相模国と武蔵国の国境を行く 1    
 
                      日本に国(正確には令制国)がおかれたのは700年頃、飛鳥時代で、それ以降、明治初期の廃藩置県まで、国が存在していたのはみなさんよくご存知のとおりである。とはいっても、県の範囲はそれまでの国を基本としているので、国境と県境は重なる部分も多い。

 神奈川県は、基本的には相模の国を元にしている。ところが、国の中心、つまり現在の県庁所在地に当たる国府はどこにあったのか、はっきりしていないようだ。海老名市や小田原市という説もあるが、最近の発掘調査により平塚市にあった国府が大磯町に移動したという説が有力になったようだ。
 その後、鎌倉に幕府が開かれ、戦国時代には小田原が関東の中心となったことからも、飛鳥時代から江戸時代まで、神奈川県は相模国を中心に日本の表舞台に立っていたといえる。では、武蔵国であった横浜市東部と川崎市はどうだったのか。結論から言えば、小さな漁村や農村があるだけの辺境の地である。江戸時代には江戸に近いこの地域が開けたのではないかと思いがちであるが、江戸の人口は現在の1/10であり、渋谷や新宿でさえ片田舎であった。
 横浜が歴史に登場するのは、江戸末期に開港してからである。
 明治4年の廃藩置県後は、三浦半島と鎌倉を除く相模の国は足柄県となったが、その後、多摩地区や伊豆半島の帰属でごたごたした後、足柄県と神奈川県が一緒になって、明治26年に現在の神奈川県の範囲が確定している。

 要するに明治時代初期までは、現在の神奈川県の中に、千年以上続いた相模国と武蔵国の国境が存在していたのである。その国境を踏破してみよう、というのがこの企画である。では、その国境は実際にはどこだったのか。図でみてみよう。


 古地図やいくつかの資料から大まかな国境線を引いてみた。
青の部分は、現在の都県境で、多摩地区が東京都に編入されてから県境になったので、神奈川県一周ですでに歩いている。ほとんどが境川と南高尾から生藤山に続く尾根で構成されている。
 
赤の部分が今回歩く予定の県内にある旧国境線で、横浜市のうち、瀬谷区、泉区、戸塚区、栄区のほぼ全域、そして港南区の西半分が相模国である。港南区では、区の真ん中を南北に国境線が走っているので、東西両地区の住民は今でも仲が悪いのである...というのは冗談だが。
 なぜここに国境があったのか、それは、金沢区・横須賀市境を除けば、相模湾と東京湾の分水嶺になっていたからという理由のようだ。と現代の我々が言うのは簡単な事だが、まともな道や地図もない飛鳥時代に正確に国境を設定できたというのも凄いことである。

 前置きはこれくらいにして、さっそく飛鳥人が引いた分水嶺の国境線をどこまでも辿ってみよう。
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◆ 2014年8月30日  南町田駅 〜 南万騎が原駅
 

  夏の終わりに近づいたある日、1,300年以上前に引かれた国境をこの目で見てやろうという密かな野望を抱く中年男が、南町田駅に降り立った。時刻は10時30分である。

  1 南町田駅                     2 東名横浜町田インター付近 その1
   

 グランベリーモールを通り抜けて、国道16号を横浜方面へ向かうとやがて東名高速のインターが現れる。




 複雑なインターチェンジはちょうど神奈川県と東京都の境界線上に作られている。

  3 東名横浜町田インター付近 その2         4 東名高速の上を横断する
   

 インターを過ぎて、そろそろ都県境が鋭角に反転して境川に向かう地点に近づいた。

  5 都県境を東へ その1               6 都県境を東へ その2
   

 さて、先ほど国境は分水嶺だと書いたが、本当にこのインターチェンジ付近が分水嶺になっているのだろうか。確かめてみよう。



 上の水系図をみると、左側には江ノ島で相模湾に注ぐ境川が流れている。右側には恩田川の支流があるが、恩田川は鶴見川の支流であり、もちろん鶴見川は東京湾に流れ込んでいる。うーん、さすが飛鳥人、こんな山でもないところでも分水嶺にピタリと国境を通しているのであった。

 GPSで現在地を確認する。写真7のあたりが分岐点である。ここからは、国境は東京都を離れて、横浜市の緑区・瀬谷区の区境となっているわけである。

  7 横浜市緑区・瀬谷区・東京都町田市境界付近     8 緑区・瀬谷区境
   



 地図を見ながら、国道を右折してホテル街の中の道に入っていく。東に進んできた国境であるが、写真10の地点で今度は南に向きを変える。

  9 国道16号から右へ                 10 緑区・瀬谷区・旭区境付近
   

 南下するが、地形図にあるはずの国境の道は写真11のように浄水場の敷地で突き当たってしまった。おかしいと思いながらも、右折して迂回する。左折して横浜水道みちに出た。写真12の緑の空地である。

  11 川井浄水場に突き当たる             12 横浜水道に沿って迂回する
   

 再び国境に出ると道は右折して、ふただび南に向かう。そこからフェンス越しに北側を覗いたのが写真14である。左側にフェンスがあり、向こう側には道路跡が残っていた。地形図は正しかったのである。何らかの理由で、国境沿いの由緒ある道を、水道局が勝手に塞いで通れなくしてしまったらしい。歴史を冒涜する暴挙?である。

  13 国境に復帰                   14 閉鎖された国境
   

 南へ向かうと浄水場の正門があったが、なんだか工事現場のように殺伐としている。調べてみると浄水場をリニューアルしている最中らしい。なんと膜濾過という最新式のものにするようだ。要するに浄水器、つまりトレビアーノとか、ああいったものを、ものすごく大規模にやろうとするのだから、世の中進歩したものである。しかし、だからといって、歴史ある国境の道を塞いで良いということにはならないのであるが。

  15 国境(瀬谷区・旭区境)を南へ           16 川井浄水場正門前
   



 さて、上の地図をみると写真17から20の間で、区境が旭区側に出っ張っているのがわかる。明治時代の地図では、境界はこのような不自然な形にはなっていないので、国境もおそらく直線になっていたと思われる。この地区の地名は卸本町で、1980年の地番整理事業の時に新設されたとあるので、この時に区境が変更され瀬谷区がはみ出して国境と食い違ってしまった可能性がある。少なくとも飛鳥時代にこのような国境を引いたとは考えられない。

  17 国境と現在の区境が解離する場所         18 瀬谷区の突出部分
   

  19 国境を南へ                   20 上瀬谷通信施設へ
   

 卸本町の道路を横断して直進すると、坂があり、そこを上ると全く違う世界が開けていた。写真20は異次元への入口だったのである。



 右手はフェンスに囲まれ、左手はまだ横浜市内にこんなところが残っていたのかと驚くような、ゆるやかな起伏の地形に畑がどこまでも広がっていた。

 21 上瀬谷通信施設 その1              22 上瀬谷通信施設 その2
   

 上瀬谷通信施設である。上瀬谷通信施設は、現在使われていない。その理由は、通信に衛星が使われるようになったからである。往時はソ連や中国の通信を傍受していたのだろうか、それとも、米軍内の通信を担保していたのだろうか。

  23 上瀬谷通信施設その3              24 上瀬谷通信施設 その4
   

 来年返還されるらしいが、現在はまだフェンス内は立ち入り禁止になっており、建物も残っている。そのフェンスと畑の境界あたりが国境線なので、たどっていく。現地ではこのフェンス内が米軍施設だと思っていたが、後で調べてみるとそうではないことがわかった。下の地図を見ると、接収地は、フェンス内だけでなく、周囲も含めた非常に広い範囲であることがわかる。これは、通信を確保するための緩衝地のようなものらしく、立ち入りはできるので、畑が広がっている。ずいぶん広々とした畑だなあ、と思っていたら、こんな事情があったらしい。

 上瀬谷通信施設の範囲

出典:国土交通省資料http://www.mlit.go.jp/kokudokeikaku/souhatu/h18seika/07syutoken/07_toshi_02honpen2.pdf

  25 立入禁止の警告                 26 上瀬谷通信施設 その5
   

  27 上瀬谷通信施設 その6             28 上瀬谷通信施設 その7
   

 夏だから、ということもあり、フェンス際の雑草がものすごくて、突破するのは難しそうな状況になってきた。

  29 上瀬谷通信施設 その8             30 上瀬谷通信施設 その9
   



 しかたがないので、東側の農道に出る。それにしても広い。基地のおかげで民家が全くないので北海道のような開放感がある。のんびりした畑ではあるが、れっきとした米軍接収地内だ。
 米軍施設やその跡地をみるたびに思うが、もしここが基地でなければ、無秩序なウサギ小屋の並ぶ住宅地か、ゴルフ場になってしまっていただろう。昔ながらの風景を残しているのは、基地のおかげというのが日本中どこでも見られる現象であることは皮肉である。

  31 上瀬谷通信施設 その10            32 上瀬谷通信施設 その11
   

  33 上瀬谷通信施設 その12            34 上瀬谷通信施設 その13
   



  35 上瀬谷通信施設 その14            36 上瀬谷通信施設 その15
   

 米軍施設のフェンスは写真36の地点で西に向かっている。写真37の地点が国境である。フェンス内を南下してきた国境、つまり瀬谷区・旭区の区境がここでフェンスの外に出てくる。フェンスの内側は野球場になっていて、日本人に開放しているようだ。

  37 上瀬谷通信施設 その16            38 上瀬谷通信施設 その17
   

 ここからの国境は、旭区側だけが草が刈ってあるのでわかりやすい。瀬谷区側のような状態だったらとても歩けなかっただろう。

  39 上瀬谷通信施設 その18            40 上瀬谷通信施設 その19
   

 しばらく歩くと、写真40の農道に出た。この農道を左折する。国境は農道とともに南東に向かっているのである。こういうランドマークが何もない場所では、GPSが大活躍である。
 それにしても誰が何のために草を刈っているのだろうか。作物があるわけではないので、牧草地として使っているのだろうか。雰囲気はまさに北海道である。
 飛鳥時代もおそらく国境沿いのこの道はあったのだろう。どんな風景だったのかが現代でも想像できそうな、ワイルドな道だ。そして、こんな平坦な場所が分水嶺だというのも不思議な地形である。この辺りで標高は70mくらいだ。

  41 上瀬谷通信施設 その20            42 上瀬谷通信施設 その21
   

 旧日本軍の基地ができたということは、当時でも接収前のこのあたりは横浜市でも最も開発が遅れていて、今と同じように畑や荒野が広がっていたのだろう。これは貴重な風景であるとともに、返還後は地主がマンションや老人ホームを建ててこの景色が失われてしまう心配をしてしまう。



  43 上瀬谷通信施設 その22            44 上瀬谷通信施設 その23
   

 およそ横浜市内とは思えない国境の道を歩く。フェンスに囲まれた基地の施設があったが、やはり使われていないようだ。

  45 上瀬谷通信施設 その24            46 上瀬谷通信施設 その25
   

 舗装もされておらず、雑草は刈り取られているものの畑でもない不思議な荒野が続く。

 47 上瀬谷通信施設 その26             48 上瀬谷通信施設 その27
   



 ついに雑草を刈り取っている正体を見つけた。専用のトラクターのような車で刈り取っているが、基地関係者なのか、行政なのか、農家なのかわからない。ただ、ものすごく広い範囲だということは確かである。

  49 上瀬谷通信施設 その28            50 上瀬谷通信施設 その29
   

 どれが国境の道だかわからないので、GPSに頼りきって歩く。

  51 上瀬谷通信施設 その30            52 上瀬谷通信施設 その31
   

 53 上瀬谷通信施設から瀬谷市民の森へ         54 瀬谷市民の森 その1
   

 そして、草原から森に入る。



 国境の道としてはこちらの鬱蒼とした森のほうが自然な気もするが、はたしてここが横浜市内なのかと信じられない風景である。

  55 瀬谷市民の森 その2              56 瀬谷市民の森 その3
   

 雑草が生い茂り、もはや登山道、いやそれ以上の難路である。

  57 瀬谷市民の森 その4              58 瀬谷市民の森 その5
   

  59 区境界                     60 瀬谷市民の森 その6
   

 時代劇で、主人公が刺客におそわれそうな薄暗い森の中の国境の道である。

  61 瀬谷市民の森 その7              62 瀬谷市民の森 その8
   



 道の左側は旭区、右側は瀬谷区である。しかし、この森は(右側だけかもしれないが)瀬谷市民の森という名前がついていることが、写真63の標識からわかった。その先には道標があり、この道が「野境道(のざかいみち)」と呼ばれていることを知る。江戸時代には江戸と鎌倉を結ぶ間道として利用されていたそうだ。先ほどの話ではないが、山賊が出てもおかしくない道である。

  63 瀬谷市民の森 その9              64 瀬谷市民の森 その10
   

  65 瀬谷市民の森 その11             66 瀬谷市民の森 その12
   

 やがて、国境は現代の道路にぶつかる。正面は瀬谷高校でここを左折する。

  67 瀬谷市民の森出口                68 瀬谷高校
   



  69 野境道 その1                 70 野境道 その2
   

右手に医大病院が見える交差点にぶつかった。ここには詳しい地図があり、野境道路ルートという散策路として紹介されていた。野境とはもちろん国境のことである。

 71 野境道付近の案内板

 右折して、大学病院の前を通って東へ向かおう。次の目的地は三ツ境駅である。

  72 野境道 その3                 73 聖マリアンナ医科大横浜市西部病院
   

  74 神奈川県水道企業団               75 野境道路標識
   

 その名もズバリ、野境道路である。



  76 区境標識                   77 現在地標識
  

 ここは市民の森プロムナードと名付けられ、並木ときれいな歩道が続いている。

  78 三ツ境駅へ その1               79 三ツ境駅へ その2
   

 住宅と道路で気づかないが、樹木の間から時折垣間見える写真80のような景色をみると、ここがまさに尾根道であり分水嶺であることが実感できる。

  80 尾根から丹沢を望む               81 三ツ境駅へ その3
   

 きれいな市営住宅を横目にみて三ツ沢駅へ向かう。

  82 三ツ境駅へ その4               83 楽老ハイツ
   



 12時40分、三ツ境駅に到着した。コンビニで、昼食を買おうとするが、緑の美しい瓶が目に止まり、結局鶏の唐揚げと緑の瓶を買ってしまった。こんなアル中患者のような行動を誰かに見られたら、と気が引けるが、とりあえずホームレスのように道端に座り込んだところで、重大なことに気がついた。栓抜きを持っていない...
 普段缶ビールばかり飲んでいるのですっかり忘れていた。コンビニまで戻ろうかとも思ったが、ダメモトでコンクリートの角に瓶の首を接触させて下に勢いをつけてスライドさせると栓が抜けた。我ながら見事である。内心得意になって、緑の瓶をラッパ飲みした。駅前で訳の分からない行動を取るバカな中年男である。
 ところでこの三ツ境という地名だが、国境と関係があるのと思って調べてみたが、由来はよくわからないようだ。

  84 三ツ境駅                    85 昼食
   

 再び歩きはじめる。三ツ境駅の東側で、国境は相鉄線を越えるはずだ。

  86 三ツ境駅前                   87 駅前を右折して南下
   

 三ツ境橋で相鉄線を越える。三ツ境駅の標高は80mほどだが、相鉄線では最高地点だそうである。国境は分水嶺だということがわかる。その尾根を相鉄線は写真88のように切り通しで越えているわけだ。

  88 相鉄線を越える                 89 相鉄線南側
   



  90 三ツ境駅から南へ その1            91 三ツ境駅から南へ その2
   

 三ツ境駅から南へ向かう国境は、住宅地の中を続いているが、一応、尾根、分水嶺なのでなんとなく眺めが良い感じがする。

  92三ツ境駅から南へ その3             93 三ツ境駅から南へ その4
   



  94 三ツ境駅から南へ その5            95 国境から旭区側を見下ろす
   

 尾根なので、左右ともに下り坂になっている。写真95は、国境から希望が丘方面を見下ろしたところで、やはり下り坂になっているのがわかる。

  96 三ツ境駅から南へ その6            97 三ツ境駅から南へ その7
   

 平凡な道であるが、忠実に国境をたどっており、なんとなく古そうな道だ。

  98 三ツ境駅から南へ その8            99 三ツ境駅から南へ その9
   

 少し下り坂の開けた場所に出た。国境が新幹線を越える場所である。



 新幹線も切り通しになっているが、理由は相鉄線三ツ境駅と同じだろう。

  100 東海道新幹線を越える             101 横浜隼人高校
   

 横浜隼人高校を過ぎると、周囲は急に荒廃した雰囲気になる。民家がなくなり、産廃、リサイクル系のヤバそうな事業所が点在している。右手は配水地になっているが、地図ではゴミの処分地になっている。
 ここで、区境の右側は瀬谷区から泉区に変わる。

  102 道路を不法占拠する解体業者          103 高塚配水池 その1
   

  104 高塚配水池 その2              105 神明台処分地へ
   



 分水嶺の相模湾側にかつては美しい谷戸が広がっていたはずであるが、今は横浜市民の欲望のままの大量消費生活の後始末をするための犠牲となった土地である。

  106 神明台処分地                 107 神明台処分地入口
   

 処分地を過ぎても、荒廃した雰囲気は続く。歩いている人もなく、女性が夜歩くような道でないことだけは確かである。

  108 南万騎が原駅へ その1            109 南万騎が原駅へ その2
   



  110 ボーイスカウト野営場             111 南万騎が原駅へ その3
   

 ボーイスカウトのキャンプ場があったが、ゴミ処分場と新幹線の騒音に囲まれて少しかわいそうな場所である。まあ、使い道がない土地だから貸してくれるのだろうが。

  112 国境尾根から旭区側を見下ろす         113 処分地方面の緑地
   



 荒廃した地域を抜けて住宅地に入ってきた。南万騎が原駅も近い。上の地形図をみるとわかるように、写真114から119の区間は、区境が直線的になっている。もともとの地形が開発で改変されたので区境も変更したものだろう。その証拠に、明治時代の地図をみると村境は直線ではない。

 歴史的農業環境閲覧システムによる新旧地図の対比(旧村境は水色で加筆)

 それにしても、明治時代のこの辺りは見事に何もない。純農村地帯で谷戸が広がるいわゆる里山だったのだろう。
 話は変わるが、この歴史的農業環境閲覧システムというソフトは素晴らしい。作者の方に感謝あるのみだ。

  114 南万騎が原駅へ その4            115 国境のスポーツ広場
   

 ここがもとの国境と異なり、区境が直線化された場所である。山を切り崩して区画した時に、スポーツ広場のようなものが作られたらしく、ここは旭区側になっている。旧国境は、写真116の辺りだと思われるが尾根が切り崩されてしまったのでわかりにくくなっている。

  116 推定旧国境                  117 区界標識
   

 上で述べたように、このあたりの国境は地形ごと見事に改変されているので、とりあえず区境をみてみる。幹線道路を渡ると、写真119のこども自然公園に向かう一直線の道路があるが、これが現在の旭区と泉区の区境である。住宅地になってしまいわかりにくいが、写真118をみていただくと、地形的にここが元の尾根であることがわかる。国境である。

 118 南万騎が原駅へ その5             119 西に続く区境
   



 今日の行程はここまでとしよう。国境を離れて旭区側に入り、南万騎が原駅へ向かう。

  120 駅前ショッピングセンター           121 南万騎が原駅
   

 14時23分、南万騎が原駅に着いた。

  122 南万騎が原駅から国境方面を望む
     

 GPSによる本日の歩行経路 (時間:3h54m 距離:15.6km 歩数:23279歩)
  

 相模国と武蔵国の国境をたどる企画、やってみると結構面白い。今日の行程は尾根と言っても山ではないので、比較的忠実に歩くことができた。以外にも国境が古道として残っているところも多い。特に米軍基地のおかげで、昔のままに近い風景をみることができたのは幸いであった。上瀬谷通信施設はまもなく返還されるということで、それはもちろん良いことだが、残念ながら、国境の原風景は失われてしまうことだろう。そういう意味でも、今回記録に留めることができたのは良かったのかもしれない。

 国境は、昔は国の外れの辺境の地であったはずだが、現在の国境は、開発されて大きく変わってしまった。にも関わらず、なんとなくその最果て感を感じることができたのは素晴らしい体験だった。国境を設定した飛鳥時代の人々は、どんな思いだったのか、その分水嶺に立って想像するのも結構楽しいものである。

(本日の歩数:23279歩)            

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