヌビアの黄金、ゲベル・エス・シルシラからの砂岩、レバントからの杉木材、アフリカからの黒檀をふんだんに利用することができたことを示しています。

治世中は、意識的な中王国の伝統(テクストや描写のタイプの転用、葬祭神殿の敷地の選択など)の奨励と官職の世襲の強化が行われました。主要な臣下には、女王と王女ネフェルーラーの財産管理人だったセンムート、主席家令アメンヘテプ(TT73)、プント遠征の指揮官かつ国庫長ネヘシー、アメン神官長ハプセネブ、トトメス3世の治世5年以来宰相だったウセル(アメン)がいます。治世18〜20年の間に多数の重要な高官達が消えたのは権力争いの結果だったかもしれませんが、女王とトトメス3世の両方に仕えたアメン神の第二神官プイエムラーやティニスの市長かつオアシス群の長官インヨーテフもいます。

女王はトトメス2世の正妻として王妃の谷に築かれた墓とすでに用意された珪岩製の石棺を放棄した後、王家の谷に新しい王墓(KV20)を造営しました。KV20からは本来彼女のために作られ、後に父トトメス1世のために作り直された石棺が発見されました。さらにアラバスター製のカノプス壷の箱と女王の称号が彫られた木箱も発見されました。木箱は第21王朝の埋葬の時に使用されたものです。ただし、KV20には女王が埋葬された形跡はなく、女王のミイラも長い間行方不明でしたが、ついに2007年6月に、かつてKV60で乳母のミイラとともに発見されたミイラが女王のミイラであることが確認され、死因は病死だったことがCTスキャンの画像分析によって明らかになりました。

葬祭神殿の参道の北の採石場からは、トトメス3世の命令によって廃棄された女王のさまざまな彫像が発見されました。それらにはまだ彩色の跡が残り、新王国の立体彫刻の高い水準を示しています。戴冠式以来女王は、女性としての特徴を強調されることが徐々に減少し、原則として男性の王の正装で描写されます。このことはレリーフでも一致して行われました。但しテクストでは女性形が使われ続けました。個人の彫像には、石碑を持つ新しいタイプの彫像と中王国以来のプロックスタチュー(方形座像)が見られます。

女王の治世には装飾墓と神殿への個人の彫像の奉納が突然増加します。また盛装して玉座に座る王がテーベの貴族の墓に初めて描かれます。女王は死者と太陽神の永遠の仲介者として王の家令アメンヘテプ(テーベ73号墓)と王の執事ジェフーティー(テーベ110号墓)に現れます。トトメス3世の単独統治に年代づけられるいくつかの墓はこの慣習を続けています。

従来の研究で女王は次のように評価されてきました。W. C. ヘイズ「自惚れが強く、野心的で、厚顔無恥な女性」(The Scepter of Egypt, vol. 2, 1959, p. 82)、F. ドマ「支配欲が強く、権力を愛し、若いトトメス3世を陰に押しやった。」(La civilization de l'Egypte pharaonique, 1965, p. 86)、J. ヨヨッテ「悪い継母と復讐心に燃えた甥」(in Fischer Weltgeschichte III, 1966, p. 230)。しかし、S. ラティエ(La reine pharaon, 1972, p. 246f.)は事実が次のようだったことを突き止めました。「階級による誇り、伝統主義、宗教的荘厳さが疑いなく、頭脳明晰で輝くばかりの知性、決断力、頑固なまでの意志、確かな審美眼、異例に現代的な統治方法とともに、女王の下で進行しました。彼女の性格には女らしさや感情を重んじるところはほとんど見られず、それにもかかわらず説明できない魅力が彼女の人柄からあふれ、それが彼女達の周囲に集まった忠臣達の深い絆と感嘆の理由だったことはありそうです。」

ハトシェプスト女王については、下記のURLもご覧下さい。

http://ib205.tripod.com/hatshepsut.html

http://www.digitalegypt.ucl.ac.uk/chronology/hatshepsut.html

http://touregypt.net/historicalessays/hatshepsut.htm

http://www.maat-ka-ra.de/english/start_e.htm

メトロポリタン美術館の展覧会図録、C. H. Roehrig ed., Hatshepsut from Queen to Pharaoh, New York, 2005もご覧ください。

ハトシェプスト女王の墓(KV20)については、下記のURLもご覧ください。

http://www.touregypt.net/featurestories/kv20.htm

http://www.thebanmappingproject.com/sites/browse_tomb_834.html

デル・エル・バハリの葬祭神殿については、「エジプトの世界遺産4-(3) デル・エル・バハリ」をご覧下さい。

★トトメス3世

ホルス名 : カーネヘト・ハーエムワセト、二女神名 : ウアフネシート、黄金のホルス名 : ジェセルハーウ、誕生名 : ジェフーティーメスー、即位名 : メンヘペル(カー)ラー 。 治世22年(単独統治開始)以降、ホルス名 : カーネヘト・ハーエムワセトあるいはメリラー・カーヘジェトあるいはカーネヘト・ハーエムマート、二女神名 : ウアフネシートミーラーエヌペトあるいはセハーマート・メリーターウィーあるいはアアシェフィートエムターウネブーあるいはシェセプアンフエヌアトゥムヘペルエムヘプリ・ヘテプバーウイウヌーヘルマートエフ、黄金のホルス名 : ジェセルハーウ・セヘムペフティーあるいはホルヘルネヘトゥー(フーヘカーウハスートペフースー)あるいはアアヘペシュフーペジェト9あるいはサルマート・セヘテプラー、誕生名と即位名は変わりませんが、多数のエピセットを伴います。治世年数53年。

トトメス2世と妾妃イシスの息子。異母姉妹ネフェルーラー。妻は「偉大な王の妻、アメン神妻」サトイアフ(王の乳母イプの娘で、長男アメンエムハトの母)、メリトラー・ハトシェプスト(フイの娘、アメン神とアトゥム神の女性崇拝者、ラー神の聖歌隊の長官、アメンヘテプ2世、「アメン神妻」メリトアメン、王子メンへペルラー、王女イシス、王女メリトアメン、王女ネベトイウネトの母)、ネベトター(王女ネフェレトイリーの母)、三人の外国人妻たち(マルタ、マンハタ、マヌワイ−テーベ西岸ワーディー・クバネト・エル・クルド1号墓に埋葬される)。

三人の外国人妻たちの墓については、Christine Lilyquist, The Tomb of Three Foreign Wives of Tuthmosis III, New York, 2003をご覧ください。

父トトメス2世の死後統治を始めましたが、まだ子供だったので、継母のハトシェプストが国政を司りました。治世2年のセムナのデドウェン神の神殿新築に関する勅令、治世3年の神官たちの任命、治世5年の宰相ウセルアメンの任命などでは、まだ王の立場はハトシェプストよりも優位にありました。しかし、治世5年にハトシェプストが即位し、王の共同統治者となりました。そしてようやく治世22年に、ハトシェプストの死によって、権力を握りました。この共同統治期間中、王がハトシェプストによって冷遇され、王とハトシェプストは敵対関係にあったという憶測は、根拠がありません。トトメス3世はしばしばハトシェプストとともに描写されており、ハトシェプストがトトメス3世の前に立っているけれども、トトメス3世は王の記章を奪われていません。実際にはハトシェプストはトトメス3世が一緒にいるときは二重王冠などを着けるのを慎んでいました。行政文書でもハトシェプストの称号は「王の妻」で、トトメス3世は「王」でした。

ハトシェプストがヌビアを征服し、プントとの交易を再開していたので、王はエジプトの北東にあるレバントの潜在的な富と栄光に目を付けました。レバントの交易路はシリア人、キプロス人、パレスティナ人、エーゲ海の支配者たち、商人たちによって支配されていました。王はミタンニの宗主権を認める多数の都市をミタンニから奪おうとしました。というのは、レバノン杉、銅、錫、その他の貴重な産物へのアクセスがミタンニの宗主権によって脅かされていたからです。王は全17回の軍事遠征の末パレスティナにエジプトの支配を確立し、シリア南部を強力に侵略しました。西アジアにおけるエジプトと王の名声は確立され、西アジアからの収益はアメン神やその他の神々の神殿に惜しみなく寄進され、軍事遠征に従った人々に報償として与えられました。

単独統治開始から約20年間王が毎年のように西アジア遠征を行ったことは、治世42年にカルナックのアメン神殿に記された年代記、ゲベル・バルカルの石碑、将校たち(アメンエムハブ、イアムーネジェフ、ミンメスーなど)の自伝碑文、地名リストから知られています。まず、シャルヘンを防衛し、メギドでカデシュ王の連合軍と戦いました。これがヒクソスに続く大国ミタンニによるエジプト再征服の目論見であり、その結果軍部がハトシェプストを失脚させ、王を担ぎだしたという推測は、疑わしいです。メギドを二回(第1回軍事遠征と第6回軍事遠征)攻撃した後、ダマスカスとカデシュの地域に進軍し、反エジプト連合軍の諸王に忠誠の誓いをさせました。このときアッシリア王もトトメス3世に贈り物を送っています。治世24〜28年の3回の軍事遠征については記録がありませんが、W. ヘルク氏はラムセス時代のハリス・パピルス500(裏)に記された物語『ヨッパ攻略』がその間の出来事であると示唆しています。物語中の将軍ジェフーティーは実在の人物です。戦略の第一目的はシリア沿岸の拠点づくりでした。治世29年の第5回軍事遠征ではウラザの港を占領しました。帰路敵の船を二隻拿捕しました。カデシュ、シミラ(スムル)、アルダタの地域では王の軍事遠征によって都市周辺が荒廃しました。王の西アジア遠征のクライマックスは治世33年のミタンニ王国への軍事遠征(第8回)でした。このことは年代記の他にアルマントとゲベル・バルカルの石碑、カルナックのアメン神殿の第7ピュロン、オベリスク、アメンエムハブの自伝碑文などに記されています。王はビブロスで建造させた船でカルケミシュでユーフラテス川を渡り、祖父トトメス1世の石碑の隣に自分の石碑を建てました。それからユーフラテス川を下り、周辺の村落を壊滅させ、敵軍を追撃しました。しかし、ミタンニ王との決戦はありませんでした。アメンエムハブの自伝碑文によると、王は帰途ニヤで120頭の象を狩りました。また、ミンメスーの碑文によると、シンジャル、カデシュ、タフシの地域の30の村落を征服しました。治世34年の第9回軍事遠征では、オロンテス川の東のヌハッシェに進行し、治世35年の第10回軍事遠征ではミタンニ軍との戦いがありました。第11・12回軍事遠征については何も知られていません。治世38年の第13回軍事遠征ではヌハッシェで再び戦闘がありました。このとき都市アララフが貢ぎ物を持ってきました。治世39年の第14回軍事遠征ではネゲブ地方のベドウィンに対して進軍しました。治世40・41年には軍事活動は行われませんでした。治世41年にヒッタイトがエジプトに贈り物を送りました。ミタンニがシリアで再び勢力圏を獲得しようとしたので、治世42年に第17回軍事遠征を行い、イルカタ、チュニプの地域、いくつかの都市を征服しました。その後は息子で共同統治者のアメンへテプ2世が西アジア遠征を続けました。

年代記には戦利品(捕虜、馬、家畜、二輪戦車、武器、貴金属−金・銀・銅・鉛など)とエジプトに届けられた贈り物が詳細に記されています。戦利品と貢ぎ物はカルナックのアメン神殿と王宮に行きました。征服された領地は王領地としてエジプトの官僚によって管理されました。西アジア諸王の子供たちは人質としてエジプトに連行され、エジプトに忠実な王となるように教育されました。贈り物をもたらした諸国は、シリアの国々の他に、アッシリア、ヒッタイト、バビロニア、キプロス(首都エンコミ/サラミス)でした。治世33年には、「人が知らなかった鳥、毎日産む鳥」として、四羽のニワトリが言及されています。カルナックのアメン神殿内の王の祝祭殿にはシリア・パレスティナの動植物が彫られた「植物園」があります。

ナハリンという地名は王の第8回軍事遠征(治世33年)までエジプトの王の記念碑には現れませんでした。しかし、シリアのミタンニの属王たちの征服以後、ナハリンはゲベル・バルカルの石碑(Boston, MFA23.733)、カルナックのオベリスク、カルナックのポエティカル・ステラ(CG34010)、アルマントのステラ(JE67377)でも言及されます。また王の治世からの地名リストにも現れます。西アジア遠征で得られた戦利品は莫大でしたが、ナハリンからの贈り物は治世33年の一度だけでした。おそらくそれはミタンニ王からの贈り物ではなく、ミタンニの属王たちからの贈り物だったでしょう。レチェヌーとジャヒからは毎年大量の贈り物がエジプトに届けられました。明らかに王はまだミタンニと戦っていました。

トトメス3世の西アジア遠征については、Hans Goedicke, The Battle of Megiddo, Baltimore, 2000 ; Donald B. Redford, The Wars in Syria and Palestine of Thutmose III, Leiden, 2003 ; Richard A. Gabriel, Thutmose III : The Military Biography of Egypt's Greatest Warrior King, Washington D. C., 2009をご覧ください。

軍事エリートたちは王の治世からアメンヘテプ2世の治世初めにテーベの自分の墓や彫像・石碑で西アジア遠征に参加したことを記念しました。例えば、アメンメスー(テーベ42号墓)、チャヌニ(テーベ74号墓)、イアムーネジェフ(テーベ84号墓)、アメンエムハブ・メフ(テーベ85号墓)、メンへペルラーセネブ(テーベ86号墓)、ペフスーヘル・チェネヌー(テーベ88号墓)、スーエムニウト(テーベ92号墓)、レフミーラー(テーベ100号墓)、ウセルアメン(テーベ131号墓)、インヨーテフ(テーベ155号墓)、デディ(テーベ200号墓)です。これらの墓の礼拝堂では捕虜、兵士たち、外国からの贈り物に含まれる贅沢品に強調が置かれていますが、アメンヘテプ2世の治世の最初の10年より後に装飾された墓(例えば、ケンアメンのテーベ93号墓)には、シリア産のエキゾチックで高価な品々を運ぶ祝賀の行列が描かれるようになりました。シリア戦争に関する記述も、戦利品の記録も、諸外国の王の子供たちの拝謁の場面もありません。新年祭の諸外国からの贈り物に見られる二輪戦車、鎧、武器、ヘルメットなどがかつての西アジア遠征での勝利を暗示しています。

大理石をまねたガラス容器は北東シリアと北イラクに典型的な産物でしたが、ミタンニとの戦争の結果エジプトへの大量のコア・ガラスの導入に至りました。コア・ガラスはおそらくミタンニのテル・ブラクやテル・リマフで初めて発展し、エジプトでただちに複製され、改良されました。東地中海沿岸部(ジャヒ)の平底の金製・銀製の容器も王の治世33年にナハリンからもたらされましたが、エジプトで複製され、急速に流行しました。これらの容器も神殿や墓壁画に多数描かれています。

西アジアの神々レーシェフとアスタルテの礼拝が急速に広まったのはアメンヘテプ2世の治世でした。西アジア遠征で兵士たちに与えられた黄金のライオンの褒美はアメンヘテプ2世の治世初めの後見られなくなりましたが、シリア様式の金属製容器とガラス容器は第18王朝の間ステイタス・シンボルであり続け、エジプトで様々な形に複製されました。

ミタンニが大敵から贅沢品の供給源になったことで、エジプトとナハリンの同盟への道を辿ることができます。王の三人の外国人妻たちがシリア人だったかどうかは確かではありませんが、彼女たちの名前は確かに西アジア系で、副葬品は黄金製品に富んでいます。王がレチェヌーとナハリンに約20年間遠征した後、その地域の女性たちと結婚し、彼女たちに富をどっさり与えたのですから、息子のアメンヘテプ2世はまだシリアで戦わなければなりませんでしたが、王の治世終わり頃にはシリアにおける平和への関心が非常に高まっていたことは確かです。

ヌビア(クシュとワワト)からの租税は治世31年に初めて言及され、その後定期的にもたらされました。治世の終わり頃初めてヌビア遠征が行われ、治世47年にゲベル・バルカル(第4カタラクト)に石碑(Boston, MFA23.733)を建てました。ただし、碑文では西アジア遠征が再び述べられました。アルマントのモント神殿の石碑(JE67377)では、シリアでのライオン7頭、野生の動物12頭、ゾウ120頭の捕獲だけではなく、ヌビアで仕留められたサイについても言及されています。アルマントの王のピュロンの碑文とレリーフでは、サイの大群とともにクシュの戦利品が述べられています。治世50年のヌビア遠征はアスワンのセーヘル島の岩壁碑文に記録されています。帰途第1カタラクトの水路を再び通行できるようにしました。

治世25・27年にはシナイ半島のセラビート・エル・ハーディムにトルコ石の遠征隊が派遣されました。治世33年にはプント遠征も行われ、没薬と黄金が持ち帰られました。

王の時代の行政はよく知られています。宰相職はイアフメス・アムチュ(治世5年まで)、ウセルアメン、レフミーラー、ネフェルウベンが歴任しました。ウセルアメンとレフミーラーの墓からは「宰相の服務規程」の最古の例が発見され、古代エジプトの行政に関する最も重要な史料となっています。軍隊からは将軍ジェフーティー、将軍かつ軍属書記チャヌニ(ただしい読み方はシルニ)、北方諸国の総督かつ弓兵隊隊長アメンメスが知られています。伝令官インヨーテフと建設現場監督ミンメスーも重要です。クシュ総督としてはアニ、アムネムチュ、ネヒが知られています。カルナックのアメン神官長はメンヘペルラーセネブ(テーベ86号墓)、彼の同名の甥(テーベ112号墓)、アメンエムハト(テーベ97号墓)です。

多数の軍事遠征と並行して、カルナックを中心に大規模な建設事業が行われました。治世24年に神殿建設のための礎石が置かれました。治世42年の碑文にはアメン神による王としての選び、建造物、寄進が記されています。ハトシェプスト女王との共同統治時代に、塔で強化された新しい周壁がカルナックに建てられました。聖湖も拡大されました。中王国センウセレト1世の神殿の後方に祝祭殿(アフメヌー)を建設しました。そして治世30年にここで第一回目のセド祭を行いました。周壁の東側にオベリスクと礼拝堂を建てました。アメンヘテプ1世の石灰岩製の礼拝堂を砂岩製の礼拝堂に取り替え、ハトシェプスト女王の聖船休息所を花崗岩製の新しい聖船休息所に取り替えました。トトメス1世の木柱は石柱に変えられました。そして、その前に年代記の間を造り、第5ピュロンと聖船休息所との間に第6ピュロンを建て、南側に第7ピュロンと二体の巨像、一対のオベリスク、第7ピュロンと第8ピュロンとの間の聖船休息所(アメンメンメヌー)を建設しました。さらにハトシェプスト女王の第8ピュロンを完成させました。周壁の外側(北側)に小さなプタハ神殿を建設しました。それから、第4ピュロンの前に一対のオベリスクを、周壁の東側にもう一対のオベリスクを、さらにもっと東側の太陽神の礼拝場所に1本のオベリスクを建てました。カルナックでの建設事業は戦士としての王という印象を強くあたえ、戦勝は王自身とアメン神の両方に光栄を与えました。王の祝祭殿は前任者たちの記念碑の影を薄くさせました。王は至高神たちの議会に入ることが出来、太陽神ラーとともに太陽船に乗り、アメン神の前に案内されました。

テーベ西岸にはラメセウムの北側に葬祭神殿(ヘンケトアンフ)を、デル・エル・バハリのハトシェプスト女王葬祭神殿とメンチュヘテプ2世の葬祭神殿との間にハトホル女神の礼拝堂がある神殿(ジェセルメヌー、後にジェセルアヘトに改名)を建設しました。メディネト・ハブではハトシェプスト女王の神殿を拡大し、装飾を完成させました。さらにその北側に父トトメス2世のための神殿を建てました。

テーベ以外での建設事業は、次の通りです。ゲベル・バルカルに石碑と前哨地の設立、ゲベル・ドシャに岩窟神殿、セムナでセンウセレト3世のデドウェン神殿を石造で再建、サイに要塞(さらにヌビア総督ネヒによる礼拝堂と彫像の建立)、クンマにエレファンティネのクヌム神とセンウセレト3世のための至聖所の石材、ウロナルティに中王国の要塞内にあるデドウェン神とモント神のためのレンガ製神殿を建設、ブーヘンに石碑建立とホルス神のための南の神殿の完成、ファラス、エル・レシヤの岩窟礼拝堂(現在トリノ・エジプト博物館所蔵)、カスル・イブリーム(クシュ総督ネヒの祠堂)、アニバ(クシュ総督ネヒの住居の戸口の側柱)、アマダにアメンヘテプ2世との共同統治時代にアメン・ラー神とラー・ホルアフティー神のための神殿、クバーンに神殿、ダッカにハトシェプスト女王との共同統治時代の建築物、エレファンティネにハトシェプスト女王との共同統治時代のサテト女神のための神殿、コム・オンボの門、エルキャブに聖船休息所と神殿、エスナ、トードの神殿拡大と祠堂建設、アルマントのモント神殿ピュロン(アフリカの略奪品の行列とサイの捕獲のレリーフ)、メダムードでモント神殿の再建、コプトスでハレンドテス神の神殿を建設、デンデラ、アビュドス、アフミーム、ヘリオポリスのアトゥム神殿の前に一対のオベリスク(現在ロンドンニューヨークに建っている)と門と周壁を建立、ブトに石碑を建立。さらにメダムードのミンメスーの碑文では、アシュート、アトフィー、サッカーラ、レトポリス、ギーザ、メンフィスのサヒェブー、コム・エル・ヒスン、ブシリス、ブバスティス、テル・バラムン、ビブロスでの神殿建設にも言及があります。これらの建設事業の多くは治世最後の10年間に集中していました。

ハトシェプストの記念碑の破壊は治世の比較的遅い時期(治世46年か47年以降)に行われましたが、それは王の建築計画のためでもありました。それまでは王はハトシェプストの名前と記念碑を汚しませんでした。その代わり国中に王の治世を思い出させるものを建設しました。王の様式と人物描写がハトシェプストのそれらと見分けがつきにくいということは、興味深いです。しかし、レリーフや彫像では王の肩幅は広く、胴体上部はがっしりと男らしく表現されています。

王は3回セド祭を祝い、治世51年に息子のアメンヘテプ2世を共同統治者に任命しました。そして治世53年7月の最後の日に崩御しました。王墓は王家の谷34号墓で、崖の上方に穿たれ、前室は太陽神ラーへの連祷書で、長円形の埋葬室はイミドゥアトで装飾されました。書記アメンヘテプのグラフィティーによれば、王墓は第20王朝に略奪されました。王のミイラは第21王朝にデル・エル・バハリのカシェットに再埋葬されました。

多くの史料(例えば宰相レフミーラーの墓碑銘)は王が筆記の女神セシャトと学問の神トート神のような賢明な王だったと述べています。王はヌビアでトート神と同一視され、崇拝されました。王はトトメス朝の祖先たちを厚く崇拝し、彼らの彫像を保存修復し、カルナックのアメン神殿内の祝祭殿の中に「祖先たちの間」を造りました。王は「父たちの父」としてプトレマイオス時代まで崇拝されました。王がユーフラテス川を渡ったこと、ゾウ狩りをしたこと、治世の長さ、西アジアの征服などは長く人々の記憶に残り、「セソストリス王伝説」の中にも垣間みられます。

トトメス3世については、下記のURLもご覧ください。

http://ib205.tripod.com/tuthmosis_3_1.html

http://www.digitalegypt.ucl.ac.uk/chronology/thutmosisiii.html

http://www.touregypt.net/featurestories/tuthmosis3.htm

トトメス3世の治世全体については、E. H. Cline and David O'Connor ed., Thutmose III ; A New Biography, The University of Michigan Press, 2006をご覧ください。

王墓(KV34)については、下記のURLもご覧ください。

http://www.touregypt.net/featurestories/tuthmosis3t.htm

http://ib205.tripod.com/kv34.html

http://www.thebanmappingproject.com/sites/browse_tomb_848.html

★アメンヘテプ2世

ホルス名 : カーネヘト・ウルペフティー、二女神名 : ネフェルファーウ・セハーイエムワセト、黄金のホルス名 : イチーセヘムエフエムターウネブー、誕生名 : アメンヘテプー(数種類のエピセットを伴うことあり)、即位名 : アアヘペルーラー

トトメス3世とメリトラー・ハトシェプストの息子。トトメス3世の皇太子アメンエムハトの死後、トトメス3世との2年と4ヶ月の共同統治期間を経て、単独統治を開始。王子時代はメンフィスで教育を受け、王の造船所を監督。妻ティアア(トトメス4世の母)。トトメス4世を含めて9人の王子を設けました。治世年数27年。ただしヴァン・シクレン氏によれば、最高35年の単独統治期間があり、死亡時にはおそらく2回目のセド祭の準備中でした。

王妃イアフメス由来のハトシェプスト女王の家系による王位継承の要求を排除するために、王は女王の記念碑を組織的に調整しました。特にカルナックで女王の名前は削り取られたり、トトメス2世または3世の名前に置き換えられました。

ギーザのスフィンクス神殿に残された石碑の碑文によれば、王は父の厩で馬を訓練しました。王の碑文では異例の体力とスポーツの業績(弓術、馬の調教、船を漕ぐこと、走ること)が強調されます。二輪戦車を走らせながら分厚い銅板を矢で射抜く場面を彫った石材(Luxor J129)が1927年にカルナック神殿第3ピュロンの中から発見されています。この王の偉業は数百年後の『イーリアス』でアキレスが矢を射ると一連の的を通過したというエピソードの元になっています。また王が治世23年にかつての戦友、ヌビア総督ウセルサテトに宛てた書簡が王の戦争での残虐さを物語っています。ちなみに、王に弓術を教えたのはティニス市長ミン(テーベ109号墓)でした。

治世3年、7年、9年に軍事遠征を行いました。治世3年の軍事遠征(単独統治開始直後)は外交政策上というよりはむしろ王権の教義に必要なこととして理解されます。エレファンティネ(Wien ÄS5909とCG34019)とアマダの石碑(二つの石碑はほとんど同じ内容の碑文を持つ)にオロンテス川の南の地域タフシに行ったことが短く言及されています。王は7人の諸王を撲殺し、帰途彼らを船首から逆さ吊りにし、そのうち6人がテーベの神殿の壁から吊るされ、7人目が第4カタラクトのナパタの壁から吊るされました。

治世7年の軍事遠征はミタンニ王シャウシュタタルの進出が動機だったかもしれません。カルナック(第8ピュロン東側)とメンフィス(JE86763)の石碑(二つの石碑は同じ内容である)に詳細な報告があります。王はカデシュ、ニヤまで進軍しました。ウガリットにも行ったかどうかは疑わしいです。王が南へ戻った後遠征の報告に時期的欠落があるので、王はミタンニに対して敗北を喫したことはあり得ます。このときオロンテス川とユーフラテス川の間の地域はエジプトにとって失われました。帰途征服されたと言及されている地名の多くは実際には知られていません。このことに関して、W. ヘルク氏は第4回国際エジプト学者会議で、「マートのために永遠に勝利するエジプト王という図像のためにシリア・パレスティナ遠征の描写がだしにされたが、征服された諸都市と諸王は兵士たちを養うために家畜を追い出された小さな村々と村長たちに過ぎなかったことは、賢者たちだけが知っていた。」と断言しました。

治世9年の軍事遠征は控えめな規模で、パレスティナ沿岸とイスラエル平原にだけ進軍しました。報告ではミタンニ、ヒッタイト、バビロニア(サンガル)の諸王が贈り物を持って、王に「生命の息吹」を乞う、エジプトの主要な敵として言及されます。捕虜8万人という信じがたい数字は、その地域の服従している人口を見積もった数字ではないかと解釈されてきました。ただし、王の記念碑のどれでもミタンニは「あのナハリンの敵」ではなく「セチェチウ(アジア人の一般的総称)」と呼ばれており、以前のような敵意は感じられないので、ミタンニとの和睦が近かったことを示しています。王のミタンニとの新しい同盟はカルナック・アメン神殿の第4と第5ピュロンの間の列柱室の柱の碑文で公開されています。

王の治世にはシリア・パレスティナの重要な神々、バール、レーシェフ、ハウロン、アスタルテがエジプトの神々に仲間入りをしました。

王の治世は安定しており、エジプトのいくつかの地域では、農業と産業が繁栄していたことが行政文書から知られます。王は十分に発達した官僚制度をうまく利用したように思われます。王は父トトメス3世に仕えた人々を留まらせ、自分自身の親友たちを重要な地位に任命しました。王の治世の主要な高官として、宰相レフミーラーの後任で乳兄弟のアメンエムイパト・パーイリー(テーベ29号墓)、ヌビア総督ウセルサテト、王の港ペルーネフェルの長官ケンアメン、テーベ市長センネフェル(テーベ96号墓)、アメンエムハブ(テーベ85号)、建築主任ミンメスー、アメン神官長メリーとアメンエムハト(テーベ97号墓)、国庫長ミン、宝庫長ジェフーティーネフェルとアメンメスー、穀倉長官メンヘペルラーセネブ、王領地総監督マアエヌエフネヘトゥーエフ、アビュドスのオシリス神の神官長ネブワウイが知られています。

大規模な建設活動はデルタからヌビアまで知られています。ネベシェとテル・アブ・セファ(記念碑群に言及した碑文)、ヘリオポリス(オベリスクと石材)、ギーザ(スフィンクス神殿と石碑)、メンフィス(ペルーネフェルのアメン・ラー神の前にいる王のレリーフがある石材)、メイドゥーム(建設活動への言及)、 ヘルモポリス(至聖所、宮殿)、デンデラ(ハトホル神殿での建築物)、コプトス(神殿建設への言及)、メダムード(石材)、ルクソール(建築物の断片)、カルナック(アラバスター製聖船休息所、花崗岩製の礼拝堂、セド祭の礼拝堂、地名リストなど)、テーベ西(王墓と葬祭神殿)、アルマント、トード(共同統治時代の聖船休息所)、エスナ(王名が発見されている)、エル・キャブ(神殿)、ゲベル・エス・シルシラ、エレファンティネ(一対のオベリスク)、ゲベル・ティンガル(アスワン西岸の珪岩の採石場近くの礼拝堂)、セーヘル島(岩窟礼拝堂)、ビガー島(座像)、アマダ(父との共同統治時代に神殿)、カスル・イブリーム(門の側柱)、ファラス(石材)、ブーヘン(北の神殿と南の神殿)、ワーディー・ハルファ(レンガ製神殿)、ウロナルティ(センウセレト3世の礼拝堂での作業)、クンマ(クヌム神殿の拡大)、サイ(礼拝堂)、アルゴ(石材)、ゲベル・バルカル(彫像の断片)。

カルナックの第8ピュロンの南方にセド祭の礼拝堂が作られました。チャールズ・ヴァン・シクレンは王の礼拝堂を復元しました。礼拝堂はレリーフを彫られた四角い柱が並ぶ列柱室で、周囲の壁も装飾されていました。柱には「セド祭の繰り返しの最初の時」の挙行が記されていますが、実際に祝われた証拠はありません。王の冠には複数の太陽円盤と小さなハヤブサが載っており、ラーホルアフティー神との同一視を創りだしています。また王の母かつ「アメン神妻」メリトラー・ハトシェプストの場面もあります。礼拝堂の前にはアメン神の菜園と果樹園がありました。この礼拝堂は後にホルエムヘブ王によって一部改変され、セティ1世によって全く異なる建築物の形で再建されました。

王がカルナックのアメン神殿の北側に建設したアメン神殿は後にモント神に捧げられ、その石材はアメンヘテプ3世時代に建設された神殿の基礎部分の一部を形成しています。さらに、プトレマイオス時代に改変されました。神殿本体の北側では王の儀式用の宮殿の位置を示すと思われる石の門の一部が発見されました。王はカルナックのアメン神殿の南北の軸をさらに北へ伸ばそうとしていたのかもしれません

ギーザの大スフィンクスは太陽神ホルエムアヘトと同一視され、トトメス1世の治世以来その地域は王子たちと巡礼者たちによってしばしば訪問されました。さらに王とトトメス4世を含む王の祖先たちの礼拝地になり、ローマ時代まで崇敬が続きました。王の息子たちは王が建設したスフィンクス神殿(鎮壇具にはスフィンクスはハウロンと記されている)に石碑を残しましたが、そのうちのいくつかにはかつてスフィンクスの胸の前に王の彫像が立っていたことを示す描写があります。マーク・レーナーは王の彫像とともにスフィンクスの外見を復元しました。

デル・エル・バハリで1906年にナヴィーユによって発見されたハトホル牛の彫像は有名。墓壁画の発展が見られ、トトメス4世の治世に頂点に達します。例として王の書記ウセルハト(テーベ56号墓)の壁画があります。王の記念碑以外では、絵画様式において芸術上の個人主義が現れ始めました。トリノ・エジプト博物館には建築師ハーイの完全な副葬品が収蔵されています。王の治世にはいくつかの中王国の文学作品がコピーされました。

王墓はKV35(1898年にV. ロレによって発見される)。埋葬室だけが装飾されており、壁にはイミドゥアトが、柱には神々が描かれています。第21王朝にアメン神官長ピネジェム1世によって王のミイラの隠し場所にされました。アメンヘテプ2世のミイラの他に、トトメス4世、アメンヘテプ3世、メルエンプタハ、シプタハ、セティ2世、ラムセス4〜6世のミイラが発見されました。

王の治世の様々な側面については、Peter der Manuelian, Studies in the Reign of Amenophis II, Hildesheim, 1987をご覧ください。

アメンヘテプ2世については、下記のURLもご覧ください。

http://touregypt.net/featurestories/amenhotep2.htm

http://ib205.tripod.com/amenhotep_2_1.html

http://www.digitalegypt.ucl.ac.uk/chronology/amenhotepii.html

王墓(KV35)については、下記のURLもご覧ください。

http://www.touregypt.net/featurestories/amenophist.htm

http://ib205.tripod.com/kv35_cache.html

http://www.thebanmappingproject.com/sites/browse_tomb_849.html

★トトメス4世

ホルス名 : カーネヘト・トゥートハーウ、カーネヘト・メリーワセト、カーネヘト・サーアトゥム、二女神名 : ジェドネシートミーアトゥム、セヘムハーウエムターウネブー、黄金のホルス名 : ウセルヘペシュ・デルペセジェトペジェト、誕生名 : ジェフーティーメスー、即位名 : メンヘペルーラー(ラー神のエピセットを伴うことあり)

アメンヘテプ2世とティアアの息子。第一王妃はネフェレトイリー、治世7年以降王の姉妹のイアレト、妾妃はムートエムウィアー(アメンヘテプ3世の母)とミタンニ王アルタタマ1世の娘。兄弟はウベンセヌー、ネジェム、、アメンヘテプー、アメンエムイペト、イアフメスなど。王子はアメンエムハト、アメンヘテプ(3世)、ジェフーティーメスー、アアヘペルーラー、王女はティアア、アメンエムイペト、テントアメンなど。治世10年。

神による王位の約束は有名なスフィンクス・ステラ(治世1年に建立)とアメン神が支配権を王に割り当てたナオスの主題です。

コノッソ(第1カタラクト)の碑文によって証明される治世7年のヌビア遠征はアスワンとエドフからの東部砂漠の鉱山地域への道の確保のための警察行為と評価できます。コノッソにはヌビア総督アメンヘテプのグラフィティー、王の教育係ヘカーレシュー、ヘカーエルネヘフ、多数の王子たちの名前も彫られています。葬祭神殿出土の石碑にはクシュの人々の移住が記されています。西アジア遠征もカルナック出土の彫像と供物リストから証明されます。戦利品とエジプトへ連れて来られたナハリンの諸王の子供たちはネブアメンの墓(TT90)で言及されています。アマルナ外交書簡から王がシドンに滞在したこと(アマルナ文書EA85)、おそらくシリアのヌハッシェ地域のタク王の任命(アマルナ文書EA51)が証明されます。王の葬祭神殿出土の石碑にはゲゼルの捕虜たちの移住が記されています。数通のアマルナ外交書簡からウガリットはおそらくエジプトの属国でした。ミタンニとの同盟はミタンニの王女との結婚によって明白です。

建設活動はシナイ半島セラビート・エル・ハーディムでのハトホル神殿の増築、シリアクス(アトゥム神とラーホルアフティー神に捧げた石碑)、ヘリオポリス(ラーホルアフティー神殿の修理、王子イアフメスによる周壁の建設、オベリスク、柱)、ギーザ(スフィンクス・ステラ、スフィンクスの砂の除去と防御壁の建設、ホルエムアヘト神の彫像のためのナオス、様々な神々に捧げられた17の石碑、戸口の側柱、軒縁、レリーフとステラの破片、ホルエムアヘト神へのシリアの土地の寄進に関する石碑)、アブシール(セクメト神殿の強奪)、メンフィスとサッカーラ(鎮壇具、プタハ神の(?)礼拝堂のための軒縁と供物卓)、ファイユーム(王と母ティアアの群像)、ヘルモポリス(神殿の残り?)、アビュドス(礼拝堂、彫像)、デンデラ(石材)、メダムード(モント神殿での建設活動の破片と彫像、耕地の寄進と保護勅令)、カルナック(第4ピュロンの前の柱廊玄関[柱は黒檀とメルー材から作られ、おそらく金箔を張られていました]と門、アラバスター製の聖船休息所、周柱式中庭[トトメス2世の中庭を周柱式中庭に変え、初めてのセド祭を記念しました]、彫像、祖父トトメス3世のオベリスク[いわゆるラテラノ・オベリスク−357年以来ローマにある]を建立、モント神殿の門)、ルクソール(巨像、石碑)、アルマント(石材)、トード(レリーフのある石材)、エドフ(門の抱き石)、エレファンティネ(軒縁、クヌム神殿の装飾、オベリスク)、コノッソ(治世7年のヌビア遠征を示す岩壁碑文と治世8年の岩壁碑文)、アマダ(ラーホルアフティー神とアメン・ラー神の神殿中庭の屋根付き列柱室への改築、セド祭の願望を示す碑文あり)、ブーヘン、タボ(アメン神殿の建築、後にアメンヘテプ3世によって完成される)、ゲベル・バルカル(神殿建築、鎮壇具)。またアマルナに王のための神殿がある。葬祭神殿はアメンヘテプ2世の葬祭神殿と並んで建設されました。

スフィンクス・ステラにおいて王はホルエムアヘト・ヘプリ・ラー・アトゥム神を太陽神かつ王の正統性を証明するものとして示しました。ギーザでのホルエムアフティー神とヘリオポリスの神々の礼拝はカルナックのアメン神の礼拝と均衡を生じました。このことは北部の政治的重要性の増大を反映しています。

ギーザ出土の石碑、アマルナ出土の象牙製の腕輪、王の戦車のレリーフでは、王は太陽神の恩恵と強く関連があるシェビウ・カラーと腕輪を身につけています。カルナック出土の彫像とカルナックの周柱式中庭からのレリーフでは王はハヤブサ王として示されます。これらは王権の神性と王が太陽であるということを示しています。この傾向はアメンヘテプ3世が自分自身を太陽神と同一視することによって頂点に達します。王をエジプトの主要な神々と関連づけることも王の治世にますます顕著になりました。

王と王女の結婚によって王家の血筋を強化することに加えて、王は王家の女性たちの神々との関連付けも強化しました。まず母ティアアをムート女神であるかのように、「アメン神の妻」の地位に就けました。ティアアの名前はギーザ、ファイユーム、ルクソール、カルナック、王家の谷にある記念碑から知られています。さらにティアアはイシス女神とハトホル女神とも結びつけられました。ティアアと他の二人の偉大な王の妻たちは儀式上「アメン神の妻」の役割を割り当てられました。彼女たちは両手に棍棒とシストラムを持っています。

王の治世の初期に王妃ネフェレトイリーは、ギーザとルクソール神殿で、王とティアアとともに現れます。王はそれによって母-息子-妻の三柱神を表現しました。ネフェレトイリーの死後姉妹のイアレトと結婚することによってその傾向を続けました。ただし、王子アメンヘテプ(3世)は王が死ぬ前にすでに優遇された地位にありましたが、彼の母ムートエムウィアは王によって妻として認められませんでした。

宰相にヘプ、プタハヘテプ、プタハメス、国庫長にソベクヘテプ、メリラー、アメンメス、ラー、ヌビア総督にアメンヘテプ、アメン神官長にアメンエムウセヘト、プタハメス。ヘカーエルネヘフは王子アメンヘテプ(3世)の教育係でした。

王墓はKV43。ホルエムヘブ王治世8年に国庫長マヤによって墓の修復と再埋葬がなされました。ミイラは後にアメンヘテプ2世王墓(KV35)の隠し場所から発見されました。なぜなら第21王朝にアメン神官長ピネジェム1世によって移されたからです。

トトメス4世については、下記のURLもご覧ください。

http://www.touregypt.net/featurestories/tuthmosis4.htm

http://www.digitalegypt.ucl.ac.uk/chronology/thutmosisiv.html

http://ib205.tripod.com/tuthmosis_4_1.html

王墓(KV43)については、下記のURLもご覧ください。

http://www.touregypt.net/featurestories/tuthmosis4t.htm

http://www.osirisnet.net/tombes/pharaons/thoutmosis4/e_thoutmosis4.htm

http://www.thebanmappingproject.com/sites/browse_tomb_857.html

第18王朝の行政

第18王朝の間に使用された行政構造全体は明白な傾向といくつかの確定的でない状況によって特徴づけられます。イアフメス王とアメンヘテプ1世の官僚たちは第18王朝初めの王の従者たちに代表された地域と一族を示すほど確かに同定されてきませんでした。しかし、王朝の半ばまでに、王の最も親しい仲間たちは、南方の都市に由来するもっと多くの記録書類と一緒に、テーベかサッカーラに埋葬されました。ハトシェプスト女王の治世以降、私たちがテーベかサッカーラに装飾された墓の礼拝堂と埋葬用のシャフト(縦坑)を見つけるのを期待してもよいエリート官僚たちは、宰相、宝庫長(文字通りには印章の長官)、金と銀の家の長官たち、王領地管理人たち、(エジプトあるいはアメン神の)穀倉長官、王の息子かつ南方諸国の長官、王の伝令官たちあるいは食器類の管理者たち(しばしば外交に巻き込まれる)、王の養育係たち(男・女)、地域の市長たち(ときどき故郷の行政区に埋葬される)、アメン神官長(テーベ)、プタハ神官長(サッカーラ)、アメン神の第2〜4神官、将軍、様々なレベルの王の書記たちを含みました。

第18王朝のファラオたちが有力なエリートの一族たちからの支持を努力して得る必要はハトシェプスト女王とトトメス3世の治世の個人の墓に描かれた玉座に座る支配者の場面に関して言及されてきました。有力な一族はハトシェプスト女王とトトメス3世の治世の間宰相とアメン神官長の地位を保有しました。宰相ウセル(TT61とTT131)、王領地管理人かつアメン神の穀物計量官アメンエムハト(TT82)、アメン神の穀倉の長官ミンネヘト(TT87)を含む、トトメス3世の従者たちの重要なメンバーは、「太陽神ラーの連祷書」と「イミドゥアト」の同様な版で装飾された埋葬室を持ちました。エリク・ホルヌンクによるウセルのテクストの最近の研究はハトシェプスト女王とトトメス3世の時代にエリートたちによって取入れられた王の特権を強調しました。センエンムート(TT71とTT373)の二つの墓のうちの一つは後に王家の谷で使用されたような天文学的な天井を含み、王墓を真似て設計されました。他の方法でも特権的な王への接近は起こりました(例えば、王家の谷での埋葬を許可されることによって)。このことはトトメス3世とアメンヘテプ2世の治世に本当でした。

ハトシェプスト女王とトトメス3世の時代によく知られたエリートの一族と対照的に、アメンヘテプ2世の親しい仲間たちの多くは早くにトトメス3世とアメンヘテプ2世の時代に軍隊で勤務しました。軍役が慈しむことが出来るような親しい関係はおそらく青年時代に、王と宮廷の仲間たちが狩りをしたり、二輪戦車を走らせたりすることを学んだときに、彼らの出身によってもっと強くされました。「南方諸国の総督」ウセルサテトはおそらく、トトメス3世時代に外国で王の伝令官として勤務したこれらの幼なじみの一人だったでしょう。彼が第二カタラクト地域にセムナの要塞に残した石碑の碑文はアメンヘテプ2世によって外国に配属された旧友に送られた注目すべき書簡のテクストを含みます。「あなたは陛下のために戦う戦車兵・・・バビロンからの女、ビブロスからの召使い、アララフからの乙女、アラプハからの老婆[の所有者]・・・座る。」 トトメス3世に使えた別の男性、アメンエムハブ(TT85)はむしろアメンヘテプ2世の治世初めに死んだに違いありません。アメンエムハブは自分の墓碑銘でアメンヘテプの王としての指名を記し、それから王が彼にどのように話したかを語りました。「余は(まだ)巣の中にいた時、あなたが世の父の従者の中にいた時、余はあなたの性格を知った。あなたが王のエリート部隊を監督しますように。」

おそらくアメンヘテプ2世の治世全体を最もよく代表する廷臣は軍事遠征と子供時代の遊びからの友人でした。王領地総監督ケンアメンはレチェヌーでアメンヘテプ2世と一緒に戦いました。ケンアメンは勤務を認められて、ペルーネフェル、すなわち海軍の造船所と船の建造の中心地の管理人に任命されました。王宮も第18王朝中頃にはそこで活動的でした。ケンアメンの生涯において後に王自身の所帯の収益の多い財産管理人の名誉職を含みました。ケンアメンはアメンヘテプ2世の治世のほとんど全期間活動的でした。彼の墓(TT93)はこの30年の期間の末に描かれた墓からしか知られない優雅な様式の諸要素を示します。しかしケンアメンがトトメス4世の支配まで生き延びたことを示すものはありません。ケンアメンの選ばれた墓壁画のテーマの明白な非軍事的特徴は、反映したエリートの生活様式のイメージと結びつけられて、アメンヘテプ2世とトトメス4世の両方と同時代の墓壁画によって示された雰囲気と調和しています。

他に二人の人物が、おそらく早くからの宮廷での面識のために、アメンヘテプ2世時代に大いに昇進させられました。宰相アメンエムイペトとその兄弟テーベ市長のセンネフェルは王の注目のために極めて裕福になりました。彼らはテーベ地域で非常に有力だったので、王家の谷での埋葬を許され、センネフェルの妻で王の乳母セネトナーイもそこに埋葬されました。また二人ともシェイク・アブド・エル・クルナに大きな墓の礼拝堂を持ちました。アメンエムイペトの場合はTT29とKV48です。センネフェルはおそらく妻たちと娘たちを含む数人の女性たちを収容するために二つの墓(TT96上・下とKV42−トトメス3世の妻ハトシェプスト・メリトラーの墓を再利用)を持ちました。 センネフェルの長女ムートトゥーイはセンネフェルの後任のテーベ市長ケンアメンと結婚しました。彼らはアメンヘテプ3世時代に生き、TT162に埋葬されました。

トトメス4世の行政へのアプローチは軍事官職を減らし、しばしば長く確立されたエリートの一族から選ばれた官僚たちに置き換えました。しかし、どの王にも寵臣がおり、トトメス4世の場合は王領地管理人チェヌナ(TT76)でした。チェヌナの断片的な自伝碑文はトトメス4世と親子関係に似た個人的な関係を持ったことを示します。チェヌナは自分自身を「王の真の養い子、彼に愛されし者」と呼びました。ホルエムヘブも墓の大きさ(TT78)とトトメス4世の娘アメンエムイペトの教育係だったことから判断して、有力な近親者だったに違いありません。

ヘプはトトメス4世の治世中南の宰相であり、プタハヘテプは北の宰相でした。二人の宰相が同時に存在したことはトトメス4世の治世に年代づけられるミュンヒェン・パピルス809で確認されます。ヘプの墓(TT66)は シェイク・アブド・エル・クルナの名誉ある共同墓地(トトメス3世とアメンヘテプ2世の宰相たちの埋葬地)にあります。しかし、当時の他の墓と比べると、かなり小さくて、それほど印象的ではありません。

明らかに王の行政はトトメス4世の治世に繁栄し、宮廷と官僚たちの結びつきは軍事官僚たちにほとんどまったく取って代わりました。「将軍」はその時代からは実質上知られておらず、他方「王の書記」は多数いました。「徴兵の書記」は十分に証明されませんでしたが、その官職の保有者が明らかにしばしば宮廷の仲間だったという事実は、その地位には鍛えられた軍人ではなく、忠実な文官が要求されたことを示します。

第18王朝については、下記のURLもご覧下さい。

http://euler.slu.edu/~bart/egyptianhtml/kings%20and%20Queens/Dynasty18.html

1