古代エジプトの歴史        2007年2月13日  西 村 洋 子

10.  第12王朝(紀元前1,985〜1,773年頃)(1)

年 表

中王国 第11王朝 (2,125〜1,985年頃)
第12王朝 (1,985〜1,773年頃) アメンエムハト1世・セヘテプイブラー

センウセレト1世・ヘペルカーラー

アメンエムハト2世・ネブーカーウラー

センウセレト2世・ハーヘペルラー

センウセレト3世・ハーカーウラー

アメンエムハト3世・ニーマートラー

アメンエムハト4世・マーヘルーラー

ソベクネフェルー・セベクカーラ

第13王朝 (1,773〜1,650年頃)

年代学上の問題

中王国の歴史の理解において最大の問題の一つが第12王朝の諸王の「共同統治」の問題です。何人かの王たちは自分の後継者達と王座を共有したのでしょうか? 討論において極めて重要な要素はいわゆる二重日付けの石碑で、テクストは二人の連続する王たちの名前とそれぞれの王の異なる日付けを含みます。これらの石碑は、記録が二つの王たちによる権力の共有を表すのか、あるいは単に石碑の所有者が二人の王のそれぞれの治世に官職を保有した年数を表すのかという問題に関して、学者達を二分させてきました。

第12王朝の標準的な年代は日付けのある記念碑的な記録の徹底的な研究に照らして何年もかけて作り直されてきました。この新しい研究のうちいくつかは断片的なトゥーリン・キャノンとマネトーの要約によって示されてきた治世よりももっともっと短い治世を明らかにしました。最も議論されている治世はセンウセレト2世と3世の治世で、学者達によって提案された年代学の間には大幅な不一致があります。センウセレト3世の記念碑に石工たちによって彫られたヒエラティックのマークの発見はさらにこれらの年代学に混乱をもたらし、第12王朝の年代決定の問題はまだ絶えまない変化の状態にあります。例えば、J. ヴェグナーはセンウセレト3世の39年の治世を示す非常に強力な証拠を提供しました。このことは大部分の現代の年代学よりもこの王によってもっともっと長い治世に賛成の議論をするでしょう。またセンウセレト2世の治世が修正された年代学よりも長い19年間続いたことはもっとありそうだと推測する理由もあります。しかしこれらの拡張された治世を何人かの学者達によって提案された絶対年代の中に合わせるのはいくらか困難があります。もっと長い第12王朝の証拠は二重日付の記念碑に基づいた共同統治理論にうまく合うでしょう。しかし、アメンエムハト1世とセンウセレト1世、センウセレト1世とアメンエムハト2世、センウセレト3世とアメンエムハト3世のような各共同統治に異議を唱えようとする多数の学者達によって説得力のある議論も押し進められてきました。

最も早くて新王国末期までエジプト史にはまだ本当の「絶対年代」は確立されていないので、ファラオ時代全体の年代学に修正の余地があります。テル・エル・ダバから出現した新しい考古学資料は中王国の年代学におけるいくつかの問題を解決する手助けをしてくれるかもしれません。

★アメンエムハト1世

ホルス名 : セヘテプイブターウィ、二女神名 : セヘテプイブターウィ、黄金のホルス名 : セマービクネブー、即位名 : セヘテプイブラー、誕生名 : アメンエムハト。治世7年以降ホルス名、二女神名、黄金のホルス名をウヘムメスートに変更。

リシュトの王のピラミッド複合体で発見された供物卓に「王の母ネフェレト」と呼ばれる女性が登場。『ネフェルティの予言』によれば、アメニと呼ばれる王の母は「ターセティ(上エジプト第1州)」の出身。王の父は後の史料によれば「神の父センウセレト」。称号「神の父」は王の父であることを示し、官職称号ではありません。従って両親は王族ではありません。王と第11王朝最後の王メンチュヘテプ4世との関係は不明ですが、リシュトで二人の王の名前が彫られた土器の断片が発見されているので、少なくとも王がメンチュヘテプ4世に敬意を表していたことは明らかです。治世年数30年。

ワーディー・ハンマーマートのメンチュヘテプ4世の碑文で言及された宰相アメンエムハトが第12王朝初代の王アメンエムハト1世であると言われてきましたが、決定的証拠は欠けています。『ネフェルティの予言』『シヌヘ物語』『アメンエムハト1世から息子のセンウセレト1世のための教訓』は王の治世の出来事を語っていますが、直接的証拠か間接的証拠か断言できません。王の治世初期の記念碑は少なく、その年代の高官達の墓もほとんど失われているので、王の治世初期の出来事はかなり不明です。王の新しいホルス名ウヘムメスートは新しい時代の創始者という観念を表現し、『ネフェルティの予言』でもアメニすなわちアメンエムハト1世の登場が祝福されています。

王のピラミッド複合体があるリシュトの近くに新しい王都イチーターウィアメンエムハトを建設。しかし遷都の時期は不明で、王が長い間テーベに住んだ可能性もあります。遷都が治世末だった証拠があります。当初王はメンフィスに遷都するつもりだったかもしれません。なぜならサッカーラで王の高官達の墓が多数発見されているからです。しかし、最終的に非常に肥沃で、広大な農地が得られるかもしれないファイユームに近いリシュトを選びました。ファイユームは大きな湖で、メンフィスの南南西の砂漠とつながっています。リシュトに遷都したもう一つの理由は、リシュトが上エジプトと下エジプトの境界にあることかもしれません。リシュトはちょうど国の真ん中に位置しています。新しい王都についてはほとんど知られていません。王都の名前はヒエログリフでは四角い壁で囲まれており、人口の密集した都市というよりは本来城塞だったかもしれません。王のピラミッドの周囲では第13王朝の集落址が発見されています。イチーターウィと結び付けられた守護神はいません。王の葬祭神殿の基礎部分からはアメンエムハト1世とセンウセレト1世の両名に言及する石材がいくつか発見されています。葬祭神殿の遺構からはセンウセレト1世の名前が一度以上現れます。また王名への言及はないけれども「治世1世」と記された碑文も発見されています。従って王のピラミッド建設は両王の共同統治が始まった時、すなわちアメンエムハト1世の治世20年かつセンウセレト1世の治世1年に始まったように思われます。新しい王都が建設されたのもこのときかもしれません。さらに王都イチーターウィの名前はアメンエムハト1世の治世30年かつセンウセレト1世の治世10年の日付けを持つ個人の供養碑(カイロ博、CG20516)に初めて現れます。

王はヌビア、リビア、アジアに対して軍事遠征を行いました。下ヌビアのアブ・ハンダル(コロスコの近く)にあるいくつかの岩壁碑文は下ヌビアに対する軍事遠征(治世29年)を証明しています。またセムナとクバーンの前哨地に要塞が建設されました。これらの要塞の目的はワーディー・アラーキーの金鉱山を守ることであり、採掘・運搬作業に役立ちました。『アメンエムハト1世から息子のセンウセレト1世のための教訓』ではアジアに対する軍事遠征が暗示されています。『ネフェルティの予言』でもアジア人が言及されています。将軍ネスモントの供養碑とベニ・ハサンのクヌムヘテプの自伝碑文にはエジプトの東の国境での軍事活動への言及があります。『シヌヘ物語』では「支配者の壁」と呼ばれる防衛システムへの言及があります。「支配者の壁」の正確な位置は不明ですが、ワーディー・トゥミラートにあったのではないかと考えられています。デルタにはメンデスにラーワティーという名の要塞が建設されたことも知られています。リビア遠征については、『シヌヘ物語』でアメンエムハト1世の死亡時に息子のセンウセレト1世がリビア遠征から帰還途中だったと述べられています。しかし、これらの軍事遠征はすべてあいまいなままです。下ヌビアは第二カタラクトまで征服されたと仮定されてきましたが、確かではありません。リビア遠征とアジア遠征は単に略奪目的だったかもしれません。これらの軍事遠征が征服地域の併合を伴ったことを示すものはありません。

王はエジプトのいくつかの場所に新しい王朝に忠実な州長官を配置したように思われます。例えば、中エジプトのメイルに築かれた最初の墓は第12王朝の始まりに年代付けられ、最初の州長官はセネビ1世という名前でした。ベニ・ハサンのクヌムヘテプも自伝碑文で自分が陛下(おそらくアメンエムハト1世)によって配置されたと述べています。他方王の支配がエジプト全土で受け入れられたわけではないことを示すものがあります。将軍ネスモントの供養碑(Louvre C1)は王の敵を投げ倒したと述べており、内戦のようなものがあったことを示唆しています。さらにこのような戦闘の拠点はテーベだったことも教えてくれます。

王はいくつかの神殿を再建・修復しました。上エジプトでは、コプトスで発見された石材(London UC 14785)はミン神の前にいる王と王のカーを示しています。トードでは石材と彫像の断片が発見されました。アビュドスでは王の名前が記された供物卓が発見されています。アルマントでも建設事業が証明されています。デンデラでは扉のまぐさや柱の断片が、テーベでは供物卓と二体の群像と厨子の台座が発見されています。デルタでは、テル・エル・ラタバの近くでは王名が彫られた完全に残っている門口が発見されました。センウセレト3世時代に書き加えられた碑文はそれがジャジャウと呼ばれる行政機関のものだったと述べています。しかし、建築物自体は発見されておらず、門口が本来の場所で発見されたのかどうかすら不確かです。ブバスティスではホルス名が彫られた戸口の抱き石がバステト女神への献辞とともに発見されました。ヘリオポリスでは共同統治者のセンウセレト1世がアトゥム神殿の建設を始めました。メディネト・エル・ファイユームでは王とバステト女神の座像が発見されています。メンフィスでは供物卓が、ワーディー・ナトルーンでは要塞の門口が発見されています。

王はシナイ半島では碑文の彫られた彫像の断片から知られています。この断片は非常に小さく、王の時代に作られたのかどうか疑われるかもしれませんが、アイン・スフナの碑文から、王が治世7年にシナイ半島の銅山とトルコ石鉱山に採石隊を送ったことが確認されます。

王の重要な革新は共同統治の制度を採用したことです。この制度によって王位継承は確実にされました。『アメンエムハト1世から息子のセンウセレト1世のための教訓』はこの制度を正当化しているように思われます。王はあやうく暗殺されそうになったので共同統治の制度を採用したと十分に考えられます。CG20516の石碑はアメンエムハト1世の治世30年とセンウセレト1世の治世10年の日付けを持ち、この二つの日付けが同一で、アメンエムハト1世の治世20年に共同統治が始まったことを暗示しています。ネスモント(Louvre C1)の供養碑でも二人の王が「彼らは」と言及されています。下ヌビアのアブ・ハンダルのいくつかの岩壁碑文は、あるものは「治世9年」にあるものは「治世29年」に言及しており、一つだけアメンエムハト1世の治世29年に言及しています。他に現れる王はセンウセレト1世だけなので、アブ・バンダルの岩壁碑文はすべてアメンエムハト1世の治世29年かつセンウセレト1世の治世9年に行われた同一の軍事遠征に言及していると思われます。リシュトの王のピラミッドが二人の王の共同統治を示していることは前述の通りです。治世30年に王がセド祭を準備し、おそらく祝ったことは、リシュトで発見された石材とメンデス出土の彫像の碑文から、推測されます。メンデスでは後に王は神格化され、礼拝されました。

アメンエムハト1世とセンウセレト1世の共同統治に関する議論については、K. Jansen-Winkeln, "Das Attentat aus Amenemhet I. und die erste ägyptische Koregentschaft", SAK 18(1991), pp. 241-264を参照して下さい。

王の治世の高官たちはよく知られていません。治世始まりの宰相はイピーだったかもしれません。治世末の宰相インテフイケルは軍事遠征の指揮官としてもよく知られています。国庫長かつ主席家令はメケトラー、インテフ、そして治世7年に在職したイピーでした。

王は一族が礼拝していたアメン神を太陽神ラーと同一視し、アメン・ラー神として国家神に地位に就けました。また王の時代に初めて「美しき谷の祭り」が碑文で証明されます。

アメンエムハト1世については、下記のURLもご覧下さい。

http://www.touregypt.net/featurestories/amenemhet1.htm

http://www.digitalegypt.ucl.ac.uk/chronology/amenemhatI.html

http://ib205.tripod.com/amenemhet_1.html

★センウセレト1世

ホルス名、ニ女神名、黄金のホルス名 : アンフメスート、即位名 : ヘペルカーラー、誕生名 : エスエンウセレト

父はアメンエムハト1世。母は不明。現在は失われていますが、かつて「センウセレト王、アメンエムハト王の息子かつ王の母ネフェルイターチェネンの息子」の碑文を持つ女性の彫像があり、ネフェルイターチェネンがセンウセレト1世の母ではないかと考えられましたが、センウセレト2世の母の可能性もあります。第一王妃ネフェルーは「王の娘」の称号を持つので、アメンエムハト1世の娘かつセンウセレト1世の姉妹と考えられます。彼女はアメンエムハト2世の母です。また二人の娘イターカーイトとセバートがいました。ベニ・ハサンのセンウセレト1世時代の墓碑名で言及されるアメニはアメンエムハト2世と思われます。王の治世年数はトゥーリン・キャノンによれば45年です。何カ月何日の部分は失われています。ヌビアのアマダには治世44年の碑文があります。エレファンティネで発見された土器に記された「治世46年ペレト季(冬)第3月」は王の治世年であると考えられています。父アメンエムハト1世と10年間、息子のアメンエムハト2世と3年間、共同統治しました。

王は全国で大規模な建設事業を展開しました。それは神殿の修復だけではなく、コプトス、アビュドス、カルナック、メダムード、ヘリオポリスでの新しい神殿の建設を含みました。ヘリオポリスには現在も王のオベリスクが建っています。これは現存する最古の王のオベリスクです。ヘリオポリスのアトゥム神殿建設は、ベルリンの革の巻物(Berlin Papyrus 3029、新王国の神殿碑文のコピー)に記された奉献碑文によれば、治世3年に年代づけられます。カルナックのアメン神殿は新王国のアメン大神殿の核となりました。王はここに「白い礼拝堂」を建立しました。それは新王国に解体され、建築資材として再利用されましたが、現在カルナック神殿境内の野外博物館に復元・展示されています。二体の王の巨像も発見されています。アメン神殿の建設には王の治世22年の後に在職した国庫長メンチュヘテプが関わりました。第11王朝に泥レンガで建設されたエレファンティネ島のサティス女神神殿は、石灰岩で再建されました。そして、供物卓、彫像、石碑をたくさん備え付けられました。長い碑文はひどく損傷しています。コプトスのミン神殿は王によって造り直されました。ロンドンのピートリー博物館にあるレリーフの断片(UC14786)はセド祭でミン神に向かって走る王を示しています。しかし、アメンエムハト1世の名前が記された断片(UC14785)も発見されていることから、ミン神殿は共同統治期間中に建設されたかもしれません。アビュドスのオシリス・ヒェンティアメンティウ神殿は完全に再建され、第13王朝になってもヘペルカーラー王の神殿と呼ばれました。王の治世以来官僚達がアビュドスに礼拝堂や供養碑を建てる習慣が始まりました。供養碑の質はさまざまですが、センウセレト1世とアメンエムハト2世の治世のものは高品質です。王がオシリス神の礼拝に注目した結果、オシリス神の信仰と慣習はエジプト中に広まり、ジョン・ウィルソンによって「来世の民主化」と呼ばれた重要な現象が起こりました。国庫長メンチュヘテプはアビュドスの神殿建設にも関わりました。その他には、ヒエラコンポリスで王名の記された石材と供物卓が発見されています。アルマントのモント神殿、エル・アタウラ(ペルネムティ)のネムティ神殿、ブバスティスでは、王名の記された石材が発見されています。トードの第11王朝の神殿も完全に再建されました。長い碑文は王の治世の政治不安に言及しています。ファイユームのアブギグには先端が丸くて、装飾されたオベリスク(長さ12.62m)が建立されました。王は国中の主要な信仰地に王の記念碑を建設する事業を導入した最初の王でした。この動向は地域の神殿と神官達の権力基盤を削ぐ効果もありました。

王墓はリシュトに建設されました。建設事業は単独統治が始まった治世10年に始まり、葬祭神殿と参道は治世22〜24年頃始まりました。作業の過程は石材に石工たちによってインクで記された覚え書きから比較的よく知られています。ピラミッドの名前はセンウセレトペテリターウィ「センウセレトは両国を見る」です。その他に二つの名前、すなわちハーセンウセレト「センウセレトは現れる」とヒェネムスートヘペルカラー「ヘペルカーラーの諸座と結合された」が知られていますが、これらが葬祭神殿の名前なのか、ピラミッド都市の名前なのか不明です。王のピラミッドの周囲には王妃と王女達のピラミッド群が建設されました。河岸神殿、参道、葬祭神殿、従属ピラミッドを含めて、王のピラミッド複合体は多くの点で第6王朝のピラミッド複合体のコピーです。

王は諸州の境界を確定しました。カルナックの白い礼拝堂には諸州の長さ、主要都市、主要な神々のリストが記されています。また二つの州の境界を示す境界碑が二つあります。その境界碑ではハヤブサとガチョウが背中合わせに異なる方向を向いて配置され、あたかも境界の両側の異なる州の方向を向いているようです。また父アメンエムハト1世と同様に、忠実な臣下たちを地方に配置しました。サーレンプート1世はエレファンティネの州長官として就任させられました。この頃カウ・エル・ケビルに現れた有力な支配者一族も王によって配置されました。アシュートのジェファイハピ1世・2世も同様だったと思われます。

治世25年に何年も国に影響を及ぼした大飢饉があり、そのことは二つの碑文(うち一つはアルマントの州長官メンチュヘテプの石碑−UC14333)で言及されています。トードの神殿碑文は飢饉の後神殿の略奪が行われたことに言及しているのかもしれません。ただし史実かどうかは不確かです。エジプトで飢饉があったという記述はヘカナクト書簡とベニ・ハサンの州長官アメンエムハトの墓碑銘にも見られます。

王は共同統治期間中に下ヌビアに遠征を行いました。アブ・ハンダルの岩壁碑文は王の治世9年の日付けを示していると考えられています。王は単独統治期間中も遠征を続け、下ヌビアを完全に占領しました。治世18年には上ヌビアのクシュに遠征をしました。この遠征の証拠には「二つの穀倉の長官」メンチュヘテプのコロスコの近くのエル・ギルガウィで発見された石碑(RILN74)とブーヘンで発見された将軍メンチュヘテプの石碑(Florence 2540 A + B)があります。さらに、クベト・エル・ハワのサーレンプート1世の墓碑銘では王がクシュへ向う途中にエレファンティネで宿泊したらしいと述べられています。ベニ・ハサンの州長官アメンエムハトは墓碑銘でクシュ遠征で王に従ったと述べています。第2カタラクトまでのブーヘンを始めとする一連の要塞建設は下ヌビアの征服が今まで知られている以上にはるかに進んでいたことを示しています。エジプトが本国以外の地域を征服し、それを永続的に支配下に収めたのはこれが初めてであるように思われます。ブーヘンでも王はセンウセレト3世とともに神格化されました。ワーディー・エル・フーディの碑文(治世16年、20年、22年、24年、28年、29年)はアメシストの運搬を報告しています。ワーディー・ハンマーマートには少なくとも3回(治世2年、16年、38年)遠征をしました。治世38年の日付けを持つ碑文は遠征隊が「伝令官アメニ」によって導かれたと述べています。この遠征には17,000人の人々が参加し、その中には20人の州長官たち、30人の王の従者達とさまざまな兵士達が含まれていました。そして60体のスフィンクスと150体の彫像を運びました。ハトヌーブには治世22年と31年に遠征をしました。紅海のメルサ・ガワシスにはエジプトの港がありました。

エジプトとシリアとの間には交易隊が行き来し、杉木材と象牙がエジプトの物品と交換されました。クシュは黄金のために開拓されました。また彫刻と装身具類のためにアメシスト、トルコ石、銅、片麻岩が調達されました。王の葬祭神殿からは大量の王像が発見され、カイロのエジプト博物館に収蔵されました。しかし、王のその他の記念碑や彫像の多くは後世の王たちによって改作され、コピーされ、移転させられました。そのためオリジナルの作品はほとんど残っていません。王の芸術作品の影響は、長い治世の間に国中に達し、地域様式は着実に後退しました。

王が治世31年にセド祭を祝ったことはハトヌーブの碑文(No.49)とカルナックの白い礼拝堂の碑文から知られます。王は新王国にまだテーベの墓地の守護神として礼拝されました。

王の宰相はアメンエムハト1世の治世から在職しているインテフイケルが引き続き在職し、王の治世のまさに終わり頃に次の宰相センウセレトが証明されます。インテフイケルはアメンエムハト1世のピラミッドの隣のマスタバに埋葬されました。国庫長はソベクヘテプとメンチュヘテプが知られています。メンチュヘテプはアビュドスとテーベでの建設事業の責任者でした。また、アビュドスに全面を装飾された大きな石碑と礼拝堂を建てました。彼の墓はセンウセレト1世のピラミッドの隣で発見され、見事に彩色された石棺がまだ墓の中に残っています。主席家令はピラミッド建設に関わったネヘト、サトアメンの息子インテフ、ワーディー・エル・フーディー遠征の指揮官ホル、サトウセルの息子インテフが知られています。州長官はエレファンティネのサーレンプート1世、アルマントのメンチュヘテプ、アシュートのジェファイハピ、メイルのウクヘテプとセネビ2世、エル・ベルシェのジェフーティーネヘト、ベニ・ハサンのアメンエムハトが知られています。

王の治世の重要な文学作品には、『ネフェルティの予言』『シヌヘ物語』『アメンエムハト1世から息子のセンウセレト1世のための教訓』『忠誠の教え』『(祭礼の劇のための)ラメセウム・パピルス』があります。行政と労働組織に関する史料としてレイズナー・パピルスI-IVがあります。『忠誠の教え』の作者はおそらく国庫長メンチュヘテプです。『シヌヘ物語』の日本語訳については、こちらをご覧下さい。

センウセレト1世については、C. Obsomer, Sésostris Ier, Etude chronologique et historique de règne, Brussels, 1995下記のURLをご覧下さい。

http://www.touregypt.net/featurestories/senusret1.htm

http://www.digitalegypt.ucl.ac.uk/chronology/senusretI.html

http://ib205.tripod.com/sesostris_1.html

第12王朝初期の物質文化

アメンエムハト1世の治世は、物質文化の点では、まだ第一中間期に属します。多くの地方都市が土器、美術、工芸で独自の様式を持っていました。それらは第11王朝のものとさほど異なりません。地方の共同墓地は第12王朝の始まりに栄えました。共同墓地には州長官の装飾墓とそれに隣接して州長官のために働く官僚達の小さなシャフト墓群があります。この状況はメイル、アシュート、デル・エル・ベルシェ、ベニ・ハサンに完全に見られます。一般住民たちは他の場所に埋葬されたように思われます。彼らの墓は今なお発見されなければなりません。彼らの埋葬はしばしば特別に墓のために作られた物品を副葬されておらず、無装飾の棺が普通で、永遠の食料供給のための土器も必要不可欠です。女性の埋葬では、おそらく生前身に着けていた装身具類が典型的です。時々それは高価であるように思われ、一般住民でさえ小さな富を築くことができた証拠を提供しています。これらの墓は職業に関する物品を決して含んでいません。墓碑銘もなく、彼らがどこでどのようにして働いたのか知られていません。単に死者の社会的地位と性別だけを示します。

地域の支配者階級の墓の設備はまったく一様で、特別に墓のために作られた物品の割合が高いです。装飾された棺、工房で働く職工達と食事の準備をする人々の木製の模型があります。しばしば亜麻布で包まれているけれども、時にミイラ化していない死者はスカラベを含む装身具類で飾られます。スカラベは中王国の始まりに一般的になります。細部には地域差があります。アシュートで発見された棺はしばしば二行の碑文で装飾されます。上エジプトのゲベレインとエドフで発見された棺は外側がしばしば日常生活の場面で装飾されます。今までのところ最も良く立証されている共同墓地はベニ・ハサンで、アメンエムハト1世時代に年代づけられる州長官たちの墓はまだ直接第一中間期に由来するように思われる様式で描かれています。アメンエムハト1世時代に始まったメイルの州長官達の墓はもっと複雑な「王都の」様式を示し、王都から来た芸術家や職工達がこれらの墓を装飾したことはあり得るように思われます。国庫長かつ主席家令メケトラーの墓のレリーフは最高品質です。さらにその上に最高品質の彩色が施され、非常に見事です。墓の中で発見された木製の模型は今までにエジプトで作られた中で最高品質です。同様な品質の模型はサッカーラで発見されてきたので、メケトラーの墓の模型はメンフィスから来た芸術家達によって作られたことは非常にありそうに思われます。メンフィスでは古王国の伝統はいまだに強く、墓が第一中間期に属するのか、第11王朝なのか、第12王朝初めなのか、決定することがしばしば困難です。

リシュトとメンフィスでは宮廷官僚達はマスタバ墓に埋葬されました。それらはしばしば損なわれており、本来の外観の明白な光景を得ることはしばしば困難です。内部の部屋はレリーフで装飾されますが、古王国のマスタバ墓や中王国初期のテーベの岩窟墓と比べると、縮小された装飾プログラムに従っています。いくつかの州の州長官たちはレリーフや絵画で装飾された岩窟墓に埋葬されました。ベニ・ハサンの岩窟墓のようないくつかの墓は非常に保存状態が良好です。他の州ではそのような岩窟墓は知られておらず、それらはすべて破壊されたのか、まだ発見されていないのか、無装飾の岩窟墓やマスタバ墓に埋葬されたのか、不思議に思われます。

第12王朝始まりの彫刻は古王国と強い結びつきを示します。官僚達はしばしば短いカツラ、裸の胸、短い腰布を着用して座っているのを示されています。これは古王国の多くの彫像に似ていますが、細部を見ると古王国の作品か中王国の作品か確かに区別できます。第12王朝初期の革新はブロック・スタチューです。人物は地面に座り、身体全体が立方体のように表現されます。脚の輪郭以外ほとんど示されず、頭部だけが完全に彫刻されます。

王の記念碑はメンフィスの芸術家達によって大いに影響されたように思われる様式を示しません。コプトスやリシュトの葬祭神殿で発見されたアメンエムハト1世のレリーフは最高品質ですが、第11王朝に共通のがっしりした人物像と高浮彫りを少しも示しません。

物質文化はセンウセレト1世の時代にゆっくりと変化したように思われます。王の建設事業はその理由の一つかもしれません。王都の職工達が今や国中で働いていました。王の職工たちがエレファンティネの州長官サーレンプート1世のために働いたことが碑文によって証明されます。しかし、特に芸術でまだ強い古王国の影響があります。王のピラミッド複合体はほとんど第6王朝の複合体のコピーであるように見えます。そのレリーフでさえ古王国の原型に従っています。王都イチーターウィは明らかに国内の発展の中心地でした。このことは王都の共同墓地だったリシュトから明らかです。国庫長メンチュヘテプの石棺は外側を「王宮の正面」で装飾されています。同様な装飾が棺に現れるのは地方ではもっと後になってからです。それゆえこの装飾パターンは王都で発展し、後に他の場所でコピーされたことはありそうに思えます。同様な発展は土器の様式でも明らかです。センウセレト1世時代土器は国中でもっと同型になりました。新しい土器の様式が確かに初めてリシュトで目立ち、それからゆっくりと国全体に広がったように思われます。

リシュト  地図はこちら

リシュトはカイロの南約65km、メイドゥームとダハシュールの間にあり、おそらく新しい王都イチーターウィの近辺にあります。この村の西方の砂漠の台地にアメンエムハト1世のピラミッドとセンウセレト1世のピラミッドがあり、それらの周囲を両王の治世の高官たちの大きなマスタバ墓群や何百というシャフト墓が取り囲んでいます。

アメンエムハト1世のピラミッド複合体はぺピ2世以来古王国のメンフィスの伝統に従う初めてのもので、河岸神殿、屋根のない参道、ピラミッドの東側の葬祭神殿を伴います。ピラミッドの入口は北側にあり、その近くから花崗岩製の偽扉が発見されていることから北の礼拝堂の存在が確認されています。建築石材は後世奪われ、末期王朝には葬祭神殿の上に集落が築かれたので、葬祭神殿の平面図は復元不可能です。ピラミッドは本来高さが55〜60mあったと思われ、底辺の長さは84m、傾斜角度は54°です。多数の石灰岩がギーザ、サッカーラ、アブシールのピラミッド複合体の石材から再利用され、古王国のレリーフを残しています。ピラミッド内部の四角い部屋に通じる通路は今も落とし石で塞がれており、墓泥棒たちが掘ったトンネルを通らなければ、中に入れません。ピラミッド内部の四角い部屋から埋葬室に通じるシャフトが降りていますが、地下水の上昇のため、埋葬室は水没しており、調査できません。ピラミッドは内側の石灰岩の周壁と外側の泥レンガの周壁に囲まれています。この二つの周壁の間に王族の女性たちのシャフト墓群と宮廷官僚たちのいくつかのマスタバ墓があります。ピラミッド複合体にはデル・エル・バハリのメンチュヘテプ2世の葬祭神殿で使用されたテーベの伝統を反映していると思われるいくつかの要素があります。すなわち屋根のない参道、葬祭神殿とピラミッドの間に存在するテラス、ピラミッドの西側に並ぶ22のシャフト墓群、埋葬室へ降りるシャフト、いくつかのレリーフの様式です。従属ピラミッドはありません。河岸神殿もまた地下水の下にあり、調査されていません。ちなみに、ピラミッド名はスートハーウアメンエムハト「アメンエムハトのお出ましの諸座」です。もう一つの名前カーネフェルアメンエムハト「アメンエムハトの美は高い」は葬祭神殿の名前かもしれません。

センウセレト1世はテーベの伝統を捨て、古王国のメンフィスの伝統を尊重しました。センウセレト1世はアメンエムハト1世のピラミッドの2km北に自分のピラミッドを建設しました。ピラミッドの高さは61.25mだったと思われ、底辺の長さは105m、傾斜角度は49°24′です。ピラミッドは二重の周壁に囲まれており、内側の石灰岩の周壁の両面はホルス名が彫られたセレフと豊穣の人物像のパネルで装飾されました。セレフの上には精巧な高浮彫りのハヤブサが乗っています。外側の周壁は泥レンガで造られました。第二中間期に始まったと思われるピラミッドの崩壊は新王国にさらに進みました。その結果中核の構造が明らかになりました。8つの壁の骨格が中央から四隅と四つの側面の方向に放射状に広がっていました。壁は大きな粗く削られた石材で造られ、石材は上へ行くほど小さくなっていました。8つの三角形のセクションはさらに3つの壁で分けられていました。このようにしてできた32の部分は段々に置かれた石板で満たされました。段の上には内側から補強する石材が載せられ、外側をおおう石材とともに外骨格を形成しました。これらはピラミッドが高くなるにつれて造られました。この中核を築く新技術はセンウセレト2世の治世まで使用されました。ピラミッドの東側に葬祭神殿がピラミッドの化粧石に接して建てられました。センウセレト1世の埋葬室も地下の水面下にあり、今まで考古学調査が行われたことはありません。ピラミッドの北側にはレリーフと偽扉で装飾された礼拝堂がありました。また内側の周壁内の、ピラミッドの南東角に従属ピラミッドを建設しました。河岸神殿は氾濫原の下に埋まっており、発掘されていません。葬祭神殿に通じる参道の両側には白冠あるいは赤冠をかぶった王のオシリス柱像が並んでいました。葬祭神殿はひどく破壊されています。内側の周壁と外側の周壁との間に9つの小ピラミッドがおそらく王族のために築かれました。これらの小ピラミッドには東側と北側に小礼拝堂があります。従属ピラミッドの南側のやや大きな小ピラミッドは王妃ネフェルーの墓かもしれません。センウセレト1世のピラミッド複合体には、建設用の傾斜道、石灰岩と花崗岩の加工場、採石場の印などが残っており、建設の進捗、労働者達の出身、労働力の組織に関する重要な情報を提供してくれます。

リシュトのピラミッド群については、下記のURLをご覧下さい。

http://www.touregypt.net/featurestories/amenemhet1p.htm

http://egyptphoto.ncf.ca/amenemhet%20I.htm

http://www.touregypt.net/featurestories/senusret1p.htm

http://egyptphoto.ncf.ca/senwosret%20I.htm

http://www.egiptomania.com/antiguoegipto/lower/lisht.htm

中王国の行政

中王国の政府は古王国に創設された組織に緩やかに基づいていました。しかし、重要な変形がありました。官僚制度と君主制は課税によって維持されました。財政システムは本質的に土地と水路からの収益の査定に基づき、現物で支払われました。神殿とその他の宗教施設はしばしば一部免税されました。さらに、強制労働のシステムがありました。その際中流・下層階級の男女が軍事勤務を含む特定の労役を引き受けるために登録されました。この労役システムは町の官僚達によって組織されました。しかし、中央の「労働力組織」省の監督下にありました。本人に代わって労働を引き受ける別の人を立てることによって正当に労働の負担を逃れることはできましたが、まったく労役を避けた人は厳しく罰せられ、その家族と労役の回避を助けた者も罰せられました。下ヌビアのアスクートにある要塞からの記録は、そこが労役を避けた人々が送られる場所の一つだったことを示します。その他の義務不履行者は疑いなく採石場に送られました。労役の慣習は第17王朝まで続き、ヌビアの人々だけが課税からも労役からも免除されたように思われます。政府は国内の平和を維持し、第二カタラクトの北と「支配者の壁」の西にある国境を巡察しました。パレスティナへの襲撃とヌビア遠征によって、中王国の支配者達はエジプトの繁栄と影響力を拡大することができました。交易は王の独占事業で、国家官僚たちによって監督され、ヌビアでは利益は極めて価値あるものでした。

中王国の官僚達によって保有された称号の多くは古王国で使用されたものと同じでしたが、多数の追加の官職がありました。中王国の目立った特徴の一つは官職称号をもっと特定の職務に細分することであり、それぞれの官職の職務内容はもっと限定的になりました。このような職務の細分を逃れたのは「王の印章保管者」の職であり、特にメンチュヘテプ2世時代に幅広い監督の職務を与えられました。宰相は第11王朝後の記録ではそれほど目立っていませんが、まだ王の第一の大臣でした。センウセレト1世時代に同時に勤務する二人の宰相(アンテフイケルとメンチュヘテプ)がいたように思われますが、二人の宰相を置く慣習は中王国には確かではありません。中王国末の乏しい史料は古王国と中王国の間にその他の行政上の変化があったことを示します。中王国の中央政府はその勢力が地域に浸透していました。個人と政府に負うべき義務に対するより多くの監督がありました。このような私生活へのきびしい侵入は市長に多くの地域の監督を委任させる中王国の慣習に部分的に帰せられるかもしれませんが、地方を王都の様式と慣習に一本化することにおいても著しい変化がありました。芸術作品はこの現象の最も目に見える指標です。

しかし、中王国の間に最も大きな変動を経験したのは州長官の官職でした。アメンエムハト1世によって採用された基本計画はそれぞれの町を行政センターにすることでした。最も重要な町にいる主要な官僚だけが州長官の地位を相続しました。政府の基本単位としての町への集中とともに、州の政治影響力は減退しました。アメンエムハト1世の州長官たちは「大首長、市長、神官長」の称号を保有し、主にエジプトの中央部と国境地域に置かれました。州長官たちへの王の監督の重要な要因は、少なくとも第12王朝の最初の二人の王の治世中は、彼ら全員が王によって個人的に任命されたという事実だったように思われます。何人かの州長官たちは王の宮廷を真似た自分自身の職員たちのために称号を改変しました。あちこちに「宝庫長」や従者たちからなる軍隊の指揮官さえいました。このような主張にもかかわらず、州長官は自分を封建制度風に組織した王を忘れることは許されませんでした。州長官たちは王に直接忠誠の義務を負い、代わりに王の恩恵を受け、エジプトの国境を守り、王のために遠征を企て、恐らく外国人達の公式接見の代理として行動することを強制されました。

州長官の主要な称号「大首長」はセンウセレト3世の時代に消滅しました。センウセレト3世の時代までに、エル・ベルシャとエレファンティネの州長官たちだけがまだ確かに「大首長」の官職保持者として記録されています。他の地域は市長によって監督されました。デトレフ・フランケは、センウセレト2世時代には、王が王都で州長官の息子達を教育し、彼らを王都かあるいはその他の地域に任命するのが慣習だったということを論証してきました。このようにして一族の子弟が散らされ、州長官職はついに市長職に重要性を奪われたのでしょう。市長達は必然的には州長官と同じ富と権力を享受しなかったでしょう。このことはなぜ豊かに装飾された地方の墓の時代が終わったのかを説明してくれるでしょう。センウセレト3世が州長官達の消滅のきっかけだったということはありそうにありません。というのは、州長官職は少なくともアメンエムハト2世の時代以来減少してきたことを、記録が示しているからです。

センウセレト3世は国の非常に広範囲な部分を監督する長官として王宮に基づいた官僚達を就任させ、このようにして過去の慣習をきっぱり断ちました。二つの官庁(ウアレト)がエジプトの北部と南部にそれぞれ一つずつ創設され、官僚制によって運営されました。「国庫」「労働力組織」のようなその他の部門も発足されました。軍事部門は大将軍の下に組織され、新しい「宰相の官庁」がありました。さらに王宮のための別の行政機関がありました。この新しい官僚制の結果として、新しい称号があり、それに応じて中流階級の官僚たちが増加しました。そのことはこの時代の多数の供養碑に反映されました。供養碑は中流階級がますます裕福になったことを示す指標です。

行政の境界外に神殿とその付属施設の地所がありました。アシュートの市長ジェファイハピの契約書が明らかにするように、これもまた同様に官僚たちの世界でした。墓の内壁に記されたので残ってきたジェファイハピの10の契約書は彼の葬祭礼拝が死後も維持されることを保証するために作成されました。法的意味合いとは別に、契約書は神殿に適用されたいくつかの規定も明らかにします。例えば、地区の各人は毎年最初の収穫時に各々の畑から1ヘカトの穀物(約5リットル)を神殿に納めるように要求されました。契約書は非常に明確で、神殿は自立しており、免税勅令を王から受け取らなければ、それらもまた君主制に納税しなければなりませんでした。センウセレト1世の国中に地方神殿を建設するという政策は効果的に地方神殿の権力基盤を減少させました。

中王国の行政については、Stephen Quirke, Titles and Bureaux of Egypt 1850-1700 BC, London, 2004をご覧下さい。

アシュートについては、下記のURLもご覧下さい。

http://www.aegyptologie-altorientalistik.uni-mainz.de/139.php

デル・エル・ベルシェについては、下記のURLもご覧下さい。

http://www.arts.kuleuven.be/bersha/

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