古代エジプトの歴史        2007年8月26日  西 村 洋 子

15.  第17王朝(紀元前1,580〜1,550年頃)

年 表

第二中間期 第14王朝(アヴァリス) (?〜1,650年頃)
第15王朝(アヴァリス) (1,650〜1,550年頃) ヒクソス王朝
第16王朝(テーベ) (1,650〜1,580年頃)
第17王朝(テーベ) (1,580〜1,550年頃) ラーヘテプ・セヘムラーウアフハーウ

セベクエムサーエフ1世・セヘムラーシェドターウィ

インテフ6世・セヘムラーウプマート

インテフ7世・ネブーヘペルラー

インテフ8世・セヘムラーヘルーヘルマート

セベクエムサーエフ2世・セヘムラーウアジュハーウ

サーアメン(?)・セネヘトエンラー

ターアア・セケンエンラー

カーメス・ウアジュヘペルラー

主な史料

ラーヘテプ : コプトス出土の石碑(Petrie Museum 14327)。

セベクエムサーエフ1世 : ドゥラ・アブル・ナガで発見された個人の石碑(MMA25.3.329)と小礼拝堂(MMA25.3.330)。ルクソール〜ファルシュートの道沿いで発見されたインテフ7世の扉の側柱(メディネト・ハブの倉庫で保管されている)で、インテフ7世の父として言及される。ドゥラ・アブル・ナガにあるピラミッド型墓はアボット・パピルス、レオポルド・パピルス II、アムブラス・パピルス II 7で言及されている。 ※王妃ネブーハーエス2世はインテフ6世と7世の母。

インテフ6世 : 王の棺(Louvre E3019−インテフ7世からの奉献)、ピラミディオン(BM478)、カノプス壷の箱(Louvre N.491)。ドゥラ・アブル・ナガにあるピラミッド型墓はアボット・パピルスで言及されている。

インテフ7世 : ドゥラ・アブル・ナガにピラミッド型墓。王の棺(BM6652)、環状冠(Leiden Museum, AO.11a)、テクストのある亜麻布断片(BM10706)。王妃ソベクエムサーエフの装身具類(BM59699-59700)と印章指輪(BM57698)。アビュドスにいくつかの建築要素が見られる。コプトスで礼拝堂の石材と王の勅令(Cairo JE 30770 bis)が発見されている。  ※インテフ6世の兄弟。

インテフ8世 : 王の棺(Louvre E3020)。

セベクエムサーエフ2世 : アビュドス出土の彫像(CG386)、カノプス壷の箱(Leiden Museum, AH.216)、心臓スカラベ(BM7876)。ワーディー・ハンマーマートに5つの岩壁碑文。メダムードで多数の建築要素が発見されているため、第13王朝以来メダムードに配慮した最初の王である。アメン神に捧げた彫像(BM871)。カルナックのオベリスク(CG17011)。 ※王妃ネブーエムハト。

セネヘトエンラーについては、同時代史料はなく、ラムセス2世時代のデル・エル・メディーナの書記の供物卓と職工の墓壁画(テーベ2号墓、即位名はセヘネトエンラーと記されている)から証明される。ラムセス9世時代のアボット・パピルス(BM10221)では間違って二つの王墓がセケンエンラー・ターアア王の墓と記されている。リホルトはドゥラ・アブル・ナガ出土の2つの印章(Cairo JE 2224とCairo JE 2225)からサーアメンはセケンエンラーと同時代のセネヘトエンラー王の誕生名かもしれないと述べている。

[追記]2012年3月4日カルナック神殿でIFAOの調査隊がセネヘトエンラーのカルトゥーシュが彫られた門を発見し、ヒクソス時代のエジプト王セネヘトエンラーの存在を示す初めての史料となりました。またセネヘトエンラーの誕生名はイアフメスであることも明らかになりました。

セケンエンラー・ターアア : 王の棺(CG61001)、王妃イアフヘテプ1世の棺(CGC61006、デル・エル・バハリ出土)。王妃の谷47号墓出土の死者の書から被葬者サトジェフーティーはセケンエンラー・ターアア王の側妻であると推測される。サリエ・パピルスに記された物語『アポピとセケンエンラー』の主人公である。王墓はアボット・パピルスで言及されている。また、セケンエンラー・ターアア王の子供達は全員イアフメスという名前を持つことから、カーメスはセケンエンラー・ターアア王の息子ではなく、兄弟であるとされる。

カーメス : 王の棺(Cairo JE 4944)、王妃イアフヘテプ2世の棺(CG28501、ドゥラ・アブル・ナガ出土)、王妃の装身具類、斧、腕輪もカイロのエジプト博物館が所蔵。カルナックの石碑(Cairo 11/1/35/1とLuxor J.43)。ヌビアのブーヘンに治世3世の日付けを持つ石碑がある。ヌビアのアルミンナとトーシュカの岩壁碑文によれば、第18王朝初代イアフメス王はカーメス王の治世3年以降共同統治者だった。後世のカーナーヴォン・タブレット(Cairo JE 41790)はCairo 11/1/35/1の写本である。

※リホルトはイアフヘテプ1世をセケンエンラー王の妻、イアフヘテプ2世をカーメス王の妻とするが、王妃イアフヘテプ1世と2世が同一人物であるとする議論もあり。従来はカーメス王に妻はいないとされてきた。セネヘトエンラーの妻とされてきたテティシェリの本当の夫の名前は不明。

対ヒクソス戦争以前

テーベは下エジプトとの接触を断たれ、メンフィスの書記の学問の中心地への接近を拒絶されました。公文書のあるそのような中心地は破壊されず、ヒクソス時代に繁栄しさえしたかもしれませんが、テーベ人たちはそれらを調べることは出来ず、なくてはならない葬祭儀式に必要なテクストを新たに編纂する必要があったでしょう。私達が『死者の書』として知っている最初の呪文集の一つは第16王朝に年代付けられ、ジェフーティー王の妻、メンチュヘテプの棺から発見されました。情報源の乏しさに応じて、テーベの葬祭文化は他の方法でも発展しました。杉木材から作られた大きな四角い棺は、羽根の文様で、しかし、他のどれとも似ていない非常に粗雑で、風変わりな様式で彩色されたシカモア・イチジクの粗く形作られた人型棺(リシ・コフィン)に取って代わられました。この特徴はかつての葬祭美術の厳格な慣例の訓練の欠如をあらわにします。しかし、2〜3の棺はいくつかのテーベの工房では第18王朝まで中王国の棺制作の伝統が十分存続していたことを証明します。

第17王朝の王墓のうちの5つ、すなわちインテフ7世・ネブーヘペルラー、インテフ8世・セヘムラーヘルーヘルマート、セベクエムサーエフ2世、セケンエンラー・ターアア、カーメスの墓の所在地は、アボット・パピルスで述べられています。それは第20王朝におけるテーベ市長による墓泥棒の取り調べの記録を含みます。1923年にハーバート・ウィンロックはパピルスに記されたインスペクターの巡回日誌を使ってそれらの墓を再び突き止め始めます。彼はまた同年代の王の埋葬から多数の物品が1820年代と1859・60年における不法な発掘から売りに出された事実によって奮起させられました。第20王朝の泥棒達は彼らがどのようにしてソベクエムサーエフ2世の墓を発見したか述べています。これらの王たちと彼らの官僚達は王朝の終わりに墓の構造自体によりもむしろ副葬品に増大する富を消費しました。装飾墓は稀です。その代わり、時代の早い墓がしばしば奪われ、再利用されました。彼らの富はヌビアからもたらされました。

当時の増大する軍事的気風は「支配者の水夫達の指揮官」と「町の連隊の指揮官」のような軍事称号の人気によって例証されます。それらは王の周囲への軍事情報源の防衛的グループ化を示し、町の市民軍の重要性を確認します。第二中間期の残りの期間、不安定が上エジプトに特徴的なままでした。

アヴァリス(ヒクソス)とテーベ(エジプト)の戦争

戦争への道が開かれました。テーベの王たちは自分自身の領域を支配しました。カーメス王はブーヘンを取り戻し、金鉱山へのルートは彼に開かれました。ケルマのヌビア人たちは南方へ追い払われ、艦隊が用意されました。カーメス王は「余は奴に近づき、奴の腹を切り裂いてやる。余の望みは、エジプトを救い、アジア人たちを追い出すことだからだ。」と述べています。

カーメス王の碑文については、下記のURLをご覧下さい。

http://nefertiti.iwebland.com/kamose_inscription.htm

戦争に関する文字史料の大部分はテーベ側に由来し、それらはテーベ人をより強く、より好戦的な主人公として示します。イアフメス王の父、セケンエンラー・ターアア王はヒクソスと戦ったけれども、アヴァリスはイアフメス王の治世18年と22年の間まで奪取されなかったので、戦争は少なくとも30年間続いたに違いありません。アヴァリスの略奪後、イアフメス王はパレスティナに軍を進め、ガザの近くのシャルヘンでの3年間の攻城で絶頂に達する遠征をしました。通常シャルヘンはヒクソス王の最後の砦だったと仮定されますが、史料はその点に関して沈黙しています。戦争は継続して戦われず、遠征は短期間で、軍隊は現代の標準からすれば小規模でした。イバナの息子イアフメスは、エル・キャブの岩窟墓に埋葬された重要な将校ですが、アヴァリス周辺の戦闘で二人を殺し、もう一人を捕らえたと述べています。それは彼にとって王から報賞の金を受け取るのに十分重要なことでした。

最初の知られた戦闘はセケンエンラー・ターアア王の治世に起こりました。約350年後、第19王朝メルエンプタハ王の治世に書かれたパピルスは、セケンエンラー王とアペピ王との喧嘩の物語の断片を残しています。それはテーベのカバが吠えるのがうるさくて眠れないというアペピ王の苦情で始まります。セケンエンラー王は「南の都市の支配者」(ヘカーエヌニウトレシート)と記され、他方アペピ王はエジプト中から貢ぎ物を受け取っていたので王(ネスート)と呼ばれます。セケンエンラー王が顧問達を召喚した時、物語は断絶します。しかし、物語の構造は、カーメス王のテクストの構造と非常に似ているので、これが戦闘への発端であるかのように見えます。

私達はさらに、テーベの北40km、砂漠の端の処女地に建設された集落の遺跡、デル・エル・バラスからセケンエンラー王の治世における軍事活動の証拠を持っています。1900年に初めてジョージ・レイズナーによって発掘され、1980-6年にピーター・ラコヴァラによって検証された遺物の解釈は、ごまかしがないわけではないけれども、遺跡の最初の層の年代がセケンエンラー・ターアア王、カーメス王、イアフメス王の治世であることに疑いはありません。セケンエンラー王の治世中に巨大な周壁のある宮殿が建設されました。バラスに残っているすべての建築物と同様、それは泥れんが造りで、石灰岩の扉の枠と柱がありました。それは王の私邸があったと思われる中央の高くなった部分の周囲の長い通路と一連の広間からなっていました。壁には粗雑な様式で人々と武器の場面が描かれ、ファイアンス製タイルで装飾されていました。西方の囲い地には大きな動物の囲いがありました。囲い地の壁の向こうには大邸宅群、労働者達のための人工的に設計された小さな住宅群、食料加工のためのオープンエリア、織物工房が広く散在しました。最南端の、川を見下ろし、砂漠を囲む丘の上には、今は崩壊しているけれども、かつて記念碑的な階段によって達することが出来た建築物を支える高台がありました。

デル・エル・バラスの第17王朝の宮殿については、下記のURLをご覧下さい。

http://www.digitalegypt.ucl.ac.uk//naqada/ballastown.html

バラス出土の土器の中には大量のケルマ土器、特に料理用と食料貯蔵用のタイプがありました。疑いなく相当数のケルマのヌビア人がエジプト人と一緒にそこに住んでいたはずです。故意に遠く離れた場所に建てられたこの集落の目的が軍事的、おそらくケルマのヌビア人たちの大部隊を含む軍隊の入営させるつもりだったという結論をさけることは困難なように思われます。

セケンエンラー王のミイラの調査は彼が暴力によって死んだことを示します。彼の額には水平に斧の切り傷があります。頬骨は粉砕され、首の後ろには短剣で突き刺した跡があります。額の傷の形はテル・エル・ダヴァで発見されたのと同様な中期青銅器タイプの斧の使用とのみ一致すると論じられてきました。バラスの宮殿の壁に描かれたもののようなエジプトの斧は異なった形をしています。これはヒクソスに対する主な戦闘、すなわち王自身が容赦なく惨殺された戦闘が、セケンエンラー王の治世に起こったことを今まで最も明らかにする証拠です。短剣を突き刺した角度は、その一撃が加えられた時、王がすでに突っ伏して倒れていたことを示します。

カーメス王はセケンエンラー・ターアア王の跡を継ぎました。彼はしばしば王の息子で、イアフメス王の兄だったといわれます。しかし、私達は彼の両親が誰だったのかを知りませんし、彼の棺は王権の象徴ウラエウスをつけていません。カーメス王の治世3年だけがカルナック出土の戦勝碑とブーヘンからの碑文で証明されます。ブーヘン、次いでアヴァリスへの軍事遠征は治世三年にあるいはそれ以前に行われました。カーメス王は戦士で、「勇者カーメス」が彼の最も頻繁なエピセットの一つです。しかし、おそらく彼は治世3年のすぐ後に亡くなりました。しかし、彼の葬祭礼拝はセケンエンラー・ターアア王の葬祭礼拝と関連して、ラムセス時代まで存続し、少なくともカルナック戦勝碑の一つは彼の死後200年以上まだ立っていました。私達はアヴァリスへの軍事遠征を再現するために二つの「カーメス王ステラ」とテーベの墓の書板に発見されたほぼ同時代のコピーのテクストを使うことが出来ます。アヴァリスの最終的な破壊が20年以上後まで起こらなかったことと、カーメス王の敵がヒクソス王の中でもっとも強力で長命だったアアウセルラー・アペピ王だったとすれば、この軍事遠征は決定的と言うには程遠く、おそらく襲撃に過ぎませんでした。

カーメス王は最初、敵の駐屯軍の位置を偵察するためヌビア人のスパイを先に派遣して、軍隊と艦隊とともにテーベから北に移動しました。クサエの北、ネフェルシの略奪はありありと述べられています。「ライオンが獲物と一緒にいるように、余の軍隊は彼らの召使い達、彼らの牛、彼らのミルク、脂肪、蜂蜜と一緒で、喜んで彼らの所有物を分配していた。」 彼は北に留まり、サコ(エル・ケス)でアペピ王からクシュの王に派遣された使者を捕らえました。このことが彼に通信を断ち、「余の後ろに敵がいるのを妨げ」るために兵士達をバハリヤ・オアシスに派遣させました。カーメス王がアヴァリスに到着するまで記述には途切れがあります。彼は封鎖するために都市の周囲の水路に自分の艦隊を配置し、反撃を防ぐために土手を巡視しました。彼は宮女たちが「穴の中からトカゲ」のように城塞からエジプト人たちをじっと見ているのを述べています。それからアペピ王への伝説の得意げなスピーチ「見よ、余はお前のブドウ園のワインを飲んでいる。・・・余はお前の住居を掘り砕き、お前の樹々を切り倒している。」と彼が持ち去った略奪品のリストが続きます。豪語にもかかわらず、アヴァリスは攻撃されず、アペピ王が彼と交戦するのを拒否したことは明らかです。カーメス王ステラは王の幸せな帰還で終わります。「どの顔も晴れやかで、国土は裕福で、川岸は興奮し、テーベはお祭り騒ぎだった」。しかし、カーメス王の軍事遠征によってヒクソスにどれだけの損害が与えられたかを判断するのは難しいです。彼の功績はすべて彼の後継者イアフメス王によって繰り返されなければなりませんでした。テーベ朝による即座の追い討ちはありませんでした。イアフメス王の軍隊が再び北進し始めるまでに少なくとも11年ありました。この中休みはカーメス王と敵のアペピ王の両方が死んだからでした。彼らはそれぞれイアフメス王とハムディ王によって跡を継がれました。イアフメス王は即位時には少年で、王国はイアフヘテプ王太后によって一緒に維持されました。

戦争の最終段階は匿名の王の治世11年にありました。その王は時々イアフメス王に、時々ハムディ王と同一視されました。証拠はリンド数学パピルスの裏面の断片的なメモ書きからなります。表面はアペピ王の治世33年に、すなわち出来事がヒクソスの王達の治世年で日付けを与えられた地域で、コピーされました。パピルスの専門的な内容と高品質は、パピルスがメンフィスに由来することを暗示します。裏面にはいくつかのメモ書きがあります。「治世11年、夏第2月−ヘリオポリスに侵入された。氾濫季第1月−この南の君主はチャルーに乱入した。25日−チャルーに侵入されたという噂が聞かれた。」 チャルーはおそらくテル・エル・ハブアの要塞の遺跡と同定されることになるだろう。この著者の視点では、「南の君主」はイアフメス王と同定され、他方治世11年はハムディ王の治世年数です。ハムディ王の名前はトゥーリン・キャノンに治世年数なしで記されています。イアフメス王の戦略はヘリオポリスを奪取するためにメンフィスを迂回し、3カ月後、すなわち氾濫の水位が下がり始め、人々が再び戦車でナイル河谷を移動できる10月半ばに、テル・エル・ハブアを攻撃することになっていたように思われます。テル・エル・ハブアの攻撃はヒクソスがシナイ半島北部を横切ってパレスティナに退却するのを断つ効果がありました。その後アヴァリス襲撃が行われました。この軍事遠征の同時代史料は3つあります。イバナの息子イアフメスの自伝碑文、テル・エル・ダヴァからの物質的証拠、アビュドスにあるイアフメス王のピラミッド付属葬祭神殿からの戦闘場面を描写したレリーフの断片(1993年にスティーヴン・ハーヴィーによって発見)です。

シカゴ大学オリエンタル・インスティチュートのアビュドス・イアフメス・テティシェリ・プロジェクトについては、下記のURLをご覧下さい。

http://oi.uchicago.edu/pdf/02-03_Abydos.pdf

http://chronicle.uchicago.edu/031211/abydos.shtml

イバナの息子イアフメスの自伝碑文から、私達はこの軍事遠征を次のように再現することが出来ます。すなわち、イバナの息子イアフメスは艦隊を率いる「北方のもの」(おそらく王の船)に乗船する兵士達の一人でした。彼らはアヴァリスに到着し、戦闘後王はアヴァリスの攻囲を始めました。これが続いた後、軍隊は周辺地域を平定するために戦いました。イバナの息子イアフメスは「メンフィスに昇る」と名付けられた新しい船に配置され、水上で戦い、敵をひとり殺しました。彼はさらにニ度戦闘に従事しました。一度はおそらくアヴァリスで、ニ度目はアヴァリスの南方で戦いました。これらの小戦闘の後初めて彼は簡潔に報告します。「アヴァリスは略奪された。私はそこから戦利品を運んだ。一人の男性と三人の女性である。・・・陛下は彼らを私に奴隷として与えて下さった。」 私達はこの軍事遠征が攻囲から略奪までどれくらい続いたのか知りません。数年に及んだかもしれません。

イバナの息子イアフメスの自伝碑文については、下記のURLをご覧下さい。

http://www.touregypt.net/autobiographyofahmose.htm

ヨセフスはヒクソスがエルサレムの創建者だったと考えたので、彼の版のマネトー著『エジプト史』はヒクソスがイアフメスによってエジプトを追われた後の出来事の詳細な記述を含みます。アヴァリスの攻囲について彼はこう話します。「彼ら[ヒクソス]は彼らのすべての所有物と戦利品を守るため[アヴァリス]を高くて頑丈な壁で囲んだ。エジプト王は48万人の軍隊で要塞を封鎖しながら、攻囲によって彼らを降伏させようと試みた。ついに彼は攻囲をあきらめて、彼らが全員エジプトから立ち去るように条約を締結した。」 

出エジプトの年代については、下記のURLをご覧下さい。

http://www.bibleorigins.net/ExodusJosephusVSManetho.html

https://listhost.uchicago.edu/pipermail/ane/2004-May/013604.html

アヴァリス自体からの証拠はイアフメスの勝利後の殺戮よりもこの大群の出エジプトの光景を確認する傾向にあります。明白な文化の断絶は、主に新しい土器のレパートリーの出現のため、遺跡中でヒクソスの最後の層と第18王朝の最古の層との間で認識できます。同じ現象はメンフィスでも現れます。そこでの断絶の後、エジプト文化と中期青銅器時代の文化との混合した文化を持つ人々が継続して居住した証拠はありません。遺跡のいくつかの部分ではまったく人が住むことはありませんでした。他方、シリアの嵐の神の属性を保つセト神の礼拝は、新王国の間続き、拡大さえしました。最後のヒクソスの層は都市の最大の拡大と巨大な防御用要塞の建設を示します。これらはハムディ王の治世の初期に行われたかもしれません。しかし、それらは十分ではありませんでした。ヒクソスの敗北の理由はエリート戦士たちの理想がテーベの最後の襲撃の時までに現実に一致していなかったことを示す手がかりの中に見られるかもしれません。D/3層から出土した戦斧と短剣は合金でない銅でできていましたが、より早い層から出土した武器は、はるかに優れた刃を持つ武器を生み出す、錫を含んだ青銅でできていました。錫の供給の中断は敗北の理由から除外されることが示されてきました。説明はむしろ実用的使用からステイタスと誇示のためへという武器の機能の変化に求められます。対照的に、同時期の上エジプトの武器は青銅でできており、このことは至近距離での戦闘でテーベ朝を明らかに有利にしたでしょう。

一般にヒクソスが馬と戦車をエジプトに導入したと考えられています。というのは、中王国の間それらの存在の確かな証拠はありませんが、それらは第18王朝の始まりから存在します。今までテル・エル・ダヴァから戦車の証拠はありませんし、馬の骨が存在すると言う証拠は曖昧です。しかし、テル・エル・ハブアでは、第二中間期末のコンテクストで発見された完全な骨格が明確に馬と同定されてきました。カーメス王のテクストは敵の馬とカーメス王の略奪品の一部としてアヴァリスの戦車をひく馬達に言及しています。このことは上エジプトへの馬の導入を説明するかもしれません。戦車につながれた馬はアビュドスのイアフメス王のレリーフにも現れます。さらに戦車は単純な原型ではなく、トトメス2世の葬祭神殿に示されたものとまさに比較できます。

エジプトとクレタ島の関係

テル・エル・ダヴァの最古の第18王朝の層はこの比類なき遺跡のコンテクストでさえ異例のさまざまな発見をもたらしました。略奪の直後に、最後のヒクソス王の要塞と宮殿は計画的に破壊されました。イアフメス王はそれらを同様な要塞と宮殿に置き換えました。それらは現在基礎部分と、建築物が倒された時に生じたゴミの山の中から発見された壁画の断片からのみ復元することができます。壁画は様式、技術、モチーフにおいてクレタ島のミノア文化ですが、エーゲ文明の学者たちの間にはそれらがミノア人の絵師たちによって描かれたのか、あるいはエジプト人がそれらを真似たのかについて意見の一致がありません。何百という断片が発見されましたが、非常に保存状態が悪く、それらが十分に評価されるまでに保存と研究に何年もかかるでしょう。それにもかかわらず、テーベの墓の最初のクレタ人の描写よりも100年以上も早く、クノッソスの残存するフレスコ画よりも早いコンテクストでの壁画の存在は、エジプトとクレタの関係についての認識を根本から変えました。

壁画の出所である建築物の一つは王宮で、当時の唯一比較できる建築物はデル・エル・バラスの北の宮殿です。そこからのわずかに残っている壁画はまったく異なり、当時の墓壁画と似た単純な様式で描かれています。テル・エル・ダヴァのフレスコ画は、古王国の始まりにさかのぼるエジプトの壁画の伝統にまったく帰することが出来ないように思われます。クノッソスのフレスコ画との類推によって、それらは儀式的目的に役立つように制作され、クレタ島の支配者の礼拝への象徴的参照に満ちています。雄牛の上を跳ぶ人と曲芸師は、雄牛の頭部のモチーフと迷路のパターン(ラビリンス)と関連があり、完全にエーゲ世界に属します。フレスコ画の変化する縮尺、それらの主題、背景色はすべて装飾計画が極めて複雑で、一つの建築物にではなく、一連の建築物群に広がっていたことを示します。それほど複雑でなく、明らかにミノア様式の模倣であるその他のフレスコ画は、パレスティナのテル・カブリで発見されてきました。テル・エル・ダヴァの最も困惑する特徴の一つはそれらが孤立状態で現れるということです。クレタ島のカマレス土器が少量ありますが、それは第13王朝初めの層で現れます。その層とフレスコ画の層との間で工芸品あるいは建築物に連続性はありません。最も奇妙なことに、それらの出所である層に、フレスコ画自体と関連があるクレタ島の工芸品がありません。

フレスコ画の発見は、イアフメス王がクレタ島の王達の同盟者であり、クレタ島の王女を妻に娶ったかもしれないという、今まで退けられていた古い考えを復活させました。証拠はイアフメス王の斧のミノア様式のグリフィンと、王の母イアフヘテプが、当初ギリシャの島々に言及していると考えられ、最近この解釈はあり得ないと議論されてきた、「ハウネブートの女主人」の称号を持つという事実でした。それにもかかわらず、フレスコ画はミノア人たちが、絵師としてであろうとエジプト人絵師達を指導する監督としてであろうと、テル・エル・ダヴァに存在したことを証明します。

フレスコ画によって提起された疑問は必然的に別の問題、すなわちテラ(サントリーニ)島の火山噴火の年代に導きます。今まで発見された最も保存状態の良いフレスコ画は溶岩層の下に封印されたキュクラデス諸島のテラ島からのものです。噴火はエーゲ海と東地中海の年代順と絶対年代に関連する重要な出来事です。治世年で年代づけるためにエジプトの史料の出来事を同定する試みで多くの努力が費やされてきました。リンド・パピルスの嵐への言及と破滅的な大変動を記述するイアフメス王の石碑が議論の中で提出されてきました。しかし、今までで最も有効な証拠はテル・エル・ダヴァからもたらされます。分析によってテラ島に由来すると同定された軽石が、アメンヘテプ1世の治世からトトメス3世の治世の始まりまでの期間に年代づけられる集落の層で発見されてきました。しかし、軽石は原材料として使われていた工房で現れます。軽石はもっと早い年代の、例えば海岸から採取され、とにかく相当な時間そこにあったでしょうから、コンテクストは最後の期限しか提供してくれません。すべての軽石がテラ島に由来するわけではありません。サンプルの内少なくとも一つの起源は10万年以上前に起こったトルコでの火山噴火と同定されてきました。軽石が今までテル・エル・ダヴァの早い層で発見されてこなかったことと火山灰がまったく発見されてこなかったことは注目すべきです。例外的な大気の状態が時々歴史的出来事に結びつけられる氷の円筒形標本と樹木の年輪の記録からのデータを含む証拠の組み合わせを使って、テラ島の火山噴火は紀元前1628年に起こったと示唆されてきました。テル・エル・ダヴァからの証拠は伝統的な年代、イアフメス王の治世内の紀元前1530年頃を支持するものとして解釈されるでしょう。しかしさらにもっと多くの研究が科学データの解釈を明らかにするためになされる必要があります。疑問は当分未解決のままでなければなりません。

アヴァリス(=テル・エル・ダヴァ)のフレスコ画については、下記のURLをご覧下さい。

http://www.therafoundation.org/articles/art/minoanpaintingsinavarisegypt

テル・エル・ダヴァの第18王朝初めの層はイアフメス王と彼の後継者である数人の王たちの名前を記録しています。この時代ミノアのフレスコ画で装飾されたいくつかの記念建築物がテル・エル・ダヴァで使用されました。たしかにこの事実はエーゲ海との接触が増加していたことを示します。イアフメス王の母、イアフヘテプ1世の棺の中で発見された武器は、エジプトの物品に応用されたエーゲ海あるいは東地中海のモチーフと工芸技術を例証するので、デルタで賞讃された異国の要素がテーベでも高く評価されたように思われます。エジプトの小さな交易品がクレタ島でかなりの量で発見され、ギリシア本土ではそれよりも少ない量で発見されるけれども、第18王朝初めと同時代のエーゲ海の実際の物品はエジプトで立証するのがはるかに困難です。しかし、第18王朝初めにエジプトとクレタ島の間で直接の外交上の交換があったかどうかは不明なままです。イアフメス王と彼の直接の後継者たちはその代わりに東地中海の交換システムに参加し続けたかもしれません。事実がどうあれ、エーゲ海風の様式を創り出す独創力は、第18王朝初めより後、長続きしませんでした。最終的に伝統的なエジプトの図像学が優勢になりました。馬のフライング・ギャロップのような存続する少数の要素はすばやくもっとよく知られた図像学のコンテクストに適合させられました。

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