久宝寺城
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久宝寺城址に建つ石碑(05年10月)

JR大和路線「久宝寺口駅」でおりる。北に向かい、数分すると許麻神社が見えてくる。このあたりが久宝寺寺内町の南口。広小路を北に歩き、北口地蔵の辻を西に路地を入ると久宝寺城址の石碑が建つ。細い溝があり、これが寺内町の濠の名残なのだろうか。道の脇に申し訳なさそうに建つ石碑以外、何も無い。もともと城址の一部を利用して寺内町が成立したものであろう。今では寺内町の方が、歴史顔をしている町である。とにかくわかりにくい、ゆっくり探すに限る。

 

久宝寺城址(現地石碑より)

久宝寺城は室町幕府に仕えた渋川満貞の居城と云われる。満貞は畠山満基の長子で、渋川郡を領したことから渋川と称した。麟角堂を創建し又毎年七月十四・五日は城内で精霊祭を催し、領民は五日間盆踊りをしたと言う。 満貞の嫡子の光重は播州安井郷を受領、安井と改姓し、定重の時に織田信長に仕えたが、天正五年、光佐顕如上人の本願寺兵に攻められ、城は陥落した。城址は寺内町西北の出隅に「城土居」の地名を残している。

「久寶寺村誌」より 八尾市教育委員会

 

久寶寺城址(大阪府全志より)

久寶寺城址は字大手町の西北なる字城土居是なり。其の大手町に面せる廣小路の突當りは廣小路門のありし所にして、西北の兩邊には近年まで幅參間許なる濠池を存したりしが、大正六七年の頃に埋立てられて今は其の一部に僅少の俤を殘せり。全部竹藪を為し、周圍壹丈貳參尺に餘れる榎の大木數株鬱葱せり、在城當時のものならん。城は畠山氏の築きし所なり。畠山家國の支裔播磨守刑部少輔満基は渋川郡を領せしが、兵火に罹りて焼失しければ再築せらる。其の表門に渋川屋敷を營みしも、當時のことならん。其の子満貞初めて氏を改めて渋川左馬允又九郎と稱し、其の子隠岐守光重は播州の安井郷を拝領して更に安井と改む。光永・光行を経て助左衛門定繼は久寶寺村を領し、其の子に主計頭定重・定正(勘助といひ春海と號す)・定次(清右衛門といひ宗因と號す)・定則(佐兵衛といふ)及び女子一人あり。長男定重は二弟定政・定次と共に織田信長に仕へしが、天正五年本願寺光佐の来りて攻むるに及び、定重之に死し、定正も亦創痍を蒙りて、城終に陥れり。依て定次家を嗣ぎしが、其の舊城址を清右衛門屋敷と呼べるは、定次の俗名に因めるものならん。堀川屋敷にありしも、後豊臣秀吉に仕へて大坂に出で、定則は本地に留りて堀川屋敷に住し。女子は安田宗順に嫁せり、宗順は安田家の祖なり。かくて定次は大坂にありてその子成安(亦左衛門)と共に秀吉の大坂築城の工を督し、其の功に依りて城南の地を賞與せらる。成安は後道頓と號し、従弟即ち定正の子定清(治平)・定吉(九兵衛)及び族人平野藤次と道頓堀川の開鑿に着手したるも、大坂夏の役に戰歿し、定清復た病歿しければ、定吉は藤次郎と協議して之を完成せり。定吉は後道卜と號し、道頓堀に住して大坂南組の總年寄となり、子孫相継ぎて明治の初年に至りしは、已に大阪市南區第六聯合の條に記せしが如し。而して本地堀川屋敷に留りし定則の子孫は、同邸に住して相傳せしも、天明年間に至りて断絶し、縁戚たる安田家の有となり来りしが、故ありて今は別人の所有となる。