古代エジプトの歴史        2007年2月22日  西 村 洋 子

11.  第12王朝(紀元前1,985〜1,773年頃)(2)

年 表

中王国 第11王朝 (2,125〜1,985年頃)
第12王朝 (1,985〜1,773年頃) アメンエムハト1世・セヘテプイブラー

センウセレト1世・ヘペルカーラー

アメンエムハト2世・ネブーカーウラー

センウセレト2世・ハーヘペルラー

センウセレト3世・ハーカーウラー

アメンエムハト3世・ニーマートラー

アメンエムハト4世・マーヘルーラー

ソベクネフェルー・セベクカーラー

第13王朝 (1,773〜1,650年頃)

★アメンエムハト2世

ホルス名、二女神名 : ヘケンエムマート、黄金のホルス名 : マーヘルー、即位名 : ネブーカーウラー、誕生名 : アメンエムハト。

父はセンウセレト1世と仮定されています。ただし、このことはどこにも言及されていません。母は「王の母、王の妻、王の娘」ネフェルー。王の妻は知られていません。王のピラミッド構内に埋葬された三人の「王の娘」達、すなわちイター、イターウレト、ヒェネメトは王の治世に年代づけられるので、王の娘かもしれません。ただし、定かではありません。治世年数35年(3年間の共同統治を含む)。

王の治世に年代づけられる記念碑はわずかです。これは後世の略奪に一部原因があります。1974年にメンフィスで、王の治世に年代づけられ、王の治世初めの出来事を記録した巨大な石の断片(年代記)がいくつか発見されました。そのうち最大の断片はラムセス2世の巨像の足元の彫像の一部として再利用されていました。各項目には神々(ハーピ神、ソベク神、モント神、アメン神)と神殿への寄進が述べられています。ただし、寄進された物の量はそれほど多くありません。例えば、センウセレト1世の葬祭神殿に王の彫像、高官たちの彫像、その他のものが寄進されたことが述べられています。またアジア遠征が述べられています。この遠征でイウアイとイアシ(それぞれの町の位置は不明)が破壊され、1554人のアジア人捕虜がエジプトに連行されました。アジア人はアアムーと呼ばれています。貢ぎ物を運ぶ「アジアの支配者達の子供達」「クシュの支配者の子供達」「ウバトセペト」、遊牧民たちも言及されています。ただし、貢ぎ物の量は多くありません。ついでに網で水鳥の群れを捕まえる儀式が報告されています。この儀式は王が敵を討つことと関連づけられています。当時アジアとエジプトとの間に存在した平和は、エジプトとレバント諸都市との多数の条約によって選択されたものでした。ヘロドトス『歴史』第二巻106節の記述、すなわちアジア戦争と「セソストリス」がアジア人に対して取った侮蔑の態度はおそらく史実に近いでしょう。ベニ・ハサンの州長官クヌムヘテプの墓(第3号墓)にはアビシャという名前のベドウィンの長の訪問が描かれています。また多数のエジプトの小像とスカラベが近東の遺跡で発見されており、アジアとの結びつきを再確認します。ビブロスの港とは長い間通商関係があり、ビブロス王はヒエログリフで短い碑文を書き、エジプトの称号「世襲貴族、領主(イリーパト、ハティアー)」を持ち、エジプトの神々に言及し、エジプトの王像や個人の彫像を獲得しました。メンフィスの年代記によれば、北シリアの都市チュニプはエジプトの交易パートナーでした。また北シリアのカトナへは交易の贈り物として王女イターのスフィンクスが送られました。

メンフィスの年代記については、下記のURLをご覧下さい。

http://www.digitalegypt.ucl.ac.uk/ideology/king/kingrepertory.html

王のピラミッドはダハシュールに建設されました。なぜリシュトに建設しなかったのかは不明です。ピラミッドはひどく崩壊しており、少ししか発掘されておらず、ピラミッド本体の測量さえ正確に行われていません。ピラミッド複合体の平面図は古王国末のピラミッド複合体をコピーしています。王のピラミッドは東西に延びる巨大な長方形の壁(第3王朝ネチェリヒェト王の南北の周壁を思い出させる)に囲まれています。複合体の入口の隣で二つの巨大なピュロンのような建築物(第5王朝ニーウセルラー王のピラミッドのピュロンを思い出させる)が発見されましたが、その機能は不明です。ピラミッド本体の入口は北側にあり、ピラミッドの中央真下にある埋葬区画に通じています。ピラミッド複合体の中には王女と第13王朝の高官たちを二人ずつ埋葬した3つの回廊墓があります。これらはピラミッドの西側にあります。三人の「王の娘」達(イター、イターウレト、ヒェネメト)の墓とサトハトホルメリトの墓からは美しい装身具類が発見されました。第13王朝の国庫長アメンヘテプと同じく第13王朝の王妃ケミネブーの墓は荒らされていました。サーハトホルの石灰岩製のミニチュアの礼拝堂の碑文(BM569)には、ピラミッド建設において王の15体の彫像制作を監督したと述べられています。王のピラミッドについては「エジプトの世界遺産 メンフィス(3)」もご覧下さい。

王は少なくとも3回(治世2年、11年、24年)シナイ遠征をしました。また少なくとも1回ワーディー・エル・フーディーに遠征したことが下ヌビアのダボドで発見された石碑から知られています。ワーディー・ガスースでは王の治世28年に「関所の長官」ヒェンティヒェティウルに率いられたプント遠征隊の帰還を報告する石碑が発見されています。ベニ・ハサンの州長官アメンエムハトの自伝碑文はクシュ遠征に言及しています。ヘルモポリスには石灰岩の門の遺構があります。その碑文によれば、王は半分崩壊した神殿を完全に再建し、その前にその門が建てられました。王がヘリオポリスに特別な関心を持っていた証拠があります。一つはタニスで発見された巨大なスフィンクス像(Louvre A21)です。この像の本来の設置場所は不明です。またメンフィスの年代記には東部デルタとヘラクレオポリスで神殿建設が述べられています。メンフィスでは王名のあるまぐさ石が発見されました。この石材が本来どこから来たのかは不明です。トードでは4つの箱に入った銀製品の財宝(カイロ、エジプト博物館とルーヴル美術館所蔵)が発見されました。そのうち2つの箱には王名が記されています。銀製品は明らかに外国との接触を証明しています。それらはおそらくエーゲ海地域に由来します。「王の娘」ヒェネメトの装身具の中からもエーゲ海地域の製品と思われるものが発見されています。トードの財宝にはウル第3王朝の円筒印章や金製品も含まれています。

王名を記した個人の石碑はたくさんあります。治世初めの国庫長レフーエルジェルセンはリシュトに墓を築き、おそらくアビュドスに石碑を立てました。国庫長メリーカーウは東部砂漠で王の日付けのある石碑が発見されました。治世末の国庫長シエセは王のピラミッドに隣接する墓の中で発見された4つの彫刻された石灰岩の石板から知られています。シエセは主席家令から国庫長に昇進し、後に名誉称号として宰相の称号を与えられました。「関所の長官」ヒェンティヒェティウルも王のピラミッドに隣接する墓に埋葬されました。石碑に記された自伝碑文は王の治世の知られない側面を明らかにするのにしばしば役立ちます。

王は父センウセレト1世と3年間、後継者のセンウセレト2世と3年間共同統治しました。アスワンの岩壁碑文はセンウセレト2世との共同統治に言及しています。

アメンエムハト2世については、下記のURLもご覧下さい。

http://www.touregypt.net/featurestories/amenemhet2.htm

http://www.digitalegypt.ucl.ac.uk/chronology/amenemhatII.html

http://ib205.tripod.com/amenemhet_2.html

アメンエムハト2世のピラミッドについては、下記のURLもご覧下さい。

http://www.touregypt.net/featurestories/amenemhet2p.htm

http://egyptphoto.ncf.ca/pyramid%20of%20amememhet%20II.htm

★センウセレト2世

ホルス名 : セシェムーターウィ、二女神名 : セハーマート、黄金のホルス名 : ヘテプネチェルー、即位名 : ハーヘペルラー、誕生名 : センウセレト。従来ニ女神名はホルス名と同一でしたが、この王の治世から二女神名はホルス名とは異なる独自の名前を持つことになり、5つの王号が完成します。5つの王号はプトレマイオス時代の終わりまで王によって保有されました。

父はおそらくアメンエムハト2世です。しかしこのことはどこにもはっきりと述べられていません。母は不明。第一王妃はヒェネメトネフェルヘジェトウレト1世です。彼女の遺体はいくつかの装身具類とともに1995年にダハシュールのセンウセレト3世のピラミッド内で発見されました。彼女は王よりも長生きし、息子センウセレト3世の時代に重要な地位を占めたように思われます。彼女は「王の娘」の称号を持っていないので、王族出身ではないかもしれません。カイロのエジプト博物館にはネフェレトという王族の女性の一対の彫像(タニス出土、CG381-2)があります。彼女は「王の妻」の称号は持っていませんが、王妃が持つその他の称号群を持っています。彼女の彫像は等身大以上で、非常によく磨かれた閃緑岩で作られています。彼女は王が即位する前の王妃だったのか、あるいは王の妹だったのか、宮廷内での彼女の地位はどうだったのかについてはあいまいなままです。治世年数8年あるいは9年。王は父アメンエムハト2世と3年間共同統治をしましたが、息子のセンウセレト3世と共同統治をした証拠はありません。

王の治世に軍事遠征の記録はなく、西アジアとの交易が特に盛んな平和と繁栄の時代を迎えます。メギドではエル・ベルシェの州長官ジェフーティーヘテプの断片的な彫像がいくつか発見されています。ジェフーティーヘテプの墓(2号墓)に描かれた牛群はレチェヌーから輸入され、エジプトで放牧された牛群と思われます。ヌビアでもエジプトの活動は活発でした。ミルギッサでは王のカルトゥーシュがある物品が多数発見されています。トーシュカの閃緑岩採石場では王の日付け(治世8年あるいは9年)のある石碑が発見されています。アニバのナイル河の水位の記録は王の治世6年に記されました。クバーンの要塞では王のホルス名を持つ粘土の封印が発見されています。第一カタラクトの防御壁も王の治世に割り当てられています。

王の最大の業績はファイユーム灌漑計画の開始でした。堤防が築かれ、今日バール・ユーセフとして知られる水路とファイユームを結ぶ運河網が掘られました。運河網はモエリス湖に流れ込む水を吸収し、その結果湖周辺で次第に水が蒸発し、まとまった新しい土地を拡大しました。それらの土地は耕されました。これは非常に先見の明がある計画でした。王はファイユームの北東角の砂漠にカスル・エス・サガの彫像用礼拝堂を建立しました。ただし、無装飾で未完成なので、王の治世は短かったという印象を与えます。王の治世以降第12王朝の王たちはファイユームにピラミッド複合体を建設し、代々王宮も葬祭記念碑の近くに建設されたと仮定されているので、ファイユームの灌漑計画の重要性がうかがえます。

王の彫像群の容貌は精悍で、幅広い頬骨に特徴があり、実際の肖像を示していると思われます。この傾向はセンウセレト3世の治世にさらに顕著になりました。裕福な人々もこの傾向を真似、第12王朝末には多くの個性的で生き生きとした彫像が作られました。王の治世はエジプト美術史において肖像制作の主要な時期の一つとみなされます。王の彫像はカルナック(Cairo JE 43598)、メダムード、メンフィス(CG387、Copenhagen AEIN659)で発見されています。タニス出土の王の巨像(CG430、CG432、Berlin 7264)はラムセス2世によって奪われたものです。王は祖先の王たちやネチェリヒェト王(Berlin 7702)、ネブヘペトラー・メンチュヘテプ2世に彫像を捧げています。

王はピラミッド複合体をファイユーム近くのラフーンに建設しました。ピラミッド本体(高さ48m、底辺の長さ107m)は高さ12mの岩の核の上に建てられ、石灰岩の交差する壁が泥レンガの部分の支えとなっており、全体が石灰岩の化粧石でおおわれました。ピラミッド本体への入口は南に造られました。それはピラミッド本体の外側に、王族の女性たちのシャフト墓と並んで、造られました。王墓の北側に整列する8つのマスタバ墓は岩の中に穿たれたもので、埋葬室に通じるシャフトはなく、象徴的な墓でした。王のピラミッドの北側にある墓(621号墓)は王墓からのみ知られる様式で造られたいくつかの部屋、壁、石棺があり、王の空墓(セノタフ)ではないかと考えられています。従属ピラミッドにはシャフトも埋葬室もありません。ピラミッドの東側には葬祭神殿の遺構があり、ひどく損傷していますが、見事なレリーフの断片が発見されています。ピラミッド内の埋葬室は、通路によって囲まれて、島のようになっています。そのためオシリス神の墓をコピーしたように思われます。このことは、ピラミッド複合体の南端には樹木が植えられ、ピラミッド複合体全体が庭園のようになっていたことからも、推測されます。同じ頃人々がオシリス神と王権に関連があるものを副葬した証拠があります。王の埋葬室は発見された時すでに略奪されており、花崗岩製の石棺とアラバスター製の供物卓と黄金のウラエウスしか発見されませんでした。しかし、王もまたオシリス神と王権に関連があるあらゆる記章とともに埋葬されたことはありそうです。1914年に王のピラミッド構内の南端にあるシャフト墓から「王の娘」サトハトホルイウネトの装身具類と持ち物が発見されました。これらの作品はエジプトの装身具類全体の中でも最高の出来栄えです。河岸神殿の隣にはピラミッド都市が設計されました。この都市は王の治世だけではなく、第13王朝まで地域の中心地として機能したように思われます。この都市から発見されたパピルス文書は中王国の町の生活に関する主要な情報源となっています。

ラフーン・パピルス(カフーン・バピルス)については、下記のURLをご覧下さい。センウセレト3世への讃歌やアメンエムハト3世治世7年の祭礼に関する文書も含まれます。また、エジプト最古のシリウス星観測記録がセンウセレト3世治世7年に記されています。

http://www.digitalegypt.ucl.ac.uk/lahun/papyri.html

ラフーン(カフーン)のピラミッド都市については、下記のURLをご覧下さい。

http://www.kahun.man.ac.uk/intro.htm

ワーディー・ガスースで発見された王の治世1年の日付けのある石碑には「神の国に彼の記念碑を確立すること」と報告されています。ワーディー・ハンマーマートには王の治世2年の日付けとともに、ワーディー・エル・フーディー、シナイ半島にも採石隊の記録が残されています。

王の治世の高官達は少ししか知られていません。アメンエムハト2世〜センウセレト3世時代の州長官たちに、アスワンのサーレンプート2世・ネブーカーウラーネヘト(31号墓)、メイルのウフヘテプ3世(C1墓)、エル・ベルシェのジェフーティーヘテプ(2号墓)、ベニ・ハサンのクヌムヘテプ2世(3号墓)がいます。

センウセレト2世については、下記のURLもご覧下さい。

http://www.touregypt.net/featurestories/senusret2.htm

http://www.digitalegypt.ucl.ac.uk/chronology/senusretII.html

http://ib205.tripod.com/sesostris_2.html

センウセレト2世のピラミッドについては、下記のURLもご覧下さい。

http://www.touregypt.net/featurestories/senusret2p.htm

http://egyptphoto.ncf.ca/senwosret%20II.htm

★センウセレト3世

ホルス名 : ネチェリーへペルー、二女神名 : ネチェリーメスート、黄金のホルス名 : ヘペル、即位名 : ハーカーウラー、誕生名 : センウセレト。

おそらくセンウセレト2世とヒェネメトネフェルへジェトウレト1世の息子。第一王妃はヒェネメトネフェルへジェトウレト2世。その他の王妃たちとして、ラフーン・パピルス(P. Berlin 10003)からシェリト(ただし、ヒェネメトネフェルへジェトウレト2世と同一人物の可能性あり)とダハシュールの王のピラミッド内に埋葬されたネフェレトヘヌートが知られています。王の娘達はセネトセネブティシ、メネト、そしておそらくサトハトホルとメレレトが知られています。アメンエムハト3世は王の唯一の息子と思われます。

王の治世年数については、19年か39年かで議論されています。従来王の最高の治世年の証拠は治世19年でした。そのため王は治世19年に亡くなり、すぐにアメンエムハト3世が王位継承をしたと考えられてきました。しかし、つい最近王の治世はもっと長く、アメンエムハト3世と20年間共同統治をしたかもしれないことを示す日付けが発見されました。王がセド祭を祝ったことも知られています。一般にセド祭は治世30年に行われると言われていますが、王がもっと早い時期にセド祭を祝った可能性もあります。「倉庫の長官」イウネフェルの石碑(Rio de Janeiro 627(2419))は王の日付けを持ちますが、アメンエムハト3世が治世後半にピラミッドを建設したハワラに埋葬されました。王とアメンエムハト3世の共同統治が20年間続いたと仮定すれば、イウネフェルの墓と石碑が死後20年も経ってから造られたと考える必要はありません。従って長い共同統治期間があったと考える方が今までに知られているデータとうまく合致します。

王の治世に芸術、文化、人々の生活に大きな変化があり、中王国後半が始まります。王はギリシア語史料では偉大な征服者として現れ、後世の人々は王を古代エジプトで最も重要な王の一人とみなした証拠を提供してくれます。王はアレクサンダー大王の理想の王とみなされました。(ヘロドトスの『歴史』第二巻102・103節、110節、ディオドロス『歴史図書館』第一巻58節、アブデラのヘカタイオス参照。)

王はヌビア政策で最もよく知られています。数回ヌビア遠征が行われ、ヌビアの要塞群が王によって建設されるか、再建されました。中王国・新王国にヌビアでは王は地域の守護神として崇拝されました。ウロナルティに王の礼拝堂が建立されました。ブーヘンの南の神殿ではトトメス3世に生命を授ける神として現れます。セムナ/クンマでも同様です。

第一回ヌビア遠征は治世8年に行われたように思われます。セーヘル島の碑文によれば、王はヌビア人たちを投げ倒すために南進した後、ネフェルワーウトハーカーウラー「センウセレト3世の道はよい。」という名の運河を建設しました。運河の長さは150キュービット、幅50キュービット、深さ15キュービット(1キュービットは約52cm)で、国庫長センアンフが建設作業を指揮しました。王は恐らく第6王朝メルエンラー王によって建設された運河を再建したのだと考えられています。この運河は軍事用としてだけではなく交易用としても重要だったに違いありません。エレファンティネから出土した「上エジプトの偉大な十人のうちの一人」アメニの石碑(BM 852)には、この第一回ヌビア遠征に関連していると思われる記述があります。アメニはエレファンティネの要塞の門と屠殺場を造りました。セムナで発見された治世8年の石碑には、ヌビア人の北への通行をコントロールするために国境がセムナに置かれたことが報告されています。この証拠から王は治世8年にセムナまでヌビアを征服し、エジプトへ原料を運ぶために古王国に築かれた運河を再開したと考えられます。第二回ヌビア遠征は治世10年に行われました。アスワンとフィラエ島の間にある岩壁碑文によれば、王はさらに南のダルまで侵攻しましたが、このときは特に戦果はなかったように思われます。ダルには王の治世10年の氾濫水位の記録が残されています。治世16年に王はセムナとウロナルティの要塞に境界碑を建立しました。最後のヌビア遠征は治世19年に行われ、そのことは二つの個人の石碑とウロナルティの岩壁碑文(Khartoum 2683)で言及されています。サーサテトの石碑(ANOC1.9=Geneva D50、アメンエムハト3世の治世1年の日付けを持つ石碑=Louvre C5)には、王が治世19年にクシュ(南ヌビア)に進軍した時、国庫長イイヒェルネフェレトと一緒にアビュドスへ行き、オシリス・ヒェンティ・アメンティウ神の記念碑を造ったと述べられています。王のヌビア遠征の背後にある理由は不明ですが、王が第二カタラクトまで征服し、さらに南方へ侵攻したけれども、何の戦果も得られなかったように思われます。

セムナとウロナルティの国境地域は巨大な要塞群で包囲され、護衛たちが24時間体制で周辺の動向を見張っていました。このことはエジプトのヌビア支配が不安定だったことを強調しています。セムナ急送文書(セムナからテーベに送られた軍事書簡と会計簿の束、大英博物館所蔵)はこれらの要塞群がいかに密接に互いに連絡を取り合っていたかを示しています。要塞はそれぞれ異なった役割を果たしていました。ミルギッサのようないくつかの要塞は交易に従事し、アスクートのようないくつかの要塞は上ヌビアへの軍事遠征のための補給所であり、その他の要塞はパンとビールをヌビアの物品と交換することに従事しました。報告がそれぞれの要塞から宰相の下へ送られました。このようにして王はヌビアの国境地域と連絡を保っていました。

パレスティナ遠征の決定的証拠もあります。アビュドスで発見された将校フーソベクの石碑(Manchester 3306)は、王がセクメムのベドウィンたちを惨めなレチェヌーとともに打倒したと述べています。ダハシュールにある主席家令かつ宰相クヌムヘテプの墓の自伝碑文には、ビブロスへの使節派遣が言及されているように思われます。メダムードで発見された石材には、アジアの産物がハーカーウラー王の宮殿に贈られたと記されています。

この時代までにエジプトにいるアジア人(アアムー)は大勢だったように思われます。彼らは戦争捕虜としてエジプトに連れて来られた者、奴隷としてエジプトに売られてきた者、自ら移住してきた者などさまざまでした。エジプト人がアジア人に対して不寛容だったことはいわゆる呪詛テクストによって認められます。呪詛テクストは土器や小像に記されたアジア人の首長の名前や民族名のリストです。呪詛テクストが記された土器や小像を壊したり、土中に埋めることによってエジプトの敵を魔術的に破滅させることを意図していました。

王がアビュドスで建設事業を行ったことは、前述の国庫長イイヒェルネフェレトの石碑(ANOC1.1=Berlin 1204、アメンエムハト3世治世1年の日付けを持つ石碑=CG20140)から明らかです。また王はメダムード(セド祭を祝う王のレリーフ)、アルマント(モント神殿の石材)、トード、ルクソール(供物卓)、ヘラクレオポリス、ヒエラコンポリス(CG422の彫像)でも建設事業を行いました。王の彫像はカルナック(CG42011-3、Cairo JE38579、Louxor Museum J34)とデル・エル・バハリ(メンチュへテプ2世葬祭神殿のための勅令も発布)で発見されています。デルタではブバスティス、レオントポリス、カンティール、タニス、テル・ネベシェで建設事業の跡が見られます。ただし、王の場合すでに存在する神殿に彫像や碑文を追加したという印象があります。ワーディー・エル・フーディー(治世13年)、ワーディー・ハンマーマート(治世14年)、シナイ半島(シナイ碑文No. 81-2)、ハトヌーブ(碑文No. XIII)にも王の遠征隊の碑文が残っています。

王の廷臣たちは比較的よく知られています。宰相はソベクエムハト、ネビト、クヌムヘテプが知られています。国庫長はセーヘル島で運河を造ったセンアンフ、宰相に昇進する前のソベクエムハト、アビュドスで活躍したイイヒェルネフェレトです。

王の治世には根本的な行政改革が行われたと思われます。新しい称号が登場する一方で、その他の称号は消滅します。特に中流階級の再調整が行われました。建設事業の中心地はダハシュール、リシュト、ファイユーム(神殿の壁の石材、Berlin 15801-4)で、その他に重要な中心地はテーベとアビュドスです。埋葬品にも新しいタイプが登場します。木製の模型は消滅し、木棺の内側にはもはやコフィン・テクストは記されません。副葬品は型にはまったものから多様性に富んだものへと変化します。その中には日常使用された魔術の道具、例えば魔法の杖やファイアンス製のカバやその他の動物の像が含まれます。王の廷臣たちはオシリス神と同一視され、神のように埋葬されます。王の記章が墓の中の至る所に置かれ、ウラエウスで飾られた個人のミイラマスクも見られます。王の杖や武器が死者の隣に置かれます。民衆は、埋葬室に複数の死体が置かれる傾向にありましたが、以前と同様に埋葬されました。複数の埋葬は中王国初期には例外的でしたが、今やどの社会層でも一般的になりました。

センウセレト3世・アメンエムハト3世時代、王の肖像は理想化された若者から思慮深い表情を示した中年男性へと変化し、時々その表情は写実的で、厭世的と述べられます。個人の彫像は王像の原型に従いました。石碑の制作はセンウセレト1世とアメンエムハト2世時代に品質において頂点に達しましたが、センウセレト3世の時代にはアビュドスの礼拝堂に建立する石碑の大量生産が始まりました。中王国後半の多くの個人の石碑はかなり品質が劣ります。センウセレト3世・アメンエムハト3世の石棺は「宮殿の正面」で装飾されました。王墓で発見された土器は古王国に原型があります。ハワラのアメンエムハト3世のピラミッド複合体がサッカーラの階段ピラミッド複合体のコピーだった可能性はあります。地方では、州長官たちの大型の岩窟墓が消滅します。かつてその理由は王が中央政府にとって危険な地方支配者達の権力を排除したからであると仮定されてきました。しかし、墓の中の王の象徴は新しい葬祭信仰と結び付けられるべきであり、王の特権の奪取とは何の関係もありません。従って、大型の岩窟墓の消滅は国家の新しい行政組織と新しい葬祭信仰に関連があると思われます。

王のダハシュールの墓は高さ60mの泥レンガのピラミッドで、石灰岩でおおわれていました。ピラミッド構内に王妃たちと王女達のためのピラミッドが造られました。彼女達の実際の墓は地下の回廊にありました。ピラミッドの北側の4つのピラミッドのうち二つは王女メレレトとサトハトホルの墓で、大量の見事な装身具類が発見されました。南側の3つのピラミッドのうち西側のピラミッドから王の母ヒェネメトネフェルへジェトウレト1世の墓に通じる通路が延びています。南の神殿からはセド祭のレリーフが発見されています。ピラミッド本体の埋葬室は丸天井で、白い石膏を塗られた花崗岩で造られています。王の埋葬室も王の花崗岩製の石棺も使用されていないように思われます。しかしアビュドスの南端に造られた王の葬祭複合体は、地下の墓と葬祭神殿からなり、そこで2世紀以上も王のための礼拝が続けられました。アビュドスの墓が本当の埋葬場所だったと考える学者もいますが、残念ながらアビュドスの墓も略奪されており、何も発見されていません。それゆえ王の埋葬場所は不明です。ピラミッドの河岸神殿に相当する葬祭神殿は本来高品質のレリーフと彫像で装飾されたいましたが、保存状態がよくありません。神殿に隣接して造られた都市は第13王朝まで繁栄しました。ちなみに第1王朝ジェル王の墓がオシリス神の墓として改造されたのは王の治世でした。王のピラミッドについては「エジプトの世界遺産 メンフィス(3)」もご覧下さい。

アビュドスの墓に付属する葬祭神殿については、Joseph Wegner, The Mortuary Temple of Senwosret III at Abydos (Publications of the Pennsylvania-Yale Expedition to Egypt 8, Yale Egyptological Seminar 2007)をご覧下さい。ただし、2007年4月現在未刊です。

王のダハシュールの葬祭複合体で発見された6隻の船については、下記のURLをご覧下さい。

http://cairodahshur.imrd.org/

センウセレト3世については、下記のURLもご覧下さい。

http://www.touregypt.net/featurestories/senusret3.htm

http://www.digitalegypt.ucl.ac.uk/chronology/senusretIII.html

http://ib205.tripod.com/sesostris_3.html

センウセレト3世のピラミッドについては、下記のURLもご覧下さい。

http://www.touregypt.net/featurestories/senusret3p.htm

http://egyptphoto.ncf.ca/pyramid%20of%20senwosret%20III.htm

★アメンエムハト3世

ホルス名 : アアバーウ、二女神名 : イチーイワートターウィ、黄金のホルス名 : ウアフアンフ、即位名 : ニーマートラー、誕生名 : アメンエムハト。

父はおそらくセンウセレト3世。母は不明。王妃たちはアアトとヒェネメトネフェルへジェトで、二人とも王の治世の初めに亡くなり、ダハシュールの王のピラミッドに埋葬されました。後継者アメンエムハト4世の母ヘテプティもおそらくアメンエムハト3世の妻だったと思われます。王の娘ネフェループタハはカルトゥーシュで名前を囲まれた最初の王族の女性でした。さらに彼女はハワラの王のピラミッド内に埋葬場所を持つので、特別な地位にあったと仮定されます。ただし、彼女の本当の墓は1956年にハワラの王のピラミッドから約2km離れたところで発見されました。彼女は父よりも長生きしたため、すでに入口を閉じられたピラミッド内には埋葬されずに、別のところに墓を用意されたのかもしれません。治世年数46年(共同統治期間を含む)。

王はセンウセレト3世と20年間共同統治したと思われます。王の即位に関する重要な碑文はメディネト・エル・ファイユームで発見され、おそらくソベク神殿を装飾していました。碑文は断片的にしか残っていませんが、同じ文言のもっと長い碑文がデル・エル・バハリのハトシェプスート女王葬祭神殿内で発見されました。

王は即位するとすぐにダハシュールにピラミッドを建造し始めました。それは海抜33mのところにあり、最も低い位置に建設されたピラミッドのうちの一つでした。地盤は地下水によって弱められ、石材にひびが入ったので、王は治世15年ハワラに第二のピラミッドを建造し始めました。ダハシュールのピラミッドは泥レンガの核を持ち、その核は石の壁の枠組みを持たず、石灰岩の化粧石でおおわれました。ピラミディオンは現在カイロ博物館にあります(「ちょっとだけ碑文解読(1)-7」をご覧下さい)。ダハシュールのピラミッドは放棄されずに治世15年頃に完成され、王はハワラに埋葬されましたが、二人の王妃が埋葬されました。彼女たちの遺体はピラミッドの南西区画内の通路で発見されました。それらの通路には外から通じる入口がありました。そして王の埋葬室へ通じる通路とつながっていました。王妃アアトの石棺は、王の石棺と同じく、ネチェリヒェト王の階段ピラミッドの周壁を思い出させる装飾が施されていました。また二人の王妃の埋葬室にはそれぞれカーの礼拝堂があり、カノプス壷を収めた箱が置いてありました。これらの部屋は王族の女性たちの来世についての新しい信仰を表していると思われます。さらに、王の娘ネフェループタハの特別な地位と合わせて考えると、第12王朝末における王族の女性たちの地位の向上を示しているとも考えられます。ダハシュールのピラミッドには約100年後に第13王朝のホル王と王女ネブーヘテプティヒェレドゥも埋葬されました。彼らがアメンエムハト3世の子孫だったかどうかは不明です。ダハシュール王のピラミッドについては「エジプトの世界遺産 メンフィス(3)」もご覧下さい。

王のハワラのピラミッドはおそらくアンフアメンエムハト「アメンエムハトが生きますように。」という名前を持ち、建設作業はラフーンから組織されたことがラフーン・パピルスから推測されます。ハワラのピラミッドも泥レンガの核を持ち、石灰岩の化粧石でおおわれました。埋葬室の前室からは王の娘ネフェループタハの名前が記されたアラバスター製の供物卓やガチョウの形の容器が発見されました。しかし、彼女の本当の墓が別のところにあったことは前述の通りです。王のピラミッド複合体、特に神殿は、部屋と通路の複雑さからギリシア人作家たちに「ラビリンス」と呼ばれました。神殿の平面図はいまだに不明です。ワーディー・ハンマーマートにはアンフアメンエムハトのために硬砂岩を採石しに来た「石工たちの隊長」センウセレトのグラフィートが残されています。(ヘロドトスの『歴史』第二巻148-9章、ストラボン『地理書』第17巻1章3, 37, 42節、プリニウス『博物誌』第36巻13節参照)。ファイユームにはいくつかの神殿とビアフムに湖に面して立つ二体の珪岩製の王の巨像(高さ18m)もあるので、王はファイユームの開墾を完成させたと思われます。王はクロコディロポリスにソベク神殿を建設しました。これらは王の新しい耕地への関心の高さを示しています。

ラビリンスについては、下記のURLをご覧下さい。

http://www.casa.ucl.ac.uk/digital_egypt/hawara/

王の建設事業はそんなに多くありませんでした。シナイ半島セラビート・エル・ハーディムにハトホル神殿のために礼拝堂を建て、アメンエムハト4世が完成させました。エレファンティネではインテフ3世によって設置され、銘文を記されたまぐさに自分の名前と治世34年という日付けを追記しました。またエレファンティネで発見された治世44年の日付けがある石碑の断片は奉献碑文の冒頭部と思われます。ほとんど同じ石碑がエル・キャブで発見され、センウセレト2世の壁に増築したことを述べています。ブバスティスでは王によって建設された宮殿が、王名を記されたレリーフや王がセド祭を行っているレリーフとともに、発見されました。王名のある石材はリシュト(セド祭の礼拝堂)、メンフィス(プタハ神殿のまぐさ)、ヘラクレオポリスで発見されています。テーベではプトレマイオス時代のカシェット(隠し場所)から王の彫像やアメンエムハト3世と4世の名前がある聖船の台座が発見されました。王の最もよく保存されている神殿はファイユームのメディネト・マアディに今も建っています。それは王の治世の終わり頃に建てられ、レリーフ装飾はアメンエムハト4世によって完成されました。それは後方に3つの礼拝堂がある小神殿です。ヌビアのクバーンにはアメン神とウプワウト神のための神殿を建設しました。

王の彫像は独創性と出来栄えで卓越しています。たとえば、ケンブリッジ大学フィッツウィリアム博物館所蔵の王の頭部(Fitzwilliam E.2.1946)、タニスで再利用されていたスフィンクス(CG394)と礼拝堂の一部、ナイル川のハーピ神の姿をして魚、ガチョウ、ロータスの花を捧げる二体の閃緑岩製の群像(CG392)が有名です。

ワーディー・ハンマーマートにはピラミッド複合体建設作業と結びつく4回の遠征(治世2年、3年、19年、20年)の59のグラフィーティが残されています。ワーディー・エル・フーディーでは3回の遠征が、シナイ半島のトルコ石鉱山では25回の遠征が、アイン・スフナ(スエズ運河南約40km)では治世2年の日付けのある碑文が証明されています。いくつかの遠征隊はアイン・スフナから海路でシナイ半島に出発しました。トゥーラ、アスワン、ヌビアのさまざまな採石場でも活動が行われました。

ヌビアのクンマとセムナの要塞では王の時代にナイル川の水位の記録が始まりました。この慣習は第13王朝まで続きました。全部で17の記録が残っています。残念ながら記録は毎年つけられておらず、中王国後半の年代学の完璧な史料とはなりえません。しかし、エジプトの食料供給が不安定だったことをよく示しています。治世30年には最高水位は5.1mに達しましたが、治世40年にはたったの0.5mでした。ファイユームの灌漑にはナイル川の水を引き込むことが必要でした。王がナイル川の水位に大きな関心を寄せたのはそのせいだったかもしれません。後世の人々は王をファイユームの守護神ラマレスとして崇拝しました。

ヌビアでの軍事活動はほとんどありませんでした。治世9年のサーモントという人物がクンマに残した碑文が小規模な遠征に言及しています。ケルマで発見された石碑(Boston MFA 13.3967/20.1222)は「アメンエムハト、声正しき者の壁」の建設作業に言及しています。この石碑には王の治世33年の日付けがあります。ただし、ケルマは中王国にはエジプトの支配下になかったので、エジプト支配下の領域からケルマに運ばれたと思われます。ダハシュールで発見された胸飾りはメンティウ(アジアのベドウィン)とセティウ(アジア人)を討つ王が表現されていますが、王のアジア遠征は知られておらず、王権のイデオロギーを示したものと思われます。ビブロスの王アビシェムーとその息子の墓からはアメンエムハト3世の名前が記された黒曜石の容器が発見されています。それらはエジプト王からの贈り物でした。

治世30年に王はセド祭を祝いました。大英博物館所蔵のネブプーセンウセレトの石碑(BM101)では、ネブプーセンウセレトがセド祭で儀式用の容器を運ぶ役目を果たしたと誇らし気に語っています。

王の廷臣として、宰相ヒェティとアメニ、国庫長イイヒェルネフェレトとアメニが知られています。国庫長アメニの巨大な石棺はタニスの第三中間期の遺構から発見されましたが、ハワラの共同墓地から運び出されて再利用されたことはありえます。

王の治世に中王国は最盛期を迎えますが、厳しい労働から逃れるために農夫達が大量に逃走し、連れ戻されて奴隷になった事件がブルックリン・パピルス35.1446から知られています。これは旧約聖書のヨセフ物語の原型となっています。1896年にラムセウムで発見され、『シヌヘ物語』と『雄弁な農夫』の写本、セムナ急送文書、オストラコン、センウセレト1世の彫像のための演劇のテクスト、多数の儀式テクストを含むラメセウム・パピルスは王の治世に年代付けられています。

ラメセウム・パピルスについては、下記のURLをご覧下さい。

http://www.digitalegypt.ucl.ac.uk/writing/library/mk.html

アメンエムハト3世については、下記のURLもご覧下さい。

http://www.touregypt.net/featurestories/amenemhet3.htm

http://www.digitalegypt.ucl.ac.uk/chronology/amenemhatIII.html

http://ib205.tripod.com/amenemhet_3.html

ダハシュールのピラミッドについては、下記のURLもご覧下さい。

http://www.touregypt.net/featurestories/amenemhet3p.htm

http://egyptphoto.ncf.ca/pyramid%20of%20amememhet%20III.htm

ハワラのピラミッドについては、下記のURLもご覧下さい。

http://www.touregypt.net/featurestories/amenemhet3hp.htm

http://egyptphoto.ncf.ca/amenemhet%20III%20hawara.htm

★アメンエムハト4世

ホルス名 : ヘペルヘペルー、二女神名 : セハーブターウィ、黄金のホルス名 : セヘムネチェルー、即位名 : マアーヘルーラー、誕生名 : アメンエムハト。

母は「王の母」ヘテプティ。ファイユームのメディネト・マアディにあるレネヌーテト女神の神殿の壁画に描かれています。父はおそらくアメンエムハト3世。しかし、どこにもそのような記述は見られません。神殿の碑文でヘテプティは「王の妻」とは呼ばれていません。王はアメンエムハト3世と短期間共同統治をしたように思われます。というのは、いくつかの記念碑で両王の名前が言及されているからです。両王の名前を記した個人の石碑もいくつかあります。ただし、期間は不明です。ソベクネフェルー女王との共同統治は証明されていません。治世年数9年。

埋葬地は不明。シナイ半島には4回遠征隊が派遣され、王の治世9年の日付けの碑文が残されてます。ワーディー・エル・フーディーには治世2年に遠征隊が派遣されました。ヌビアのセムナでは王の時代のナイル川の水位の記録が発見されています。ヌビアのセッラでは印章刻印が発見されています。王の名前を単独で記した個人の石碑もいくつかあります。個人の石碑に王名を記す習慣は第13王朝には稀になります。従ってこの習慣は強力な支配のしるしと思われます。デルタのアブキール、ヘリオポリス、レバノンのベイルートから王のスフィンクス像が発見されています。ビブロスでは小さくて見事に彫刻された黒曜石と黄金からなる櫃が王名入りで発見されました。テーベのある墓では象牙を象眼された小さな箱が発掘されました。これら以外には王の記念碑はありません。アメンエムハト3世が始めた建設事業をシナイ半島のセラビート・エル・ハーディム(ハトホル女神礼拝堂)やファイユームのメディネト・マアディ(クロコディロポリスのソベク神とレネヌーテト女神の神殿)で完成させました。しかし、王の時代はアメンエムハト3世の時代と比べて大きな変化はないので、これから考古学調査によって王の建設事業の痕跡が発見されるかもしれません。

アメンエムハト4世については、下記のURLもご覧下さい。

http://www.digitalegypt.ucl.ac.uk/chronology/amenemhatIV.html

★ソベクネフェルー女王

ホルス名 : メリトラー、二女神名 : サトセヘム・ネベトターウィ、黄金のホルス名 : ジェデトハーウ、即位名 : カーセベクラー、誕生名 : ネフェルーセベク。

第12王朝最後の王にして同時代史料から証明されるエジプトを支配した最初の女王。おそらくアメンエムハト3世の娘で、アメンエムハト4世の姉妹。治世年数4年(トゥーリン・キャノンによれば、治世3年10カ月24日)。

ハワラのラビリンスではアメンエムハト3世と女王の名前を一緒に記した碑文が発見されており、女王がアメンエムハト3世の葬祭複合体を完成させた可能性はあります。どこに記された碑文かは分かりませんが、二人の名前が記された碑文(Berlin Inv. No.38/66)がベルリン博物館にあります。ヘラクレオポリスからは二人の名前が記された軒縁が発見されています。ローマ時代にラビリンスが解体され、その石材がヘラクレオポリスで再利用された可能性はあります。二つの王名が記念碑に記されるのはしばしば共同統治の証拠とみなされますが、彼女の場合は父アメンエムハト3世との関係を示すことで治世の安定を図ったのかもしれません。本来どこにあったのかはわかりませんが、アメンエムハト3世と女王のホルス名が向かい合っている柱の碑文もあります。セレフの上のハヤブサは女王のハヤブサの口に生命と統治権を授けています。

テル・エル・ダバからは女王の名前があるけれども頭部のない彫像が3体発見されました。奉献碑文で「ソベク、シェデティ」が言及されているので、これらの彫像は本来メディネト・エル・ファイユーム(古代エジプト名 : シェディト)に立てられたのかもしれません。三体の内二体は座像で、残り一体はひざまづいています。テル・エル・ダバからは女王のスフィンクスも発見されていますが、水にひどく侵食されています。ルーヴル美術館にはネメス頭巾と女性の衣服を着用している女王の彫像(E. 27135)があります。大英博物館には女王の名前と称号を記した円筒印章(BM2639)があります。メトロポリタン美術館にはセド祭のマントと見られない冠を着用した女王の小像があります。ヌビアのクンマには女王の治世3年のナイル川の水位の記録(高さ1.83m)が残されています。女王は、後のハトシェプスト女王とは違って、常に女性として示され、称号は女性形で記され、彫像では王のアトリビュートを身につけた女性として表現されます。

女王の埋葬地は不明ですが、ハワラかダハシュールにありそうに思えます。ハラガで発見されたパピルスに言及された地名セヘムセベクネフェルーは女王のピラミッド名である可能性があります。

王朝の最後については不明ですが、女王の治世はまったく異常がなかったように思われます。

ソベクネフェルー女王については、下記のURLもご覧下さい。

http://www.touregypt.net/featurestories/firstqueen.htm

http://www.digitalegypt.ucl.ac.uk/chronology/sobeknofru.html

http://ib205.tripod.com/12th_dynasty_end.html

ラフーンの都市生活

一般の人々の生活については、ラフーンのセンウセレト2世のピラミッド複合体のそばのヘテプセンウセレトの町から知ることができます。1888-9年にラフーンを発掘したフリンダース・ピートリーのよって間違って「カフーン」と名付けられ、センウセレト2世の葬祭礼拝と密接に関連づけられました。ヘテプセンウセレトは、新王国のアマルナやデル・エル・メディーナのもっと小さな壁に囲まれた村と同様、単純な建築平面図で設計され、王の労働者達とその家族を住まわせるために建設されました。しかし、その住民の中には葬祭礼拝と関係がない多数の人々も含まれたことはありそうです。町中の穀倉の収容力に基づいて、最高5,000人の住民が扶養されたと見積もられてきました。しかし、現在の遺跡は周囲の砂漠とほとんど見分けがつきません。というのは、泥レンガはほとんどまったく取り去られ、建築物の基礎部分と下層部分しか残っていないからです。

ラフーンからの資料は、墓地よりもむしろ生者の世界に由来するので、特に貴重です。それはもっと広い地理的・社会的コンテクストで物事を見ることを可能にします。残念ながら、第13王朝に放棄された時、ラフーンに残された資料の大部分は、中王国後の住民達によって巨大なごみ捨て場に放り込まれました。このようにしてかなりの資料の貴重なコンテクストが遺跡発掘以前に破壊されました。それにもかかわらず、いくつかの住居が比較的無傷で残り、テクストに記録されることのない個人の生活への一瞥を提供してくれます。ピートリーの発掘の間パーシー・ニューベリーの種子の収集のおかげで、その区域の植生を再現することが可能であると分かりました。ポピー、ルピナス、モクセイソウ、ジャスミン、ヘリオトロープ、アイリスのような草花とエンドウ豆、インゲン豆、ハツカダイコン、キュウリを含む野菜がありました。

ラフーンからの資料は、火をつけるための「薪」、最古の泥レンガの鋳型、医療器具のセット、農夫や職工達によって使われたその他の道具類のような興味をそそる発見物も含みます。またバラエティー豊かな土器、宗教と日常生活の多くの領域を解明する内容の大量のパピルス(一部未出版)もありました。ラフーンからの最も興味深いテクストには、いわゆる婦人科学のパピルスがあります。それは、その名前が示すように、女性の病気の処方ついての最古の残存する集成です。

外国との交易

中王国のエジプトとエーゲ海地域との交易は、明らかにミノア・タイプを模倣した地域のエジプトの土器の断片と小箱の蓋と同様、ラフーンの町の第12王朝の時期にあたるミノア式土器のわずかな破片によって示されます。しかし、これらの破片はゴミ捨て場で発見されたので、それらの年代や本来の層位学上のコンテクストについては確かではありません。奇妙なことに、町の住民の中にクレタ島出身の労働者がいたことを示しさえする、労働者達によって使われたごくありふれた土器があったように思われます。第12王朝には、ラフーン、エル・ハラガ、アビュドス、南はエレファンティネの第12王朝の墓のような遺跡で、ミノア文化の「カマレス土器」の破片のゴミ捨て場もあります。この時代からの多数の物品も、地中海の芸術上・図像学上の交換ネットワークの存在を明らかにします。エジプトのモチーフはクレタ島の神殿に捧げられた粘土製のスカラベ型奉納物と同じくらい広範囲の物品に見られます。エジプトの石製容器はクレタ島に進出し、その様式はクレタ島の職工達によって模倣されました。エジプト様式と図像のそのような地域的模倣はしばしば年代不明のコンテクストに由来しますが、それらは物資や製品と同様アイデアの交換に至る頻繁な接触を示すので、重要です。

ラフーンとリシュトでは、おそらくかつて西アジアの油を容れた壷からなる特徴的なテル・エル・ヤフディエの初期の例もあります。エジプトの王たちは活発にシリア・パレスティナからの木材、油、ワイン、銀、そしておそらく象牙の輸入を促進しました。キプロスとミノアの土器は両方ともエジプトの他の時たまの発見物からも証明されます。スカラベ、彫像、壷、装身具類、そしてスフィンクスのようなエジプト品は、ビブロス、ラス・シャムラ、クレタ島と同じくらい遠くの遺跡で発見されてきました。シリア経由でさらにキプロスやバビロンと接触が行われました。しかしこの資料は正確に年代づけられるコンテクストにほとんど由来しません。

西アジアとの増大する接触はアジアの分銅がラフーンでエジプトのものより数で勝っているという事実によって示されます。さらに、中王国の最も豊かな発見物の一つはトードのモント神殿の下で4つの青銅の箱に入って発見されたおそらくミノアの金・銀製品のコレクションです。逆に、ピエール・モンテはビブロスで壷の中に埋められた1,000品目のエジプトの品々の宝庫を発見しました。これらにはラフーンの墓地にある第12王朝の王女達の墓から発見された宝物と極めてよく似た装身具類が含まれていました。第13王朝のネフェルヘテプ1世とその他のエジプトの支配者達は、ビブロスの王たちによって大君主と認められました。彼らはエジプトの記章と称号をコピーしただけではなく、エジプトのヒエログリフの碑文をも模倣しました。

エジプトの南方地域との強力な接触もあります。ヌビアでの活動は別にして、中王国の支配者達の多くは、特にメンチュヘテプ3世とセンウセレト1世は(おそらく現代のエリトリア近辺のどこかにあった)プントとの交易を維持しました。第12王朝の紅海沿岸のワーディー・ガワーシスの東端(現代のクセイルの少し北)でサワーウの港が発見されました。ワーディーに沿って、また港自体で発見されたいくつかの石碑は第12王朝のプント旅行の記録を提供してくれます。

メルサ・ガワーシスで発見された中王国の港と船については、下記のURLをご覧下さい。

http://projects.imrd.org/wadigawasis.htm

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