|
(挿絵は当時を思い出しパソコンのペイントでマウスを使用して描きました。各画像にマウスを当てて頂くとセピア色に変化します)
2004年08月20日
世界に戦争が再び起きない事を祈り、私が国民学校6年生の初秋に学童集団疎開をしました体験をお話し
ます。
昭和19年9月21日(1944年)敗戦の前年。大阪市内の国民学校3〜6年生の学童は、日に日に戦争が緊
迫して、本土空襲が激しくなって来ましたので、田舎のお寺又は、旅館に学童集団疎開する事になりました。
私達6年生は、女子が27名でした。大阪駅の10番ホームから、「学童集団疎開」の横断幕がはってある専
用臨時列車に乗りました。
私は、遠足に行く気分で嬉しいでした。でもふと考えると底知れず不安にもなりました。家族と離れて此れから
どうなるのかしら??・・・やなぎ行李に学用品や衣類を詰めてもらい、リュックサックを背負い「ポッ。ポッ。ポッ ーシューー」と列車が大阪駅を出発した光景は、今でもハッキリと覚えています。
「撃ちてし止まん」 「欲しがりません。勝つまでは」
と教えられていましたので、弱い気持ちは思ってもいけないと、不安な気持ちを打ち消しました。今思い出しても
健気です。その時代の子供は、凛々しく、先生の教えを守り、規律正しく、直立不動そのものでした。
「教えおば 金科玉条 畏まる」 sweet
いつも「今日も学校に行けるのは、兵隊さんのおかげです」 と歌っていました。
福知山駅に着き、地元の村の学校で歓迎会をして下さいました。藤田進主演の「姿三四郎」の映画も上映し
てくださいました。なにもわからずに遠足気分で楽しいとおもいました。
それから、お寺に到着してすぐ庭で記念写真を撮ってくださいました。皆ニコニコと楽しそうに笑っているセピ
ア色の写真が今。パソコンの前にあります。私は、11才でした。
25畳の本堂がこれからの私達の住まいになります。正面に大きな立派な仏像がお祭りしてあり、私達を迎え
てくださいました。とてもこうごうしく思いましたが、その反面ここで寝るのかしら?? と、怖い様な気分と不安な気 持ちが交差しだしました。どうしょう・・・・と友達と顔を見合わせ泣きそうになりました。
お寺は高台にあり、眼下に川が流れていて、美しいのどかな盆地です。
(ペイントでマウスを上下左右に動かし遠い昔の山。川を思い出しながら描きました)
(この川で石鹸も無くすすぎ洗いだけの洗濯をしていました)
(川の右側の竹やぶで追っかけごっこをしたり、竹細工を作って遊びました)
朝。続経から始まり、27名の女子生徒が「こげんぎぎー いじんむぎょく にょうぜーえんみょう むぅようとうし
ゃ にちげつばあにぃー しゅうこうえんみょう かいじつおんぺぃ・・・・・・・・・・・・・・・・・がんにしきどくみょうとう せい いっさい どうほつぼだいしん おうじょうーらー」と毎日一斉に唱えていました。(60年の月日が経ちまし たので、お経をこれだけしか覚えていません)
続経後、お住職さんの法話をお聞きし、朝食を「箸とらば、雨 土 みよのおんめぐみ 祖先や親の 恩を味
わえ」と合唱して頂きました。そして、村の学校の間借りの教室で勉強しました。
日が経つにつれて、父や母が恋しくなり、夜。お月様に向かって「早く戦争に勝って、大阪に帰れますように」
と拝み、「シク、シク」と先生に見られないように庭の隅で友達と泣いていました。
この山の向うが大阪と教えてもらっていましたので、山に向かって、「お父さん。お母ちゃん」と心の中で叫
んでいました。「大阪に帰りたいなあー?」など一言でもいえば、それこそどんなに叱られるか判っていましたの で、歯をくいしばって、友達と淋しさに耐え忍んでいました。でも何時の日か戦争に勝って大阪に帰れると信じこ んでいました。 「羽根あれば 飛んで帰れる 大阪へ」 sweet
私は、井戸水が合わなかったのか?ストレスか? すぐ全身に湿疹が出来ました。「先生どしたら治るのです
か?」と聞きましたら「戦争がおわったら・・・」と言われました。何時終わるのかしら? と思いつつも11才の学 童には、返すことばも知りませんでした。
洗濯は、上記のペイント画の川で、石鹸無しで、すすぎ洗いだけでしたので、虱(しらみ)が、どんどんと湧き、
ついで蚤(のみ)も仲間入りしていました。頭髪にも虱が湧き放題、髪を梳かすとパラパラと廊下に落ちました。
お手洗いは、本堂の横に掘っ立て小屋4箇所を作ってくださいました。
ドアも鍵も無く。莚(むしろ)が垂れ下がっているのにのには、11才の少女でしたので、恥ずかしい思いでした
が、しかたがありませんでした。私達のこの悲しみは、永久に虫や鳥が覚えていてくれるでしょう。
トイレットペーパーなどありません。古新聞紙を八分の一位に切った代用品でした。両手でしんなりするまで揉
み使っていました。新聞紙はあらゆる物の代用紙で貴重でした。今の時代のテッシュペーパーの使い捨て、暖 房付ウォシュレットなど夢の又夢です。
習字の練習も、新聞紙二分の一の大きさにして真っ黒になるまで練習していました。ノートは、ざら紙でした。
あまり記憶にありませんが、 とにかく物資不足で、店頭に商品がありませんでした。配給の時代です。
「巣のなかの 雛(ひな)になりたし 母恋し」sweet
食べるものも、主食といえば米粒などわからないほどサツマイモの入った芋むぎご飯です。でも2糎角のバタ
ーがちょこんと毎日載せてありました。唯一の栄養源でした。隣のお友達のなすびの味噌汁が多いとすすりあ いしたこともあります。なすびを見ると当時を思い出します。炊事当番の時、なま芋を切りながらひもじさの為に つまみ食いをして先生に叱られました。おかずは殆ど野菜類でした。
父兄会があり、大阪より母が面会に来てくれることになりました。首をながくして母の来る日を指折り数えてま
っていましたが、里心がつくといけないので3メートルほどはなされて、机をはさんで面会しました。
後でわかったのですが、「おかあちゃん」とだきついて、離れないかも?とのことで距離を置かれたとの事で
す。母達が持ってきてくれた慰問の品々も先生が一括あづかりされました。母は、私達の喜ぶ様子を見たかっ た事と思います。顔をみただけで大阪に帰りました。
母達の帰る姿がしょんぼりと悲しげでした。半世紀以上前の出来事ですが私は、今でもはっきりとその時の光
景を覚えています。今涙をながしながらホームページにタイプしています。母達はどんな気持ちで大阪に帰って 行った事でしょう。悲しすぎます。 「鶴首して 待てどむなしく 母帰る」 sweet
低学年で盲腸炎が原因で、亡くなった子供もありました。お寺で葬儀があり、クラス全員でお参りしました。「ジ
ャジャジャァー ジャァンーー」と鳴り響く経音と続経を今でもはっきり覚えています。涙がとめどなくこぼれ落ち ました。悲しいお別れでした。 「せめてもや 母に抱かれて 黄泉路へと」 sweet
今。思い出しても乞食同然の食物のあさり、蚤(のみ)。虱(しらみ)との戦い。どれひとつとしても、今の子供
達には想像もつかない事でしょう。「ウッソーーー」と言われると思います。勉強の事より、空腹の為食べ物のこ とのみ考え、朝食。昼食が済めば、夕食の事を考えていました。
寒い寒い雪の降る日でも裸足で、ずぶ濡れになり、破れた運動靴を履き、村の学校の間借りの教室で、ただ
ただ大阪に帰りたい、帰りたいの気持ちが一杯で、勉強もそぞろでした。手の指と足の指にしもやけが、真っ赤 に腫れて、ひび割れしていましたが、塗り薬などありませんでした。自然に治るまで辛抱していました。少々の
痛みは耐え忍ぶのがあたりまえの時代でした。「勝つまでは!勝つまでは欲しがりません」と心に誓っていま
した。
親からの便りも検閲され、望郷を想い起こす様な文章は墨で消されていました。その消されている文章を見た
くて、見たくて夜、電球にすりつけ、親の文字を求めました。私の父は筆まめで度々手紙をくれました。
とても楽しみで、毎日毎日郵便受けをのぞいて、父からの便りを待っていました。
栄養失調と不衛生で、クラス全員疥癬(皮膚病)に罹患しました。ひとりづつ先生と寮母さんの前で裸身にな
り、隅々まで、罹患のほどを検診されました。六年生でしたので凄く恥ずかしい思いをしたのを今でも覚えてい ます。
サイパン島が玉砕されたと真夜中にクラス全員叩き起こされ、涙を流し黙祷して、又また拳をあげて、
「撃ちてし止まん」の合言葉で勇ましい精神を教えられました。
寺の鐘は、いつの間にか姿を消していました。金物類は、戦争に役立ててもらう為に全て国に奉納されまし
た。どうなるのかしら? との思いでしたが、勝利の日を信じていました。
昭和20年の正月も疎開先のお寺で迎えました。お餅もひとり2個で喜び合い、お汁をすすりあいながら、淋し
い気持ちを抑えて、目的意識で「勝つまでは!勝つまでは欲しがりません」と心は充実していたように思いま す。戦争中の軍事教育を諸に受けていました。学童集団疎開を引率されていた先生のご苦労も大変だったとお もいます。
私のクラスのお友達が病気になられた時も先生、寮母さん、お寺の方々が徹夜で看病されていました。
私達も徹夜で、一心不乱に仏様にお経をクラス全員で唱えて「早く元気になりますょうに」と「こげんぎぎー い
じんむぎょく にょうぜーえんみょう・・・・・」と必死に唱え祈り続けました。みんなの気持ちが仏様に通じたのでし ょうか、お友達は病気が少し回復されたのでしょう?私達が学校に行っているあいだに大阪に帰られました。
後日。そのお友達にお聞きした話では、病気で苦しかった時意識もうろうとなり、綺麗な
て、乗りそうになったけれど、何かの力強い手に引っ張られて乗れなかったといっておられました。
その手は、まさしく私達のクラス全員の祈りの愛の手と共に仏様がお導きになられたのだと私は、その時思い
ました。
そのお友達は、5年生のとき「健康優良児」に選ばれて、「素晴らしいなあ」と私は常々羨望しておりました。私
は痩せ型で、お住職さんに「丸々太るまでお寺に居りね」と言われていました。私は「めっそうもない(とんでもな いこと)」と心で思っていましたが、口に出せませんでした。一日でも早く戦争に勝って、大阪に帰りたいと思って いました。健康優良児でも学童集団疎開生活では病気にるのだと栄養失調と寒さを痛感しました。
そのお友達は、もうこの世にはおられません。60才過ぎで黄泉路に召されました。私は、70才で学童集団疎
開物語りのホームページを立ち上げました。戦争の影響で、健康優良児でも病気になってしまうのです。
お寺のお住職さん。奥さん。おばあ様。お住職さんの弟さんには、クラス全員大変可愛がって頂きお世話にな
りました感謝しています。村の人々もオヤツを作って持って来てくださいました。私達は、麦踏のお手伝をしまし た。イナゴ(inago.JPG)←クリックして下さいブラウザー左上の戻かBackSpaceキーで元にもどります。も捕って焼いて 食べたこともあります。その時の香ばしい食感を今も覚えています。
「麦踏みに 強く生きねと 教えられ」 sweet
私達は、6年生でしたので、何とか自分の身の回りの始末はできましたが、3年生(8才)は可哀想でした。蚤
(のみ)や虱(しらみ)はわき放題。寝具の敷布団に寝小便はやり放しで、シクシク泣いてる姿をまのあたりにし て、6年生がお手伝いに行き吃驚しました。早速布団を干したり、抱きしめたり、慰めたりと私達の出来る事は 一生懸命にしましたが、泣きやみませんでした。おかあさんが恋しいのでしょう。可哀想で私も涙が出そう
でしたが耐え忍びました。 「かあさんで なければ嫌と 泣きやまず」 sweet
思い出せば限りありませんが、ひもじさと不安の日々でした。クラス全員が助け合って仲良しでした。
でも、少しのいじめもありましたが、住職さんの弟さんが庇ってくださいました。竹細工を教えてくださったり、
雪すべりのそりを作ってくださったり、竹藪の竹取りに同伴してくださったり、歌を教えてくださりと私達を見守っ て下さいました。さすが住職さんの弟さんだったと大人になりわかりました。
昭和20年2月21日。私達6年生は、本土空襲が激しくなって来ているにもかかわらず、進学の為帰阪する事
になりました。お寺のお兄ちゃんが、大きな愛の手を振り、振り、見送って下さいました。
私は、11才でした。 「空襲の 真っ只中に 帰阪とは」 sweet
昭和20年7月6日の大阪大空襲の時も、お兄ちゃんは、私達の安否を確認する為大阪に来て下さったそうで
す。クラスの子供たちとは逢えなかったと言っておられました。私は、成人してから、その事を聴きました。子供 を想う愛の深さを知りました。学童集団疎開で色々の事を学びました。
「忍耐力。暖かい真心。戦争反対」
大阪駅周辺は、建物疎開(空襲の爆撃による火災の類焼を防ぐため)で家々は、立ち退きになっていました。
私は帰阪して、昭和20年3月5日に国民学校6年生の卒業記念写真をとり、すぐ空襲が激しくなって来ました
ので、千里山の伯母の納屋の2階に家族全員疎開する事になりましたが父一人が残り、家を守る事になりまし た。
空襲がはげしくなり、進学する事より身の安全を守る事が優先され、私の進学の事など二の次だったので
す。私は、どうなるのかしら・・・?
兄は、4年間外地の野戦で戦って、一旦帰国して、内地勤務になりました。
空襲警報が発令されると駐頓地に出動です。すぐに空気の抜けた自転車で、千里山の伯母の家から、電車
で、7駅目の大阪市内の中学校のプールサイトの駐屯部隊地に出動していました。
兄は、銃後を守らなくてはなりません。責任が重かった事と思います。
昭和20年の6月7日の大阪大空襲の時。兄は妹(私の姉)の勤めていた工場が空襲の爆撃にあい燃えている
のをみて駐屯地の近くなので安否を見に行き、集合時間に少し遅刻しました。上官に凄く殴られたそうです。
戦後にその話しを兄から聞き、兄妹愛も許されないはかなさに私は嗚咽しました。でも戦争中は、当たり前の
罰則です。 「戦時下は まかり通らぬ 兄妹愛」sweet
戦争で数多くの被害や悲惨な思い苦しみを、私達の世代は受けました。
昭和20年6月7日の第3回大阪大空襲(だいくうしゅう)で、私の生まれ育った家もB29の爆撃機の爆撃で跡
形もなく被災してしまいました。町はほとんど灰になりました。 第3回大阪大空襲で検索して詳しくご覧くださ い。
幸い私達家族は、3月に千里山の伯母の納屋の2階に疎開していましたので全員無事でした。でも千里山の
叔母の家の庭の防空壕の横にB29の爆撃機からの不発弾が 「ドカン!!」 と落とされていました。
防空壕から出てきて、その不発弾をみて ビックリ しました。雨が降って、庭の土がぬれていたのが幸いした
のでしょか・・・?
もし雨が降ってくれていなかったら、私達家族全員即死です。幸運だったと感謝しました。
画像をダブルクリックして頂くとフルスクリーンになります。
千里山の田舎にも頻繁に空襲警報が発令され、B29の爆撃機が襲来し、山の奥の畑に家族で避難しまし
た。勉強どころではありません。兄は、空襲警報が発令されるとすぐ駐頓地に出動です。
私は、村の学校になんとか編入学しましたが、学徒動員で、薬品工場でエビオスの品質表示を瓶に貼る仕事
をしたり、農作業で田植えをしたり、牛や馬の糞を手づかみで運んだりと、毎日、毎日黙々と働きました。
田植えには、閉口しました。栄養失調の体に蛭(ひる)が足の血を吸うのです。あちこち吸い痕ができるのに
は、12才でしたが悲しいおもいでした。喉がカラカラになりましたが、水筒禁止でしたので、池の濁った泥水を 手ですくいわけて飲みましたが、なぜか腹痛にもなりませんでした。田植えなどの農作業は始めてです。
私は、勉強がしたくても出来ない虚しさで、瓶はりと農作業を黙々としていたのを今でもハッキリ覚えていま
す。日本が戦争に勝つ為の私達のご奉公だと頑張っていました。12才の現在の中1です。
行儀作法も厳しく机の角に腰がすれていて、遠くから見て腰をかけているように見えたのでしょうか? つかつ
かと男の先生が来られ、私達の前で、腰がすれているお友達をいきなり両方の頬を平手打ちされました。その 様子を私は見て、吃驚して声もでませんでした。その方は、体格のよい女生徒だったので、顔を左右に振り振り 先生の平手打ちを涙も見せず堪えられていました。女子でも扱いは、男子と同じで弱音は厳禁でした。12才で も大人扱いで、日本の未来を背負う小国民の軍事教育だったのです。
精神を鍛える意味で、夜。暗闇の中、出席簿順に墓地の内の火葬場の前に籠を置いてきて、次の生徒が取
りに行く訓練もありました。私は、犬に吠えられ怖かったのを覚えています。途中で空襲警報になり中止になり ました。飛んで家に帰り防空壕に潜り込みました。
姉と甥(3才)は、家に帰る途中で「ダダダーーダ。!!」ンと機銃掃射機(低空を飛び機関銃で掃射)に遭い
草むらに飛び込み命拾いをしました。生きているのが不思議だと聞き、身ぶるいしました。何時も死と隣り合わ せの時代でした
私達は、何のための学童集団学童疎開だったのでしょうか ?? 国民学校6年生までの学童集団疎開だっ
たのです。同学年の皆さんは、何処へ避難されたのでしょう?
昭和20年8月6日に広島。9日に長崎にと新型爆弾が投下されたと動員先で聞きましたが、原子爆弾とは知
りませんでした。12才の同い年の方々も動員先で亡くなられたと、戦後知り、その悲惨な状況に涙しました。
昭和20年8月15日の正午。終戦の玉音放送を動員先の工場の庭でお聞きしました。
晴天の猛暑下で、ギラギラと太陽が照り付けていたのを今でも不思議と鮮明に覚えていますが、ラジオからの
放送の内容は、聞き取れませんでしたし、理解もできませんでした。どうやら戦争が終わったようだとは、周囲 の動きでわかりました。 「突然の 玉音放送 我れ忘れ」 sweet
私は、張り詰めていた気持ちに「ポカンーー」と穴があき、茫然自失してしまいました。それからすぐ、熱射病(:
現在の熱中症)に罹患してしまいました。敗戦後すぐでしたので病院もなく自宅で静養し、元気になりましので、 転校を母に希望しました。
人間万事塞翁が馬で、熱射病に罹患したので、母も私の熱意に負け、私の希望通りにしてくれました。
12才でしたが、自分自身の将来を深く考え直して、満員電車で潰されそうになりながら、通学しました。
それからが私の前向きの人生の始まりです。学童集団疎開で忍耐力が身につき、「艱難辛苦 汝を玉にす
る」を心の支えに感謝して生きてきました。
8才で大平洋戦争勃発。11才で学童集団疎開。帰阪してすぐ家族疎開。12才で生まれ育った家がB29の
爆撃機で被災。学徒動員で工場へ。農作業。終戦と食糧難。今思い出しても悲惨です。
戦中。戦後の物資不足の混乱の時代を生き抜いた世代も2008年度平均年齢75.才と聞き愕然としました。
私は、今パソコンを趣味に自適で、日々変化するユビキタスの時代に、学童集団疎開物語りを、シニアになり
ましたが、インターネットでお話出来る事が幸いです。
完
私の知らなかった対馬丸学童集団疎開船
昭和19年8月22日(1944年)敗戦の前年。私達が学童集団疎開した日より1ヶ月早く、沖縄の学童集
団疎開児童達が乗船した対馬丸が鹿児島県・悪石島近海で潜水艦の魚雷を受けて沈没していた事を1997年 (平成9年)。半世紀過ぎて報道で知りました。詳しい資料は、インターネットで、対馬丸 と検索して読ませて 頂きました。涙がとめどなく頬をつたいました。今も海底に小学生のまま眠り続けておられると思うと胸がはりさ けそうに痛みます。
<対馬丸 冷たかろうに65年> sweet
<紺碧の 海底深く 対馬丸 魚雷と沈む 学童疎開児 >
対馬丸をペイントで描きました。高波に同世代の悲しみを込めました。 sweet
|