高屋城
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本丸と堀(03年9月)                   二の丸跡にある姥不動(03年9月)

近鉄南大阪線古市駅から南500メートルにある伝安閑天皇陵が本丸址。今は天皇陵につき、立ち入りは出来ない。南側に二の丸、三の丸と広がり、かなり大きな規模であったことがうかがえる。北と西側は大乗川が、東側には石川の流が外堀の役目をつとめていたことが想像される。ほぼ真中を東高野街道が通り、大手は南側に開いていたものか。本丸とされる安閑天皇陵には何の説明も無い。宮内庁管理であることからして、とうぜんか。二の丸址、東高野街道にある姥不動には説明板がある。ここだけが古城の名残りなのかも。古市南小学校門前にも説明板がある。まあ、ここもご多分に漏れず何も残ってはいない。住宅開発の波がここにも押し寄せ、次々と新しい住宅がたっている。三の丸址には伝安間皇后陵があり、その参道の整備された上を歩いていると、少しは高屋城のことも思い出して欲しいと考えるのは私一人だろうか。ここら羽曳野も伝天皇陵がたくさんある。その整備され方も素晴らしい。せめてその何分の一かでも、これら史蹟保存に使えないものだろうか。三好、畠山一族の攻防の後も今はむなしい。

 

高屋城址(姥不動にある説明板)

 安閑陵古墳を本丸として取りこみ、その南に東西350m、南北200mの二の丸、さらに南に東西250m、南北250mの三の丸を結合する構造である。この姥不動堂の周辺一帯は二の丸の中心地域に推定されている。    文献や絵図等の資料から、高屋城の前身として古市城や誉田城の記載がみられるがよくわからない。高屋城として築城されるのは応仁の乱(1467〜1477)の終結後、畠山義就によるものと考えられる。    その後、畠山、三好一族が約100年間にわたり拠点として戦国の争乱を繰り返したが、織田信長により平定され、落城した。(羽曳野市)

 

高屋城 櫓台の跡(古市南小学校門前の説明板)

 戦国時代の河内を支配する拠点であった高屋城は、堅固な縄張りと規模の大きさで知られ、今もこの一帯には堀や土塁などがかろうじて残り、当時の姿をしのぶことができる。この付近は城のV郭(三の丸)の北東の隅に当たる場所で、かつては郭の外回りにめぐらされた土塁に接して、東西約15m、南北約30m、高さ約8mの土壇が築かれていた。   1980(昭和55)年の発掘調査では、土壇の上からいくつかの小規模な建物の跡と、陶磁器、古銭などが発見された。   石川に面した見晴らしのよい位置にあり、周囲に堀をめぐらす堅固なつくりであることから、物見や攻撃のための櫓、武器庫、兵の出入り口など、城の防禦を固める上で重要な施設がおかれていたと考えられる。(羽曳野市)

 

城山姥不動明王縁起(現地石碑)

抑も呼称城山とは地元現存高野街道不動坂上東西五町南北八町い及ぶ高台一帯で古来源家を始祖とする畠山累代の高屋城址にして南北朝争乱時代の攻防巨據点たりし居城も既に壊滅廃墟正平二年このかた六百余年経過の今日夏草の老い茂るつわ者共の夢の跡を偲ぶ古城の史跡地を呼称するものである。    さて移築の現姥不動明王(旧称伯母不動)は嘗ての居城唯一の守護神で歴代城主の慰霊の祖神として奉祀せる本街道の道祖神として今尚香煙絶ゆる事なき歴然たるを縁起とす。    依つて爰に既述著名の城跡と関連併記せしものにして往来頻繁の本街道を去来する老若男女の来拝萬徳の道祖神たらしめんとするにあり。    因に本碑文は地元旧家森田家秘蔵の文献より抜粋せるものなり。

  昭和五十四年七月吉日   右 端山文仁謹書

 

城山の飛び火とゆうれい松(大阪の伝説より)

 羽曳野市の城山、高屋という所に、むかし、畠山氏がきずいた高屋城がありましたが、永禄年間(一五二○年ごろ)、三好一族の大軍に破れ、さらに五十年後には、織田信長の河内攻めで城は焼け落ち、おおぜいの武士や女たちが自害(自殺)し、うち死にする悲しい結果になりました。   そこで、城下の町人や百姓たちがくようの堂を建て、マツを植えました。が、マツはひょろひょろと二十メートルもの高さにのび、ゆうれいのようでした。そして雨の夜には、人だまが飛び、人びとをおそれさせました。今では住宅地になり姥不動尊だけがまつられています。

 

高屋城 (大類伸監修、人物往来者刊「名城名鑑上」より)

 大阪府羽曳野市古市町の高屋陵の南の小丘にある。丘は東西五町、南北およそ三町あり、八幡宮があるので俗に八幡山とも呼ぶ。応永年間、足利義満は畠山義深を河内の守護に命じたので、義深は初めてこの地に城を築き、以来代々畠山氏の居城となって栄えた。・・・・・・・・・・中略・・・・・天正年間、織田信長が信貴山城に松永久秀を打ち滅ぼすとき、高屋城も攻め落とし、城はついに廃された。

高屋城(羽曳野市古市)(狭山町資料館だよりより)

 石川にのぞむ独立丘陵上に築かれた典型的な平山城である。現在の安閑陵を本丸として東西四○○m、南北八○○mの規模をもっている。 住宅開発が進んでいるが、土塁や濠の遺構が良く残っている。 この城は河内守護大名であった畠山氏が十五世紀後半に築いたものである。三好長慶に攻められて降伏開城するまで、約百年あまり存続した。 最近の発掘調査で、二の丸跡から倉庫とみられる建物跡や柱の焼け跡、礎石などが発見された。当時の生活を知る手掛りとして、備前焼擂鉢や羽釜、染付の陶器が出土している。

 

所在地 → 羽曳野市古市5丁目

推薦図書 → 乱世、夢幻の如し(津本 陽著)