畠中城
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本丸跡の要家長屋門(03年8月)              要家を取り囲む西側土塀(03年8月)

  

畠中城(上左)、窪田砦(上右)、沢城(下右)の関係図、真中は近木川(貝塚市史より)

府道40号線でJR・国道26号線を高架でまたぎ、貝塚市役所近く畠中の交差点を左折したあたりが畠中城址である。畠中集落全体を砦化したもので、中心地が現在の要家屋敷と推定されている。近木川沿いに並んでいる根来側砦の一つで、高井積善寺城と同じように、集落を堀と土居で取り囲み、城郭都市にしている。ここ畠中は全くの平坦地であり、集落全体のまとまりが無ければ、とても秀吉軍を防ぎきれるものではない。それに外堀となるべきものが南側にあり、北から来る秀吉軍の守りにはなりがたい。畠中城と窪田砦の連絡道路は西側を土居で囲んでいた。窪田と沢の連絡道路も北側に土居を築いている。この三城が一体となって機能した。

 

要家文化財総合調査に向けて(貝塚市発行テンプス10号より抜粋)

 貝塚市域には、江戸時代に村役人を勤めていた旧家が、先祖代々受け継がれてきた場所に、現在でも多くのこされています。   その中で、畠中村・神前村両村の庄屋を勤め、岸和田藩の村々を取り仕切る七人庄屋でもあった要家は、今も往時の面影をしのばせるたたずまいをのこしています。   歴史を遡っていきますと、天正13年(1585)、秀吉の根来攻めの際、畠中城に立て籠もった、近木庄の豪族神前要人宗行が祖先であると考えられます。その後戦乱の世も終わりを告げ、江戸時代へ移ってからは、村役人として畠中村に住まいしていました。   現在のこされている屋敷は、ほぼ正方形で周囲を土塀で取り囲み、東側に長屋門を設けています。邸内には主屋・書院・土蔵・離座敷があります。なかでも離座敷は元文3年(1738)の建物で、茶室を組み込んだ数奇屋風書院造と呼ばれる様式で建てられています。離座敷の北西には安土桃山時代の面影をのこす庭園が広がり、樹齢400〜500年といわれるソテツをはじめ、大小の樹木が茂り、泉南地域では珍しい屋敷林を形成しています。   こうした建物や庭園のほか、数万点もの古文書がのこされています。主に村役人の立場から作成されたものですが、庄屋として、また岸和田藩領の村々を取り仕切る七人庄屋としての立場から書かれた「日記」は、広く泉南地域の村落社会を考える上で、貴重な史料となるでしょう。