淡輪城
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城址全体(03年9月)            城址に建つ説明板(03年9月)

国道26号線「淡輪中」交差点を海側に入る。南海本線の踏切を渡り、そのまま道沿いに行くと途中から道が狭くなる。旧集落へ入った感じがする。住宅が切れた左手に、写真のような畑地があらわれる。そこには阪南ロータリークラブが設置した説明板が建つ。ここだけ、よく残ったものと感心する。畑地左手は土塁らしきものが残る。堀跡は確認できなかったが、ここだけ残ったということは珍しい。たぶんに個人の所有地と推定できる。左側のアパート?建設で、土塁の一部は削り取られている。断面を見ると、丸石が見える。近くを流れる番川からでも運んできたものだろうか。説明板にもあるとおり、ここは城というよりも館に近いものであったことが想像できる。本格的な城を造るなら、近くの前方後円墳を利用したほうが数倍も、防禦性にすぐれている。周濠もあるし、番川が外堀の役目もはたせる。もしかしたら、古墳を詰城的に利用したのかもと、想像したくなる。淡輪氏は佐藤忠信の系にして、長男は徳川方へ、次男重政は豊臣方へ味方し、近くの「樫井川」の合戦で討ち死にしている。家を残すために、兄弟が別れて争った例は数多い。でも淡輪氏はこの町にはいないらしい。歴史の皮肉か、人間の考えることはたかがしれているのか。近くには船守神社があり、境内の楠は一見の価値あり。また前述の前方後円墳や黒崎の浜も。

 

淡輪邸址(阪南ロータリークラブ設置の説明板)

 ここより南東一帯の約千五百平方米の敷地は「城の藪」と呼ばれ、この地を領した淡輪氏の邸跡であった。淡輪氏の祖父で戦死した佐藤忠信の子小治郎重治で、元久年間一二○四年頃この地に地頭として住みついたものとされている。   南北朝の戦乱の世に功があったことが淡輪文書に残っている。戦国時代、淡輪徹斎の女「おこよ」は豊臣秀次の妾となって小督の局と呼ばれたが、秀次の死に連座して三条河原で斬首された。また徹斎の次男六郎兵衛重政は大阪夏の陣の前哨戦「樫井川の合戦」(元和元年一六一五年)で塙団右衛門とともに壮烈な死を遂げた。

 

淡輪城址    (大阪府全志より)

 淡輪城址は淡輪部落の内にあり、今は民家田圃と化したれども、本丸の址は字を城の藪と呼びて一面の竹薮を為せり。広さ弐反歩許、土手を繞らして隣地より小高く、東西の二方に堀の址残れり。城は淡輪氏の據りし所なれども、里伝に依れば同氏以前已に城あり、後同氏之に據りしものなりといふ。淡輪氏の裔たる本地本山林吉氏の家譜に依れば、淡輪氏は其の先佐藤忠信に出て、忠信は畠山重忠と親眤なりしを以て遺言して其の幼児を重忠に依頼し、幼児は重忠の保護に依りて成長の後、小治郎重治と稱し、泉州日根郡を領せしめらる、依て淡輪を氏と為せり、是れ淡輪氏の祖なり。其の子彦四郎重信より太郎左衛門重昌・左衛門五郎入道正圓重元・助太郎重氏・彦太郎助重(助重は正平九年右衛門尉従五位下に叙せらる)・左衛門太夫長重・次郎左衛門有重・左衛門太郎隆重・佐渡守昌利・六郎兵衛重氏・因幡守重正(二男次門昌信・其子次郎左衛門信重家名を本山と改む、即ち本山家の祖なり)を経て大和守良重に至る。累葉中、右衛門五郎入道正圓は元弘年中、助太郎重氏は建武・延元年中、彦太郎助重以下は貞和・観応・正平以来応永年間に亘りて、或は官軍に属し或は賊軍に投じて武威を振ひしが、良重は後名を隆重と改め、徹斎と号し、天正年中の人にして、其の所領は六萬石なりしと里伝せり。徹斎に二男一女あり、長男は新兵衛重利といひ、次男を六郎兵衛重政といふ。長男は紀州候に仕へ、女子こよは関白秀次の妾となる(女子は波有手村なる後藤六兵衛政義の女を養女とせるものなりといふ)。然るに其の女関白秀次の妾となり居りしが為め、秀次の文禄四年七月高野に自裁するに及び、秀吉に其の所領を没収せられしかば、淡輪氏滅びて城は墟となれり。而して秀次の妾となりし徹斎の女は、聚楽第に入りてお小督局と呼ばれ、秀次の胤を宿して女子を挙げ、秀次の自裁後三十一才を以て京都三条河原に於て斬らる、其の辞世は左の如し。女子は益田少将・富田左近将監に救はれて、密に波有手村なる後藤六兵衛興義(政義の嫡子お小督局の兄)の許に送られ、同家に成長してお菊と呼び、二十歳にして紀州の代官山口喜内の嫡子兵内に嫁せり。時は恰も大坂役の起れる際にして、同家は意を大坂方に傾け夫兵内は大坂城に入りて戦死し、父喜内は国にありて浅野家を謀りしかば、其の事露顕して同家一族悉く刑死せらるゝに及び、お菊のみは赦されたるも、自ら望みて元和元年六月六日南穂村の河原に刑せらる。又六兵衛重政も大坂城に入りしが、同年四月二十九日当国樫井川に於て浅野家の兵と戦ひ利あらずして討死せしも、淡輪氏の嫡伝は今も紀州にありといふ。

生れ来てまた帰るこそ道なれや雲のゆきゝのいともかしこし

 

悲劇のヒロインお 菊の

  お菊の父は、関白豊臣秀次であり、母は淡輪の郷士・後藤六兵衛政義の娘・こよ(後、小督の局)にて、小督は淡輪大和守徹斉隆重(後藤家より養子)の養女として関白豊臣秀次公に嫁す。淡輪氏は、その祖先を佐藤忠信といい、よく源義経を助けた忠臣としてその名は高く知られている。小次郎重治は泉州日根郡を領し、淡輪を居城とするにいたって淡輪氏を名乗った。のち十余代を経て天正年中大和守良重にいたり、名を隆重と改め、徹斉と号した。その新領が六万石であったという。徹斉には二男一女があったが、長男を新兵衛重利といい、紀州候につかえ、次男六郎兵衛重政といった。(大坂夏の陣、樫井川合戦で豊臣方に味方し、塙団右衛門直之等と共に戦死)、女子「こよ」は先に記したように関白豊臣秀次公の愛妾となり、小督の局と呼ばれ、秀次公の胤を宿して「お菊」を生んだ。…中略…生まれたばかりの女子は、益田少将を富田左近将監に命を助けられ、ひそかに泉州波有手村(現在の阪南市内)の後藤六兵衛興義(局の兄)の許に送られ、同家に成長して、お菊と呼ばれた。20歳の時、紀州名草郡山口村の代官、山口喜内安弘の嫡男・山口兵内朝安に輿入した。この時、元和元年。  大坂夏の陣では、山口、後藤、淡輪三家は豊臣方に味方した。お菊の夫の兵内朝安も結婚5日目にして大坂城にはせ参じた。お菊は養父喜内安弘の密書を携えて大坂城に密行することになった。そして農婦の姿になり、適の包囲を脱出し、風吹峠より尾根伝いに北に向い、紀泉国境のお菊山(現・泉南市新家の山中)に至り、松の根元で髪を結い直し男装に変じて無事大坂に入り、使命を果たした。ところが、帰途、お菊は樫井川を渡る時大切な密書を適の浅野方に奪われてしまった。この大坂夏の陣では、豊臣方に利あらず、ほどなく大坂城は落城、豊臣方は滅亡の悲運に終った。勿論、善戦した勇士の淡輪重政、後藤興義、山口朝安も戦死して果てた。お菊は実家に隠れていたが、浅野方に捕らえられ、元和元年6月6日に紀州南穂村の河原にて処刑された。あわれ花の盛りの20歳で散っていったのである。後藤六兵衛興義の妻しづは、深くお菊の刑死を哀れみ、菩提寺たる波有手の法福寺へ彼女の木像を刻み収めて冥福を祈った。  寛政7年、当時の本堂焼失と共にお菊の木像も焼けたが、現在の木像は、安政5年、本堂の再建時、村民の篤志によって再び「お菊座像」を造り当寺に安置したものである。お菊の法名は光徳院法譽妙林大姉という。  お菊山は、標高323.5メートル。四方の眺望はよく開け、頂上には何代目かのお菊松がある。昔、経巻を埋めた塚ともいわれ、松はそのしるしに植えたものという。昔は、海陸交通の目標にされた松ともいわれている。延宝の古記録によると、「昔諸国へ納経具僧ここにて供養致候、験の松也、夫故経松と云ふ」とある。すなわち、前記の如く、納経僧の供養した所に植えた松故「経の松」の名がある。しかし今では「お菊松」という方が知る人ぞ知る名の松となっている。(いずみ郷土史研究会会長 しみず あきら氏著作より)

 

(大阪府全志より)

  法福寺は南方字平松にあり、楊柳山と號し、浄土宗知恩院末にして阿彌陀如来を本尊とす。開創の年月は詳ならず。境内は參百四拾五坪を有し、本堂・庫裏・納家・鐘樓・門を存す。外に地蔵堂あり。而して寺は俗にお菊寺と呼ばる、お菊の木像を安置するに依る。お菊は関白秀次の落胤にして、本地後藤六郎兵衛興義の許に於て成長し、其の二十歳のとき紀州の代官山口喜内の嫡子兵内に嫁せしが、結婚後數日して夫兵内は大坂城に入りて戰死し、養父喜内は淺野家を謀りて露顕し、一家悉く刑せられたるも、お菊のみは其の罪を問はれざりしに、自ら望みて刑死せしかば、其の養母なる六郎兵衛の妻おしづ之を憐み、其の木像を作りて當寺に納め、以て永く其の冥福を祈りしものなりといふ。

 

淡輪三昧(飯田家墓所)(「泉大津の史跡と文化財」より)

消防本部の北隣りに飯田家の墓所がある。飯田家は戦国時代に泉南淡輪の地を本拠に活動した土豪・淡輪氏の子孫と伝えられる家柄で、この墓所には飯田家累代の墓碑のほかに、淡輪氏ゆかりのものと思われる三十基ばかりの古い五輪塔や塔婆が並んでおり、昔から淡輪三昧とも呼ばれてきた。泉南の淡輪氏と当地との由縁は、天正の根来戦乱のおり、淡輪大和守徹斉が一族郎党を率いて大津に隠棲して以来のものであるという。墓所の右側一番手前の「天正八年庚辰」の銘がある五輪塔が徹斉のものといわれている。なお、左手前列一番奥に「天文十□八月□」と読める五輪塔があり、これは現在市内で確認できるもっとも古い墓石である。

 

 

所在地 → 大阪府岬町淡輪