三箇城
[ ホーム ] [ 上へ ]

 

菅原神社前の石柱(06年9月)

JR学研都市線「野崎」でおりる。この駅は野崎観音への最寄り駅、総て東側に主眼があり、城址へ向かう西側へは不便。駅の出口も東側のみ。東側には山並みが間近に迫り目にまぶしい。この一帯が湿田地帯で寝屋川が排水路だったとは、想像できない。その湿原地にあった島に三箇城はあったらしい。山の頂上に本城の飯盛山城があり、この三箇が出城という構図は理解できる。途中の野崎城も出城の一つとすると、これらが連携して一つの城域を形成していたのだろう。寝屋川を渡ると直ぐに三箇菅原神社があり、鳥居元に大正八年の石柱がある。以前からここにあったのではなく、後でここに移したそうである。元の場所は、たぶん6丁目の推定地ではないかと思うのだが。神社脇の水月院跡の墓石には、城址に関しての文字が刻まれている。その墓石も劣化が激しく、いつまで文字が読めるのか。公的に何らかの保護を加えなければ、後数年で表面が剥落しそうである。JR学研都市線の利便性が増すと共に、この辺の宅地化も拍車がかかったのだろう。いたるところに新興住宅地が広がり、この辺一帯が湿原地であったことさえわからなくなりそうである。近くの田原城址からキリシタン墓石が発掘されている。戦国期におけるキリシタン文化の動向が少しずつ解りかけている。この三箇城の主もキリスト教徒である。キリスト教を看板にした貿易が、戦国期とどう関係してきたのかを考える時が来たようだ。

菅原神社(三箇)(現地説明板より)

 祭神は、天満大自在天神の称号を授与された菅原道真公である。大祭は十月十九日・二十日。社地内には稲荷社が鎮座する。天神さんも、お稲荷さんも、稲作を中心とする五穀豊穣の神である。  住道地区の氏神で、延宝七年(1679)「三箇村検地帳」には「氏神天満宮」と記され、境内地十八歩の年貢が免除されていた。また江戸中期頃の当社は梁間五尺五寸、桁行一間二尺の社殿をもち、西の隣接地には曹洞宗宇治興聖寺末・水月院があった。現在も墓石が残存し、江戸時代までの神仏習合の面影を残している。  社宝として神刀がまつられる。これは神威の高揚を願って、宝永年間の氏子たちが奉献したものである。相州綱廣の銘あり。往時の秋祭りには西の口、江の口南、江の口北、大箇(だいが)、下野、押廻からの地車(ダンジリ)計六台が引き出され社頭に並んだ。この宮入の順番は、十八日くじ引きで決められる。また当地は十六世紀半ば頃飯盛城の支城・三箇(さんが)城のあったところとされている。  城主三箇殿は永禄五年キリシタンとなりサンチョと称す。この時以来三箇の名は異国文書に登場する。城の位置については諸説あって断定し難い。  なお、水月院跡には「城ハ灰 埋は土となるものを何を此代に思ひ残さん」の辞世句を記す墓石も見いだされる。  平成5年12月  大東市教育委員会

三箇城址(大阪府全志より)

 三箇城址は同字にあり、俗に城屋敷と呼べり。今は宅地又は耕地となりて遺形の認むべきものなし。城は飯盛城の支城にして、其の正面防備に充てられしものならん。當時本地は前に記せしが如く深野池に臨みたるを以て、頗る要害の所なりしと思はる。永禄年間三好氏威を近畿に振ひて、長慶は飯盛城に・同政成は當城にありしが、同四年十二月二十五日畠山高政は、陽に鷹狩と披露して潜に兵を進め、當城間近くなりて鬨の聲をあげ短兵急に攻めければ、城兵支ふる能はずして陥落し、政成は遂に討死せり。事は載せて重編應仁記に詳なるを以て、左に之を抄記せん。

三箇キリシタン(大東市パンフより)

 三箇にキリスト経が伝わったのは永禄五(1562)年、三好長慶の家臣三箇殿が飯盛城で洗礼を受けた時に始まる。永禄八年には京の政変から逃れて三箇に来たビレラやフロイスが数ケ月滞在し、三箇のキリスト教は隆盛をきわめた。その間フロイスはローマに「教会は水に囲まれた小さい島にある」と報告している。その後信長時代はますます栄えたが、次の秀吉が天正15(1587)年6月19日にキリスト教を禁止してからは急速に衰えた。当時の遺物が全く残っていないのは秀吉の居城に近いためだろうか。