古代エジプトの歴史        2007年10月7日  西 村 洋 子

16.  第18王朝(紀元前1,550〜1,295年頃)(1)

年 表

新王国 第18王朝 (1,550〜1,295年頃) イアフメス王

アメンヘテプ1世

トトメス1世

トトメス2世

ハトシェプスト女王

トトメス3世

アメンヘテプ2世

トトメス4世

アメンヘテプ3世

アメンヘテプ4世/アフエンアテン王

ネフェルネフェルーアテン・セメネフカーラー王

トゥトアンフアメン王

アイ王

ホルエムヘブ王

第19王朝 (1,295〜1,186年頃)
第20王朝 (1,186〜1,069年頃)

イアフメス王

ホルス名 : アアヘペルー、後にカーエムワセト、二女神名 : トゥートメスート、黄金のホルス名 : チェスターウィー、誕生名 : イアフメスー、即位名 : ネブペフティーラー。エジプト再統一後王名のイアフを下向きの三日月で表します。

セケンエンラー・ターアア王とイアフヘテプの息子。祖母テティシェリー。正妻は妹イアフメス・ネフェレトイリー。息子アメンヘテプ1世。治世年数25年。

ミイラからの死亡時の推定年齢35歳。リンド数学パピルスの裏面の記述から治世11年に対ヒクソス戦争を開始したと思われます。(対ヒクソス戦争については、「古代エジプトの歴史 15. 第17王朝」をご覧下さい)。ヒクソスの都アヴァリスを攻略後、南パレスティナのシャルヘンを攻略。ビブロスまで進軍。治世22年にトゥーラの石灰岩採石場で石材を引かせられた「フェンフー(Fnxw)の牛群」はこのときの戦利品と思われます。さらに、下ヌビアを奪回。ブーヘンで発見された砂岩の扉のわき柱に、ミン神とヌビアのホルス神に捧げものをする王と母イアフヘテプが彫られ、イアフメス・トゥールーがブーヘンの指揮官として言及されています。エジプト国内ではヌビア人アアタの反乱とエジプト人テティアンの反乱を鎮圧。反乱者アアタの一派は生け捕りにされ、そのうち二人の戦士がイバナの息子イアフメスに報酬として与えられました。テティアンはかつてヒクソス王に仕えていた不平分子たちを集めましたが、王によって殺され、彼の軍隊も一掃されました。

王の不在中母イアフヘテプが摂政を務めました。治世16年以降ヒクソスの追放に成功した後、カルナックのアメン神殿(現在第8ピュロン前に立っている)に母イアフヘテプを記念する石碑(CG34001)を建立しました。またアメン神にさまざまな儀式道具(黄金製と銀製の献水用の壷、神像のための黄金製と銀製のカップ、黄金製の供物卓、神像のためのネックレスとリボン、楽器、祭列用の木製の船)を寄贈しました。治世22年までに母イアフヘテプが死亡。ヌビア総督(クシュの王の息子)の官職を創設。アメン神妻の官職を創設し、イアフメス・ネフェレトイリーをその初代に任命しました。またアメン神の女性崇拝者の官職を創設し、同様にイアフメス・ネフェレトイリーをその初代に任命しました。イアフメス・ネフェレトイリーはラムセス時代以来アメンヘテプ1世とともにテーベの墓地の守護神となりました。

アメン神妻の官職については、下記のURLをご覧下さい。

http://nefertiti.iwebland.com/texts/donation_stela_of_ahmose.htm

http://www.touregypt.net/featurestories/godswife.htm

王の治世の最後の5年間は大規模な建設事業に捧げられました。アヴァリス攻略後すぐにヒクソスの宮殿と要塞群を組織的に破壊し、おそらくアヴァリスをデルタの主要な商業センターにするために、同様な宮殿と要塞群を建設しました。それらは一時的なものだったため、土台とゴミ捨て場から発見された壁画の断片からしか復元できません。壁画は様式、モチーフ、技術においてミノア文化です。これらの壁画がクレタ人によって描かれたのか、あるいはエジプト人の絵師たちが真似たのかはまだ議論されていますが、何百という断片は保存状態が悪く、十分にそれらを評価できるまでには、まだ保存修復と研究に年数を要します。

メンフィスは、ナイル川の東への移動によって、新たに開墾され、再びエジプト人の定住が見られ、第18王朝初めに発展したことが、1980・90年代の発掘調査から明らかです。メンフィスからは王の建築活動を示すものは発見されていませんが、カルナックのアメン神殿からは、王が建設した通路といくつかの石碑、および聖船休息所が残っており、王がもっと長生きしていたら、さらにもっと多くの建築物を石材で再建したと思われます。カルナック神殿第3ピュロンで発見されたいわゆるテンペスト・ステラには、激怒したアメン神によって上エジプトに大嵐が起こり、テーベ地域中の墓やピラミッドが破壊されたので、王がそれらをすべて再建したことが述べられています。同じく第3ピュロンで発見された寄進ステラは王妃かつアメン神妻イアフメス・ネフェレトイリのためにアメンの第二神官の官職を購入したことを記録しています。購入費用は王によって神殿に支払われ、アメン神と王家との結びつきが確かにされました。

治世22年にトゥーラの石灰岩採石場を再開し、メンフィスのプタハ神殿、カルナックのアメン神殿などを修復(国庫長ネフェルペレトの岩壁碑文)。第二カタラクトのブーヘン(砂岩の扉のわき柱)、アルマント(モント神にワインを捧げる王のレリーフが彫られたまぐさ石)、アビュドス(町、ピラミッドと葬祭神殿、テティシェリの礼拝堂、セノタフとテラス式神殿)でも建設活動を行いました。テーベ西岸デル・エル・バラスに王宮を建築。

王墓は未発見ですが、ミイラ(CG61057)は1881年にデル・エル・バハリの隠し場所(DB320)から発見されました。ウシャブティ(BM32191−最古の王のウシャブティ!)とアビュドスのレリーフ(1993年にスティーヴン・ハーヴィーによって発見)から王の顔だちが知られています。死後アビュドスで神格化され、ラムセス2世時代に神託を下しています(パセルの石碑−JE43649)。周辺からは王の名前を記した多数のスカラベが出土しています。

ロシア科学アカデミー・エジプト学研究センターとミュンスター大学によるDB320のクリーニング調査については、下記のURLをご覧下さい。

http://www.cesras.ru/eng/arch/tt320/index.htm

王の臣下たちにはイバナの息子イアフメス(エル・キャブ)、イアフメス・ペンネクベト(エル・キャブ)、ヌビア総督イアフメス・サーターイイトとイアフメス・トゥールー(イアフメス・サーターイイトの息子)とジェフーティー、アメン神官長ミンモントとジェフーティー、テーベ市長テティキー(テーベ15号墓)、国庫長ネフェルペレトがいます。

イアフメス王については、下記のURLもご覧下さい。

http://www.digitalegypt.ucl.ac.uk/chronology/ahmose.html

http://touregypt.net/featurestories/ahmose1.htm

http://ib205.tripod.com/ahmose_1_1.html

http://www.ancientneareast.net/pharaohs/ahmose.html

イアフメス・ネフェレトイリーについては、下記のURLをご覧下さい。

http://www.digitalegypt.ucl.ac.uk/thebes/persons/ahmesnefer.html

http://ib205.tripod.com/ahmose_nefertari_2.html

アメンヘテプ1世

ホルス名 : カー・ウアフターウ、二女神名 : アアネルー、黄金のホルス名 : ウアフレンプート、誕生名 : アメンヘテプー・ヘカーワーセト、即位名 : ジェセルカーラー

イアフメス王とイアフメス・ネフェレトイリーの息子。治世年数20年。

ヌビアのサイ島まで軍事遠征を行いました。指揮官はヌビア総督イアフメス・トゥールー。セムナに治世7年、ウロナルティのセンウセレト3世の要塞に礼拝堂を建設したという治世8年の碑文があります。ヌビアでの軍事遠征の成功と財政上の利益はエジプト経済の改善に役立ち、王の記念碑は王権の象徴として重要なインパクトを与えました。イバナの息子イアフメスとイアフメス・ペンネクベトの自伝碑文もヌビア遠征について語っています。ただし、これが王のヌビア遠征について語っているのかどうかは確かではありません。イバナの息子イアフメスは王をクシュまで連れていき、王が弓の民を一人殺し、さらに住民や家畜を追い、その後王を二日間でナイル河谷まで連れ帰り、報償として黄金を与えられました。アニバに残された治世8年の日付けを持つ石碑には弓の民(イウンティウ)と東部砂漠の住民達(メンチュウ)が王に大量の黄金と製品を届けたことを記録しています。このことはクシュの遠征の成功後、下ヌビアを王族が訪問したことを記念しているのかもしれません。

建設事業として、カルナックにセド祭のレリーフを施された石灰岩の大門を建設(後に第7ピュロンに取って代わられる)。中王国の中庭の周囲に石の壁を建設し、壁の内側にいくつかの礼拝堂を建設。これらの礼拝堂には王と母イアフメス・ネフェレトイリー、アメン神に儀式を行う神殿職員たち、第11王朝の支配者達への奉納などが描写されています。(後にこれらの礼拝堂はトトメス3世によって解体され、砂岩で再建されました)。南の通路に沿ってセド祭用の周柱式聖船休息所を建設。王のカルナックの記念碑のレリーフは意識してセンウセレト1世時代のレリーフに似せて仕上げられました。王が治世30年以前にセド祭を行ったのかあるいはセド祭を祝う前に記念碑を建設しただけなのかは不明。第3ピュロンの基礎部分から発見された石灰岩の扉のわき柱には祭礼のリストとそれらを祝った日付けが記されており、それらは第12王朝の祭礼暦の影響を強く受けています。さらにアメン神のためにアラバスター製の聖船休息所を西の中庭に建設。

デル・エル・バハリの山懐と耕地の北と東の縁に葬祭記念碑を建設。わずかな石材に王と母イアフメス・ネフェレトイリーの名前が記されていますが、どちらの墓も確認されていません。エル・キャブにネクベト女神のために礼拝堂を建設。コム・オンボ、エレファンティネ、シャット・エル・リガール、ゲベル・エス・シルシレからも石材や碑文が発見されています。ボスラとハトヌーブでアラバスターを採石。シナイ半島のセラビート・エル・ハーディムの中王国のハトホル神殿を拡張。アビュドスには父イアフメスを記念する礼拝堂を建設。サッカーラの階段ピラミッド複合体には王の治世20年の日付けがある訪問者の碑文が残されています。アボット・パピルス(ラムセス9世の治世16年)にドゥラ・アブル・ナガに王墓があるという記述はありますが、未発見です。王のミイラ(CG61058)は1881年にDB320で発見されました。

王像はたいてい死後神格化されてから制作されたもので、デル・エル・バハリのオシリス柱像、サイ島の座像、コフラー・トゥルーニガー・コレクションの小像だけが確かに王の時代に作られた王像です。王の名前が記されたスカラベも死後神格化されてから制作されたものです。

王に仕えた高官として、テーベ市長セニ、建設事業の長官イネニ、アメン神官長ミンモントとパーレンネフェル、国庫長イアムー(シナイの碑文)、王の祖母イアフヘテプの地所総監督カレスがいます。

エーベルス医学パピルス、最古の水時計制作に関するアメンエムハトの碑文、イミドゥアトの完成が王の時代の知的活動の証拠です。王の建設地で暦のために天体観測が行われたかもしれません。第18王朝の間テーベとアスワンの間にある礼拝センターでは、シリウス星の出現、ナイル河の増水、月の周期のような礼拝に関連する自然現象への関心が高まります。エーベルス医学パピルスの裏面に記された祭礼暦は王が以前の暦を改訂しようとした可能性を提起します。

王は死後母イアフメス・ネフェレトイリーとともにテーベの墓地の守護神となりました。特にデル・エル・メディーナの職人村の創設者とみなされます。職人村の中に二人のための礼拝センターがあっただけではなく、ラムセス時代の大部分の家の居間に二人を礼拝する祭壇がありました。彼らは再生復活を象徴する黒もしくは青で肌の色を表現されました。デル・エル・メディーナの主神として王のために一年に数回祭礼が行われました。特に冬第3月に王の大祭が行われ、神託が下されました。

アメンヘテプ1世については、下記のURLもご覧下さい。

http://www.touregypt.net/featurestories/amenhotep1.htm

http://ib205.tripod.com/amenhotep_1_1.html

第17王朝末と第18王朝初めの王族と高官たちの墓

アビュドスに建設されたイアフメス王の記念碑群は、1990年代にスティーヴン・ハーヴィーによって発掘調査され、ピラミッドと葬祭神殿を含んだことが知られています。アビュドスは長い間オシリス神と死後オシリス神と同化した王の祖先達を崇める場所でした。ピラミッドは第17王朝の王達のテーベの墓を目立たせるのに使われました。それらのレンガの遺構は19世紀までドゥラ・アブル・ナガで見ることができたかもしれません。イアフメス王の遺体はデル・エル・バハリの隠し場所で発見され、墓の位置は不明なままです。

イアフメス王の母イアフヘテプは、第17王朝の王や王妃達と同様に、ドゥラ・アブル・ナガに確かに埋葬されました。ドゥラ・アブル・ナガでのダニエル・ポルツの調査はこの共同墓地が第17王朝から第18王朝初めまで継続使用されたことを示してきました。彼はまた高官達の墓の密集を証明しました。大きな墓の周囲にはさらに小さめの墓が散らばっていました。これらの墓の密集は王家の谷への入口の丁度南、ドゥラ・アブル・ナガの丘の下の砂漠の低地に位置しています。王墓は丘に穿たれ、それらの小さな墓を見下ろしています。いくつかの王墓は中王国の礼拝堂を再利用していました。

今までのところ、考古学上の証拠は副葬品が確かに第17王朝に削減され、装飾墓がこの時期テーベでほとんど知られなかったことを示しています。しかし、サッカーラ地域で、イアフメス王とアメンヘテプ1世時代の王族以外の人々の共同墓地は豊かと述べられる地表墓からなることを指摘するのは興味深いです。二人の王の時代の宰相、神官長、宝庫長の埋葬地は広く知られておらず、共同墓地の発展パターンの同定は失われた墓の所在を見つけるのに最終的に役立つでしょう。そのような調査はすでにウナス王の参道の南でジェフリー・マーティンとマーティン・レイバンによって、北サッカーラではアラン・ジビーによって行われてきました。

王の遺体と棺や副葬品は古代に本来の埋葬地から移されました。新王国末と第三中間期初めの神官達はデル・エル・バハリの近くの墓に数体の王のミイラを再埋葬しました。イアフメス王とセケンエンラー・ターアア王のミイラはそこで発見され、少し後の時代の王族でない人の棺の中に収められていました。イアフメス王の母イアフヘテプの大きな外棺は、おそらくアメンヘテプ1世の治世末に彼女の死亡時に作られましたが、それもデル・エル・バハリの隠し場所で発見されました。ただし内棺は彼女の墓だったかもしれない場所でもっと早くに発見されました。そこにはイアフメス王とカーメス王の両方の名前が記された物品もありました。ドゥラ・アブル・ナガ地域は何世紀もイアフメス王の一族、特にイアフヘテプとイアフメス・ネフェレトイリーと関連づけられ続けました。その地域のラムセス時代の墓、礼拝堂、石碑は彼らの記憶を尊びました。しかし、王家の谷が王の埋葬地として確立するやいなや、ドゥラ・アブル・ナガには王墓は築かれなくなり、ハトシェプスト女王の治世までもう30年間高官達の共同墓地としての地位を保持しました。

第18王朝初めの王族の女性達

デル・エル・バハリの王族のミイラの隠し場所からは多数の王女達が知られています。そのうち数人は王妃でもありました。彼女達は第17王朝終わりあるいは第18王朝始まりの支配者達の子供でした。彼女達の名前はしばしば第18王朝初めの王族を崇拝した新王国末の個人の墓の礼拝堂からも知られます。彼女達が保有した称号と王以外に夫を持たなかったことは王女達に課せられた制限を示します。第18王朝初めの王朝の家系の連続は確かに王族への接近を制限する決定に帰せられるところがありました。経済の点から見ると、このことは戦争で獲得された土地が王女と結婚した男性の一族には分与されなかったことを意味したでしょう。それゆえ王たちは自分の望む通りに自由に軍隊の従者達を富まし、それによって新しい支持者たちを作ることができました。イバナの息子、イアフメスとイアフメス・ペンネクベトのような従者達はこれらの新しいエリート達の例ですが、新王国の後の法律文書は自分の財産がイアフメス王から下賜された物に由来した他の人々について知らせてくれます。

政治と宗教の点から見ると、閉鎖的な王族は明らかに中王国(と古王国)にさかのぼりました。当時王女達は頻繁に王と結婚するかあるいは一生を通じて父王と関わりがありました。しかし、家系の排他性を保証するために、セケンエンラー王とイアフヘテプの一族は明らかに、王の娘は王以外の誰とも結婚すべきではないという追加の禁止事項を制定しました。私達は王の娘と結婚した高官達の例を知っているので、このことは古王国と中王国には必ずしも事実ではありませんでした。しかし、いったんその慣習が第17王朝の終わりに制定されると、第18王朝を通じて存続しました。ラムセス2世の治世になってようやく王以外の人物と結婚する王女たちの確かな例があります。

この慣習の結果として血縁関係を弱める影響はありませんでした。なぜならそれは王自身が王女としか結婚できなかったということを意味しなかったからです。確かに、第18王朝を通じて、王達はテティシェリのような王族でない妾妃によって父王の下に生まれました。もし私達の文献史料の理解が正しければ、テティシェリはイアフメス王の両親を産みました。イアフメス王の母イアフヘテプは自分の兄弟、最もおそらくセケンエンラー王、あるいはおそらくカーメス王によってイアフメス王を産みました。イアフヘテプは数人の娘も産みましたが、セケンエンラー王にはまた2〜3人の他の女性達の産んだ娘がいました。イアフメス王は自分の姉妹のイアフメス・ネフェレトイリーと結婚し、少なくとも二人の息子イアフメスアンフとアメンヘテプの父親になりました。しかし、イアフメス王は他の女性によって生まれた子供達の父親にもなったかもしれません。少なくとも二人の王女サトカーメスと(イアフメス・)メリトアメンが王の娘、王の姉妹、偉大な王の妻、神妻の称号を持ちました。サトカーメスは後の石碑でアメンヘテプ1世の妹として述べられました。他方、メリトアメンはしばしばイアフメス・ネフェレトイリーの娘と同一視されます。実際にはどの文書も明確に述べていませんが、彼女もまた彼女の兄弟アメンヘテプ1世と結婚しました。

王女達の結婚に関する制限にもかかわらず、正妻として現れた数人の王女達(イアフヘテプ、イアフメス・ネフェレトイリー、ハトシェプスト)は自分の夫と後継者の治世の間極めて活動的でした。イアフヘテプは、デル・エル・バハリで発見された大きな外棺に記された称号によれば、王の娘、王の姉妹、偉大な王の妻、王の母でした。カルナック出土のイアフメス王の治世18年の石碑で、王は彼女の事実上の統治を暗示する称号でイアフヘテプに栄誉を与えました。私達はイアフメス王の即位時の年齢を知りませんが、彼は治世のある期間は少年に過ぎなかったかもしれません。王太后が後に自分の息子によって上エジプトを平定し、反逆者を追放したことで栄誉を与えられたということは、非常に重要です。イアフヘテプは明らかに国内の挑戦者たちと戦い続けました。一族の王権の保有はこの期間試されたけれども、一度も成功しませんでした。クロード・バンダースレイエンはイアフメス王のアアタとテティアンとの戦いは上エジプトの敵達に対してだったと示唆してきました。テティアンはおそらく第17王朝ネブヘペルラー・インテフ7世とカーメス王が戦った家系を代表しています。このことはイアフヘテプがエドフでインテフ7世の未亡人ソベクエムサーエフに栄光を与えたこととうまく一致するでしょう。いずれにせよ、イアフヘテプは地域の軍隊と貴族達の尊敬を集め、巣立ったばかりの王朝の家系を保護しました。彼女はアメンヘテプ1世の治世まで十分に王の母として役割を果たし続けました。

おそらくイアフメス王の治世18年の後しばらくして、イアフヘテプはファーストレディーの地位を王女イアフメス・ネフェレトイリーに譲りました。彼女はイアフヘテプの娘だったかもしれません。カルナックのあるイアフメス王の寄進ステラはイアフメス・ネフェレトイリーが現れる最初の知られている記念碑です。彼女はこの石碑で王の娘、王の姉妹、王の偉大な妻、アメン神妻、そしてイアフヘテプと同様、上・下エジプトの女主人として述べられています。イアフメス王とイアフメス・ネフェレトイリーは自分達の息子、王子イアフメスアンフと一緒に描写されています。この碑文が作成された後ほんの2〜3年後の治世22年に、イアフメス・ネフェレトイリーは王の母の称号を主張します。ただし、それがイアフメスアンフに言及しているのかあるいはアメンヘテプに言及しているのかは知られていません。とにかく、彼女はアメンヘテプ1世の治世さえ生き延び、トトメス1世の治世にまだアメン神妻の地位を保有しました。

イアフメス・ネフェレトイリーは偉大な王の妻の称号よりも頻繁に神妻の称号を使いました。彼女はまた夫と息子の両方から独立して記念碑建築と礼拝の役割を行いました。彼女が亡くなった時、王族でない同時代人の石碑は単に「神妻が・・・天に飛んでいった。」とだけ記録しました。神官としての彼女の役割の強調はおそらくイアフメス王によって神妻の官職に譲渡された独立した経済的・宗教的権力のせいでした。寄進ステラは「アメン神の第二神官」に関して信頼性の創造を記録します。「アメン神の第二神官」の報酬は永遠に神妻に与えられ、干渉されることなく彼女が望む者に譲られました。神妻とは別の官職でありながら、イアフメス・ネフェレトイリーによって同時に保有された神の崇拝者の制度も寄進ステラで言及されました。女性神官の制度の経済的保有地は明らかに増大し続け、「崇拝者の家政」の生産物は会計パピルスの重要な焦点でした。

イアフメス・ネフェレトイリーは自分の息子の治世中偉大な王の妻として、特にアメン神妻として役目を果たしました。しばしば「王の娘、神妻、偉大な王の妻、白冠に合一する者、両国の女主人」(イアフメス・)メリトアメンがアメンヘテプ1世の妹であり妻であると推測されますが、アメンヘテプ1世の同世代の妻は知られていません。(イアフメス・)メリトアメンの棺はデル・エル・バハリで発見されました。しかし、両者の唯一の結びつきは彼女の棺が(イアフヘテプとイアフメス・ネフェレトイリーの棺と同様)様式上アメンヘテプ1世の治世に年代付けられるという事実であることに注目されるべきです。ヌビアの記念碑でのありうる彼女への言及を別にして、(イアフメス・)メリトアメンに言及するこの年代の記念碑はありません。治世8年の石碑で、ミアム(アニバ)のホルス神の前で、アメンヘテプ1世の像の後に王の母イアフメス・ネフェレトイリーと二番目の神妻、王の娘、王の妹、王の妻(但し「偉大な」は付いていない)が続きました。(イアフメス・)メリトアメンの名前は後にイアフメス・ネフェレトイリーに修復されました。これは王妃に昇進したけれども、その後イアフメス・ネフェレトイリーよりも先に亡くなったメリトアメンだったかもしれません。国境地での王族の女性達の存在を表現する記念碑は、おそらくもっと古い伝統に従って、第18王朝に数回証明されます。中王国・新王国にはこのタイプの描写がシナイ半島、アスワンの岩の露出、第1〜4カタラクトまでのヌビアにあります。おそらくそれらは諸外国の女神ハトホルとの王妃・王女たちの結びつきを意味することになります。太陽神の娘としてのハトホル女神の役割は父・太陽神の保護であることでした。

第18王朝初めのもう一人の王族の女性はアメンヘテプ1世の娘、王の姉妹、神妻サトアメンでした。彼女は王のミイラの隠し場所で発見された棺とカルナックで発見された二体の彫像から知られます。彼女はイアフメス王の治世以降証明され、王妃にはなりませんでしたが、アメン神の妻としての役割のためにイアフメス・ネフェレトイリーと並んで、アメンヘテプ1世によって栄光を与えられたように思われます。ラムセス朝時代でさえ、サトアメンとメリトアメンは共にイアフメス・ネフェレトイリーの一族のメンバーとして崇められ、神格化された王族を描く場面に含まれました。第18王朝の正確な年代と王族の明確な系図は、今日の私達にとってと同様に、新王国末のテーベ人たちによってもはっきりとしなかったように思われます。だから私達はこれらの願掛けの参照物に確かな血統を提供してくれるのをあてにすることはできません。

王は自分が望むだけ多数の女性と結婚できるにもかかわらず、アメンヘテプ1世の子供は治世20年間に確信を持って同定されてこなかったということに注目するのは興味深いです。現在リバプールにある彫像から知られるラーメスはイアフメス一族の出身だったかもしれません。しかし、彼の明白な血統は提供されません。おそらくアメンヘテプ1世によってもたらされた安定のために、王位継承権は何事もなく、イアフメス一族のメンバーだったとは知られていないトトメス1世に渡りました。

トトメス1世

ホルス名 : カーネヘト・メリーマートetc.、二女神名 : ハーイエムネセレト・アアペフティーetc.、黄金のホルス名 : ネフェルレンプート・サンフイブーetc.、誕生名 : ジェフーティーメスー、即位名 : アアヘペルカーラー

母セニセネブ、正妻イアフメス、王女ハトシェプストとネフェルービーティー(早世)、王子アメンメスとワジュメス、妾妃ムートネフェレトとの間に王子ジェフーティーメスー(後のトトメス2世)。治世年数11年。即位日については、クシュ総督トゥーリーの二つの石碑(ワーディー・ハルファの石碑CG34006−王の即位を知らせる石碑のコピー−とクバーンの石碑Berlin 13726)から冬第3月21日であることが知られています。「アメン神妻」イアフメス・ネフェレトイリーが王の治世中に亡くなったので、ハトシェプストが「アメン神妻」の官職を継承する。王子アメンメスとワジュメスの母は不明ですが、ラメセウムの南側の礼拝堂にトトメス2世によって捧げられたムートネフェレトの彫像でワジュメスがトトメス1世と並んで崇拝されたので、ワジュメスの母はムートネフェレトだったと考えられます。

治世2年にヌビアの反乱を鎮圧したことが、イバナの息子イアフメスとイアフメス・ペンネクベトの自伝碑文から知られています。このとき王の船の船首からヌビア諸侯(おそらくケルマの王)の死体が逆さに吊るされました。トンボスとタングルの治世2年の碑文からエジプトの南の国境は第3カタラクトまで前進させられたことが知られます。さらにハガル・エル・メルワの碑文から第4カタラクトまで進軍し、ケルマの王国を粉砕したことが知られ、アスワンからフィラエ島への道の途中にあるトトメス2世の碑文からトトメス1世が征服地に要塞群を建設したことが知られます。それらの要塞は5人のヌビア人諸侯によって管理運営されました。このようにして、アフリカ奥地との交易、船の交通、金鉱山への出入りがエジプトの支配下に置かれました。治世3年の碑文から軍隊の勝利の帰還とセーヘル島での運河の復旧作業が行われたことが知られます。

さらに治世4・5年にパレスティナ・シリアへ遠征し、ユーフラテス川まで達し、ミタンニと初めて戦ったことがイバナの息子イアフメスとイアフメス・ペンネクベトの自伝碑文、時計職人アメンエムハトの墓碑銘から知られています。ただし、イバナの息子イアフメスとイアフメス・ペンネクベトはトトメス3世の治世に自分の墓を建造し、装飾しました。トトメス1世と同時代人の記録は王のパレスティナ・シリア遠征について語っていません。王がカルケミシュに戦勝碑を建立したことは、孫のトトメス3世の報告から知られます。ただしどの戦争での勝利を記念したものかは分かりません。王は帰国途中ニヤでゾウ狩りをしました。しかし、ミタンニはトトメス1世・2世、ハトシェプストの記念碑で頻繁に言及されていないことから、王は実際にはミタンニの属王たちが優れた軍事力を持っていることに気付いただけで、彼らとは戦っておらず、ミタンニの支配地域の南に位置するニヤでゾウ狩りをし、碑文を残して帰国したと考えられています。デル・エル・バハリのハトシェプスト女王葬祭神殿にはプント遠征と関連して、トトメス1世のパレスティナ・シリア遠征への短い言及があり、ミタンニに対する勝利よりも、王がニヤの地域の珍しいものを持ち帰ったことを誇示しています。王はメンフィスに王宮と王領地を建設し、皇太子アメンメスを配置しました。このことはエジプトの西アジアへの関心の高まりを示しています。

王はカルナックのアメン神殿の増築を開始しました。中王国の中庭の周囲にアメンヘテプ1世によって造られた遊歩廊を拡大し、完成させ、さらにその壁を西方に伸ばして、第4ピュロンと天井が板張りの列柱室と第5ピュロンを加えました。第4ピュロンの前には二本のオベリスクを建立しました。この建設事業の責任者はイネニでした。さらに、アメンヘテプ1世のアラバスター製の聖船休息所を完成させ、カルナック北に門を、モント神殿の周壁の外側(東側)に「宝庫」を建てたことも知られています。「宝庫」はイアフメス王の記念碑の石材を再利用して造られたように思われます。トトメス3世に引き継がれた聖船休息所はデル・エル・バハリで発見されています。

テーベ以外ではアビュドス、アニバ、アルマント、ブーヘン(南の神殿の装飾)、エレファンティネ、エドフ、ギーザ(大スフィンクスのそばのホルエムアヘト神の礼拝堂)、エル・ヒバ、メディネト・ハブ、オンボス(セト神殿のまぐさと側柱)、カスル・イブリーム、クバーン、サイ島、セムナ(中王国のデドウェン神の神殿の修復)に王の建設事業の痕跡が見られます。セラビート・エル・ハーディムでも神殿に捧げられた願掛けの奉納物に王名が発見されています。第4カタラクトの地域とナパタにあるいくつかのレンガ製軍事施設は王の治世に年代付けられるかもしれません。ヌビアに残された記念碑は規模が小さく、部分的に石材を使ったレンガ製の建築物だった可能性があります。トトメス3世とハトシェプストはおそらく、特にセムナとブーヘンで、これらの記念碑を砂岩で再建したでしょう。

ギーザは新王国の間クフ王とカフラー王のピラミッドの所在地かつ大スフィンクスと同一視されたホルエムアヘト神の信仰地として主要な巡礼地になりました。ギーザの記念碑群は、アビュドスやカルナックと同様、はるか昔の支配者達の崇拝を強調しました。このようにして王は自分を神々やはるか昔の支配者たちと関連づけたように思われます。

アビュドスにはオシリス神殿への寄進を記録した石碑を建てました。王は儀式道具と彫像を寄進しました。そして、神官達は王をオシリス神の子孫であると宣言しました。王はイアフメス一族の出身ではなかったので、偉大な神々から王権を受け継いだことを主張したかったと思われます。その後王が神の直系の子孫であることはハトシェプストからアメンヘテプ3世まで一貫して王の碑文で宣伝されました。

王墓(KV38)は初めて王家の谷に築かれました。埋葬室は長円形で、イミドゥアトで装飾されています。この建設事業の責任者もイネニでした。王の棺の一つ(JE52344)は王墓(KV38)で発見され、もう一つ(MFA04.278)はハトシェプスト女王の墓(KV20)で発見されました。J. ローマーとC. ニコラス. リーヴズは、KV38はトトメス3世によって祖父トトメス1世のために建設されたもので、KV20がトトメス1世の本来の墓だったと、考えています。P. デア・マヌエリアンとC. レーベンは、ハトシェプスト女王が本来の墓KV38から彼女の墓KV20に父トトメス1世を埋葬し直したと、考えています。女王の棺はトトメス1世のために作り直され、女王のためにもう一つ棺が作られました。その後トトメス3世が祖父トトメス1世のミイラを新しい棺に入れてKV38に再埋葬しました。KV38はラムセス時代に略奪され、視察されたことが、第20王朝から第21王朝への変わり目のグラフィートから知られています。王のミイラ(CG61065)はデル・エル・バハリの隠し場所でピネジェム1世(第21王朝のテーベのアメン神官長)に奪われた棺(CG61025)の中で発見されました。

デル・エル・メディーナの職人村は王の治世に創設されました。王の葬祭神殿ヒェネメトアンフは考古学上証明されていません。王の礼拝はラムセス時代まで続きました。ハトシェプスト女王は自分の葬祭神殿の中に父・トトメス1世のための供養室を設けています。供養室にあった花崗岩製の偽扉(C48)はルーヴル美術館にあります。ハトシェプスト女王の葬祭神殿は「一族の」神殿であるとともに、王とアメン神との結合に栄光を与える神殿でもあったので、父の供養室を設けることで自分の祖先の家系を尊崇したと考えられます。「祖先崇拝」はすでにアビュドスのイアフメス王とアメンヘテプ1世の記念碑で明らかであり、同時代や第18王朝半ばの高官達の墓の礼拝堂は頻繁に生きている者も死んだ者も含めて一族のメンバーを崇拝している場面や壁がんを含みました。

王の治世の宰相はイイエムヘテプ、ヌビア総督はトゥーリーとセニでした。

トトメス1世については、下記のURLもご覧下さい。

http://touregypt.net/featurestories/tuthmosis1.htm

http://ib205.tripod.com/tuthmosis_1_1.html

http://www.digitalegypt.ucl.ac.uk/chronology/thutmosisi.html

トトメス1世王墓については、下記のURLもご覧下さい。

http://touregypt.net/featurestories/kv38.htm

http://ib205.tripod.com/kv38.html

http://www.thebanmappingproject.com/sites/browse_tomb_852.html

トトメス2世

ホルス名 : カーネヘト・ウセルペフティー、二女神名 : ネチェリーネシート、黄金のホルス名 : セヘムヘペルー、誕生名 : ジェフーティーメスー、即位名 : アアヘペルエンラー

トトメス1世と妾妃ムートネフェレトの息子。異母姉妹のハトシェプストと結婚し、王女ネフェルーラーを設ける。妾妃にはイシス(トトメス3世の母)とムートネフェレト2世がいます。異母兄弟のアメンメスとワジュメスが先に亡くなったので、王位を継承する。治世年数3年あるいは13年。

セーヘル島に残された岩壁碑文によれば、治世1年にヌビアの反乱を鎮圧。ケルマのクシュ王国の最終的な滅亡。ただし、王は軍事遠征に参加していません。このとき、男性のヌビア人住民達が殺され、生き残った人々とクシュの王の息子一人を捕虜にして、エジプトに連行しました。イアフメス・ペンネクベトの墓碑名によれば、シャス・ベドウィンに対する軍事遠征が行われました。このときもたくさんの捕虜を収監しました。シャスはパレスティナのベドウィンもヌビアのベドウィンも指すことができるので、この場合ヌビアの軍事遠征に言及しているかもしれません。

王の建設事業は、カルナックの第4ピュロンの前に建てられたピュロン型の石灰岩製の門の石材(後に解体されて、第3ピュロンの基礎部分に再利用された。現在野外博物館に復元展示されている。)、砂岩製の門のまぐさ、彫像の隠し場所だった中庭から発見された建築物の石材(ハトシェプストがトトメス2世の妻として示される)、第8ピュロンから発見された二体の巨像、カルナック北から発見された厨子の石材、デル・エル・バハリから発見された黒檀製の厨子から知られます。カルナック神殿からはどんなタイプか知られていない王の建築物が知られています。これはトトメス3世とハトシェプスト女王の共同統治期間中に完成されました。王、ハトシェプスト、ネフェルーラーの高浮彫りが施されています。この建築物も後に解体されて、第3ピュロンの基礎部分に再利用されました。王の名前はアルゴ、ブーヘン(南の神殿)、エル・キャブ、クンマ(クヌム神殿)、コプトス、セムナ(デドウェン神に奉納)、ナパタ、セラビート・エル・ハーディム、トード(二本のオベリスクの断片)でも発見されています。

王墓は碑文からは知られておらず、E. ホルヌンクが墓のタイプからKV42を王に割り当てました。王のミイラ(CG61066)はデル・エル・バハリの隠し場所(TT320)で発見されました。ミイラの年齢は20代後半です。葬祭神殿シェセペトアンフはメディネト・ハブの北に建設され、トトメス3世によって改築されました。しかし、ハトシェプスト女王の「赤い礼拝堂」にはこの葬祭神殿への言及はなく、未完成の墓、論争中の棺、墓の設備がないことから、女王は夫トトメス2世の治世を無視し、自分を父トトメス1世の直接の後継者と見なしたのかもしれません。あるいは女王の葬祭神殿は本来王の治世中に女王の指示でトトメス1世の葬祭礼拝の場所として建設され始めたのかもしれません。王の死後ハトシェプストはエレファンティネの神殿でセド祭のコートを着た王の二体の彫像を寄進しました。いずれにしても、ハトシェプストの王国への影響力がトトメス1世の治世から強かったことは否定できません。

王の治世の宰相はアアヘペルラーセネブとイアフメス、ヌビア総督はセニでした。

トトメス2世については、下記のURLもご覧下さい。

http://www.touregypt.net/featurestories/tuthmosis2.htm

http://ib205.tripod.com/tuthmosis_2_1.html

http://www.digitalegypt.ucl.ac.uk/chronology/thutmosisii.html

トトメス2世王墓については、下記のURLもご覧下さい。

http://touregypt.net/featurestories/kv42.htm  ただし、トトメス3世妃ハトシェプスト・メリトラーの墓とされる。

http://ib205.tripod.com/kv42.html

ちなみに、デル・エル・バハリのDB358は一般にはトトメス3世の長女かつアメンヘテプ2世の妻であるメリトアメンの墓とされているけれども、これがトトメス2世の墓であるという主張もあります。

第18王朝については、下記のURLもご覧下さい。

http://euler.slu.edu/~bart/egyptianhtml/kings%20and%20Queens/Dynasty18.html

1