◆ 栗原利一証言 ◆
畠中秀夫氏の捏造記事について

 
◎栗原利一伍長 第65連隊第1大隊所属

◎スケッチ

スケッチ 1
スケッチ 2
スケッチ 3
スケッチ 4

 
畠中秀夫氏の捏造記事について 執筆 核心さん

まず、私の父が毎日新聞の福永平和氏や朝日ジャーナルの本多氏に幕府山の捕虜虐殺についてスケッチ帳や自分の記憶に基づいて、事実を話したのは偶然的な出来事だったということをお伝えしておきます。大筋はK−Kさんのサイトの私のコメントを読んでいただけば分かります。私自身は畠中氏の記事がまるでデタラメなことは一目で分かりますが、第三者の方が読んだ場合には見当がつかないことなのでしょう。畠中氏の記事のどの部分が父と長年暮らして来た者として不自然であり、ここ数年、父と話している話とは食い違うかを説明して行きたいと思います(大学を出て最初に赴任した大阪での3年9ケ月以外はずっと両親と一緒に生活をしています)。
先日、たまたま畠中氏が父に確認の意味で送って来たと思われる原稿のコピーが見つかりましたので、それとの比較でも説明して行きたいと思います。

畠中氏の原稿は女性の筆跡で清書されたものです。
基本的にはスケッチ帳の記述と較べれば捏造箇所は分かるのですが、それ以外にも明らか任意に追加された部分もあります。
筆者が捏造に苦慮した部分は細かい文字での挿入文が見受けられます。
そのようなことから原稿のコピーを見ただけでも外観的に捏造であることが分かる箇所もあります。
非常に長いものなので読みやすくするために畠中氏の記事等に沿って説明して行きたいと思います。
畠中氏の記事の部分は引用符 ” で囲んであります。

 

 

1.原稿の最初の段落について

畠中氏の原稿にあり、実際の記事には無い冒頭の部分は以下の通りです。

”昭和12年12月に日本は中国の首都南京を陥落させたが、後にこの時、大虐殺がおきたとされた。この南京大虐殺に関しては林房雄氏が15年ほどたってからおおよそ次の様に述べている。「かくすことも誇張も必要ない。日本人自身の手によってはっきりさせるべきだ」今から20年前のことである。
私は林氏のこの意見には全く同感で、しかもこの林房雄氏の問題提起に結論は出たと思っていた。しかし、新聞、教科書などをみていると社会一般は私の思っていたものとちがうようだ。そこで私なりに南京大虐殺について調べ始めた。改めて当時書かれたものや戦後発表されたものを読むと百人百様である。当時の南京を詳しく述べているのに虐殺については一言も言及してしていない書物もある。これらを別にしても、南京で殺された人は百人か2百人という人から30数万人という人まで様々である。
既に歴史上の出来事になっている訳でもないのにあまりにもくいちがっている。そう思った時、まだ当時の南京を知ってる人がいるだろうから直接その人に会って確かめるのが手取り早いと思った。昭和12年12月に南京に行った人は20才すぎの若い兵隊から60才の松井中支派遣軍総司令官まで、多くの人がいた。それから47年。大東亜戦争緒戦の嚇々たる戦果、敗戦、経済困窮、高度経済成長、石油ショック、様々な出来事があり、ほぼ半世紀を経過している。
当時もっとも若かった人でも既に68・9才になっており、大部分は既に亡くなっている。しかし誰もいない訳ではなく、この半年の間に10人ほどの人に会えた。会っただけでは無意味なので聞き書きをしてそれを公表するようにしている。この聞き書きはその一部である。”

この文章全体が記事から欠落しています。
「この聞き書きはその一部である。」と言う文章からすると、本来は父以外の方の証言も掲載する予定だったように見受けられます。
多分、畠中氏は毎日新聞や本多氏に父が話した経緯について事実を知ることなく、父の本来の証言とは逆の証言を捏造することが出来たので父の証言だけに絞った記事にされたように思われます。
 
 
 

2.記事の見出しについて

記事の見出しは以下の通りです。

”追跡「南京事件」
『南京大虐殺』目撃談をデッチあげた『毎日新聞』『朝日ジャーナル』
捏造の構造
それでもジャーナリストか!”

実際に捏造されたのは畠中氏のほうです。
基本的には、主要な部分で捏造し些細な部分で真実を語るという形式で捏造を行なってます。
 
 
 

3.記事の最初の段落について

実際の記事の最初の段落の見出しは以下の通りです。

”果して元陸軍伍長「南京捕虜1万人虐殺」の「証言」は本物か?”

記事の内容は以下の通りです。

”第65連隊の兵士として南京攻略戦に参加した栗原利一さんを知ったのは『毎日新聞』の社会面に載った記事からである。昭和59年8月7日の『毎日新聞』に次の様な見出しが載っていた。
 南京捕虜1万余人虐殺
 元陸軍伍長、スケッチで証言”

”ドキッとするような見出しである。”(原稿:小文字の挿入文)

”内容は東京小平市に住む栗原利一さん(73才)の話と証言で、記事によると南京攻略中の第13師団(仙台)の第65連隊(会津若松・連隊長両角業作大佐)は12月14日、南京城外の幕府山で1万3千余名の捕虜をとらえ、17日か18日にこの捕虜を揚子江岸につれて行き、四方から一斉射撃をして殺した。
栗原さんも65連隊の一兵士として捕虜を連行し(原稿:+射殺し)た。栗原さんはそのことを自ら証言し、当時書いたスケッチも証拠としてもっている、という(原稿:+も)のである。証言するにいたった動機は「真実はきちんと後世に伝えたい」からと『毎日新聞』は伝えている。
幕府山の捕虜については既に当時から知られており、昭和12年12月の『東京朝日新聞』は鳥龍山、幕府山で14、777を捕虜にしたと伝えていた。また福島民友新聞社の昭和13年の『支那事変郷土部隊写真史』は2万人の捕虜があったと伝えている。この捕虜戦果が捕虜虐殺に一転したのは20年後である。昭和12年当時『福島民友新聞』の記者だった秦賢助氏が昭和32年の『日本週報』に「捕虜の血にまみれた白虎部隊」と題する回想記を書き、その中で12月15日、白虎部隊は2万の捕虜を虐殺したと暴露した。白虎部隊とは65連隊の編成地からとった別称である。
これに対し昭和36年、『福島民友新聞』は第65連隊についての歴史『郷土部隊戦記』」を連載した。これは微に入り細に渡ったもので、両角連隊長、(原稿:+従軍作家、)兵士ら健在であった多数の証言をてらしあわせた正確なものであった。”

(記事:追加)”両角連隊長の手記、山田旅団長の日記、千余人におよぶ参戦者からの実戦談を取材したものという。”

”この中ではさきほどの秦氏の証言をもとりあげ、昭和12年当時秦氏は従軍しておらず、虐殺はなかったと断定している。昭和42年、洞富雄氏が近代戦史の謎の自著「南京事件」のなかで再び1万4千余人の捕虜のことをとりあげた。
洞氏は『東京朝日新聞』」と『日本週報』は知っていたが『郷土部隊戦記』のことは知らないらしく、「南京事件」の冒頭でこの捕虜がどうなったかと疑問を投げ、結局虐殺されたと主張している(原稿:いっている)。昭和47年、鈴木明氏が南京大虐殺についてのルポルタージュにとりくみ『”南京大虐殺”のまぼろし』を発表した。この時は両角部隊長は亡くなっていたが、その上にあたる山田栴二旅団長は86才で健在で、鈴木氏は福島、仙台に行って取材をしている。それによれば8千人くらいの捕虜を揚子江の向こうに釈放する途中暴動がおき混乱の中で射殺した、ということであった。
鈴木氏の著書はご承知のとおりベストセラーになった上、今も文庫本になって読まれている。暴動ー射殺説(原稿:この鈴木氏の説)が今では定説になっている。”
(記事:追加)”なお『福島民友新聞』では改めて証言による連載を53年から行なって再度確認している。”

”今回の栗原さんの証言と証拠はこれを覆すものである。鈴木氏のルポルタージュ”

(記事:追加)”や『福島民友新聞』の連載は何千人もの多数からの取材である”(原稿:は何人かからの取材である)。

”一方、栗原さんの証言は一人ではあるが当時のスケッチという証拠もある。どちらが正しいのだろうか。どちらかに虚偽の証言があるのか。
どちらが正しいのだろうか。あるいは間違って記憶していたか。さもなくば記者による何らかの操作か。一体どれなのか私はぜひ確かめたかった。”

(原稿のみ)”そして、それ以上に、栗原さんが当時の南京を知っていると聞いたからには是非会わねばならないと思った。”

基本的に原稿から修正されている箇所は発行年や書名です。
私が個人的に南京大虐殺が抹殺されることに危機感を抱いたのは鈴木明氏のこの書物が最初です。
長兄は昭和33年に精神分裂病を発病し昭和51年に精神病院で縊死するわけですが個人的には”マズイなあ!南京大虐殺がまぼろし化されそうだ!”とその書名を書店で見かけたときには感じました。
”親父の長兄の虐待に対する根本的な理由と考えていた親父の戦争体験が消されそうだあ!”といったところです。
私は当時は仕事で忙しく、父もこのような本を買う人ではないので二人ともこの本は読んでいません。

敢えて言わせていただくと、父の証言は畠中氏や鈴木氏が何千人に会われても出会えることの出来なかった貴重な証言と言うことになるのでしょうか。
 
 
 

4.記事の2段落目について

記事の2段落目の見出しは以下の通りです。

” ”真実”を知るためにーと直接栗原さんの家に乗り込む”

記事の本文は以下の通りです。

”『毎日新聞』に載っていた住所をたよりに、一度お会い出来れば、と葉書を差し上げた。一週間たっても二週間たっても返事はこない。折から『朝日ジャーナル』では本多勝一氏が「南京への道」を連載中で、さっそく21回目(9月7日号)と22回目(9月14日号)でこの証言をとりあげた。
栗原さんは「南京への道」では田中という仮名で登場、捕虜全員虐殺というストーリーの中で決定的な証言をしている。『朝日ジャーナル』によれば、証言するにいたった動機は「南京陥落後、無抵抗の捕虜を大量処分したことは事実だ。この事実をいくら日本側で否定しても、中国に生き証人がいくらでもいる以上かくしきれるものではない。事実は事実としてはっきり認め、そのかわり中国側も根拠のない誇大な数字は出さないでほしいと思う。
あと20年もたてば、もう事実にかかわった直接当事者は両国ともほとんどいなくなってしまうだろう。今のうちに、本当に体験した者が、両国ともたがいに正確な事実として言い残しておこうではないか。真の日中友好のためにはそのような作業が重要だと思う」ということである。また『朝日ジャーナル』には「もし田中さんに何らかの連絡をとりたい方があれば、責任ある手紙をくだされば仲介しますが、匿名など不審なものは黙殺します」とあった。
私は本多氏に今まで何度か質問、依頼などしたことがある。無視されるか、せいぜい3ケ月以上たってから印刷物が送られてくるだけである。いそがしい人だから、それは仕方がないが、今回は念のため仲介を希望した。しかし、3ケ月以上も待てないので”

(記事:追加)”迷惑だろうとは思いつつも”

”直接栗原さんの家に伺うことにした。ウィークデーのある日、地図をたよりに郊外を走る私鉄のある駅におりたった。しかし、捜す家は見当たらなかった。新聞に載っていた住所にそんな家はないのである。
あの住所は本当なのかと思いはじめた。そんなことがあってから数日、ひょんなことから栗原氏に関してもう一つの住所がわかった。葉書を出すとともに今度は日曜日に伺ってみた。『毎日新聞』に載っていた住所は故意かミスか新しく聞いた住所と微妙にちがっていた。新しい住所は同じ駅をはさんで逆と方向である。こんどは簡単に見つかった。しかし留守らしい。玄関の小さな電気はついているがベルを押しても誰も出て来ない。30分ほどまわりをうろうろしていたが結局あきらめた。翌日、おもいきって電話をかけてみた。
奥さんがでてきて、栗原さんは旅行中で今夜帰ってくる、あすの朝もう一度電話を下さい、という。”

”なんとか会えそうな気がして来た。”(原稿:小文字挿入文)

”翌日、9時すぎ電話をすると栗原さんが電話口に出た。奥さんから既に聞いていたらしく、こちらの用件はわかってくれたが会いたくないという。私の一方的なお願いだからそういわれるととりつく島もない。栗原さんの都合のいい時間で結構ですからとくいさがる。あすは剣道大会の審査、あさっては会合、と連日予定があり無理だという。
それなら今日はどうですか、と伺うと11時10分に出かけるからだめだという。じゃその前に10分だけでも、とお願いするとあきらめたらしく本当に10分だけですよと承諾してくれた。それでもすぐこれるか、とか乗り換えが大変だ、とか断りたいらしくいろいろと言う。すぐ行きます、と答えると11時までに来てほしいという。そうすれば10分間の時間はある訳だ。新宿でなく高田馬場から急行に乗れば早いともいう。こっちからみれば一度行っているから栗原さんの玄関がチラチラしている。
大丈夫、わかります、といって電話をきった。もうその時は靴をはいていた。地下鉄、国電、私鉄とすべてタイミングが良く、栗原さんの門の前に立ったのは10時10分だった。一分ほどはずむ息を静めながらベルを押した。栗原さんが出てきた。予想以上に早いのでびっくりしている。「娘に柿を送ってやろうと思ってね」といいながら梱包していた箱を片付けて居間にとうしてくれた。
駅の近くで買い求めた菓子折りをさしだすと「いただく筋のものではありません」と断られた。二千円ほどの菓子折りは、一方的に訪問して話を伺うことに対しての気持ちであり、常識的なことであろう。どういう訳か栗原さんはかたくなっている。その上「簡単にお願いします」と機先を制せられた。「わかりました。お聞きしたいことが二十くらいありますので一つ三十秒づつどんどんお聞きしたいと思います」と答えた。居間に通してくれたものの栗原さんは中腰で顔と口調は緊張している。
「何を知りたいのですか」つっけんどんな言葉がとんでくる。「栗原さんの体験したことは毎日新聞と朝日ジャーナルを読んで充分知っています。それでもよくわからないところがありますのでお聞きしたいのです」こう私は切り出した。”

畠中氏が最初に毎日新聞に記載された間違った住所に葉書を出しても送り返されなかったのは以下の事情だと思います。
父は現役で勤めている時は年賀状が1500通程度届けられていました。ですから郵便局では多少の間違った住所を記載してあっても知られた家だったので正しく届けられたのだと思います。
以前、他の掲示板でもお話したことですが「小平市、栗原利一大馬鹿野郎」でも封書が届けられていましたから。
また小金井市、栗原利一あてでも家に届けられた封書も数通はあったと思います。日本の郵便システムでは届け先さえ把握できるのならば配達されるということだと思います。

最初に言っておきたいことは父の証言が公になったのは何よりも先ず父が話すことを望んでいたからだということです。
このことはスケッチ帳に記入された「軽き身に重き任務の過去なれど拙きペンにて後に残さん」と言う短歌から理解できます。
毎日新聞の方が取材に来られたときは私は前述の事情から、以前から父の戦争体験が公になることを望んでいましたので「話しておいた方がいい」程度のことは言っています。

また、これは以前、他の掲示板で言及したことですが、このころ父は日中友好少年剣道交流試合(?)のために中国を訪れ、南京も再訪しています。
写真で確認したところその時期は翌年の昭和60年でした。

そのようなことも話すキッカケになった可能性はあります。


また長兄が昭和51年に縊死していますので家庭的には平穏な日々が続いていたことも話す背景にはあったと思います。

父のいただいた名刺の日付は毎日新聞の福永平和氏が8月1日です。本多勝一氏は8月10日です。
8月7日に毎日新聞に記事が掲載されて2〜3日後からは脅迫手紙や脅迫電話が続いていましたので柿の荷造りの時期の10月には父はこの件ではどなたともお会いしたくなかったと思います。ほとんど全ての方が非難一方の手紙や電話でしたから。

暫く前に父に脅迫手紙の所在について確認したのですが「分からない」とのことでした。

またここで敢えて言わせていただくと、畠中氏によっても父の証言は事実ならば「決定的な証言」ではあるわけです。
 
 
 

5.記事の3段落目について

記事の3段落目の見出しは以下の通りです。

”「言ってもいないことを書かれた」と憤慨する栗原氏”

記事の本文は以下の通りです。

”栗原さんは応じてこない。私は続けた。「ああいった体験を発表すると反響がずいぶんあるでしょうね」
まだのってこない。『毎日新聞』や『朝日ジャーナル』に証言している位だからインタビューにはなれているはずなのに、といぶかりながら黙っている訳にもいかず困ってしまった。その時ちょうど奥さんが外から戻って来て、お茶を入れてくれた。栗原さんが「どうぞ」とすすめてくれる。指はふとく、手全体がふっくらとしている。『朝日ジャーナル』には剣道八段と書いてあったが、そのせいかなとふとおもった。お茶に手を出しながらいろんなことを考える。もう予定の十分は過ぎようとしている。
これでは栗原さんの自主的な話は聞けそうもない。こちらの疑問点をどんどんぶつけるしかない。そう思った。
「私が聞いている限り南京で大虐殺があったとは思えません。”

(原稿のみ)”私は毎日新聞や朝日ジャーナルとは立場が違います。”

”しかし私は南京を見ていない。私が南京大虐殺はなかったといっても栗原さんがあったというのならあったのでしょう。
今まで私は南京にいった人は何人かに会いましたが誰も大虐殺はあったといってません。あったのなら栗原さんから直接聞きたいのです」”

”栗原さんの顔から緊張の色がとけはじめた。”

”「スケッチブックという証拠もあるので栗原さんの話は嘘ともおもえません。でも聞く人によって証言が微妙に違って来ます。栗原さんの話を直接自分で聞いて今迄証言されたものと照し合わせてみたいのです」
栗原さんの証言を読んで私なりに何点か疑問がある、1万3千余人の死体といったら5、6階建てのマンションいっぱいの死体である。本当にそんなにいたのか。そして数えたのか。四方から一斉射撃したというが日本兵にあたる恐れはなかったのか。等々。こうなったらハッキリそこまで聞くつもりでいた。”

”「あなたが今まで書いたものとかありますか」と栗原さんはいった。あわててバックを捜すと偶然に私が今迄書いたコピーがあった。「こういうものを私なりに書いています」と出すと、ちょっとそれを見ながら「毎日新聞には言いもしないことを書かれました。自分の言いたいことが逆になった」という。私はびっくりした。「それはどういうことですか」と聞くと、それまで中腰だった栗原さんは座りなおして語りはじめてくれた。
栗原さんの語ってくれた半生と戦争体験そして南京での出来事は次のようなものであった。”

まず、私の父に幕府山の捕虜虐殺について話したほうがよいと薦めたのは後にも先にも私だけです。軍隊仲間にも知り合いにも身内にもいません。私の場合も結果的にそうなっただけなのですけど。最も面倒みた戦友からも「話したほうがいいなんていう息子は馬鹿息子だ」なんて言われてましたから。

 「インタビューにはなれているはずなのに、といぶかりながら」についてですが、毎日新聞と朝日ジャーナルのインタビューは当然、任意に行なわれたものなので父の言いたいことが言えただけです。
8月上旬から2ケ月も過ぎたこの時期は既に多くの脅迫手紙や脅迫電話があり、この話題では何も話したくない心境だったと思います。
父としては全く正直に話しただけなのに全国から非難の手紙や電話が押し寄せてきたわけですから。

 『何人かに会いましたが誰も大虐殺はあったとはいってません。』というのは本当の話でしょう。その戦友の方が生前、この騒動以来、梨を毎年送ってこられるようになるのですけど。残桜会関係の資料とつき合わせれば分かることですが、この話は外部には話さないということが当然の如く話されていたのだと思います。長い間、県知事を勤められていた木村守江さんは65連隊の軍医でしたし、長い間、残桜会の会長や最高顧問を歴任していましたから。そういったことも影響していたのでしょう。父は県人会の旅行で福島に行くときは必ず木村守江さんをお訪ねしていました。

父の話では軍隊で報告書を書くのは自分の役目であり、上官はそれをまとめ書きするだけだ。つまり父の書いた内容が最終、隊の報告書になるのだと言ってました。父は達筆で習字は何段かだったと思います。長兄を中村春堂さんに習わせていたくらいですから。春堂さんから頂いた新築祝いの額もあります。当時の編成表なども残っていますがとてもきれいな字体です。また両角さんくらいになると現場のことは全く分からないのだとも言ってます。当然、現場にもいってなかったということです。

また父は幕府山の虐殺について『自分の言いたいことが逆になった』などと言うことは一度も口にしていません。なぜ話すことを禁じられるのか分からないということです。

私自身も人柱ができてうんぬんの話は何回か聞いていますし、武器焼却の話なども聞いています。私が近年、父に確認した話はK−Kさんの私のコメントを読んでいただければ分かります。
この筆者の捏造の第一のポイントは父は『間違ったことを書かれた』と言ったとしている点です。このような話は聞いたとこがありません。上述の話の戦友にも「子供も話した方がいいと言う子供もいる、話さない方がいいと言う子供もいる」とは言ってますが、間違ったことを書かれて困っているなどと言うことは一言も口にしていません。
畠中氏は私が記憶しているところでは「貴方が虐殺をしたなんてことになったら子孫が困るだろう。貴方は虐殺をしなかったことにしてやるから、黙ってろ」みたいなことを言ってきた方だと思います。
『自分の言いたいことが逆になった』などと言われているのなら「名誉毀損で訴えなさい」程度のことを勧めるのが当然だと思いますが畠中氏はそのような行動は取っていません。
この段階で父が名誉毀損で訴えていた場合にはスケッチ帳が表に出て、却って畠中氏の捏造が暴露されてしまっていたでしょう。

畠中氏が栗原証言を永久に抹殺するつもりならスケッチ帳を毀損しておけばよかったと思うのですが。
 
 
 

6.記事の4段落目について

記事の4段落目の見出しは以下の通りです。

”満州事変から漢口攻略まで、最前線で戦った青春時代”

記事の内容は以下の通りです。

”栗原さんは明治の末に生まれ、初年兵として満州事変に出征し、支那事変を青年のまっただ中でむかえ、応召兵として再び出征した。そして満州事変、上海上陸、南京攻略戦、徐州会戦、漢口攻略とつねに最前線で戦ってきた。血と汗と涙の体験の連続である。殺して、殺される、そういう日々だった。人間としてぎりぎりの日々を体験した。満州では排便に使った泥だらけの手で戦友に御飯を与える。与えざるを得なかったし、戦友もそれを食べる。”

”ある時はまわりに迫撃砲が炸裂する最前線。二メートル前進した時、二分前まで立っていた場所で迫撃砲が炸裂した。両親が見守ってくれていると思った。戦友に御飯を持って行こうと敵弾の中を匍匐前進する兵。その兵が敵弾に当たって死んでも手も足も出せない自分。また前進中、近くで迫撃砲が炸裂し「分隊長がやられた」と部下の叫ぶ声を土の中で聞いた時もある。
徐州大会戦では、徐州の中心地に分隊長として最初に入った。あとで入って来た岩仲戦車隊は栗原さんを中国兵とおもって撃って来た。間もなく中心の塔を占領したが今度は日本の飛行機は塔のまわりに爆弾を投下する。ゆれる塔からあわてて日の丸を出した。”

(記事のみ)”このような経験を何度もした。”(小文字挿入文)

この部分は捏造にはほとんど関係ありません。最後の一文だけ小文字挿入文です。

”南京攻略戦では戦友を次々失った。鳥龍山近くに来た時は半分以下に減ってしまった。誰が死んでもおかしくない状況だった。幕府山近くで、栗原さんが分隊長をしている11人は120人の捕虜をつかまえた。武装解除して進む。他の部隊も捕虜をつかまえ”

(原稿:小文字挿入文)”その時”

”合計は13500人の捕虜をつかまえたと聞いていた。南京攻略戦全体では7万の捕虜だとも聞いた。捕虜は廠舎に収容した。自分たちにも充分食べるものがなかったがそれでも捕虜たちには中国の茶碗一杯づつおかゆを食べさせた。
次の日はもう食べる物がなくて捕虜の半分にしかゆきわたらなかった。まもなく捕虜を揚子江の中洲に放すというので一個大隊、135人で護送した。”

(原稿:小文字挿入文)”13500人とは聞いていたが”

”実際の捕虜の数は4千から6千ぐらいだったろう。捕虜の仲には教導総隊のみるからにしっかりした兵もいた。4列か8列かにして護送した。栗原さんは列の一番最後にいた。最初に江岸についた捕虜は座って待っていたが全員が着く迄2・3時間かかった。薄暗くなってきた。栗原さんがまだ護送している頃、江岸に着いていた先頭では暴動がおきた。日本の将校が殺されたと聞いた。そんな動揺が伝わってきて混乱”

(原稿:小文字挿入文)”がおき、そ”

”の中で射撃がはじまった。ほぼ全員射殺で、日本側も何人か死んだ。最初から射殺するつもりで江岸に集めたのではない。”

(記事:追加)”それから死体の始末をすることになった。夜中にいったん戻り、仮眠をとり出直して来た。他の部隊の助けもかり翌日いっぱいかかった。全員を揚子江に流した。”

(原稿:小文字挿入文)”上のほうはどうだったのかわからないが”

(記事)”上のほうはもともと射殺するつもりでつれてきたのかどうか分からない。しかし、自分は射殺するつもりもなかったし、射殺の命令もうけていなかった。”

”殺すか殺されるかの戦争の継続の中のことで虐殺ではなかった”
(原稿)”ない。”

”栗原さんの戦争体験、南京体験はこのようなものであった。”

”戦争の苦しさ、つらさを充分に体験しているように見えた。戦友の一人は今でも両足切断で国府津にいるという。栗原さんは満州事変から徐州作戦まで働いたということで金鵄勲章をもらったが誇りにおもっている。徐州作戦では「麦と兵隊」で有名な第13師団として参加している。現在はマメで世話好きなこともあり、老後とはいえいそがしい毎日を送っている。いたって元気ではあるが73才とはいえ平均寿命に近い。”

 ここは思いっきり捏造されている部分です。捕虜に食べさせた食料は捕虜の投降した砲台で保管していた食料をです。『実際の捕虜の数は4千から6千ぐらい』などと言うことも聞いてません。父はこのような曖昧なものの言い方が出来る人ではありませんから父を知る人には奇異に感じる内容です。『2・3時間』もつじつまあわせの表現です。『暴動がおきた』ではありません。必死になった捕虜の一人が紐をほどき将校の刀を抜いて襲い掛かったという話です。事前に「なにかあったら一斉に撃て」と言われていて、その時をキッカケに一斉射撃、水平撃ちが三方から始まったのです。日本側の死者は1人(?)程度だと思います。事前に機銃(?)隊を隠しておいて捕虜から見えないようにしていて一斉射撃をしたと言ってます。
父は『虐殺』と言わず「処分」といいますが具体的事実は同じです。

 『射殺の命令もうけてなかった。』は記事の中にだけある記述です。原稿にはありません。
 
 
 

7.記事の5段落目について

記事の5段落目の見出しは以下の通りです。

”マスコミ人の良心が問われる『毎日』『朝日ジャーナル』の”捏造記事” ”

記事の本文を説明して行きます。

”その栗原さんが7月22日の『毎日新聞』を手にびっくりした。”

(記事:追加)”『毎日新聞』は『東京日日新聞』といってたころから読んでいる。”

”社会面のトップには「南京大虐殺、中国側、初の史料で立証」という大きい見出しがでており、中国側の史料によれば中国側の史料によれば30余万人が南京で虐殺された、と報じていたからである。”

”これを読んで栗原さんは正義感に燃え、『毎日新聞』に抗議の電話をした。今まで大虐殺があったと新聞などは伝えていた。しかしこれほどの大々的な記事ははじめてである。このままにしていたら本当に日本人が30万人の中国人を殺してことになる。南京攻略戦に参加し、自分の目でみてそれはありえない。そう思って抗議した。電話のやりとりがあり、毎日新聞の記者が栗原さんを訪れることになった。訪れた記者に栗原さんは私に話してくれたと同じ体験を話した。その時昭和13年、漢口攻撃戦で負傷して入院中に書いたスケッチブックをみせ「捕虜の殺戮は戦争の一部であり虐殺ではなく、中国の本に載っているようなことはなかった」と語った。
その話が8月7日に記事になった。読んでみてビックリした。『毎日新聞』では「4〜6千人の捕虜が13500人」になり、暴動と混乱の中で攻撃が始まったのが「後ろ手に縛られ、身動きもままならなかった捕虜が集団で暴動を起こすわけない。虐殺は事実」になった。
「言ってないことが記事になり、30万人虐殺に抗議したのが一転して虐殺の証人になった。全く逆になった」と栗原さんはくやんだ。”

この部分は殆ど捏造です。この筆者は毎日新聞の記者(福永平和氏)から父がどのように聞かされて取材を受けたのか全く知らないようです。私が確認したところでは「父がもっともよく知っていると聞いて取材に来た」と聞きました。毎日新聞の記者の方は南京事件や幕府山の捕虜虐殺につき事前に福島などで取材し、それで父を知ったということだったようです。それに毎日新聞に載った記事を見て父がビックリしたというのもありえません。ビックリしたくらいなら直後に本多さんの取材はうけるハズがありませんから。また父は新聞社に抗議の電話をするようなタイプの人間ではありません。
 ついでに言っておくと原稿には無く、記事にだけある部分がありますが、記事の信憑性を増すために後日電話取材した可能性はあります。

”新聞に栗原さんの証言が出ると、「嘘つき」「馬鹿野郎」という抗議の手紙が十通ほどきた。昔の戦友からも一通きた。後輩なのでこれは事実をいってわかってもらった。逆に同じくらいよく告白してくれたという激励の手紙も来た。変な気持ちになったそうだ。
手紙のほかに人が尋ねてきた。防衛庁の戦史の方も二人が来た。5分だけどと言って朝の9時ごろ来たが結局午前中いた。
「防衛庁の人は黙って話を聞いていたが防衛庁でも事実は知ってるはずですから私の話に納得したはずです」という。”

”江岸での出来事は戦争の流れの一つで、みせたり書いたりすることではないと思っている。
謝家橋鎮では私の部下の松本が負傷して後送される大激戦があったのに本多記者の本には何もなかったと書かれていた。基本的な間違いが多いといってやったんだがね」
本多氏と会った時のことをこう述べているが、この間、何度も「のせられた」と語った。
時間は既に11時を過ぎていた。「防衛庁の時と同じで十分間といってもやっぱり午前中かかるな」といいながらも「満州事変記念写真帳」や「夕陽千万峰」といって栗原さんの所属していた65連隊2中隊の記録などをとりだして説明してくれた。
南京大虐殺についてもスクラップをはじめ十冊ほどの関係書をとりだしてきて説明する。
洞富雄氏の著作を「一部だけとりだして虐殺があったといっている。殺すか、殺されるか、その流れの中の行動であって虐殺ではない。中国兵をこの野郎と思い、にくらしいと思っていた兵隊の気持ちは分からないでしょう。何故こんなことを書くのだろう」

(原稿のみ)”世界日報の記者が来た。”

”朝日新聞の本多記者も来た。何年か前から、南京大虐殺とよくいわれるようになった。その時から栗原さんは南京大虐殺に関する本を読んで自分なりにしらべはじめた。自分の個人的体験から大虐殺はなかったと思っているし、大虐殺を主張する本を読んでもあったとも思わない。”

(原稿:追加)”と確信している。”

「本多記者は中国人の言う嘘ばかり書いている。ジャーナリストは気が狂っているのではないかと思う。それでも”

(記事のみ)”わかってもらおうと”

”私の家に来た時は『毎日新聞』の記者に話したような自分の体験を話した。しかし、ここでも裏切られた。”

(原稿)”朝日ジャーナルを読むと”

(記事)”『朝日ジャーナル』には”

”自分の言ったことは書いてあるが、全体として私が言おうとしていることとは別のことになっている。のせられた。自分では捕虜が4千から6千と思うと言ったが1万3千にすりかわっている。
捕虜にはラーメンなどを食べる大きい茶碗で食べさせたが、それが中華料理などで使われる小さな支那茶碗にかわっている。
私は護送だけだったのに小銃で撃ったように書いてある。”

この部分も捏造だらけですね。『後輩』から電話もきました。福島で虐殺を話した方がよいと言うかたは一人もいません。この後輩の方から「話した方がいいなんて言う息子は馬鹿息子だ」と言われてしまったのですから。本多氏に父が詳しく話したのは私が「歴史的な出来事なので事実を正確に話したほうがよい」と勧めたからです。別に本多さんにのせられたからではありません。
原稿の『朝日ジャーナルを読むと』というのも変な話です。父は朝日ジャーナルなんて週刊誌はその存在さえ知らなかったと思います。
大体、父は月刊誌や週刊誌の類は購入したことがありませんから。「剣窓」とか「剣道日本」との剣道関係の雑誌を定期購読しているだけですから。
『気が狂っている』という言葉は長兄のことを考えれば父の口からは出ない言葉でしょう。明治44年生まれで鬼畜米英で戦ってきた人間には『ジャーナリスト』なんて言葉も不釣合いです。父が横文字言葉を使うのは聞いたことがありません。

究極的な捏造は『護送だけだったのに小銃で撃ったように書いてある』でしょう。これはありえません。
 水平撃ちの時間については本多氏への証言では1時間になっていますが、私が疑問に思い「1時間では少ないのではないか?」と以前父に聞いた時に、「2時間か3時間か、人柱が何回か出来て立っている人がいなくなるほど撃ち続けた」と言ってましたから。

 うちの父が本多さんや洞さんの著作についても批評したことは聞いたことがありません。
 以前、他の掲示板で話したことですが2〜3年前に父と話していて本多氏の
名前に出たときに父の口から出た言葉は「おお、本多さんは元気か?」です。
父にとっては本多氏に話をしたことはとてもうれしいことだったのです。

”と手きびしい。
栗原さんの話は八割ほどが戦争・戦闘の話で、残り二割が南京での話である。
戦争のつらさ、生死が背中合わせの状況、敵へのにくしみ、死んでいく戦友、そして戦争が終わった時たまたま栗原さんが生きていた。それが栗原さんの実体験であり実感である。
南京での出来事はその中の一部であり、戦争・戦闘の延長上に捕虜の殺戮があったので、虐殺ではなかった。これも栗原さんの実感である。南京全体のことは一兵士の栗原さんは知る由もないが”

(記事のみ)”南京攻略戦の中で最大の捕虜をつかまえ、証拠のはっきりしているといわれる江岸の出来事がこうである。あとはおして知るべし、南京大虐殺はなかったであろう、という。
私は栗原さんに会って、南京大虐殺の原点をみた気がした。戦闘の流れの中での殺戮、それとフィクションの作られ方である。”

 父が全てを話してしまったのが昭和59年8月上旬、畠中氏が取材されたのが10月すぎ、この記事が掲載されたのが昭和60年3月号という時の流れを追っていく取材から掲載までの時間の空き方はまさに捏造するために時間だったということです。
 また畠中氏の記事から、この捏造には防衛庁も絡んでいることが分かります

 
 
 
詩  栗原利弘の人生

栗原利弘の人生は悲惨だった。

昭和12年の7月に生まれ、親父は9月には出征し、帰って来たのは昭和15年。
傷痍軍人の姿だったので親父には全くなつかず。

疎開先の福島で育てられたため戦争の悲惨なことを知らず。
学生時代にプレスリーやジェームスディーンを知り、夢中になり、ちょっとした経緯(いきさつ)から恋人との仲をさかれ親父に精神病院に強制入院させられ、そのうち本当の精神分裂病になり。

うん悪くお袋の父親も既に死んでしまっていて、親父の弟もレイテ戦でなくなり、親父の長兄に対する虐待を止めることのできる人が誰もいなくて。

なんの希望もなく、恋人に捨てられ(結婚した恋人の家の近くまでは発病後も行ったことがあるみたいだった)少しばかしの小遣いをお袋からもらい、近くをウロウロ歩いて、時々警察につかまり保護されていた。

最後に精神病院で窓枠に紐をかけ、首をつって死んでしまった。

桐朋高校卒業、中央大学法学部法律学科卒業の栗原利弘の話です。


 
 
 

補足1)名刺の日付の正確性について

 現在、手元に4枚の名刺がありまが、父がいただいた名刺に記入した日付は多少不正確であることが確認できてます。

1.毎日新聞、福永平和氏
 日付は59.8.1と記入されていますが私の記憶では福永氏は6月ころより数回父を訪ねて来て取材されていると思います。

2.朝日新聞、本多勝一氏
 日付は59.8.10と記入されていますが私の記憶では8月7日の午後に取材に来られています。

3.防衛研修所戦史部
 日付は59.8.8と記入されていてS氏とM氏の名刺があります。本日(7月2日夕方)M氏(現在86歳)に電話で確認が取れました。M氏によると父を訪ねたのはS氏と二人とも毎日新聞を見て連絡しあい、新聞掲載後5日以上過ぎてから父に電話連絡して、約束し、それから家に来られたそうです。
ですから実際に来られたのは掲載後1週間以上たってからだと思います。
これは私の記憶と一致します。
実際には10日以上経っていたと思います。

 私は本多氏の取材のときは本多氏の取材中ずっと家におりました。また、戦史部の方が家に来られたときも家におりました。戦史部の方が来られたときは既に脅迫電話や手紙が届き始めたころで任意に話せる状況では無くなっていました。

 結論から言いますと父は日付をそれほど正確には記入していなかったようです。
 
 
 

補足2)中隊会、残桜会関係の資料

 フォルダーは2冊あります。

1.「歩65第二中隊会」
  コピー(昭和8年10月 秋季演習編成表 第二中隊)
  コピー(昭和13年4月21日 歩兵第65連隊第二中隊編成表)
  写し(昭和13年8月21日 歩兵第65連隊第二中隊編成表
  コピー(表彰状 歩兵第65連隊第二中隊あて、第13師団長より、昭和13年12月25日)
  葉書(昭和56年2月11日の第19回中隊会の案内)
  葉書(昭和57年4月24日の案内)
  葉書(昭和59年4月8日の在京歩65会定期総会の案内)
  コピー(畠中秀夫氏の記事の原稿)
  コピー(平成9年7月10日 中隊会総会(懇親会)決算書)
  歩65残桜会誌25号(平成9年11月1日発行、木村守江氏逝去記事
     明治33.4.6 出生
     大正14.3.  慶応大学医学部卒業開業医
     昭和12.9.  歩65連隊に応召軍医として上海、南京、徐州、大別山の作戦に参加
     昭和14.1.  召集解除
     昭和30.11. 歩65残桜会会長
     昭和56.5.  会長辞任、最高顧問

  第18回歩65戦没者慰霊祭ご案内(平成10年6月16日)
  平成10年度中隊会のお知らせ(平成10年7月7日)
  名刺4枚

2.「歩65ノ2」
  コピー(昭和58年3月27日 中隊会懇親会会計決算書)
  アカツキ(日本青年協会 昭和60年1月1日 終戦秘話 会長 鈴木一)
  コピー(昭和60年4月27日 中隊会総会参加者名簿)
  昭和60年歩65第二中隊会の案内(昭和60年4月27日)
  父宛のお侘びと中隊会案内のメモ
  歩兵65連隊第三回合同慰霊祭のお知らせ(昭和60年4月28日)
    委員長鈴木忠氏、副委員長平林貞冶氏ほか3名、委員木村守江氏ほか56名
    (昭和32年8月に執行委員長、元連隊長服部卓四郎氏、ほか内山氏、両角氏など80名で合同慰霊祭
    第二回目は390名の参加)
  郵便振替払込金受領証(昭和60年6月29日 在京歩65会会費)
  在京歩65会会員名簿(昭和60年12月)
  葉書(昭和61年4月27日の中隊会の案内)

  「日本の滅亡はいかにして救われたか」(宰相 鈴木貫太郎翁の誠忠をしのぶ 深山神社)
  財団法人 日本青年協会の概要
  第12回歩65戦没者慰霊祭ご案内(昭和61年9月13日)
  靖国神社の概要
  歩兵第65連隊歌
  英霊にこたえる会、入会のご案内ほか
  葉書(昭和62年8月5日 慰霊祭費受け取り)

  郵便振替払込金受領証(昭和61年8月30日 在京歩65会会費)
  郵便振替払込金受領証(昭和62年5月30日 在京歩65会会費)
  歩65第二中隊会誌(昭和62年10月10日発行)
  回想文寄稿者一覧
    ※注記 父は「徐州一番乗り」の標題で30枚の原稿を依頼されていますが実際に機関紙には掲載が有りません。
  コピー(在京歩65会親善旅行の案内 昭和63年6月14日、15日)
  郵便振替払込金受領証(昭和63年12月27日 在京歩65会会費)
  コピー(昭和63年中隊会総会参加者名簿)